その三分方の不安を、今日の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。
第 10 章
これはお延自身に解っている側の消息中で、最も必要と認めなければならない一端であるが、そのほかにまだ彼女のいっこう知らない間に、自然自分の手に入るように仕組まれた収獲ができた。
無論それは一時的のものに過ぎなかった。
けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑の眼から、彼女は運よく免かれたのである。
というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。
だからこの変化の強く起った際どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡げる役を勤めたお延は、吾知らず儲けものをしたのと同じ事になったのである。
彼女はなぜ岡本が強いて自分を芝居へ誘ったか、またなぜその岡本の宅へ昨日行かなければならなくなったか、そんな内情に関するすべての自分を津田の前に説明する手数を省く事ができた。
むしろ自分の方から云い出したいくらいな小林の言葉についてすら、彼女は一口も語る余裕をもたなかった。
お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
二人はそれを二人の顔つきから知った。
そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段を上って、また室の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那であった。
お延は微笑した。
すると津田も微笑した。
そこにはほかに何にもなかった。
ただ二人がいるだけであった。
そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。
少なくともお延は久しぶりに本来の津田をそこに認めたような気がした。
彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴であるかをほとんど知らなかった。
ただ一種の恰好をとって動いた肉その物の形が、彼女には嬉しい記念であった。
彼女は大事にそれを心の奥にしまい込んだ。
その時二人の微笑はにわかに変った。
二人は歯を露わすまでに口を開けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」 お延はこう云いながらまた津田の枕元へ来て坐った。
津田はむしろ落ちついて答えた。
「だから彼奴に電話なんかかけるなって云うんだ」 二人は自然お秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教じゃないでしょうね」「なぜ」「なぜでも――」「金を置いて行ったからかい」「そればかりじゃないのよ」「真面目くさった説法をするからかい」「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事をおっしゃるところを拝見したのは」「彼奴は理窟屋だよ。つまりああ捏ね返さなければ気がすまない女なんだ」「だってあたし始めてよ」「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。いったい何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」「どうして」「どうしてって、藤井の叔父の傍にいて、あの叔父の議論好きなところを、始終見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」 津田は馬鹿らしいという風をした。
お延も苦笑した。
百十二
久しぶりに夫と直に向き合ったような気のしたお延は嬉しかった。
二人の間にいつの間にかかけられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々しい心持になった。
彼を愛する事によって、是非共自分を愛させなければやまない。
――これが彼女の決心であった。
その決心は多大の努力を彼女に促がした。
彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。
彼女はついに酬いられた。
少なくとも今後の見込を立て得るくらいの程度において酬いられた。
彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻は、取も直さず彼女にとって復活の曙光であった。
彼女は遠い地平線の上に、薔薇色の空を、薄明るく眺める事ができた。
そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起るすべての不愉快を忘れた。
小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。
お秀の口から迸ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍い瞬きを見せた。
しかしそれらはもう遠い距離に退いた。
少くともさほど苦にならなかった。
耳に入れた刹那に起った昂奮の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「もし万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹にはできた。
したがって、いざという場合に、どうでも臨機の所置をつけて見せるという余裕があった。
相手を片づけるぐらいの事なら訳はないという気持も手伝った。
「相手? どんな相手ですか」と訊かれたら、お延は何と答えただろう。
それは朧気に薄墨で描かれた相手であった。
そうして女であった。
そうして津田の愛を自分から奪う人であった。
お延はそれ以外に何にも知らなかった。
しかしどこかにこの相手が潜んでいるとは思えた。
お秀と自分ら夫婦の間に起った波瀾が、ああまで際どくならずにすんだなら、お延は行がかり上、是非共津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探らなければならない順序だったのである。
お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、むしろ幸福だと思った。
気がかりを後へ繰り越すのが辛くて耐らないとはけっして考えなかった。
それよりもこの機会を緊張できるだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩き込んでおく方が得策だと思案した。
こう決心するや否や彼女は嘘を吐いた。
それは些細の嘘であった。
けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、むしろ重大な意味をもっていた。
その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。
そこに書いてある額は彼の要求するものよりかえって多かった。
しかしそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延ありがとう。お蔭で助かったよ」 お延の嘘はこの感謝の言葉の後に随いて、すぐ彼女の口を滑って出てしまった。
「昨日岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰うためなのよ」 津田は案外な顔をした。
岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳ねつけたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。
一週間と経たないうちに、どこからそんな好意が急に湧いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。
それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑をかけるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目がすみませんもの」「叔父さんに訳を話したのかい」「ええ、そりゃずいぶん辛かったの」 お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵えて貰っていた。
「その上お金なんかには、ちっとも困らない顔を今日までして来たんですもの。だからなおきまりが悪いわ」 自分の性格から割り出して、こういう場合のきまりの悪さ加減は、津田にもよく呑み込めた。
「よくできたね」「云えばできるわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪いだけよ」「しかし世の中にはまたお父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃っているからな」 津田はかえって自尊心を傷けられたような顔つきをした。
お延はそれを取り繕ろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買ってくれる約束があるのよ。お嫁に行くとき買ってやらない代りに、今に買ってやるって、此間からそう云ってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しないでもいいわ」 津田はお延の指を眺めた。
そこには自分の買ってやった宝石がちゃんと光っていた。
百十三
二人はいつになく融け合った。
今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知らず弛んだ。
自分の父が鄙吝らしく彼女の眼に映りはしまいかという掛念、あるいは自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、なるべく京都の方面に曖昧な幕を張り通そうとした警戒が解けた。
そうして彼はそれに気づかずにいた。
努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力でそこへ押し流されて来た。
用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼をそこまで運んで来てくれたと同じ事であった。
お延にはそれが嬉しかった。
改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
同時に津田から見たお延にも、またそれと同様の趣が出た。
余事はしばらく問題外に措くとして、結婚後彼らの間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。
そうしてそれはこう云う因果から来た。
普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点において、自分をなるべく高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥か余計な額に見積ったところを、彼女に向って吹聴した。
それだけならまだよかった。
彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。
彼のお延に匂わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那であった。
必要な場合には、いくらでも父から補助を仰ぐ事ができた。
たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂はけっしてなかった。
お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責を彼女に対して背負って立っていたのと同じ事であった。
利巧な彼は、財力に重きを置く点において、彼に優るとも劣らないお延の性質をよく承知していた。
極端に云えば、黄金の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事のできる彼には、どうかしてお延の手前を取繕わなければならないという不安があった。
ことに彼はこの点においてお延から軽蔑されるのを深く恐れた。
堀に依頼して毎月父から助けて貰うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。
それでさえ彼はどこかに煙たいところをもっていた。
少くとも彼女に対する内と外にはだいぶんの距離があった。
眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取るごとくに分った。
必然の勢い彼女はそこに不満を抱かざるを得なかった。
しかし彼女は夫の虚偽を責めるよりもむしろ夫の淡泊でないのを恨んだ。
彼女はただ水臭いと思った。
なぜ男らしく自分の弱点を妻の前に曝け出してくれないのかを苦にした。
しまいには、それをあえてしないような隔りのある夫なら、こっちにも覚悟があると一人腹の中できめた。
するとその態度がまた木精のように津田の胸に反響した。
二人はどこまで行っても、直に向き合う訳に行かなかった。
しかも遠慮があるので、なるべくそこには触れないように慎しんでいた。
ところがお秀との悶着が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲き破った。
しかもお延自身毫もそこに気がつかなかった。
彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を開放してしまった。
だから津田にもまるで別人のように快よく見えた。
二人はこういう風で、いつになく融け合った。
すると二人が融け合ったところに妙な現象がすぐ起った。
二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。
二人はいっしょになって、京都に対する善後策を講じ出した。
二人には同じ予感が働いた。
この事件はこれだけで片づくまいという不安が双方の心を引き締めた。
きっとお秀が何かするだろう。
すれば直接京都へ向ってやるに違いない。
そうしてその結果は自然二人の不利益となるにきまっている。
――ここまでは二人の一致する点であった。
それから先が肝心の善後策になった。
しかしそこへ来ると意見が区々で、容易に纏まらなかった。
お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。
しかし津田は首を掉った。
彼は叔父も叔母もお秀の味方である事をよく承知していた。
次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。
けれども岡本は津田の父とそれほど深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。
彼女はいっそ簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。
これには津田も大した違存はなかった。
たとい今度の事件のためでなくとも、絶交を希望しない以上、何らかの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命をもっていたからである。
しかしそれはそれとして、彼らはもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。
彼らは考えた。
しまいに吉川の名が二人の口から同じように出た。
彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見てくれている目下の事情、――数えれば数えるほど、彼には有利な条件が具っていた。
けれどもそこにはまた一種の困難があった。
それほど親しく近づき悪い吉川に口を利いて貰おうとすれば、是非共その前に彼の細君を口説き落さなければならなかった。
ところがその細君はお延にとって大の苦手であった。
お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。
細君と仲善の津田はまた充分成効の見込がそこに見えているので、熱心にそれを主張した。
しまいにお延はとうとう我を折った。
事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後で心持よく別れた。
百十四
前夜よく寝られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易く眠る事ができた。
翌日もまた透き通るような日差を眼に受けて、晴々しい空気を篏硝子の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、どことなしに秋の情趣を唆った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」 洗濯屋の男は、俗歌を唄いながら、区切区切へシッシッシという言葉を入れた。
それがいかにも忙がしそうに手を働かせている彼らの姿を津田に想像させた。
彼らは突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。
それから物干へ上って、その白いものを隙間なく秋の空へ広げた。
ここへ来てから、日ごとに繰り返される彼らの所作は単調であった。
しかし勤勉であった。
それがはたして何を意味しているか津田には解らなかった。
彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。
彼は吉川夫人の姿を憶い浮べた。
彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、あまりに漠然過ぎた。
それを纏めようとすると、いつでも吉川夫人が現われた。
平生から自分の未来を代表してくれるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
一にはこの間訪問した時からの引かかりがあった。
その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。
彼にはその後を聴くまいとする努力があった。
また聴こうとする意志も動いた。
すでに封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披く権利は自分にあるようにも思われた。
二には京都の事が気になった。
軽重を別にして考えると、この方がむしろ急に逼っていた。
一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。
まだ四五日はどうしても動く事のできない身体を持ち扱った彼は、昨日お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へやろうとしたくらいであった。
それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口だと信じていた。
お延がなぜこういう用向を帯びて夫人を訪ねるのを嫌ったのか、津田は不思議でならなかった。
黙っていてもそんな方面へ出入をしたがる女のくせに。
と彼はその時考えた。
夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵らえて貰ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。
しかしどうしても引き受けたがらないお延を、たって強いる気もまたその場合の彼には起らなかった。
それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。
彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。
しかしその理由を述べる代りに、津田ならきっと成効するに違ないからと云った。
成効するにしても、病院を出た後でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞れがあると津田が注意した時、お延はまた意外な返事を彼に与えた。
彼女は夫人がきっと病院へ見舞に来るに違ないと断言した。
その時機を利用しさえすれば、一番自然にまた一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
津田は洗濯屋の干物を眺めながら、昨日の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰り寄せて点検した。
すると吉川夫人は見舞に来てくれそうでもあった。
また来てくれそうにもなかった。
つまりお延がなぜ来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。
彼は芝居の食堂で晩餐の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。
お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。
けれどもその会話のどこからこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうよりほかに手はなかった。
彼はすでに幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えてくれなかった幾分の直覚を、お延に許していた。
その点でいつでも彼女を少し畏れなければならなかった彼には、杜撰にそこへ触れる勇気がなかった。
と同時に、全然その直覚に信頼する事のできない彼は、何とかしてこっちから吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。
彼はすぐ電話を思いついた。
横着にも見えず、ことさらでもなし、自然に彼女がここまで出向いて来るような電話のかけ方はなかろうかと苦心した。
しかしその苦心は水の泡を製造する努力とほぼ似たものであった。
いくら骨を折って拵えても、すぐ後から消えて行くだけであった。
根本的に無理な空想を実現させようと巧らんでいるのだから仕方がないと気がついた時、彼は一人で苦笑してまた硝子越に表を眺めた。
表はいつか風立った。
洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物といっしょになって軽く揺れていた。
それを掠めるようにかけ渡された三本の電線も、よそと調子を合せるようにふらふらと動いた。
百十五
下から上って来た医者には、その時の津田がいかにも退屈そうに見えた。
顔を合せるや否や彼は「いかがです」と訊いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。
それから彼は津田のためにガーゼを取り易えてくれた。
「まだ創口の方はそっとしておかないと、危険ですから」 彼はこう注意して、じかに局部を抑えつけている個所を少し緩めて見たら、血が煮染み出したという話を用心のためにして聴かせた。
取り易えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。
要所を剥がすと、血が迸しるかも知れないという身体では、津田も無理をして宅へ帰る訳に行かなかった。
「やッぱり予定通りの日数は動かずにいるよりほかに仕方がないでしょうね」 医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それほど大事を取るにも及ばないんですがね」 それでも医者は、時間と経済に不足のない、どこから見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有になる訳でもないんでしょう」「ええ一週間ぐらいはここで暮らしてもいいんです。しかし臨時にちょっと事件が起ったので……」「はあ。――しかしもう直です。もう少しの辛防です」 これよりほかに云いようのなかった医者は、外来患者の方がまだ込み合わないためか、そこへ坐って二三の雑談をした。
中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話が、思わず津田を笑わせた。
看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑をかけて、是非その看護婦を殴らせろと、医局へ逼った人があったというその話は、津田から見るといかにも滑稽であった。
こういう性質の人と正反対に生みつけられた彼は、そこに馬鹿らしさ以外の何物をも見出す事ができなかった。
平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪られた。
そうしてその裏側へ暗に自分の長所を点綴して喜んだ。
だから自分の短所にはけっして思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括りつけられなければならない現在の自分を悲観したくなった。
気のせいか彼にはその現在が大変貴重に見えた。
もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
彼はまた吉川夫人の事を考え始めた。
どうかして彼女をここへ呼びつける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女がここへ来てくれればいいがと思う方に、心の調子がだんだん移って行った。
自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにもかかわらず、例外なこの場合だけには、それがあたって欲しいような気もどこかでした。
彼はお延の置いて行った書物の中から、