その一息がどのくらいの時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
第 5 章
しまいに筆を擱いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。
彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削の必要をどこにも認めなかった。
日頃苦にして、使う時にはきっと言海を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気にかからなかった。
てには違のために意味の通じなくなったところを、二三カ所ちょいちょいと取り繕っただけで、彼女は手紙を巻いた。
そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、どこからどこまで本当です。嘘や、気休や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾を吐きかけます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部の事実以上の真相をここに書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。しかし未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私はけっしてあなた方を欺むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人は眼の明いた盲目です。その人こそ嘘吐です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様はすでに信用していらっしゃるのですから」 お延は封書を枕元へ置いて寝た。
七十九
始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。
久しぶりに父母の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日して、父に使を頼まれた。
一通の封書と一帙の唐本を持って、彼女は五六町隔った津田の宅まで行かなければならなかった。
軽い神経痛に悩まされて、寝たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然を慰めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。
古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。
彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。
玄関には大きな衝立が立ててあった。
白い紙の上に躍っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、ちょうどその時彼女と同じように京都の家へ来ていた由雄であった。
二人は固よりそれまでに顔を合せた事がなかった。
お延の方ではただ噂で由雄を知っているだけであった。
近頃家へ帰って来たとか、または帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いたぐらいのものであった。
それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた。
事のついでに過ぎなかった。
由雄はその時お延から帙入の唐本を受取って、なぜだか、明詩別裁という厳めしい字で書いた標題を長らくの間見つめていた。
その見つめている彼を、お延はまたいつまでも眺めていなければならなかった。
すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。
しかし由雄の返事を待ち受ける位地に立たせられたお延から見れば、これもやむをえない所作に違なかった。
顔を上げた由雄は、「父はあいにく今留守ですが」と云った。
お延はすぐ帰ろうとした。
すると由雄がまた呼びとめて、自分の父宛の手紙を、お延の見ている前で、断りも何にもせずに、開封した。
この平気な挙動がまたお延の注意を惹いた。
彼の遣口は不作法であった。
けれども果断に違なかった。
彼女はどうしても彼を粗野とか乱暴とかいう言葉で評する気にならなかった。
手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用の書物を探しに奥へ這入った。
しかし不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼のつく所になかった。
十分ばかりしてまた出て来た彼は、お延を空しく引きとめておいた詫を述べた。
指定の本はちょっと見つからないから、彼の父の帰り次第、こっちから届けるようにすると云った。
お延は失礼だというので、それを断った。
自分がまた明日にでも取りに来るからと約束して宅へ帰った。
するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来てくれた。
偶然にもお延がその取次に出た。
二人はまた顔を見合せた。
そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。
由雄の手に提げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。
彼はそれを更紗の風呂敷に包んで、あたかも鳥籠でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。
お延から云えば、とても若い人には堪えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。
彼は自分の持って来た本については何事も知らなかった。
お延の返しに行った本についてはなお知らなかった。
劃の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。
それでもこちらから借りに行った呉梅村詩という四文字を的に、書棚をあっちこっちと探してくれたのであった。
父はあつく彼の好意を感謝した。
…… お延の眼にはその時の彼がちらちらした。
その時の彼は今の彼と別人ではなかった。
といって、今の彼と同人でもなかった。
平たく云えば、同じ人が変ったのであった。
最初無関心に見えた彼は、だんだん自分の方に牽きつけられるように変って来た。
いったん牽きつけられた彼は、またしだいに自分から離れるように変って行くのではなかろうか。
彼女の疑はほとんど彼女の事実であった。
彼女はその疑を拭い去るために、その事実を引ッ繰り返さなければならなかった。
八十
強い意志がお延の身体全体に充ち渡った。
朝になって眼を覚ました時の彼女には、怯懦ほど自分に縁の遠いものはなかった。
寝起の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。
夜具を跳ね退けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。
朝寒の刺戟と共に、締まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
彼女は自分の手で雨戸を手繰った。
戸外の模様はいつもよりまだよッぽど早かった。
昨日に引き換えて、今日は津田のいる時よりもかえって早く起きたという事が、なぜだか彼女には嬉しかった。
怠けて寝過した昨日の償い、それも満足の一つであった。
彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。
そうして結ってから四日目になる髪を解いた。
油で汚れた所へ二三度櫛を通して、癖がついて自由にならないのを、無理に廂に束ね上げた。
それが済んでから始めて下女を起した。
食事のできるまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早うございましたね」と云われた。
何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。
また自分が主人より遅く起きたのをすまない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」「そんなにお早くいらっしゃるんでございますか」「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出かけましょう」 お延の言葉遣は平生より鄭寧で片づいていた。
そこに或落ちつきがあった。
そうしてその落ちつきを裏切る意気があった。
意気に伴なう果断も遠くに見えた。
彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
それでも彼女はすぐ出かけようとはしなかった。
襷を外して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。
もと世話になった覚のあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼らについて語り合った。
ことに津田のいない時はそうであった。
というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物にされたような変な結果に陥るからであった。
ふとした拍子からそんな気下味い思いを一二度経験した後で、そこに気をつけ出したお延は、そのほかにまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨を言い含めておいたのである。
「御嬢さまはまだどこへもおきまりになりませんのでございますか」「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるかよく解らない様子だよ」「早く好い所へいらっしゃるようになると、結構でございますがね」「おおかたもうじきでしょう。叔父さんはあんな性急だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好しだしね」 お時は何か云おうとした。
お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後をつけた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」「そんな事はございません」 お時が弁護するように強くこういったので、お延はなお自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」 お延は答えなかった。
しかし彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」 お時は呆れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえばいいのでございましょう」 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。
両方の度合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴が鳴った。
取次に出たお時に、「ちょっと奥さんに」という声が聞こえた。
お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。
八十一
袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。
彼女はただおかしさを噛み殺そうとして、お延の前で悶え苦しんだ。
わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえよほど手間取った。
この不時の訪問者をどう取り扱っていいか、お延は解らなかった。
厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。
といって、掛取でも待たせておくように、いつまでも彼をそこに立たせるのも不作法であった。
姿見の前に立ち竦んだ彼女は当惑の眉を寄せた。
仕方がないので、今出がけだから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。
しかし会って見ると、満更知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事もできなかった。
その上小林は斟酌だの遠慮だのを知らない点にかけて、たいていの人に引を取らないように、天から生みつけられた男であった。
お延の時間が逼っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、いつまで坐り込んでいても差支えないものと独りで合点しているらしかった。
彼は津田の病気をよく知っていた。
彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。
彼のいうところによれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。
彼はまた探偵に跟けられた話をした。
それは津田といっしょに藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。
彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。
おおかた社会主義者として目指されているのだろうという説明までして聴かせた。
彼の談話には気の弱い女に衝撃を与えるような部分があった。
津田から何にも聞いていないお延は、怖々ながらついそこに釣り込まれて大切な時間を度外においた。
しかし彼の云う事を素直にはいはい聴いているとどこまで行ってもはてしがなかった。
しまいにはこっちから催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるよりほかに途がなくなった。
彼は少しきまりの悪そうな様子をしてようやく用向を述べた。
それは昨夕お延とお時をさんざ笑わせた外套の件にほかならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」 彼の主意は朝鮮へ立つ前ちょっとその外套を着て見て、もしあんまり自分の身体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
お延はすぐ入用の品を箪笥の底から出してやろうかと思った。
けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡った彼女は、こんな事に案外やかましい夫の気性をよく知っていた。
着古した外套一つが本で、他日細君の手落呼わりなどをされた日には耐らないと思った。
「大丈夫ですよ、くれるって云ったに違ないんだから。嘘なんか吐きやしませんよ」 出してやらないと小林を嘘吐としてしまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気は確なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」 お延はとうとう決心した。
「じゃしばらく待ってて下さい。電話でちょっと病院へ聞き合せにやりますから」「奥さんは実に几帳面ですね」と云って小林は笑った。
けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔のどこにも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしがまた何とか云われると困りますから」 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
お時が自働電話へ駈けつけて津田の返事を持って来る間、二人はなお対座した。
そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。
ところがその談話は突然な閃めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。
八十二
「津田君は近頃だいぶおとなしくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」 お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を云い出した。
お延は相手が相手なので、当らず障らずの返事をしておくに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」 小林の云い方があまり大袈裟なので、お延はかえって相手を冷評し返してやりたくなった。
しかし彼女の気位がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。
小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかった。
秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛にここかしこを駈け回る代りに、時としては不作法なくらい一直線に進んだ。
「やッぱり細君の力には敵いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、ほとんど想像がつかないけれども、何かあるんでしょうね、そこに」 お延はとうとう自分を抑える事ができなくなった。
彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかにはとても見当のつかない神秘的なものがたくさんあるわ、夫婦の間には」「あるなら一つ教えていただきたいもんですね」「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」「参考になりますよ」 お延は細い眼のうちに、賢こそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番捷径じゃありませんか」 小林は頭を掻く真似をした。
「貰いたくっても貰えないんです」「なぜ」「来てくれ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでもそこいらにごろごろ転がってるじゃありませんか」 お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。
しかし相手は平気であった。
もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」 駈落という言葉が、ふと芝居でやる男女二人の道行をお延に想い起させた。
そうした濃厚な恋愛を象どる艶めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
「駈落をなさるのなら、いっそ二人でなすったらいいでしょう」「誰とです」「そりゃきまっていますわ。奥さんのほかに誰も伴れていらっしゃる方はないじゃありませんか」「へえ」 小林はこう云ったなり畏まった。
その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。
そうしてかえって予期以上おかしくなった。
けれども小林は真面目であった。
しばらく間をおいてから独り言のような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をしてくれるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、すんだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」 お延は生れて初めての人に会ったような気がした。
こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。
相手をどう捌なしていいかの点になると、全く方角が立たなかった。
すると小林の態度はなお感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。ほかに何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどのくらい貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹をおいて行かなければならないのです。妹は僕のあとへどこまでも喰ッついて来たがります。しかし僕はまた妹をどうしても伴れて行く事ができないのです。二人いっしょにいるよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」 お延は少し気味が悪くなった。
早く帰って来てくれればいいと思うお時はまだ帰らなかった。
仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。
彼女はすぐ成功した。
しかしそれがために彼女はまたとんでもない結果に陥った。
八十三
特殊の経過をもったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「しかしあなたのおっしゃる事は本当なんでしょうかね」 小林ははたして沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。
そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」「いいえ、そんな事じゃないの」 お延は巧みに相手を岐路に誘い込んだ。
「あなた先刻おっしゃったでしょう。近頃津田がだいぶ変って来たって」 小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」「ええ変りましたね」 お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。
小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。
二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。
けれどもそれは終に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。
お延は小林なんぞに調戯われる自分じゃないという態度を見せたのである。
「奥さん、あなた自分だって大概気がつきそうなものじゃありませんか」 今度は小林の方からこう云ってお延に働らきかけて来た。
お延はたしかにそこに気がついていた。
けれども彼女の気がついている夫の変化は、全く別ものであった。
小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。
津田といっしょになってから、朧気ながらしだいしだいに明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。
どんな鋭敏な観察者が外部から覗いてもとうてい判りこない性質のものであった。
そうしてそれが彼女の秘密であった。
愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。
それが何で小林ごときものに知れよう。
「いっこう気がつきませんね。あれでどこか変ったところでもあるんでしょうか」 小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんはなかなか空惚ける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」「ええ、まあ、そんならそうにしておきましょう。――しかし奥さんはそういう旨いお手際をもっていられるんですね。ようやく解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」 お延はわざと取り合わなかった。
と云って別に煩さい顔もしなかった。
愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。
小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」「何を」 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼がたちまち相手の上に動いた。
誘き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」 小林の言葉は露骨過ぎた。
しかし露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。
お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、おおかた本当なんでしょうよ」「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」「ありがとう」 お延はさも軽蔑した調子で礼を云った。
その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。
彼はすぐ彼女を宥めるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」「わたくしは結婚前から津田を知っております」「しかしその前は御存じないでしょう」「当り前ですわ」「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に溯って行った。
八十四
自分のまだ知らない夫の領分に這入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。
彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。
ところがいざ聴こうとすると、小林はけっして要領を得た事を云わなかった。
云っても肝心のところはわざと略してしまった。
例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼らがどこで夜深しをしていたかの点になると、彼は故意に暈しさって、全く語らないという風を示した。
それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。
お延は彼がとくにこうして自分を焦燥しているのではなかろうかという気さえ起した。
お延は平生から小林を軽く見ていた。
半ば夫の評価を標準におき、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑の裏には、まだ他に向って公言しない大きな因子があった。
それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。
彼に地位がないという点にほかならなかった。
売れもしない雑誌の編輯、そんなものはきまった職業として彼女の眼に映るはずがなかった。
彼女の見た小林は、常に無籍もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。
宿なしらしい愚痴を零して、厭がらせにそこいらをまごつき歩くだけであった。
しかしこの種の軽蔑に、ある程度の不気味はいつでも附物であった。
ことにそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、なおさらの事でなければならなかった。
少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。
彼女は今までに彼ぐらいな貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。
しかし岡本の宅へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分を弁えていた。
身分には段等があるものと心得て、みんなおのれに許された範囲内においてのみ行動をあえてした。
彼女はいまだかつて小林のように横着な人間に接した例がなかった。
彼のように無遠慮に自分に近づいて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のようにむやみに上流社会の悪体を吐くものにはけっして会った事がなかった。
お延は突然気がついた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、あるいは手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか」 軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持上げた時、お延の態度は急に改たまった。
すると小林はそれを見届けた証拠にか、またはそれに全くの無頓着でか、アははと笑い出した。
「奥さんまだいろいろ残ってますよ。あなたの知りたい事がね」「そうですか。今日はもうそのくらいでたくさんでしょう。あんまり一度きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉ませて、歇斯的里でも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」 お延は後を向いた。
後は壁であった。
それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。
けれども勝手口は今まで通り静かであった。
疾うに帰るべきはずのお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児になる気遣はないから大丈夫です」 小林は動こうともしなかった。
お延は仕方がないので、茶を淹れ代えるのを口実に、席を立とうとした。
小林はそれさえ遮ぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。しゃべって潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕見たいな穀潰しにゃ、同なし時間なんだから、ちっとも御遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭いところがだいぶあるんでしょう」「あるかも知れませんね」「ああ見えてなかなか淡泊でないからね」 お延ははっと思った。
腹の中で小林の批評を首肯わない訳に行かなかった彼女は、それがあたっているだけになおの事感情を害した。
自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。
小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだたくさんありますよ」「あっても宜しいじゃございませんか」「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだたくさんあるんですよ」「あっても構いません」「じゃ、あなたの知らなければならない事がまだたくさんあるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」「ええ、構いません」
八十五
小林の顔には皮肉の渦が漲った。
進んでも退いてもこっちのものだという勝利の表情がありありと見えた。
彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、いつまでも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。
「何という陋劣な男だろう」 お延は腹の中でこう思った。
そうしてしばらくの間じっと彼と睨めっ競をしていた。
すると小林の方からまた口を利き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、あんまりおびえていらっしゃるようだから、それは後廻しにして、その反対の方、すなわち津田君がちっとも変らないところを少し御参考までにお話しておきますよ。これはいやでも私の方で是非奥さんに聴いていただきたいのです。――どうです聴いて下さいますか」 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。
小林は「ありがたい」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫も変らないのです。これだけはいくら怜悧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。もっともあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」 小林はそこで言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。
それからまた続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」 小林の眼は据わっていた。
お延は何という事もできなかった。
「まあ」「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」「そんな馬鹿な事があるもんですか」「そりゃ口の先では、そうおっしゃらなければならないでしょう」「あなたもずいぶん僻んでいらっしゃるのね」「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。しかしそりゃどうでもいいんです。もともと無能に生れついたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われつけて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」 小林はいつまでもお延の顔を見て返事を待っていた。
お延には何もいう事がなかった。
まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。
自分にはまた自分で考えなければならない問題があった。
彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばしてやる気にならなかった。
その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったりしたりするんです。そうでもしなければ苦しくってたまらないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事ができないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な讐討ができないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。
誰からでも愛されたい、また誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非共そうしなければならない、というのが彼女の腹であった。
そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当て篏って、毫も悖らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
「吃驚りしたようじゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中にはいろいろの人がありますからね」 小林は多少溜飲の下りたような顔をした。
「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰ればいい、帰ればいいと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、なぜ僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕がちょっとそこを説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」 小林はまた大きな声を出して笑った。
八十六
お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。
一には理解が起らなかった。
二には同情が出なかった。
三には彼の真面目さが疑がわれた。
反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯したいろいろなものはけっして一点に纏まる事ができなかった。
したがってただ彼女を不安にするだけであった。
彼女はしまいに訊いた。
「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざここへいらしったと言明なさるんですね」「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」「じゃ外套を貰いに来たついでに、私を厭がらせようとおっしゃるんですか」「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然のつもりなんですからね。奥さんよりもよほど技巧は少ないと思ってるんです」「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったらいいじゃありませんか」「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」「つまりそれがあなたの目的でしょう」「目的じゃありません。しかし本望かも知れません」「目的と本望とどこが違うんです」「違いませんかね」 お延の細い眼から憎悪の光が射した。
女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳子の裏に宿った。
「怒っちゃいけません」と小林が云った。
「僕は自分の小さな料簡から敵打をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他を厭がらせてやれと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈していただきたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認していただきたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知っておいていただきたいのです。しかし天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事がまた僕の本望かも知れません」 小林の筋の運び方は、少し困絡かり過ぎていた。
お延は彼の論理の間隙を突くだけに頭が錬れていなかった。
といって無条件で受け入れていいか悪いかを見分けるほど整った脳力ももたなかった。
それでいて彼女は相手の吹きかける議論の要点を掴むだけの才気を充分に具えていた。
彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任はけっして負わないというんでしょう」「ええそこです。そこが僕の要点なんです」「そんな卑怯な――」「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」「それが私や津田に何の関係があるんです」 小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たらおおかたないでしょう。しかし僕から見れば、あり過ぎるくらいあるんです」「どうして」 小林は急に答えなくなった。
その意味は宿題にして自分でよく考えて見たらよかろうと云う顔つきをした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。
お延は一層の不快を感じた。
もう好い加減に帰ってくれと云いたくなった。
同時に小林の意味もよく突きとめておきたかった。
それを見抜いて、わざと高を括ったように落ちついている小林の態度がまた癪に障った。
そこへ先刻から心持ちに待ち受けていたお時がようやく帰って来たので、お延の蟠まりは、一定した様式の下に表現される機会の来ない先にまた崩されてしまわなければならなかった。
八十七
お時は縁側へ坐って外部から障子を開けた。
「ただいま。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話はかけなかったのかい」「いいえかけたんでございます」「かけても通じなかったのかい」 問答を重ねているうちに、お時の病院へ行った意味がようやくお延に呑み込めるようになって来た。
――始め通じなかった電話は、しまいに通じるだけは通じても用を弁ずる事ができなかった。
看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。
書生だか薬局員だかが始終相手になって、何か云うけれども、それがまたちっとも要領を得なかった。
第一言語が不明暸であった。
それから判切聞こえるところも辻褄の合わない事だらけだった。
要するにその男はお時の用事を津田に取次いでくれなかったらしいので、彼女はとうとう諦らめて、電話箱を出てしまった。
しかし義務を果さないでそのまま宅へ帰るのが厭だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「いったん帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長くかかるぎりでございますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるものでございますから」 お時のいう事はもっともであった。
お延は礼を云わなければならなかった。
しかしそのために、小林からさんざん厭な思いをさせられたのだと思うと、気を利かした下女がかえって恨めしくもあった。
彼女は立って茶の間へ入った。
すぐそこに据えられた銅の金具の光る重ね箪笥の一番下の抽斗を開けた。
そうして底の方から問題の外套を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引ッ繰返した。
「思ったよりだいぶ汚れていますね」「あなたにゃそれでたくさんだ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見つめた。
外套は小林のいう通り少し色が変っていた。
襟を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著じるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢も云えませんかね」「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」「置いて行けとおっしゃるんですか」「ええ」 小林はやッぱり外套を放さなかった。
お延は痛快な気がした。
「奥さんちょっとここで着て見てもよござんすか」「ええ、ええ」 お延はわざと反対を答えた。
そうして窮屈そうな袖へ、もがくようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」 小林はこう云いながら、背中をお延の方に向けた。
見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼に入った。
アイロンの注意でもしてやるべきところを、彼女はまた逆に行った。
「ちょうど好いようですね」 彼女は誰も自分の傍にいないので、せっかく出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑ってやる事ができないのを物足りなく思った。
すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡坐をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方がいいものなんですよ」「そうですか」 お延は急に口元を締めた。
「奥さんのような窮った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」「そうですか。私はまた生きてて人に笑われるくらいなら、いっそ死んでしまった方が好いと思います」 小林は何にも答えなかった。
しかし突然云った。
「ありがとう。御蔭でこの冬も生きていられます」 彼は立ち上った。
お延も立ち上った。
しかし二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林はたちまちふり返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、よく気をつけて他に笑われないようにしないといけませんよ」
八十八
二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。
お延が前へ出ようとする途端、小林が後を向いた拍子、二人はそこで急に運動を中止しなければならなかった。
二人はぴたりと止まった。
そうして顔を見合せた。
というよりもむしろ眼と眼に見入った。
その時小林の太い眉が一層際立ってお延の視覚を侵した。
下にある黒瞳はじっと彼女の上に据えられたまま動かなかった。
それが何を物語っているかは、こっちの力で動かして見るよりほかに途はなかった。
お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。おおかた注意を受ける覚がないとおっしゃるつもりなんでしょう。そりゃあなたは固より立派な貴婦人に違ないかも知れません。しかし――」「もうたくさんです。早く帰って下さい」 小林は応じなかった。
問答が咫尺の間に起った。
「しかし僕のいうのは津田君の事です」「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないとおっしゃるんですか」「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。しかし津田がどうしたというんです」「聞きたいですか」 鋭どい稲妻がお延の細い眼からまともに迸しった。
「津田はわたくしの夫です」「そうです。だから聞きたいでしょう」 お延は歯を噛んだ。
「早く帰って下さい」「ええ帰ります。今帰るところです」 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。
玄関の方へ行こうとして縁側を二足ばかりお延から遠ざかった。
その後姿を見てたまらなくなったお延はまた呼びとめた。
「お待ちなさい」「何ですか」 小林はのっそり立ちどまった。
そうして裄の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。
お延の声はなお鋭くなった。
「なぜ黙って帰るんです」「御礼は先刻云ったつもりですがね」「外套の事じゃありません」 小林はわざと空々しい様子をした。
はてなと考える態度まで粧って見せた。
お延は詰責した。
「あなたは私の前で説明する義務があります」「何をですか」「津田の事をです。津田は私の夫です。妻の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に恥を恥と思わない男として、いったん云った事を取り消すぐらいは何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫まりましょう。そうしたらいいでしょう」 お延は黙然として答えなかった。
小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」 お延は依然として下を向いたまま口を利かなかった。
小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないようによく気をおつけになったらよかろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその後を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。併せて取消します。その他もし奥さんの気に障った事があったら、総て取消します。みんな僕の失言です」 小林はこう云った後で、沓脱に揃えてある自分の靴を穿いた。
そうして格子を開けて外へ出る最後に、またふり向いて「奥さんさよなら」と云った。
微かに黙礼を返したぎり、お延はいつまでもぼんやりそこに立っていた。
それから急に二階の梯子段を駈け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。
八十九
幸いにお時が下から上って来なかったので、お延は憚りなく当座の目的を達する事ができた。
彼女は他に顔を見られずに思う存分泣けた。
彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
濡れた手巾を袂へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗を開けた。
抽斗は二つ付いていた。
しかしそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。
それもそのはずであった。
彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用の手荷物を纏めるため、二三日前すでにそこを捜したのである。
彼女は残された封筒だの、物指だの、会費の受取だのを見て、それをまた一々鄭寧に揃えた。
パナマや麦藁製のいろいろな帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏の夕暮を思い出させた。
その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤に咲いた日比谷公園の躑躅だの、突当りに霞が関の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂のように、聯想としてつき纏わっていた。
お延はそれを開いたまま、しばらくじっと考え込んだ。
それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。
そこにも抽斗が二つ付いていた。
机を棄てたお延は、すぐ本箱の方に向った。
しかしそれを開けようとして、手を環にかけた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。
手応えのない所に、新らしい発見のあるはずはなかった。
彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪き廻した。
それを一々読んで見るのは大変であった。
読んだところで自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜んでいようとは想像できなかった。
彼女は用心深い夫の性質をよく承知していた。
錠を卸さない秘密をそこいらへ放り出しておくには、あまりに細か過ぎるのが彼の持前であった。
お延は戸棚を開けて、錠を掛けたものがどこかにないかという眼つきをした。
けれども中には何にもなかった。
上には殺風景な我楽多が、無器用に積み重ねられているだけであった。
下は長持でいっぱいになっていた。
再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差の中から、津田宛で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。
彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちているはずがないとは思った。
しかし一番最初眼につきながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、やっぱり最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘いつつ、いつまでもそこに残っていたのである。
彼女はつい念のためという口実の下に、それへ手を出さなければならなくなった。
封筒が次から次へと裏返された。
中身が順々に繰りひろげられた。
あるいは四半分、あるいは半分、残るものは全部、ことごとくお延によって黙読された。
しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復した。
突然疑惑の焔が彼女の胸に燃え上った。
一束の古手紙へ油を濺いで、それを綺麗に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。
その時めらめらと火に化して舞い上る紙片を、津田は恐ろしそうに、竹の棒で抑えつけていた。
それは初秋の冷たい風が肌を吹き出した頃の出来事であった。
そうしてある日曜の朝であった。
二人差向いで食事を済ましてから、五分と経たないうちに起った光景であった。
箸を置くと、すぐ二階から細い紐で絡げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点けていた。
お延が縁側へ出た時には、厚い上包がすでに焦げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。
お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊いた。
津田は嵩ばって始末に困るからだと答えた。
なぜ反故にして、自分達の髪を結う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。
ただ底から現われて来る手紙をむやみに竹の棒で突ッついた。
突ッつくたびに、火になり切れない濃い煙が渦を巻いて棒の先に起った。
渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。
津田は煙に咽ぶ顔をお延から背けた。
…… お時が午飯の催促に上って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のようにじっと坐り込んでいた。
九十
時間はいつか十二時を過ぎていた。
お延はまたお時の給仕で独り膳に向った。
それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課にほかならなかった。
けれども今日のお延はいつものお延ではなかった。
彼女の様子は剛張っていた。
そのくせ心は纏まりなく動いていた。
先刻出かけようとして着換えた着物まで、平生と違ったよそゆきの気持を余分に添える媒介となった。
もし今の自分に触れる問題が、お時の口から洩れなかったなら、お延はついに一言も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。
その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭さに、ほんの形式的に片づけようとして、膳に着いただけであった。
お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。
しかしお延が一膳で箸を置いた時、ようやく「どうか遊ばしましたか」と訊いた。
そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうもすみませんでした」 彼女は自分の専断で病院へ行った詫を述べた。
お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻はずいぶん大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」「いいえ」 お延は疑りの眼をお時の上に注いだ。
お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、ずいぶん――」 しかしお延は何にも答えなかった。
静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後をつけなければならなかった。
二人の談話はこれが緒口で先へ進んだ。
「旦那様は驚ろいていらっしゃいました。ずいぶんひどい奴だって。こっちから取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事をよく承知している癖にって」 お延は軽蔑んだ笑いを微かに洩らした。
しかし自分の批評は加えなかった。
「まだほかに何かおっしゃりゃしなかったかい」「外套だけやって早く返せっておっしゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上げましたら、大変厭な顔をなさいました」「そうかい。それぎりかい」「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」「それでお前は何とお答えをしたの」「別にお答えをしようがございませんから、それは存じませんと申し上げました」「そうしたら」「そうしたら、なお厭な顔をなさいました。いったい座敷なんかへむやみに上り込ませるのが間違っている――」「そんな事をおっしゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」「だから私もそう申し上げたのでございました。それに奥さまはちょうどお召換をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へおでになる訳に行かなかったのだからやむをえませんて」「そう。そうしたら」「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護するから感心だって、冷評かされました」 お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」「いえ、まだございます。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私はよく気がつきませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他の家へお客にいらっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」「ええ」 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。
お時は果して話をそこで切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったらよく奥さまにそう云えとおっしゃいました」「なんと」「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云ってもけっして取り合っちゃいけない。まあみんな嘘だと思っていれば間違はないんだからって」「そう」 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。
お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。
九十一
お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。
長男はすでに四年前に生れていた。
単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒ますには充分であった。
彼女の心は四年以来いつでも母であった。
母でない日はただの一日もなかった。
彼女の夫は道楽ものであった。
そうして道楽ものによく見受けられる寛大の気性を具えていた。
自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云ってむやみに可愛がりもしない。
これが彼のお秀に対する態度であった。
彼はそれを得意にしていた。
道楽の修業を積んで始めてそういう境界に達せられるもののように考えていた。
人世観という厳めしい名をつけて然るべきものを、もし彼がもっているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温く触れて行く事であった。
微笑して過ぎる事であった。
何にも執着しない事であった。
呑気に、ずぼらに、淡泊に、鷹揚に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。
それが彼のいわゆる通であった。
金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。
またどこへ行っても不足を感じなかった。
この好成蹟がますます彼を楽天的にした。
誰からでも好かれているという自信をもった彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。
そうしてそれは間違でも何でもなかった。
実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片づいてから始めて夫の性質を知った。
放蕩の酒で臓腑を洗濯されたような彼の趣もようやく解する事ができた。
こんなに拘泥の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐうやむやのうちに葬られてしまった。
お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注がなければならなくなった。
お秀のお延と違うところはこれだけではなかった。
お延の新世帯が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。
弟も妹も同居していた。
親類の厄介者までいた。
自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。
中でも母には、他の知らない気苦労をしなければならなかった。
器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀はいつまで経っても若かった。
一つ年下のお延に比べて見てもやっぱり若かった。
四歳の子持とはどうしても考えられないくらいであった。
けれどもお延と違った家庭の事情の下に、過去の四五年を費やして来た彼女は、どこかにまたお延と違った心得をもっていた。
お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、たしかにお延よりも老けていた。
言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。
いわば、早く世帯染みたのである。
こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼らに対する不満があった。
その不満が、何か事さえあると、とかく彼女を京都にいる父母の味方にしたがった。
彼女はそれでもなるべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。
ことに嫂に気下味い事をいうのは、直接兄に当るよりもなお悪いと思って、平生から慎しんでいた。
しかし腹の中はむしろ反対であった。
何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げかけていた。
兄がもしあれほど派手好きな女と結婚しなかったならばという気が、始終胸の底にあった。
そうしてそれは身贔負に過ぎない、お延に気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
お秀は自分の立場をよく承知しているつもりでいた。
兄夫婦から煙たがられないまでも、けっして快よく思われていないぐらいの事には、気がついていた。
しかし自分の立場を改めようという考は、彼女の頭のどこにも入って来なかった。
第一には二人が厭がるからなお改めないのであった。
自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女はそこに反抗の意地を出したくなったのである。
第二には正しいという良心が働らいていた。
これはいくら厭がられても兄のためだと思えば構わないという主張であった。
第三は単に派手好なお延が嫌だという一点に纏められてしまわなければならなかった。
お延より余裕のある、またお延より贅沢のできる彼女にして、その点では自分以下のお延がなぜ気に喰わないのだろうか。
それはお秀にとって何の問題にもならなかった。
ただしお秀には姑があった。
そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。
しかしお秀はこの問題に関聯してこの相違すら考えなかった。
お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、その翌日病院へ見舞に出かけたのは、お時の行く小一時間前、ちょうど小林が外套を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。
九十二
前の晩よく寝られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来てくれた膳にちょっと手を出したぎり、また仰向になって、昨夕の不足を取り返すために、重たい眼を閉っていた。
お秀の入って来たのは、ちょうど彼がうとうとと半睡状態に入りかけた間際だったので、彼は襖の音ですぐ眼を覚ました。
そうして病人に斟酌を加えるつもりで、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
こういう場合に彼らはけっして愛嬌を売り合わなかった。
嬉しそうな表情も見せ合わなかった。
彼らからいうと、それはむしろ陳腐過ぎる社交上の形式に過ぎなかった。
それから一種の虚偽に近い努力でもあった。
彼らには自分ら兄妹でなくては見られない、また自分ら以外の他人には通用し悪い黙契があった。
どうせお互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部の所作だけを人並に尽したところで、今さら始まらないんだから、いっそ下手に騙し合う手数を省いて、良心に背かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間にいつか成立してしまったのである。
そうしてその良心に背かない顔というのは、取も直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。
第一に彼らは普通の兄妹として親しい間柄であった。
だから遠慮の要らないという意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかった。
第二に彼らはどこかに調子の合わないところをもっていた。
それが災の元で、互の顔を見ると、互に弾き合いたくなった。
ふと首を上げてそこにお秀を見出した津田の眼には、まさにこうした二重の意味から来る不精と不関心があった。
彼は何物をか待ち受けているように、いったんきっと上げた首をまた枕の上に横たえてしまった。
お秀はまたお秀で、それにはいっこう頓着なく、言葉もかけずに、そっと室の内に入って来た。
彼女は何より先にまず、枕元にある膳を眺めた。
膳の上は汚ならしかった。
横倒しに引ッ繰り返された牛乳の罎の下に、鶏卵の殻が一つ、その重みで押し潰されている傍に、歯痕のついた焼麺麭が食欠のまま投げ出されてあった。
しかもほかにまだ一枚手をつけないのが、綺麗に皿の上に載っていた。
玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べかけなの」 実際津田の片づけかたは、どっちにでも取れるような、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」 お秀は眉をひそめて、膳を階子段の上り口まで運び出した。
看護婦の手が隙かなかったためか、いつまでも兄の枕元に取り散らかされている朝食の残骸は、掃除の行き届いた自分の家を今出かけて来たばかりの彼女にとって、あまり見っともいいものではなかった。
「汚ならしい事」 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。
しかし津田は黙って取り合わなかった。
「どうしておれのここにいる事が知れたんだい」「電話で知らせて下すったんです」「お延がかい」「ええ」「知らせないでもいいって云ったのに」 今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来ようと思ったんですけれども、あいにく昨日は少し差支えがあって――」 お秀はそれぎり後を云わなかった。
結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖がいつの間にか出て来た。
場合によると、それが津田には変に受取れた。
「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。
自分達夫婦の間柄を考えて見ても、そこに無理はないのだと思い返せないほど理窟の徹らない頭をもった津田では無論なかった。
それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対してふるまってくれれば好いがと、暗に希望していたくらいであった。
けれども自分がお秀にそうした素振を見せられて見るとけっして好い気持はしなかった。
そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
津田は後を訊かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしいところをわざわざ来てくれるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」「だって嫂さんが、もし閑があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話でおっしゃったから」「そうかい」「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」 津田はようやく頭をお秀の方へ向けた。
九十三
手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。
それはガーゼを詰め込んだ創口の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、いったん始まったが最後、あたかも呼吸か脈搏のように、規則正しく進行してやまない種類のものであった。
彼は一昨日の午後始めて第一の収縮を感じた。
芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段を下へ降りて行った拍子に起ったこの経験は、彼にとって全然新らしいものではなかった。
この前療治を受けた時、すでに同じ現象の発見者であった彼は、思わず「また始まったな」と心の中で叫んだ。
すると苦い記憶をわざと彼のために繰り返してみせるように、収縮が規則正しく進行し出した。
最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦すられた気持がする、次にそれがだんだん緩和されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端に一度引いた浪がまた磯へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈にぶり返してくる。
すると彼の意志はその局部に対して全く平生の命令権を失ってしまう。
止めさせようと焦慮れば焦慮るほど、筋肉の方でなお云う事を聞かなくなる。
――これが過程であった。
津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。
彼は籠の中の鳥見たように彼女を取扱うのが気の毒になった。
いつまでも彼女を自分の傍に引きつけておくのを男らしくないと考えた。
それで快よく彼女を自由な空気の中に放してやった。
しかし彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。
彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。
彼女が玄関の扉を開ける時、烈しく鳴らした号鈴の音さえ彼にはあまり無遠慮過ぎた。
彼が局部から受ける厭な筋肉の感じはちょうどこの時に再発したのである。
彼はそれを一種の刺戟に帰した。
そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭にほかならないと考えた。
ではお延の行為が彼の神経をそれほど過敏にしたのだろうか。
お延の所作に対して突然不快を感じ出した彼も、そこまでは論断する事ができなかった。
しかし全く偶然の暗合でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。
彼は自分だけの料簡で、二つの間にある関係を拵えた。
同時にその関係を後からお延に云って聞かせてやりたくなった。
単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寝ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。
けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。
たとい云い現わしても彼女に通じない事はたしかであった。
通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。
彼は黙って心持を悪くしているよりほかに仕方がなかった。
お秀の方を向き直ったとっさに、また感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの顛末を思い起させた。
彼は苦い顔をした。
何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分るはずはなかった。
彼女はそれを兄がいつでも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お厭なら病院をお出になってから後にしましょうか」 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌しなければならなかった。
「どこか痛いの」 津田はただ首肯いて見せた。
お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。
同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。
沈黙が二人の間に続いた。
その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂さんはどうしたんでしょう。昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」「お延は知らないんだ」「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」「なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々っ子らしく見えて来た。
上部はとにかく、腹の中がいかにも兄らしくないのが恥ずかしくなった。
「いったいお前の用というのは何だい」「なに、そんなに痛い時に話さなくってもいいのよ。またにしましょう」 津田は優に自分を偽る事ができた。
しかしその時の彼は偽るのが厭であった。
彼はもう局部の感じを忘れていた。
収縮は忘れればやみ、やめば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」「どうせあたしの話だから碌な事じゃないのよ。よくって」 津田にも大よその見当はついていた。
九十四
「またあの事だろう」 津田はしばらく間をおいて、仕方なしにこう云った。
しかしその時の彼はもう例の通り聴きたくもないという顔つきに返っていた。
お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
「だからあたしの方じゃ先刻から用は今度の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するようにおっしゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」「だから遠慮なく話したらいいじゃないか。どうせお前はそのつもりで来たんだろう」「だって、兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの」 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔ぐらいで会釈を加える女ではなかった。
したがって津田も気の毒になるはずがなかった。
かえって妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だぐらいに考えた。
彼は取り合わずに先へ通り過した。
「また京都から何か云って来たのかい」「ええまあそんなところよ」 津田の所へは父の方から、お秀の許へは母の側から、京都の消息が重に伝えられる事にほぼきまっていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。
しかし目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得るはずがなかった。
二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無を心のうちで気遣っていたのである。
兄妹の間に「あの事」として通用する事件は、なるべく聴くまいと用心しても、月末の仕払や病院の入費の出所に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡かって、離す事のできない事情の下にある意味合を、お秀よりもよく承知していた。
彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」「うん云って来た。そりゃ話さないでもたいていお前に解ってるだろう」 お秀は解っているともいないとも答えなかった。
ただ微かに薄笑の影を締りの好い口元に寄せて見せた。
それがいかにも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪だった。
平生は単に妹であるという因縁ずくで、少しも自分の眼につかないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟した。
なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼にとっては一度や二度の経験ではなかった。
「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢にする気なんだろう」と云ってやりたい事もしばしばあった。
お秀はやがてきちりと整った眼鼻を揃えて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」「どうもしようがないじゃないか」「お父さんの方へは何にも云っておあげにならなかったの」 津田はしばらく黙っていた。
それからさもやむをえないといった風に答えた。
「云ってやったさ」「そうしたら」「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。もっとも家へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、そこも分らない」「しかしお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当がついて」 津田は何とも答えなかった。
お延の拵らえてくれた※袍の襟を手探りに探って、黒八丈の下から抜き取った小楊枝で、しきりに前歯をほじくり始めた。
彼がいつまでも黙っているので、お秀は同じ意味の質問をほかの言葉でかけ直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」「知らないよ」 津田はぶっきら棒に答えた。
そうして腹立たしそうに後をつけ加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻から訊いてるじゃないか」 お秀はわざと眼を反らして縁側の方を見た。
それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作の代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」
九十五
津田はようやくお秀宛で来た手紙の中に、どんな事柄が書いてあるかを聞いた。
妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。
月末の不足を自分で才覚するなら格別、もしそれさえできないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。
して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕いだとか家賃の滞りだとかいうのは嘘でなければならなかった。
よし嘘でないにしたところで、単に口先の云い前と思わなければならなかった。
父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。
叱るならもっと男らしく叱ったらよさそうなものだのに。
彼は沈吟して考えた。
山羊髯を生やして、万事にもったいをつけたがる父の顔、意味もないのに束髪を嫌って髷にばかり結いたがる母の頭、そのくらいの特色はこの場合を解釈する何の手がかりにもならなかった。
「いったい兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。
事件以後何度となく彼女によって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。
約束通りにしないのが悪いくらいは、妹に教わらないでも、よく解っていた。
彼はただその必要を認めなかっただけなのである。
そうしてその立場を他からも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。
「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでもいいでしょうけれども」 お秀には自分の良人の堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
「良人でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻がえさせたものは堀の力であった。
津田から頼まれて、また無雑作にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、いろいろ都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説き落したのである。
その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。
その案の成立と共に責任のできた彼はまた至極呑気な男であった。
約束の履行などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行の時期が来た時分には、もうそれを忘れていた。
詰責に近い手紙を津田の父から受取った彼は、ほとんどこの事件を念頭においていなかっただけに、驚ろかされた。
しかし現金の綺麗に消費されてしまった後で、気がついたところで、どうする訳にも行かなかった。
楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。
ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。
津田の父はいつまで経っても彼を責任者扱いにした。
同時に津田の財力には不相応と見えるくらいな立派な指輪がお延の指に輝き始めた。
そうして始めにそれを見つけ出したものはお秀であった。
女同志の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。
彼女はお延の指輪を賞めた。
賞めたついでにそれを買った時と所とを突きとめようとした。
堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。
自分がどのくらい津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、すべての顧慮に打ち勝った。
彼女はありのままをお秀に物語った。
不断から派手過ぎる女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末を京都へ報告した。
しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。
津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭からきめてかかったのである。
そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。
今でも彼女はその誤解から逃れる事ができなかった。
したがってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりもむしろ嫂のお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「いったい嫂さんはどういうつもりでいらっしゃるんでしょう。こんだの事について」「お延に何にも関係なんかありゃしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しゃしないんだもの」「そう。じゃ嫂さんが一番気楽でいいわね」 お秀は皮肉な微笑を見せた。
津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電灯の光に差し突けたお延の姿が、鮮かに見えた。
九十六
「いったいどうしたらいいんでしょう」 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、また自分の当惑を洩らす表現にもなった。
彼女には夫の手前というものがあった。
夫よりもなお遠慮勝な姑さえその奥には控えていた。
「そりゃ良人だって兄さんに頼まれて、口は利いたようなものの、そこまで責任をもつつもりでもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今さらお断りをする気でもないでしょうけれども。とにかく万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんのように、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人へ対して困るだけだわ」 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるよりほかに道がなかった。
しかし腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡がどこにも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。
彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。
その兄は自分の便利よりほかにほとんど何にも考えていなかった。
もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。
そうして彼はその細君に甘くなっていた。
むしろ自由にされていた。
細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
兄をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。
それを遠慮のない言葉で云い現わすと、「兄さんの困るのは自業自得だからしようがないけれども、あたしの方の始末はどうつけてくれるのですか」というような露骨千万なものになった。
津田はどうするとも云わなかった。
またどうする気もなかった。
かえって想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら」「そこなのよ、兄さん」 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。
そうしてまたつけ加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」 微かな暗示が津田の頭に閃めいた。
秋口に見る稲妻のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。
それは父の品性に関係していた。
今まで全く気がつかずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、いったん気がついた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、ずいぶん鋭どく切り込んで来る性質のものであった。
心のうちで劈頭に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。
――最初に体よく送金を拒絶する。
津田が困る。
今までの行がかり上堀に訳を話す。
京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事ができる。
それで否応なしに例月分を立て替えてくれる。
父はただ礼を云って澄ましている。
こう段落をつけて考えて見ると、そこには或種の要心があった。
相当な理窟もあった。
或程度の手腕は無論認められた。
同時に何らの淡泊さがそこには存在していなかった。
下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪な所も少しはあった。
小額の金に対する度外れの執着心が殊更に目立って見えた。
要するにすべてが父らしくできていた。
ほかの点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口に感心しないのは、津田といえどもお秀に譲らなかった。
あらゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、さすがのお秀も津田と同じように眉を顰めなければならなかった。
父の品性。
それはむしろ別問題であった。
津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。
お秀はまた兄夫婦に対して好い感情をもっていなかった。
その上夫や姑への義理もつらく考えさせられた。
二人はまず実際問題をどう片づけていいかに苦しんだ。
そのくせ口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。
互いの忖度から成立った父の料簡は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。
九十七
感情と理窟の縺れ合った所を解ごしながら前へ進む事のできなかった彼らは、どこまでもうねうね歩いた。
局所に触るようなまた触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈ったくした。
しかし彼らは兄妹であった。
二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。
相手の淡泊しないところを暗に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁は演じなかった。
ただ津田は兄だけに、また男だけに、話を一点に括る手際をお秀より余計にもっていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」「そうじゃないわ」「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあどっちにしたって同なじ事だがね」「あら、嫂さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」「要するにこの事件について一番悪いものはおれだと、結局こうなるんだろう。そりゃ今さら説明を伺わなくってもよく兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」「兄さんにそんな事ができて」 お秀の兄を冷笑けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚び起した。
「できなければ死ぬまでの事さ」 お秀はついにきりりと緊った口元を少し緩めて、白い歯を微かに見せた。
津田の頭には、電灯の下で光る厚帯を弄くっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」 津田にとってそれほど容易い解決法はなかった。
しかし行きがかりから云うと、これほどまた困難な自白はなかった。
彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。
それにできるだけの満足を与える事が、また取も直さず彼の虚栄心にほかならなかった。
お延の自分に対する信用を、女に大切な