明暗

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その三分方の不安を、今日の自分が、どのくらいの程度に減らしているかは、彼女にとって重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、できるだけの実を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得たつもりなのである。

第 10 章
これはお延のべ自身じしんに解っわかっている側がわの消息しょうそく中なかで、最ももっとも必要ひつようと認めみとめなければならない一端いっぱしであるが、そのほかにまだ彼女かのじょのいっこう知らしらない間まに、自然しぜん自分じぶんの手てに入るはいるように仕組ましくまれた収獲しゅうかくができた。
無論むろんそれは一時的いちじてきのものに過ぎすぎなかった。
けれども当然とうぜん自分じぶんの上うえに向けむけられるべき夫おっとの猜疑さいぎの眼めから、彼女かのじょは運うんよく免かれまぬかれたのである。
というのは、お秀おひでという相手あいてを引き受けるひきうける前まえの津田つだと、それに悩まさなやまされ出しだした後あとの彼かれとは、心持こころもちから云っいっても、意識いしきの焦点しょうてんになるべき対象たいしょうから見みても、まるで違っちがっていた。
だからこの変化へんかの強くつよく起っおこった際どいきわどい瞬間しゅんかんに姿すがたを現わしあらわして、その変化へんかの波なみを自然しぜんのままに拡げるひろげる役やくを勤めつとめたお延のべは、吾われ知らしらず儲けものもうけものをしたのと同じおなじ事ことになったのである。
彼女かのじょはなぜ岡本おかもとが強いてしいて自分じぶんを芝居しばいへ誘っさそったか、またなぜその岡本おかもとの宅たくへ昨日きのう行かいかなければならなくなったか、そんな内情ないじょうに関するかんするすべての自分じぶんを津田つだの前まえに説明せつめいする手数てすうを省くはぶく事ことができた。
むしろ自分じぶんの方ほうから云いいい出しだしたいくらいな小林こばやしの言葉ことばについてすら、彼女かのじょは一口ひとくちも語るかたる余裕よゆうをもたなかった。
お秀おひでの帰っかえったあとの二人ふたりは、お秀おひでの事ことで全くまったく頭あたまを占領せんりょうされていた。
二人ふたりはそれを二人ふたりの顔つきかおつきから知っしった。
そうして二人ふたりの顔かおを見合せみあわせたのは、お秀おひでを送り出しおくりだしたお延のべが、階子段はしごだんを上っのぼって、また室むろの入口いりぐちにそのすらりとした姿すがたを現わしあらわした刹那せつなであった。
お延のべは微笑びしょうした。
すると津田つだも微笑びしょうした。
そこにはほかに何になんにもなかった。
ただ二人ふたりがいるだけであった。
そうして互たがいの微笑びしょうが互たがいの胸むねの底そこに沈んしずんだ。
少なくすくなくともお延のべは久しぶりひさしぶりに本来ほんらいの津田つだをそこに認めみとめたような気きがした。
彼女かのじょは肉にくの上うえに浮び上っうかびあがったその微笑びしょうが何なんの象徴しょうちょうであるかをほとんど知らしらなかった。
ただ一種いっしゅの恰好かっこをとって動いうごいた肉にくその物ものの形かたちが、彼女かのじょには嬉しいうれしい記念きねんであった。
彼女かのじょは大事だいじにそれを心こころの奥おくにしまい込んしまいこんだ。
その時じ二人ふたりの微笑びしょうはにわかに変っかわった。
二人ふたりは歯はを露わあらわすまでに口くちを開けあけて、一度いちどに声こえを出しだして笑い合っわらいあった。
「驚ろいおどろいた」 お延のべはこう云いいいながらまた津田つだの枕元まくらもとへ来きて坐っすわった。
津田つだはむしろ落ちついおちついて答えこたえた。
「だから彼奴きゃつに電話でんわなんかかけるなって云ういうんだ」 二人ふたりは自然しぜんお秀おひでを問題もんだいにしなければならなかった。
「秀子ひでこさんは、まさか基督教きりすときょうじゃないでしょうね」「なぜ」「なぜでも――」「金きんを置いおいて行っいったからかい」「そればかりじゃないのよ」「真面目くさっまじめくさった説法せっぽうをするからかい」「ええまあそうよ。あたし始めはじめてだわ。秀子ひでこさんのあんなむずかしい事ことをおっしゃるところを拝見はいけんしたのは」「彼奴きゃつは理窟りくつ屋やだよ。つまりああ捏ね返さこねかえさなければ気きがすまない女おんななんだ」「だってあたし始めはじめてよ」「お前おまえは始めはじめてさ。おれは何度なんどだか分りゃわかりゃしない。いったい何なんでもないのに高尚こうしょうがるのが彼奴きゃつの癖くせなんだ。そうして生なまじい藤井ふじいの叔父おじの感化かんかを受けうけてるのが毒どくになるんだ」「どうして」「どうしてって、藤井ふじいの叔父おじの傍そばにいて、あの叔父おじの議論ぎろん好きすきなところを、始終しじゅう見みていたもんだから、とうとうあんなに口くちが達者たっしゃになっちまったのさ」 津田つだは馬鹿ばからしいという風かぜをした。
お延のべも苦笑くしょうした。
百十二ひゃくじゅうに
久しぶりひさしぶりに夫おっとと直じかに向き合っむきあったような気きのしたお延のべは嬉しかっうれしかった。
二人ふたりの間まにいつの間まにかかけられた薄いうすい幕まくを、急きゅうに切っきって落しおとした時じの晴々しいはればれしい心持こころもちになった。
彼かれを愛するあいする事ことによって、是非ぜひ共とも自分じぶんを愛さあいさせなければやまない。
――これが彼女かのじょの決心けっしんであった。
その決心けっしんは多大ただいの努力どりょくを彼女かのじょに促がしうながした。
彼女かのじょの努力どりょくは幸いさいわい徒労とろうに終らおわらなかった。
彼女かのじょはついに酬いむくいられた。
少なくすくなくとも今後こんごの見込みこみを立てたて得るうるくらいの程度ていどにおいて酬いむくいられた。
彼女かのじょから見れみれば不慮ふりょの出来事できごとと云わいわなければならないこの破綻はたんは、取とりも直さなおさず彼女かのじょにとって復活ふっかつの曙光しょこうであった。
彼女かのじょは遠いとおい地平線ちへいせんの上うえに、薔薇色ばらいろの空そらを、薄明るくうすあかるく眺めるながめる事ことができた。
そうしてその暖かいあたたかい希望きぼうの中なかに、この破綻はたんから起るおこるすべての不愉快ふゆかいを忘れわすれた。
小林こばやしの残酷ざんこくに残しのこして行っいった正体しょうたいの解らわからない黒いくろい一いち点てん、それはいまだに彼女かのじょの胸むねの上うえにあった。
お秀おひでの口くちから迸ばしるように出でた不審ふしんの一句いっく、それも疑惑ぎわくの星ほしとなって、彼女かのじょの頭あたまの中なかに鈍いにぶい瞬きまばたきを見せみせた。
しかしそれらはもう遠いとおい距離きょりに退いしりぞいた。
少くすくなくともさほど苦くにならなかった。
耳みみに入れいれた刹那せつなに起っおこった昂奮こうふんの記憶きおくさえ、再びふたたび呼び戻すよびもどす必要ひつようを認めみとめなかった。
「もし万一まんいちの事ことがあるにしても、自分じぶんの方ほうは大丈夫だいじょうぶだ」 夫おっとに対するたいするこういう自信じしんさえ、その時じのお延のべの腹はらにはできた。
したがって、いざという場合ばあいに、どうでも臨機りんきの所ところ置おけをつけて見せるみせるという余裕よゆうがあった。
相手あいてを片づけるかたづけるぐらいの事ことなら訳わけはないという気持きもちも手伝ってつだった。
「相手あいて? どんな相手あいてですか」と訊かきかれたら、お延のべは何なんと答えこたえただろう。
それは朧気おぼろきに薄墨うすずみで描かえがかれた相手あいてであった。
そうして女おんなであった。
そうして津田つだの愛あいを自分じぶんから奪ううばう人ひとであった。
お延のべはそれ以外いがいに何になんにも知らしらなかった。
しかしどこかにこの相手あいてが潜んひそんでいるとは思えおもえた。
お秀おひでと自分じぶんら夫婦ふうふの間まに起っおこった波瀾はらんが、ああまで際どくきわどくならずにすんだなら、お延のべは行こうがかり上うえ、是非ぜひ共とも津田つだの腹はらのなかにいるこの相手あいてを、遠くとおくから探らさぐらなければならない順序じゅんじょだったのである。
お延のべはそのプログラムぷろぐらむを狂わくるわせた自分じぶんを顧みかえりみて、むしろ幸福こうふくだと思っおもった。
気がかりきがかりを後あとへ繰り越すくりこすのが辛くつらくて耐らたまらないとはけっして考えかんがえなかった。
それよりもこの機会きかいを緊張きんちょうできるだけ緊張きんちょうさせて、親切しんせつな今いまの自分じぶんを、強くつよく夫おっとの頭あたまの中なかに叩き込んたたきこんでおく方ほうが得策とくさくだと思案しあんした。
こう決心けっしんするや否いなや彼女かのじょは嘘うそを吐いはいた。
それは些細ささいの嘘うそであった。
けれども今いまの場合ばあいに、夫おっとを物質的ぶっしつてきと精神的せいしんてきの両面りょうめんに亘っわたって、窮地きゅうちから救い出しすくいだしたものは、自分じぶんが持っもって来きた小切手こぎってだという事ことを、深くふかく信じしんじて疑わうたがわなかった彼女かのじょには、むしろ重大じゅうだいな意味いみをもっていた。
その時じ津田つだは小切手こぎってを取り上げとりあげて、再びふたたびそれを眺めながめていた。
そこに書いかいてある額がくは彼かれの要求ようきゅうするものよりかえって多かっおおかった。
しかしそれを問題もんだいにする前まえ、彼かれはお延のべに云っいった。
「お延のべありがとう。お蔭おかげで助かったすかったよ」 お延のべの嘘うそはこの感謝かんしゃの言葉ことばの後あとに随いしたがいて、すぐ彼女かのじょの口くちを滑っすべって出でてしまった。
「昨日きのう岡本おかもとへ行っいったのは、それを叔父おじさんから貰うもらうためなのよ」 津田つだは案外あんがいな顔かおをした。
岡本おかもとへ金策きんさくをしに行っいって来いこいと夫おっとから頼またのまれた時じ、それを断然だんぜん跳ねはねつけたものは、この小切手こぎってを持っもって来きたお延のべ自身じしんであった。
一いち週間しゅうかんと経たへたないうちに、どこからそんな好意こういが急きゅうに湧いわいて出でたのだろうと思うおもうと、津田つだは不思議ふしぎでならなかった。
それをお延のべはこう説明せつめいした。
「そりゃ厭いやなのよ。この上うえ叔父おじさんにお金おかねの事ことなんかで迷惑めいわくをかけるのは。けれども仕方しかたがないわ、あなた。いざとなればそのくらいの勇気ゆうきを出さださなくっちゃ、妻つまとしてのあたしの役目やくめがすみませんもの」「叔父おじさんに訳わけを話しはなしたのかい」「ええ、そりゃずいぶん辛かっつらかったの」 お延のべは津田つだへ来るくる時じの支度したくを大部分だいぶぶん岡本おかもとに拵えこしらえて貰っもらっていた。
「その上うえお金おかねなんかには、ちっとも困らこまらない顔かおを今日きょうまでして来きたんですもの。だからなおきまりが悪いわるいわ」 自分じぶんの性格せいかくから割り出しわりだして、こういう場合ばあいのきまりの悪わるさ加減かげんは、津田つだにもよく呑み込めのみこめた。
「よくできたね」「云えいえばできるわ、あなた。無いないんじゃないんですもの。ただ云いいい悪いわるいだけよ」「しかし世の中よのなかにはまたお父さんおちちさんだのお秀おひでだのっていう、むずかしやも揃っそろっているからな」 津田つだはかえって自尊心じそんしんを傷けきずつけられたような顔つきかおつきをした。
お延のべはそれを取りとり繕つくろいろうように云っいった。
「なにそう云ういう意味いみばかりで貰っもらって来きた訳わけでもないのよ。叔父おじさんにはあたしに指輪ゆびわを買っかってくれる約束やくそくがあるのよ。お嫁よめに行くいくとき買っかってやらない代りかわりに、今いまに買っかってやるって、此間このまからそう云っいってたのよ。だからそのつもりでくれたんでしょうおおかた。心配しんぱいしないでもいいわ」 津田つだはお延のべの指ゆびを眺めながめた。
そこには自分じぶんの買っかってやった宝石ほうせきがちゃんと光っひかりっていた。
百十三ひゃくじゅうさん
二人ふたりはいつになく融け合っとけあった。
今までいままでお延のべの前まえで体面たいめんを保つたもつために武装ぶそうしていた津田つだの心こころが吾われ知らしらず弛んゆるんだ。
自分じぶんの父ちちが鄙ひな吝けちらしく彼女かのじょの眼めに映りうつりはしまいかという掛かかり念ねん、あるいは自分じぶんの予期よき以下いかに彼女かのじょが父ちちの財力ざいりょくを見縊りみくびりはしまいかという恐れおそれ、二につのものが原因げんいんになって、なるべく京都きょうとの方面ほうめんに曖昧あいまいな幕まくを張りばり通そうとおそうとした警戒けいかいが解けとけた。
そうして彼かれはそれに気づかきづかずにいた。
努力どりょくもなく意志いしも働かはたらかせずに、彼かれは自然しぜんの力ちからでそこへ押し流さおしながされて来きた。
用心ようじん深いぶかい彼かれをそっと持ち上げもちあげて、事件じけんがお延のべのために彼かれをそこまで運んはこんで来きてくれたと同じおなじ事ことであった。
お延のべにはそれが嬉しかっうれしかった。
改めようあらためようとする決心けっしんなしに、改あらためたまった夫おっとの態度たいどには自然しぜんがあった。
同時どうじに津田つだから見みたお延のべにも、またそれと同様どうようの趣おもむきが出でた。
余事よじはしばらく問題外もんだいがいに措くおくとして、結婚後けっこんご彼かれらの間まには、常つねに財力ざいりょくに関するかんする妙みょうな暗闘あんとうがあった。
そうしてそれはこう云ういう因果いんがから来きた。
普通ふつうの人ひとのように富とみを誇りほこりとしたがる津田つだは、その点てんにおいて、自分じぶんをなるべく高くたかくお延のべから評価ひょうかさせるために、父ちちの財産ざいさんを実際じっさいより遥かはるか余計よけいな額がくに見積っみつもったところを、彼女かのじょに向っむかって吹聴ふいちょうした。
それだけならまだよかった。
彼かれの弱点じゃくてんはもう一いち歩あゆみ先さきへ乗り越すのりこす事ことを忘れわすれなかった。
彼かれのお延のべに匂わにおわせた自分じぶんは、今いまより大変たいへん楽らくな身分みぶんにいる若旦那わかだんなであった。
必要ひつような場合ばあいには、いくらでも父ちちから補助ほじょを仰ぐあおぐ事ことができた。
たとい仰があおがないでも、月々つきづきの支出ししゅつに困るこまる憂うれいはけっしてなかった。
お延のべと結婚けっこんした時じの彼かれは、もうこれだけの言責げんせきを彼女かのじょに対したいして背負っせおって立ったっていたのと同じおなじ事ことであった。
利巧りこうな彼かれは、財力ざいりょくに重きおもきを置くおく点てんにおいて、彼かれに優るまさるとも劣らおとらないお延のべの性質せいしつをよく承知しょうちしていた。
極端きょくたんに云えいえば、黄金おうごんの光りひかりから愛そあいその物ものが生れるうまれるとまで信ずるしんずる事ことのできる彼かれには、どうかしてお延のべの手前てまえを取繕わとりつくろわなければならないという不安ふあんがあった。
ことに彼かれはこの点てんにおいてお延のべから軽蔑けいべつされるのを深くふかく恐れおそれた。
堀ほりに依頼いらいして毎月まいつき父ちちから助けたすけて貰うもらうようにしたのも、実じつは必要ひつよう以外いがいにこんな魂胆こんたんが潜んひそんでいたからでもあった。
それでさえ彼かれはどこかに煙たいけむたいところをもっていた。
少くすくなくとも彼女かのじょに対するたいする内うちと外そとにはだいぶんの距離きょりがあった。
眼めから鼻はなへ抜けるぬけるようなお延のべにはまたその距離きょりが手てに取るとるごとくに分っわかった。
必然ひつぜんの勢いいきおい彼女かのじょはそこに不満ふまんを抱かかかえかざるを得とくなかった。
しかし彼女かのじょは夫おっとの虚偽きょぎを責めるせめるよりもむしろ夫おっとの淡泊たんぱくでないのを恨んうらんだ。
彼女かのじょはただ水臭いみずくさいと思っおもった。
なぜ男おとこらしく自分じぶんの弱点じゃくてんを妻つまの前まえに曝け出しさらけだしてくれないのかを苦くにした。
しまいには、それをあえてしないような隔りへだたりのある夫おっとなら、こっちにも覚悟かくごがあると一人ひとり腹はらの中なかできめた。
するとその態度たいどがまた木精もくせいのように津田つだの胸むねに反響はんきょうした。
二人ふたりはどこまで行っいっても、直じかに向き合うむきあう訳わけに行かいかなかった。
しかも遠慮えんりょがあるので、なるべくそこには触れふれないように慎しんつつしんでいた。
ところがお秀おひでとの悶着もんじゃくが、偶然ぐうぜんにもお延のべの胸むねにあるこの扉とびらを一度いちどにがらりと敲きたたき破っやぶった。
しかもお延のべ自身じしん毫もごうもそこに気きがつかなかった。
彼女かのじょは自分じぶんを夫おっとの前まえに開放かいほうしようという努力どりょくも決心けっしんもなしに、天然てんねん自然しぜん自分じぶんを開放かいほうしてしまった。
だから津田つだにもまるで別人べつじんのように快よくこころよく見えみえた。
二人ふたりはこういう風かぜで、いつになく融け合っとけあった。
すると二人ふたりが融け合っとけあったところに妙みょうな現象げんしょうがすぐ起っおこった。
二人ふたりは今までいままで回避かいひしていた問題もんだいを平気へいきで取り上げとりあげた。
二人ふたりはいっしょになって、京都きょうとに対するたいする善後策ぜんごさくを講じこうじ出しだした。
二人ふたりには同じおなじ予感よかんが働いはたらいた。
この事件じけんはこれだけで片づくかたづくまいという不安ふあんが双方そうほうの心こころを引き締めひきしめた。
きっとお秀おひでが何なんかするだろう。
すれば直接ちょくせつ京都きょうとへ向っむかってやるに違いちがいない。
そうしてその結果けっかは自然しぜん二人ふたりの不利益ふりえきとなるにきまっている。
――ここまでは二人ふたりの一致いっちする点てんであった。
それから先さきが肝心かんじんの善後策ぜんごさくになった。
しかしそこへ来るくると意見いけんが区々まちまちで、容易よういに纏まらまとまらなかった。
お延のべは仲裁ちゅうさい者ものとして第だい一いちに藤井ふじいの叔父おじを指名しめいした。
しかし津田つだは首くびを掉とうった。
彼かれは叔父おじも叔母おばもお秀おひでの味方みかたである事ことをよく承知しょうちしていた。
次つぎに津田つだの方ほうから岡本おかもとはどうだろうと云いいい出しだした。
けれども岡本おかもとは津田つだの父ちちとそれほど深いぶかい交際こうさいがないと云ういう理由りゆうで、今度こんどはお延のべが反対はんたいした。
彼女かのじょはいっそ簡単かんたんに自分じぶんが和解わかいの目的もくてきで、お秀おひでの所ところへ行っいって見ようみようかという案あんを立てたてた。
これには津田つだも大したたいした違い存ありはなかった。
たとい今度こんどの事件じけんのためでなくとも、絶交ぜっこうを希望きぼうしない以上いじょう、何なんらかの形式けいしきのもとに、両家りょうけの交際こうさいは復活ふっかつされべき運命うんめいをもっていたからである。
しかしそれはそれとして、彼かれらはもう少しすこし有効ゆうこうな方法ほうほうを同時どうじに講じこうじて見みたかった。
彼かれらは考えかんがえた。
しまいに吉川よしかわの名なが二人ふたりの口くちから同じおなじように出でた。
彼かれの地位ちい、父ちちとの関係かんけい、父ちちから特別とくべつの依頼いらいを受けうけて津田つだの面倒めんどうを見みてくれている目下めしたの事情じじょう、――数えれかぞえれば数えるかぞえるほど、彼かれには有利ゆうりな条件じょうけんが具ぐっていた。
けれどもそこにはまた一種いっしゅの困難こんなんがあった。
それほど親しくしたしく近づきちかづき悪いわるい吉川よしかわに口くちを利いきいて貰おうもらおうとすれば、是非ぜひ共ともその前まえに彼かれの細君さいくんを口説き落さくどきおとさなければならなかった。
ところがその細君さいくんはお延のべにとって大おおの苦手にがてであった。
お延のべは津田つだの提議ていぎに同意どういする前まえに、少しすこし首くびを傾けかたむけた。
細君さいくんと仲なか善ぜんの津田つだはまた充分じゅうぶん成せい効かいの見込みこみがそこに見えみえているので、熱心ねっしんにそれを主張しゅちょうした。
しまいにお延のべはとうとう我われを折っおった。
事件後じけんごの二人ふたりは打ち解けうちとけてこんな相談そうだんをした後あとで心持こころもちよく別れわかれた。
百十四ひゃくじゅうよん
前夜ぜんやよく寝ねられなかった疲労ひろうの加わっくわわった津田つだはその晩ばん案あん外気がいき易くやすく眠るねむる事ことができた。
翌日よくじつもまた透き通るすきとおるような日差にっさを眼めに受けうけて、晴々しいはればれしい空気くうきを篏硝子がらすの外そとに眺めながめた彼かれの耳みみには、隣りとなりの洗濯せんたく屋やで例れいの通りとおりごしごし云わすいわす音おとが、どことなしに秋あきの情趣じょうしゅを唆っそそった。
「……へ行くいくなら着きて行かしゃいかしゃんせ。シッシッシ」 洗濯せんたく屋やの男おとこは、俗歌ぞっかを唄いうたいながら、区切くぎり区切くぎりへシッシッシという言葉ことばを入れいれた。
それがいかにも忙がしいそがしそうに手てを働かはたらかせている彼かれらの姿すがたを津田つだに想像そうぞうさせた。
彼かれらは突然とつぜん変へんな穴あなから白いしろい物ものを担いにないで屋根やねへ出でた。
それから物干ものほしへ上っのぼって、その白いしろいものを隙間すきまなく秋あきの空そらへ広げひろげた。
ここへ来きてから、日ごとひごとに繰り返さくりかえされる彼かれらの所作しょさは単調たんちょうであった。
しかし勤勉きんべんであった。
それがはたして何なんを意味いみしているか津田つだには解らわからなかった。
彼かれは今いまの自分じぶんにもっと親切しんせつな事ことを頭あたまの中なかで考えかんがえなければならなかった。
彼かれは吉川よしかわ夫人ふじんの姿すがたを憶い浮べおもいうかべた。
彼かれの未来みらい、それを眼めの前まえに描き出すえがきだすのは、あまりに漠然ばくぜん過ぎすぎた。
それを纏めようまとめようとすると、いつでも吉川よしかわ夫人ふじんが現われあらわれた。
平生へいぜいから自分じぶんの未来みらいを代表だいひょうしてくれるこの焦点しょうてんにはこの際さい特別とくべつな意味いみが附着ふちゃくしていた。
一いちにはこの間ま訪問ほうもんした時じからの引いんかかりがあった。
その時じ二人ふたりの間まに封じ込めふうじこめられたある問題もんだいを、ぽたりと彼かれの頭あたまに点じてんじたのは彼女かのじょであった。
彼かれにはその後そのあとを聴くきくまいとする努力どりょくがあった。
また聴こうきこうとする意志いしも動いうごいた。
すでに封ふうを切っきったものが彼女かのじょであるとすれば、中味なかみを披くひらく権利けんりは自分じぶんにあるようにも思わおもわれた。
二にには京都きょうとの事ことが気きになった。
軽重けいじゅうを別べつにして考えるかんがえると、この方ほうがむしろ急きゅうに逼っせまっていた。
一いち日ひも早くはやく彼女かのじょに会うあうのが得策とくさくのようにも見えみえた。
まだ四五しご日ひはどうしても動くうごく事ことのできない身体しんたいを持ち扱っもちあつかった彼かれは、昨日きのうお延のべの帰るかえる前まえに、彼女かのじょを自分じぶんの代りかわりに夫人ふじんの所ところへやろうとしたくらいであった。
それはお延のべに断らことわられたので、成立せいりつしなかったけれども、彼かれは今いまでもその方ほうが適当てきとうな遣けん口くちだと信じしんじていた。
お延のべがなぜこういう用よう向むかいを帯びおびて夫人ふじんを訪ねるたずねるのを嫌っいやったのか、津田つだは不思議ふしぎでならなかった。
黙っだまっていてもそんな方面ほうめんへ出入でいりをしたがる女おんなのくせに。
と彼かれはその時じ考えかんがえた。
夫人ふじんの前まえへ出でられるためにわざと用事ようじを拵らえこしらえて貰っもらったのと同じおなじ事ことだのにとまで、自分じぶんの動議どうぎを強調きょうちょうして見みた。
しかしどうしても引き受けひきうけたがらないお延のべを、たって強いるしいる気きもまたその場合ばあいの彼かれには起らおこらなかった。
それは夫婦ふうふ打ち解けうちとけた気分きぶんにも起因きいんしていたが、一方いっぽうから見るみると、またお延のべの辞退じたいしようにも関係かんけいしていた。
彼女かのじょは自分じぶんが行くいくと必ずかならず失敗しっぱいするからと云っいった。
しかしその理由りゆうを述べるのべる代りかわりに、津田つだならきっと成せい効するこうするに違いないからと云っいった。
成せい効するこうするにしても、病院びょういんを出でた後あとでなければ会うあう訳わけに行かいかないんだから、遅くおそくなる虞れおそれがあると津田つだが注意ちゅういした時じ、お延のべはまた意外いがいな返事へんじを彼かれに与えあたえた。
彼女かのじょは夫人ふじんがきっと病院びょういんへ見舞みまいに来るくるに違いないと断言だんげんした。
その時機じきを利用りようしさえすれば、一番いちばん自然しぜんにまた一番いちばん簡単かんたんに事ことが運ぶはこぶのだと主張しゅちょうした。
津田つだは洗濯せんたく屋やの干物ひものを眺めながめながら、昨日きのうの問答もんどうをこんな風かぜに、それからそれへと手元てもとへ手繰り寄せたぐりよせて点検てんけんした。
すると吉川よしかわ夫人ふじんは見舞みまいに来きてくれそうでもあった。
また来きてくれそうにもなかった。
つまりお延のべがなぜ来るくる方ほうをそう堅くかたく主張しゅちょうしたのか解らわからなくなった。
彼かれは芝居しばいの食堂しょくどうで晩餐ばんさんの卓たくに着いついたという大勢おおぜいを眼め先さきに想像そうぞうして見みた。
お延のべと吉川よしかわ夫人ふじんの間まにどんな会話かいわが取りとり換かえわされたかを、小説しょうせつ的まとに組み合せくみあわせても見みた。
けれどもその会話かいわのどこからこの予言よげんが出でて来きたかの点てんになると、自分じぶんに解らわからないものとして投げなげてしまうよりほかに手てはなかった。
彼かれはすでに幾分いくぶんの直覚ちょっかく、不幸ふこうにして天てんが彼かれに与えあたえてくれなかった幾分いくぶんの直覚ちょっかくを、お延のべに許しゆるしていた。
その点てんでいつでも彼女かのじょを少しすこし畏れおそれなければならなかった彼かれには、杜撰ずさんにそこへ触れるふれる勇気ゆうきがなかった。
と同時どうじに、全然ぜんぜんその直覚ちょっかくに信頼しんらいする事ことのできない彼かれは、何なんとかしてこっちから吉川よしかわ夫人ふじんを病院びょういんへ呼び寄せるよびよせる工夫くふうはあるまいかと考えかんがえた。
彼かれはすぐ電話でんわを思いついおもいついた。
横着おうちゃくにも見えみえず、ことさらでもなし、自然しぜんに彼女かのじょがここまで出向いでむいて来るくるような電話でんわのかけ方ほうはなかろうかと苦心くしんした。
しかしその苦心くしんは水の泡みずのあわを製造せいぞうする努力どりょくとほぼ似にたものであった。
いくら骨ほねを折っおって拵えこしらえても、すぐ後あとから消えきえて行くいくだけであった。
根本的こんぽんてきに無理むりな空想くうそうを実現じつげんさせようと巧たくみらんでいるのだから仕方しかたがないと気きがついた時じ、彼かれは一人ひとりで苦笑くしょうしてまた硝子がらす越こしに表ひょうを眺めながめた。
表ひょうはいつか風かぜ立ったった。
洗濯せんたく屋やの前まえにある一いち本ほんの柳やなぎの枝えだが白いしろい干物ひものといっしょになって軽くかるく揺れゆれていた。
それを掠めるかすめるようにかけ渡さかけわたされた三さん本ほんの電線でんせんも、よそと調子ちょうしを合せるあわせるようにふらふらと動いうごいた。
百十五ひゃくじゅうご
下したから上っのぼって来きた医者いしゃには、その時じの津田つだがいかにも退屈たいくつそうに見えみえた。
顔かおを合せるあわせるや否いなや彼かれは「いかがです」と訊いきいた後あとで、「もう少しすこしの我慢がまんです」とすぐ慰めるなぐさめるように云っいった。
それから彼かれは津田つだのためにガーゼがーぜを取りとり易えかえてくれた。
「まだ創口そうこうの方ほうはそっとしておかないと、危険きけんですから」 彼かれはこう注意ちゅういして、じかに局部きょくぶを抑えつけおさえつけている個所かしょを少しすこし緩めゆるめて見みたら、血ちが煮に染み出ししみだしたという話はなしを用心ようじんのためにして聴かきかせた。
取りとり易えかえられたガーゼがーぜは一部分いちぶぶんに過ぎすぎなかった。
要所ようしょを剥がすはがすと、血ちが迸しるかも知れしれないという身体しんたいでは、津田つだも無理むりをして宅たくへ帰るかえる訳わけに行かいかなかった。
「やッぱりやっぱり予定よてい通りとおりの日数にっすうは動かうごかずにいるよりほかに仕方しかたがないでしょうね」 医者いしゃは気の毒きのどくそうな顔かおをした。
「なに経過けいか次第しだいじゃ、それほど大事だいじを取るとるにも及ばおよばないんですがね」 それでも医者いしゃは、時間じかんと経済けいざいに不足ふそくのない、どこから見みても余裕よゆうのある患者かんじゃとして、津田つだを取扱とりあつかいかっているらしかった。
「別べつに大したたいした用事ようじがお有ゆうになる訳わけでもないんでしょう」「ええ一いち週間しゅうかんぐらいはここで暮らしくらしてもいいんです。しかし臨時りんじにちょっと事件じけんが起っおこったので……」「はあ。――しかしもう直じかです。もう少しすこしの辛しん防ぼうです」 これよりほかに云いいいようのなかった医者いしゃは、外来がいらい患者かんじゃの方ほうがまだ込み合わこみあわないためか、そこへ坐っすわって二三にさんの雑談ざつだんをした。
中なかで、彼かれがまだ助手じょしゅとしてある大きなおおきな病院びょういんに勤めつとめている頃ころに起っおこったという一口話いちこうわが、思わおもわず津田つだを笑わわらわせた。
看護婦かんごふが薬くすりを間違えまちがえたために患者かんじゃが死んしんだのだという嫌疑けんぎをかけて、是非ぜひその看護婦かんごふを殴らなぐらせろと、医局いきょくへ逼っせまった人ひとがあったというその話はなしは、津田つだから見るみるといかにも滑稽こっけいであった。
こういう性質せいしつの人ひとと正反対せいはんたいに生みつけうみつけられた彼かれは、そこに馬鹿ばからしさ以外いがいの何物なにものをも見み出すだす事ことができなかった。
平たくひらたく云いいい直すなおすと、彼かれは向うむこうの短所たんしょばかりに気きを奪らとられた。
そうしてその裏側うらがわへ暗にあんに自分じぶんの長所ちょうしょを点綴てんていして喜んよろこんだ。
だから自分じぶんの短所たんしょにはけっして思い及ばおもいおよばなかったと同一どういつの結果けっかに帰着きちゃくした。
医者いしゃの診察しんさつが済んすんだ後あとで、彼かれは下らしたらない病気びょうきのために、一いち週間しゅうかんも一いちつ所ところに括りくくりつけられなければならない現在げんざいの自分じぶんを悲観ひかんしたくなった。
気きのせいか彼かれにはその現在げんざいが大変たいへん貴重きちょうに見えみえた。
もう少しすこし治療ちりょうを後廻しあとまわしにすれば好かっよかったという後悔こうかいさえ腹はらの中なかには起っおこった。
彼かれはまた吉川よしかわ夫人ふじんの事ことを考えかんがえ始めはじめた。
どうかして彼女かのじょをここへ呼びつけるよびつける工夫くふうはあるまいかと思うおもうよりも、どうかして彼女かのじょがここへ来きてくれればいいがと思うおもう方ほうに、心こころの調子ちょうしがだんだん移っうつって行っいった。
自分じぶんを見破らみやぶられるという意味いみで、平生へいぜいからお延のべの直覚ちょっかくを悪くわるく評価ひょうかしていたにもかかわらず、例外れいがいなこの場合ばあいだけには、それがあたって欲しいほしいような気きもどこかでした。
彼かれはお延のべの置いおいて行っいった書物しょもつの中なかから、
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