その二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切しているので、彼はすぐその確的さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
第 18 章
下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人のしばしば目撃するところと何の異なるところもなかった。
そこには広い板の間があった。
目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮ぎる壁を目標に置いて、大凡の見当をつけると、畳一枚を竪に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。
この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上らない津田の想像で判断するよりほかに途はないとして、今聴えた障子の音の出所は、一番階段に近い室、すなわち下たから見える壁のすぐ後に違なかった。
ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。
というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。
今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。
もちろんその驚きは微弱なものであった。
けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。
彼はすぐ逃げ出そうとした。
それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。
けれども自然の成行はもう少し複雑であった。
いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。
「ことによると下女かも知れない」 こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。
すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。
すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。
その足音は実際静かであった。
踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。
その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。
眼は動かなかった。
同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑えつけたらしかった。
階上の板の間まで来てそこでぴたりととまった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。
彼は忘れる事のできない印象の一つとして、それを後々まで自分の心に伝えた。
彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。
少くとも津田にはそう思われた。
無心が有心に変るまでにはある時がかかった。
驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後で、彼女は始めて棒立になった。
横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すよりたやすく倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
彼女は普通の湯治客のする通り、寝しなに一風呂入って温まるつもりと見えて、手に小型のタウエルを提げていた。
それから津田と同じようにニッケル製の石鹸入を裸のまま持っていた。
棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那の光景を辿るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
彼女の姿は先刻風呂場で会った婦人ほど縦ままではなかった。
けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。
彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。
赤だの青だの黄だの、いろいろの縞が綺麗に通っている派手な伊達巻を、むしろずるずるに巻きつけたままであった。
寝巻の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗製の上靴を突かけた素足の甲を被っていた。
清子の身体が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。
そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白く変って行った。
その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気がついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くなるか分らない」 津田は思い切って声をかけようとした。
するとその途端に清子の方が動いた。
くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。
津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。
津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。
同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。
やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。
彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。
百七十七
その晩の津田はよく眠れなかった。
雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。
それを離れる事のできない彼は疑った。
雨が来たのだろうか、谿川が軒の近くを流れているのだろうか。
雨としては庇に響がないし、谿川としては勢が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥か重大な主題のために悩まされていた。
彼は室に帰ると、いつの間にか気を利かせた下女の暖かそうに延べておいてくれた床を、わが座敷の真中に見出したので、すぐその中へ潜り込んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽ったのである。
彼はこの宵の自分を顧りみて、ほとんど夢中歩行者のような気がした。
彼の行為は、目的もなく家中彷徨き廻ったと一般であった。
ことに階子段の下で、静中に渦を廻転させる水を見たり、突然姿見に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経たない近距離から判断して見ても、たしかに常軌を逸した心理作用の支配を受けていた。
常識に見捨てられた例の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥する彼から見れば、恥ずべき状態に違なかった。
しかし外聞が悪いという事をほかにして、なぜあんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明はできなかった。
それはそれとして、なぜあの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それほど自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」 彼は無論そうでないと信じていた。
彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰ったくらいであった。
「しかしお前はそれを念頭に置かなかったろう」 彼は実際廊下をうろうろ歩行いているうちに、清子をどこかへふり落した。
けれども自分のどこを歩いているか知らないものが、他がどこにいるか知ろうはずはなかった。
「この見当だと心得てさえいたならば、ああ不意打を食うんじゃなかったのに」 こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。
彼女が後を向いた様子、電気を消して上り口の案内を閉塞した所作、たちまち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴の音、これらのものを綜合して考えると、すべてが警戒であった。
注意であった。
そうして絶縁であった。
しかし彼女は驚ろいていた。
彼よりも遥か余計に驚ろいていた。
それは単に女だからとも云えた。
彼には不意の裡に予期があり、彼女には突然の中にただ突然があるだけであったからとも云えた。
けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。
彼女はもっと複雑な過去を覿面に感じてはいないだろうか。
彼女は蒼くなった。
彼女は硬くなった。
津田はそこに望みを繋いだ。
今の自分に都合の好いようにそれを解釈してみた。
それからまたその解釈を引繰返して、反対の側からも眺めてみた。
両方を眺め尽した次にはどっちが合理的だろうという批判をしなければならなくなった。
その批判は材料不足のために、容易に纏まらなかった。
纏ってもすぐ打ち崩された。
一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。
他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。
不思議にも彼の自信、卑下して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚は、胸の中にあるような気がした。
それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対にいつでも頭の外から来るような心持がした。
両方を公平に取扱かっているつもりでいながら、彼は常に親疎の区別をその間に置いていた。
というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具わっているらしく見えた。
結果は分明であった。
彼は叱りながら己惚の頭を撫でた。
耳を傾けながら、半鐘の音を忌んだ。
かくして互いに追つ追われつしている彼の心に、静かな眠は来ようとしても来られなかった。
万事を明日に譲る覚悟をきめた彼は、幾度かそれを招き寄せようとして失敗ったあげく、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寝返りの数を重ねるだけであった。
彼は煙草へ火を点けようとして枕元にある燐寸を取った。
その時袖畳みにして下女が衣桁へかけて行った※袍が眼に入った。
気がついて見ると、お延の鞄へ入れてくれたのはそのままにして、先刻宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。
彼は病院を出る時、新調の※袍に対してお延に使ったお世辞をたちまち思い出した。
同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「どっちが好いか比べて御覧なさい」 ※袍ははたして宿の方が上等であった。
銘仙と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然であった。
※袍を見較べると共に、細君を前に置いて、内々心の中で考えた当時の事が再び意識の域上に現われた。
「お延と清子」 独りこう云った彼はたちまち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴いたなり、すぐ夜具を頭から被った。
強いて寝ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果ててどこかへ行ってしまった時に始めて酬いられた。
彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。
百七十八
朝早く男が来て雨戸を引く音のために、いったん破りかけられたその夢は、半醒半睡の間に、辛うじて持続した。
室の四角が寝ていられないほど明るくなって、外部に朝日の影が充ち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼はまだ重かった。
彼は楊枝を使いながら障子を開けた。
そうして昨夜来の魔境から今ようやく覚醒した人のような眼を放って、そこいらを見渡した。
彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。
不規則な池を人工的に拵えて、その周囲に稚い松だの躑躅だのを普通の約束通り配置した景色は平凡というよりむしろ卑俗であった。
彼の室に近い築山の間から、谿水を導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。
昨夜彼の睡眠を悩ました細工の源を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想はすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推し移った。
大根を洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったらたまらないと彼は考えた。
彼が銜え楊枝のまま懐手をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻から高箒で庭の落葉を掃いていた男が、彼の傍へ寄って来て丁寧に挨拶をした。
「お早う、昨夜はお疲れさまで」「君だったかね、昨夕馬車へ乗ってここまでいっしょに来てくれたのは」「へえ、お邪魔様で」「なるほど君の云った通り閑静だね。そうしてむやみに広い家だね」「いえ、御覧の通り平地の乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通りむやみに広くって長いかも知れません」「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児になって弱ったよ」「はあ、そりゃ」 二人がこんな会話を取り換わせている間に、庭続の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。
黄葉と枯枝の隙間を動いてくる彼らの路は、稲妻形に林の裡を抜けられるように、また比較的急な勾配を楽に上られるように、作ってあるので、ついそこに見えている彼らの姿もなかなか庭先まで出るのに暇がかかった。
それでも手代はじっとして彼らを待っていなかった。
たちまち津田を放り出した現金な彼は、すぐ岡の裾まで駈け出して行って、下から彼らを迎いに来たような挨拶を与えた。
津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。
女は昨夕艶めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違なかった。
風呂場で彼を驚ろかした大きな髷をいつの間にか崩して、尋常の束髪に結い更えたので、彼はつい同じ人と気がつかずにいた。
彼はさらに声を聴いただけで顔を知らなかった伴の男の方を、よそながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。
短かく刈り込んだ当世風の髭を鼻の下に生やしたその男は、なるほど風呂番の云った通り、どこかに商人らしい面影を宿していた。
津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶い出した。
堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰めて当人のしばしば用いる堀庄という名前が、いかにも妹婿の様子を代表しているごとく、この男の名前もきっとその髭を虐殺するように町人染みていはしまいかと思われた。
瞥見のついでに纏められた津田の想像はここにとどまらなかった。
彼はもう一歩皮肉なところまで切り込んで、彼らがはたして本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中に置いた。
したがって早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼らは、津田にとっての違例な現象にほかならなかった。
彼は楊枝で歯を磨りながらまだ元の所に立っていた。
彼がよそ見をしているにもかかわらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
女は番頭に訊いた。
「今日は別館の奥さんはどうかなすって」 番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」「別に何って事もないんですけれどもね、いつでも朝風呂場でお目にかかるのに、今日はいらっしゃらなかったから」「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんときまってるのよ、朝お風呂に行く時の」「へえ、なるほど」「それに今朝ごいっしょに裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」「じゃちょっと伺って参りましょう」「いいえ、もういいのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしやどこかお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いてみただけよ」「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」「それともなんて、そう真面目くさらなくってもいいのよ。ただ訊いてみただけなんだから」 二人はそれぎり行き過ぎた。
津田は歯磨粉で口中をいっぱいにしながら、また昨夜の風呂場を探しに廊下へ出た。
百七十九
しかし探すなどという大袈裟な言葉は、今朝の彼にとって全く無用であった。
路に曲折の難はあったにせよ、一足の無駄も踏まずに、自然昨夜の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿馬鹿しいと思う心がさらに新らしく湧いて出た。
風呂場には軒下に篏めた高い硝子戸を通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。
その硝子戸越に岩だか土堤だかの片影を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉に浸けながら、いかに浴槽の位置が、大地の平面以下に切り下げられているかを発見した。
そうしてこの崖と自分のいる場所との間には、高さから云ってずいぶんの相違があると思った。
彼は目分量でその距離を一間半乃至二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中に幾層もあるはずだという事に気がついた。
崖の上には石蕗があった。
あいにくそこに朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、いかにも寒そうに見えた。
山茶花の花の散って行く様も湯壺から眺められた。
けれども景色は断片的であった。
硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。
不可知な世界は無論平凡に違なかった。
けれどもそれがなぜだか彼の好奇心を唆った。
すぐ崖の傍へ来て急に鳴き出したらしい鵯も、声が聴えるだけで姿の見えないのが物足りなかった。
しかしそれはほんのつけたりの物足りなさであった。
実を云うと、津田は腹のうちで遥かそれ以上気にかかる事件を捏ね返していたので、彼は風呂場へ下りた時からすでにある不足を暗々のうちに感じなければならなかった。
明るい浴室に人影一つ見出さなかった彼は、万事君の跋扈に任せるといった風に寂寞を極めた建物の中に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。
もっともこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄ててあったのが、彼に或暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作に過ぎないとも云えば云えない事もなかった。
だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、いよいよスリッパーの前に閉て切られた戸にかかった時、彼は急に躊躇した。
彼は固より無心ではなかった。
その上失礼という感じがどこかで手伝った。
仕方なしに外部から耳を峙てたけれども、中は森としているので、それに勢を得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。
そうしてほかと同じように空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあよかったという感じと、何だつまらないという失望が一度に彼の胸に起った。
すでに裸になって、湯壺の中に浸った後の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。
彼は苦笑しながら、昨夕と今朝の間に自分の経過した変化を比較した。
昨夕の彼は丸髷の女に驚ろかされるまではむしろ無邪気であった。
今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。
それは主のないスリッパーに唆のかされた罪かも知れなかった。
けれどもスリッパーがなぜ彼を唆のかしたかというと、寝起に横浜の女と番頭の噂さに上った清子の消息を聴かされたからであった。
彼女はまだ起きていなかった。
少くともまだ湯に入っていなかった。
もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るかどっちかでなければならなかった。
鋭敏な彼の耳は、ふと誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。
彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止めた。
すると足音は聴えなくなった。
しかし気のせいかいったんとまったその足音が今度は逆に階段を上って行くように思われた。
彼はその源因を想像した。
他の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨てておいたのが悪くはなかったろうかと考えた。
なぜそれを浴室の中まで穿き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌した。
しばらくして彼はまた意外な足音を今度は浴槽の外側に聞いた。
それは彼が石蕗の花を眺めた後、鵯鳥の声を聴いた前であった。
彼の想像はすぐ前後の足音を結びつけた。
風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。
するとたちまち女の声がした。
しかしそれは足音と全く別な方角から来た。
下から見上げた外部の様子によって考えると、崖の上は幾坪かの平地で、その平地を前に控えた一棟の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。
何しろ声はそっちの見当から来た。
そうしてその主は、たしかに先刻散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
昨夕湯気を抜くために隙かされた庇の下の硝子戸が今日は閉て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。
けれども語勢その他から推して、一事はたしかであった。
彼女は崖の上から崖の下へ向けて話しかけていた。
だから順序を云えば、崖の下からも是非受け応えの挨拶が出なければならないはずであった。
ところが意外にもその方はまるで音沙汰なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。
しゃべる方はただ崖の上に限られていた。
その代り足音だけは先刻のようにとまらなかった。
疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上って行った。
それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾が硝子戸の上部の方に少し現われた。
そうしてすぐ消えた。
津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻がえる様であった。
彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。
百八十
室に帰って朝食の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」「いいや、おおかたそうだろうと思っただけさ」「よく当りましたね。ちとお遊びにいらっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」「よっぽど長くいるのかい」「ええもう十日ばかりになるでしょう」「あれだね、義太夫をやるってえのは」「ええ、よく御存じですね、もうお聴きになりましたか」「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」 彼が聴くがままに、二人についての知識を惜気もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。
急所へ来るとわざと津田の問を外した。
「時にあの女の人はいったい何だね」「奥さんですよ」「本当の奥さんかね」「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。
「まさか嘘の奥さんてのもないでしょう、なぜですか」「なぜって、素人にしちゃあんまり粋過ぎるじゃないか」 下女は答える代りに、突然清子を引合に出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄です」 間取の関係から云って、清子の室は津田の後、二人づれの座敷は津田の前に当った。
両方の中間に自分を見出した彼はようやく首肯いた。
「するとちょうど真中辺だね、ここは」 真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」「ええ御懇意です」「元から?」「さあどうですか、そこはよく存じませんが、――おおかたここへいらしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終行ったり来たりしていらっしゃいます、両方ともお閑なもんですから。昨日も公園へいっしょにお出かけでした」 津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんはなぜ一人でいるんだね」「少し身体がお悪いんです」「旦那さんは」「いらっしゃる時は旦那さまもごいっしょでしたが、すぐお帰りになりました」「置いてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来ないのかい」「何でも近いうちにまたいらっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」「退屈だろうね、奥さんは」「ちと話しに行って、お上げになったらいかがです」「話しに行ってもいいかね、後で聴いといてくれたまえ」「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。
津田はまた訊いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」「そうかい。本は?」「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣にわたるので、とうとうあははと笑い出した。
津田はようやく気がついて、少し狼狽たように話を外らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」「おやそうですか、じゃまたあの先生でしょう」 先生というのは書の専門家であった。
方々にかかっている額や看板でその落※を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」「ええお爺さんです。こんなに白い髯を生やして」 下女は胸のあたりへ自分の手をやって書家に相応わしい髯の長さを形容して見せた。
「なるほど。やっぱり字を書いてるのかい」「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」 書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざここへ来たのだと下女から聴かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」 この感想は全く下女に響かなかった。
しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。
彼は暗にこの老先生の用向と自分の用向とを見較べた。
無事に苦しんで義太夫の稽古をするという浜の二人をさらにその傍に並べて見た。
それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。
最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」「いっぱいになるとどうしても百三四十人は入りますからね」 津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極めなければならない季節に、この家へ入り込んでくる客の人数を挙げた。
百八十一
食後の津田は床の脇に置かれた小机の前に向った。
下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛を記した。
お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝だの、ルナ公園だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。
それからまた印気を走らせた。
今度はお秀の夫と京都にいる両親宛の分がまたたく間に出来上った。
こう書き出して見ると、ついでだからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。
最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一だの、