明暗

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その三好の何人であるかを知らずにしまった。

第 3 章
席せきに着くつくとき、夫人ふじんは叔父おじの隣りとなりに坐っすわった。
一方いっぽうの隣となりには三好みよしが坐らすわらせられた。
叔母おばの席せきは食卓しょくたくの角かくであった。
継子けいしのは三好みよしの前まえであった。
余っよった一いち脚あしの椅子いすへ腰こしを下ろすおろすべく余儀よぎなくされたお延のべは、少しすこし躊躇ちゅうちょした。
隣りとなりには吉川よしかわがいた。
そうして前まえは吉川よしかわ夫人ふじんであった。
「どうですかけたら」 吉川よしかわは催促さいそくするようにお延のべを横よこから見上げみあげた。
「さあどうぞ」と気軽きがるに云っいった夫人ふじんは正面しょうめんから彼女かのじょを見みた。
「遠慮えんりょしずにおかけなさいよ。もうみんな坐っすわってるんだから」 お延のべは仕方なししかたなしに夫人ふじんの前まえに着席ちゃくせきした。
先さきを越すこすつもりでいたのに、かえって先さきを越さこされたという拙いつたない感じかんじが胸むねのどこかにあった。
自分じぶんの態度たいどを礼儀れいぎから出でた本当ほんとうの遠慮えんりょと解釈かいしゃくして貰うもらうように、これから仕向けしむけて行かいかなければならないという意志いしもすぐ働はたらけらいた。
その意志いしは自分じぶんと正反対せいはんたいな継子けいしの初心しょしんらしい様子ようすを、食しょく卓越たくえつに眺めながめた時じ、ますます強固きょうこにされた。
継子けいしはまたいつもよりおとなし過ぎすぎた。
ろくろく口くちも利かりかないで、下したばかり向いむかいている彼女かのじょの態度たいどの中なかには、ほとんど苦痛くつうに近いちかい或ある物ものが見透さみとおされた。
気の毒きのどくそうに彼女かのじょを一目いちもく見やっみやったお延のべは、すぐ前まえにいる夫人ふじんの方ほうへ、彼女かのじょに特有とくゆうな愛嬌あいきょうのある眼めを移しうつした。
社交しゃこうに慣れなれ切っきった夫人ふじんも黙っだまっている人ひとではなかった。
調子ちょうしの好いよい会話かいわの断片だんぺんが、二三にさん度ど二人ふたりの間まを往っいったり来きたりした。
しかしそれ以上いじょうに発展はってんする余地よちのなかった題目だいもくは、そこでぴたりととまってしまった。
二人ふたりの間まに共通きょうつうな津田つだを話はなしの種しゅにしようと思っおもったお延のべが、それを自分じぶんから持ち出しもちだしたものかどうかと遅疑ちぎしているうちに、夫人ふじんはもう自分じぶんを置き去りおきざりにして、遠くとおくにいる三好みよしに向っむかった。
「三好みよしさん、黙っだまっていないで、ちっとあっちの面白いおもしろい話はなしでもして継子けいしさんに聞かきかせてお上げあげなさい」 ちょうど叔母おばと話はなしを途と切らしきらしていた三好みよしは夫人ふじんの方ほうを向いむかいて静かしずかに云っいった。
「ええ何なんでも致しいたしましょう」「ええ何なんでもなさい。黙っだまってちゃいけません」 命令めいれい的まとなこの言葉ことばがみんなを笑わわらわせた。
「また独逸どいつを逃げ出しにげだした話はなしでもするがいい」 吉川よしかわはすぐ細君さいくんの命令めいれいを具体的ぐたいてきにした。
「独逸どいつを逃げ出しにげだした話はなしも、何度なんどとなく繰り返すくりかえすんでね、近頃ちかごろはもう他ほかよりも自分じぶんの方ほうが陳腐ちんぷになってしまいました」「あなたのような落ちついおちついた方ほうでも、少しすこしは周章しゅうしょうたでしょうね」「少しすこしどころなら好いよいですが、ほとんど夢中むちゅうでしたろう。自分じぶんじゃよく分らわからないけれども」「でも殺さころされるとは思わおもわなかったでしょう」「さよう」 三好みよしが少しすこし考えかんがえていると、吉川よしかわはすぐ隣りとなりから口くちを出しだした。
「まさか殺さころされるとも思うおもうまいね。ことにこの人ひとは」「なぜです。人間にんげんがずうずうしいからですか」「という訳わけでもないが、とにかく非常ひじょうに命いのちを惜しおしがる男おとこだから」 継子けいしが下したを向いむかいたままくすくす笑っわらった。
戦争せんそう前後ぜんごに独逸どいつを引き上げひきあげて来きた人ひとだという事ことだけがお延のべに解っわかった。
五十三ごじゅうさん
三好みよしを中心ちゅうしんにした洋行ようこう談だんがひとしきり弾んはずんだ。
相間あいま相間あいまに巧みたくみなきっかけを入れいれて話はなしの後あとを釣り出しつりだして行くいく吉川よしかわ夫人ふじんのお手際てぎわを、黙っだまって観察かんさつしていたお延のべは、夫人ふじんがどんな努力どりょくで、彼かれら四よん人ひとの前まえに、この未知みちの青年せいねん紳士しんしを押し出そうおしだそうと試みこころみつつあるかを見抜いみぬいた。
穏和おんわというよりもむしろ無口むくちな彼かれは、自分じぶんでそうと気きがつかないうちに、彼かれに好意こういをもった夫人ふじんの口車くちぐるまに乗せのせられて、最ももっとも有利ゆうりな方面ほうめんから自分じぶんをみんなの前まえに説明せつめいしていた。
彼女かのじょはこの談話だんわの進行中しんこうちゅう、ほとんど一言ひとことも口くちを挟きょうさむ余地よちを与えあたえられなかった。
自然しぜんの勢いいきおい沈黙ちんもくの謹聴きんちょう者ものたるべき地位ちいに立ったった彼女かのじょには批判ひはんの力ちからばかり多くおおく働はたらけらいた。
卒直そっちょくと無遠慮むえんりょの分子ぶんしを多量たりょうに含んふくんだ夫人ふじんの技巧ぎこうが、毫もごうも技巧ぎこうの臭味しゅうみなしに、着々ちゃくちゃく成功せいこうして行くいく段取だんどりを、一歩いちほごとに眺めながめた彼女かのじょは、自分じぶんの天性てんせいと夫人ふじんのそれとの間まに非常ひじょうの距離きょりがある事ことを認めみとめない訳わけに行かいかなかった。
しかしそれは上下じょうげの距離きょりでなくって、平面へいめんの距離きょりだという気きがした。
では恐るるおそるるに足りたりないかというとけっしてそうでなかった。
一部分いちぶぶんは得意とくいな現在げんざいの地位ちいからも出でて来るくるらしい命令めいれい的まとの態度たいどのほかに、夫人ふじんの技巧ぎこうには時じとして恐るおそるべき破壊力はかいりょくが伴なっともなって来きはしまいかという危険きけんの感じかんじが、お延のべの胸むねのどこかでした。
「こっちの気きのせいかしらん」 お延のべがこう考えかんがえていると、問題もんだいの夫人ふじんが突然とつぜん彼女かのじょの方ほうに注意ちゅういを移しうつした。
「延子のぶこさんが呆れあきれていらっしゃる。あたしがあんまりしゃべるもんだから」 お延のべは不意ふいを打たうたれて退避たいひろいだ。
津田つだの前まえでかつて挨拶あいさつに困っこまった事ことのない彼女かのじょの智恵ちえが、どう働いはたらいて好いよいか分らわからなくなった。
ただ空疎くうそな薄うす笑わらいが瞬間しゅんかんの虚うつろを充たしみたした。
しかしそれは御ご役目やくめにもならない偽りいつわりの愛嬌あいきょうに過ぎすぎなかった。
「いいえ、大変たいへん面白くおもしろく伺っうかがっております」と後あとから付け足しつけたした時じは、お延のべ自分じぶんでももう時機じきの後れおくれている事ことに気きがついていた。
またやり損なっそこなったという苦いにがい感じかんじが彼女かのじょの口くちの先さきまで湧いわいて出でた。
今日きょうこそ夫人ふじんの機嫌きげんを取り返しとりかえしてやろうという気き込こみが一度いちどに萎えなえた。
夫人ふじんは残酷ざんこくに見えるみえるほど早くはやく調子ちょうしを易えかえて、すぐ岡本おかもとに向っむかった。
「岡本おかもとさんあなたが外国がいこくから帰っかえっていらしってから、もうよっぽどになりますね」「ええ。何しろなにしろ一昔ひとむかし前まえの事ことですからな」「一昔ひとむかし前まえって何なん年ねん頃ころなの、いったい」「さよう西暦せいれき……」 自然しぜんだか偶然ぐうぜんだか叔父おじはもったいぶった考え方かんがえかたをした。
「普仏ふふつ戦争せんそう時分じぶん?」「馬鹿ばかにしちゃいけません。これでもあなたの旦那だんな様ようを案内あんないして倫敦ろんどんを連れつれて歩いあるいて上げあげた覚さとしがあるんだから」「じゃ巴理ともえおさむで籠城ろうじょうした組くみじゃないのね」「冗談じょうだんじゃない」 三好みよしの洋行ようこう談だんをひとしきりで切り上げきりあげた夫人ふじんは、すぐ話頭わとうを、それと関係かんけいの深いぶかい他ほかの方面ほうめんへ持っもって行っいった。
自然しぜん吉川よしかわは岡本おかもとの相手あいてにならなければすまなくなった。
「何しろなにしろ自動車じどうしゃのできたてで、あれが通るとおると、みんなふり返っふりかえって見みた時分じぶんだったからね」「うん、あの鈍臭いにぶくさいバスばすがまだ幅はばを利かしきかしていた時代じだいだよ」 その鈍臭いにぶくさいバスばすが、そういう交通機関こうつうきかんを自分じぶんで利用りようした記憶きおくのないほかの者ものにとって、何なんの思い出おもいでにならなかったにも関わらかかわらず、当時とうじを回顧かいこする二人ふたりの胸むねには、やっぱり淡いあわい一いち種しゅの感慨かんがいを惹き起すひきおこすらしく見えみえた。
継子けいしと三好みよしを見較べみくらべた岡本おかもとは、苦笑くしょうしながら吉川よしかわに云っいった。
「お互たがいに年ねんを取っとったもんだね。不断ふだんはちっとも気きがつかずに、まだ若いわかいつもりかなんかで、しきりにはしゃぎ廻っまわっているが、こうして娘むすめの隣となりに坐っすわって見るみると、少しすこし考えるかんがえるね」「じゃ始終しじゅうその子この傍そばに坐っすわっていらっしったら好いよいでしょう」 叔母おばはすぐ叔父おじに向っむかった。
叔父おじもすぐ答えこたえた。
「全くまったくだよ。外国がいこくから帰っかえって来きた時じにゃ、この子こがまだ」と云いいいかけてちょっと考えかんがえた彼かれは、「幾ついくつだっけかな」と訊いきいた。
叔母おばがそんな呑気のんきな人ひとに返事へんじをする義務ぎむはないといわぬばかりの顔かおをして黙っだまっているので、吉川よしかわが傍そばから口くちを出しだした。
「今度こんどはお爺じいさまお爺じいさまって云わいわれる時機じきが、もう眼前がんぜんに逼っせまって来きたんだ。油断ゆだんはできません」 継子けいしが顔かおを赧くあかくして下したを向いむかいた。
夫人ふじんはすぐ夫おっとの方ほうを見みた。
「でも岡本おかもとさんにゃ自分じぶんの年歯ねんしを計るはかる生きいきた時計とけいが付いついてるから、まだよいんです。あなたと来きたら何になんにも反省はんせい器械きかいを持っもっていらっしゃらないんだから、全くまったく手てに余るあまるだけですよ」「その代りかわりお前おまえだっていつまでもお若くわかくっていらっしゃるじゃないか」 みんなが声こえを出しだして笑っわらった。
五十四ごじゅうよん
彼かれらほど多人数たにんずうでない、したがって比較的ひかくてき静かしずかなほかの客きゃくが、まるで舞台ぶたいをよそにして、気楽きらくそうな話はなしばかりしているお延のべの一群いちぐんを折々おりおり見みた。
時間じかんを倹約けんやくするため、わざと軽いかるい食事しょくじを取っとったものたちが、珈琲こーひーも飲まのまずに、そろそろ立ちたちかける時じが来きても、お延のべの前まえにはそれからそれへと新らしいあたらしい皿さらが運ばはこばれた。
彼かれらは中途ちゅうとで拭ぬぐえ布ぬのを放り出すほうりだす訳わけに行かいかなかった。
またそんな世話せわしない真似まねをする気きもないらしかった。
芝居しばいを観かんに来きたというよりも、芝居しばい場ばへ遊びあそびに来きたという態度たいどで、どこまでもゆっくり構えかまえていた。
「もう始まっはじまったのかい」 急きゅうに静かしずかになった食堂しょくどうを見廻しみまわした叔父おじは、こう云っいって白服しろふくのボイぼいに訊いきいた。
ボイぼいは彼かれの前まえに温かいあたたかい皿さらを置きおきながら、鄭てい寧ねいに答えこたえた。
「ただ今いま開きひらきました」「いいや開いひらいたって。この際さい眼めよりも口くちの方ほうが大事だいじだ」 叔父おじはすぐ皮かわ付ふの鶏にわとりの股またを攻撃こうげきし始めはじめた。
向うむこうにいる吉川よしかわも、舞台ぶたいで何なんが起っおこっていようとまるで頓着とんちゃくしないらしかった。
彼かれはすぐ叔父おじの後あとへついて、劇げきとは全くまったく無関係むかんけいな食物しょくもつの挨拶あいさつをした。
「君きみは相そう変らかわらず旨むねそうに食うくうね。――奥さんおくさんこの岡本おかもと君きみが今いまよりもっと食っしょくって、もっと肥っふとってた時分じぶん、西洋せいよう人ひとの肩車かたぐるまへ乗っのった話はなしをお聞きききですか」 叔母おばは知らしらなかった。
吉川よしかわはまた同じおなじ問もんを継子けいしにかけた。
継子けいしも知らしらなかった。
「そうでしょうね、あんまり外聞がいぶんの好いよい話はなしじゃないから、きっと隠しかくしているんですよ」「何なんが?」 叔父おじはようやく皿さらから眼めを上げあげて、不思議ふしぎそうに相手あいてを見みた。
すると吉川よしかわの夫人ふじんが傍そばから口くちを出しだした。
「おおかた重じゅう過ぎすぎてその外国人がいこくにんを潰しつぶしたんでしょう」「そんならまだ自慢じまんになるが、みんなに変へんな顔かおをしてじろじろ見みられながら、倫敦ろんどんの群衆ぐんしゅうの中なかで、大男おおおとこの肩かたの上うえへ噛りついていたんだ。行列ぎょうれつを見るみるためにね」 叔父おじはまだ笑いわらいもしなかった。
「何なんを捏造でつぞうする事ことやら。いったいそりゃいつの話はなしだね」「エドワードえどわーど七世ななせいの戴冠式たいかんしきの時じさ。行列ぎょうれつを見ようみようとしてマンションまんしょんハウスはうすの前まえに立ったってたところが、日本にっぽんと違っちがって向うむこうのものがあんまり君きみより背丈せたけが高こう過ぎるすぎるもんだから、苦し紛れくるしまぎれにいっしょに行っいった下宿げしゅくの亭主ていしゅに頼んたのんで、肩車かたぐるまに乗せのせて貰っもらったって云ういうじゃないか」「馬鹿ばかを云っいっちゃいけない。そりゃ人違ひとちがいだ。肩車かたぐるまへ乗っのった奴やつはちゃんと知っしってるが、僕ぼくじゃない、あの猿さるだ」 叔父おじの弁解べんかいはむしろ真面目まじめであった。
その真面目まじめな口くちから猿さるという言葉ことばが突然とつぜん出でた時じ、みんなは一度いちどに笑っわらった。
「なるほどあの猿さるならよく似合うにあうね。いくら英吉利いぎりす人ひとが大きいおおきいたって、どうも君きみじゃ辻褄つじつまが合わあわな過ぎるすぎると思っおもったよ。――あの猿さると来きたらまたずいぶん矮小わいしょうだからな」 知っしっていながらわざと間違えまちがえたふりをして見せみせたのか、あるいは最初さいしょから事実じじつを知らしらなかったのか、とにかく吉川よしかわはやっと腑ふに落ちおちたらしい言葉遣いことばづかいをして、なおその当人とうにんの猿さるという渾名あだなを、一座いちざを賑わせるにぎわせる滑稽こっけいの余よ音おとのごとく繰り返しくりかえした。
夫人ふじんは半ばなかば好奇こうき的まとで、半ばなかば戒飭かいしょく的まとな態度たいどを取っとった。
「猿さるだなんて、いったい誰だれの事ことをおっしゃるの」「なにお前おまえの知らしらない人ひとだ」「奥さんおくさん心配しんぱいなさらないでも好よしみござんす。たとい猿さるがこの席せきにいようとも、我々われわれは表裏ひょうりなく彼かれを猿々さると呼びよび得るうる人間にんげんなんだから。その代りかわり向うむこうじゃ私わたくしの事ことを豚々ぶたって云っいってるから、同どうなじ事ことです」 こんな他愛たあいもない会話かいわが取りとり換かえわされている間ま、お延のべはついに社交しゃこう上うえの一員いちいんとして相当そうとうの分ぶん前まえを取るとる事ことができなかった。
自分じぶんを吉川よしかわ夫人ふじんに売りつけるうりつける機会きかいはいつまで経っきょうっても来きなかった。
夫人ふじんは彼女かのじょを眼中がんちゅうに置いおいていなかった。
あるいはむしろ彼女かのじょを回避かいひしていた。
そうして特にとくに自分じぶんの一いち軒のき置いおいて隣りとなりに坐っすわっている継子けいしにばかり話しかけはなしかけた。
たとい一いち分間ぶんけんでもこの従妹じゅうまいを、注意ちゅういの中心ちゅうしんとして、みんなの前まえに引き出そうひきだそうとする努力どりょくの迹さえありありと見えみえた。
それを利用りようする事ことのできない継子けいしが、感謝かんしゃとは反対はんたいに、かえって迷惑めいわくそうな表情ひょうじょうを、遠慮えんりょなく外部がいぶに示すしめすたびに、すぐ彼女かのじょと自分じぶんとを比較ひかくしたくなるお延のべの心こころには羨望せんぼうの漣さざなみ※が立ったった。
「自分じぶんがもしあの従妹じゅうまいの地位ちいに立ったったなら」 会食かいしょく中なかの彼女かのじょはしばしばこう思っおもった。
そうしてその後そのあとから暗にあんに人馴れひとなれない継子けいしを憐れんあわれんだ。
最後さいごには何なんという気の毒きのどくな女おんなだろうという軽侮けいぶの念ねんが例れいもの通りとおり起っおこった。
五十五ごじゅうご
彼かれらの席せきを立ったったのは、男おとこ達とおるの燻らしくゆらし始めはじめた食後しょくごの葉巻はまきに、白いしろい灰はいが一寸ちょっと近くちかくも溜ったまった頃ころであった。
その時じ誰だれかの口くちから出でた「もう何時なんじだろう」というきっかけが、偶然ぐうぜんお延のべの位地いちに変化へんかを与えあたえた。
立ち上るたちのぼる前まえの一瞬いっしゅん間まを捉えとらえた夫人ふじんは突然とつぜんお延のべに話しかけはなしかけた。
「延子のぶこさん。津田つださんはどうなすって」 いきなりこう云っいっておいて、お延のべの返事へんじも待たまたずに、夫人ふじんはすぐその後そのあとを自分じぶんで云いいい足したした。
「先刻せんこくから伺おううかがおう伺おううかがおうと思っおもってた癖くせに、つい自分じぶんの勝手かってな話はなしばかりして――」 この云訳をお延のべは腹はらの中なかで嘘うそらしいと考えかんがえた。
それは相手あいての使うつかう当座とうざの言葉つきことばつきや態度たいどから出でた疑ぎでなくって、彼女かのじょに云わいわせると、もう少しすこし深いぶかい根拠こんきょのある推定すいていであった。
彼女かのじょは食堂しょくどうへ這入っはいって夫人ふじんに挨拶あいさつをした時じ、自分じぶんの使っつかった言葉ことばをよく覚えおぼえていた。
それは自分じぶんのためというよりも、むしろ自分じぶんの夫おっとのために使っつかった言葉ことばであった。
彼女かのじょはこの夫人ふじんを見るみるや否いなや、恭しくうやうやしく頭あたまを下げさげて、「毎度まいど津田つだが御ご厄介やっかいになりまして」と云っいった。
けれども夫人ふじんはその時じその津田つだについては一言ひとことも口くちを利かりかなかった。
自分じぶんが挨拶あいさつを交換こうかんした最後さいごの同席どうせき者ものである以上いじょう、そこにはそれだけの口くちを利くきく余裕よゆうが充分じゅうぶんあったにも関わらかかわらず、夫人ふじんは、すぐよそを向いむかいてしまった。
そうして二三にさん日ひ前まえ津田つだから受けうけた訪問ほうもんなどは、まるで忘れわすれているような風かぜをした。
お延のべは夫人ふじんのこの挙動きょどうを、自分じぶんが嫌わいやわれているからだとばかり解釈かいしゃくしなかった。
嫌わいやわれている上うえに、まだ何なんか理由りゆうがあるに違いないと思っおもった。
でなければ、いくら夫人ふじんでも、とくに津田つだの名前なまえを回避かいひするような素もと振ぶりを、彼かれの妻つまたるものに示すしめすはずがないと思っおもった。
彼女かのじょは自分じぶんの夫おっとがこの夫人ふじんの気きに入っはいっているという事実じじつをよく承知しょうちしていた。
しかし単にたんに夫おっとを贔負にしてくれるという事ことが、何なんでその人ひとを妻つまの前まえに談話だんわの題目だいもくとして憚からはばかられるのだろう。
お延のべは解らわからなかった。
彼女かのじょが会食かいしょく中なか、当然とうぜん他ほかに好かよしみかれべき女性じょせいとしての自己じこの天分てんぶんを、夫人ふじんの前まえに発揮はっきするために、二人ふたりの間まに存在そんざいする唯一ゆいいつの共通点きょうつうてんとも見みられる津田つだから出立しゅったつしようと試みこころみて、ついに出立しゅったつし得とくなかったのも、一いちつはこれが胸むねに痞えつかえていたからであった。
それをいよいよ席せきを立とうたとうとする間際まぎわになって、向うむこうから切り出さきりだされた時じのお延のべは、ただ夫人ふじんの云訳に対したいしてのみ、嘘うそらしいという疑ぎを抱くいだくだけではすまなかった。
今頃いまごろになって夫おっとの病気びょうきの見舞みまいをいってくれる夫人ふじんの心こころの中なかには、やむをえない社交しゃこう上うえの辞令じれい以外いがいに、まだ何なんか存在そんざいしているのではなかろうかと考えかんがえた。
「ありがとうございます。お蔭さまおかげさまで」「もう手術しゅじゅつをなすったの」「ええ今日きょう」「今日きょう? それであなたよくこんな所ところへ来きられましたね」「大したたいした病気びょうきでもございませんものですから」「でも寝ねていらっしゃるんでしょう」「寝ねてはおります」 夫人ふじんはそれで構わかまわないのかという様子ようすをした。
少なくすくなくとも彼女かのじょの黙っだまっている様子ようすがお延のべにはそう見えみえた。
他ほかに対したいして男おとこらしく無遠慮むえんりょにふるまっている夫人ふじんが、自分じぶんにだけは、まるで別べつな人間にんげんとして出でてくるのではないかと思わおもわれた。
「病院びょういんへ御ご入りいりになって」「病院びょういんと申すもうすほどの所ところではございませんが、ちょうどお医者いしゃ様ようの二に階かいが空いむなしいておるので、五六ごろく日ひそこへおいていただく事ことにしております」 夫人ふじんは医者いしゃの名前なまえと住所じゅうしょとを訊いきいた。
見舞みまいに行くいくつもりだとも何なんとも云わいわなかったけれども、実じつはそのために、わざわざ津田つだの話はなしを持ち出しもちだしたのじゃなかろうかという気きのしたお延のべは、始めはじめて夫人ふじんの意味いみが多少たしょう自分じぶんに呑み込めのみこめたような心持こころもちもした。
夫人ふじんと違っちがって最初さいしょから津田つだの事ことをあまり念頭ねんとうにおいていなかったらしい吉川よしかわは、この時じ始めはじめて口くちを出しだした。
「当人とうにんに聞くきくと、去年きょねんから病気びょうきを持ち越しもちこしているんだってね。今いまの若わかさにそう病気びょうきばかりしちゃ仕方しかたがない。休むやすむのは五六ごろく日ひに限っかぎった事こともないんだから、癒るなおるまでよく養生ようじょうするように、そう云っいって下さいください」 お延のべは礼れいを云っいった。
食堂しょくどうを出でた七なな人ひとは、廊下ろうかでまた二に組くみに分れわかれた。
五十六ごじゅうろく
残りのこりの時間じかんを叔母おばの家族かぞくとともに送っおくったお延のべには、それから何なんの波瀾はらんも来きなかった。
ただ褞袍を着きて横臥おうがした寝巻ねまき姿すがたの津田つだの面影おもかげが、熱心ねっしんに舞台ぶたいを見つめみつめている彼女かのじょの頭あたまの中なかに、不意ふいに出でて来るくる事ことがあった。
その面影おもかげは今までいままで読みかけよみかけていた本ほんを伏せふせて、ここに坐っすわっている彼女かのじょを、遠くとおくから眺めながめているらしかった。
しかしそれは、彼女かのじょが喜こんよろこんで彼かれを見返そうみかえそうとする刹那せつなに、「いや疳かん違いちがいをしちゃいけない、何なんをしているかちょっと覗いのぞいて見みただけだ。お前おまえなんかに用ようのあるおれじゃない」という意味いみを、眼つきめつきで知らしらせるものであった。
騙さだまされたお延のべは何なんだ馬鹿ばからしいという気きになった。
すると同時どうじに津田つだの姿すがたも幽霊ゆうれいのようにすぐ消えきえた。
二に度目どめにはお延のべの方ほうから「もうあなたのような方ほうの事ことは考えかんがえて上げあげません」と云い渡しいいわたした。
三さん度目どめに津田つだの姿すがたが眼めに浮んうかんだ時じ、彼女かのじょは舌した打だをしたくなった。
食堂しょくどうへ入るはいる前まえの彼女かのじょはいまだかつて夫おっとの事ことを念頭ねんとうにおいていなかったので、お延のべに云わいわせると、こういう不可抗ふかこうな心こころの作用さようは、すべて夕飯ゆうはん後あとに起っおこった新らしいあたらしい経験けいけんにほかならなかった。
彼女かのじょは黙っだまって前後ぜんご二に様ようの自分じぶんを比較ひかくして見みた。
そうしてこの急劇きゅうげきな変化へんかの責任者せきにんしゃとして、胸むねのうちで、吉川よしかわ夫人ふじんの名前なまえを繰り返さくりかえさない訳わけに行かいかなかった。
今夜こんやもし夫人ふじんと同じおなじ食卓しょくたくで晩餐ばんさんを共ともにしなかったならば、こんな変へんな現象げんしょうはけっして自分じぶんに起らおこらなかったろうという気きが、彼女かのじょの頭あたまのどこかでした。
しかし夫人ふじんのいかなる点てんが、この苦いにがい酒さけを醸すかもす醗酵はっこう分子ぶんしとなって、どんな具合ぐあいに彼女かのじょの頭あたまのなかに入り込んはいりこんだのかと訊かきかれると、彼女かのじょはとても判然はんぜんした返事へんじを与えるあたえることができなかった。
彼女かのじょはただ不ふ明暸めいりょうな材料ざいりょうをもっていた。
そうして比較的ひかくてき明暸めいりょうな断案だんあんに到着とうちゃくしていた。
材料ざいりょうに不足ふそくな掛かかり念ねんを抱かかかえかない彼女かのじょが、その断案だんあんを不備ふびとして疑ううたがうはずはなかった。
彼女かのじょは総てすべての源みなもと因いんが吉川よしかわ夫人ふじんにあるものと固くかたく信じしんじていた。
芝居しばいが了りょうねていったん茶屋ちゃやへ引き上げるひきあげる時じ、お延のべはそこでまた夫人ふじんに会うあう事ことを恐れおそれた。
しかし会っかいってもう少しすこし突とっッっ込んこんで見みたいような気きもした。
帰りかえりを急ぐいそぐ混雑こんざつした間際まぎわに、そんな機会きかいの来るくるはずもないと、始めはじめから諦たいらめている癖くせに、そうした好奇こうきの心こころが、会いあいたくないという回避かいひの念ねんの蔭かげから、ちょいちょい首くびを出しだした。
茶屋ちゃやは幸みゆきにして異っちがっていた。
吉川よしかわ夫婦ふうふの姿すがたはどこにも見えみえなかった。
襟えりに毛皮けがわの付いついた重じゅうそうな二に重じゅう廻しまわしを引いん掛けかけながら岡本おかもとがコートこーとに袖そでを通しとおしているお延のべを顧みかえりみた。
「今日きょうは宅たくへ来きて泊っとまって行かいかないかね」「え、ありがとう」 泊るとまるとも泊らとまらないとも片づかかたづかない挨拶あいさつをしたお延のべは、微笑びしょうしながら叔母おばを見みた。
叔母おばはまた「あなたの気楽きらくさ加減かげんにも呆れあきれますね」という表情ひょうじょうで叔父おじを見みた。
そこに気きがつかないのか、あるいは気きがついても無頓着むとんちゃくなのか、彼かれは同じおなじ事ことを、前まえよりはもっと真面目まじめな調子ちょうしで繰り返しくりかえした。
「泊っとまって行くいくなら、泊っとまっといでよ。遠慮えんりょは要らいらないから」「泊っとまっていけったって、あなた、宅たくにゃ下女げじょがたった一人ひとりで、この子この帰るかえるのを待っまってるんですもの。そんな事こと無理むりですわ」「はあ、そうかね、なるほど。下女げじょ一人ひとりじゃ不用心ふようじんだね」 そんなら止すよすが好かろうよかろうと云っいった風かぜの様子ようすをした叔父おじは、無論むろん最初さいしょからどっちでも構わかまわないものをちょっと問題もんだいにして見みただけであった。
「あたしこれでも津田つだへ行っいってからまだ一いち晩ばんも御ご厄介やっかいになった事ことはなくってよ」「はあ、そうだったかね。それは感心かんしんに品行ひんこう方正ほうせいの至いたりだね」「厭いやだ事こと。――由雄よしおだって外そとへ泊っとまった事ことなんか、まだ有りゃありゃしないわ」「いや結構けっこうですよ。御ご夫婦ふうふお揃おで、お堅くかたくっていらっしゃるのは――」「何なんよりもって恐悦きょうえつ至極しごく」 先刻せんこく聞いきいた役者やくしゃの言葉ことばを、小さなちいさな声こえで後あとへ付け足しつけたした継子けいしは、そう云っいった後あとで、自分じぶんながらその大胆だいたんさに呆れあきれたように、薄赤くうすあかくなった。
叔父おじはわざと大きなおおきな声こえを出しだした。
「何なんですって」 継子けいしはきまりが悪いわるいので、聞こえきこえないふりをして、どんどん門口かどぐちの方ほうへ歩いあるいて行っいった。
みんなもその後そのあとに随いしたがいて表ひょうへ出でた。
車くるまへ乗るのる時じ、叔父おじはお延のべに云っいった。
「お前おまえ宅たくへ泊れとまれなければ、泊らとまらないでいいから、その代りかわりいつかおいでよ、二三にさん日ひ中なかにね。少しすこし訊きききたい事ことがあるんだから」「あたしも叔父おじさんに伺わうかがわなくっちゃならない事ことがあるから、今日きょうのお礼おれいかたがた是非ぜひ上るのぼるわ。もしか都合つごうができたら明日あすにでも伺っうかがってよ、好くよくって」「オーおー、ライらい」 四よん人ひとの車くるまはこの英語えいごを相図あいずに走そうけ出しけだした。
五十七ごじゅうなな
津田つだの宅たくとほぼ同じおなじ方角ほうがくに当るあたる岡本おかもとの住居じゅうきょは、少しすこし道程どうていが遠いとおいので、三さん人ひとの後あとに随いしたがいたお延のべの護謨ごむ輪わは、小路こうじへ曲るまがる例れいの角かくまでいっしょに来るくる事ことができた。
そこで別れるわかれる時じ、彼女かのじょは幌ほろの中なかから、前まえに行くいく人ひと達とおるに声こえをかけた。
けれどもそれが向うむこうへ通じつうじたか通じつうじないか分らわからないうちに、彼女かのじょの俥くるまはもう電車でんしゃ通りとおりを横よこに切れきれていた。
しんとした小路こうじの中なかで、急きゅうに一種いっしゅの淋しさびしさが彼女かのじょの胸むねを打っうった。
今までいままで団体だんたい的まとに旋回せんかいしていたものが、吾われ知らしらず調子ちょうしを踏み外しふみはずして、一人ひとり圏外けんがいにふり落さふりおとされた時じのように、淡いあわいながら頼りたよりを失っうしなった心持こころもちで、彼女かのじょは自分じぶんの宅たくの玄関げんかんを上っのぼった。
下女げじょは格子こうしの音おとを聞いきいても出でて来きなかった。
茶の間ちゃのまには電灯でんとうが明るくあかるく輝やいかがやいているだけで、鉄瓶てつびんさえいつものように快いいい音おとを立てたてなかった。
今朝けさ見みたと何なんの変りかわりもない室むろの中なかを、彼女かのじょは今朝けさと違っちがった眼めで見廻しみまわした。
薄ら寒いうすらさみい感じかんじが心細いこころぼそい気分きぶんを抱擁ほうようし始めはじめた。
その瞬間しゅんかんが過ぎすぎて、ただの淋しさびしさが不安ふあんの念ねんに変りかわりかけた時じ、歓楽かんらくに疲れつかれた身体しんたいを、長火鉢ながひばちの前まえに投げかけようなげかけようとした彼女かのじょは、突然とつぜん勝手口かってぐちの方ほうを向いむかいて「時じ、時じ」と下女げじょの名前なまえを呼んよんだ。
同時どうじに勝手かっての横よこに付いついている下女げじょ部屋へやの戸とを開けあけた。
二に畳たたみ敷しきの真中まなかに縫物ぬいものをひろげて、その上うえに他愛たあいなく突とっッっ伏しふしていたお時じは、急きゅうに顔かおを上げあげた。
そうしてお延のべを見るみるや否いなや、いきなり「はい」という返事へんじを判然はんぜんして立ち上ったちのぼった。
それと共ともに、針仕事はりしごとのため、わざと低目ひくめにした電灯でんとうの笠かさへ、崩れくずれかかった束髪そくはつの頭あたまをぶつけたので、あらぬ方ほうへ波なみをうった電球でんきゅうが、なおのこと彼女かのじょを狼狽ろうばいさせた。
お延のべは笑いわらいもしなかった。
叱るしかる気きにもならなかった。
こんな場合ばあいに自分じぶんならという彼我ひがの比較ひかくさえ胸むねに浮かばうかばなかった。
今いまの彼女かのじょには寝ぼけねぼけたお時じでさえ、そこにいてくれるのが頼母しかったのもしかった。
「早くはやく玄関げんかんを締めしめてお寝ね。潜りもぐりの※はあたしがかけて来きたから」 下女げじょを先さきへ寝かしねかしたお延のべは、着物きものも着換えきかえずにまた火鉢ひばちの前まえへ坐っすわった。
彼女かのじょは器械きかい的まとに灰はいをほじくって消えきえかかった火種ひだねに新らしいあたらしい炭すみを継ぎ足しつぎたした。
そうして家庭かていとしては欠くかくべからざる要件ようけんのごとくに、湯ゆを沸かしわかした。
しかし夜更よふけに鳴るなる鉄瓶てつびんの音おとに、一人ひとり耳みみを澄ましすましている彼女かのじょの胸むねに、どこからともなく逼っせまってくる孤独こどくの感かんが、先刻せんこく帰っかえった時じよりもなお劇しくはげしく募っつのって来きた。
それが平生へいぜい遅いおそい夫おっとの戻りもどりを待ちあぐんまちあぐんで起すおこす淋しみさびしみに比べるくらべると、遥かはるかに程度ていどが違うちがうので、お延のべは思わおもわず病院びょういんに寝ねている夫おっとの姿すがたを、懐かしなつかしそうに心こころの眼めで眺めながめた。
「やっぱりあなたがいらっしゃらないからだ」 彼女かのじょは自分じぶんの頭あたまの中なかに描き出しえがきだした夫おっとの姿すがたに向っむかってこう云っいった。
そうして明日あすは何なんをおいても、まず病院びょういんへ見舞みまいに行かいかなければならないと考えかんがえた。
しかし次つぎの瞬間しゅんかんには、お延のべの胸むねがもうぴたりと夫おっとの胸むねに食しょくついていなかった。
二人ふたりの間まに何なんだか挟まっはさまってしまった。
こっちで寄り添おうよりそおうとすればするほど、中間ちゅうかんにあるその邪魔ものじゃまものが彼女かのじょの胸むねを突とっッっついた。
しかも夫おっとは平気へいきで澄ましすましていた。
半ばなかば意地いじになった彼女かのじょの方ほうでも、そんなら宜しゅうよろしゅうございますといって、夫おっとに背中せなかを向けむけたくなった。
こういう立場たちばまで来るくると、彼女かのじょの空想くうそうは会釈えしゃくなく吉川よしかわ夫人ふじんの上うえに飛び移らとびうつらなければならなかった。
芝居しばい場ばで一度いちど考えかんがえた通りとおり、もし今夜こんやあの夫人ふじんに会わあわなかったなら、最愛さいあいの夫おっとに対したいして、これほど不愉快ふゆかいな感じかんじを抱かかかえかずにすんだろうにという気きばかり強くつよくした。
しまいに彼女かのじょはどこかにいる誰だれかに自分じぶんの心こころを訴えうったえたくなった。
昨夜さくや書きかきかけた里さとへやる手紙てがみの続つづくを書こうかこうと思っおもって、筆ふでを執りとりかけた彼女かのじょは、いつまで経っきょうっても、夫婦ふうふ仲よくなかよく暮しくらしているから安心あんしんしてくれという意味いみよりほかに、自分じぶんの思いおもいを巻紙まきがみの上うえに運ぶはこぶ事ことができなかった。
それは彼女かのじょが常つねに両親りょうしんに対したいして是非ぜひ云いいいたい言葉ことばであった。
しかし今夜こんやは、どうしてもそれだけでは物もの足らあしらない言葉ことばであった。
自分じぶんの頭あたまを纏めるまとめる事ことに疲れつかれ果かた彼女かのじょは、とうとう筆ふでを投げ出しなげだした。
着物きものもそこへ脱ぎ捨てぬぎすてたまま、彼女かのじょはついに床ゆかへ入っはいった。
長いながい間ま眼めに映っうつった劇場げきじょうの光景こうけいが、断片的だんぺんてきに幾いく通りとおりもの強いつよい色いろになって、興奮こうふんした彼女かのじょの頭あたまをちらちら刺戟しげきするので、彼女かのじょは焦らさじらされる人ひとのように、いつまでも眠ねむりに落ちるおちる事ことができなかった。
五十八ごじゅうはち
彼女かのじょは枕まくらの上うえで一時いちじを聴いきいた。
二に時じも聴いきいた。
それから何時なんじだか分らわからない朝あさの光ひかりで眼めを覚ましさました。
雨戸あまどの隙間すきまから差し込んさしこんで来るくるその光ひかりは、明らかあきらかに例れいもより寝過ごしねすごした事ことを彼女かのじょに物語っものがたりっていた。
彼女かのじょはその光ひかりで枕元まくらもとに取り散らさとりちらされた昨夕さくゆうの衣裳いしょうを見みた。
上着うわぎと下着したぎと長襦袢ながじゅばんと重なり合っかさなりあって、すぽりと脱ぎ捨てぬぎすてられたまま、畳たたみの上うえに崩れくずれているので、そこには上下じょうげ裏表うらおもての、しだらなく一いち度どに入り乱れいりみだれた色いろの塊りかたまりがあるだけであった。
その色いろの塊りかたまりの下したから、細長くほそながく折目おりめの付いついた端はしを出しだした金糸きんし入りいりの檜扇ひおうぎ模様もようの帯おびは、彼女かのじょの手ての届くとどく距離きょりまで延びのびていた。
彼女かのじょはこの乱雑らんざつな有様ありさまを、いささか呆れあきれた眼めで眺めながめた。
これがかねてから、几帳面きちょうめんを女徳じょとくの一いちつと心がけこころがけて来きた自分じぶんの所作しょさかと思うおもうと、少しすこしあさましいような心持こころもちにもなった。
津田つだに嫁いよめいで以後いご、かつてこんな不体裁ふていさいを夫おっとに見せみせた覚さとしのない彼女かのじょは、その夫おっとが今いま自分じぶんと同じおなじ室むろの中なかに寝ねていないのを見みて、ほっと一息ひといきした。
だらしのないのは着物きものの事ことばかりではなかった。
もし夫おっとが入院にゅういんしないで、例れいもの通りとおり宅たくにいたならば、たといどんなに夜更しよふかしをしようとも、こう遅くおそくまで、気きを許しゆるして寝ねているはずがないと思っおもった彼女かのじょは、眼めが覚めるさめると共ともに跳ね起きはねおきなかった自分じぶんを、どうしても怠けものなまけものとして軽蔑けいべつしない訳わけに行かいかなかった。
それでも彼女かのじょは容易よういに起き上らおきあがらなかった。
昨夕さくゆうの不首尾ふしゅびを償うつぐなうためか、自分じぶんの知らしらない間まに起きおきてくれたお時じの足音あしおとが、先刻せんこくから台所だいどころで聞こえるきこえるのを好いよい事ことにして、彼女かのじょはいつまでも肌触りはだざわりの暖かいあたたかい夜具やぐの中なかに包まつつまれていた。
そのうち眼めを開けあけた瞬間しゅんかんに感じかんじた、すまないという彼女かのじょの心持こころもちがだんだん弛んゆるんで来きた。
彼女かのじょはいくら女おんなだって、年ねんに一度いちどや二に度どこのくらいの事ことをしても差支えさしつかえなかろうと考え直すかんがえなおすようになった。
彼女かのじょの関節かんせつが楽々らくらくしだした。
彼女かのじょはいつにない暢とおるびりした気分きぶんで、結婚後けっこんご始めはじめて経験けいけんする事ことのできたこの自由じゆうをありがたく味わっあじわった。
これも畢竟ひっきょう夫おっとが留守るすのお蔭おかげだと気きのついた時じ、彼女かのじょは当分とうぶん一人ひとりになった今いまの自分じぶんを、むしろ祝福しゅくふくしたいくらいに思っおもった。
そうして毎日まいにち夫おっとと寝ね起きを共ともにしていながら、つい心こころにもとめず、今日きょうまで見過ごしみすごしてきた窮屈きゅうくつというものが、彼女かのじょにとって存外ぞんがい重いおもい負担ふたんであったのに驚ろかさおどろかされた。
しかし偶発ぐうはつ的まとに起っおこったこの瞬間しゅんかんの覚醒かくせいは無論むろん長くながく続かつづかなかった。
いったん解放かいほうされた自由じゆうの眼めで、やきもきした昨夕さくゆうの自分じぶんを嘲けるあざけるように眺めながめた彼女かのじょが床ゆかを離れはなれた時じは、もうすでに違っちがった気分きぶんに支配しはいされていた。
彼女かのじょは主婦しゅふとしていつもやる通りとおりの義務ぎむを遅いおそいながら綺麗きれいに片づけかたづけた。
津田つだがいないので、だいぶ省けるはぶける手数てすうを利用りようして、下女げじょも煩わさわずらわさずに、自分じぶんで自分じぶんの着物きものを畳んたたんだ。
それから軽いかるい身み仕舞しまいをして、すぐ表ひょうへ出でた彼女かのじょは、寄道よりみちもせずに、通りとおりから半丁はんちょうほど行っいった所ところにある、新らしいあたらしい自動じどう電話でんわの箱ばこの中なかに入っはいった。
彼女かのじょはそこで別々べつべつの電話でんわを三さん人ひとへかけた。
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