明暗

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その一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。

第 7 章
「そうでないよ、なかなか」「近頃ちかごろそんなに人ひとが悪くわるくなったの。あの人ひとが」 お秀おひではやっぱり信じしんじられないという顔つきかおつきをした。
「だって燐寸まっち一いち本ほんだって、大きなおおきな家いえを焼こうやこうと思えおもえば、焼くやく事こともできるじゃないか」「その代りかわり火ひが移らうつらなければそれまででしょう、幾いく箱ばこ燐寸まっちを抱え込んかかえこんでいたって。嫂ねーさんはあんな人ひとに火ひをつけられるような女おんなじゃありませんよ。それとも……」
九十九きゅうじゅうきゅう
津田つだはお秀おひでの口くちから出でた下した半句はんくを聞いきいた時じ、わざと眼めを動かさうごかさなかった。
よそを向いむかいたまま、じっとその後そのあとを待っまっていた。
しかし彼かれの聞こうきこうとするその後そのあとはついに出でて来きなかった。
お秀おひでは彼かれの気きになりそうな事ことを半分はんぶん云っいったぎりで、すぐ句くを改めあらためてしまった。
「何なんだって兄さんあにさんはまた今日きょうに限っかぎって、そんなつまらない事ことを心配しんぱいしていらっしゃるの。何なんか特別とくべつな事情じじょうでもあるの」 津田つだはやはり元もとの所ところへ眼めをつけていた。
それはなるべく妹いもうとに自分じぶんの心こころを気取らきどられないためであった。
眼めの色いろを彼女かのじょに読まよまれないためであった。
そうして現にげんにその不自然ふしぜんな所作しょさから来るくる影響えいきょうを受けうけていた。
彼かれは何なんとなく臆病おくびょうな感じかんじがした。
彼かれはようやくお秀おひでの方ほうを向いむかいた。
「別べつに心配しんぱいもしていないがね」「ただ気きになるの」 この調子ちょうしで押しおして行くいくと彼かれはただお秀おひでから冷笑れいしょうかされるようなものであった。
彼かれはすぐ口くちを閉じとじた。
同時どうじに先刻せんこくから催おしもよおしていた収縮しゅうしゅく感かんがまた彼かれの局部きょくぶに起っおこった。
彼かれは二三にさん度どそれを不愉快ふゆかいに経験けいけんした後あとで、あるいは今度こんども規則きそく正しくただしく一定いっていの時間じかん中なか繰り返さくりかえさなければならないのかという掛かかり念ねんに制せせいせられた。
そんな事ことに気きのつかないお秀おひでは、なぜだか同じおなじ問題もんだいをいつまでも放さはなさなかった。
彼女かのじょはいったん緒口いとぐちを失っうしなったその問題もんだいを、すぐ別べつの形かたちで彼かれの前まえに現わしあらわして来きた。
「兄さんあにさんはいったい嫂ねーさんをどんな人ひとだと思っおもっていらっしゃるの」「なぜ改まっあらたまって今頃いまごろそんな質問しつもんをかけるんだい。馬鹿ばからしい」「そんならいいわ、伺わうかがわないでも」「しかしなぜ訊くきくんだよ。その訳わけを話しはなしたらいいじゃないか」「ちょっと必要ひつようがあったから伺っうかがったんです」「だからその必要ひつようをお云いいいな」「必要ひつようは兄さんあにさんのためよ」 津田つだは変へんな顔かおをした。
お秀おひではすぐ後あとを云っいった。
「だって兄さんあにさんがあんまり小林こばやしさんの事ことを気きになさるからよ。何なんだか変へんじゃありませんか」
「そりゃお前おまえにゃ解らわからない事ことなんだ」「どうせ解らわからないから変へんなんでしょうよ。じゃいったい小林こばやしさんがどんな事ことをどんな風かぜに嫂ねーさんに持ちかけるもちかけるって云ういうの」「持ちかけるもちかけるとも何なんとも云っいっていやしないじゃないか」「持ちかけるもちかける恐れおそれがあるという意味いみです。云いいい直せなおせば」 津田つだは答えこたえなかった。
お秀おひでは穴あなの開くひらくようにその顔かおを見みた。
「まるで想像そうぞうがつかないじゃありませんか。たとえばいくらあの人ひとが人ひとが悪くわるくなったにしたところで、何なんも云いいいようがないでしょう。ちょっと考えかんがえて見みても」 津田つだはまだ答えこたえなかった。
お秀おひではどうしても津田つだの答えるこたえるところまで行こういこうとした。
「よしんば、あの人ひとが何なんか云ういうにしたところで、嫂ねーさんさえ取り合わとりあわなければそれまでじゃありませんか」「そりゃ聴かきかないでも解っわかってるよ」「だからあたしが伺ううかがうんです。兄さんあにさんはいったい嫂ねーさんをどう思っおもっていらっしゃるかって。兄さんあにさんは嫂ねーさんを信用しんようしていらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」 お秀おひでは急きゅうに畳みかけたたみかけて来きた。
津田つだにはその意味いみがよく解らわからなかった。
しかしそこに相手あいての拍子ひょうしを抜くぬく必要ひつようがあったので、彼かれは判然はんぜんした返事へんじを避けさけて、わざと笑いわらい出さださなければならなかった。
「大変たいへんな権幕けんまくだね。まるで詰問きつもんでも受けうけているようじゃないか」「ごまかさないで、ちゃんとしたところをおっしゃい」「云えいえばどうするというんだい」「私わたくしはあなたの妹いもうとです」「それがどうしたというのかね」「兄さんあにさんは淡泊たんぱくでないから駄目だめよ」 津田つだは不思議ふしぎそうに首くびを傾けかたむけた。
「何なんだか話はなしが大変たいへんむずかしくなって来きたようだが、お前おまえ少しすこし癇かん違いをしているんじゃないかい。僕ぼくはそんな深いぶかい意味いみで小林こばやしの事ことを云いいい出しだしたんでも何なんでもないよ。ただ彼奴きゃつは僕ぼくの留守るすにお延のべに会っかいって何なんをいうか分らわからない困っこまった男おとこだというだけなんだよ」「ただそれだけなの」「うんそれだけだ」 お秀おひでは急きゅうに的まとの外れはずれたような様子ようすをした。
けれども黙っだまってはいなかった。
「だけど兄さんあにさん、もし堀ほりのいない留守るすに誰だれかあたしの所ところへ来きて何なんか云ういうとするでしょう。それを堀ほりが知っしって心配しんぱいすると思っおもっていらっしって」「堀ほりさんの事ことは僕ぼくにゃ分らわからないよ。お前おまえは心配しんぱいしないと断言だんげんする気きかも知れしれないがね」「ええ断言だんげんします」「結構けっこうだよ。――それで?」「あたしの方ほうもそれだけよ」 二人ふたりは黙らだまらなければならなかった。
百ひゃく
しかし二人ふたりはもう因果いんがづけられていた。
どうしても或ある物ものを或ある所ところまで、会話かいわの手段しゅだんで、互たがいの胸むねから敲きたたき出さださなければ承知しょうちができなかった。
ことに津田つだには目前もくぜんの必要ひつようがあった。
当座とうざに逼るせまる金きんの工面くめん、彼かれは今いまその財源ざいげんを自分じぶんの前まえに控えひかえていた。
そうして一度いちど取り逃せとりにがせば、それは永久えいきゅう彼かれの手てに戻っもどって来きそうもなかった。
勢いいきおい彼かれはその点てんだけでもお秀おひでに対するたいする弱者じゃくしゃの形勢けいせいに陥っおちいっていた。
彼かれは失なわうしなわれた話頭わとうを、どんな風かぜにして取り返しとりかえしたものだろうと考えかんがえた。
「お秀おひで病院びょういんで飯めしを食っしょくって行かいかないか」 時間じかんがちょうどこんな愛嬌あいきょうをいうに適してきしていた。
ことに今朝けさ母ははと子供こどもを連れつれて横浜よこはまの親類しんるいへ行っいったという堀ほりの家族かぞくは留守るすなので、彼かれはこの愛嬌あいきょうに特別とくべつな意味いみをもたせる便宜べんぎもあった。
「どうせ家いえへ帰っかえったって用ようはないんだろう」 お秀おひでは津田つだのいう通りとおりにした。
話はなしは容易くたやすく二人ふたりの間まに復活ふっかつする事ことができた。
しかしそれは単にたんに兄妹きょうだいらしい話はなしに過ぎすぎなかった。
そうして単にたんに兄妹きょうだいらしい話はなしはこの場合ばあい彼かれらにとってちっとも腹はらの足あしにならなかった。
彼かれらはもっと相手あいての胸むねの中なかへ潜り込もうもぐりこもうとして機会きかいを待っまった。
「兄さんあにさん、あたしここに持っもっていますよ」「何なんを」「兄さんあにさんの入用にゅうようのものを」「そうかい」 津田つだはほとんど取り合わとりあわなかった。
その冷淡れいたんさはまさに彼かれの自尊心じそんしんに比例ひれいしていた。
彼かれは精神的せいしんてきにも形式的けいしきてきにもこの妹いもうとに頭あたまを下げさげたくなかった。
しかし金きんは取りとりたかった。
お秀おひではまた金きんはどうでもよかった。
しかし兄あにに頭あたまを下げさげさせたかった。
勢いいきおい兄あにの欲しほしがる金きんを餌えさにして、自分じぶんの目的もくてきを達したっしなければならなかった。
結果けっかはどうしても兄あにを焦らすじらす事ことに帰着きちゃくした。
「あげましょうか」「ふん」「お父さんおちちさんはどうしたって下さりくださりっこありませんよ」「ことによると、くれないかも知れしれないね」「だってお母さんおははさんが、あたしの所ところへちゃんとそう云っいって来きていらっしゃるんですもの。今日きょうその手紙てがみを持っもって来きて、お目めにかけようと思っおもってて、つい忘れわすれてしまったんですけれども」「そりゃ知っしってるよ。先刻せんこくもうお前おまえから聞いきいたじゃないか」「だからよ。あたしが持っもって来きたって云ういうのよ」「僕ぼくを焦らすじらすためにかい、または僕ぼくにくれるためにかい」 お秀おひでは打たうたれた人ひとのように突然とつぜん黙っだまった。
そうして見る見るみるみるうちに、美びくしい眼めの底そこに涙なみだをいっぱい溜めためた。
津田つだにはそれが口くち惜おし涙なみだとしか思えおもえなかった。
「どうして兄さんあにさんはこの頃このごろそんなに皮肉ひにくになったんでしょう。どうして昔むかしのように人ひとの誠まことを受け入れうけいれて下さるくださる事ことができないんでしょう」「兄さんあにさんは昔むかしとちっとも違っちがってやしないよ。近頃ちかごろお前おまえの方ほうが違っちがって来きたんだよ」 今度こんどは呆れあきれた表情ひょうじょうがお秀おひでの顔かおにあらわれた。
「あたしがいつどんな風かぜに変っかわったとおっしゃるの。云っいって下さいください」「そんな事ことは他ほかに訊かきかなくっても、よく考えかんがえて御覧ごらん、自分じぶんで解るわかる事ことだから」「いいえ、解りわかりません。だから云っいって下さいください。どうぞ云っいって聞かしきかして下さいください」 津田つだはむしろ冷やかひややかな眼めをして、鋭どくするどく切り込んきりこんで来るくるお秀おひでの様子ようすを眺めながめていた。
ここまで来きても、彼かれには相手あいての機嫌きげんを取り返しとりかえした方ほうが得とくか、またはくしゃりと一度いちどに押し潰しおしつぶした方ほうが得とくかという利り害心がいしんが働はたらけらいていた。
その中間ちゅうかんを行こういこうと決心けっしんした彼かれは徐ろにおもむろに口くちを開いひらいた。
「お秀おひで、お前おまえには解らわからないかも知れしれないがね、兄さんあにさんから見るみると、お前おまえは堀ほりさんの所ところへ行っいってっから以来いらい、だいぶ変っかわったよ」「そりゃ変るかわるはずですわ、女おんなが嫁よめに行っいって子供こどもが二人ふたりもできれば誰だれだって変るかわるじゃありませんか」「だからそれでいいよ」「けれども兄さんあにさんに対したいして、あたしがどんなに変っかわったとおっしゃるんです。そこを聞かしきかして下さいください」「そりゃ……」 津田つだは全部ぜんぶを答えこたえなかった。
けれども答えこたえられないのではないという事ことを、語勢ごせいからお秀おひでに解るわかるようにした。
お秀おひでは少しすこし間まをおいた。
それからすぐ押し返しおしかえした。
「兄さんあにさんのお腹おなかの中なかには、あたしが京都きょうとへ告口つげくちをしたという事ことが始終しじゅうあるんでしょう」「そんな事ことはどうでもいいよ」「いいえ、それできっとあたしを眼めの敵てきにしていらっしゃるんです」「誰だれが」 不幸ふこうな言葉ことばは二人ふたりの間まに伏字ふせじのごとく潜在せんざいしていたお延のべという名前なまえに点火てんかしたようなものであった。
お秀おひではそれを松明たいまつのように兄あにの眼め先さきに振り廻しふりまわした。
「兄さんあにさんこそ違っちがったのです。嫂ねーさんをお貰いもらいになる前まえの兄さんあにさんと、嫂ねーさんをお貰いもらいになった後あとの兄さんあにさんとは、まるで違っちがっています。誰だれが見みたって別べつの人ひとです」
百一ひゃくいち
津田つだから見みたお秀おひでは彼かれに対するたいする僻見へきけんで武装ぶそうされていた。
ことに最後さいごの攻撃こうげきは誤解ごかいその物ものの活動かつどうに過ぎすぎなかった。
彼かれには「嫂ねーさん、嫂ねーさん」を繰り返すくりかえす妹いもうとの声こえがいかにも耳障りみみざわりであった。
むしろ自己じこを満足まんぞくさせるための行為こういを、ことごとく細君さいくんを満足まんぞくさせるために起っおこったものとして解釈かいしゃくする妹いもうとの前まえに、彼かれは尠からすくなからぬ不快ふかいを感じかんじた。
「おれはお前おまえの考えかんがえてるような二に本ほん棒ぼうじゃないよ」「そりゃそうかも知れしれません。嫂ねーさんから電話でんわがかかって来きても、あたしの前まえじゃわざと冷淡れいたんを装っよそおって、うっちゃっておおきになるくらいですから」 こういう言葉ことばが所ところ嫌わいやわずお秀おひでの口くちからひょいひょい続発ぞくはつして来るくるようになった時じ、津田つだはほとんど眼前がんぜんの利害りがいを忘れるわすれるべく余儀よぎなくされた。
彼かれは一二いちに度ど腹はらの中なかで舌した打だをした。
「だからこいつに電話でんわをかけるなと、あれだけお延のべに注意ちゅういしておいたのに」 彼かれは神経しんけいの亢奮こうふんを紛らすまぎらす人ひとのように、しきりに短かいみじかい口髭くちひげを引張っひっぱった。
しだいしだいに苦いにがい顔かおをし始めはじめた。
そうしてだんだん言葉少なことばずくなになった。
津田つだのこの態度たいどが意外いがいの影響えいきょうをお秀おひでに与えあたえた。
お秀おひでは兄あにの弱点じゃくてんが自分じぶんのために一皮ひとかわずつ赤裸あかはだかにされて行くいくので、しまいに彼かれは恥じ入っはじいって、黙り込むだまりこむのだとばかり考えかんがえたらしく、なお猛烈もうれつに進んすすんだ。
あたかももう一息ひといきで彼かれを全然ぜんぜん自分じぶんの前まえに後悔こうかいさせる事ことができでもするような勢いきおいで。
「嫂ねーさんといっしょになる前まえの兄さんあにさんは、もっと正直しょうじきでした。少なくすくなくとももっと淡泊たんぱくでした。私わたくしは証拠しょうこのない事ことを云ういうと思わおもわれるのが厭いやだから、有体ありていに事実じじつを申しもうします。だから兄さんあにさんも淡泊たんぱくに私わたくしの質問しつもんに答えこたえて下さいください。兄さんあにさんは嫂ねーさんをお貰いもらいになる前まえ、今度こんどのような嘘うそをお父さんおちちさんに吐いはいた覚さとしがありますか」 この時じ津田つだは始めはじめて弱っよわった。
お秀おひでの云ういう事ことは明らかあきらかな事実じじつであった。
しかしその事実じじつはけっしてお秀おひでの考えかんがえているような意味いみから起っおこったのではなかった。
津田つだに云わいわせると、ただ偶然ぐうぜんの事実じじつに過ぎすぎなかった。
「それでお前おまえはこの事件じけんの責任者せきにんしゃはお延のべだと云ういうのかい」 お秀おひではそうだと答えこたえたいところをわざと外しはずした。
「いいえ、嫂ねーさんの事ことなんか、あたしちっとも云っいってやしません。ただ兄さんあにさんが変っかわった証拠しょうこにそれだけの事実じじつを主張しゅちょうするんです」 津田つだは表ひょう向むかいどうしても負けまけなければならない形勢けいせいに陥っおちいって来きた。
「お前おまえがそんなに変っかわったと主張しゅちょうしたければ、変っかわったでいいじゃないか」「よかないわ。お父さんおちちさんやお母さんおははさんにすまないわ」 すぐ「そうかい」と答えこたえた津田つだは冷淡れいたんに「そんならそれでもいいよ」と付け足しつけたした。
お秀おひではこれでもまだ後悔こうかいしないのかという顔つきかおつきをした。
「兄さんあにさんの変っかわった証拠しょうこはまだあるんです」 津田つだは素知らぬそしらぬ風かぜをした。
お秀おひでは遠慮えんりょなくその証拠しょうこというのを挙げあげた。
「兄さんあにさんは小林こばやしさんが兄さんあにさんの留守るすへ来きて、嫂ねーさんに何なんか云やいやしないかって、先刻せんこくから心配しんぱいしているじゃありませんか」「煩さいうるさいな。心配しんぱいじゃないって先刻せんこく説明せつめいしたじゃないか」「でも気きになる事ことはたしかなんでしょう」「どうでも勝手にかってに解釈かいしゃくするがいい」「ええ。――どっちでも、とにかく、それが兄さんあにさんの変っかわった証拠しょうこじゃありませんか」「馬鹿ばかを云ういうな」「いいえ、証拠しょうこよ。たしかな証拠しょうこよ。兄さんあにさんはそれだけ嫂ねーさんを恐れおそれていらっしゃるんです」 津田つだはふと眼めを転じてんじた。
そうして枕まくらに頭あたまを載せのせたまま、下したからお秀おひでの顔かおを覗き込むのぞきこむようにして見みた。
それから好いよい恰好かっこをした鼻柱はなばしらに冷笑れいしょうの皺しわを寄せよせた。
この余裕よゆうがお秀おひでには全くまったく突然とつぜんであった。
もう一息ひといきで懺悔ざんげの深谷ふかやへ真ッまっ逆さまさかさまに突き落すつきおとすつもりでいた彼女かのじょは、まだ兄あにの後あとに平坦へいたんな地面じめんが残っのこっているのではなかろうかという疑いうたがいを始めはじめて起しおこした。
しかし彼女かのじょは行けるいけるところまで行かいかなければならなかった。
「兄さんあにさんはついこの間ままで小林こばやしさんなんかを、まるで鼻はなの先さきであしらっていらっしったじゃありませんか。何なんを云っいっても取り合わとりあわなかったじゃありませんか。それを今日きょうに限っかぎってなぜそんなに怖こわがるんです。たかが小林こばやしなんかを怖こわがるようになったのは、その相手あいてが嫂ねーさんだからじゃありませんか」「そんならそれでいいさ。僕ぼくがいくら小林こばやしを怖こわがったって、お父さんおちちさんやお母さんおははさんに対するたいする不義理ふぎりになる訳わけでもなかろう」「だからあたしの口くちを出すだす幕まくじゃないとおっしゃるの」「まあその見当けんとうだろうね」 お秀おひでは赫とかっとした。
同時どうじに一筋ひとすじの稲妻いなずまが彼女かのじょの頭あたまの中なかを走っはしった。
百二ひゃくに
「解りわかりました」 お秀おひでは鋭どいするどい声こえでこう云い放っいいはなった。
しかし彼女かのじょの改まっあらたまった切口きりくち上うえは外面がいめん上うえ何なんの変化へんかも津田つだの上うえに持ちもち来さきさなかった。
彼かれはもう彼女かのじょの挑戦ちょうせんに応ずるおうずる気色けしきを見せみせなかった。
「解りわかりましたよ、兄さんあにさん」 お秀おひでは津田つだの肩かたを揺ぶるゆさぶるような具合ぐあいに、再びふたたび前まえの言葉ことばを繰返しくりかえした。
津田つだは仕方なししかたなしにまた口くちを開いひらいた。
「何なんが」「なぜ嫂ねーさんに対したいして兄さんあにさんがそんなに気きをおいていらっしゃるかという意味いみがです」 津田つだの頭あたまに一種いっしゅの好奇心こうきしんが起っおこった。
「云っいって御覧ごらん」「云ういう必要ひつようはないんです。ただ私わたくしにその意味いみが解っわかったという事ことだけを承知しょうちしていただけばたくさんなんです」「そんならわざわざ断ることわる必要ひつようはないよ。黙っだまって独りひとりで解っわかったと思っおもっているがいい」「いいえよくないんです。兄さんあにさんは私わたくしを妹いもうとと見傚しみなしていらっしゃらない。お父さんおちちさんやお母さんおははさんに関係かんけいする事ことでなければ、私わたくしには兄さんあにさんの前まえで何になんにもいう権利けんりがないものとしていらっしゃる。だから私わたくしも云いいいません。しかし云わいわなくっても、眼めはちゃんとついています。知らしらないで云わいわないと思っおもっておいでだと間違いまちがいますから、ちょっとお断りことわり致しいたしたのです」 津田つだは話はなしをここいらで切り上げきりあげてしまうよりほかに道みちはないと考えかんがえた。
なまじいかかり合えあえばかかり合うあうほど、事ことは面倒めんどうになるだけだと思っおもった。
しかし彼かれには妹いもうとに頭あたまを下げるさげる気きがちっともなかった。
彼女かのじょの前まえに後悔こうかいするなどという芝居しばいじみた真似まねは夢ゆめにも思いつけおもいつけなかった。
そのくらいの事ことをあえてし得るうる彼かれは、平生へいぜいから低くひくく見みている妹いもうとにだけは、思いのほかおもいのほか高慢こうまんであった。
そうしてその高慢こうまんなところを、他人たにんに対したいしてよりも、比較的ひかくてき遠慮えんりょなく外そとへ出しだした。
したがっていくら口先くちさきが和解わかい的まとでも大してたいして役やくに立たたたなかった。
お秀おひでにはただ彼かれの中心ちゅうしんにある軽蔑けいべつが、微温いぬりい表現ひょうげんを通しとおして伝わるつたわるだけであった。
彼女かのじょはもうやりきれないと云っいった様子ようすを先刻せんこくから見せみせている津田つだを毫もごうも容赦ようしゃしなかった。
そうしてまた「兄さんあにさん」と云いいい出しだした。
その時じ津田つだはそれまでにまだ見出しみだし得とくなかったお秀おひでの変化へんかに気きがついた。
今までいままでの彼女かのじょは彼かれを通しとおして常つねに鋒先ほこさきをお延のべに向けむけていた。
兄あにを攻撃こうげきするのも嘘うそではなかったが、矢面やおもてに立つたつ彼かれをよそにしても、背後はいごに控えひかえている嫂ねーだけは是非ぜひ射とめいとめなければならないというのが、彼女かのじょの真剣しんけんであった。
それがいつの間まにか変っかわって来きた。
彼女かのじょは勝手にかってに主客しゅきゃくの位置いちを改めあらためた。
そうして一直線いちちょくせんに兄あにの方ほうへ向いむかいて進んすすんで来きた。
「兄さんあにさん、妹いもうとは兄あにの人格じんかくに対したいして口くちを出すだす権利けんりがないものでしょうか。よし権利けんりがないにしたところで、もしそうした疑ぎを妹いもうとが少しすこしでももっているなら、綺麗きれいにそれを晴らしはらしてくれるのが兄あにの義務ぎむ――義務ぎむは取り消しとりけします、私わたくしには不ふ釣合つりあいな言葉ことばかも知れしれませんから。――少なくすくなくとも兄あにの人情にんじょうでしょう。私わたくしは今いまその人情にんじょうをもっていらっしゃらない兄さんあにさんを眼めの前まえに見るみる事ことを妹いもうととして悲しみかなしみます」「何なんを生意気なまいきな事ことを云ういうんだ。黙っだまっていろ、何になんにも解りわかりもしない癖くせに」 津田つだの癇癪かんしゃくは始めはじめて破裂はれつした。
「お前おまえに人格じんかくという言葉ことばの意味いみが解るわかるか。たかが女学校じょがっこうを卒業そつぎょうしたぐらいで、そんな言葉ことばをおれの前まえで人並ひとなみに使うつかうのからして不都合ふつごうだ」「私わたくしは言葉ことばに重きおもきをおいていやしません。事実じじつを問題もんだいにしているのです」「事実じじつとは何なんだ。おれの頭あたまの中なかにある事実じじつが、お前おまえのような教養きょうように乏しいとぼしい女おんなに捕まえつかまえられると思うおもうのか。馬鹿ばかめ」「そう私わたくしを軽蔑けいべつなさるなら、御ご注意ちゅういまでに申しもうします。しかしよござんすか」「いいも悪いわるいも答えるこたえる必要ひつようはない。人ひとの病気びょうきのところへ来きて何なんだ、その態度たいどは。それでも妹いもうとだというつもりか」「あなたが兄さんあにさんらしくないからです」「黙れだまれ」「黙りだまりません。云ういうだけの事ことは云いいいます。兄さんあにさんは嫂ねーさんに自由じゆうにされています。お父さんおちちさんや、お母さんおははさんや、私わたくしなどよりも嫂ねーさんを大事だいじにしています」「妹いもうとより妻つまを大事だいじにするのはどこの国くにへ行っいったって当り前あたりまえだ」「それだけならいいんです。しかし兄さんあにさんのはそれだけじゃないんです。嫂ねーさんを大事だいじにしていながら、まだほかにも大事だいじにしている人ひとがあるんです」「何なんだ」「それだから兄さんあにさんは嫂ねーさんを怖こわがるのです。しかもその怖こわがるのは――」 お秀おひでがこう云いいいかけた時じ、病室びょうしつの襖ふすまがすうと開いひらいた。
そうして蒼白いあおじろい顔かおをしたお延のべの姿すがたが突然とつぜん二人ふたりの前まえに現われあらわれた。
百三ひゃくさん
彼女かのじょが医者いしゃの玄関げんかんへかかったのは
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