明暗

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その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。

第 5 章
しまいに筆ふでを擱いおいた彼女かのじょは、もう一遍いちぺん自分じぶんの書いかいたものを最初さいしょから読み直しよみなおして見みた。
彼女かのじょの手てを支配しはいしたと同じおなじ気分きぶんが、彼女かのじょの眼めを支配しはいしているので、彼女かのじょは訂正ていせいや添削てんさくの必要ひつようをどこにも認めみとめなかった。
日頃ひごろ苦くにして、使うつかう時じにはきっと言海げんかいを引いひいて見るみる、うろ覚えうろおぼえの字じさえそのままで少しすこしも気きにかからなかった。
てには違いのために意味いみの通じつうじなくなったところを、二三にさんカ所かしょちょいちょいと取り繕っとりつくろっただけで、彼女かのじょは手紙てがみを巻いまいた。
そうして心こころの中なかでそれを受取るうけとる父母ふぼに断っことわった。
「この手紙てがみに書いかいてある事ことは、どこからどこまで本当ほんとうです。嘘うそや、気き休きゅうや、誇張こちょうは、一いち字じもありません。もしそれを疑ううたがう人ひとがあるなら、私わたくしはその人ひとを憎みにくみます、軽蔑けいべつします、唾つばを吐きはきかけます。その人ひとよりも私わたくしの方ほうが真相しんそうを知っしっているからです。私わたくしは上部じょうぶの事実じじつ以上いじょうの真相しんそうをここに書いかいています。それは今いま私わたくしにだけ解っわかっている真相しんそうなのです。しかし未来みらいでは誰だれにでも解らわからなければならない真相しんそうなのです。私わたくしはけっしてあなた方ほうを欺ぎむいてはおりません。私わたくしがあなた方ほうを安心あんしんさせるために、わざと欺騙ぎの手紙てがみを書いかいたのだというものがあったなら、その人ひとは眼めの明いあいた盲目もうもくです。その人ひとこそ嘘うそ吐とです。どうぞこの手紙てがみを上げるあげる私わたくしを信用しんようして下さいください。神かみ様ようはすでに信用しんようしていらっしゃるのですから」 お延のべは封書ふうしょを枕元まくらもとへ置いおいて寝ねた。
七十九ななじゅうきゅう
始めはじめて京都きょうとで津田つだに会っかいった時じの事ことが思い出さおもいだされた。
久しぶりひさしぶりに父母ふぼの顔かおを見みに帰っかえったお延のべは、着いついてから二三にさん日ひして、父ちちに使しを頼またのまれた。
一いち通つうの封書ふうしょと一いち帙ちつの唐本とうほんを持っもって、彼女かのじょは五六ごろく町まち隔っへだたった津田つだの宅たくまで行かいかなければならなかった。
軽いかるい神経痛しんけいつうに悩まさなやまされて、寝ねたり起きおきたりぶらぶらしていた彼女かのじょの父ちちは、病中びょうちゅうの徒然つれづれを慰めるなぐさめるために折々おりおり津田つだの父ちちから書物しょもつを借り受けるかりうけるのだという事ことを、お延のべはその時じ始めはじめて彼かれの口くちから聞かさきかされた。
古いふるいのを返しかえして新らしいあたらしいのを借りかりて来るくるのが彼女かのじょの用よう向むかいであった。
彼女かのじょは津田つだの玄関げんかんに立ったって案内あんないを乞うこうた。
玄関げんかんには大きなおおきな衝立ついたてが立てたててあった。
白いしろい紙かみの上うえに躍っおどっているように見えるみえる変へんな字じを、彼女かのじょが驚ろいおどろいて眺めながめていると、その衝立ついたての後あとから取次とりつぎに現われあらわれたのは、下女げじょでも書生しょせいでもなく、ちょうどその時じ彼女かのじょと同じおなじように京都きょうとの家いえへ来きていた由雄よしおであった。
二人ふたりは固よりもとよりそれまでに顔かおを合せあわせた事ことがなかった。
お延のべの方ほうではただ噂うわさで由雄よしおを知っしっているだけであった。
近頃ちかごろ家いえへ帰っかえって来きたとか、または帰っかえっているとかいう話はなしは、その朝あさ始めはじめて父ちちから聞いきいたぐらいのものであった。
それも父ちちに新らしくあたらしく本ほんを借りようかりようという気きが起っおこって、彼かれがそのための手紙てがみを書いかいた。
事ことのついでに過ぎすぎなかった。
由雄よしおはその時じお延のべから帙ちつ入いりの唐本とうほんを受取っうけとって、なぜだか、明あきら詩し別べつ裁さいという厳めしいいかめしい字じで書いかいた標題ひょうだいを長らくながらくの間ま見つめみつめていた。
その見つめみつめている彼かれを、お延のべはまたいつまでも眺めながめていなければならなかった。
すると彼かれが急きゅうに顔かおを上げあげたので、お延のべが今までいままで熱心ねっしんに彼かれを見みていた事ことがすぐ発覚はっかくしてしまった。
しかし由雄よしおの返事へんじを待ち受けるまちうける位地いちに立たたたせられたお延のべから見れみれば、これもやむをえない所作しょさに違いなかった。
顔かおを上げあげた由雄よしおは、「父ちちはあいにく今いま留守るすですが」と云っいった。
お延のべはすぐ帰ろうかえろうとした。
すると由雄よしおがまた呼びとめよびとめて、自分じぶんの父ちち宛ずつの手紙てがみを、お延のべの見みている前まえで、断りことわりも何になんにもせずに、開封かいふうした。
この平気へいきな挙動きょどうがまたお延のべの注意ちゅういを惹いひいた。
彼かれの遣けん口くちは不作法ふさほうであった。
けれども果断かだんに違いなかった。
彼女かのじょはどうしても彼かれを粗野そやとか乱暴らんぼうとかいう言葉ことばで評するひょうする気きにならなかった。
手紙てがみを一目いちもく見みた由雄よしおは、お延のべを玄関先げんかんさきに待たまたせたまま、入用にゅうようの書物しょもつを探しさがしに奥おくへ這入っはいった。
しかし不幸ふこうにして父ちちの借ろうかろうとする漢籍かんせきは彼かれの眼めのつく所ところになかった。
十じゅう分ぶんばかりしてまた出でて来きた彼かれは、お延のべを空しくむなしく引きとめひきとめておいた詫わびを述べのべた。
指定していの本ほんはちょっと見つからみつからないから、彼かれの父ちちの帰りかえり次第しだい、こっちから届けるとどけるようにすると云っいった。
お延のべは失礼しつれいだというので、それを断っことわった。
自分じぶんがまた明日あすにでも取りとりに来るくるからと約束やくそくして宅たくへ帰っかえった。
するとその日ひの午後ごご由雄よしおが向うむこうから望みのぞみの本ほんをわざわざ持っもって来きてくれた。
偶然ぐうぜんにもお延のべがその取次とりつぎに出でた。
二人ふたりはまた顔かおを見合せみあわせた。
そうして今度こんどはすぐ両方りょうほうで両方りょうほうを認め合っみとめあった。
由雄よしおの手てに提げさげた書物しょもつは、今朝けさお延のべの返しかえしに行っいったものに比べるくらべると、約やく三さん倍ばいの量りょうがあった。
彼かれはそれを更紗さらさの風呂敷ふろしきに包んつつんで、あたかも鳥籠とりかごでもぶら下げぶらさげているような具合ぐあいにしてお延のべに示ししめした。
彼かれは招ぜしょうぜられるままに座敷ざしきへ上っのぼってお延のべの父ちちと話はなしをした。
お延のべから云えいえば、とても若いわかい人ひとには堪えこらえられそうもない老人ろうじん向むかいの雑談ざつだんを、別べつに迷惑めいわくそうな様子ようすもなく、方角ほうがく違いの父ちちと取りとり換かえわせた。
彼かれは自分じぶんの持っもって来きた本ほんについては何事なにごとも知らしらなかった。
お延のべの返しかえしに行っいった本ほんについてはなお知らしらなかった。
劃の多いおおい四角しかくな字じの重なっかさなっている書物しょもつは全くまったく読めよめないのだと断っことわった。
それでもこちらから借りかりに行っいった呉ご梅村うめむら詩しという四よん文字もじを的まとに、書棚しょだなをあっちこっちと探しさがしてくれたのであった。
父ちちはあつく彼かれの好意こういを感謝かんしゃした。
…… お延のべの眼めにはその時じの彼かれがちらちらした。
その時じの彼かれは今いまの彼かれと別人べつじんではなかった。
といって、今いまの彼かれと同人どうにんでもなかった。
平たくひらたく云えいえば、同じおなじ人ひとが変っかわったのであった。
最初さいしょ無関心むかんしんに見えみえた彼かれは、だんだん自分じぶんの方ほうに牽きひきつけられるように変っかわって来きた。
いったん牽きひきつけられた彼かれは、またしだいに自分じぶんから離れるはなれるように変っかわって行くいくのではなかろうか。
彼女かのじょの疑はぎはほとんど彼女かのじょの事実じじつであった。
彼女かのじょはその疑ぎを拭い去るぬぐいさるために、その事実じじつを引いんッっ繰り返さくりかえさなければならなかった。
八十はちじゅう
強いつよい意志いしがお延のべの身体しんたい全体ぜんたいに充ちみち渡っわたった。
朝あさになって眼めを覚ましさました時じの彼女かのじょには、怯懦きょうだほど自分じぶんに縁えんの遠いとおいものはなかった。
寝ね起きの悪わる過ぎすぎた前の日まえのひの自分じぶんを忘れわすれたように、彼女かのじょはすぐ飛び起きとびおきた。
夜具やぐを跳ねはね退けしりぞけて、床ゆかを離れるはなれる途端とたんに、彼女かのじょは自分じぶんで自分じぶんの腕うでの力ちからを感じかんじた。
朝寒あさざむの刺戟しげきと共ともに、締まっしまった筋肉きんにくが一度いちどに彼女かのじょを緊縮きんしゅくさせた。
彼女かのじょは自分じぶんの手てで雨戸あまどを手繰ったぐった。
戸外こがいの模様もようはいつもよりまだよッっぽど早かっはやかった。
昨日きのうに引き換えひきかえて、今日きょうは津田つだのいる時じよりもかえって早くはやく起きおきたという事ことが、なぜだか彼女かのじょには嬉しかっうれしかった。
怠けなまけて寝過しねすごした昨日きのうの償いつぐない、それも満足まんぞくの一いちつであった。
彼女かのじょは自分じぶんで床ゆかを上げあげて座敷ざしきを掃き出しはきだした後あとで鏡台きょうだいに向っむかった。
そうして結っけつってから四よん日ひ目めになる髪かみを解いといた。
油あぶらで汚れよごれた所ところへ二三にさん度ど櫛くしを通しとおして、癖くせがついて自由じゆうにならないのを、無理むりに廂ひさしに束ねたばね上げあげた。
それが済んすんでから始めはじめて下女げじょを起しおこした。
食事しょくじのできるまでの時間じかんを、下女げじょと共ともに働はたらけらいた彼女かのじょは、膳ぜんに着いついた時じ、下女げじょから「今日きょうは大変たいへんお早うおはようございましたね」と云わいわれた。
何になんにも知らしらないお時じは、彼女かのじょの早起はやきを驚ろいおどろいているらしかった。
また自分じぶんが主人しゅじんより遅くおそく起きおきたのをすまない事ことでもしたように考えかんがえているらしかった。
「今日きょうは旦那だんな様ようのお見舞おみまいに行かいかなければならないからね」「そんなにお早くはやくいらっしゃるんでございますか」「ええ。昨日きのう行かいかなかったから今日きょうは少しすこし早くはやく出かけでかけましょう」 お延のべの言葉ことば遣けんは平生へいぜいより鄭てい寧ねいで片づいかたづいていた。
そこに或ある落ちつきおちつきがあった。
そうしてその落ちつきおちつきを裏切るうらぎる意気いきがあった。
意気いきに伴なうともなう果断かだんも遠くとおくに見えみえた。
彼女かのじょの中なかにある心こころの調子ちょうしがおのずと態度たいどにあらわれた。
それでも彼女かのじょはすぐ出かけようでかけようとはしなかった。
襷たすきを外しはずして盆ぼんを持っもったお時じを相手あいてに、しばらく岡本おかもとの話はなしなどをした。
もと世話せわになった覚さとしのあるその家族かぞくは、お時じにとっても、興味きょうみに充ちみちた題目だいもくなので、二人ふたりは同じおなじ事ことを繰り返すくりかえすようにしてまで、よく彼かれらについて語り合っかたりあった。
ことに津田つだのいない時じはそうであった。
というのは、もし津田つだがいると、ある場合ばあいには、彼かれ一人ひとりが除外じょがい物ものにされたような変へんな結果けっかに陥るおちいるからであった。
ふとした拍子ひょうしからそんな気き下した味いあじわい思いおもいを一二いちに度ど経験けいけんした後あとで、そこに気きをつけ出しだしたお延のべは、そのほかにまだ、富裕ふゆうな自分じぶんの身内みうちを自慢じまんらしく吹聴ふいちょうしたがる女おんなと夫おっとから解釈かいしゃくされる不快ふかいを避けさけなければならない理由りゆうもあったので、お時じにもかねてその旨むねを言い含めいいふくめておいたのである。
「御嬢ごじょうさまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」「何なんだかそんな話はなしもあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らわからない様子ようすだよ」「早くはやく好いよい所ところへいらっしゃるようになると、結構けっこうでございますがね」「おおかたもうじきでしょう。叔父おじさんはあんな性急せいきゅうだから。それに継子けいしさんはあたしと違っちがって、ああいう器量きりょう好しよしだしね」 お時おときは何なんか云おういおうとした。
お延のべは下女げじょのお世辞おせじを受けるうけるのが苦痛くつうだったので、すぐ自分じぶんでその後そのあとをつけた。
「女おんなはどうしても器量きりょうが好くよくないと損ねそこね。いくら悧巧りこうでも、気きが利いきいていても、顔かおが悪いわるいと男おとこには嫌わいやわれるだけね」「そんな事ことはございません」 お時おときが弁護べんごするように強くつよくこういったので、お延のべはなお自分じぶんを主張しゅちょうしたくなった。
「本当ほんとうよ。男おとこはそんなものなのよ」「でも、それは一時いちじの事ことで、年ねんを取るとるとそうは参りまいりますまい」 お延のべは答えこたえなかった。
しかし彼女かのじょの自信じしんはそんな弱いよわいものではなかった。
「本当ほんとうにあたしのような不器量ふきりょうなものは、生れ変っうまれかわってでも来きなくっちゃ仕方しかたがない」 お時おときは呆れあきれた顔かおをしてお延のべを見みた。
「奥様おくさまが不器量ふきりょうなら、わたくしなんか何なんといえばいいのでございましょう」 お時じの言葉ことばはお世辞おせじでもあり、事実じじつでもあった。
両方りょうほうの度合どあいをよく心得こころえていたお延のべは、それで満足まんぞくして立ち上ったちのぼった。
彼女かのじょが外出がいしゅつのため着物きものを着換えきかえていると、戸外こがいから誰だれか来きたらしい足音あしおとがして玄関げんかんの号ごう鈴すずが鳴っなった。
取次とりつぎに出でたお時じに、「ちょっと奥さんおくさんに」という声こえが聞こえきこえた。
お延のべはその声こえの主ぬしを判断はんだんしようとして首くびを傾けかたむけた。
八十一はちじゅういち
袖そでを口くちへ当てあててくすくす笑いわらいながら茶の間ちゃのまへ駈け込んかけこんで来きたお時じは、容易よういに客きゃくの名なを云わいわなかった。
彼女かのじょはただおかしさを噛み殺そうかみころそうとして、お延のべの前まえで悶え苦しんもだえくるしんだ。
わずか「小林こばやし」という言葉ことばを口くちへ出すだすのでさえよほど手間取ってまどった。
この不時ふじの訪問者ほうもんしゃをどう取り扱っとりあつかっていいか、お延のべは解らわからなかった。
厚いあつい帯おびを締めしめかけているので、自分じぶんがすぐ玄関げんかんへ出るでる訳わけに行かいかなかった。
といって、掛かかり取とりでも待たまたせておくように、いつまでも彼かれをそこに立たたたせるのも不作ふさく法ほうであった。
姿見すがたみの前まえに立ち竦んたちすくんだ彼女かのじょは当惑とうわくの眉まゆを寄せよせた。
仕方しかたがないので、今いま出がけでがけだから、ゆっくり会っかいってはいられないがとわざわざ断らことわらした後あとで、彼かれを座敷ざしきへ上げあげた。
しかし会っかいって見るみると、満更まんざら知らしらない顔かおでもないので、用ようだけ聴いきいてすぐ帰っかえって貰うもらう事こともできなかった。
その上小林うえこばやしは斟酌しんしゃくだの遠慮えんりょだのを知らしらない点てんにかけて、たいていの人ひとに引いんを取らとらないように、天てんから生みつけうみつけられた男おとこであった。
お延のべの時間じかんが逼っせまっているのを承知しょうちの癖くせに、彼かれは相手あいてさえ悪いわるい顔かおをしなければ、いつまで坐り込んすわりこんでいても差支えさしつかえないものと独りひとりで合点がてんしているらしかった。
彼かれは津田つだの病気びょうきをよく知っしっていた。
彼かれは自分じぶんが今度こんど地位ちいを得とくて朝鮮ちょうせんに行くいく事ことを話しはなした。
彼かれのいうところによれば、その地位ちいは未来みらいに希望きぼうのある重要じゅうようのものであった。
彼かれはまた探偵たんていに跟けつけられた話はなしをした。
それは津田つだといっしょに藤井ふじいから帰るかえる晩ばんの出来事できごとだと云っいって、驚ろいおどろいたお延のべの顔かおを面白おもしろそうに眺めながめた。
彼かれは探偵たんていに跟けつけられるのが自慢じまんらしかった。
おおかた社会主義者しゃかいしゅぎしゃとして目指さめざされているのだろうという説明せつめいまでして聴かきかせた。
彼かれの談話だんわには気きの弱いよわい女おんなに衝撃しょうげきを与えるあたえるような部分ぶぶんがあった。
津田つだから何になんにも聞いきいていないお延のべは、怖々こわごわながらついそこに釣り込まつりこまれて大切たいせつな時間じかんを度外どがいにおいた。
しかし彼かれの云ういう事ことを素直すなおにはいはい聴いきいているとどこまで行っいってもはてしがなかった。
しまいにはこっちから催促さいそくして、早くはやく向うむこうに用事ようじを切り出さきりださせるように仕向けるしむけるよりほかに途とがなくなった。
彼かれは少しすこしきまりの悪わるそうな様子ようすをしてようやく用よう向むかいを述べのべた。
それは昨夕さくゆうお延のべとお時じをさんざ笑わわらわせた外套がいとうの件けんにほかならなかった。
「津田つだ君きみから貰うもらうっていう約束やくそくをしたもんですから」 彼かれの主意しゅいは朝鮮ちょうせんへ立つたつ前まえちょっとその外套がいとうを着きて見みて、もしあんまり自分じぶんの身体しんたいに合わあわないようなら今いまのうちに直さなおさせたいというのであった。
お延のべはすぐ入用にゅうようの品しなを箪笥たんすの底そこから出しだしてやろうかと思っおもった。
けれども彼女かのじょはまだ津田つだから何になんにも聞いきいていなかった。
「どうせもう着るきる事ことなんかなかろうとは思うおもうんですが」といって逡巡しゅんじゅんった彼女かのじょは、こんな事ことに案外あんがいやかましい夫おっとの気性きしょうをよく知っしっていた。
着古しきふるした外套がいとう一いちつが本ほんで、他日たじつ細君さいくんの手落ておち呼こわりなどをされた日ひには耐らたまらないと思っおもった。
「大丈夫だいじょうぶですよ、くれるって云っいったに違いないんだから。嘘うそなんか吐きはきやしませんよ」 出しだしてやらないと小林こばやしを嘘うそ吐ととしてしまうようなものであった。
「いくら酔払っよっぱらっていたって気きは確かくなんですからね。どんな事ことがあったって貰うもらう物ものを忘れるわすれるような僕ぼくじゃありませんよ」 お延のべはとうとう決心けっしんした。
「じゃしばらく待っまってて下さいください。電話でんわでちょっと病院びょういんへ聞き合せききあわせにやりますから」「奥さんおくさんは実じつに几帳面きちょうめんですね」と云っいって小林こばやしは笑っわらった。
けれどもお延のべの暗にあんに恐れおそれていた不愉快ふゆかいそうな表情ひょうじょうは、彼かれの顔かおのどこにも認めみとめられなかった。
「ただ念ねんのためにですよ。あとでわたくしがまた何なんとか云わいわれると困りこまりますから」 お延のべはそれでも小林こばやしが気きを悪くわるくしない用心ようじんに、こんな弁解べんかいがましい事ことを附け加えつけくわえずにはいられなかった。
お時じが自働じどう電話でんわへ駈けつけかけつけて津田つだの返事へんじを持っもって来るくる間ま、二人ふたりはなお対座たいざした。
そうして彼女かのじょの帰りかえりを待ち受けるまちうける時間じかんを談話だんわで繋いつないだ。
ところがその談話だんわは突然とつぜんな閃めきひらめきで、何になんにも予期よきしていなかったお延のべの心臓しんぞうを躍らおどらせた。
八十二はちじゅうに
「津田つだ君きみは近頃ちかごろだいぶおとなしくなったようですね。全くまったく奥さんおくさんの影響えいきょうでしょう」 お時おときが出でて行くいくや否いなや、小林こばやしは藪やぶから棒ぼうにこんな事ことを云いいい出しだした。
お延のべは相手あいてが相手あいてなので、当らあたらず障らさわらずの返事へんじをしておくに限るかぎると思っおもった。
「そうですか。私自身わたくしじしんじゃ影響えいきょうなんかまるでないように思っおもっておりますがね」「どうして、どうして。まるで人間にんげんが生れ変っうまれかわったようなものです」 小林こばやしの云いいい方ほうがあまり大袈裟おおげさなので、お延のべはかえって相手あいてを冷評れいひょうし返しかえしてやりたくなった。
しかし彼女かのじょの気位きぐらいがそれを許さゆるさなかったので、彼女かのじょはわざと黙っだまっていた。
小林こばやしはまたそんな事ことを顧慮こりょする男おとこではなかった。
秩序ちつじょも段落だんらくも構わかまわない彼かれの話題わだいは、突飛とっぴにここかしこを駈け回るかけまわる代りかわりに、時じとしては不作法ふさほうなくらい一直線いちちょくせんに進んすすんだ。
「やッぱりやっぱり細君さいくんの力ちからには敵いかないませんね、どんな男おとこでも。――僕ぼくのような独身どくしんものには、ほとんど想像そうぞうがつかないけれども、何なんかあるんでしょうね、そこに」 お延のべはとうとう自分じぶんを抑えるおさえる事ことができなくなった。
彼女かのじょは笑いわらい出しだした。
「ええあるわ。小林こばやしさんなんかにはとても見当けんとうのつかない神秘的しんぴてきなものがたくさんあるわ、夫婦ふうふの間まには」「あるなら一いちつ教えおしえていただきたいもんですね」「独りひとりものが教わっおそわったって何になんにもならないじゃありませんか」「参考さんこうになりますよ」 お延のべは細いほそい眼めのうちに、賢こかしこそうな光りひかりを見せみせた。
「それよりあなた御自分ごじぶんで奥さんおくさんをお貰いもらいになるのが、一番いちばん捷径しょうけいじゃありませんか」 小林こばやしは頭あたまを掻くかく真似まねをした。
「貰いもらいたくっても貰えもらえないんです」「なぜ」「来きてくれ手くれてがなければ、自然しぜん貰えもらえない訳わけじゃありませんか」「日本にっぽんは女おんなの余っよってる国くによ、あなた。お嫁よめなんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がっころがってるじゃありませんか」 お延のべはこう云っいったあとで、これは少しすこし云いいい過ぎすぎたと思っおもった。
しかし相手あいては平気へいきであった。
もっと強くつよくて烈しいはげしい言葉ことばに平生へいぜいから慣れなれ抜いぬいている彼かれの神経しんけいは全くまったく無感覚むかんかくであった。
「いくら女おんなが余っよっていても、これから駈けかけ落おちをしようという矢先やさきですからね、来きッっこありませんよ」 駈落という言葉ことばが、ふと芝居しばいでやる男女だんじょ二人ふたりの道行みちゆきをお延のべに想い起さおもいおこさせた。
そうした濃厚のうこうな恋愛れんあいを象ぞうどる艶めかしいなまめかしい歌舞伎かぶき姿すがたを、ちらりと胸むねに描いえがいた彼女かのじょは、それと全くまったく縁えんの遠いとおい、他ほかの着古しきふるした外套がいとうを貰うもらうために、今いま自分じぶんの前まえに坐っすわっている小林こばやしを見みて微笑びしょうした。
「駈落をなさるのなら、いっそ二人ふたりでなすったらいいでしょう」「誰だれとです」「そりゃきまっていますわ。奥さんおくさんのほかに誰だれも伴れつれていらっしゃる方ほうはないじゃありませんか」「へえ」 小林こばやしはこう云っいったなり畏まっかしこまった。
その態度たいどが全くまったくお延のべの予期よきに外れはずれていたので、彼女かのじょは少しすこし驚ろかさおどろかされた。
そうしてかえって予期よき以上いじょうおかしくなった。
けれども小林こばやしは真面目まじめであった。
しばらく間まをおいてから独り言ひとりごとのような口調くちょうで、彼かれは妙みょうなことを云いいい出しだした。
「僕ぼくだって朝鮮ちょうせん三界さんがいまで駈落のお供おともをしてくれるような、実じつのある女おんながあれば、こんな変へんな人間にんげんにならないで、すんだかも知れしれませんよ。実じつを云ういうと、僕ぼくには細君さいくんがないばかりじゃないんです。何になんにもないんです。親おやも友達ともだちもないんです。つまり世の中よのなかがないんですね。もっと広くひろく云えいえば人間にんげんがないんだとも云わいわれるでしょうが」 お延のべは生れうまれて初めてはじめての人ひとに会っかいったような気きがした。
こんな言葉ことばをまだ誰だれの口くちからも聞いきいた事ことのない彼女かのじょは、その表面ひょうめん上うえの意味いみを理解りかいするだけでも困難こんなんを感じかんじた。
相手あいてをどう捌はちなしていいかの点てんになると、全くまったく方角ほうがくが立たたたなかった。
すると小林こばやしの態度たいどはなお感慨かんがいを帯びおびて来きた。
「奥さんおくさん、僕ぼくにはたった一人ひとりの妹いもうとがあるんです。ほかに何になんにもない僕ぼくには、その妹いもうとが非常ひじょうに貴重きちょうに見えるみえるのです。普通ふつうの人ひとの場合ばあいよりどのくらい貴重きちょうだか分りゃわかりゃしません。それでも僕ぼくはその妹いもうとをおいて行かいかなければならないのです。妹いもうとは僕ぼくのあとへどこまでも喰くえッっついて来きたがります。しかし僕ぼくはまた妹いもうとをどうしても伴れつれて行くいく事ことができないのです。二人ふたりいっしょにいるよりも、二人ふたり離れ離れはなればなれになっている方ほうが、まだ安全あんぜんだからです。人ひとに殺さころされる危険きけんがまだ少ないすくないからです」 お延のべは少しすこし気味きみが悪くわるくなった。
早くはやく帰っかえって来きてくれればいいと思うおもうお時じはまだ帰らかえらなかった。
仕方なししかたなしに彼女かのじょは話題わだいを変えかえてこの圧迫あっぱくから逃れようのがれようと試みこころみた。
彼女かのじょはすぐ成功せいこうした。
しかしそれがために彼女かのじょはまたとんでもない結果けっかに陥っおちいった。
八十三はちじゅうさん
特殊とくしゅの経過けいかをもったその時じの問答もんどうは、まずお延のべの言葉ことばから始まっはじまった。
「しかしあなたのおっしゃる事ことは本当ほんとうなんでしょうかね」 小林こばやしははたして沈痛ちんつうらしい今までいままでの態度たいどをすぐ改めあらためた。
そうしてお延のべの思わくおもわく通りとおり向うむこうから訊き返しききかえして来きた。
「何なんがです、今いま僕ぼくの云っいった事ことがですか」「いいえ、そんな事ことじゃないの」 お延のべは巧みたくみに相手あいてを岐路きろに誘い込んさそいこんだ。
「あなた先刻せんこくおっしゃったでしょう。近頃ちかごろ津田つだがだいぶ変っかわって来きたって」 小林こばやしは元もとへ戻らもどらなければならなかった。
「ええ云いいいました。それに違いないから、そう云っいったんです」「本当ほんとうに津田つだはそんなに変っかわったでしょうか」「ええ変りかわりましたね」 お延のべは腑ふに落ちおちないような顔かおをして小林こばやしを見みた。
小林こばやしはまた何なんか証拠しょうこでも握っにぎっているらしい様子ようすをしてお延のべを見みた。
二人ふたりがしばらく顔かおを見合せみあわせている間ま、小林こばやしの口元くちもとには始終しじゅう薄笑いうすわらいの影かげが射ししゃしていた。
けれどもそれは終についに本式ほんしきの笑いわらいとなる機会きかいを得とくずに消えきえてしまわなければならなかった。
お延のべは小林こばやしなんぞに調ちょう戯たわむれわれる自分じぶんじゃないという態度たいどを見せみせたのである。
「奥さんおくさん、あなた自分じぶんだって大概たいがい気きがつきそうなものじゃありませんか」 今度こんどは小林こばやしの方ほうからこう云っいってお延のべに働らきはたらきかけて来きた。
お延のべはたしかにそこに気きがついていた。
けれども彼女かのじょの気きがついている夫おっとの変化へんかは、全くまったく別ものべつものであった。
小林こばやしの考えかんがえている、少なくすくなくとも彼かれの口くちにしている、変化へんかとはまるで反対はんたいの傾向けいこうを帯びおびていた。
津田つだといっしょになってから、朧気おぼろきながらしだいしだいに明るくあかるくなりつつあるように感ぜかんぜられるその変化へんかは、非常ひじょうに見分けみわけにくい色調しきちょうの階段かいだんをそろりそろりと動いうごいて行くいく微妙びみょうなものであった。
どんな鋭敏えいびんな観察かんさつ者ものが外部がいぶから覗いのぞいてもとうてい判りわかりこない性質せいしつのものであった。
そうしてそれが彼女かのじょの秘密ひみつであった。
愛するあいする人ひとが自分じぶんから離れはなれて行こういこうとする毫釐ごうりの変化へんか、もしくは前まえから離れはなれていたのだという悲しいかなしい事実じじつを、今いまになって、そろそろ認めみとめ始めはじめたという心持こころもちの変化へんか。
それが何なんで小林こばやしごときものに知れようしれよう。
「いっこう気きがつきませんね。あれでどこか変っかわったところでもあるんでしょうか」 小林こばやしは大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
「奥さんおくさんはなかなか空惚けるそらとぼける事ことが上手じょうずだから、僕ぼくなんざあとても敵わかなわない」「空惚けるそらとぼけるっていうのはあなたの事ことじゃありませんか」「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんおくさんはそういう旨いうまいお手際てぎわをもっていられるんですね。ようやく解っわかった。それで津田つだ君きみがああ変化へんかして来るくるんですね、どうも不思議ふしぎだと思っおもったら」 お延のべはわざと取り合わとりあわなかった。
と云っいって別べつに煩さいうるさい顔かおもしなかった。
愛嬌あいきょうを見せみせた平気へいきとでもいうような態度たいどをとった。
小林こばやしはもう一いち歩あゆみ前まえへ進みすすみ出しだした。
「藤井ふじいさんでもみんな驚ろいおどろいていますよ」「何なんを」 藤井ふじいという言葉ことばを耳みみにした時じ、お延のべの細いほそい眼めがたちまち相手あいての上うえに動いうごいた。
誘き出さおびきだされると知りしりながら、彼女かのじょはついこういって訊き返さききかえさなければならなかった。
「あなたのお手際てぎわにです。津田つだ君きみを手てのうちに丸め込んまるめこんで自由じゆうにするあなたの霊妙れいみょうなお手際てぎわにです」 小林こばやしの言葉ことばは露骨ろこつ過ぎすぎた。
しかし露骨ろこつな彼かれは、わざと愛嬌あいきょう半分はんぶんにそれをお延のべの前まえで披露ひろうするらしかった。
お延のべはつんとして答えこたえた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力ちからがあるんですかね。自分じぶんにゃ解りわかりませんが、藤井ふじいの叔父おじさんや叔母おばさんがそう云っいって下さるくださるなら、おおかた本当ほんとうなんでしょうよ」「本当ほんとうですとも。僕ぼくが見みたって、誰だれが見みたって本当ほんとうなんだから仕方しかたがないじゃありませんか」「ありがとう」 お延のべはさも軽蔑けいべつした調子ちょうしで礼れいを云っいった。
その礼れいの中なかに含まふくまれていた苦々しいにがにがしい響ひびきは、小林こばやしにとって全くまったく予想外よそうがいのものであるらしかった。
彼かれはすぐ彼女かのじょを宥めるなだめるような口調くちょうで云っいった。
「奥さんおくさんは結婚けっこん前まえの津田つだ君きみを御承知ごしょうちないから、それで自分じぶんの津田つだ君きみに及ぼしおよぼした影響えいきょうを自覚じかくなさらないんでしょうが、――」「わたくしは結婚けっこん前まえから津田つだを知っしっております」「しかしその前まえは御存じごぞんじないでしょう」「当り前あたりまえですわ」「ところが僕ぼくはその前まえをちゃんと知っしっているんですよ」 話はなしはこんな具合ぐあいにして、とうとう津田つだの過去かこに溯っさかのぼって行っいった。
八十四はちじゅうよん
自分じぶんのまだ知らしらない夫おっとの領分りょうぶんに這入りはいり込んこんで行くいくのはお延のべにとって多大ただいの興味きょうみに違いなかった。
彼女かのじょは喜こんよろこんで小林こばやしの談話だんわに耳みみを傾けようかたむけようとした。
ところがいざ聴こうきこうとすると、小林こばやしはけっして要領ようりょうを得とくた事ことを云わいわなかった。
云っいっても肝心かんじんのところはわざと略しりゃくしてしまった。
例えばたとえば二人ふたりが深夜しんや非常線ひじょうせんにかかった時じの光景こうけいには一口ひとくち触れるふれるが、そういう出来事できごとに出合うであうまで、彼かれらがどこで夜深よぶかしをしていたかの点てんになると、彼かれは故意こいに暈しぼかしさって、全くまったく語らかたらないという風かぜを示ししめした。
それを訊けきけば意味いみありげににやにや笑っわらって見せるみせるだけであった。
お延のべは彼かれがとくにこうして自分じぶんを焦燥しょうそうしているのではなかろうかという気きさえ起しおこした。
お延のべは平生へいぜいから小林こばやしを軽くかるく見みていた。
半ばなかば夫おっとの評価ひょうかを標準ひょうじゅんにおき、半ばなかば自分じぶんの直覚ちょっかくを信用しんようして成立っせいりつったこの侮蔑ぶべつの裏うらには、まだ他ほかに向っむかって公言こうげんしない大きなおおきな因子いんしがあった。
それは単にたんに小林こばやしが貧乏びんぼうであるという事ことに過ぎすぎなかった。
彼かれに地位ちいがないという点てんにほかならなかった。
売れうれもしない雑誌ざっしの編輯へんしゅう、そんなものはきまった職業しょくぎょうとして彼女かのじょの眼めに映るうつるはずがなかった。
彼女かのじょの見みた小林こばやしは、常つねに無籍むせきもののような顔かおをして、世の中よのなかをうろうろしていた。
宿やどなしらしい愚痴ぐちを零しこぼして、厭いやがらせにそこいらをまごつき歩くあるくだけであった。
しかしこの種しゅの軽蔑けいべつに、ある程度ていどの不気味ふきみはいつでも附物つくものであった。
ことにそういう階級かいきゅうに馴らさならされない女おんな、しかも経験けいけんに乏しいとぼしい若いわかい女おんなには、なおさらの事ことでなければならなかった。
少くすくなくとも小林こばやしの前まえに坐っすわったお延のべはそう感じかんじた。
彼女かのじょは今までいままでに彼かれぐらいな貧しひんしさの程度ていどの人ひとに出合わであわないとは云えいえなかった。
しかし岡本おかもとの宅たくへ出入りでいりをするそれらの人々ひとびとは、みんなその分ぶんを弁えわきまえていた。
身分みぶんには段だん等とうがあるものと心得こころえて、みんなおのれに許さゆるされた範囲はんい内うちにおいてのみ行動こうどうをあえてした。
彼女かのじょはいまだかつて小林こばやしのように横着おうちゃくな人間にんげんに接しせっした例れいがなかった。
彼かれのように無遠慮むえんりょに自分じぶんに近づいちかづいて来るくるもの、富とみも位地いちもない癖くせに、彼かれのように大きなおおきな事ことを云ういうもの、彼かれのようにむやみに上流社会じょうりゅうしゃかいの悪わる体からだを吐くはくものにはけっして会っかいった事ことがなかった。
お延のべは突然とつぜん気きがついた。
「自分じぶんの今いま相手あいてにしているのは、平生へいぜい考えかんがえていた通りとおりの馬鹿ばかでなくって、あるいは手てに余るあまる擦れすれッっ枯らしからしじゃなかろうか」 軽蔑けいべつの裏うらに潜んひそんでいる不気味ふきみな方面ほうめんが強くつよく頭あたまを持上げもちあげた時じ、お延のべの態度たいどは急きゅうに改あらためたまった。
すると小林こばやしはそれを見届けみとどけた証拠しょうこにか、またはそれに全くまったくの無頓着むとんちゃくでか、アあははと笑いわらい出しだした。
「奥さんおくさんまだいろいろ残っのこってますよ。あなたの知りしりたい事ことがね」「そうですか。今日きょうはもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度いちどきに伺っうかがってしまうと、これから先さきの楽しみたのしみがなくなりますから」「そうですね、じゃ今日きょうはこれで切り上げきりあげときますかな。あんまり奥さんおくさんに気きを揉まもませて、歇斯的まと里さとでも起さおこされると、後あとでまた僕ぼくの責任せきにんだなんて、津田つだ君きみに恨まうらまれるだけだから」 お延のべは後あとを向いむかいた。
後あとは壁かべであった。
それでも茶の間ちゃのまに近いちかいその見当けんとうに、彼女かのじょはお時じの消息しょうそくを聞こうきこうとする努力どりょくを見せみせた。
けれども勝手口かってぐちは今までいままで通りとおり静かしずかであった。
疾うとうに帰るかえるべきはずのお時おときはまだ帰っかえって来きなかった。
「どうしたんでしょう」「なに今いまに帰っかえって来きますよ。心配しんぱいしないでも迷児まいごになる気遣きづかいはないから大丈夫だいじょうぶです」 小林こばやしは動こううごこうともしなかった。
お延のべは仕方しかたがないので、茶ちゃを淹れいれ代えるかえるのを口実こうじつに、席せきを立とうたとうとした。
小林こばやしはそれさえ遮ぎっさえぎった。
「奥さんおくさん、時間じかんがあるなら、退屈凌ぎたいくつしのぎに幾らいくらでも先刻せんこくの続きつづきを話しはなしますよ。しゃべって潰すつぶすのも、黙っだまって潰すつぶすのも、どうせ僕ぼく見みたいな穀潰しごくつぶしにゃ、同どうなし時間じかんなんだから、ちっとも御ご遠慮えんりょにゃ及びおよびません。どうです、津田つだ君きみにはあれでまだあなたに打ち明けうちあけないような水臭いみずくさいところがだいぶあるんでしょう」「あるかも知れしれませんね」「ああ見えみえてなかなか淡泊たんぱくでないからね」 お延のべははっと思っおもった。
腹はらの中なかで小林こばやしの批評ひひょうを首くび肯わうけがわない訳わけに行かいかなかった彼女かのじょは、それがあたっているだけになおの事こと感情かんじょうを害しがいした。
自分じぶんの立場たちばを心得こころえない何なんという不作法ふさほうな男おとこだろうと思っおもって小林こばやしを見みた。
小林こばやしは平気へいきで前まえの言葉ことばを繰り返しくりかえした。
「奥さんおくさんあなたの知らしらない事ことがまだたくさんありますよ」「あっても宜しいよろしいじゃございませんか」「いや、実じつはあなたの知りしりたいと思っおもってる事ことがまだたくさんあるんですよ」「あっても構いかまいません」「じゃ、あなたの知らしらなければならない事ことがまだたくさんあるんだと云いいい直しなおしたらどうです。それでも構いかまいませんか」「ええ、構いかまいません」
八十五はちじゅうご
小林こばやしの顔かおには皮肉ひにくの渦うずが漲っみなぎった。
進んすすんでも退いしりぞいてもこっちのものだという勝利しょうりの表情ひょうじょうがありありと見えみえた。
彼かれはその瞬間しゅんかんの得意とくいを永久えいきゅうに引き延ばしひきのばして、いつまでも自分じぶんで眺めながめ暮しくらしたいような素もと振ぶりさえ示ししめした。
「何なんという陋劣ろうれつな男おとこだろう」 お延のべは腹はらの中なかでこう思っおもった。
そうしてしばらくの間まじっと彼かれと睨めにらめっ競せりをしていた。
すると小林こばやしの方ほうからまた口くちを利ききき出しだした。
「奥さんおくさん津田つだ君きみが変っかわった例証れいしょうとして、是非ぜひあなたに聴かきかせなければならない事ことがあるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しあとまわしにして、その反対はんたいの方ほう、すなわち津田つだ君きみがちっとも変らかわらないところを少しすこし御ご参考さんこうまでにお話しはなしておきますよ。これはいやでも私わたくしの方ほうで是非ぜひ奥さんおくさんに聴いきいていただきたいのです。――どうです聴いきいて下さいくださいますか」 お延のべは冷淡れいたんに「どうともあなたの御ご随意ずいいに」と答えこたえた。
小林こばやしは「ありがたい」と云っいって笑っわらった。
「僕ぼくは昔むかしから津田つだ君きみに軽蔑けいべつされていました。今いまでも津田つだ君きみに軽蔑けいべつされています。先刻せんこくからいう通りとおり津田つだ君きみは大変たいへん変りかわりましたよ。けれども津田つだ君きみの僕ぼくに対するたいする軽蔑けいべつだけは昔むかしも今いまも同様どうようなのです。毫もごうも変らかわらないのです。これだけはいくら怜悧れいりな奥さんおくさんの感化かんか力ちからでもどうする訳わけにも行かいかないと見えみえますね。もっともあなた方ほうから見みたら、それが理りの当然とうぜんなんでしょうけれどもね」 小林こばやしはそこで言葉ことばを切っきって、少しすこし苦しくるしそうなお延のべの笑い顔わらいがおに見入っみいった。
それからまた続けつづけた。
「いや別べつに変っかわって貰いもらいたいという意味いみじゃありませんよ。その点てんについて奥さんおくさんの御ご尽力じんりょくを仰ぐあおぐ気きは毛頭もうとうないんだから、御ご安心あんしんなさい。実じつをいうと、僕ぼくは津田つだ君きみにばかり軽蔑けいべつされている人間にんげんじゃないんです。誰だれにでも軽蔑けいべつされている人間にんげんなんです。下らしたらない女おんなにまで軽蔑けいべつされているんです。有体ありていに云えいえば世の中よのなか全体ぜんたいが寄っよってたかって僕ぼくを軽蔑けいべつしているんです」 小林こばやしの眼めは据わっすわっていた。
お延のべは何なんという事こともできなかった。
「まあ」「それは事実じじつです。現にげんに奥さんおくさん自身じしんでもそれを腹はらの中なかで認めみとめていらっしゃるじゃありませんか」「そんな馬鹿ばかな事ことがあるもんですか」「そりゃ口くちの先さきでは、そうおっしゃらなければならないでしょう」「あなたもずいぶん僻んひがんでいらっしゃるのね」「ええ僻んひがんでるかも知れしれません。僻もうひがもうが僻むひがむまいが、事実じじつは事実じじつですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能むのうに生れうまれついたのが悪いわるいんだから、いくら軽蔑けいべつされたって仕方しかたがありますまい。誰だれを恨むうらむ訳わけにも行かいかないのでしょう。けれども世間せけんからのべつにそう取り扱わとりあつかわれつけて来きた人間にんげんの心持こころもちを、あなたは御承知ごしょうちですか」 小林こばやしはいつまでもお延のべの顔かおを見みて返事へんじを待っまっていた。
お延のべには何なんもいう事ことがなかった。
まるっきり同情どうじょうの起りおこり得とくない相手あいての心持こころもち、それが自分じぶんに何なんの関係かんけいがあろう。
自分じぶんにはまた自分じぶんで考えかんがえなければならない問題もんだいがあった。
彼女かのじょは小林こばやしのために想像そうぞうの翼つばささえ伸ばしのばしてやる気やるきにならなかった。
その様子ようすを見みた小林こばやしはまた「奥さんおくさん」と云いいい出しだした。
「奥さんおくさん、僕ぼくは人ひとに厭いやがられるために生きいきているんです。わざわざ人ひとの厭いやがるような事ことを云っいったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくくるしくってたまらないんです。生きいきていられないのです。僕ぼくの存在そんざいを人ひとに認めみとめさせる事ことができないんです。僕ぼくは無能むのうです。幾らいくら人ひとから軽蔑けいべつされても存分ぞんぶんな讐あだ討うちができないんです。仕方しかたがないからせめて人ひとに嫌わいやわれてでも見ようみようと思うおもうのです。それが僕ぼくの志願しがんなのです」 お延のべの前まえにまるで別世界べつせかいに生れうまれた人ひとの心理状態しんりじょうたいが描き出さえがきだされた。
誰だれからでも愛さあいされたい、また誰だれからでも愛さあいされるように仕向けしむけて行きいきたい、ことに夫おっとに対したいしては、是非ぜひ共ともそうしなければならない、というのが彼女かのじょの腹はらであった。
そうしてそれは例外れいがいなく世界中せかいちゅうの誰だれにでも当てあて篏って、毫もごうも悖らもとらないものだと、彼女かのじょは最初さいしょから信じしんじ切っきっていたのである。
「吃驚びっくりりしたようじゃありませんか。奥さんおくさんはまだそんな人ひとに会っかいった事ことがないんでしょう。世の中よのなかにはいろいろの人ひとがありますからね」 小林こばやしは多少たしょう溜飲りゅういんの下りくだりたような顔かおをした。
「奥さんおくさんは先刻せんこくから僕ぼくを厭いやがっている。早くはやく帰れかえればいい、帰れかえればいいと思っおもっている。ところがどうした訳わけか、下女げじょが帰っかえって来きないもんだから、仕方なししかたなしに僕ぼくの相手あいてになっている。それがちゃんと僕ぼくには分るわかるんです。けれども奥さんおくさんはただ僕ぼくを厭いやな奴やつだと思うおもうだけで、なぜ僕ぼくがこんな厭いやな奴やつになったのか、その原因げんいんを御承知ごしょうちない。だから僕ぼくがちょっとそこを説明せつめいして上げあげたのです。僕ぼくだってまさか生れうまれたてからこんな厭いやな奴やつでもなかったんでしょうよ、よくは分りわかりませんけれどもね」 小林こばやしはまた大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
八十六はちじゅうろく
お延のべの心こころはこの不思議ふしぎな男おとこの前まえに入り乱れいりみだれて移っうつって行っいった。
一いちには理解りかいが起らおこらなかった。
二にには同情どうじょうが出でなかった。
三さんには彼かれの真面目まじめさが疑がわうたがわれた。
反抗はんこう、畏怖いふ、軽蔑けいべつ、不審ふしん、馬鹿ばからしさ、嫌悪けんお、好奇心こうきしん、――雑然ざつぜんとして彼女かのじょの胸むねに交錯こうさくしたいろいろなものはけっして一いち点てんに纏まるまとまる事ことができなかった。
したがってただ彼女かのじょを不安ふあんにするだけであった。
彼女かのじょはしまいに訊いきいた。
「じゃあなたは私わたくしを厭いやがらせるために、わざわざここへいらしったと言明げんめいなさるんですね」「いや目的もくてきはそうじゃありません。目的もくてきは外套がいとうを貰いもらいに来きたんです」「じゃ外套がいとうを貰いもらいに来きたついでに、私わたくしを厭いやがらせようとおっしゃるんですか」「いやそうでもありません。僕ぼくはこれで天然てんねん自然しぜんのつもりなんですからね。奥さんおくさんよりもよほど技巧ぎこうは少ないすくないと思っおもってるんです」「そんな事ことはどうでも、私わたくしの問もんにはっきりお答えこたえになったらいいじゃありませんか」「だから僕ぼくは天然てんねん自然しぜんだと云ういうのです。天然てんねん自然しぜんの結果けっか、奥さんおくさんが僕ぼくを厭いやがられるようになるというだけなのです」「つまりそれがあなたの目的もくてきでしょう」「目的もくてきじゃありません。しかし本望ほんもうかも知れしれません」「目的もくてきと本望ほんもうとどこが違うちがうんです」「違いちがいませんかね」 お延のべの細いほそい眼めから憎悪ぞうおの光ひかりが射ししゃした。
女おんなだと思っおもって馬鹿ばかにするなという気性きしょうがありありと瞳子とうこの裏うらに宿っやどった。
「怒っどっちゃいけません」と小林こばやしが云っいった。
「僕ぼくは自分じぶんの小さなちいさな料簡りょうけんから敵てき打だをしてるんじゃないという意味いみを、奥さんおくさんに説明せつめいして上げあげただけです。天てんがこんな人間にんげんになって他ほかを厭いやがらせてやれと僕ぼくに命ずるめいずるんだから仕方しかたがないと解釈かいしゃくしていただきたいので、わざわざそう云っいったのです。僕ぼくは僕ぼくに悪いわるい目的もくてきはちっともない事ことをあなたに承認しょうにんしていただきたいのです。僕ぼく自身じしんは始めはじめから無む目的もくてきだという事ことを知っしっておいていただきたいのです。しかし天てんには目的もくてきがあるかも知れしれません。そうしてその目的もくてきが僕ぼくを動かしうごかしているかも知れしれません。それに動かさうごかされる事ことがまた僕ぼくの本望ほんもうかも知れしれません」 小林こばやしの筋すじの運びはこび方ほうは、少しすこし困絡こんらくかり過ぎすぎていた。
お延のべは彼かれの論理ろんりの間隙かんげきを突くつくだけに頭あたまが錬れねれていなかった。
といって無条件むじょうけんで受け入れうけいれていいか悪いわるいかを見分けるみわけるほど整っととのった脳のう力ちからももたなかった。
それでいて彼女かのじょは相手あいての吹きかけるふきかける議論ぎろんの要点ようてんを掴むつかむだけの才気さいきを充分じゅうぶんに具えそなえていた。
彼女かのじょはすぐ小林こばやしの主意しゅいを一口ひとくちに纏めまとめて見せみせた。
「じゃあなたは人ひとを厭いやがらせる事ことは、いくらでも厭いやがらせるが、それに対するたいする責任せきにんはけっして負わおわないというんでしょう」「ええそこです。そこが僕ぼくの要点ようてんなんです」「そんな卑怯ひきょうな――」「卑怯ひきょうじゃありません。責任せきにんのない所ところに卑怯ひきょうはありません」「ありますとも。第一だいいちこの私わたくしがあなたに対したいしてどんな悪いわるい事ことをした覚さとしがあるんでしょう。まあそれから伺いうかがいますから、云っいって御覧ごらんなさい」「奥さんおくさん、僕ぼくは世の中よのなかから無籍むせきもの扱いあつかいにされている人間にんげんですよ」「それが私わたくしや津田つだに何なんの関係かんけいがあるんです」 小林こばやしは待っまってたと云わいわぬばかりに笑いわらい出しだした。
「あなた方ほうから見みたらおおかたないでしょう。しかし僕ぼくから見れみれば、あり過ぎるすぎるくらいあるんです」「どうして」 小林こばやしは急きゅうに答えこたえなくなった。
その意味いみは宿題しゅくだいにして自分じぶんでよく考えかんがえて見みたらよかろうと云ういう顔つきかおつきをした彼かれは、黙っだまって煙草たばこを吹かしふかし始めはじめた。
お延のべは一層いっそうの不快ふかいを感じかんじた。
もう好いよい加減かげんに帰っかえってくれと云いいいたくなった。
同時どうじに小林こばやしの意味いみもよく突きとめつきとめておきたかった。
それを見抜いみぬいて、わざと高こうを括っくくったように落ちついおちついている小林こばやしの態度たいどがまた癪しゃくに障っさわった。
そこへ先刻せんこくから心持ちこころもちに待ち受けまちうけていたお時じがようやく帰っかえって来きたので、お延のべの蟠とぐろまりは、一定いっていした様式ようしきの下したに表現ひょうげんされる機会きかいの来きない先さきにまた崩さくずされてしまわなければならなかった。
八十はちじゅう七なな
お時じは縁側えんがわへ坐っすわって外部がいぶから障子しょうじを開けあけた。
「ただいま。大変たいへん遅くおそくなりました。電車でんしゃで病院びょういんまで行っいって参りまいりましたものですから」 お延のべは少しすこし腹立たしいはらだたしい顔かおをしてお時じを見みた。
「じゃ電話でんわはかけなかったのかい」「いいえかけたんでございます」「かけても通じつうじなかったのかい」 問答もんどうを重ねかさねているうちに、お時じの病院びょういんへ行っいった意味いみがようやくお延のべに呑み込めるのみこめるようになって来きた。
――始めはじめ通じつうじなかった電話でんわは、しまいに通じるつうじるだけは通じつうじても用ようを弁ずるべんずる事ことができなかった。
看護婦かんごふを呼び出しよびだして用事ようじを取次いとりついで貰おうもらおうとしたが、それすらお時じの思うおもうようにはならなかった。
書生しょせいだか薬局やっきょく員いんだかが始終しじゅう相手あいてになって、何なんか云ういうけれども、それがまたちっとも要領ようりょうを得とくなかった。
第だい一いち言語げんごが不ふ明暸めいりょうであった。
それから判はん切せつ聞こえるきこえるところも辻褄つじつまの合わあわない事ことだらけだった。
要するようするにその男おとこはお時じの用事ようじを津田つだに取次いとりついでくれなかったらしいので、彼女かのじょはとうとう諦たいらめて、電話でんわ箱ばこを出でてしまった。
しかし義務ぎむを果さはたさないでそのまま宅たくへ帰るかえるのが厭いやだったので、すぐその足あしで電車でんしゃへ乗っのって病院びょういんへ向っむかった。
「いったん帰っかえって、伺っうかがってからにしようかと思いおもいましたけれども、ただ時間じかんが長くながくかかるぎりでございますし、それにお客さまおきゃくさまがこうして待っまっておいでの事ことをなまじい存じぞんじておるものでございますから」 お時じのいう事ことはもっともであった。
お延のべは礼れいを云わいわなければならなかった。
しかしそのために、小林こばやしからさんざん厭いやな思いおもいをさせられたのだと思うおもうと、気きを利かしきかした下女げじょがかえって恨めしくうらめしくもあった。
彼女かのじょは立ったって茶の間ちゃのまへ入っはいった。
すぐそこに据えすえられた銅どうの金具かなぐの光るひかる重ねかさね箪笥たんすの一いち番ばん下したの抽斗ひきだしを開けあけた。
そうして底そこの方ほうから問題もんだいの外套がいとうを取り出しとりだして来きて、それを小林こばやしの前まえへ置いおいた。
「これでしょう」「ええ」と云っいった小林こばやしはすぐ外套がいとうを手てに取っとって、品物しなものを改めるあらためる古着ふるぎ屋やのような眼めで、それを引いんッっ繰返しくりかえした。
「思っおもったよりだいぶ汚れよごれていますね」「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いいいたかったお延のべは、何になんにも答えこたえずに外套がいとうを見つめみつめた。
外套がいとうは小林こばやしのいう通りとおり少しすこし色いろが変っかわっていた。
襟えりを返しかえして日ひに当らあたらない所ところを他ほかの部分ぶぶんと比較ひかくして見るみると、それが著ちょじるしく目立っめだった。
「どうせただ貰うもらうんだからそう贅沢ぜいたくも云えいえませんかね」「お気きに召さめさなければ、どうぞ御ご遠慮えんりょなく」「置いおいて行けいけとおっしゃるんですか」「ええ」 小林こばやしはやッぱりやっぱり外套がいとうを放さはなさなかった。
お延のべは痛快つうかいな気きがした。
「奥さんおくさんちょっとここで着きて見みてもよござんすか」「ええ、ええ」 お延のべはわざと反対はんたいを答えこたえた。
そうして窮屈きゅうくつそうな袖そでへ、もがくようにして手てを通すとおす小林こばやしを、坐っすわったまま皮肉ひにくな眼めで眺めながめた。
「どうですか」 小林こばやしはこう云いいいながら、背中せなかをお延のべの方ほうに向けむけた。
見苦しいみぐるしい畳みたたみ皺しわが幾筋いくすじもお延のべの眼めに入っはいった。
アイロンあいろんの注意ちゅういでもしてやるべきところを、彼女かのじょはまた逆ぎゃくに行っいった。
「ちょうど好いよいようですね」 彼女かのじょは誰だれも自分じぶんの傍そばにいないので、せっかく出来上っできあがった滑稽こっけいな後姿うしろすがたも、眼めと眼めで笑っわらってやる事ことができないのを物もの足りたりなく思っおもった。
すると小林こばやしがまたぐるりと向き直っむきなおって、外套がいとうを着きたなり、お延のべの前まえにどっさり胡坐こざをかいた。
「奥さんおくさん、人間にんげんはいくら変へんな着物きものを着きて人ひとから笑わわらわれても、生きいきている方ほうがいいものなんですよ」「そうですか」 お延のべは急きゅうに口元くちもとを締めしめた。
「奥さんおくさんのような窮きゅうった事ことのない方ほうにゃ、まだその意味いみが解らわからないでしょうがね」「そうですか。私わたくしはまた生きいきてて人ひとに笑わわらわれるくらいなら、いっそ死んしんでしまった方ほうが好いよいと思いおもいます」 小林こばやしは何になんにも答えこたえなかった。
しかし突然とつぜん云っいった。
「ありがとう。御蔭みかげでこの冬ふゆも生きいきていられます」 彼かれは立ち上ったちのぼった。
お延のべも立ち上ったちのぼった。
しかし二人ふたりが前後ぜんごして座敷ざしきから縁側えんがわへ出ようでようとするとき、小林こばやしはたちまちふり返っふりかえった。
「奥さんおくさん、あなたそういう考えかんがえなら、よく気きをつけて他ほかに笑わわらわれないようにしないといけませんよ」
八十八はちじゅうはち
二人ふたりの顔かおは一いち尺さし足らあしらずの距離きょりに接近せっきんした。
お延のべが前まえへ出ようでようとする途端とたん、小林こばやしが後あとを向いむかいた拍子ひょうし、二人ふたりはそこで急きゅうに運動うんどうを中止ちゅうししなければならなかった。
二人ふたりはぴたりと止まっとまった。
そうして顔かおを見合せみあわせた。
というよりもむしろ眼めと眼めに見入っみいった。
その時じ小林こばやしの太いふとい眉まゆが一層いっそう際立っきわだってお延のべの視覚しかくを侵しおかした。
下したにある黒瞳くろひとみはじっと彼女かのじょの上うえに据えすえられたまま動かうごかなかった。
それが何なんを物語っものがたりっているかは、こっちの力ちからで動かしうごかして見るみるよりほかに途とはなかった。
お延のべは口くちを切っきった。
「余計よけいな事ことです。あなたからそんな御ご注意ちゅういを受けるうける必要ひつようはありません」「注意ちゅういを受けるうける必要ひつようがないのじゃありますまい。おおかた注意ちゅういを受けるうける覚さとしがないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固よりもとより立派りっぱな貴婦人きふじんに違いないかも知れしれません。しかし――」「もうたくさんです。早くはやく帰っかえって下さいください」 小林こばやしは応じおうじなかった。
問答もんどうが咫尺しせきの間まに起っおこった。
「しかし僕ぼくのいうのは津田つだ君きみの事ことです」「津田つだがどうしたというんです。わたくしは貴婦人きふじんだけれども、津田つだは紳士しんしでないとおっしゃるんですか」「僕ぼくは紳士しんしなんてどんなものかまるで知りしりません。第一だいいちそんな階級かいきゅうが世の中よのなかに存在そんざいしている事ことを、僕ぼくは認めみとめていないのです」「認めようみとめようと認めみとめまいと、そりゃあなたの御ご随意ずいいです。しかし津田つだがどうしたというんです」「聞きききたいですか」 鋭どいするどい稲妻いなずまがお延のべの細いほそい眼めからまともに迸しった。
「津田つだはわたくしの夫おっとです」「そうです。だから聞きききたいでしょう」 お延のべは歯はを噛んかんだ。
「早くはやく帰っかえって下さいください」「ええ帰りかえります。今いま帰るかえるところです」 小林こばやしはこう云っいったなりすぐ向き直っむきなおった。
玄関げんかんの方ほうへ行こういこうとして縁側えんがわを二に足あしばかりお延のべから遠ざかっとおざかった。
その後姿うしろすがたを見みてたまらなくなったお延のべはまた呼びとめよびとめた。
「お待ちまちなさい」「何なんですか」 小林こばやしはのっそり立ちどまったちどまった。
そうして裄ゆきの長なが過ぎるすぎる古ふる外套がいとうを着きた両手りょうてを前まえの方ほうに出しだして、ポンチ絵ぽんちえに似にた自分じぶんの姿すがたを鑑賞かんしょうでもするように眺め廻しながめまわした後あとで、にやにやと笑いわらいながらお延のべを見みた。
お延のべの声こえはなお鋭くするどくなった。
「なぜ黙っだまって帰るかえるんです」「御礼ごれいは先刻せんこく云っいったつもりですがね」「外套がいとうの事ことじゃありません」 小林こばやしはわざと空々しいそらぞらしい様子ようすをした。
はてなと考えるかんがえる態度たいどまで粧っつくって見せみせた。
お延のべは詰責きっせきした。
「あなたは私わたくしの前まえで説明せつめいする義務ぎむがあります」「何なんをですか」「津田つだの事ことをです。津田つだは私わたくしの夫おっとです。妻つまの前まえで夫おっとの人格じんかくを疑ぐるうたぐるような言葉ことばを、遠廻しとおまわしにでも出しだした以上いじょう、それを綺麗きれいに説明せつめいするのは、あなたの義務ぎむじゃありませんか」「でなければそれを取消すとりけすだけの事ことでしょう。僕ぼくは義務ぎむだの責任せきにんだのって感じかんじの少ないすくない人間にんげんだから、あなたの要求ようきゅう通りとおり説明せつめいするのは困難こんなんかも知れしれないけれども、同時どうじに恥はじを恥はじと思わおもわない男おとことして、いったん云っいった事ことを取り消すとりけすぐらいは何なんでもありません。――じゃ津田つだ君きみに対するたいする失言しつげんを取消しとりけしましょう。そうしてあなたに詫わびまりましょう。そうしたらいいでしょう」 お延のべは黙然もくぜんとして答えこたえなかった。
小林こばやしは彼女かのじょの前まえに姿勢しせいを正しくただしくした。
「ここに改めてあらためて言明げんめいします。津田つだ君きみは立派りっぱな人格じんかくを具えそなえた人ひとです。紳士しんしです。(もし社会しゃかいにそういう特別とくべつな階級かいきゅうが存在そんざいするならば)」 お延のべは依然いぜんとして下したを向いむかいたまま口くちを利かりかなかった。
小林こばやしは語ごを続けつづけた。
「僕ぼくは先刻せんこく奥さんおくさんに、人ひとから笑わわらわれないようによく気きをおつけになったらよかろうという注意ちゅういを与えあたえました。奥さんおくさんは僕ぼくの注意ちゅういなどを受けるうける必要ひつようがないと云わいわれました。それで僕ぼくもその後そのあとを話すはなす事ことを遠慮えんりょしなければならなくなりました。考えるかんがえるとこれも僕ぼくの失言しつげんでした。併せあわせて取消しとりけします。その他ほかもし奥さんおくさんの気きに障っさわった事ことがあったら、総てすべて取消しとりけします。みんな僕ぼくの失言しつげんです」 小林こばやしはこう云っいった後あとで、沓脱くつぬぎに揃えそろえてある自分じぶんの靴くつを穿いはいた。
そうして格子こうしを開けあけて外そとへ出るでる最後さいごに、またふり向いふりむいて「奥さんおくさんさよなら」と云っいった。
微かかすかに黙礼もくれいを返しかえしたぎり、お延のべはいつまでもぼんやりそこに立ったっていた。
それから急きゅうに二に階かいの梯子段はしごだんを駈け上っかけあがって、津田つだの机つくえの前まえに坐るすわるや否いなや、その上うえに突とっッっ伏しふしてわっと泣きなき出しだした。
八十九はちじゅうきゅう
幸いさいわいにお時じが下したから上っのぼって来きなかったので、お延のべは憚りはばかりなく当座とうざの目的もくてきを達するたっする事ことができた。
彼女かのじょは他ほかに顔かおを見みられずに思うおもう存分ぞんぶん泣けなけた。
彼女かのじょが満足まんぞくするまで自分じぶんを泣きなき尽しつくした時じ、涙なみだはおのずから乾いかわいた。
濡れぬれた手巾しゅきんを袂たもとへ丸め込んまるめこんだ彼女かのじょは、いきなり机つくえの抽斗ひきだしを開けあけた。
抽斗ひきだしは二につ付いついていた。
しかしそれを順々じゅんじゅんに調べしらべた彼女かのじょの眼めには別段べつだん目め新らしいあたらしい何物なにものも映らうつらなかった。
それもそのはずであった。
彼女かのじょは津田つだが病院びょういんへ入るはいる時じ、彼かれに入用にゅうようの手荷物てにもつを纏めるまとめるため、二三にさん日ひ前まえすでにそこを捜しさがしたのである。
彼女かのじょは残さざんされた封筒ふうとうだの、物指ものさしだの、会費かいひの受取うけとりだのを見みて、それをまた一々いちいち鄭てい寧ねいに揃えそろえた。
パナマぱなまや麦藁むぎわら製せいのいろいろな帽子ぼうしが石版せきばんで印刷いんさつされている広告こうこく用ようの小冊子しょうさっしめいたものが、二人ふたりで銀座ぎんざへ買物かいものに行っいった初夏しょかの夕暮ゆうぐれを思い出さおもいださせた。
その時じ夏帽なつぼうを買いかいに立寄ったちよった店みせから津田つだが貰っもらって帰っかえったこの見本みほんには、真赤まっかに咲いさいた日比谷公園ひびやこうえんの躑躅つつじだの、突当りつきあたりに霞が関かすみがせきの見えるみえる大通りおおどおりの片側かたがわに、薄暗いうすぐらい影かげをこんもり漂よわただよわせている高いたかい柳やなぎなどが、離れはなれにくい過去かこの匂においのように、聯想れんそうとしてつき纏わっまつわっていた。
お延のべはそれを開いひらいたまま、しばらくじっと考え込んかんがえこんだ。
それから急きゅうに思い立っおもいたったように机つくえの抽斗ひきだしをがちゃりと閉めしめた。
机つくえの横よこには同じくおなじく直線ちょくせんの多いおおい様式ようしきで造らつくられた本箱ほんばこがあった。
そこにも抽斗ひきだしが二につ付いついていた。
机つくえを棄てすてたお延のべは、すぐ本箱ほんばこの方ほうに向っむかった。
しかしそれを開けようあけようとして、手てを環かんにかけた時じ、抽斗ひきだしは双方そうほうとも何なんの抵抗ていこうもなく、するすると抜け出しぬけだしたので、お延のべは中なかを調べしらべない先さきに、まず失望しつぼうした。
手応えてごたえのない所ところに、新らしいあたらしい発見はっけんのあるはずはなかった。
彼女かのじょは書き古しかきふるしたノートブックのーとぶっくのようなものをいたずらに攪き廻しかきまわした。
それを一々いちいち読んよんで見るみるのは大変たいへんであった。
読んよんだところで自分じぶんの知ろうしろうと思うおもう事ことが、そんな筆記ひっきの底そこに潜んひそんでいようとは想像そうぞうできなかった。
彼女かのじょは用心ようじん深いぶかい夫おっとの性質せいしつをよく承知しょうちしていた。
錠じょうを卸さおろしさない秘密ひみつをそこいらへ放り出しほうりだしておくには、あまりに細かこまか過ぎるすぎるのが彼かれの持前もちまえであった。
お延のべは戸棚とだなを開けあけて、錠じょうを掛けかけたものがどこかにないかという眼つきめつきをした。
けれども中なかには何になんにもなかった。
上うえには殺風景さっぷうけいな我楽多がらくたが、無器用むきように積み重ねつみかさねられているだけであった。
下したは長持ながもちでいっぱいになっていた。
再びふたたび机つくえの前まえに取っとって返しかえしたお延のべは、その上うえに乗せのせてある状差じょうさしの中なかから、津田つだ宛ずつで来きた手紙てがみを抜き取っぬきとって、一々いちいち調べしらべ出しだした。
彼女かのじょはそんな所ところに、何になんにも怪しいあやしいものが落ちおちているはずがないとは思っおもった。
しかし一番いちばん最初さいしょ眼めにつきながら、手てさえ触れふれなかった幾いく通つうの書信しょしんは、やっぱり最後さいごに眼めを通すとおすべき性質せいしつを帯びおびて、彼女かのじょの注意ちゅういを誘いさそいつつ、いつまでもそこに残っのこっていたのである。
彼女かのじょはつい念ねんのためという口実こうじつの下したに、それへ手てを出さださなければならなくなった。
封筒ふうとうが次つぎから次つぎへと裏返さうらがえされた。
中身なかみが順々じゅんじゅんに繰りひろげくりひろげられた。
あるいは四半しはん分ぶん、あるいは半分はんぶん、残るのこるものは全部ぜんぶ、ことごとくお延のべによって黙読もくどくされた。
しかる後あと彼女かのじょはそれを元もと通りとおりの順じゅんで、元もと通りとおりの位置いちに復しふくした。
突然とつぜん疑惑ぎわくの焔ほのおが彼女かのじょの胸むねに燃え上っもえあがった。
一いち束たばの古ふる手紙てがみへ油あぶらを濺いで、それを綺麗きれいに庭先にわさきで焼きやき尽しつくしている津田つだの姿すがたが、ありありと彼女かのじょの眼めに映っうつった。
その時じめらめらと火ひに化しかして舞い上るまいあがる紙片しへんを、津田つだは恐ろしおそろしそうに、竹たけの棒ぼうで抑えつけおさえつけていた。
それは初秋しょしゅうの冷たいつめたい風かぜが肌はだを吹き出しふきだした頃ころの出来事できごとであった。
そうしてある日曜にちようの朝あさであった。
二人ふたり差向いさしむかいで食事しょくじを済ましすましてから、五ご分ぶんと経たへたないうちに起っおこった光景こうけいであった。
箸はしを置くおくと、すぐ二に階かいから細いほそい紐ひもで絡げからげた包つつみを抱えかかえて下りくだりて来きた津田つだは、急きゅうに勝手口かってぐちから庭先にわさきへ廻っまわったと思うおもうと、もうその包つつみに火ひを点けつけていた。
お延のべが縁側えんがわへ出でた時じには、厚いあつい上うえ包つつみがすでに焦げこげて、中なかにある手紙てがみが少しすこしばかり見えみえていた。
お延のべは津田つだに何なんでそれを焼き捨てるやきすてるのかと訊いきいた。
津田つだは嵩ばっかさばって始末しまつに困るこまるからだと答えこたえた。
なぜ反故ほごにして、自分じぶん達とおるの髪かみを結うゆう時じなどに使わつかわせないのかと尋ねたずねたら、津田つだは何なんとも云わいわなかった。
ただ底そこから現われあらわれて来るくる手紙てがみをむやみに竹たけの棒ぼうで突とっッっついた。
突とっッっつくたびに、火ひになり切れきれない濃いこい煙けむりが渦うずを巻いまいて棒ぼうの先さきに起っおこった。
渦うずは青竹あおたけの根ねを隠すかくすと共ともに、抑えつけおさえつけられている手紙てがみをも隠しかくした。
津田つだは煙けむりに咽ぶむせぶ顔かおをお延のべから背けそむけた。
…… お時おときが午飯ごはんの催促さいそくに上っのぼって来るくるまで、お延のべはこんな事ことを考えかんがえつづけて作りつけつくりつけの人形にんぎょうのようにじっと坐り込んすわりこんでいた。
九十きゅうじゅう
時間じかんはいつか十二じゅうに時じを過ぎすぎていた。
お延のべはまたお時じの給仕きゅうじで独りひとり膳ぜんに向っむかった。
それは津田つだの会社かいしゃへ出でた留守るすに、二人ふたりが毎日まいにち繰り返すくりかえす日課にっかにほかならなかった。
けれども今日きょうのお延のべはいつものお延のべではなかった。
彼女かのじょの様子ようすは剛つよし張っちょうっていた。
そのくせ心こころは纏まりまとまりなく動いうごいていた。
先刻せんこく出かけようでかけようとして着換えきかえた着物きものまで、平生へいぜいと違っちがったよそゆきの気持きもちを余分よぶんに添えるそえる媒介ばいかいとなった。
もし今いまの自分じぶんに触れるふれる問題もんだいが、お時じの口くちから洩れもれなかったなら、お延のべはついに一言ひとことも云わいわずに、食事しょくじを済ましすましてしまったかも知れしれなかった。
その食事しょくじさえ、実じつを云ういうと、まるで気きが進ますすまなかったのを、お時じに疑ぐらうたぐられるのが厭いやさに、ほんの形式的けいしきてきに片づけようかたづけようとして、膳ぜんに着いついただけであった。
お時じも何なんだか遠慮えんりょでもするように、わざと談話だんわを控えひかえていた。
しかしお延のべが一いち膳ぜんで箸はしを置いおいた時じ、ようやく「どうか遊ばしあそばしましたか」と訊いきいた。
そうしてただ「いいえ」という返事へんじを受けうけた彼女かのじょは、すぐ膳ぜんを引いひいて勝手かってへ立たたたなかった。
「どうもすみませんでした」 彼女かのじょは自分じぶんの専断せんだんで病院びょういんへ行っいった詫わびを述べのべた。
お延のべはお延のべでまた彼女かのじょに尋ねたずねたい事ことがあった。
「先刻せんこくはずいぶん大きなおおきな声こえを出しだしたでしょう。下女げじょ部屋へやの方ほうまで聞こえきこえたかい」「いいえ」 お延のべは疑りうたぐりの眼めをお時じの上うえに注いそそいだ。
お時じはそれを避けるさけるようにすぐ云っいった。
「あのお客さまおきゃくさまは、ずいぶん――」 しかしお延のべは何になんにも答えこたえなかった。
静かしずかに後あとを待っまっているだけなので、お時じは自分じぶんの方ほうで後あとをつけなければならなかった。
二人ふたりの談話だんわはこれが緒口いとぐちで先さきへ進んすすんだ。
「旦那だんな様ようは驚ろいおどろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴やつだって。こっちから取りとりに来いこいとも何なんとも云わいわないのに、断りことわりもなく奥様おくさまと直談判じかだんぱんを始めはじめたり何なんかして、しかも自分じぶんが病院びょういんに入っはいっている事ことをよく承知しょうちしている癖くせにって」 お延のべは軽けい蔑んさげすんだ笑いわらいを微かかすかに洩らしもらした。
しかし自分じぶんの批評ひひょうは加えくわえなかった。
「まだほかに何なんかおっしゃりゃしなかったかい」「外套がいとうだけやって早くはやく返せかえせっておっしゃいました。それから奥さんおくさんと話しはなしをしているかと御ご訊きききになりますから、話しはなしをしていらっしゃいますと申し上げもうしあげましたら、大変たいへん厭いやな顔かおをなさいました」「そうかい。それぎりかい」「いえ、何なんを話しはなしているのかと御ご訊きききになりました」「それでお前おまえは何なんとお答えこたえをしたの」「別べつにお答えこたえをしようがございませんから、それは存じぞんじませんと申し上げもうしあげました」「そうしたら」「そうしたら、なお厭いやな顔かおをなさいました。いったい座敷ざしきなんかへむやみに上り込まあがりこませるのが間違っまちがっている――」「そんな事ことをおっしゃったの。だって昔むかしからのお友達ともだちなら仕方しかたがないじゃないの」「だから私わたくしもそう申し上げもうしあげたのでございました。それに奥おくさまはちょうどお召めし換かえをしていらっしゃいましたので、すぐ玄関げんかんへおでになる訳わけに行かいかなかったのだからやむをえませんて」「そう。そうしたら」「そうしたら、お前おまえはもと岡本おかもとさんにいただけあって、奥さんおくさんの事ことというと、何なんでも熱心ねっしんに弁護べんごするから感心かんしんだって、冷評れいひょうかされました」 お延のべは苦笑くしょうした。
「どうも御ご気の毒きのどくさま。それっきり」「いえ、まだございます。小林こばやしは酒さけを飲んのんでやしなかったかとお訊きききになるんです。私わたくしはよく気きがつきませんでしたけれども、お正月しょうがつでもないのに、まさか朝っぱらあさっぱらから酔払っよっぱらって、他ほかの家いえへお客おきゃくにいらっしゃる方ほうもあるまいと思いおもいましたから、――」「酔っよいっちゃいらっしゃらないと云っいったの」「ええ」 お延のべはまだ後あとがあるだろうという様子ようすを見せみせた。
お時じは果してはたして話はなしをそこで切り上げきりあげなかった。
「奥さまおくさま、あの旦那だんな様ようが、帰っかえったらよく奥さまおくさまにそう云えいえとおっしゃいました」「なんと」「あの小林こばやしって奴やつは何なんをいうか分らわからない奴やつだ、ことに酔うようとあぶない男おとこだ。だから、あいつが何なんを云っいってもけっして取り合っとりあっちゃいけない。まあみんな嘘うそだと思っおもっていれば間ま違いはないんだからって」「そう」 お延のべはこれ以上いじょう何なんも云ういう気きにならなかった。
お時じは一人ひとりでげらげら笑っわらった。
「堀ほりの奥さまおくさまも傍そばで笑っわらっていらっしゃいました」 お延のべは始めはじめて津田つだの妹いもうとが今朝けさ病院びょういんへ見舞みまいに来きていた事ことを知っしった。
九十一きゅうじゅういち
お延のべより一いちつ年上としうえのその妹いもうとは、もう二人ふたりの子持こもちであった。
長男ちょうなんはすでに四よん年ねん前まえに生れうまれていた。
単にたんに母ははであるという事実じじつが、彼女かのじょの自覚じかくを呼び醒ますよびさますには充分じゅうぶんであった。
彼女かのじょの心こころは四よん年ねん以来いらいいつでも母ははであった。
母ははでない日ひはただの一日いちにちもなかった。
彼女かのじょの夫おっとは道楽どうらくものであった。
そうして道楽どうらくものによく見受けみうけられる寛大かんだいの気性きしょうを具えそなえていた。
自分じぶんが自由じゆうに遊びあそび廻るまわる代りかわりに、細君さいくんにもむずかしい顔かおを見せみせない、と云っいってむやみに可愛かわいがりもしない。
これが彼かれのお秀おひでに対するたいする態度たいどであった。
彼かれはそれを得意とくいにしていた。
道楽どうらくの修業しゅぎょうを積んつんで始めはじめてそういう境界きょうかいに達せたっせられるもののように考えかんがえていた。
人世じんせい観かんという厳めしいいかめしい名なをつけて然るしかるべきものを、もし彼かれがもっているとすれば、それは取りとりも直さなおさず、物事ものごとに生温くなまぬるく触れふれて行くいく事ことであった。
微笑びしょうして過ぎるすぎる事ことであった。
何になんにも執着しゅうちゃくしない事ことであった。
呑気のんきに、ずぼらに、淡泊たんぱくに、鷹揚おうように、善良ぜんりょうに、世の中よのなかを歩いあるいて行くいく事ことであった。
それが彼かれのいわゆる通つうであった。
金きんに不自由ふじゆうのない彼かれは、今までいままでそれだけで押し通しおしとおして来きた。
またどこへ行っいっても不足ふそくを感じかんじなかった。
この好成よしなり蹟がますます彼かれを楽天的らくてんてきにした。
誰だれからでも好かよしみかれているという自信じしんをもった彼かれは、無論むろんお秀おひでからも好かよしみかれているに違いないと思い込んおもいこんでいた。
そうしてそれは間ま違いでも何なんでもなかった。
実際じっさい彼かれはお秀おひでから嫌わいやわれていなかったのである。
器量きりょう望みのぞみで貰わもらわれたお秀おひでは、堀ほりの所ところへ片づいかたづいてから始めはじめて夫おっとの性質せいしつを知っしった。
放蕩ほうとうの酒さけで臓腑ぞうふを洗濯せんたくされたような彼かれの趣おもむきもようやく解するかいする事ことができた。
こんなに拘泥こうでいの少ないすくない男おとこが、また何なんの必要ひつようがあって、是非ぜひ自分じぶんを貰いもらいたいなどと、真面目まじめに云いいい出しだしたものだろうかという不審ふしんさえ、すぐうやむやのうちに葬らほうむられてしまった。
お延のべほど根強くねづよくない彼女かのじょは、その意味いみを覚るさとる前まえに、もう妻つまとしての興味きょうみを夫おっとから離しはなして、母ははらしい輝やいかがやいた始めはじめての眼めを、新らしくあたらしく生れうまれた子供こどもの上うえに注がちゅうがなければならなくなった。
お秀おひでのお延のべと違うちがうところはこれだけではなかった。
お延のべの新しん世帯せたいが夫婦ふうふ二人ふたりぎりで、家族かぞくは双方そうほうとも遠いとおい京都きょうとに離れはなれているのに反しはんして、堀ほりには母ははがあった。
弟おとうとも妹いもうとも同居どうきょしていた。
親類しんるいの厄介者やっかいしゃまでいた。
自然しぜんの勢いいきおい彼女かのじょは夫おっとの事ことばかり考えかんがえている訳わけに行かいかなかった。
中なかでも母ははには、他ほかの知らしらない気苦労きくろうをしなければならなかった。
器量きりょう望みのぞみで貰わもらわれただけあって、外側そとがわから見みたお秀おひではいつまで経っきょうっても若かっわかかった。
一いちつ年下とししたのお延のべに比べくらべて見みてもやっぱり若かっわかかった。
四よん歳としの子持こもちとはどうしても考えかんがえられないくらいであった。
けれどもお延のべと違っちがった家庭かていの事情じじょうの下したに、過去かこの四五しご年ねんを費やしついやして来きた彼女かのじょは、どこかにまたお延のべと違っちがった心得こころえをもっていた。
お延のべより若くわかく見みられないとも限らかぎらない彼女かのじょは、ある意味いみから云っいって、たしかにお延のべよりも老けふけていた。
言語げんご態度たいどが老けふけているというよりも、心こころが老けふけていた。
いわば、早くはやく世帯せたい染みしみたのである。
こういう世帯せたい染みしみた眼めで兄あに夫婦ふうふを眺めながめなければならないお秀おひでには、常つねに彼かれらに対するたいする不満ふまんがあった。
その不満ふまんが、何なんか事ことさえあると、とかく彼女かのじょを京都きょうとにいる父母ふぼの味方みかたにしたがった。
彼女かのじょはそれでもなるべく兄あにと衝突しょうとつする機会きかいを避けるさけるようにしていた。
ことに嫂ねーに気き下した味いあじわい事ことをいうのは、直接ちょくせつ兄あにに当るあたるよりもなお悪いわるいと思っおもって、平生へいぜいから慎しんつつしんでいた。
しかし腹はらの中なかはむしろ反対はんたいであった。
何なんかいう兄あによりも何なんも云わいわないお延のべの方ほうに、彼女かのじょはいつでも余分よぶんの非難ひなんを投げかけなげかけていた。
兄あにがもしあれほど派手はで好きすきな女おんなと結婚けっこんしなかったならばという気きが、始終しじゅう胸むねの底そこにあった。
そうしてそれは身み贔負に過ぎすぎない、お延のべに気の毒きのどくな批判ひはんであるという事ことには、かつて思い至らおもいいたらなかった。
お秀おひでは自分じぶんの立場たちばをよく承知しょうちしているつもりでいた。
兄あに夫婦ふうふから煙たけむたがられないまでも、けっして快よくこころよく思わおもわれていないぐらいの事ことには、気きがついていた。
しかし自分じぶんの立場たちばを改めようあらためようという考かんがえは、彼女かのじょの頭あたまのどこにも入っはいって来きなかった。
第だい一いちには二人ふたりが厭いやがるからなお改めあらためないのであった。
自分じぶんの立場たちばを厭いやがるのが、結局けっきょく自分じぶんを厭いやがるのと同じおなじ事ことに帰着きちゃくしてくるので、彼女かのじょはそこに反抗はんこうの意地いじを出しだしたくなったのである。
第だい二にには正しいただしいという良心りょうしんが働はたらけらいていた。
これはいくら厭いやがられても兄あにのためだと思えおもえば構わかまわないという主張しゅちょうであった。
第だい三さんは単にたんに派手はで好よしみなお延のべが嫌いやだという一いち点てんに纏めまとめられてしまわなければならなかった。
お延のべより余裕よゆうのある、またお延のべより贅沢ぜいたくのできる彼女かのじょにして、その点てんでは自分じぶん以下いかのお延のべがなぜ気きに喰わくわないのだろうか。
それはお秀おひでにとって何なんの問題もんだいにもならなかった。
ただしお秀おひでには姑しゅうとめがあった。
そうしてお延のべは夫おっとを除けよけば全くまったく自分自身じぶんじしんの主人公しゅじんこうであった。
しかしお秀おひではこの問題もんだいに関聯かんれんしてこの相違そういすら考えかんがえなかった。
お秀おひでがお延のべから津田つだの消息しょうそくを電話でんわで訊かきかされて、その翌日よくじつ病院びょういんへ見舞みまいに出かけでかけたのは、お時じの行くいく小しょう一いち時間じかん前まえ、ちょうど小林こばやしが外套がいとうを受取ろううけとろうとして、彼かれの座敷ざしきへ上り込んあがりこんだ時分じぶんであった。
九十二きゅうじゅうに
前まえの晩ばんよく寝ねられなかった津田つだは、その朝あさ看護婦かんごふの運んはこんで来きてくれた膳ぜんにちょっと手てを出しだしたぎり、また仰あおぐ向むかいになって、昨夕さくゆうの不足ふそくを取り返すとりかえすために、重たいおもたい眼めを閉っしまっていた。
お秀おひでの入っはいって来きたのは、ちょうど彼かれがうとうとと半睡はんすい状態じょうたいに入りかけはいりかけた間際まぎわだったので、彼かれは襖ふすまの音おとですぐ眼めを覚ましさました。
そうして病人びょうにんに斟酌しんしゃくを加えるくわえるつもりで、わざとそれを静かしずかに開けあけたお秀おひでと顔かおを見合せみあわせた。
こういう場合ばあいに彼かれらはけっして愛嬌あいきょうを売りうり合わあわなかった。
嬉しうれしそうな表情ひょうじょうも見せ合わみせあわなかった。
彼かれらからいうと、それはむしろ陳腐ちんぷ過ぎるすぎる社交しゃこう上うえの形式けいしきに過ぎすぎなかった。
それから一種いっしゅの虚偽きょぎに近いちかい努力どりょくでもあった。
彼かれらには自分じぶんら兄妹きょうだいでなくては見みられない、また自分じぶんら以外いがいの他人たにんには通用つうようし悪いわるい黙契もっけいがあった。
どうせお互いたがいに好くよく思わおもわれよう、好くよく思わおもわれようと意識いしきして、上部じょうぶの所作しょさだけを人並ひとなみに尽しつくしたところで、今さらいまさら始まらはじまらないんだから、いっそ下手へたに騙しだまし合うあう手数てすうを省いはぶいて、良心りょうしんに背かせかない顔かおそのままで、面めんと向き合おうむきあおうじゃないかという無言むごんの相談そうだんが、多年たねんの間まにいつか成立せいりつしてしまったのである。
そうしてその良心りょうしんに背かせかない顔かおというのは、取とりも直さなおさず、愛嬌あいきょうのない顔かおという事ことに過ぎすぎなかった。
第だい一いちに彼かれらは普通ふつうの兄妹きょうだいとして親しいしたしい間柄あいだがらであった。
だから遠慮えんりょの要らいらないという意味いみで、不ふ愛嬌あいきょうな挨拶あいさつが苦くにならなかった。
第だい二にに彼かれらはどこかに調子ちょうしの合わあわないところをもっていた。
それが災わざわいの元もとで、互たがいの顔かおを見るみると、互たがいに弾き合いはじきあいたくなった。
ふと首くびを上げあげてそこにお秀おひでを見出しみだした津田つだの眼めには、まさにこうした二に重じゅうの意味いみから来るくる不精ぶしょうと不ふ関心かんしんがあった。
彼かれは何物なにものをか待ち受けまちうけているように、いったんきっと上げあげた首くびをまた枕まくらの上うえに横たえよこたえてしまった。
お秀おひではまたお秀でひいで、それにはいっこう頓着とんちゃくなく、言葉ことばもかけずに、そっと室むろの内うちに入っはいって来きた。
彼女かのじょは何なんより先さきにまず、枕元まくらもとにある膳ぜんを眺めながめた。
膳ぜんの上うえは汚ならしかっきたならしかった。
横倒しよこだおしに引いんッっ繰り返さくりかえされた牛乳ぎゅうにゅうの罎の下したに、鶏卵けいらんの殻からが一いちつ、その重みおもみで押し潰さおしつぶされている傍そばに、歯は痕あとのついた焼やけ麺めん麭が食しょく欠けつのまま投げ出さなげだされてあった。
しかもほかにまだ一いち枚ばい手てをつけないのが、綺麗きれいに皿さらの上うえに載っのっていた。
玉子たまごもまだ一いちつ残っのこっていた。
「兄さんあにさん、こりゃもう済んすんだの。まだ食べかけたべかけなの」 実際じっさい津田つだの片づけかたづけかたは、どっちにでも取れるとれるような、だらしのないものであった。
「もう済んすんだんだよ」 お秀おひでは眉まゆをひそめて、膳ぜんを階子段はしごだんの上り口あがりぐちまで運び出しはこびだした。
看護婦かんごふの手てが隙すきかなかったためか、いつまでも兄あにの枕元まくらもとに取りとり散らかさちらかされている朝食ちょうしょくの残骸ざんがいは、掃除そうじの行き届いいきとどいた自分じぶんの家いえを今いま出かけでかけて来きたばかりの彼女かのじょにとって、あまり見みっともいいものではなかった。
「汚ならしいきたならしい事こと」 彼女かのじょは誰だれに小言こごとを云ういうともなく、ただ一人ひとりこう云っいって元もとの座ざに帰っかえった。
しかし津田つだは黙っだまって取り合わとりあわなかった。
「どうしておれのここにいる事ことが知れしれたんだい」「電話でんわで知らしらせて下すっくだすったんです」「お延のべがかい」「ええ」「知らしらせないでもいいって云っいったのに」 今度こんどはお秀おひでの方ほうが取り合わとりあわなかった。
「すぐ来ようこようと思っおもったんですけれども、あいにく昨日きのうは少しすこし差支えさしつかえがあって――」 お秀おひではそれぎり後あとを云わいわなかった。
結婚後けっこんごの彼女かのじょには、こういう風かぜに物ものを半分はんぶんぎりしか云わいわない癖くせがいつの間まにか出でて来きた。
場合ばあいによると、それが津田つだには変へんに受取れうけとれた。
「嫁よめに行っいった以上いじょう、兄さんあにさんだってもう他人たにんですからね」という意味いみに解釈かいしゃくされる事ことが時々ときどきあった。
自分じぶん達とおる夫婦ふうふの間柄あいだがらを考えかんがえて見みても、そこに無理むりはないのだと思い返せおもいかえせないほど理窟りくつの徹らとおらない頭あたまをもった津田つだでは無論むろんなかった。
それどころか、彼かれはこの妹いもうとのような態度たいどで、お延のべが外そとへ対したいしてふるまってくれれば好いよいがと、暗にあんに希望きぼうしていたくらいであった。
けれども自分じぶんがお秀おひでにそうした素もと振ぶりを見せみせられて見るみるとけっして好いよい気持きもちはしなかった。
そうして自分じぶんこそ絶えたえずお秀おひでに対したいしてそういう素もと振ぶりを見せみせているのにと反省はんせいする暇ひまも何になんにもなくなってしまった。
津田つだは後あとを訊かきかずに思うおもう通りとおりを云っいった。
「なに今日きょうだって、忙がしいいそがしいところをわざわざ来きてくれるには及ばおよばないんだ。大したたいした病気びょうきじゃないんだから」「だって嫂ねーさんが、もし閑かんがあったら行っいって上げあげて下さいくださいって、わざわざ電話でんわでおっしゃったから」「そうかい」「それにあたし少しすこし兄さんあにさんに話しはなしたい用ようがあるんですの」 津田つだはようやく頭あたまをお秀おひでの方ほうへ向けむけた。
九十三きゅうじゅうさん
手術しゅじゅつ後あと局部きょくぶに起るおこる変へんな感じかんじが彼かれを襲っおそって来きた。
それはガーゼがーぜを詰め込んつめこんだ創口そうこうの周囲しゅういにある筋肉きんにくが一時いちじに収縮しゅうしゅくするために起るおこる特殊とくしゅな心持こころもちに過ぎすぎなかったけれども、いったん始まっはじまったが最後さいご、あたかも呼吸こきゅうか脈搏みゃくはくのように、規則きそく正しくただしく進行しんこうしてやまない種類しゅるいのものであった。
彼かれは一昨いっさく日ひの午後ごご始めはじめて第だい一いちの収縮しゅうしゅくを感じかんじた。
芝居しばいへ行くいく許諾きょだくを彼かれから得とくたお延のべが、階子段はしごだんを下したへ降りふりて行っいった拍子ひょうしに起っおこったこの経験けいけんは、彼かれにとって全然ぜんぜん新らしいあたらしいものではなかった。
この前まえ療治りょうじを受けうけた時じ、すでに同じおなじ現象げんしょうの発見者はっけんしゃであった彼かれは、思わおもわず「また始まっはじまったな」と心こころの中なかで叫んさけんだ。
すると苦いにがい記憶きおくをわざと彼かれのために繰り返しくりかえしてみせるように、収縮しゅうしゅくが規則きそく正しくただしく進行しんこうし出しだした。
最初さいしょに肉にくが縮むちぢむ、詰め込んつめこんだガーゼがーぜで荒々しくあらあらしくその肉にくを擦すられた気持きもちがする、次つぎにそれがだんだん緩和かんわされて来るくる、やがて自然しぜんの状態じょうたいに戻ろうもどろうとする、途端とたんに一度いちど引いひいた浪なみがまた磯いそへ打ち上げるうちあげるような勢いきおいで、収縮しゅうしゅく感かんが猛烈もうれつにぶり返しぶりかえしてくる。
すると彼かれの意志いしはその局部きょくぶに対したいして全くまったく平生へいぜいの命令めいれい権けんを失っうしなってしまう。
止めとめさせようと焦慮しょうりょれば焦慮しょうりょるほど、筋肉きんにくの方ほうでなお云ういう事ことを聞かきかなくなる。
――これが過程かていであった。
津田つだはこの変へんな感じかんじとお延のべとの間まにどんな連絡れんらくがあるか知らしらなかった。
彼かれは籠かごの中なかの鳥とり見みたように彼女かのじょを取扱うとりあつかうのが気の毒きのどくになった。
いつまでも彼女かのじょを自分じぶんの傍そばに引きつけひきつけておくのを男おとこらしくないと考えかんがえた。
それで快よくこころよく彼女かのじょを自由じゆうな空気くうきの中なかに放しはなしてやった。
しかし彼女かのじょが彼かれの好意こういを感謝かんしゃして、彼かれの病床びょうしょうを去るさるや否いなや、急きゅうに自分じぶんだけ一人ひとり取り残さとりのこされたような気きがし出しだした。
彼かれは物もの足りたりない耳みみを傾むけかたむけて、お延のべの下したへ降りふりて行くいく足音あしおとを聞いきいた。
彼女かのじょが玄関げんかんの扉とびらを開けるあける時じ、烈しくはげしく鳴らしならした号ごう鈴すずの音おとさえ彼かれにはあまり無遠慮むえんりょ過ぎすぎた。
彼かれが局部きょくぶから受けるうける厭いやな筋肉きんにくの感じかんじはちょうどこの時じに再発さいはつしたのである。
彼かれはそれを一種いっしゅの刺戟しげきに帰しかえした。
そうしてその刺戟しげきは過敏かびんにされた神経しんけいのお蔭おかげにほかならないと考えかんがえた。
ではお延のべの行為こういが彼かれの神経しんけいをそれほど過敏かびんにしたのだろうか。
お延のべの所作しょさに対したいして突然とつぜん不快ふかいを感じかんじ出しだした彼かれも、そこまでは論断ろんだんする事ことができなかった。
しかし全くまったく偶然ぐうぜんの暗合あんごうでない事ことも、彼かれに云わいわせると、自明じめいの理りであった。
彼かれは自分じぶんだけの料簡りょうけんで、二につの間まにある関係かんけいを拵えこしらえた。
同時どうじにその関係かんけいを後あとからお延のべに云っいって聞かきかせてやりたくなった。
単にたんに彼女かのじょを気の毒きのどくがらせるために、病気びょうきで寝ねている夫おっとを捨てすてて、一いち日ひの歓楽かんらくに走っはしった結果けっかの悪かっわるかった事ことを、彼女かのじょに後悔こうかいさせるために。
けれども彼かれはそれを適当てきとうに云いいい現わすあらわす言葉ことばを知らしらなかった。
たとい云いいい現わしあらわしても彼女かのじょに通じつうじない事ことはたしかであった。
通じるつうじるにしても、自分じぶんの思いおもい通りとおりに感じかんじさせる事ことはむずかしかった。
彼かれは黙っだまって心持こころもちを悪くわるくしているよりほかに仕方しかたがなかった。
お秀おひでの方ほうを向き直っむきなおったとっさに、また感じかんじ始めはじめた局部きょくぶの収縮しゅうしゅくが、すぐ津田つだにこれだけの顛末てんまつを思い起さおもいおこさせた。
彼かれは苦いにがい顔かおをした。
何になんにも知らしらないお秀おひでにそんな細かいこまかい意味いみの分るわかるはずはなかった。
彼女かのじょはそれを兄あにがいつでも自分じぶんにだけして見せるみせる例れいの表情ひょうじょうに過ぎすぎないと解釈かいしゃくした。
「お厭いやなら病院びょういんをお出でになってから後あとにしましょうか」 別べつに同情どうじょうのある態度たいども示さしめさなかった彼女かのじょは、それでも幾分いくぶんか斟酌しんしゃくしなければならなかった。
「どこか痛いいたいの」 津田つだはただ首肯いうなずいて見せみせた。
お秀おひではしばらく黙っだまって彼かれの様子ようすを見みていた。
同時どうじに津田つだの局部きょくぶで収縮しゅうしゅくが規則きそく正しくただしく繰り返さくりかえされ始めはじめた。
沈黙ちんもくが二人ふたりの間まに続いつづいた。
その沈黙ちんもくの続いつづいている間ま彼かれは苦いにがい顔かおを改めあらためなかった。
「そんなに痛くいたくっちゃ困るこまるのね。嫂ねーさんはどうしたんでしょう。昨日きのうの電話でんわじゃ痛みいたみも何になんにもないようなお話しはなしだったのにね」「お延のべは知らしらないんだ」「じゃ嫂ねーさんが帰っかえってから後あとで痛みいたみ始めはじめたの」「なに本当ほんとうはお延のべのお蔭おかげで痛みいたみ始めはじめたんだ」とも云えいえなかった津田つだは、この時じ急きゅうに自分じぶんが自分じぶんに駄々っ子だだっこらしく見えみえて来きた。
上部じょうぶはとにかく、腹はらの中なかがいかにも兄あにらしくないのが恥ずかしくはずかしくなった。
「いったいお前おまえの用ようというのは何なんだい」「なに、そんなに痛いいたい時じに話さはなさなくってもいいのよ。またにしましょう」 津田つだは優にゆうに自分じぶんを偽るいつわる事ことができた。
しかしその時じの彼かれは偽るいつわるのが厭いやであった。
彼かれはもう局部きょくぶの感じかんじを忘れわすれていた。
収縮しゅうしゅくは忘れれわすれればやみ、やめば忘れるわすれるのをその特色とくしょくにしていた。
「構わかまわないからお話しはなしよ」「どうせあたしの話はなしだから碌なろくな事ことじゃないのよ。よくって」 津田つだにも大おおよその見当けんとうはついていた。
九十四きゅうじゅうよん
「またあの事ことだろう」 津田つだはしばらく間まをおいて、仕方なししかたなしにこう云っいった。
しかしその時じの彼かれはもう例れいの通りとおり聴きききたくもないという顔つきかおつきに返っかえっていた。
お秀おひでは心こころでこの矛盾むじゅんを腹立たしくはらだたしく感じかんじた。
「だからあたしの方ほうじゃ先刻せんこくから用ようは今度こんどの次つぎにしようかと云っいってるんじゃありませんか。それを兄さんあにさんがわざわざ催促さいそくするようにおっしゃるから、ついお話しはなしする気きにもなるんですわ」「だから遠慮えんりょなく話しはなしたらいいじゃないか。どうせお前おまえはそのつもりで来きたんだろう」「だって、兄さんあにさんがそんな厭いやな顔かおをなさるんですもの」 お秀おひでは少くすくなくとも兄あにに対したいしてなら厭いやな顔かおぐらいで会釈えしゃくを加えるくわえる女おんなではなかった。
したがって津田つだも気の毒きのどくになるはずがなかった。
かえって妹いもうとの癖くせに余計よけいな所ところで自分じぶんを非難ひなんする奴やつだぐらいに考えかんがえた。
彼かれは取り合わとりあわずに先さきへ通りとおり過しすごした。
「また京都きょうとから何なんか云っいって来きたのかい」「ええまあそんなところよ」 津田つだの所ところへは父ちちの方ほうから、お秀おひでの許もとへは母ははの側がわから、京都きょうとの消息しょうそくが重じゅうに伝えつたえられる事ことにほぼきまっていたので、彼かれは文通ぶんつうの主ぬしを改めてあらためて聞くきく必要ひつようを認めみとめなかった。
しかし目下めしたの境遇きょうぐうから云っいって、お秀おひでの母ははから受け取っうけとったという手紙てがみの中味なかみにはまた冷淡れいたんであり得るうるはずがなかった。
二に度目どめの請求せいきゅうを京都きょうとへ出しだしてから以後いごの彼かれは、絶えたえず送金そうきんの有無うむを心こころのうちで気遣っきづかいっていたのである。
兄妹きょうだいの間まに「あの事こと」として通用つうようする事件じけんは、なるべく聴くきくまいと用心ようじんしても、月末げつまつの仕払しはらいや病院びょういんの入費にゅうひの出所しゅっしょに多大ただいの利害りがいを感じかんじない訳わけに行かいかなかった津田つだは、またこの二につのものが互たがいに困絡こんらくかって、離すはなす事ことのできない事情じじょうの下したにある意味合いみごうを、お秀おひでよりもよく承知しょうちしていた。
彼かれはどうしても積極的せっきょくてきに自分じぶんから押しおして出でなければならなかった。
「何なんと云っいって来きたい」「兄さんあにさんの方ほうへもお父さんおちちさんから何なんか云っいって来きたでしょう」「うん云っいって来きた。そりゃ話さはなさないでもたいていお前おまえに解っわかってるだろう」 お秀おひでは解っわかっているともいないとも答えこたえなかった。
ただ微かかすかに薄うす笑わらいの影かげを締りしまりの好いよい口元くちもとに寄せよせて見せみせた。
それがいかにも兄あにに打ち勝っうちかった得意とくいの色いろをほのめかすように見えるみえるのが津田つだには癪しゃくだった。
平生へいぜいは単にたんに妹いもうとであるという因縁いんねんずくで、少しすこしも自分じぶんの眼めにつかないお秀おひでの器量きりょうが、こう云ういう時じに限っかぎって、悪くわるく彼かれを刺戟しげきした。
なまじい容色ようしょくが十人じゅうにん並なみ以上いじょうなので、この女おんなは余計よけい他ほかの感情かんじょうを害するがいするのではなかろうかと思うおもう疑惑ぎわくさえ、彼かれにとっては一度いちどや二に度どの経験けいけんではなかった。
「お前おまえは器量きりょう望みのぞみで貰わもらわれたのを、生涯しょうがい自慢じまんにする気きなんだろう」と云っいってやりたい事こともしばしばあった。
お秀おひではやがてきちりと整っととのった眼鼻めはなを揃えそろえて兄あにに向っむかった。
「それで兄さんあにさんはどうなすったの」「どうもしようがないじゃないか」「お父さんおちちさんの方ほうへは何になんにも云っいっておあげにならなかったの」 津田つだはしばらく黙っだまっていた。
それからさもやむをえないといった風かぜに答えこたえた。
「云っいってやったさ」「そうしたら」「そうしたら、まだ何なんとも返事へんじがないんだ。もっとも家いえへはもう来きているかも知れしれないが、何しろなにしろお延のべが来きて見みなければ、そこも分らわからない」「しかしお父さんおちちさんがどんなお返事へんじをお寄こしよこしになるか、兄さんあにさんには見当けんとうがついて」 津田つだは何なんとも答えこたえなかった。
お延のべの拵らえこしらえてくれた※袍ほうの襟えりを手探りてさぐりに探っさぐって、黒くろ八丈はちじょうの下したから抜き取っぬきとった小楊枝しょうようじで、しきりに前歯まえばをほじくり始めはじめた。
彼かれがいつまでも黙っだまっているので、お秀おひでは同じおなじ意味いみの質問しつもんをほかの言葉ことばでかけ直しなおした。
「兄さんあにさんはお父さんおちちさんが快よくこころよく送金そうきんをして下さるくださると思っおもっていらっしゃるの」「知らしらないよ」 津田つだはぶっきら棒ぶっきらぼうに答えこたえた。
そうして腹立たしはらだたしそうに後あとをつけ加えつけくわえた。
「だからお母さんおははさんはお前おまえの所ところへ何なんと云っいって来きたかって、先刻せんこくから訊いきいてるじゃないか」 お秀おひではわざと眼めを反らしそらして縁側えんがわの方ほうを見みた。
それは彼かれの前まえでああ、ああと嘆息たんそくして見せるみせる所作しょさの代りかわりに過ぎすぎなかった。
「だから云わいわない事ことじゃないのよ。あたし始はじめからこうなるだろうと思っおもってたんですもの」
九十五きゅうじゅうご
津田つだはようやくお秀おひで宛ずつで来きた手紙てがみの中なかに、どんな事柄ことがらが書いかいてあるかを聞いきいた。
妹いもうとの口くちから伝えつたえられたその内容ないようによると、父ちちの怒りいかりは彼かれの予期よき以上いじょうに烈しいはげしいものであった。
月末げつまつの不足ふそくを自分じぶんで才覚さいかくするなら格別かくべつ、もしそれさえできないというなら、これから先さきの送金そうきんも、見せしめみせしめのため、当分とうぶん見合せるみあわせるかも知れしれないというのが父ちちの実際じっさいの考えかんがえらしかった。
して見るみると、この間ま彼かれの所ところへそう云っいって来きた垣根かきねの繕いつくろいだとか家賃やちんの滞りとどこおりだとかいうのは嘘うそでなければならなかった。
よし嘘うそでないにしたところで、単にたんに口先くちさきの云いいい前まえと思わおもわなければならなかった。
父ちちがまた何なんで彼かれに対したいしてそんなしらじらしい他人行儀たにんぎょうぎを云っいって寄こしよこしたものだろう。
叱るしかるならもっと男おとこらしく叱っしかったらよさそうなものだのに。
彼かれは沈吟ちんぎんして考えかんがえた。
山羊髯やぎひげを生やしはやして、万事ばんじにもったいをつけたがる父ちちの顔かお、意味いみもないのに束髪そくはつを嫌っいやって髷まげにばかり結いゆいたがる母ははの頭あたま、そのくらいの特色とくしょくはこの場合ばあいを解釈かいしゃくする何なんの手がかりてがかりにもならなかった。
「いったい兄さんあにさんが約束やくそく通りとおりになさらないから悪いわるいのよ」とお秀おひでが云っいった。
事件じけん以後いご何度なんどとなく彼女かのじょによって繰り返さくりかえされるこの言葉ことばほど、津田つだの聞きききたくないものはなかった。
約束やくそく通りとおりにしないのが悪いわるいくらいは、妹いもうとに教わらおそわらないでも、よく解っわかっていた。
彼かれはただその必要ひつようを認めみとめなかっただけなのである。
そうしてその立場たちばを他ほかからも認めみとめて貰いもらいたかったのである。
「だってそりゃ無理むりだわ」とお秀おひでが云っいった。
「いくら親子おやこだって約束やくそくは約束やくそくですもの。それにお父さんおちちさんと兄さんあにさんだけの事ことなら、どうでもいいでしょうけれども」 お秀おひでには自分じぶんの良人おっとの堀ほりがそれに関係かんけいしているという事ことが一番いちばん重要じゅうような問題もんだいであった。
「良人おっとでも困るこまるのよ。あんな手紙てがみをお母さんおははさんから寄こさよこされると」 学校がっこうを卒業そつぎょうして、相当そうとうの職しょくにありついて、新らしくあたらしく家庭かていを構えるかまえる以上いじょう、曲りまがりなりにも親おやの厄介やっかいにならずに、独立どくりつした生計せいけいを営なんいとなんで行かいかなければならないという父ちちの意見いけんを翻がえさひるがえさせたものは堀ほりの力ちからであった。
津田つだから頼またのまれて、また無む雑作ぞうさにそれを引き受けひきうけた堀ほりは、物価ぶっかの騰貴とうき、交際こうさいの必要ひつよう、時代じだいの変化へんか、東京とうきょうと地方ちほうとの区別くべつ、いろいろ都合つごうの好いよい材料ざいりょうを勝手にかってに並べ立てならべたててて、勤倹きんけん一方いっぽうの父ちちを口説き落しくどきおとしたのである。
その代りかわり盆暮ぼんくれに津田つだの手てに渡るわたる賞与しょうよの大部分だいぶぶんを割いさいて、月々つきづきの補助ほじょを一度いちどに幾分いくぶんか償却しょうきゃくさせるという方針ほうしんを立てたてたのも彼かれであった。
その案あんの成立せいりつと共ともに責任せきにんのできた彼かれはまた至極しごく呑気のんきな男おとこであった。
約束やくそくの履行りこうなどという事ことは、最初さいしょから深くふかく考えかんがえなかったのみならず、遂行すいこうの時期じきが来きた時分じぶんには、もうそれを忘れわすれていた。
詰責きっせきに近いちかい手紙てがみを津田つだの父ちちから受取っうけとった彼かれは、ほとんどこの事件じけんを念頭ねんとうにおいていなかっただけに、驚ろかさおどろかされた。
しかし現金げんきんの綺麗きれいに消費しょうひされてしまった後あとで、気きがついたところで、どうする訳わけにも行かいかなかった。
楽天的らくてんてきな彼かれはただ申し訳もうしわけの返事へんじを書いかいて、それを終了しゅうりょうと心得こころえていた。
ところが世間せけんは自分じぶんのズボラずぼらに適当てきとうするように出来上っできあがっていないという事ことを、彼かれは津田つだの父ちちから教えおしえられなければならなかった。
津田つだの父ちちはいつまで経っきょうっても彼かれを責任者せきにんしゃ扱いあつかいにした。
同時どうじに津田つだの財力ざいりょくには不相応ふそうおうと見えるみえるくらいな立派りっぱな指輪ゆびわがお延のべの指ゆびに輝きかがやき始めはじめた。
そうして始めはじめにそれを見つけみつけ出しだしたものはお秀おひでであった。
女おんな同志どうしの好奇心こうきしんが彼女かのじょの神経しんけいを鋭敏えいびんにした。
彼女かのじょはお延のべの指輪ゆびわを賞めほめた。
賞めほめたついでにそれを買っかった時じと所ところとを突きとめようつきとめようとした。
堀ほりが保証ほしょうして成立せいりつした津田つだと父ちちとの約束やくそくをまるで知らしらなかったお延のべは、平生へいぜいの用心ようじんにも似にず、その点てんにかけて、全くまったく無邪気むじゃきであった。
自分じぶんがどのくらい津田つだに愛さあいされているかを、お秀おひでに示そうしめそうとする努力どりょくが、すべての顧慮こりょに打ち勝っうちかった。
彼女かのじょはありのままをお秀おひでに物語っものがたりった。
不断ふだんから派手はで過ぎるすぎる女おんなとしてお延のべを多少たしょう悪くわるく見みていたお秀おひでは、すぐその顛末てんまつを京都きょうとへ報告ほうこくした。
しかもお延のべが盆暮ぼんくれの約束やくそくを承知しょうちしている癖くせに、わざと夫おっとを唆のかして、返さかえされる金きんを返さかえさないようにさせたのだという風かぜな手紙てがみの書方しょほうをした。
津田つだが自分じぶんの細君さいくんに対するたいする虚栄心きょえいしんから、内状ないじょうをお延のべに打ち明けうちあけなかったのを、お秀おひではお延のべ自身じしんの虚栄心きょえいしんででもあるように、頭あたまからきめてかかったのである。
そうして自分じぶんの誤解ごかいをそのまま京都きょうとへ伝えつたえてしまったのである。
今いまでも彼女かのじょはその誤解ごかいから逃れるのがれる事ことができなかった。
したがってこの事件じけんに関係かんけいしていうと、彼女かのじょの相手あいては兄あにの津田つだよりもむしろ嫂ねーのお延のべだと云っいった方ほうが適切てきせつかも知れしれなかった。
「いったい嫂ねーさんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事ことについて」「お延のべに何になんにも関係かんけいなんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何になんにも話しゃはなしゃしないんだもの」「そう。じゃ嫂ねーさんが一番いちばん気楽きらくでいいわね」 お秀おひでは皮肉ひにくな微笑びしょうを見せみせた。
津田つだの頭あたまには、芝居しばいに行くいく前まえの晩ばん、これを質しつにでも入れよういれようかと云っいって、ぴかぴかする厚いあつい帯おびを電灯でんとうの光ひかりに差しさし突けつけたお延のべの姿すがたが、鮮かあざやかに見えみえた。
九十六きゅうじゅうろく
「いったいどうしたらいいんでしょう」 お秀おひでの言葉ことばは不謹慎ふきんしんな兄あにを困らこまらせる意味いみにも取れるとれるし、また自分じぶんの当惑とうわくを洩らすもらす表現ひょうげんにもなった。
彼女かのじょには夫おっとの手前てまえというものがあった。
夫おっとよりもなお遠慮えんりょ勝かちな姑しゅうとめさえその奥おくには控えひかえていた。
「そりゃ良人おっとだって兄さんあにさんに頼またのまれて、口くちは利いきいたようなものの、そこまで責任せきにんをもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云っいって、何なんもあれは無責任むせきにんだと今さらいまさらお断りことわりをする気きでもないでしょうけれども。とにかく万一まんいちの場合ばあいにはこう致しいたしますからって証文しょうもんを入れいれた訳わけでもないんだから、そうお父さんおちちさんのように、法律ほうりつずくめに解釈かいしゃくされたって、あたしが良人おっとへ対したいして困るこまるだけだわ」 津田つだは少くすくなくとも表面ひょうめん上うえ妹いもうとの立場たちばを認めるみとめるよりほかに道みちがなかった。
しかし腹はらの中なかでは彼女かのじょに対したいして気の毒きのどくだという料簡りょうけんがどこにも起らおこらないので、彼かれの態度たいどは自然しぜんお秀おひでに反響はんきょうして来きた。
彼女かのじょは自分じぶんの前まえに甚だはなはだ横着おうちゃくな兄あにを見みた。
その兄あには自分じぶんの便利べんりよりほかにほとんど何になんにも考えかんがえていなかった。
もし考えかんがえているとすれば新らしくあたらしく貰っもらった細君さいくんの事ことだけであった。
そうして彼かれはその細君さいくんに甘くあまくなっていた。
むしろ自由じゆうにされていた。
細君さいくんを満足まんぞくさせるために、外部がいぶに対したいしては、前まえよりは一層いっそう手前勝手てまえかってにならなければならなかった。
兄あにをこう見みている彼女かのじょは、津田つだに云わいわせると、最ももっとも同情どうじょうに乏しいとぼしい妹いもうとらしからざる態度たいどを取っとって兄あにに向っむかった。
それを遠慮えんりょのない言葉ことばで云いいい現わすあらわすと、「兄さんあにさんの困るこまるのは自業自得じごうじとくだからしようがないけれども、あたしの方ほうの始末しまつはどうつけてくれるのですか」というような露骨ろこつ千万せんまんなものになった。
津田つだはどうするとも云わいわなかった。
またどうする気きもなかった。
かえって想像そうぞうに困難こんなんなものとして父ちちの料簡りょうけんを、お秀おひでの前まえに問題もんだいとした。
「いったいお父さんおちちさんこそどういうつもりなんだろう。突然とつぜん金きんを送らおくらないとさえ宣告せんこくすれば、由雄よしおは工面くめんするに違いないとでも思っおもっているのか知らかしら」「そこなのよ、兄さんあにさん」 お秀おひでは意味いみありげに津田つだの顔かおを見みた。
そうしてまたつけ加えつけくわえた。
「だからあたしが良人おっとに対したいして困るこまるって云ういうのよ」 微かかすかな暗示あんじが津田つだの頭あたまに閃めいひらめいた。
秋口あきぐちに見るみる稲妻いなずまのように、それは遠いとおいものであった、けれども鋭どいするどいものに違いなかった。
それは父ちちの品性ひんせいに関係かんけいしていた。
今までいままで全くまったく気きがつかずにいたという意味いみで遠いとおいという事ことも云えるいえる代りかわりに、いったん気きがついた以上いじょう、父ちちの平生へいぜいから押しおして、それを是認ぜにんしたくなるという点てんでは、子ことしての津田つだに、ずいぶん鋭どくするどく切り込んきりこんで来るくる性質せいしつのものであった。
心こころのうちで劈頭へきとうに「まさか」と叫んさけんだ彼かれは、次つぎの瞬間しゅんかんに「ことによると」と云いいい直さなおさなければならなくなった。
臆断おくだんの鏡かがみによって照らし出さてらしだされた、父ちちの心理状態しんりじょうたいは、下したのような順序じゅんじょで、予期よき通りとおりの結果けっかに到着とうちゃくすべく仕組ましくまれていた。
――最初さいしょに体からだよく送金そうきんを拒絶きょぜつする。
津田つだが困るこまる。
今までいままでの行こうがかり上堀うえほりに訳わけを話すはなす。
京都きょうとに対したいして責任せきにんを感かんずべく余儀よぎなくされている堀ほりは、津田つだの窮きゅうを救うすくう事ことによって、始めはじめて父ちちに対するたいする保証ほしょうの義務ぎむを果すはたす事ことができる。
それで否応いやおうなしに例月れいげつ分ぶんを立て替えたてかえてくれる。
父ちちはただ礼れいを云っいって澄ましすましている。
こう段落だんらくをつけて考えかんがえて見るみると、そこには或ある種しゅの要心ようじんがあった。
相当そうとうな理窟りくつもあった。
或ある程度ていどの手腕しゅわんは無論むろん認めみとめられた。
同時どうじに何なんらの淡泊たんぱくさがそこには存在そんざいしていなかった。
下劣げれつとまで行かいかないでも、狐きつね臭いくさい狡獪こうかいな所ところも少しすこしはあった。
小額しょうがくの金きんに対するたいする度外れどはずれの執着心しゅうちゃくしんが殊更ことさらに目立っめだって見えみえた。
要するようするにすべてが父ちちらしくできていた。
ほかの点てんでどう衝突しょうとつしようとも、父ちちのこうした遣けん口くちに感心かんしんしないのは、津田つだといえどもお秀おひでに譲らゆずらなかった。
あらゆる意味いみで父ちちの同情どうじょう者ものでありながら、この一いち点てんになると、さすがのお秀おひでも津田つだと同じおなじように眉まゆを顰めしかめなければならなかった。
父ちちの品性ひんせい。
それはむしろ別問題べつもんだいであった。
津田つだはお秀おひでの補助ほじょを受けるうける事ことを快よくこころよく思わおもわなかった。
お秀おひではまた兄あに夫婦ふうふに対したいして好いよい感情かんじょうをもっていなかった。
その上うえ夫おっとや姑しゅうとめへの義理ぎりもつらく考えかんがえさせられた。
二人ふたりはまず実際じっさい問題もんだいをどう片づけかたづけていいかに苦しんくるしんだ。
そのくせ口くちでは双方そうほうとも底そこの底そこまで突き込んつきこんで行くいく勇気ゆうきがなかった。
互いたがいの忖度そんたくから成立っせいりつった父ちちの料簡りょうけんは、ただ会話かいわの上うえで黙認もくにんし合うあう程度ていどに発展はってんしただけであった。
九十七きゅうじゅうなな
感情かんじょうと理窟りくつの縺れ合っもつれあった所ところを解かいごしながら前まえへ進むすすむ事ことのできなかった彼かれらは、どこまでもうねうね歩いあるいた。
局所きょくしょに触るさわるようなまた触らさわらないような双方そうほうの態度たいどが、心こころのうちで双方そうほうを焦しょう烈れつったくした。
しかし彼かれらは兄妹きょうだいであった。
二人ふたり共ともねちねちした性質せいしつを共通きょうつうに具えそなえていた。
相手あいての淡泊たんぱくしないところを暗にあんに非難ひなんしながらも、自分じぶんの方ほうから爆発ばくはつするような不体裁ふていさいは演じえんじなかった。
ただ津田つだは兄あにだけに、また男おとこだけに、話はなしを一いち点てんに括るくくる手際てぎわをお秀おひでより余計よけいにもっていた。
「つまりお前おまえは兄さんあにさんに対したいして同情どうじょうがないと云ういうんだろう」「そうじゃないわ」「でなければお延のべに同情どうじょうがないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同どうなじ事ことだがね」「あら、嫂ねーさんの事ことをあたし何なんとも云っいってやしませんわ」「要するようするにこの事件じけんについて一番いちばん悪いわるいものはおれだと、結局けっきょくこうなるんだろう。そりゃ今さらいまさら説明せつめいを伺わうかがわなくってもよく兄さんあにさんには解っわかってる。だから好いよいよ。兄さんあにさんは甘んじあまんじてその罰ばつを受けるうけるから。今月こんげつはお父さんおちちさんからお金おかねを貰わもらわないで生きいきて行くいくよ」「兄さんあにさんにそんな事ことができて」 お秀おひでの兄あにを冷笑れいしょうけるような調子ちょうしが、すぐ津田つだの次つぎの言葉ことばを喚び起しよびおこした。
「できなければ死ぬしぬまでの事ことさ」 お秀おひではついにきりりと緊きんった口元くちもとを少しすこし緩めゆるめて、白いしろい歯はを微かかすかに見せみせた。
津田つだの頭あたまには、電灯でんとうの下したで光るひかる厚あつし帯おびを弄くっいじくっているお延のべの姿すがたが、再びふたたび現れあらわれた。
「いっそ今までいままでの経済けいざい事情じじょうを残らのこらずお延のべに打ち明けうちあけてしまおうか」 津田つだにとってそれほど容易いたやしい解決法かいけつほうはなかった。
しかし行きいきがかりから云ういうと、これほどまた困難こんなんな自白じはくはなかった。
彼かれはお延のべの虚栄心きょえいしんをよく知りしり抜いぬいていた。
それにできるだけの満足まんぞくを与えるあたえる事ことが、また取とりも直さなおさず彼かれの虚栄心きょえいしんにほかならなかった。
お延のべの自分じぶんに対するたいする信用しんようを、女おんなに大切たいせつな
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