その一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
第 7 章
「そうでないよ、なかなか」「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」 お秀はやっぱり信じられないという顔つきをした。
「だって燐寸一本だって、大きな家を焼こうと思えば、焼く事もできるじゃないか」「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸を抱え込んでいたって。嫂さんはあんな人に火をつけられるような女じゃありませんよ。それとも……」
九十九
津田はお秀の口から出た下半句を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。
よそを向いたまま、じっとその後を待っていた。
しかし彼の聞こうとするその後はついに出て来なかった。
お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんはまた今日に限って、そんなつまらない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」 津田はやはり元の所へ眼をつけていた。
それはなるべく妹に自分の心を気取られないためであった。
眼の色を彼女に読まれないためであった。
そうして現にその不自然な所作から来る影響を受けていた。
彼は何となく臆病な感じがした。
彼はようやくお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」「ただ気になるの」 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑かされるようなものであった。
彼はすぐ口を閉じた。
同時に先刻から催おしていた収縮感がまた彼の局部に起った。
彼は二三度それを不愉快に経験した後で、あるいは今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念に制せられた。
そんな事に気のつかないお秀は、なぜだか同じ問題をいつまでも放さなかった。
彼女はいったん緒口を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんはいったい嫂さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」「なぜ改まって今頃そんな質問をかけるんだい。馬鹿らしい」「そんならいいわ、伺わないでも」「しかしなぜ訊くんだよ。その訳を話したらいいじゃないか」「ちょっと必要があったから伺ったんです」「だからその必要をお云いな」「必要は兄さんのためよ」 津田は変な顔をした。
お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんがあんまり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃいったい小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ちかけるって云うの」「持ちかけるとも何とも云っていやしないじゃないか」「持ちかける恐れがあるという意味です。云い直せば」 津田は答えなかった。
お秀は穴の開くようにその顔を見た。
「まるで想像がつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにしたところで、何も云いようがないでしょう。ちょっと考えて見ても」 津田はまだ答えなかった。
お秀はどうしても津田の答えるところまで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにしたところで、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」「そりゃ聴かないでも解ってるよ」「だからあたしが伺うんです。兄さんはいったい嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」 お秀は急に畳みかけて来た。
津田にはその意味がよく解らなかった。
しかしそこに相手の拍子を抜く必要があったので、彼は判然した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕だね。まるで詰問でも受けているようじゃないか」「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」「云えばどうするというんだい」「私はあなたの妹です」「それがどうしたというのかね」「兄さんは淡泊でないから駄目よ」 津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」「ただそれだけなの」「うんそれだけだ」 お秀は急に的の外れたような様子をした。
けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」「ええ断言します」「結構だよ。――それで?」「あたしの方もそれだけよ」 二人は黙らなければならなかった。
百
しかし二人はもう因果づけられていた。
どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知ができなかった。
ことに津田には目前の必要があった。
当座に逼る金の工面、彼は今その財源を自分の前に控えていた。
そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。
勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。
彼は失なわれた話頭を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」 時間がちょうどこんな愛嬌をいうに適していた。
ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味をもたせる便宜もあった。
「どうせ家へ帰ったって用はないんだろう」 お秀は津田のいう通りにした。
話は容易く二人の間に復活する事ができた。
しかしそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。
そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼らにとってちっとも腹の足にならなかった。
彼らはもっと相手の胸の中へ潜り込もうとして機会を待った。
「兄さん、あたしここに持っていますよ」「何を」「兄さんの入用のものを」「そうかい」 津田はほとんど取り合わなかった。
その冷淡さはまさに彼の自尊心に比例していた。
彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。
しかし金は取りたかった。
お秀はまた金はどうでもよかった。
しかし兄に頭を下げさせたかった。
勢い兄の欲しがる金を餌にして、自分の目的を達しなければならなかった。
結果はどうしても兄を焦らす事に帰着した。
「あげましょうか」「ふん」「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」「ことによると、くれないかも知れないね」「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目にかけようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」「そりゃ知ってるよ。先刻もうお前から聞いたじゃないか」「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」「僕を焦らすためにかい、または僕にくれるためにかい」 お秀は打たれた人のように突然黙った。
そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙をいっぱい溜めた。
津田にはそれが口惜涙としか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事ができないんでしょう」「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」 今度は呆れた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしがいつどんな風に変ったとおっしゃるの。云って下さい」「そんな事は他に訊かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」 津田はむしろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。
ここまで来ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得か、またはくしゃりと一度に押し潰した方が得かという利害心が働らいていた。
その中間を行こうと決心した彼は徐ろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、だいぶ変ったよ」「そりゃ変るはずですわ、女が嫁に行って子供が二人もできれば誰だって変るじゃありませんか」「だからそれでいいよ」「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったとおっしゃるんです。そこを聞かして下さい」「そりゃ……」 津田は全部を答えなかった。
けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。
お秀は少し間をおいた。
それからすぐ押し返した。
「兄さんのお腹の中には、あたしが京都へ告口をしたという事が始終あるんでしょう」「そんな事はどうでもいいよ」「いいえ、それできっとあたしを眼の敵にしていらっしゃるんです」「誰が」 不幸な言葉は二人の間に伏字のごとく潜在していたお延という名前に点火したようなものであった。
お秀はそれを松明のように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。嫂さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」
百一
津田から見たお秀は彼に対する僻見で武装されていた。
ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。
彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声がいかにも耳障りであった。
むしろ自己を満足させるための行為を、ことごとく細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は尠からぬ不快を感じた。
「おれはお前の考えてるような二本棒じゃないよ」「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話がかかって来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装って、うっちゃっておおきになるくらいですから」 こういう言葉が所嫌わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田はほとんど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。
彼は一二度腹の中で舌打をした。
「だからこいつに電話をかけるなと、あれだけお延に注意しておいたのに」 彼は神経の亢奮を紛らす人のように、しきりに短かい口髭を引張った。
しだいしだいに苦い顔をし始めた。
そうしてだんだん言葉少なになった。
津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。
お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸にされて行くので、しまいに彼は恥じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、なお猛烈に進んだ。
あたかももう一息で彼を全然自分の前に後悔させる事ができでもするような勢で。
「嫂さんといっしょになる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡泊でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体に事実を申します。だから兄さんも淡泊に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰いになる前、今度のような嘘をお父さんに吐いた覚がありますか」 この時津田は始めて弱った。
お秀の云う事は明らかな事実であった。
しかしその事実はけっしてお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。
津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」 お秀はそうだと答えたいところをわざと外した。
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたしちっとも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠にそれだけの事実を主張するんです」 津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥って来た。
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったでいいじゃないか」「よかないわ。お父さんやお母さんにすまないわ」 すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に「そんならそれでもいいよ」と付け足した。
お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔つきをした。
「兄さんの変った証拠はまだあるんです」 津田は素知らぬ風をした。
お秀は遠慮なくその証拠というのを挙げた。
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、嫂さんに何か云やしないかって、先刻から心配しているじゃありませんか」「煩さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」「でも気になる事はたしかなんでしょう」「どうでも勝手に解釈するがいい」「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」「馬鹿を云うな」「いいえ、証拠よ。たしかな証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」 津田はふと眼を転じた。
そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗き込むようにして見た。
それから好い恰好をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。
この余裕がお秀には全く突然であった。
もう一息で懺悔の深谷へ真ッ逆さまに突き落すつもりでいた彼女は、まだ兄の後に平坦な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。
しかし彼女は行けるところまで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限ってなぜそんなに怖がるんです。たかが小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」「そんならそれでいいさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」「だからあたしの口を出す幕じゃないとおっしゃるの」「まあその見当だろうね」 お秀は赫とした。
同時に一筋の稲妻が彼女の頭の中を走った。
百二
「解りました」 お秀は鋭どい声でこう云い放った。
しかし彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来さなかった。
彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」 お秀は津田の肩を揺ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。
津田は仕方なしにまた口を開いた。
「何が」「なぜ嫂さんに対して兄さんがそんなに気をおいていらっしゃるかという意味がです」 津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知していただけばたくさんなんです」「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独りで解ったと思っているがいい」「いいえよくないんです。兄さんは私を妹と見傚していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。しかし云わなくっても、眼はちゃんとついています。知らないで云わないと思っておいでだと間違いますから、ちょっとお断り致したのです」 津田は話をここいらで切り上げてしまうよりほかに道はないと考えた。
なまじいかかり合えばかかり合うほど、事は面倒になるだけだと思った。
しかし彼には妹に頭を下げる気がちっともなかった。
彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思いつけなかった。
そのくらいの事をあえてし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いのほか高慢であった。
そうしてその高慢なところを、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。
したがっていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。
お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温い表現を通して伝わるだけであった。
彼女はもうやりきれないと云った様子を先刻から見せている津田を毫も容赦しなかった。
そうしてまた「兄さん」と云い出した。
その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気がついた。
今までの彼女は彼を通して常に鋒先をお延に向けていた。
兄を攻撃するのも嘘ではなかったが、矢面に立つ彼をよそにしても、背後に控えている嫂だけは是非射とめなければならないというのが、彼女の真剣であった。
それがいつの間にか変って来た。
彼女は勝手に主客の位置を改めた。
そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにしたところで、もしそうした疑を妹が少しでももっているなら、綺麗にそれを晴らしてくれるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情をもっていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」 津田の癇癪は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。たかが女学校を卒業したぐらいで、そんな言葉をおれの前で人並に使うのからして不都合だ」「私は言葉に重きをおいていやしません。事実を問題にしているのです」「事実とは何だ。おれの頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕まえられると思うのか。馬鹿め」「そう私を軽蔑なさるなら、御注意までに申します。しかしよござんすか」「いいも悪いも答える必要はない。人の病気のところへ来て何だ、その態度は。それでも妹だというつもりか」「あなたが兄さんらしくないからです」「黙れ」「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」「妹より妻を大事にするのはどこの国へ行ったって当り前だ」「それだけならいいんです。しかし兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだほかにも大事にしている人があるんです」「何だ」「それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。しかもその怖がるのは――」 お秀がこう云いかけた時、病室の襖がすうと開いた。
そうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。
百三
彼女が医者の玄関へかかったのは