その三好の何人であるかを知らずにしまった。
第 3 章
席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。
一方の隣には三好が坐らせられた。
叔母の席は食卓の角であった。
継子のは三好の前であった。
余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。
隣りには吉川がいた。
そうして前は吉川夫人であった。
「どうですかけたら」 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにおかけなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。
先を越すつもりでいたのに、かえって先を越されたという拙い感じが胸のどこかにあった。
自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意志もすぐ働らいた。
その意志は自分と正反対な継子の初心らしい様子を、食卓越に眺めた時、ますます強固にされた。
継子はまたいつもよりおとなし過ぎた。
ろくろく口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、ほとんど苦痛に近い或物が見透された。
気の毒そうに彼女を一目見やったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。
社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。
しかしそれ以上に発展する余地のなかった題目は、そこでぴたりととまってしまった。
二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっとあっちの面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」 ちょうど叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」「ええ何でもなさい。黙ってちゃいけません」 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「また独逸を逃げ出した話でもするがいい」 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他よりも自分の方が陳腐になってしまいました」「あなたのような落ちついた方でも、少しは周章たでしょうね」「少しどころなら好いですが、ほとんど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」「でも殺されるとは思わなかったでしょう」「さよう」 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣りから口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」「なぜです。人間がずうずうしいからですか」「という訳でもないが、とにかく非常に命を惜しがる男だから」 継子が下を向いたままくすくす笑った。
戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。
五十三
三好を中心にした洋行談がひとしきり弾んだ。
相間相間に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼ら四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。
穏和というよりもむしろ無口な彼は、自分でそうと気がつかないうちに、彼に好意をもった夫人の口車に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
彼女はこの談話の進行中、ほとんど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。
自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。
卒直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段取を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。
しかしそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。
では恐るるに足りないかというとけっしてそうでなかった。
一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度のほかに、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸のどこかでした。
「こっちの気のせいかしらん」 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」 お延は不意を打たれて退避ろいだ。
津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の智恵が、どう働いて好いか分らなくなった。
ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。
しかしそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気がついていた。
またやり損なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。
今日こそ夫人の機嫌を取り返してやろうという気込が一度に萎えた。
夫人は残酷に見えるほど早く調子を易えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰っていらしってから、もうよっぽどになりますね」「ええ。何しろ一昔前の事ですからな」「一昔前って何年頃なの、いったい」「さよう西暦……」 自然だか偶然だか叔父はもったいぶった考え方をした。
「普仏戦争時分?」「馬鹿にしちゃいけません。これでもあなたの旦那様を案内して倫敦を連れて歩いて上げた覚があるんだから」「じゃ巴理で籠城した組じゃないのね」「冗談じゃない」 三好の洋行談をひとしきりで切り上げた夫人は、すぐ話頭を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。
自然吉川は岡本の相手にならなければすまなくなった。
「何しろ自動車のできたてで、あれが通ると、みんなふり返って見た時分だったからね」「うん、あの鈍臭いバスがまだ幅を利かしていた時代だよ」 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のないほかの者にとって、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、やっぱり淡い一種の感慨を惹き起すらしく見えた。
継子と三好を見較べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気がつかずに、まだ若いつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」「じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう」 叔母はすぐ叔父に向った。
叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけてちょっと考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊いた。
叔母がそんな呑気な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前に逼って来たんだ。油断はできません」 継子が顔を赧くして下を向いた。
夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯を計る生きた時計が付いてるから、まだよいんです。あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」「その代りお前だっていつまでもお若くっていらっしゃるじゃないか」 みんなが声を出して笑った。
五十四
彼らほど多人数でない、したがって比較的静かなほかの客が、まるで舞台をよそにして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群を折々見た。
時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲も飲まずに、そろそろ立ちかける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。
彼らは中途で拭布を放り出す訳に行かなかった。
またそんな世話しない真似をする気もないらしかった。
芝居を観に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、どこまでもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊いた。
ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧に答えた。
「ただ今開きました」「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」 叔父はすぐ皮付の鶏の股を攻撃し始めた。
向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着しないらしかった。
彼はすぐ叔父の後へついて、劇とは全く無関係な食物の挨拶をした。
「君は相変らず旨そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥ってた時分、西洋人の肩車へ乗った話をお聞きですか」 叔母は知らなかった。
吉川はまた同じ問を継子にかけた。
継子も知らなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞の好い話じゃないから、きっと隠しているんですよ」「何が?」 叔父はようやく皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。
すると吉川の夫人が傍から口を出した。
「おおかた重過ぎてその外国人を潰したんでしょう」「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦の群衆の中で、大男の肩の上へ噛りついていたんだ。行列を見るためにね」 叔父はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造する事やら。いったいそりゃいつの話だね」「エドワード七世の戴冠式の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってたところが、日本と違って向うのものがあんまり君より背丈が高過ぎるもんだから、苦し紛れにいっしょに行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うじゃないか」「馬鹿を云っちゃいけない。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」 叔父の弁解はむしろ真面目であった。
その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「なるほどあの猿ならよく似合うね。いくら英吉利人が大きいたって、どうも君じゃ辻褄が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たらまたずいぶん矮小だからな」 知っていながらわざと間違えたふりをして見せたのか、あるいは最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑に落ちたらしい言葉遣いをして、なおその当人の猿という渾名を、一座を賑わせる滑稽の余音のごとく繰り返した。
夫人は半ば好奇的で、半ば戒飭的な態度を取った。
「猿だなんて、いったい誰の事をおっしゃるの」「なにお前の知らない人だ」「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同なじ事です」 こんな他愛もない会話が取り換わされている間、お延はついに社交上の一員として相当の分前を取る事ができなかった。
自分を吉川夫人に売りつける機会はいつまで経っても来なかった。
夫人は彼女を眼中に置いていなかった。
あるいはむしろ彼女を回避していた。
そうして特に自分の一軒置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。
たとい一分間でもこの従妹を、注意の中心として、みんなの前に引き出そうとする努力の迹さえありありと見えた。
それを利用する事のできない継子が、感謝とは反対に、かえって迷惑そうな表情を、遠慮なく外部に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望の漣※が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」 会食中の彼女はしばしばこう思った。
そうしてその後から暗に人馴れない継子を憐れんだ。
最後には何という気の毒な女だろうという軽侮の念が例もの通り起った。
五十五
彼らの席を立ったのは、男達の燻らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜った頃であった。
その時誰かの口から出た「もう何時だろう」というきっかけが、偶然お延の位地に変化を与えた。
立ち上る前の一瞬間を捉えた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」 いきなりこう云っておいて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後を自分で云い足した。
「先刻から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」 この云訳をお延は腹の中で嘘らしいと考えた。
それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠のある推定であった。
彼女は食堂へ這入って夫人に挨拶をした時、自分の使った言葉をよく覚えていた。
それは自分のためというよりも、むしろ自分の夫のために使った言葉であった。
彼女はこの夫人を見るや否や、恭しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介になりまして」と云った。
けれども夫人はその時その津田については一言も口を利かなかった。
自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、そこにはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐよそを向いてしまった。
そうして二三日前津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌われているからだとばかり解釈しなかった。
嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。
でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振を、彼の妻たるものに示すはずがないと思った。
彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実をよく承知していた。
しかし単に夫を贔負にしてくれるという事が、何でその人を妻の前に談話の題目として憚かられるのだろう。
お延は解らなかった。
彼女が会食中、当然他に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、ついに出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞えていたからであった。
それをいよいよ席を立とうとする間際になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の云訳に対してのみ、嘘らしいという疑を抱くだけではすまなかった。
今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、やむをえない社交上の辞令以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「ありがとうございます。お蔭さまで」「もう手術をなすったの」「ええ今日」「今日? それであなたよくこんな所へ来られましたね」「大した病気でもございませんものですから」「でも寝ていらっしゃるんでしょう」「寝てはおります」 夫人はそれで構わないのかという様子をした。
少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。
他に対して男らしく無遠慮にふるまっている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入りになって」「病院と申すほどの所ではございませんが、ちょうどお医者様の二階が空いておるので、五六日そこへおいていただく事にしております」 夫人は医者の名前と住所とを訊いた。
見舞に行くつもりだとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭においていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒るまでよく養生するように、そう云って下さい」 お延は礼を云った。
食堂を出た七人は、廊下でまた二組に分れた。
五十六
残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾も来なかった。
ただ褞袍を着て横臥した寝巻姿の津田の面影が、熱心に舞台を見つめている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。
その面影は今まで読みかけていた本を伏せて、ここに坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。
しかしそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那に、「いや疳違いをしちゃいけない、何をしているかちょっと覗いて見ただけだ。お前なんかに用のあるおれじゃない」という意味を、眼つきで知らせるものであった。
騙されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。
すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。
二度目にはお延の方から「もうあなたのような方の事は考えて上げません」と云い渡した。
三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打をしたくなった。
食堂へ入る前の彼女はいまだかつて夫の事を念頭においていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後に起った新らしい経験にほかならなかった。
彼女は黙って前後二様の自分を比較して見た。
そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない訳に行かなかった。
今夜もし夫人と同じ食卓で晩餐を共にしなかったならば、こんな変な現象はけっして自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭のどこかでした。
しかし夫人のいかなる点が、この苦い酒を醸す醗酵分子となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとても判然した返事を与えることができなかった。
彼女はただ不明暸な材料をもっていた。
そうして比較的明暸な断案に到着していた。
材料に不足な掛念を抱かない彼女が、その断案を不備として疑うはずはなかった。
彼女は総ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
芝居が了ねていったん茶屋へ引き上げる時、お延はそこでまた夫人に会う事を恐れた。
しかし会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。
帰りを急ぐ混雑した間際に、そんな機会の来るはずもないと、始めから諦らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭から、ちょいちょい首を出した。
茶屋は幸にして異っていた。
吉川夫婦の姿はどこにも見えなかった。
襟に毛皮の付いた重そうな二重廻しを引掛けながら岡本がコートに袖を通しているお延を顧みた。
「今日は宅へ来て泊って行かないかね」「え、ありがとう」 泊るとも泊らないとも片づかない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。
叔母はまた「あなたの気楽さ加減にも呆れますね」という表情で叔父を見た。
そこに気がつかないのか、あるいは気がついても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要らないから」「泊っていけったって、あなた、宅にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」「はあ、そうかね、なるほど。下女一人じゃ不用心だね」 そんなら止すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初からどっちでも構わないものをちょっと問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ」「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至だね」「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有りゃしないわ」「いや結構ですよ。御夫婦お揃で、お堅くっていらっしゃるのは――」「何よりもって恐悦至極」 先刻聞いた役者の言葉を、小さな声で後へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆れたように、薄赤くなった。
叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」 継子はきまりが悪いので、聞こえないふりをして、どんどん門口の方へ歩いて行った。
みんなもその後に随いて表へ出た。
車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前宅へ泊れなければ、泊らないでいいから、その代りいつかおいでよ、二三日中にね。少し訊きたい事があるんだから」「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼かたがた是非上るわ。もしか都合ができたら明日にでも伺ってよ、好くって」「オー、ライ」 四人の車はこの英語を相図に走け出した。
五十七
津田の宅とほぼ同じ方角に当る岡本の住居は、少し道程が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪は、小路へ曲る例の角までいっしょに来る事ができた。
そこで別れる時、彼女は幌の中から、前に行く人達に声をかけた。
けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥はもう電車通りを横に切れていた。
しんとした小路の中で、急に一種の淋しさが彼女の胸を打った。
今まで団体的に旋回していたものが、吾知らず調子を踏み外して、一人圏外にふり落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅の玄関を上った。
下女は格子の音を聞いても出て来なかった。
茶の間には電灯が明るく輝やいているだけで、鉄瓶さえいつものように快い音を立てなかった。
今朝見たと何の変りもない室の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。
薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁し始めた。
その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体を、長火鉢の前に投げかけようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。
同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上げた。
そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然して立ち上った。
それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電灯の笠へ、崩れかかった束髪の頭をぶつけたので、あらぬ方へ波をうった電球が、なおのこと彼女を狼狽させた。
お延は笑いもしなかった。
叱る気にもならなかった。
こんな場合に自分ならという彼我の比較さえ胸に浮かばなかった。
今の彼女には寝ぼけたお時でさえ、そこにいてくれるのが頼母しかった。
「早く玄関を締めてお寝。潜りの※はあたしがかけて来たから」 下女を先へ寝かしたお延は、着物も着換えずにまた火鉢の前へ坐った。
彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継ぎ足した。
そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸かした。
しかし夜更に鳴る鉄瓶の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、どこからともなく逼ってくる孤独の感が、先刻帰った時よりもなお劇しく募って来た。
それが平生遅い夫の戻りを待ちあぐんで起す淋しみに比べると、遥かに程度が違うので、お延は思わず病院に寝ている夫の姿を、懐かしそうに心の眼で眺めた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。
そうして明日は何をおいても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。
しかし次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食ついていなかった。
二人の間に何だか挟まってしまった。
こっちで寄り添おうとすればするほど、中間にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。
しかも夫は平気で澄ましていた。
半ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜しゅうございますといって、夫に背中を向けたくなった。
こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。
芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これほど不愉快な感じを抱かずにすんだろうにという気ばかり強くした。
しまいに彼女はどこかにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。
昨夜書きかけた里へやる手紙の続を書こうと思って、筆を執りかけた彼女は、いつまで経っても、夫婦仲よく暮しているから安心してくれという意味よりほかに、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事ができなかった。
それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。
しかし今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。
自分の頭を纏める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。
着物もそこへ脱ぎ捨てたまま、彼女はついに床へ入った。
長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟するので、彼女は焦らされる人のように、いつまでも眠に落ちる事ができなかった。
五十八
彼女は枕の上で一時を聴いた。
二時も聴いた。
それから何時だか分らない朝の光で眼を覚ました。
雨戸の隙間から差し込んで来るその光は、明らかに例もより寝過ごした事を彼女に物語っていた。
彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕の衣裳を見た。
上着と下着と長襦袢と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩れているので、そこには上下裏表の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊りがあるだけであった。
その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端を出した金糸入りの檜扇模様の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
彼女はこの乱雑な有様を、いささか呆れた眼で眺めた。
これがかねてから、几帳面を女徳の一つと心がけて来た自分の所作かと思うと、少しあさましいような心持にもなった。
津田に嫁いで以後、かつてこんな不体裁を夫に見せた覚のない彼女は、その夫が今自分と同じ室の中に寝ていないのを見て、ほっと一息した。
だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。
もし夫が入院しないで、例もの通り宅にいたならば、たといどんなに夜更しをしようとも、こう遅くまで、気を許して寝ているはずがないと思った彼女は、眼が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑しない訳に行かなかった。
それでも彼女は容易に起き上らなかった。
昨夕の不首尾を償うためか、自分の知らない間に起きてくれたお時の足音が、先刻から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女はいつまでも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
そのうち眼を開けた瞬間に感じた、すまないという彼女の心持がだんだん弛んで来た。
彼女はいくら女だって、年に一度や二度このくらいの事をしても差支えなかろうと考え直すようになった。
彼女の関節が楽々しだした。
彼女はいつにない暢びりした気分で、結婚後始めて経験する事のできたこの自由をありがたく味わった。
これも畢竟夫が留守のお蔭だと気のついた時、彼女は当分一人になった今の自分を、むしろ祝福したいくらいに思った。
そうして毎日夫と寝起を共にしていながら、つい心にもとめず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。
しかし偶発的に起ったこの瞬間の覚醒は無論長く続かなかった。
いったん解放された自由の眼で、やきもきした昨夕の自分を嘲けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もうすでに違った気分に支配されていた。
彼女は主婦としていつもやる通りの義務を遅いながら綺麗に片づけた。
津田がいないので、だいぶ省ける手数を利用して、下女も煩わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。
それから軽い身仕舞をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁ほど行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
彼女はそこで別々の電話を三人へかけた。