明暗

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その二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。階子段の構えから見ても、上にある室の数は一つや二つではないらしく思われるほど広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切しているので、彼はすぐその確的さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。

第 18 章
下したから見上げみあげた階子段はしごだんの上うえは、普通ふつう料理屋りょうりやの建築けんちくなどで、人ひとのしばしば目撃もくげきするところと何なんの異なることなるところもなかった。
そこには広いひろい板の間いたのまがあった。
目めの届かとどけかない幅はばは問題外もんだいがいとして、突き当りつきあたりを遮ぎるさえぎる壁かべを目標もくひょうに置いおいて、大凡おおよその見当けんとうをつけると、畳たたみ一いち枚ばいを竪たてに敷くしくだけの長さながさは充分じゅうぶんあるらしく見えみえた。
この板の間いたのまから、廊下ろうかが三さん方ほうへ分れわかれているか、あるいは二方にほうに折れ曲っおれまがっているか、そこは階段かいだんを上らのぼらない津田つだの想像そうぞうで判断はんだんするよりほかに途とはないとして、今いま聴えきこえた障子しょうじの音おとの出所しゅっしょは、一番いちばん階段かいだんに近いちかい室むろ、すなわち下したたから見えるみえる壁かべのすぐ後あとに違いなかった。
ひっそりした中なかに、突然とつぜんこの音おとを聞いきいた津田つだは、始めはじめて階上かいじょうにも客きゃくのいる事ことを悟っさとった。
というより、彼かれはようやく人間にんげんの存在そんざいに気きがついた。
今までいままでまるで方角ほうがく違いちがいの刺戟しげきに気きを奪らとられていた彼かれは驚ろいおどろいた。
もちろんその驚きおどろきは微弱びじゃくなものであった。
けれども性質せいしつからいうと、すでに死んしんだと思っおもったものが急きゅうに蘇っよみがえった時じに感ずるかんずる驚ろきおどろきと同じおなじであった。
彼かれはすぐ逃げ出そうにげでそうとした。
それは部屋へやへ帰れかえれずに迷児まいごついている今いまの自分じぶんに付着ふちゃくする間ま抜ぬけさ加減かげんを他ほかに見せるみせるのが厭いやだったからでもあるが、実じつを云ういうと、この驚ろきおどろきによって、多少たしょうなりとも度どを失なっうしなった己れおのれの醜くみにくくさを人前ひとまえに曝すさらすのが恥ずかしかっはずかしかったからでもある。
けれども自然しぜんの成行なりゆきはもう少しすこし複雑ふくざつであった。
いったん歩あゆみを回らそうまわらそうとした刹那せつなに彼かれは気きがついた。
「ことによると下女げじょかも知れしれない」 こう思い直しおもいなおした彼かれの度胸どきょうはたちまち回復かいふくした。
すでに驚ろきおどろきの上うえを超えるこえる事ことのできた彼かれの心こころには、続いつづいて、なに客きゃくでも構わかまわないという余裕よゆうが生れうまれた。
「誰だれでもいい、来きたら方角ほうがくを教えおしえて貰おうもらおう」 彼かれは決心けっしんして姿見すがたみの横よこに立ったったまま、階子段はしごだんの上うえを見つめみつめた。
すると静かしずかな足音あしおとが彼かれの予期よき通りとおり壁かべの後あとで聴えきこえ出しだした。
その足音あしおとは実際じっさい静かしずかであった。
踵かかとへ跳ね上るはねあがる上靴うわぐつの薄いうすい尾おがなかったなら、彼かれはついにそれを聴き逃しききのがしてしまわなければならないほど静かしずかであった。
その時じ彼かれの心こころを卒然そつぜんとして襲っおそって来きたものがあった。
「これは女おんなだ。しかし下女げじょではない。ことによると……」 不意ふいにこう感づいかんづいた彼かれの前まえに、もしやと思っおもったその本人ほんにんが容赦ようしゃなく現われあらわれた時じ、今しがたいましがた受けうけたより何十なんじゅう倍ばいか強烈きょうれつな驚ろきおどろきに囚われとらわれた津田つだの足あしはたちまち立ち竦んたちすくんだ。
眼めは動かうごかなかった。
同じおなじ作用さようが、それ以上いじょう強烈きょうれつに清子きよこをその場ばに抑えつけおさえつけたらしかった。
階上かいじょうの板の間いたのままで来きてそこでぴたりととまった時じの彼女かのじょは、津田つだにとって一種いっしゅの絵えであった。
彼かれは忘れるわすれる事ことのできない印象いんしょうの一いちつとして、それを後々のちのちまで自分じぶんの心こころに伝えつたえた。
彼女かのじょが何気なんげなく上うえから眼めを落しおとしたのと、そこに津田つだを認めみとめたのとは、同時どうじに似にて実じつは同時どうじでないように見えみえた。
少くすくなくとも津田つだにはそう思わおもわれた。
無心むしんが有心うしんに変るかわるまでにはある時じがかかった。
驚ろきおどろきの時じ、不可思議ふかしぎの時じ、疑いうたがいの時じ、それらを経過けいかした後あとで、彼女かのじょは始めはじめて棒ぼう立たてになった。
横よこから肩かたを突けつけば、指ゆび一いち本ほんの力ちからでも、土つちで作っつくった人形にんぎょうを倒すたおすよりたやすく倒せたおせそうな姿勢しせいで、硬くかたくなったまま棒ぼう立たてに立ったった。
彼女かのじょは普通ふつうの湯治とうじ客きゃくのする通りとおり、寝ねしなに一いち風呂ふろ入っはいって温まるあたたまるつもりと見えみえて、手てに小型こがたのタウエルたうえるを提げさげていた。
それから津田つだと同じおなじようにニッケルにっける製せいの石鹸せっけん入いりを裸はだかのまま持っもっていた。
棒ぼうのように硬くかたく立ったった彼女かのじょが、なぜそれを床ゆかの上うえへ落さおとさなかったかは、後あとからその刹那せつなの光景こうけいを辿るたどるたびに、いつでも彼かれの記憶きおく中なかに顔かおを出しだしたがる疑問ぎもんであった。
彼女かのじょの姿すがたは先刻せんこく風呂場ふろばで会っかいった婦人ふじんほど縦たてままではなかった。
けれどもこういう場所ばしょで、客きゃく同志どうしが互いたがいに黙認もくにんしあうだけの自由じゆうはすでに利用りようされていた。
彼女かのじょは正式せいしきに幅はばの広いひろい帯おびを結んむすんでいなかった。
赤あかだの青あおだの黄きだの、いろいろの縞しまが綺麗きれいに通っとおっている派手はでな伊達巻だてまきを、むしろずるずるに巻きつけまきつけたままであった。
寝巻ねまきの下したに重ねかさねた長襦袢ながじゅばんの色いろが、薄いうすい羅紗らしゃ製せいの上靴うわぐつを突かつかけた素足すあしの甲こうを被っかぶっていた。
清子きよこの身体しんたいが硬くかたくなると共ともに、顔かおの筋肉きんにくも硬くかたくなった。
そうして両方りょうほうの頬ほおと額がくの色いろが見る見るみるみるうちに蒼白くあおじろく変っかわって行っいった。
その変化へんかがありありと分っわかって来きた中頃なかごろで、自分じぶんを忘れわすれていた津田つだは気きがついた。
「どうかしなければいけない。どこまで蒼くあおくなるか分らわからない」 津田つだは思い切っおもいきって声こえをかけようとした。
するとその途端とたんに清子きよこの方ほうが動いうごいた。
くるりと後あとを向いむかいた彼女かのじょは止まらとまらなかった。
津田つだを階下かいかに残しのこしたまま、廊下ろうかを元もとへ引き返しひきかえしたと思うおもうと、今までいままで明らかあきらかに彼女かのじょを照らしてらしていた二に階かいの上り口あがりぐちの電灯でんとうがぱっと消えきえた。
津田つだは暗闇くらやみの中なかで開けるあけるらしい障子しょうじの音おとをまた聴いきいた。
同時どうじに彼かれの気きのつかなかった、自分じぶんの立ったっているすぐ傍そばの小さなちいさな部屋へやで呼鈴よびりんの返しかえしの音おとがけたたましく鳴っなった。
やがて遠いとおい廊下ろうかをぱたぱた馳はせけて来るくる足音あしおとが聴こえきこえた。
彼かれはその足音あしおとの主ぬしを途中とちゅうで喰いとめくいとめて、清子きよこの用ようを聴きききに行くいく下女げじょから自分じぶんの室むろの在所ざいしょを教えおしえて貰っもらった。
百七十七ひゃくななじゅうなな
その晩ばんの津田つだはよく眠れねむれなかった。
雨戸あまどの外そとでするさらさらいう音おとが絶えたえず彼かれの耳みみに付着ふちゃくした。
それを離れるはなれる事ことのできない彼かれは疑っうたがった。
雨あめが来きたのだろうか、谿たに川かわが軒のきの近くちかくを流れながれているのだろうか。
雨あめとしては庇ひさしに響ひびきがないし、谿たに川かわとしては勢いきおいが緩漫かんまん過ぎるすぎるとまで考えかんがえた彼かれの頭あたまは、同時どうじにそれより遥かはるか重大じゅうだいな主題しゅだいのために悩まさなやまされていた。
彼かれは室むろに帰るかえると、いつの間まにか気きを利かりかせた下女げじょの暖かあたたかそうに延べのべておいてくれた床ゆかを、わが座敷ざしきの真中まなかに見出しみだしたので、すぐその中なかへ潜り込んもぐりこんだまま、偶然ぐうぜんにも今いま自分じぶんが経過けいかして来きた冒険ぼうけんについて思い耽っおもいふけったのである。
彼かれはこの宵よいの自分じぶんを顧りみかえりみて、ほとんど夢中むちゅう歩行者ほこうしゃのような気きがした。
彼かれの行為こういは、目的もくてきもなく家いえ中なか彷徨きうろつき廻っまわったと一般いっぱんであった。
ことに階子段はしごだんの下したで、静中せいちゅうに渦うずを廻転かいてんさせる水みずを見みたり、突然とつぜん姿見すがたみに映るうつる気味きみの悪いわるい自分じぶんの顔かおに出会っであったりした時じは、事後じご一いち時間じかんと経たへたない近距離きんきょりから判断はんだんして見みても、たしかに常軌じょうきを逸しいっした心理しんり作用さようの支配しはいを受けうけていた。
常識じょうしきに見捨てみすてられた例れいの少ないすくない彼かれとしては珍らしいめずらしいこの気分きぶんは、今いま床ゆかの中なかに安臥あんがする彼かれから見れみれば、恥ずはずべき状態じょうたいに違いなかった。
しかし外聞がいぶんが悪いわるいという事ことをほかにして、なぜあんな心持こころもちになったものだろうかと、ただその原因げんいんを考えるかんがえるだけでも、説明せつめいはできなかった。
それはそれとして、なぜあの時じ清子きよこの存在そんざいを忘れわすれていたのだろうという疑問ぎもんに推し移るおしうつると、津田つだは我われながら不思議ふしぎの感かんに打たうたれざるを得とくなかった。
「それほど自分じぶんは彼女かのじょに対したいして冷淡れいたんなのだろうか」 彼かれは無論むろんそうでないと信じしんじていた。
彼かれは食事しょくじの時じ、すでに清子きよこのいる方角ほうがくを、下女げじょから教えおしえて貰っもらったくらいであった。
「しかしお前おまえはそれを念頭ねんとうに置かおかなかったろう」 彼かれは実際じっさい廊下ろうかをうろうろ歩行いあるいているうちに、清子きよこをどこかへふり落しふりおとした。
けれども自分じぶんのどこを歩いあるいているか知らしらないものが、他ほかがどこにいるか知ろうしろうはずはなかった。
「この見当けんとうだと心得こころえてさえいたならば、ああ不意ふい打だを食うくうんじゃなかったのに」 こう考えかんがえた彼かれは、もう第だい一いちの機会きかいを取り逃しとりにがしたような気きがした。
彼女かのじょが後あとを向いむかいた様子ようす、電気でんきを消しけして上り口あがりぐちの案内あんないを閉塞へいそくした所作しょさ、たちまち下女げじょを呼び寄せるよびよせるために鳴らしならした電鈴でんれいの音おと、これらのものを綜合そうごうして考えるかんがえると、すべてが警戒けいかいであった。
注意ちゅういであった。
そうして絶縁ぜつえんであった。
しかし彼女かのじょは驚ろいおどろいていた。
彼かれよりも遥かはるか余計よけいに驚ろいおどろいていた。
それは単にたんに女おんなだからとも云えいえた。
彼かれには不意ふいの裡りに予期よきがあり、彼女かのじょには突然とつぜんの中なかにただ突然とつぜんがあるだけであったからとも云えいえた。
けれども彼女かのじょの驚ろきおどろきはそれで説明せつめいし尽せつくせているだろうか。
彼女かのじょはもっと複雑ふくざつな過去かこを覿面てきめんに感じかんじてはいないだろうか。
彼女かのじょは蒼くあおくなった。
彼女かのじょは硬くかたくなった。
津田つだはそこに望みのぞみを繋いつないだ。
今いまの自分じぶんに都合つごうの好いよいようにそれを解釈かいしゃくしてみた。
それからまたその解釈かいしゃくを引繰返しひっくりかえして、反対はんたいの側がわからも眺めながめてみた。
両方りょうほうを眺めながめ尽しつくした次つぎにはどっちが合理的ごうりてきだろうという批判ひはんをしなければならなくなった。
その批判ひはんは材料ざいりょう不足ふそくのために、容易よういに纏まらまとまらなかった。
纏っまとってもすぐ打ち崩さうちくずされた。
一方いっぽうに傾くかたむくと彼かれの自信じしんが壊しこわしに来きた。
他方たほうに寄るよると幻滅げんめつの半鐘はんしょうが耳元みみもとに鳴り響いなりひびいた。
不思議ふしぎにも彼かれの自信じしん、卑下ひげして用いるもちいる彼かれ自身じしんの言葉ことばでいうと彼かれの己おのれ惚ぼけは、胸むねの中なかにあるような気きがした。
それを攻めせめに来るくる幻滅げんめつの半鐘はんしょうはまた反対はんたいにいつでも頭あたまの外そとから来るくるような心持こころもちがした。
両方りょうほうを公平こうへいに取扱とりあつかいかっているつもりでいながら、彼かれは常つねに親疎しんその区別くべつをその間まに置いおいていた。
というよりも、遠近えんきんの差さ等とうが自然しぜん天然てんねん属性ぞくせいとして二につのものに元もとから具わっそなわっているらしく見えみえた。
結果けっかは分明ふんみょうであった。
彼かれは叱りしかりながら己おのれ惚ぼけの頭あたまを撫でなでた。
耳みみを傾けかたむけながら、半鐘はんしょうの音おとを忌んいんだ。
かくして互いたがいに追つおつ追わおわれつしている彼かれの心こころに、静かしずかな眠ねむりは来ようこようとしても来きられなかった。
万事ばんじを明日あすに譲るゆずる覚悟かくごをきめた彼かれは、幾度いくどかそれを招き寄せようまねきよせようとして失敗っしっぱいったあげく、右みぎを向いむかいたり、左ひだりを下したにしたり、ただ寝返りねがえりの数すうを重ねるかさねるだけであった。
彼かれは煙草たばこへ火ひを点けようつけようとして枕元まくらもとにある燐寸まっちを取っとった。
その時じ袖畳みそでだたみにして下女げじょが衣桁いこうへかけて行っいった※袍ほうが眼めに入っはいった。
気きがついて見るみると、お延のべの鞄かばんへ入れいれてくれたのはそのままにして、先刻せんこく宿やどで出しだしたのを着きたなり、自分じぶんは床ゆかの中なかへ入っはいっていた。
彼かれは病院びょういんを出るでる時じ、新調しんちょうの※袍ほうに対したいしてお延のべに使っつかったお世辞おせじをたちまち思い出しおもいだした。
同時どうじにお延のべの返事へんじも記憶きおくの舞台ぶたいに呼び起さよびおこされた。
「どっちが好いよいか比べくらべて御覧ごらんなさい」 ※袍ほうははたして宿やどの方ほうが上等じょうとうであった。
銘仙めいせんと糸織いとおりの区別くべつは彼かれの眼めにも一目いちもく瞭然りょうぜんであった。
※袍ほうを見較べるみくらべると共ともに、細君さいくんを前まえに置いおいて、内々ないない心こころの中なかで考えかんがえた当時とうじの事ことが再びふたたび意識いしきの域いき上うえに現われあらわれた。
「お延のべと清子きよこ」 独りひとりこう云っいった彼かれはたちまち吸殻すいがらを灰吹はいふきの中なかへ打ち込んうちこんで、その底そこから出るでるじいという音おとを聴いきいたなり、すぐ夜具やぐを頭あたまから被っかぶった。
強いてしいて寝ようねようとする決心けっしんと努力どりょくは、その決心けっしんと努力どりょくが疲れつかれ果てはててどこかへ行っいってしまった時じに始めはじめて酬いむくいられた。
彼かれはとうとう我われ知らしらず夢ゆめの中なかに落ち込んおちこんだ。
百七十八ひゃくななじゅうはち
朝あさ早くはやく男おとこが来きて雨戸あまどを引くひく音おとのために、いったん破りやぶりかけられたその夢ゆめは、半はん醒せい半睡はんすいの間まに、辛うじてかろうじて持続じぞくした。
室むろの四角しかくが寝ねていられないほど明るくあかるくなって、外部がいぶに朝日あさひの影かげが充ちみち渡るわたると思うおもう頃ころ、始めはじめて起き上っおきあがった津田つだの瞼まぶたはまだ重かっおもかった。
彼かれは楊枝ようじを使いつかいながら障子しょうじを開けあけた。
そうして昨夜さくや来きの魔境まきょうから今いまようやく覚醒かくせいした人ひとのような眼めを放っはなって、そこいらを見渡しみわたした。
彼かれの室むろの前まえにある庭にわは案外あんがいにも山里やまざとらしくなかった。
不規則ふきそくな池いけを人工的じんこうてきに拵えこしらえて、その周囲しゅういに稚いいとけない松まつだの躑躅つつじだのを普通ふつうの約束やくそく通りとおり配置はいちした景色けしきは平凡へいぼんというよりむしろ卑俗ひぞくであった。
彼かれの室むろに近いちかい築山つきやまの間まから、谿たに水みずを導いみちびいて小さなちいさな滝たきを池いけの中なかへ落しおとしている上うえに、高くたかくはないけれども、一度いちどに五六ごろく筋すじの柱はしらを花火はなびのように吹き上げるふきあげる噴水ふんすいまで添えそえてあった。
昨夜さくや彼かれの睡眠すいみんを悩ましなやました細工さいくの源みなもとを、苦笑くしょうしながら明らさまあからさまに見みた時じ、彼かれの聯想れんそうはすぐこの水音みずおと以上いじょうに何なん倍ばいか彼かれを苦しめくるしめた清子きよこの方ほうへ推し移っおしうつった。
大根だいこんを洗えあらえばそれもこの噴水ふんすい同様どうように殺風景さっぷうけいなものかも知れしれない、いやもしそれがこの噴水ふんすい同様どうように無意味むいみなものであったらたまらないと彼かれは考えかんがえた。
彼かれが銜えくわえ楊枝ようじのまま懐手ふところでをして敷居しきいの上うえにぼんやり立ったっていると、先刻せんこくから高箒たかぼうきで庭にわの落葉らくようを掃いはいていた男おとこが、彼かれの傍そばへ寄っよって来きて丁寧ていねいに挨拶あいさつをした。
「お早うおはよう、昨夜さくやはお疲れさまおつかれさまで」「君きみだったかね、昨夕さくゆう馬車ばしゃへ乗っのってここまでいっしょに来きてくれたのは」「へえ、お邪魔おじゃま様ようで」「なるほど君きみの云っいった通りとおり閑静かんせいだね。そうしてむやみに広いひろい家いえだね」「いえ、御覧ごらんの通りとおり平地へいちの乏しいとぼしい所ところでげすから、地ならしじならしをしてはその上うえへ建てたて建てたてして、家いえが幾いく段だんにもなっておりますので、――廊下ろうかだけは仰せおおせの通りとおりむやみに広くひろくって長いながいかも知れしれません」「道理どうりで。昨夕さくゆう僕ぼくは風呂場ふろばへ行っいった帰りかえりに迷児まいごになって弱っよわったよ」「はあ、そりゃ」 二人ふたりがこんな会話かいわを取りとり換かえわせている間まに、庭にわ続つづくの小山こやまの上うえから男おとこと女おんながこれも二人ふたりづれで下りくだりて来きた。
黄葉こうようと枯枝かれえだの隙間すきまを動いうごいてくる彼かれらの路みちは、稲妻形いなずまがたに林はやしの裡りを抜けぬけられるように、また比較的ひかくてき急きゅうな勾配こうばいを楽らくに上らのぼられるように、作っつくってあるので、ついそこに見えみえている彼かれらの姿すがたもなかなか庭先にわさきまで出るでるのに暇ひまがかかった。
それでも手代てだいはじっとして彼かれらを待っまっていなかった。
たちまち津田つだを放り出しほうりだした現金げんきんな彼かれは、すぐ岡おかの裾すそまで駈けかけ出しだして行っいって、下したから彼かれらを迎いむかいに来きたような挨拶あいさつを与えあたえた。
津田つだはこの時じ始めはじめて二人ふたりの顔かおをよく見みた。
女おんなは昨夕さくゆう艶めかしいなまめかしい姿すがたをして、彼かれの浴室よくしつの戸とを開けあけた人ひとに違いなかった。
風呂場ふろばで彼かれを驚ろかしおどろかした大きなおおきな髷まげをいつの間まにか崩しくずして、尋常じんじょうの束髪そくはつに結いゆい更さらえたので、彼かれはつい同じおなじ人ひとと気きがつかずにいた。
彼かれはさらに声こえを聴いきいただけで顔かおを知らしらなかった伴ともの男おとこの方ほうを、よそながらの初はつ対面たいめんといった風かぜに、女おんなと眺めながめ比べくらべた。
短かくみじかく刈り込んかりこんだ当世風とうせいふうの髭ひげを鼻はなの下したに生やしはやしたその男おとこは、なるほど風呂番ふろばんの云っいった通りとおり、どこかに商人しょうにんらしい面影おもかげを宿しやどしていた。
津田つだは彼かれの顔かおを見るみるや否いなや、すぐお秀おひでの夫おっとを憶い出しおもいだした。
堀ほり庄太郎しょうたろう、もう少しすこし略しりゃくして堀ほりの庄しょうさん、もっと詰めつめて当人とうにんのしばしば用いるもちいる堀ほり庄しょうという名前なまえが、いかにも妹婿いもうとむこの様子ようすを代表だいひょうしているごとく、この男おとこの名前なまえもきっとその髭ひげを虐殺ぎゃくさつするように町人ちょうにん染みしみていはしまいかと思わおもわれた。
瞥見べっけんのついでに纏めまとめられた津田つだの想像そうぞうはここにとどまらなかった。
彼かれはもう一いち歩あゆみ皮肉ひにくなところまで切り込んきりこんで、彼かれらがはたして本当ほんとうの夫婦ふうふであるかないかをさえ疑問ぎもんの中なかに置いおいた。
したがって早起はやきをして食前しょくぜん浴よく後あとの散歩さんぽに出でたのだと明言めいげんする彼かれらは、津田つだにとっての違例いれいな現象げんしょうにほかならなかった。
彼かれは楊枝ようじで歯はを磨りすりながらまだ元もとの所ところに立ったっていた。
彼かれがよそ見よそみをしているにもかかわらず、番頭ばんとうを相手あいてに二人ふたりのする談話だんわはよく聴えきこえた。
女おんなは番頭ばんとうに訊いきいた。
「今日きょうは別館べっかんの奥さんおくさんはどうかなすって」 番頭ばんとうは答えこたえた。
「いえ、手前てまえはちっとも存じぞんじませんが、何なんか――」「別べつに何なんって事こともないんですけれどもね、いつでも朝あさ風呂場ふろばでお目めにかかるのに、今日きょうはいらっしゃらなかったから」「はあさようで――、ことによるとまだお休みやすみかも知れしれません」「そうかも知れしれないわね。だけどいつでも両方りょうほうの時間じかんがちゃんときまってるのよ、朝あさお風呂ふろに行くいく時じの」「へえ、なるほど」「それに今朝けさごいっしょに裏うらの山やまへ散歩さんぽに参りまいりましょうってお約束やくそくをしたもんですからね」「じゃちょっと伺っうかがって参りまいりましょう」「いいえ、もういいのよ。散歩さんぽはこの通りとおり済んすんじまったんだから。ただもしやどこかお加減かげんでも悪いわるいのじゃないかしらと思っおもって、ちょっと番頭ばんとうさんに訊いきいてみただけよ」「多分たぶんただのお休みやすみだろうと思いおもいますが、それとも――」「それともなんて、そう真面目くさらまじめくさらなくってもいいのよ。ただ訊いきいてみただけなんだから」 二人ふたりはそれぎり行きいき過ぎすぎた。
津田つだは歯磨はみがき粉こなで口くち中なかをいっぱいにしながら、また昨夜さくやの風呂場ふろばを探しさがしに廊下ろうかへ出でた。
百七十九ひゃくななじゅうきゅう
しかし探すさがすなどという大袈裟おおげさな言葉ことばは、今朝けさの彼かれにとって全くまったく無用むようであった。
路みちに曲折きょくせつの難なんはあったにせよ、一足いっそくの無駄むだも踏まふまずに、自然しぜん昨夜さくやの風呂場ふろばへ下りくだりられた時じ、彼かれの腹はらには、夜来やらいの自分じぶんを我われながら馬鹿馬鹿しいばかばかしいと思うおもう心こころがさらに新らしくあたらしく湧いわいて出でた。
風呂場ふろばには軒下のきしたに篏めはめた高いたかい硝子戸がらすとを通しとおして、秋あきの朝日あさひがかんかん差し込んさしこんでいた。
その硝子がらす戸越とごしに岩いわだか土堤どていだかの片影へんえいを、近くちかく頭あたまの上うえに見上げみあげた彼かれは、全身ぜんしんを温泉おんせんに浸けつけながら、いかに浴槽よくそうの位置いちが、大地だいちの平面へいめん以下いかに切り下げきりさげられているかを発見はっけんした。
そうしてこの崖がけと自分じぶんのいる場所ばしょとの間まには、高さたかさから云っいってずいぶんの相違そういがあると思っおもった。
彼かれは目分めぶん量りょうでその距離きょりを一いち間ま半はん乃至ないし二に間まと鑑定かんていした後あとで、もしこの下したにも古いふるい風呂場ふろばがあるとすれば、段々だんだんが一いちつ家いえの中なかに幾いく層そうもあるはずだという事ことに気きがついた。
崖がけの上うえには石蕗つわぶきがあった。
あいにくそこに朝日あさひが射ししゃしていないので、時々ときどき風かぜに揺れるゆれる硬くかたく光っひかりった葉はの色いろが、いかにも寒かんそうに見えみえた。
山茶花さざんかの花はなの散っちって行くいく様ようも湯壺ゆつぼから眺めながめられた。
けれども景色けしきは断片的だんぺんてきであった。
硝子戸がらすとの長さながさの許すゆるす二に尺さし以外いがいは、上下じょうげとも全くまったく津田つだの眼めに映らうつらなかった。
不可知ふかちな世界せかいは無論むろん平凡へいぼんに違いなかった。
けれどもそれがなぜだか彼かれの好奇心こうきしんを唆っそそった。
すぐ崖がけの傍そばへ来きて急きゅうに鳴きなき出しだしたらしい鵯ひよどりも、声こえが聴えるきこえるだけで姿すがたの見えみえないのが物もの足りたりなかった。
しかしそれはほんのつけたりの物もの足りたりなさであった。
実じつを云ういうと、津田つだは腹はらのうちで遥かはるかそれ以上いじょう気きにかかる事件じけんを捏ね返しこねかえしていたので、彼かれは風呂場ふろばへ下りくだりた時じからすでにある不足ふそくを暗々あんのうちに感じかんじなければならなかった。
明るいあかるい浴室よくしつに人影ひとかげ一いちつ見出さみだしさなかった彼かれは、万事ばんじ君きみの跋扈ばっこに任せるまかせるといった風かぜに寂寞じゃくまくを極めきわめた建物たてものの中なかに立ったって、廊下ろうかの左右さゆうに並んならんでいる小さいちいさい浴槽よくそうの戸とを、念ねんのため一々いちいち開けあけて見みた。
もっともこれはそのうちの一いちつの入口いりぐちに、スリッパーすりっぱーが脱ぎ棄てぬぎすててあったのが、彼かれに或ある暗示あんじを与えあたえたので、それが機縁きえんになって、彼かれを動かしうごかした所作しょさに過ぎすぎないとも云えいえば云えいえない事こともなかった。
だから順々じゅんじゅんに戸とを開けあけた手ての番ばんが廻っまわって来きて、いよいよスリッパーすりっぱーの前まえに閉へいて切らきられた戸とにかかった時じ、彼かれは急きゅうに躊躇ちゅうちょした。
彼かれは固よりもとより無心むしんではなかった。
その上うえ失礼しつれいという感じかんじがどこかで手伝ってつだった。
仕方なししかたなしに外部がいぶから耳みみを峙てそばだてたけれども、中なかは森もりとしているので、それに勢いきおいを得とくた彼かれの手ては、思い切っおもいきってがらりと戸とを開けるあける事ことができた。
そうしてほかと同じおなじように空虚くうきょな浴室よくしつが彼かれの前まえに見出さみだしされた時じに、まあよかったという感じかんじと、何なんだつまらないという失望しつぼうが一度いちどに彼かれの胸むねに起っおこった。
すでに裸はだかになって、湯壺ゆつぼの中なかに浸っひたった後あとの彼かれには、この引続きひきつづきから来るくる一種いっしゅの予期よきが絶えたえず働はたらけらいた。
彼かれは苦笑くしょうしながら、昨夕さくゆうと今朝けさの間まに自分じぶんの経過けいかした変化へんかを比較ひかくした。
昨夕さくゆうの彼かれは丸髷まるまげの女おんなに驚ろかさおどろかされるまではむしろ無邪気むじゃきであった。
今朝けさの彼かれはまだ誰だれも来きないうちから一種いっしゅの待ち設けまちもうけのために緊張きんちょうを感じかんじていた。
それは主ぬしのないスリッパーすりっぱーに唆のかされた罪つみかも知れしれなかった。
けれどもスリッパーすりっぱーがなぜ彼かれを唆のかしたかというと、寝ね起きに横浜よこはまの女おんなと番頭ばんとうの噂うわささに上っのぼった清子きよこの消息しょうそくを聴かさきかされたからであった。
彼女かのじょはまだ起きおきていなかった。
少くすくなくともまだ湯ゆに入っはいっていなかった。
もし入るはいるとすれば今いま入っはいっているか、これから入りいりに来るくるかどっちかでなければならなかった。
鋭敏えいびんな彼かれの耳みみは、ふと誰だれか階段かいだんを下りくだりて来るくるような足音あしおとを聴いきいた。
彼かれはすぐじゃぶじゃぶやる手てを止めとめた。
すると足音あしおとは聴えきこえなくなった。
しかし気きのせいかいったんとまったその足音あしおとが今度こんどは逆ぎゃくに階段かいだんを上っのぼって行くいくように思わおもわれた。
彼かれはその源みなもと因いんを想像そうぞうした。
他ほかの例れいにならって、自分じぶんのスリッパーすりっぱーを戸との前まえに脱ぎ捨てぬぎすてておいたのが悪くわるくはなかったろうかと考えかんがえた。
なぜそれを浴室よくしつの中なかまで穿きはき込まこまなかったのだろうかという後悔こうかいさえ萌しきざした。
しばらくして彼かれはまた意外いがいな足音あしおとを今度こんどは浴槽よくそうの外側そとがわに聞いきいた。
それは彼かれが石蕗つわぶきの花はなを眺めながめた後あと、鵯ひよどり鳥とりの声こえを聴いきいた前まえであった。
彼かれの想像そうぞうはすぐ前後ぜんごの足音あしおとを結びつけむすびつけた。
風呂場ふろばを避けさけた前まえの足音あしおとの主ぬしが、わざと外そとへ出でたのだという解釈かいしゃくが容易よういに彼かれに与えあたえられた。
するとたちまち女おんなの声こえがした。
しかしそれは足音あしおとと全くまったく別べつな方角ほうがくから来きた。
下したから見上げみあげた外部がいぶの様子ようすによって考えるかんがえると、崖がけの上うえは幾いく坪つぼかの平地へいちで、その平地へいちを前まえに控えひかえた一いち棟むねの建物たてものが、風呂場ふろばの方ほうを向いむかいて建てたてられているらしく思わおもわれた。
何しろなにしろ声こえはそっちの見当けんとうから来きた。
そうしてその主ぬしは、たしかに先刻せんこく散歩さんぽの帰りかえりに番頭ばんとうと清子きよこの話はなしをした女おんなであった。
昨夕さくゆう湯気ゆげを抜くぬくために隙すきかされた庇ひさしの下したの硝子戸がらすとが今日きょうは閉へいて切らきられているので、彼女かのじょの言葉ことばは明かあきらかに津田つだの耳みみに入らはいらなかった。
けれども語勢ごせいその他ほかから推しおして、一事いちじはたしかであった。
彼女かのじょは崖がけの上うえから崖がけの下したへ向けむけて話しかけはなしかけていた。
だから順序じゅんじょを云えいえば、崖がけの下したからも是非ぜひ受け応えうけこたえの挨拶あいさつが出でなければならないはずであった。
ところが意外いがいにもその方ほうはまるで音おと沙汰さたなしで、互い違いたがいちがいに起るおこる普通ふつうの会話かいわはけっして聴かきかれなかった。
しゃべる方ほうはただ崖がけの上うえに限らかぎられていた。
その代りかわり足音あしおとだけは先刻せんこくのようにとまらなかった。
疑いうたがいもなく一人ひとりの女おんなが庭下駄にわげたで不規則ふきそくな石段いしだんを踏んふんで崖がけを上っのぼって行っいった。
それが上りのぼり切っきったと思うおもう頃ころに、足あしを運ぶはこぶ女おんなの裾すそが硝子戸がらすとの上部じょうぶの方ほうに少しすこし現われあらわれた。
そうしてすぐ消えきえた。
津田つだの眼めに残っのこった瞬間しゅんかんの印象いんしょうは、ただうつくしい模様もようの翻こぼしがえる様ようであった。
彼かれは動きうごき去っさったその模様もようのうちに、昨夕さくゆう階段かいだんの下したから見みたと同じおなじ色いろを認めみとめたような気きがした。
百八十ひゃくはちじゅう
室むろに帰っかえって朝食ちょうしょくの膳ぜんに着いついた時じ、彼かれは給仕きゅうじの下女げじょと話しはなした。
「浜はまのお客さんおきゃくさんのいる所ところは、新らしいあたらしい風呂場ふろばから見えるみえる崖がけの上うえだろう」「ええ。あちらへ行っいって御覧ごらんになりましたか」「いいや、おおかたそうだろうと思っおもっただけさ」「よく当りあたりましたね。ちとお遊びあそびにいらっしゃいまし、旦那だんなも奥さんおくさんも面白いおもしろい方ほうです。退屈たいくつだ退屈たいくつだって毎日まいにち困っこまってらっしゃるんです」「よっぽど長くながくいるのかい」「ええもう十じゅう日ひばかりになるでしょう」「あれだね、義太夫ぎだゆうをやるってえのは」「ええ、よく御存じごぞんじですね、もうお聴きききになりましたか」「まだだよ。ただ勝かちさんに教わっおそわっただけだ」 彼かれが聴くきくがままに、二人ふたりについての知識ちしきを惜おし気きもなく供給きょうきゅうした下女げじょは、それでも分ぶんも心得こころえていた。
急所きゅうしょへ来るくるとわざと津田つだの問もんを外しはずした。
「時じにあの女おんなの人ひとはいったい何なんだね」「奥さんおくさんですよ」「本当ほんとうの奥さんおくさんかね」「ええ、本当ほんとうの奥さんおくさんでしょう」と云っいった彼女かのじょは笑いわらい出しだした。
「まさか嘘うその奥おくさんてのもないでしょう、なぜですか」「なぜって、素人しろうとにしちゃあんまり粋いき過ぎるすぎるじゃないか」 下女げじょは答えるこたえる代りかわりに、突然とつぜん清子きよこを引合ひきあいに出しだした。
「もう一人ひとり奥おくにいらっしゃる奥さんおくさんの方ほうがお人柄ひとがらです」 間取まどりの関係かんけいから云っいって、清子きよこの室むろは津田つだの後あと、二人ふたりづれの座敷ざしきは津田つだの前まえに当っあたった。
両方りょうほうの中間ちゅうかんに自分じぶんを見出しみだした彼かれはようやく首肯いうなずいた。
「するとちょうど真中まなか辺へんだね、ここは」 真中まなかでも室むろが少しすこし折れ込んおれこんでいるので、両方りょうほうの通路つうろにはなっていなかった。
「その奥さんおくさんとあの二人ふたりのお客おきゃくとは友達ともだちなのかい」「ええ御ご懇意こんいです」「元もとから?」「さあどうですか、そこはよく存じぞんじませんが、――おおかたここへいらしってからお知合しりあいにおなんなすったんでしょう。始終しじゅう行っいったり来きたりしていらっしゃいます、両方りょうほうともお閑かんなもんですから。昨日きのうも公園こうえんへいっしょにお出かけおでかけでした」 津田つだは問題もんだいを取り逃がさとりにがさないようにした。
「その奥さんおくさんはなぜ一人ひとりでいるんだね」「少しすこし身体しんたいがお悪いわるいんです」「旦那だんなさんは」「いらっしゃる時じは旦那だんなさまもごいっしょでしたが、すぐお帰りかえりになりました」「置いてきぼりおいてきぼりか、そりゃひどいな。それっきり来きないのかい」「何なんでも近いちかいうちにまたいらっしゃるとかいう事ことでしたが、どうなりましたか」「退屈たいくつだろうね、奥さんおくさんは」「ちと話しはなしに行っいって、お上げあげになったらいかがです」「話しはなしに行っいってもいいかね、後あとで聴いきいといてくれたまえ」「へえ」と答えこたえた下女げじょはにやにや笑うわらうだけで本気ほんきにしなかった。
津田つだはまた訊いきいた。
「何なんをして暮しくらしているのかね、その奥さんおくさんは」「まあお湯ゆに入っはいったり、散歩さんぽをしたり、義太夫ぎだゆうを聴かさきかされたり、――時々ときどきは花はななんかお活けいけになります、それから夜よるよく手習てならいをしていらっしゃいます」「そうかい。本ほんは?」「本ほんもお読みよみになるでしょう」と中途半端ちゅうとはんぱに答えこたえた彼女かのじょは、津田つだの質問しつもんがあまり煩瑣はんさにわたるので、とうとうあははと笑いわらい出しだした。
津田つだはようやく気きがついて、少しすこし狼狽ろうばいたように話はなしを外らせそらせた。
「今朝けさ風呂場ふろばへスリッパーすりっぱーを忘れわすれていったものがあるね、塞がっふさがってるのかと思っおもってはじめは遠慮えんりょしていたが、開けあけて見みたら誰だれもいなかったよ」「おやそうですか、じゃまたあの先生せんせいでしょう」 先生せんせいというのは書しょの専門家せんもんかであった。
方々かたがたにかかっている額がくや看板かんばんでその落おち※を覚えおぼえていた津田つだは「へええ」と云っいった。
「もう年寄としよりだろうね」「ええお爺じいさんです。こんなに白いしろい髯ひげを生やしはやして」 下女げじょは胸むねのあたりへ自分じぶんの手てをやって書家しょかに相応わしいふさわしい髯ひげの長さながさを形容けいようして見せみせた。
「なるほど。やっぱり字じを書いかいてるのかい」「ええ何なんだかお墓はかに彫りつけるほりつけるんだって、大変たいへん大きなおおきなものを毎日まいにち少しすこしずつ書いかいていらっしゃいます」 書家しょかはその墓はか碑銘ひめいを書くかくのが目的もくてきで、わざわざここへ来きたのだと下女げじょから聴かさきかされた時じ、津田つだは驚ろいおどろいて感心かんしんした。
「あんなものを書くかくのにも、そんなに骨ほねが折れるおれるのかなあ。素人しろうとは半日はんじつぐらいで、すぐ出来上りできあがりそうに考えかんがえてるんだが」 この感想かんそうは全くまったく下女げじょに響かひびきかなかった。
しかし津田つだの胸むねには口くちへ出しだして云わいわないそれ以上いじょうの或ある物ものさえあった。
彼かれは暗にあんにこの老おい先生せんせいの用よう向むかいと自分じぶんの用よう向むかいとを見較べみくらべた。
無事ぶじに苦しんくるしんで義太夫ぎだゆうの稽古けいこをするという浜はまの二人ふたりをさらにその傍そばに並べならべて見みた。
それから何なんの意味いみとも知れしれず花はなを活けいけたり手習てならいをしたりするらしい清子きよこも同列どうれつに置いおいて考えかんがえた。
最後さいごに、残るのこる一人ひとりの客きゃく、その客きゃくは話はなしもしなければ運動うんどうもせず、ただぽかんと座敷ざしきに坐っすわって山やまを眺めながめているという下女げじょの観察かんさつを聴いきいた時じ、彼かれは云っいった。
「いろんな人ひとがいるんだね。五六ごろく人ひと寄っよってさえこうなんだから。夏なつや正月しょうがつになったら大変たいへんだろう」「いっぱいになるとどうしても百三四ひゃくさんよん十人じゅうにんは入りいりますからね」 津田つだの意味いみをよく了解りょうかいしなかったらしい下女げじょは、ただ自分じぶん達とおるの最ももっとも多忙たぼうを極めきわめなければならない季節きせつに、この家いえへ入り込んはいりこんでくる客きゃくの人数にんずうを挙げあげた。
百八十一ひゃくはちじゅういち
食後しょくごの津田つだは床ゆかの脇わきに置かおかれた小机こづくえの前まえに向っむかった。
下女げじょに頼んたのんで取り寄せとりよせた絵え端書はしがきへ一口ひとくちずつ文句もんくを書き足しかきたして、その表ひょうへ名宛なあてを記ししるした。
お延のべへ一いち枚ばい、藤井ふじいの叔父おじへ一いち枚ばい、吉川よしかわ夫人ふじんへ一いち枚ばい、それで必要ひつような分ぶんは済んすんでしまったのに、下女げじょの持っもって来きた絵え端書はしがきはまだ幾いく枚ばいも余っよっていた。
彼かれは漫然まんぜんと万年筆まんねんひつを手てにしたまま、不動ふどうの滝たきだの、ルナるな公園こうえんだのと、山里やまざとに似合わにあわない変へんな題だいを付けつけた地方ちほう的まとの景色けしきをぼんやり眺めながめた。
それからまた印しるし気きを走らはしらせた。
今度こんどはお秀おひでの夫おっとと京都きょうとにいる両親りょうしん宛ずつの分ぶんがまたたく間まに出来上っできあがった。
こう書き出しかきだして見るみると、ついでだからという気きも手伝ってつだって、ありたけの絵え端書はしがきをみんな使っつかってしまわないと義理ぎりが悪いわるいようにも思わおもわれた。
最初さいしょは考えかんがえていなかった岡本おかもとだの、岡本おかもとの子供こどもの一いちだの、
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