その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。
第 2 章
他の一人は友達であった。
これは津田が自分と同性質の病気に罹っているものと思い込んで、向うから平気に声をかけた。
彼らはその時二人いっしょに医者の門を出て、晩飯を食いながら、性と愛という問題についてむずかしい議論をした。
妹婿の事は一時の驚ろきだけで、大した影響もなく済んだが、それぎりで後のなさそうに思えた友達と彼との間には、その後異常な結果が生れた。
その時の友達の言葉と今の友達の境遇とを連結して考えなければならなかった津田は、突然衝撃を受けた人のように、眼を開いて額から手を放した。
すると診察所から紺セルの洋服を着た三十恰好の男が出て来て、すぐ薬局の窓の所へ行った。
彼が隠袋から紙入を出して金を払おうとする途端に、看護婦が敷居の上に立った。
彼女と見知り越の津田は、次の患者の名を呼んで再び診察所の方へ引き返そうとする彼女を呼び留めた。
「順番を待っているのが面倒だからちょっと先生に訊いて下さい。明日か明後日手術を受けに来て好いかって」 奥へ入った看護婦はすぐまた白い姿を暗い室の戸口に現わした。
「今ちょうど二階が空いておりますから、いつでも御都合の宜しい時にどうぞ」 津田は逃れるように暗い室を出た。
彼が急いで靴を穿いて、擦硝子張の大きな扉を内側へ引いた時、今まで真暗に見えた控室にぱっと電灯が点いた。
十八
津田の宅へ帰ったのは、昨日よりはやや早目であったけれども、近頃急に短かくなった秋の日脚は疾くに傾いて、先刻まで往来にだけ残っていた肌寒の余光が、一度に地上から払い去られるように消えて行く頃であった。
彼の二階には無論火が点いていなかった。
玄関も真暗であった。
今角の車屋の軒灯を明らかに眺めて来たばかりの彼の眼は少し失望を感じた。
彼はがらりと格子を開けた。
それでもお延は出て来なかった。
昨日の今頃待ち伏せでもするようにして彼女から毒気を抜かれた時は、余り好い心持もしなかったが、こうして迎える人もない真暗な玄関に立たされて見ると、やっぱり昨日の方が愉快だったという気が彼の胸のどこかでした。
彼は立ちながら、「お延お延」と呼んだ。
すると思いがけない二階の方で「はい」という返事がした。
それから階子段を踏んで降りて来る彼女の足音が聞こえた。
同時に下女が勝手の方から馳け出して来た。
「何をしているんだ」 津田の言葉には多少不満の響きがあった。
お延は何にも云わなかった。
しかしその顔を見上げた時、彼はいつもの通り無言の裡に自分を牽きつけようとする彼女の微笑を認めない訳に行かなかった。
白い歯が何より先に彼の視線を奪った。
「二階は真暗じゃないか」「ええ。何だかぼんやりして考えていたもんだから、つい御帰りに気がつかなかったの」「寝ていたな」「まさか」 下女が大きな声を出して笑い出したので、二人の会話はそれぎり切れてしまった。
湯に行く時、お延は「ちょっと待って」と云いながら、石鹸と手拭を例の通り彼女の手から受け取って火鉢の傍を離れようとする夫を引きとめた。
彼女は後ろ向になって、重ね箪笥の一番下の抽斗から、ネルを重ねた銘仙の褞袍を出して夫の前へ置いた。
「ちょっと着てみてちょうだい。まだ圧が好く利いていないかも知れないけども」 津田は煙に巻かれたような顔をして、黒八丈の襟のかかった荒い竪縞の褞袍を見守もった。
それは自分の買った品でもなければ、拵えてくれと誂えた物でもなかった。
「どうしたんだい。これは」「拵えたのよ。あなたが病院へ入る時の用心に。ああいう所で、あんまり変な服装をしているのは見っともないから」「いつの間に拵えたのかね」 彼が手術のため一週間ばかり家を空けなければならないと云って、その訳をお延に話したのは、つい二三日前の事であった。
その上彼はその日から今日に至るまで、ついぞ針を持って裁物板の前に坐った細君の姿を見た事がなかった。
彼は不思議の感に打たれざるを得なかった。
お延はまた夫のこの驚きをあたかも自分の労力に対する報酬のごとくに眺めた。
そうしてわざと説明も何も加えなかった。
「布は買ったのかい」「いいえ、これあたしの御古よ。この冬着ようと思って、洗張をしたまま仕立てずにしまっといたの」 なるほど若い女の着る柄だけに、縞がただ荒いばかりでなく、色合もどっちかというとむしろ派出過ぎた。
津田は袖を通したわが姿を、奴凧のような風をして、少しきまり悪そうに眺めた後でお延に云った。
「とうとう明日か明後日やって貰う事にきめて来たよ」「そう。それであたしはどうなるの」「御前はどうもしやしないさ」「いっしょに随いて行っちゃいけないの。病院へ」 お延は金の事などをまるで苦にしていないらしく見えた。
十九
津田の明る朝眼を覚ましたのはいつもよりずっと遅かった。
家の内はもう一片付かたづいた後のようにひっそり閑としていた。
座敷から玄関を通って茶の間の障子を開けた彼は、そこの火鉢の傍にきちんと坐って新聞を手にしている細君を見た。
穏やかな家庭を代表するような音を立てて鉄瓶が鳴っていた。
「気を許して寝ると、寝坊をするつもりはなくっても、つい寝過ごすもんだな」 彼は云い訳らしい事をいって、暦の上にかけてある時計を眺めた。
時計の針はもう十時近くの所を指していた。
顔を洗ってまた茶の間へ戻った時、彼は何気なく例の黒塗の膳に向った。
その膳は彼の着席を待ち受けたというよりも、むしろ待ち草臥れたといった方が適当であった。
彼は膳の上に掛けてある布巾を除ろうとしてふと気がついた。
「こりゃいけない」 彼は手術を受ける前日に取るべき注意を、かつて医者から聞かされた事を思い出した。
しかし今の彼はそれを明らかに覚えていなかった。
彼は突然細君に云った。
「ちょっと訊いてくる」「今すぐ?」 お延は吃驚して夫の顔を見た。
「なに電話でだよ。訳ゃない」 彼は静かな茶の間の空気を自分で蹴散らす人のように立ち上ると、すぐ玄関から表へ出た。
そうして電車通りを半丁ほど右へ行った所にある自動電話へ馳けつけた。
そこからまた急ぎ足に取って返した彼は玄関に立ったまま細君を呼んだ。
「ちょっと二階にある紙入を取ってくれ。御前の蟇口でも好い」「何になさるの」 お延には夫の意味がまるで解らなかった。
「何でもいいから早く出してくれ」 彼はお延から受取った蟇口を懐中へ放り込んだまま、すぐ大通りの方へ引き返した。
そうして電車に乗った。
彼がかなり大きな紙包を抱えてまた戻って来たのは、それから約三四十分後で、もう午に間もない頃であった。
「あの蟇口の中にゃ少しっきゃ入っていないんだね。もう少しあるのかと思ったら」 津田はそう云いながら腋に抱えた包みを茶の間の畳の上へ放り出した。
「足りなくって?」 お延は細かい事にまで気を遣わないではいられないという眼つきを夫の上に向けた。
「いや足りないというほどでもないがね」「だけど何をお買いになるかあたしちっとも解らないんですもの。もしかすると髪結床かと思ったけれども」 津田は二カ月以上手を入れない自分の頭に気がついた。
永く髪を刈らないと、心持番の小さい彼の帽子が、被るたんびに少しずつきしんで来るようだという、つい昨日の朝受けた新らしい感じまで思い出した。
「それにあんまり急いでいらっしったもんだから、つい二階まで取りに行けなかったのよ」「実はおれの紙入の中にも、そうたくさん入ってる訳じゃないんだから、まあどっちにしたって大した変りはないんだがね」 彼は蟇口の悪口ばかり云えた義理でもなかった。
お延は手早く包紙を解いて、中から紅茶の缶と、麺麭と牛酪を取り出した。
「おやおやこれ召しゃがるの。そんなら時を取りにおやりになればいいのに」「なにあいつじゃ分らない。何を買って来るか知れやしない」 やがて好い香のするトーストと濃いけむりを立てるウーロン茶とがお延の手で用意された。
朝飯とも午飯とも片のつかない、極めて単純な西洋流の食事を済ました後で、津田は独りごとのように云った。
「今日は病気の報知かたがた無沙汰見舞に、ちょっと朝の内藤井の叔父の所まで行って来ようと思ってたのに、とうとう遅くなっちまった」 彼の意味は仕方がないから午後にこの訪問の義務を果そうというのであった。
二十
藤井というのは津田の父の弟であった。
広島に三年長崎に二年という風に、方々移り歩かなければならない官吏生活を余儀なくされた彼の父は、教育上津田を連れて任地任地を巡礼のように経めぐる不便と不利益とに痛く頭を悩ましたあげく、早くから彼をその弟に託して、いっさいの面倒を見て貰う事にした。
だから津田は手もなくこの叔父に育て上げられたようなものであった。
したがって二人の関係は普通の叔父甥の域を通り越していた。
性質や職業の差違を問題のほかに置いて評すると、彼らは叔父甥というよりもむしろ親子であった。
もし第二の親子という言葉が使えるなら、それは最も適切にこの二人の間柄を説明するものであった。
津田の父と違ってこの叔父はついぞ東京を離れた事がなかった。
半生の間始終動き勝であった父に比べると、単にこの点だけでもそこに非常な相違があった。
少なくとも非常な相違があるように津田の眼には映じた。
「緩慢なる人世の旅行者」 叔父がかつて津田の父を評した言葉のうちにこういう文句があった。
それを何気なく小耳に挟んだ津田は、すぐ自分の父をそういう人だと思い込んでしまった。
そうして今日までその言葉を忘れなかった。
しかし叔父の使った文句の意味は、頭の発達しない当時よく解らなかったと同じように、今になっても判然しなかった。
ただ彼は父の顔を見るたんびにそれを思い出した。
肉の少ない細面の腮の下に、売卜者見たような疎髯を垂らしたその姿と、叔父のこの言葉とは、彼にとってほとんど同じものを意味していた。
彼の父は今から十年ばかり前に、突然遍路に倦み果てた人のように官界を退いた。
そうして実業に従事し出した。
彼は最後の八年を神戸で費やした後、その間に買っておいた京都の地面へ、新らしい普請をして、二年前にとうとうそこへ引き移った。
津田の知らない間に、この閑静な古い都が、彼の父にとって隠栖の場所と定められると共に、終焉の土地とも変化したのである。
その時叔父は鼻の頭へ皺を寄せるようにして津田に云った。
「兄貴はそれでも少し金が溜ったと見えるな。あの風船玉が、じっと落ちつけるようになったのは、全く金の重みのために違ない」 しかし金の重みのいつまで経ってもかからない彼自身は、最初から動かなかった。
彼は始終東京にいて始終貧乏していた。
彼はいまだかつて月給というものを貰った覚のない男であった。
月給が嫌いというよりも、むしろくれ手がなかったほどわがままだったという方が適当かも知れなかった。
規則ずくめな事に何でも反対したがった彼は、年を取ってその考が少し変って来た後でも、やはり以前の強情を押し通していた。
これは今さら自分の主義を改めたところで、ただ人に軽蔑されるだけで、いっこう得にはならないという事をよく承知しているからでもあった。
実際の世の中に立って、端的な事実と組み打ちをして働らいた経験のないこの叔父は、一面において当然迂濶な人生批評家でなければならないと同時に、一面においてははなはだ鋭利な観察者であった。
そうしてその鋭利な点はことごとく彼の迂濶な所から生み出されていた。
言葉を換えていうと、彼は迂濶の御蔭で奇警な事を云ったり為たりした。
彼の知識は豊富な代りに雑駁であった。
したがって彼は多くの問題に口を出したがった。
けれどもいつまで行っても傍観者の態度を離れる事ができなかった。
それは彼の位地が彼を余儀なくするばかりでなく、彼の性質が彼をそこに抑えつけておくせいでもあった。
彼は或頭をもっていた。
けれども彼には手がなかった。
もしくは手があっても、それを使おうとしなかった。
彼は始終懐手をしていたがった。
一種の勉強家であると共に一種の不精者に生れついた彼は、ついに活字で飯を食わなければならない運命の所有者に過ぎなかった。
二十一
こういう人にありがちな場末生活を、藤井は市の西北にあたる高台の片隅で、この六七年続けて来たのである。
ついこの間まで郊外に等しかったその高台のここかしこに年々建て増される大小の家が、年々彼の眼から蒼い色を奪って行くように感ぜられる時、彼は洋筆を走らす手を止めて、よく自分の兄の身の上を考えた。
折々は兄から金でも借りて、自分も一つ住宅を拵えて見ようかしらという気を起した。
その金を兄はとても貸してくれそうもなかった。
自分もいざとなると貸して貰う性分ではなかった。
「緩慢なる人生の旅行者」と兄を評した彼は、実を云うと、物質的に不安なる人生の旅行者であった。
そうして多数の人の場合において常に見出されるごとく、物質上の不安は、彼にとってある程度の精神的不安に過ぎなかった。
津田の宅からこの叔父の所へ行くには、半分道ほど川沿の電車を利用する便利があった。
けれどもみんな歩いたところで、一時間とかからない近距離なので、たまさかの散歩がてらには、かえってやかましい交通機関の援に依らない方が、彼の勝手であった。
一時少し前に宅を出た津田は、ぶらぶら河縁を伝って終点の方に近づいた。
空は高かった。
日の光が至る所に充ちていた。
向うの高みを蔽っている深い木立の色が、浮き出したように、くっきり見えた。
彼は道々今朝買い忘れたリチネの事を思い出した。
それを今日の午後四時頃に呑めと医者から命令された彼には、ちょっと薬種屋へ寄ってこの下剤を手に入れておく必要があった。
彼はいつもの通り終点を右へ折れて橋を渡らずに、それとは反対な賑やかな町の方へ歩いて行こうとした。
すると新らしく線路を延長する計劃でもあると見えて、彼の通路に当る往来の一部分が、最も無遠慮な形式で筋違に切断されていた。
彼は残酷に在来の家屋を掻き※って、無理にそれを取り払ったような凸凹だらけの新道路の角に立って、その片隅に塊まっている一群の人々を見た。
群集はまばらではあるが三列もしくは五列くらいの厚さで、真中にいる彼とほぼ同年輩ぐらいな男の周囲に半円形をかたちづくっていた。
小肥りにふとったその男は双子木綿の羽織着物に角帯を締めて俎下駄を穿いていたが、頭には笠も帽子も被っていなかった。
彼の後に取り残された一本の柳を盾に、彼は綿フラネルの裏の付いた大きな袋を両手で持ちながら、見物人を見廻した。
「諸君僕がこの袋の中から玉子を出す。この空っぽうの袋の中からきっと出して見せる。驚ろいちゃいけない、種は懐中にあるんだから」 彼はこの種の人間としてはむしろ不相応なくらい横風な言葉でこんな事を云った。
それから片手を胸の所で握って見せて、その握った拳をまたぱっと袋の方へぶつけるように開いた。
「そら玉子を袋の中へ投げ込んだぞ」と騙さないばかりに。
しかし彼は騙したのではなかった。
彼が手を袋の中へ入れた時は、もう玉子がちゃんとその中に入っていた。
彼はそれを親指と人さし指の間に挟んで、一応半円形をかたちづくっている見物にとっくり眺めさした後で地面の上に置いた。
津田は軽蔑に嘆賞を交えたような顔をして、ちょっと首を傾けた。
すると突然後から彼の腰のあたりを突っつくもののあるのに気がついた。
軽い衝撃を受けた彼はほとんど反射作用のように後をふり向いた。
そうしてそこにさも悪戯小僧らしく笑いながら立っている叔父の子を見出した。
徽章の着いた制帽と、半洋袴と、背中にしょった背嚢とが、その子の来た方角を彼に語るには充分であった。
「今学校の帰りか」「うん」 子供は「はい」とも「ええ」とも云わなかった。
二十二
「お父さんはどうした」「知らない」「相変らずかね」「どうだか知らない」 自分が十ぐらいであった時の心理状態をまるで忘れてしまった津田には、この返事が少し意外に思えた。
苦笑した彼は、そこへ気がつくと共に黙った。
子供はまた一生懸命に手品遣いの方ばかり注意しだした。
服装から云うと一夜作りとも見られるその男はこの時精一杯大きな声を張りあげた。
「諸君もう一つ出すから見ていたまえ」 彼は例の袋を片手でぐっと締扱いて、再び何か投げ込む真似を小器用にした後、麗々と第二の玉子を袋の底から取り出した。
それでも飽き足らないと見えて、今度は袋を裏返しにして、薄汚ない棉フラネルの縞柄を遠慮なく群衆の前に示した。
しかし第三の玉子は同じ手真似と共に安々と取り出された。
最後に彼はあたかも貴重品でも取扱うような様子で、それを丁寧に地面の上へ並べた。
「どうだ諸君こうやって出そうとすれば、何個でも出せる。しかしそう玉子ばかり出してもつまらないから、今度は一つ生きた鶏を出そう」 津田は叔父の子供をふり返った。
「おい真事もう行こう。小父さんはこれからお前の宅へ行くんだよ」 真事には津田よりも生きた鶏の方が大事であった。
「小父さん先へ行ってさ。僕もっと見ているから」「ありゃ嘘だよ。いつまで経ったって生きた鶏なんか出て来やしないよ」「どうして? だって玉子はあんなに出たじゃないの」「玉子は出たが、鶏は出ないんだよ。ああ云って嘘を吐いていつまでも人を散らさないようにするんだよ」「そうしてどうするの」 そうしてどうするのかその後の事は津田にもちっとも解らなかった。
面倒になった彼は、真事を置き去りにして先へ行こうとした。
すると真事が彼の袂を捉えた。
「小父さん何か買ってさ」 宅で強請られるたんびに、この次この次といって逃げておきながら、その次行く時には、つい買ってやるのを忘れるのが常のようになっていた彼は、例の調子で「うん買ってやるさ」と云った。
「じゃ自動車、ね」「自動車は少し大き過ぎるな」「なに小さいのさ。七円五十銭のさ」 七円五十銭でも津田にはたしかに大き過ぎた。
彼は何にも云わずに歩き出した。
「だってこの前もその前も買ってやるっていったじゃないの。小父さんの方があの玉子を出す人よりよっぽど嘘吐きじゃないか」「あいつは玉子は出すが鶏なんか出せやしないんだよ」「どうして」「どうしてって、出せないよ」「だから小父さんも自動車なんか買えないの」「うん。――まあそうだ。だから何かほかのものを買ってやろう」「じゃキッドの靴さ」 毒気を抜かれた津田は、返事をする前にまた黙って一二間歩いた。
彼は眼を落して真事の足を見た。
さほど見苦しくもないその靴は、茶とも黒ともつかない一種変な色をしていた。
「赤かったのを宅でお父さんが染めたんだよ」 津田は笑いだした。
藤井が子供の赤靴を黒く染めたという事柄が、何だか彼にはおかしかった。
学校の規則を知らないで拵らえた赤靴を規則通りに黒くしたのだという説明を聞いた時、彼はまた叔父の窮策を滑稽的に批判したくなった。
そうしてその窮策から出た現在のお手際を擽ぐったいような顔をしてじろじろ眺めた。
二十三
「真事、そりゃ好い靴だよ、お前」「だってこんな色の靴誰も穿いていないんだもの」「色はどうでもね、お父さんが自分で染めてくれた靴なんか滅多に穿けやしないよ。ありがたいと思って大事にして穿かなくっちゃいけない」「だってみんなが尨犬の皮だ尨犬の皮だって揶揄うんだもの」 藤井の叔父と尨犬の皮、この二つの言葉をつなげると、結果はまた新らしいおかしみになった。
しかしそのおかしみは微かな哀傷を誘って、津田の胸を通り過ぎた。
「尨犬じゃないよ、小父さんが受け合ってやる。大丈夫尨犬じゃない立派な……」 津田は立派な何といっていいかちょっと行きつまった。
そこを好い加減にしておく真事ではなかった。
「立派な何さ」「立派な――靴さ」 津田はもし懐中が許すならば、真事のために、望み通りキッドの編上を買ってやりたい気がした。
それが叔父に対する恩返しの一端になるようにも思われた。
彼は胸算で自分の懐にある紙入の中を勘定して見た。
しかし今の彼にそれだけの都合をつける余裕はほとんどなかった。
もし京都から為替が届くならばとも考えたが、まだ届くか届かないか分らない前に、苦しい思いをして、それだけの実意を見せるにも及ぶまいという世間心も起った。
「真事、そんなにキッドが買いたければね、今度宅へ来た時、小母さんに買ってお貰い。小父さんは貧乏だからもっと安いもので今日は負けといてくれ」 彼は賺すようにまた宥めるように真事の手を引いて広い往来をぶらぶら歩いた。
終点に近いその通りは、電車へ乗り降りの必要上、無数の人の穿物で絶えず踏み堅められる結果として、四五年この方町並が生れ変ったように立派に整のって来た。
ところどころのショーウィンドーには、一概に場末ものとして馬鹿にできないような品が綺麗に飾り立てられていた。
真事はその間を向う側へ馳け抜けて、朝鮮人の飴屋の前へ立つかと思うと、また此方側へ戻って来て、金魚屋の軒の下に佇立んだ。
彼の馳け出す時には、隠袋の中でビー玉の音が、きっとじゃらじゃらした。
「今日学校でこんなに勝っちゃった」 彼は隠袋の中へ手をぐっと挿し込んで掌いっぱいにそのビー玉を載せて見せた。
水色だの紫色だのの丸い硝子玉が迸ばしるように往来の真中へ転がり出した時、彼は周章ててそれを追いかけた。
そうして後を振り向きながら津田に云った。
「小父さんも拾ってさ」 最後にこの目まぐるしい叔父の子のために一軒の玩具屋へ引き摺り込まれた津田は、とうとうそこで一円五十銭の空気銃を買ってやらなければならない事になった。
「雀ならいいが、むやみに人を狙っちゃいけないよ」「こんな安い鉄砲じゃ雀なんか取れないだろう」「そりゃお前が下手だからさ。下手ならいくら鉄砲が好くったって取れないさ」「じゃ小父さんこれで雀打ってくれる? これから宅へ行って」 好い加減をいうとすぐ後から実行を逼られそうな様子なので、津田は生返事をしたなり話をほかへそらした。
真事は戸田だの渋谷だの坂口だのと、相手の知りもしない友達の名前を勝手に並べ立てて、その友達を片端から批評し始めた。
「あの岡本って奴、そりゃ狡猾いんだよ。靴を三足も買ってもらってるんだもの」 話はまた靴へ戻って来た。
津田はお延と関係の深いその岡本の子と、今自分の前でその子を評している真事とを心の中で比較した。
二十四
「御前近頃岡本の所へ遊びに行くかい」「ううん、行かない」「また喧嘩したな」「ううん、喧嘩なんかしない」「じゃなぜ行かないんだ」「どうしてでも――」 真事の言葉には後がありそうだった。
津田はそれが知りたかった。
「あすこへ行くといろんなものをくれるだろう」「ううん、そんなにくれない」「じゃ御馳走するだろう」「僕こないだ岡本の所でライスカレーを食べたら、そりゃ辛かったよ」 ライスカレーの辛いぐらいは、岡本へ行かない理由になりそうもなかった。
「それで行くのが厭になった訳でもあるまい」「ううん。だってお父さんが止せって云うんだもの。僕岡本の所へ行ってブランコがしたいんだけども」 津田は小首を傾けた。
叔父が子供を岡本へやりたがらない理由は何だろうと考えた。
肌合の相違、家風の相違、生活の相違、それらのものがすぐ彼の心に浮かんだ。
始終机に向って沈黙の間に活字的の気※を天下に散布している叔父は、実際の世間においてけっして筆ほどの有力者ではなかった。
彼は暗にその距離を自覚していた。
その自覚はまた彼を多少頑固にした。
幾分か排外的にもした。
金力権力本位の社会に出て、他から馬鹿にされるのを恐れる彼の一面には、その金力権力のために、自己の本領を一分でも冒されては大変だという警戒の念が絶えずどこかに働いているらしく見えた。
「真事なぜお父さんに訊いて見なかったのだい。岡本へ行っちゃなぜいけないんですって」「僕訊いたよ」「訊いたらお父さんは何と云った。――何とも云わなかったろう」「ううん、云った」「何と云った」 真事は少し羞恥んでいた。
しばらくしてから、彼はぽつりぽつり句切を置くような重い口調で答えた。
「あのね、岡本へ行くとね、何でも一さんの持ってるものをね、宅へ帰って来てからね、買ってくれ、買ってくれっていうから、それでいけないって」 津田はようやく気がついた。
富の程度に多少等差のある二人の活計向は、彼らの子供が持つ玩具の末に至るまでに、多少等差をつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車だのキッドの靴だのって、むやみに高いものばかり強請んだな。みんな一さんの持ってるのを見て来たんだろう」 津田は揶揄い半分手を挙げて真事の背中を打とうとした。
真事は跋の悪い真相を曝露された大人に近い表情をした。
けれども大人のように言訳がましい事はまるで云わなかった。
「嘘だよ。嘘だよ」 彼は先刻津田に買ってもらった一円五十銭の空気銃を担いだままどんどん自分の宅の方へ逃げ出した。
彼の隠袋の中にあるビー玉が数珠を劇しく揉むように鳴った。
背嚢の中では弁当箱だか教科書だかが互にぶつかり合う音がごとりごとりと聞こえた。
彼は曲り角の黒板塀の所でちょっと立ちどまって鼬のように津田をふり返ったまま、すぐ小さい姿を小路のうちに隠した。
津田がその小路を行き尽して突きあたりにある藤井の門を潜った時、突然ドンという銃声が彼の一間ばかり前で起った。
彼は右手の生垣の間から大事そうに彼を狙撃している真事の黒い姿を苦笑をもって認めた。
二十五
座敷で誰かと話をしている叔父の声を聞いた津田は、格子の間から一足の客靴を覗いて見たなり、わざと玄関を開けずに、茶の間の縁側の方へ廻った。
もと植木屋ででもあったらしいその庭先には木戸の用心も竹垣の仕切もないので、同じ地面の中に近頃建て増された新らしい貸家の勝手口を廻ると、すぐ縁鼻まで歩いて行けた。
目隠しにしては少し低過ぎる高い茶の樹を二三本通り越して、彼の記憶にいつまでも残っている柿の樹の下を潜った津田は、型のごとくそこに叔母の姿を見出した。
障子の篏入硝子に映るその横顔が彼の眼に入った時、津田は外部から声を掛けた。
「叔母さん」 叔母はすぐ障子を開けた。
「今日はどうしたの」 彼女は子供が買って貰った空気銃の礼も云わずに、不思議そうな眼を津田の上に向けた。
四十の上をもう三つか四つ越したこの叔母の態度には、ほとんど愛想というものがなかった。
その代り時と場合によると世間並の遠慮を超越した自然が出た。
そのうちにはほとんど性の感じを離れた自然さえあった。
津田はいつでもこの叔母と吉川の細君とを腹の中で比較した。
そうしていつでもその相違に驚ろいた。
同じ女、しかも年齢のそう違わない二人の女が、どうしてこんなに違った感じを他に与える事ができるかというのが、第一の疑問であった。
「叔母さんは相変らず色気がないな」「この年齢になって色気があっちゃ気狂だわ」 津田は縁側へ腰をかけた。
叔母は上れとも云わないで、膝の上に載せた紅絹の片へ軽い火熨斗を当てていた。
すると次の間からほどき物を持って出て来たお金さんという女が津田にお辞儀をしたので、彼はすぐ言葉をかけた。
「お金さん、まだお嫁の口はきまりませんか。まだなら一つ好いところを周旋しましょうか」 お金さんはえへへと人の好さそうに笑いながら少し顔を赤らめて、彼のために座蒲団を縁側へ持って来ようとした。
津田はそれを手で制して、自分から座敷の中に上り込んだ。
「ねえ叔母さん」「ええ」 気のなさそうな生返事をした叔母は、お金さんが生温るい番茶を形式的に津田の前へ注いで出した時、ちょっと首をあげた。
「お金さん由雄さんによく頼んでおおきなさいよ。この男は親切で嘘を吐かない人だから」 お金さんはまだ逃げ出さずにもじもじしていた。
津田は何とか云わなければすまなくなった。
「お世辞じゃありません、本当の事です」 叔母は別に取り合う様子もなかった。
その時裏で真事の打つ空気銃の音がぽんぽんしたので叔母はすぐ聴耳を立てた。
「お金さん、ちょっと見て来て下さい。バラ丸を入れて打つと危険いから」 叔母は余計なものを買ってくれたと云わんばかりの顔をした。
「大丈夫ですよ。よく云い聞かしてあるんだから」「いえいけません。きっとあれで面白半分にお隣りの鶏を打つに違ないから。構わないから丸だけ取り上げて来て下さい」 お金さんはそれを好い機に茶の間から姿をかくした。
叔母は黙って火鉢に挿し込んだ鏝をまた取り上げた。
皺だらけな薄い絹が、彼女の膝の上で、綺麗に平たく延びて行くのを何気なく眺めていた津田の耳に、客間の話し声が途切れ途切れに聞こえて来た。
「時に誰です、お客は」 叔母は驚ろいたようにまた顔を上げた。
「今まで気がつかなかったの。妙ねあなたの耳もずいぶん。ここで聞いてたってよく解るじゃありませんか」
二十六
津田は客間にいる声の主を、坐ったまま突き留めようと力めて見た。
やがて彼は軽く膝を拍った。
「ああ解った。小林でしょう」「ええ」 叔母は嫣然ともせずに、簡単な答を落ちついて与えた。
「何だ小林か。新らしい赤靴なんか穿き込んで厭にお客さんぶってるもんだから誰かと思ったら。そんなら僕も遠慮しずにあっちへ行けばよかった」 想像の眼で見るにはあまりに陳腐過ぎる彼の姿が津田の頭の中に出て来た。
この夏会った時の彼の異な服装もおのずと思い出された。
白縮緬の襟のかかった襦袢の上へ薩摩絣を着て、茶の千筋の袴に透綾の羽織をはおったその拵えは、まるで傘屋の主人が町内の葬式の供に立った帰りがけで、強飯の折でも懐に入れているとしか受け取れなかった。
その時彼は泥棒に洋服を盗まれたという言訳を津田にした。
それから金を七円ほど貸してくれと頼んだ。
これはある友達が彼の盗難に同情して、もし自分の質に入れてある夏服を受け出す余裕が彼にあるならば、それを彼にやってもいいと云ったからであった。
津田は微笑しながら叔母に訊いた。
「あいつまた何だって今日に限って座敷なんかへ通って、堂々とお客ぶりを発揮しているんだろう」「少し叔父さんに話があるのよ。それがここじゃちょっと云い悪い事なんでね」「へえ、小林にもそんな真面目な話があるのかな。金の事か、それでなければ……」 こう云いかけた津田は、ふと真面目な叔母の顔を見ると共に、後を引っ込ましてしまった。
叔母は少し声を低くした。
その声はむしろ彼女の落ちついた調子に釣り合っていた。
「お金さんの縁談の事もあるんだからね。ここであんまり何かいうと、あの子がきまりを悪くするからね」 いつもの高調子と違って、茶の間で聞いているとちょっと誰だか分らないくらいな紳士風の声を、小林が出しているのは全くそれがためであった。
「もうきまったんですか」「まあ旨く行きそうなのさ」 叔母の眼には多少の期待が輝やいた。
少し乾燥ぎ気味になった津田はすぐ付け加えた。
「じゃ僕が骨を折って周旋しなくっても、もういいんだな」 叔母は黙って津田を眺めた。
たとい軽薄とまで行かないでも、こういう巫山戯た空虚うな彼の態度は、今の叔母の生活気分とまるでかけ離れたものらしく見えた。
「由雄さん、お前さん自分で奥さんを貰う時、やっぱりそんな料簡で貰ったの」 叔母の質問は突然であると共に、どういう意味でかけられたのかさえ津田には見当がつかなかった。
「そんな料簡って、叔母さんだけ承知しているぎりで、当人の僕にゃ分らないんだから、ちょっと返事のしようがないがな」「何も返事を聞かなくったって、叔母さんは困りゃしないけれどもね。――女一人を片づける方の身になって御覧なさい。たいていの事じゃないから」 藤井は四年前長女を片づける時、仕度をしてやる余裕がないのですでに相当の借金をした。
その借金がようやく片づいたと思うと、今度はもう次女を嫁にやらなければならなくなった。
だからここでもしお金さんの縁談が纏まるとすれば、それは正に三人目の出費に違なかった。
娘とは格が違うからという意味で、できるだけ倹約したところで、現在の生計向に多少苦しい負担の暗影を投げる事はたしかであった。
二十七
こういう時に、せめて費用の半分でも、津田が進んで受け持つ事ができたなら、年頃彼の世話をしてきた藤井夫婦にとっては定めし満足な報酬であったろう。
けれども今のところ財力の上で叔父叔母に捧げ得る彼の同情は、高々真事の穿きたがっているキッドの靴を買ってやるくらいなものであった。
それさえ彼は懐都合で見合せなければならなかったのである。
まして京都から多少の融通を仰いで、彼らの経済に幾分の潤沢をつけてやろうなどという親切気はてんで起らなかった。
これは自分が事情を報告したところで動く父でもなし、父が動いたところで借りる叔父でもないと頭からきめてかかっているせいでもあった。
それで彼はただ自分の所へさえ早く為替が届いてくれればいいという期待に縛られて、叔母の言葉にはあまり感激した様子も見せなかった。
すると叔母が「由雄さん」と云い出した。
「由雄さん、じゃどんな料簡で奥さんを貰ったの、お前さんは」「まさか冗談に貰やしません。いくら僕だってそう浮ついたところばかりから出来上ってるように解釈されちゃ可哀相だ」「そりゃ無論本気でしょうよ。無論本気には違なかろうけれどもね、その本気にもまたいろいろ段等があるもんだからね」 相手次第では侮辱とも受け取られるこの叔母の言葉を、津田はかえって好奇心で聞いた。
「じゃ叔母さんの眼に僕はどう見えるんです。遠慮なく云って下さいな」 叔母は下を向いて、ほどき物をいじくりながら薄笑いをした。
それが津田の顔を見ないせいだか何だか、急に気味の悪い心持を彼に与えた。
しかし彼は叔母に対して少しも退避ぐ気はなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目なところもありますからね」「そりゃ男だもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日会社へ出たって、勤まりっこありゃしないからね。だけども――」 こう云いかけた叔母は、そこで急に気を換えたようにつけ足した。
「まあ止しましょう。今さら云ったって始まらない事だから」 叔母は先刻火熨斗をかけた紅絹の片を鄭寧に重ねて、濃い渋を引いた畳紙の中へしまい出した。
それから何となく拍子抜けのした、しかもどこかに物足らなそうな不安の影を宿している津田の顔を見て、ふと気がついたような調子で云った。
「由雄さんはいったい贅沢過ぎるよ」 学校を卒業してから以来の津田は叔母に始終こう云われつけていた。
自分でもまたそう信じて疑わなかった。
そうしてそれを大した悪い事のようにも考えていなかった。
「ええ少し贅沢です」「服装や食物ばかりじゃないのよ。心が派出で贅沢に出来上ってるんだから困るっていうのよ。始終御馳走はないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻してる人みたようで」「じゃ贅沢どころかまるで乞食じゃありませんか」「乞食じゃないけれども、自然真面目さが足りない人のように見えるのよ。人間は好い加減なところで落ちつくと、大変見っとも好いもんだがね」 この時津田の胸を掠めて、自分の従妹に当る叔母の娘の影が突然通り過ぎた。
その娘は二人とも既婚の人であった。
四年前に片づいた長女は、その後夫に従って台湾に渡ったぎり、今でもそこに暮していた。
彼の結婚と前後して、ついこの間嫁に行った次女は、式が済むとすぐ連れられて福岡へ立ってしまった。
その福岡は長男の真弓が今年から籍を置いた大学の所在地でもあった。
この二人の従妹のどっちも、貰おうとすれば容易く貰える地位にあった津田の眼から見ると、けっして自分の細君として適当の候補者ではなかった。
だから彼は知らん顔をして過ぎた。
当時彼の取った態度を、叔母の今の言葉と結びつけて考えた津田は、別にこれぞと云って疾ましい点も見出し得なかったので、何気ない風をして叔母の動作を見守っていた。
その叔母はついと立って戸棚の中にある支那鞄の葢を開けて、手に持った畳紙をその中にしまった。
二十八
奥の四畳半で先刻からお金さんに学課の復習をして貰っていた真事が、突然お金さんにはまるで解らない仏蘭西語の読本を浚い始めた。
ジュ・シュイ・ポリ、とか、チュ・エ・マラード、とか、一字一字の間にわざと長い句切を置いて読み上げる小学二年生の頓狂な声を、例ながらおかしく聞いている津田の頭の上で、今度は柱時計がボンボンと鳴った。
彼はすぐ袂に入れてあるリチネを取り出して、飲みにくそうに、どろどろした油の色を眺めた。
すると、客間でも時計の音に促がされたような叔父の声がした。
「じゃあっちへ行こう」 叔父と小林は縁伝いに茶の間へ入って来た。
津田はちょっと居住居を直して叔父に挨拶をしたあとで、すぐ小林の方を向いた。
「小林君だいぶ景気が好いようだね。立派な服を拵えたじゃないか」 小林はホームスパンみたようなざらざらした地合の背広を着ていた。
いつもと違ってその洋袴の折目がまだ少しも崩れていないので、誰の眼にも仕立卸しとしか見えなかった。
彼は変り色の靴下を後へ隠すようにして、津田の前に坐り込んだ。
「へへ、冗談云っちゃいけない。景気の好いのは君の事だ」 彼の新調はどこかのデパートメント・ストアの窓硝子の中に飾ってある三つ揃に括りつけてあった正札を見つけて、その価段通りのものを彼が注文して拵えたのであった。
「これで君二十六円だから、ずいぶん安いものだろう。君見たいな贅沢やから見たらどうか知らないが、僕なんぞにゃこれでたくさんだからね」 津田は叔母の手前重ねて悪口を云う勇気もなかった。
黙って茶碗を借り受けて、八の字を寄せながらリチネを飲んだ。
そこにいるものがみんな不思議そうに彼の所作を眺めた。
「何だいそれは。変なものを飲むな。薬かい」
今日まで病気という病気をした例のない叔父の医薬に対する無知はまた特別のものであった。
彼はリチネという名前を聞いてすら、それが何のために服用されるのか知らなかった。
あらゆる疾病とほとんど没交渉なこの叔父の前に、津田が手術だの入院だのという言葉を使って、自分の現在を説明した時に、叔父は少しも感動しなかった。
「それでその報知にわざわざやって来た訳かね」 叔父は御苦労さまと云わぬばかりの顔をして、胡麻塩だらけの髯を撫でた。
生やしていると云うよりもむしろ生えていると云った方が適当なその髯は、植木屋を入れない庭のように、彼の顔をところどころ爺々むさく見せた。
「いったい今の若いものは、から駄目だね。下らん病気ばかりして」 叔母は津田の顔を見てにやりと笑った。
近頃急に「今の若いものは」という言葉を、癖のように使い出した叔父の歴史を心得ている津田も笑い返した。
よほど以前この叔父から惑病は同源だの疾患は罪悪だのと、さも偉そうに云い聞かされた事を憶い出すと、それが病気に罹らない自分の自慢とも受け取れるので、なおのこと滑稽に感ぜられた。
彼は薄笑いと共にまた小林の方を見た。
小林はすぐ口を出した。
けれども津田の予期とは全くの反対を云った。
「何今の若いものだって病気をしないものもあります。現に私なんか近頃ちっとも寝た事がありません。私考えるに、人間は金が無いと病気にゃ罹らないもんだろうと思います」 津田は馬鹿馬鹿しくなった。
「つまらない事をいうなよ」「いえ全くだよ。現に君なんかがよく病気をするのは、するだけの余裕があるからだよ」 この不論理な断案は、云い手が真面目なだけに、津田をなお失笑させた。
すると今度は叔父が賛成した。
「そうだよこの上病気にでも罹った日にゃどうにもこうにもやり切れないからね」 薄暗くなった室の中で、叔父の顔が一番薄暗く見えた。
津田は立って電灯のスウィッチを捩った。
二十九
いつの間にか勝手口へ出て、お金さんと下女を相手に皿小鉢の音を立てていた叔母がまた茶の間へ顔を出した。
「由雄さん久しぶりだから御飯を食べておいで」 津田は明日の治療を控えているので断って帰ろうとした。
「今日は小林といっしょに飯を食うはずになっているところへお前が来たのだから、ことによると御馳走が足りないかも知れないが、まあつき合って行くさ」 叔父にこんな事を云われつけない津田は、妙な心持がして、また尻を据えた。
「今日は何事かあるんですか」「何ね、小林が今度――」 叔父はそれだけ云って、ちょっと小林の方を見た。
小林は少し得意そうににやにやしていた。
「小林君どうかしたのか」「何、君、なんでもないんだ。いずれきまったら君の宅へ行って詳しい話をするがね」「しかし僕は明日から入院するんだぜ」「なに構わない、病院へ行くよ。見舞かたがた」 小林は追いかけて、その病院のある所だの、医者の名だのを、さも自分に必要な知識らしく訊いた。
医者の名が自分と同じ小林なので「はあそれじゃあの堀さんの」と云ったが急に黙ってしまった。
堀というのは津田の妹婿の姓であった。
彼がある特殊な病気のために、つい近所にいるその医者のもとへ通ったのを小林はよく知っていたのである。
彼の詳しい話というのを津田はちょっと聞いて見たい気がした。
それは先刻叔母の云ったお金さんの結婚問題らしくもあった。
またそうでないらしくも見えた。
この思わせぶりな小林の態度から、多少の好奇心を唆られた津田は、それでも彼に病院へ遊びに来いとは明言しなかった。
津田が手術の準備だと云って、せっかく叔母の拵えてくれた肉にも肴にも、日頃大好な茸飯にも手をつけないので、さすがの叔母も気の毒がって、お金さんに頼んで、彼の口にする事のできる麺麭と牛乳を買って来させようとした。
ねとねとしてむやみに歯の間に挟まるここいらの麺麭に内心辟易しながら、また贅沢だと云われるのが少し怖いので、津田はただおとなしく茶の間を立つお金さんの後姿を見送った。
お金さんの出て行った後で、叔母はみんなの前で叔父に云った。
「どうかまああの子も今度の縁が纏まるようになると仕合せですがね」「纏まるだろうよ」 叔父は苦のなさそうな返事をした。
「至極よさそうに思います」 小林の挨拶も気軽かった。
黙っているのは津田と真事だけであった。
相手の名を聞いた時、津田はその男に一二度叔父の家で会ったような心持もしたが、ほとんど何らの記憶も残っていなかった。
「お金さんはその人を知ってるんですか」「顔は知ってるよ。口は利いた事がないけれども」「じゃ向うも口を利いた事なんかないんでしょう」「当り前さ」「それでよく結婚が成立するもんだな」 津田はこういって然るべき理窟が充分自分の方にあると考えた。
それをみんなに見せるために、彼は馬鹿馬鹿しいというよりもむしろ不思議であるという顔つきをした。
「じゃどうすれば好いんだ。誰でもみんなお前が結婚した時のようにしなくっちゃいけないというのかね」 叔父は少し機嫌を損じたらしい語気で津田の方を向いた。
津田はむしろ叔母に対するつもりでいたので、少し気の毒になった。
「そういう訳じゃないんです。そういう事情のもとにお金さんの結婚が成立しちゃ不都合だなんていう気は全くなかったのです。たといどんな事情だろうと結婚が成立さえすれば、無論結構なんですから」
三十
それでも座は白けてしまった。
今まで心持よく流れていた談話が、急に堰き止められたように、誰も津田の言葉を受け継いで、順々に後へ送ってくれるものがなくなった。
小林は自分の前にある麦酒の洋盃を指して、ないしょのような小さい声で、隣りにいる真事に訊いた。
「真事さん、お酒を上げましょうか。少し飲んで御覧なさい」「苦いから僕厭だよ」 真事はすぐ跳ねつけた。
始めから飲ませる気のなかった小林は、それを機にははと笑った。
好い相手ができたと思ったのか真事は突然小林に云った。
「僕一円五十銭の空気銃をもってるよ。持って来て見せようか」 すぐ立って奥の四畳半へ馳け込んだ彼が、そこから新らしい玩具を茶の間へ持ち出した時、小林は行きがかり上、ぴかぴかする空気銃の嘆賞者とならなければすまなかった。
叔父も叔母も嬉しがっているわが子のために、一言の愛嬌を義務的に添える必要があった。
「どうも時計を買えの、万年筆を買えのって、貧乏な阿爺を責めて困る。それでも近頃馬だけはどうかこうか諦らめたようだから、まだ始末が好い」「馬も存外安いもんですな。北海道へ行きますと、一頭五六円で立派なのが手に入ります」「見て来たような事を云うな」 空気銃の御蔭で、みんながまた満遍なく口を利くようになった。
結婚が再び彼らの話頭に上った。
それは途切れた前の続きに相違なかった。
けれどもそれを口にする人々は、少しずつ前と異った気分によって、彼らの表現を支配されていた。
「こればかりは妙なものでね。全く見ず知らずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁になるとも限らないしね、またいくらこの人ならばと思い込んでできた夫婦でも、末始終和合するとは限らないんだから」 叔母の見て来た世の中を正直に纏めるとこうなるよりほかに仕方なかった。
この大きな事実の一隅にお金さんの結婚を安全におこうとする彼女の態度は、弁護的というよりもむしろ説明的であった。
そうしてその説明は津田から見ると最も不完全でまた最も不安全であった。
結婚について津田の誠実を疑うような口ぶりを見せた叔母こそ、この点にかけて根本的な真面目さを欠いているとしか彼には思えなかった。
「そりゃ楽な身分の人の云い草ですよ」と叔母は開き直って津田に云った。
「やれ交際だの、やれ婚約だのって、そんな贅沢な事を、我々風情が云ってられますか。貰ってくれ手、来てくれ手があれば、それでありがたいと思わなくっちゃならないくらいのものです」 津田はみんなの手前今のお金さんの場合についてかれこれ云いたくなかった。
それをいうほどの深い関係もなくまた興味もない彼は、ただ叔母が自分に対してもつ、不真面目という疑念を塗り潰すために、向うの不真面目さを啓発しておかなくてはいけないという心持に制せられるので、黙ってしまう訳に行かなかった。
彼は首を捻って考え込む様子をしながら云った。
「何もお金さんの場合をとやかく批評する気はないんだが、いったい結婚を、そう容易く考えて構わないものか知ら。僕には何だか不真面目なような気がしていけないがな」「だって行く方で真面目に行く気になり、貰う方でも真面目に貰う気になれば、どこと云って不真面目なところが出て来ようはずがないじゃないか。由雄さん」「そういう風に手っとり早く真面目になれるかが問題でしょう」「なれればこそ叔母さんなんぞはこの藤井家へお嫁に来て、ちゃんとこうしているじゃありませんか」「そりゃ叔母さんはそうでしょうが、今の若いものは……」「今だって昔だって人間に変りがあるものかね。みんな自分の決心一つです」「そう云った日にゃまるで議論にならない」「議論にならなくっても、事実の上で、あたしの方が由雄さんに勝ってるんだから仕方がない。いろいろ選り好みをしたあげく、お嫁さんを貰った後でも、まだ選り好みをして落ちつかずにいる人よりも、こっちの方がどのくらい真面目だか解りゃしない」 先刻から肉を突ッついていた叔父は、自分の口を出さなければならない時機に到着した人のように、皿から眼を放した。
三十一
「だいぶやかましくなって来たね。黙って聞いていると、叔母甥の対話とは思えないよ」 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心をもって云い合ってるようだが、喧嘩でもしたのかい」 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。
真事を相手にビー珠を転がしていた小林が偸むようにしてこっちを見た。
叔母も津田も一度に黙ってしまった。
叔父はついに調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前見たような今の若いものには、ちょっと理解出来悪いかも知れないがね、叔母さんは嘘を吐いてるんじゃないよ。知りもしないおれの所へ来るとき、もうちゃんと覚悟をきめていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後と同じように真面目だったのさ」「そりゃ僕だって伺わないでも承知しています」「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」 そろそろ酔の廻った叔父は、火熱った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、また洋盃を取り上げて麦酒をぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」「ええ」 津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこのおれに意があったんだ。つまり初めからおれの所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟をきめてしまったんだ。――」「馬鹿な事をおっしゃい。誰があなたのような醜男に意なんぞあるもんですか」 津田も小林も吹き出した。
独りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」「じゃお父さん、何さ、意があるってのは」 叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真中を大事そうに撫で廻した。
気のせいかその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きなのさ」「ふん。じゃ好いじゃないか」「だから誰も悪いと云ってやしない」「だって皆な笑うじゃないか」 この問答の途中へお金さんがちょうど帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間の方へ追いやった。
興に乗った叔父の話はますます発展するばかりであった。
「そりゃ昔しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝が怖い顔をしたってあったに違ないが、だね。そこにまた今の若いものにはとうてい解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方ではけっして女に惚れなかったもんだ。――ねえお朝そうだったろう」「どうだか存じませんよ」 叔母は真事の立った後へ坐って、さっさと松茸飯を手盛にして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。そこに事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今おれがその哲学を講釈してやる」「もうそんなむずかしいものは、伺わなくってもたくさんです」「じゃ若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のためによく聴いとくがいい。いったいお前達は他の娘を何だと思う」「女だと思ってます」 津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないんだろう。それがおれ達とは大違いだて。おれ達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事がいまだかつてない。だからどこのお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っついてるんだと始めから観念している。だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。なぜと云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手をこっちが所有してしまうという意味だろう。すでに所有権のついてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男はけっして惚れなかったね。もっとも女はたしかに惚れたよ。現にそこで松茸飯を食ってるお朝なぞも実はおれに惚れたのさ。しかしおれの方じゃかつて彼女を愛した覚がない」「どうでもいいから、もう好い加減にして御飯になさい」 真事を寝かしつけに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。
津田は仕方なしに、ひとり下味い食麺麭をにちゃにちゃ噛んだ。
三十二
食後の話はもうはずまなかった。
と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。
人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼らはてんでんばらばらに口を聞いた後で、誰もそれを会話の中心に纏めようと努力するもののないのに気が付いた。
餉台の上に両肱を突いた叔父が酔後の欠を続けざまに二つした。
叔母が下女を呼んで残物を勝手へ運ばした。
先刻から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。
そのたびに他人から見ると、麦酒の泡と共に消えてしまうべきはずの言葉を、津田はかえって意味ありげに自分で追いかけて見たり、また自分で追い戻して見たりした。
そこに気のついた時、彼は我ながら不愉快になった。
同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。
その投げ合の間、彼は始終自分を抑えつけて、なるべく心の色を外へ出さないようにしていた。
そこに彼の誇りがあると共に、そこに一種の不快も潜んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
半日以上の暇を潰したこの久しぶりの訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌な吉川夫人とその綺麗な応接間とを記憶の舞台に躍らした。
つづいて近頃ようやく丸髷に結い出したお延の顔が眼の前に動いた。
彼は座を立とうとして小林を顧みた。
「君はまだいるかね」「いや。僕ももう御暇しよう」 小林はすぐ吸い残した敷島の袋を洋袴の隠袋へねじ込んだ。
すると彼らの立ち際に、叔父が偶然らしくまた口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしている。宜しく云ってくれ。お前の留守にゃ閑で困るだろうね、彼の女も。いったい何をして暮してるかね」「何って別にする事もないでしょうよ」 こう散漫に答えた津田は、何と思ったか急に後からつけ足した。
「病院へいっしょに入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりもよっぽどやかましい事を云いますよ」「感心じゃないか。お前のようなお洒落にそんな注意をしてくれるものはほかにありゃしないよ」「ありがたい仕合せだな」「芝居はどうだい。近頃行くかい」「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、あいにくこの病気の方の片をつけなけりゃならないんでね」 津田はそこでちょっと叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。たまにゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」「ええありがとう。だけど由雄さんの御案内じゃ――」「お厭ですか」「厭より、いつの事だか分らないからね」 芝居場などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」 叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでもいいが、由雄さん京都の方はどうして、それから」「京都から何とか云って来ましたかこっちへ」 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。
けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでもしろって、お父さんが云って来たんだが、ずいぶん乱暴じゃありませんか」 叔父は笑うだけであった。
「兄貴は怒ってるんだろう」「いったいお秀がまた余計な事を云ってやるからいけない」 津田は少し忌々しそうに妹の名前を口にした。
「お秀に咎はありません。始めから由雄さんの方が悪いにきまってるんだもの」「そりゃそうかも知れないけれども、どこの国にあなた阿爺から送って貰った金を、きちんきちん返す奴があるもんですか」「じゃ最初からきちんきちん返すって約束なんかしなければいいのに。それに……」「もう解りましたよ、叔母さん」 津田はとても敵わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。
しかし敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促がすように小林を引張って、いっしょに表へ出る事を忘れなかった。
三十三
戸外には風もなかった。
静かな空気が足早に歩く二人の頬に冷たく触れた。
星の高く輝やく空から、眼に見えない透明な露がしとしと降りているらしくも思われた。
津田は自分で外套の肩を撫でた。
その外套の裏側に滲み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わって見た彼は小林を顧みた。
「日中は暖かだが、夜になるとやっぱり寒いね」「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しいくらいだ」 小林は新調の三つ揃の上に何にも着ていなかった。
ことさらに爪先を厚く四角に拵えたいかつい亜米利加型の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖をわざとらしくふり廻す彼の態度は、まるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」 彼は突然意外な質問を津田にかけた。
津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」「まだ着ているのか」「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうにいつまで着ているものかね」「そうか、それじゃちょうど好い。あれを僕にくれ」「欲しければやっても好い」 津田はむしろ冷やかに答えた。
靴足袋まで新らしくしている男が、他の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。
少くとも、その人の生活に横わる、不規則な物質的の凸凹を証拠立てていた。
しばらくしてから、津田は小林に訊いた。
「なぜその背広といっしょに外套も拵えなかったんだ」「君と同なじように僕を考えちゃ困るよ」「じゃどうしてその背広だの靴だのができたんだ」「訊き方が少し手酷し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心してくれ」 津田はすぐ口を閉じた。
二人は大きな坂の上に出た。
広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。
秋の夜の灯火がところどころに点々と少量の暖かみを滴らした。
「おい、帰りにどこかで一杯やろうじゃないか」 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺った。
彼らの右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝した竹藪が一面に生い被さっていた。
風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢は、季節相応な蕭索の感じを津田に与えるに充分であった。
「ここはいやに陰気な所だね。どこかの大名華族の裏に当るんで、いつまでもこうして放ってあるんだろう。早く切り開いちまえばいいのに」 津田はこういって当面の挨拶をごまかそうとした。
しかし小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久しぶりで」「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」「でも君はもう充分ですって断っていたじゃないか」「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんならともかくも、あのくらい飲ませられるのはかえって毒だよ。後から適当の程度まで酔っておいて止めないと身体に障るからね」 自分に都合の好い理窟を勝手に拵らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼にとって少し迷惑な伴侶であった。
彼は冷かし半分に訊いた。
「君が奢るのか」「うん奢っても好い」「そうしてどこへ行くつもりなんだ」「どこでも構わない。おでん屋でもいいじゃないか」 二人は黙って坂の下まで降りた。
三十四
順路からいうと、津田はそこを右へ折れ、小林は真直に行かなければならなかった。
しかし体よく分れようとして帽子へ手をかけた津田の顔を、小林は覗き込むように見て云った。
「僕もそっちへ行くよ」 彼らの行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。
その中程にある酒場めいた店の硝子戸が、暖かそうに内側から照らされているのを見つけた時、小林はすぐ立ちどまった。
「ここが好い。ここへ入ろう」「僕は厭だよ」「君の気に入りそうな上等の宅はここいらにないんだから、ここで我慢しようじゃないか」「僕は病気だよ」「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」「冗談云うな。厭だよ」「細君には僕が弁解してやるからいいだろう」 面倒になった津田は、小林をそこへ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。
すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調で追究した。
「そんなに厭か、僕といっしょに酒を飲むのは」 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐとまった。
そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部へ現わした。
「じゃ飲もう」 二人はすぐ明るい硝子戸を引いて中へ入った。
客は彼らのほかに五六人いたぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。
割合楽に席の取れそうな片隅を択んで、差し向いに腰をおろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲へ向けた。
服装から見た彼らの相客中に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。
湯帰りと見えて、縞の半纏の肩へ濡れ手拭を掛けたのだの、木綿物に角帯を締めて、わざとらしく平打の羽織の紐の真中へ擬物の翡翠を通したのだのはむしろ上等の部であった。
ずっとひどいのは、まるで紙屑買としか見えなかった。
腹掛股引も一人交っていた。
「どうだ平民的でいいじゃないか」 小林は津田の猪口へ酒を注ぎながらこう云った。
その言葉を打ち消すような新調したての派出な彼の背広が、すぐことさららしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるでそこに気がついていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社界の方に同情があるんだからな」 小林はあたかもそこに自分の兄弟分でも揃っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼らはみんな上流社会より好い人相をしているから」 挨拶をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、かえって小林を熟視した。
小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然としているだろう」「上流社会だって陶然とするからな」「だが陶然としかたが違うよ」 津田は昂然として両者の差違を訊かなかった。
それでも小林は少しも悄気ずに、ぐいぐい杯を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑しているね。同情に価しないものとして、始めから見くびっているんだ」 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、向うにいる牛乳配達見たような若ものに声をかけた。
「ねえ君。そうだろう」 出し抜けに呼びかけられた若者は倔強な頸筋を曲げてちょっとこっちを見た。
すると小林はすぐ杯をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」 若者はにやにやと笑った。
不幸にして彼と小林との間には一間ほどの距離があった。
立って杯を受けるほどの必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。
しかしそれでも小林には満足らしかった。
出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼はまた津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人もいやしない」
三十五
インヴァネスを着た小作りな男が、半纏の角刈と入れ違に這入って来て、二人から少し隔った所に席を取った。
廂を深くおろした鳥打を被ったまま、彼は一応ぐるりと四方を見廻した後で、懐へ手を入れた。
そうしてそこから取り出した薄い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見つめていた。
彼はいつまで経っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。
帽子も頭へ載せたままであった。
しかし帳面はそんなに長くひろげていなかった。
大事そうにそれを懐へしまうと、今度は飲みながら、じろりじろりと他の客を、見ないようにして見始めた。
その相間相間には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。
先刻から気をつけるともなしにこの様子に気をつけていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向になって互に顔を見合せた。
小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」 津田は元の通りの姿勢を崩さなかった。
ほとんど返事に価しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」 小林はなお声を低くした。
「あいつは探偵だぜ」 津田は答えなかった。
相手より酒量の強い彼は、かえって相手ほど平生を失わなかった。
黙って自分の前にある猪口を干した。
小林はすぐそれへなみなみと注いだ。
「あの眼つきを見ろ」 薄笑いをした津田はようやく口を開いた。
「君見たいにむやみに上流社会の悪口をいうと、さっそく社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」「社会主義者?」 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。こっちゃ、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品ぶって取り繕ろってる君達の方がよっぽどの悪者だ。どっちが警察へ引っ張られて然るべきだかよく考えて見ろ」 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるよりほかに仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間扱いにしないつもりかも知れないが」 小林はまたこう云いかけて、そこいらを見廻したが、あいにくどこにも土方や人足はいなかった。
それでも彼はいっこう構わずにしゃべりつづけた。
「彼らは君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのままもってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃で汚れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢ないんだ。馬鹿にするな」 小林の語気は、貧民の弁護というよりもむしろ自家の弁護らしく聞こえた。
しかしむやみに取り合ってこっちの体面を傷けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。
すると小林がなお追かけて来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔つきをしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜の小説を読んだろう」 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田はやはり何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤であろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」「先生に訊くと、先生はありゃ嘘だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って、感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くの模倣者が続出して、むやみに安っぽくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。しかし僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」 小林の言葉はだんだん逼って来た。
しまいに彼は感慨に堪えんという顔をして、涙をぽたぽた卓布の上に落した。
三十六
不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれるほどの酔が廻っていなかった。
同化の埒外からこの興奮状態を眺める彼の眼はついに批判的であった。
彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。
ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。
そのどっちにしたところで、自分とあまり交渉のない事もよく心得ていた。
彼はつまらなかった。
また不安であった。
感激家によって彼の前にふり落された涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。
探偵として物色された男は、懐からまた薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書きつけ始めた。
猫のように物静かでありながら、猫のようにすべてを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。
けれども小林の酔は、もうそんなところを通り越していた。
探偵などはまるで眼中になかった。
彼は新調の背広の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装をすると、汚ないと云って軽蔑するだろう。またたまに綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすればいいんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生だから教えてくれ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。
不思議にもその腕には抵抗力がなかった。
最初の勢が急にどこかへ抜けたように、おとなしく元の方角へ戻って行った。
けれども彼の口は彼の腕ほど素直ではなかった。
手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちゃんと知ってる。君は僕がこれほど下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」「いくら貧乏だって、洋服の一着ぐらい拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じゃないか。誰も何とも思ってやしないよ」「ところがそうでない。君は僕をただめかすんだと思ってる。お洒落だと解釈している。それが悪い」「そうか。そりゃ悪かった」 もうやりきれないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。
すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気はあるよ。そりゃ僕も充分認める。認めるには認めるが、僕がなぜ今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」 そんな特別の理由を津田は固より知ろうはずがなかった。
また知りたくもなかった。
けれども行きがかり上訊いてやらない訳にも行かなかった。
両手を左右へひろげた小林は、自分で自分の服装を見廻しながら、むしろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々都落をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。
ついでに先刻から苦になっていた襟飾の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、また彼の話を聴きつづけた。
長い間叔父の雑誌の編輯をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金をくれそうな所へ方々持って廻ったりして、始終忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京にいたたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、そこの或新聞社へ雇われる事に、はぼ相談がきまったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際厭だよ」 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を待っていそうな事をいう彼は、すぐまた前言を取り消すような口も利いた。
「要するに僕なんぞは、生涯漂浪して歩く運命をもって生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ちつけないんだもの。たとい自分が落ちつく気でも、世間が落ちつかせてくれないから残酷だよ。駈落者になるよりほかに仕方がないじゃないか」「落ちつけないのは君ばかりじゃない。僕だってちっとも落ちついていられやしない」「もったいない事をいうな。君の落ちつけないのは贅沢だからさ。僕のは死ぬまで麺麭を追かけて歩かなければならないんだから苦しいんだ」「しかし落ちつけないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」 小林は津田の言葉から何らの慰藉を受ける気色もなかった。
三十七
先刻から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓の上を片づけ始めた。
それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。
疾うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。
津田は機会を捉えてすぐ腰を上げた。
小林は椅子を離れる前に、まず彼らの間に置かれたM・C・C・の箱を取った。
そうしてその中からまた新らしい金口を一本出してそれに火を点けた。
行きがけの駄賃らしいこの所作が、煙草の箱を受け取って袂へ入れる津田の眼を、皮肉に擽ぐったくした。
時刻はそれほどでなかったけれども、秋の夜の往来は意外に更けやすかった。
昼は耳につかない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。
別々の気分に働らきかけられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁をつたって動いて行った。
「朝鮮へはいつ頃行くんだね」「ことによると君の病院へ入いっているうちかも知れない」「そんなに急に立つのか」「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会ってくれてからでないと、判然した事は分らないんだ」「立つ日がかい、あるいは行く事がかい」「うん、まあ――」 彼の返事は少し曖昧であった。
津田がそれを追究もしないで、さっさと行き出した時、彼はまた云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」「なにそうでもないんだ」「じゃ止したらいいじゃないか」 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。
数歩の後、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋しいよ」 津田は返事をしなかった。
二人はまた黙って歩いた。
浅い河床の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えて行く時、幽かに音を立てて、電車の通る相間相間に、ちょろちょろと鳴った。
「僕はやっぱり行くよ。どうしても行った方がいいんだからね」「じゃ行くさ」「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぽど増しだ」 彼の語気は癇走っていた。
津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃいけないよ。年歯さえ若くって身体さえ丈夫なら、どこへ行ったって立派に成効できるじゃないか。――君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」 今度は小林の方がいい返事をしなかった。
津田は重ねて跋を合せる態度に出た。
「君が行ったらお金さんの結婚する時困るだろう」 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、あいつも可哀相だけれども仕方がない。つまりこんなやくざな兄貴をもったのが不仕合せだと思って、諦らめて貰うんだ」「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかしてくれるんだろう」「まあそんな事になるよりほかに仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、いつまでも下女代りに、先生の宅で使って貰うんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」「向うじゃくれないのか」「くれそうもないな」「どうにかして出させたら好いだろう」「さあ」 一分ばかりの沈黙を破った時、彼はまた独り言のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套は君から貰う、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」 これがその晩小林の口から出た最後の台詞であった。
二人はついに分れた。
津田は後をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。
三十八
彼の門は例の通り締まっていた。
彼は潜り戸へ手をかけた。
ところが今夜はその潜り戸もまた開かなかった。
立てつけの悪いせいかと思って、二三度やり直したあげく、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しい※の抵抗力を裏側に聞いた彼はようやく断念した。
彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立んだ。
新らしい世帯を持ってから今日に至るまで、一度も外泊した覚のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、まだこうした経験には出会わなかったのである。
今日の彼は灯点し頃から早く宅へ帰りたがっていた。
叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。
進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。
夕方以後の彼は、むしろお延の面影を心におきながら外で暮していた。
その薄ら寒い外から帰って来た彼は、ちょうど暖かい家庭の灯火を慕って、それを目標に足を運んだのと一般であった。
彼の身体が土塀に行き当った馬のようにとまると共に、彼の期待も急に門前で喰いとめられなければならなかった。
そうしてそれを喰いとめたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼にとってけっして小さな問題でなかった。
彼は手を挙げて開かない潜り戸をとんとんと二つ敲いた。
「ここを開けろ」というよりも「ここをなぜ締めた」といって詰問するような音が、更け渡りつつある往来の暗がりに響いた。
すると内側ですぐ「はい」という返事がした。
ほとんど反響に等しいくらい早く彼の鼓膜を打ったその声の主は、下女でなくてお延であった。
急に静まり返った彼は戸の此方側で耳を澄ました。
用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電灯のスウィッチを捩る音が明らかに聞こえた。
格子がすぐがらりと開いた。
入口の開き戸がまだ閉ててない事はたしかであった。
「どなた?」 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止まると、お延はまずこう云って誰何した。
彼はなおの事急き込んだ。
「早く開けろ、おれだ」 お延は「あらッ」と叫んだ。
「あなただったの。御免遊ばせ」 ごとごと云わして※を外した後で夫を内へ入れた彼女はいつもより少し蒼い顔をしていた。
彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
茶の間はいつもの通りきちんと片づいていた。
鉄瓶が約束通り鳴っていた。
長火鉢の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団が、彼の帰りを待ち受けるごとくに敷かれてあった。
お延の坐りつけたその向には、彼女の座蒲団のほかに、女持の硯箱が出してあった。
青貝で梅の花を散らした螺鈿の葢は傍へ取り除けられて、梨地の中に篏め込んだ小さな硯がつやつやと濡れていた。
持主が急いで座を立った証拠に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚していた。
戸締りをして夫の後から入ってきたお延は寝巻の上へ平生着の羽織を引っかけたままそこへぺたりと坐った。
「どうもすみません」 津田は眼を上げて柱時計を見た。
時計は今十一時を打ったばかりのところであった。
結婚後彼がこのくらいな刻限に帰ったのは、例外にしたところで、けっして始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。しまいにあんまり淋しくってたまらなくなったから、とうとう宅へ手紙を書き出したの」 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。
津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。
けれどもまだ納得ができなかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒だからかね」「いいえ。――あたし門なんか締めやしないわ」「だって現に締まっていたじゃないか」「時が昨夕締めっ放しにしたまんまなのよ、きっと。いやな人」 こう云ったお延はいつもする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉を動かして見せた。
日中用のない潜り戸の※を、朝外し忘れたという弁解は、けっして不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」「もう先刻寝かしてやったわ」 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜り戸の事をそのままにして寝た。
三十九
あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜寝るまで全く予想していなかった不意の観物によって驚ろかされた。
彼の床を離れたのは九時頃であった。
彼はいつもの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。
すると嬋娟に盛粧したお延が澄ましてそこに坐っていた。
津田ははっと思った。
寝起の顔へ水をかけられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩らした。
「今御眼覚?」 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡をかけた大丸髷と、派出な刺繍をした半襟の模様と、それからその真中にある化粧後の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼つきで眺めた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらから」 お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日はあなたがお医者様へいらっしゃる日じゃないの」 昨夜遅くそこへ脱ぎ捨てて寝たはずの彼の袴も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃えて、渋紙の上へ載せてあった。
「お前もいっしょに行くつもりだったのかい」「ええ無論行くつもりだわ。行っちゃ御迷惑なの」「迷惑って訳はないがね。――」 津田はまた改めて細君の服装を吟味するように見た。
「あんまりおつくりが大袈裟だからね」 彼はすぐ心の中でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。
そこに坐っている患者の一群とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だってあなた今日は日曜よ」「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」「だって妾……」 津田に云わせれば、日曜はなおの事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装をして、あのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは、少し――」「辟易?」 お延の漢語が突然津田を擽った。
彼は笑い出した。
ちょっと眉を動かしたお延はすぐ甘垂れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間がかかって大変なんですもの。せっかく着ちまったんだから、今日はこれで堪忍してちょうだいよ、ね」 津田はとうとう敗北した。
顔を洗っているとき、彼は下女に俥を二台云いつけるお延の声を、あたかも自分が急き立てられでもするように世話しなく聞いた。
普通の食事を取らない彼の朝飯はほとんど五分とかからなかった。
楊枝も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持って行くものを纏めなくっちゃ」 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後にある戸棚を開けた。
「ここに拵えてあるからちょっと見てちょうだい」 よそ行着を着た細君を労らなければならなかった津田は、やや重い手提鞄と小さな風呂敷包を、自分の手で戸棚から引き摺り出した。
包の中には試しに袖を通したばかりの例の褞袍と平絎の寝巻紐が這入っているだけであったが、鞄の中からは、楊枝だの歯磨粉だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰用紙だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏だの、毛抜だのが雑然と現われた。
そのうちで一番重くて嵩張った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」「そう、でもいつでも机の上に乗っていて、枝折が挟んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」 津田君は何にも云わずに、二カ月以上もかかってまだ読み切れない経済学の独逸書を重そうに畳の上に置いた。
「寝ていて読むにゃ重くって駄目だよ」 こう云った津田は、それがこの大部の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、あまり好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要るんだか妾分らないから、あなた自分でお好きなのを択ってちょうだい」 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰め込んだ。
四十
天気が好いので幌を畳ました二人は、鞄と風呂敷包を、各自の俥の上に一つずつ乗せて家を出た。
小路の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声をかけた。
俥は前後ともすぐとまった。
「大変。忘れものがあるの」 車上でふり返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。
念入に身仕舞をした若い女の口から出る刺戟性に富んだ言葉のために引きつけられたものは夫ばかりではなかった。
車夫も梶棒を握ったまま、等しくお延の方へ好奇の視線を向けた。
傍を通る往来の人さえ一瞥の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」 お延は思案するらしい様子をした。
「ちょっと待っててちょうだい。すぐだから」 彼女は自分の俥だけを元へ返した。
中ぶらりんの心的状態でそこに取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。
いったん小路の中に隠れた俥がやがてまた現われると、劇しい速力でまた彼の待っている所まで馳けて来た。
それが彼の眼の前でとまった時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖を出して長くぶら下げて見せた。
その鎖の端には環があって、環の中には大小五六個の鍵が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥の上に置きっ放しにしたまま」 夫婦以外に下女しかいない彼らの家庭では、二人揃って外出する時の用心に、大事なものに錠を卸しておいて、どっちかが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手でぽんとその上を敲きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」 俥は再び走け出した。
彼らの医者に着いたのは予定の時刻より少し後れていた。
しかし午までの診察時間に間に合わないほどでもなかった。
夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行ってもいいでしょうね」 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んでくれた。
まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作もなく笑いながら津田にお辞儀をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、いったいこの孔雀はどこから入って来たのだろうという顔つきをした。
お延が先を越して、「御厄介になります」とこっちから挨拶をしたので、始めて気がついたように、看護婦も頭を下げた。
「君、こいつを一つ持ってくれたまえ」 津田は車夫から受取った鞄を看護婦に渡して、二階の上り口の方へ廻った。
「お延こっちだ」 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗き込んでいたお延は、すぐ津田の後に随いて階子段を上った。
「大変陰気な室ね、あすこは」 南東の開いた二階は幸に明るかった。
障子を開けて縁側へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干を見ながら、津田を顧みた。
「下と違ってここは陽気ね。そうしてちょっといいお部屋ね。畳は汚れているけれども」 もと請負師か何かの妾宅に手を入れて出来上ったその医院の二階には、どことなく粋な昔の面影が残っていた。
「古いけれども宅の二階よりましかも知れないね」 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少燻ぶった天井だの床柱だのを見廻した。
四十一
そこへ先刻の看護婦が急須へ茶を淹れて持って来た。
「今仕度をしておりますから、少しの間どうぞ」 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ちつかないのね」「まるでお客さまに行ったようだろう」「ええ」 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。
津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「いったい何分ぐらいで済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」「あたし怖いわ、そんなものを見るのは」 お延は実際怖そうに眉を動かした。
「だからお前はここに待っといでよ。わざわざ手術台の傍まで来て、穢ないところを見る必要はないんだから」「でもこんな場合には誰か身寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」 津田は真面目なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね」 津田は女に穢ないものを見せるのが嫌な男であった。
ことに自分の穢ないところを見せるは厭であった。
もっと押しつめていうと、自分で自分の穢ないところを見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止しましょう」と云ったお延はまた時計を出した。
「お午までに済むでしょうか」「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃいつだって同なじこっちゃないか」「そりゃそうだけど……」 お延は後を云わなかった。
津田も訊かなかった。
看護婦がまた階子段の上へ顔を出した。
「支度ができましたからどうぞ」 津田はすぐ立ち上った。
お延も同時に立ち上ろうとした。
「お前はそこに待っといでと云うのに」「診察室へ行くんじゃないのよ。ちょっとここの電話を借りるのよ」「どこかへ用があるのかね」「用じゃないけど、――ちょっとお秀さんの所へあなたの事を知らせておこうと思って」 同じ区内にある津田の妹の家はそこからあまり遠くはなかった。
今度の病気について妹の事をあまり頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「いいよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。それにあいつが来るとやかましくっていけないからね」 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手であった。
お延は中腰のまま答えた。
「でも後でまた何か云われると、あたしが困るわ」 強いてとめる理由も見出し得なかった津田は仕方なしに云った。
「かけても構わないが、何も今に限った事はないだろう。あいつは近所だから、きっとすぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってるところへもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」 お延は微かな声で階下を憚かるような笑い方をした。
しかし彼女の露わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへかけるのは止すから」 こう云ったお延は、とうとう津田といっしょに立ち上った。
「まだほかにかける所があるのかい」「ええ岡本へかけるのよ。午までにかけるって約束があるんだから、いいでしょう、かけても」 前後して階子段を下りた二人は、そこで別々になった。
一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰をおろした。
四十二
「リチネはお飲みでしたろうね」 医者は糊の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。
「飲みましたが思ったほど効目がないようでした」 昨日の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。
それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的に零であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
「じゃもう一度浣腸しましょう」 浣腸の結果も充分でなかった。
津田はそれなり手術台に上って仰向に寝た。
冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷りとした。
堅い括り枕に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寝る人のように、少しも落ちつけなかった。
彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。
すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属性の光がちらちらと動いた。
仰向けに寝ている彼には、それが自分の眼を掠めて通り過ぎるとしか思われなかった。
見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸み見たのだという心持がなおのこと募った。
その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。
彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。
彼女の岡本へかけた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
「コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから」 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまた何でもないような一種の心持で聴いた。
局部魔睡は都合よく行った。
まじまじと天井を眺めている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。
ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。
鈍い抵抗がそこに感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」 医者の質問には充分の自信があった。
津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」 その重い感じというのを、どう云い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。
無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明のできないような」「そうですか。我慢できますか」 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼をかえって不安にした。
こういう場合予防のために葡萄酒などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭であった。
「大丈夫です」「そうですか。もう直です」 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際が閃めいていそうに思われた。
けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片づかなかった。
切物の皿に当って鳴る音が時々した。
鋏で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。
津田はそのたびにガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥さそうに眺めた。
じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張して来た。
むず痒い虫のようなものが、彼の身体を不安にするために、気味悪く血管の中を這い廻った。
彼は大きな眼を開いて天井を見た。
その天井の上には綺麗に着飾ったお延がいた。
そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。
彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。
すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後で、医者はまた云った。
「瘢痕が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていて下さい」 最後の注意と共に、津田はようやく手術台から下ろされた。
四十三
診察室を出るとき、後から随いて来た看護婦が彼に訊いた。
「いかがです。気分のお悪いような事はございませんか」「いいえ。――蒼い顔でもしているかね」 自分自身に多少懸念のあった津田はこう云って訊き返さなければならなかった。
創口にできるだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他が想像する倍以上に重苦しいものであった。
彼は仕方なしにのそのそ歩いた。
それでも階子段を上る時には、割かれた肉とガーゼとが擦れ合ってざらざらするような心持がした。
お延は階段の上に立っていた。
津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」 津田ははっきりした返事も与えずに室の中に這入った。
そこには彼の予期通り、白いシーツに裹まれた蒲団が、彼の安臥を待つべく長々と延べてあった。
羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。
鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍を後から着せるつもりで、両手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子抜けのした苦笑と共に、またそれを袖畳みにして床の裾の方に置いた。
「お薬はいただかなくっていいの」 彼女は傍にいる看護婦の方を向いて訊いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支えないのでございます。お食事の方はただいま拵えてこちらから持って参ります」 看護婦は立ちかけた。
黙って寝ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだらいいだろう」「そうね」 お延は躊躇した。
「あたしどうしようかしら」「だって、もう昼過だろう」「ええ。十二時二十分よ。あなたの手術はちょうど二十八分かかったのね」 時計の葢を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。
津田が手術台の上で俎へ乗せられた魚のように、おとなしく我慢している間、お延はまた彼の見つめなければならなかった天井の上で、時計と睨めっ競でもするように、手術の時間を計っていたのである。
津田は再び訊いた。
「今から宅へ帰ったって仕方がないだろう」「ええ」「じゃここで洋食でも取って貰って食ったらいいじゃないか」「ええ」 お延の返事はいつまで経っても捗々しくなかった。
看護婦はとうとう下へ降りて行った。
津田は疲れた人が光線の刺戟を避けるような気分で眼をねむった。
するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、また眼を開かなければならなかった。
「心持が悪いの?」「いいや」 念を押したお延はすぐ後を云った。
「岡本でよろしくって。いずれそのうち御見舞に上りますからって」「そうか」 津田は軽い返事をしたなり、また眼をつぶろうとした。
するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へいっしょに来いって云うんですが、行っちゃいけなくって」 気のよく廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。
病院へ随いて来るにしては派出過ぎる彼女の衣裳といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、ここへ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、ことごとく芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた。
そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないではすまなかった。
津田は黙って横を向いた。
床の間の上に取り揃えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼についた。
それは先刻鞄へ入れて彼がここへ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来てくれないから、しばらくの間、ああしておいたのよ。本でも御覧になって」 お延はすぐ立って床の間から書物をおろした。
四十四
津田は書物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」 不審よりも不平な顔をした彼が、向を変えて寝返りを打った時に、堅固にできていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」「断ったのに是非来いっていうのかね」 この時津田は始めてお延の顔を見た。
けれどもそこには彼の予期した何物も現われて来なかった。
彼女はかえって微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」「しかし……」 彼はちょっと行きつまった。
彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいてくれなかった。
「しかし――断ったのに是非来いなんていうはずがないじゃないか」「それを云うのよ。岡本もよっぽどの没分暁漢ね」 津田は黙ってしまった。
何といって彼女を追究していいか見当がつかなかった。
「あなたまだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」 彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりゃしないが、何だか変だからさ」「そう。じゃその変なところを云ってちょうだいな、いくらでも説明するから」 不幸にして津田にはその変なところが明暸に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。
と云って、女から甘く見られるのも、彼にとって少なからざる苦痛であった。
二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、よそ目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」 お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。
いったん閉て切った障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。
隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイ襯衣だのシーツだのが、先刻見た時と同じように、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」 お延が小さな声で独りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。
弱い女を自分の傍に縛りつけておくのが少し可哀相になった。
彼はお延に言葉をかけようとして、接穂のないのに困った。
お延も欄干に身を倚せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
そこへ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。
「どうもお待遠さま」 津田の膳には二個の鶏卵と一合のソップと麺麭がついているだけであった。
その麺麭も半片の二分ノ一と分量はいつのまにか定められていた。
津田は床の上に腹這になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのかい」 お延はすぐ肉匙の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けとおっしゃれば行くし、止せとおっしゃれば止すわ」「大変柔順だな」「いつでも柔順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もしいいとおっしゃったら連れて行ってやるから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって云うんですもの」「だってお前の方から岡本へ電話をかけたんじゃないか」「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一返断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一返その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」「岡本からそういう返事が来たのかい」「ええ」 しかしお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」「とうとう白状したな。じゃおいでよ」 二人はこういう会話と共に午飯を済ました。
四十五
手術後の夫を、やっと安静状態に寝かしておいて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間をだいぶ後らせていた。
彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口劇場の名を云ったなり、すぐ俥に乗った。
門前に待たせておいたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
小路を出た護謨輪は電車通りばかり走った。
何の意味なしに、ただ賑やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方が、お延に感染した。
ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体が浮つきながら早く揺くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。
それは自分の左右前後に紛として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
車上の彼女は宅の事を考える暇がなかった。
機嫌よく病院の二階へ寝かして来た津田の影像が、今日一日ぐらい安心して彼を忘れても差支えないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。
ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。
芝居その物に大した嗜好を始めからもっていない彼女は、時間が後れたのを気にするよりも、ただ早くそこに行き着くのを気にした。
こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟であると同様の意味で、そこへ行き着くのはさらに一層の刺戟であった。
俥は茶屋の前でとまった。
挨拶をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯だの暖簾だの、紅白の造り花などがちらちらした。
彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれらの色と形の影を、まだ片づける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍か錯綜した、また何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場内へ、ひょっこり顔を出した。
それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「こちらへ」と云った時、その隙間から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。
好んでこういう場所へ出入したがる彼女にとって、別に珍らしくもないこの感じは、彼女にとって、永久に新らしい感じであった。
だからまた永久に珍らしい感じであるとも云えた。
彼女は暗闇を通り抜けて、急に明海へ出た人のように眼を覚ました。
そうしてこの氛囲気の片隅に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作共ことごとくこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
席には岡本の姿が見えなかった。
細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。
それでも姉娘の継子は、お延の座があいにく自分の影になるのを気遣うように、後を向いて筋違に身体を延ばしながらお延に訊いた。
「見えて? 少しここと換ってあげましょうか」「ありがとう。ここでたくさん」 お延は首を振って見せた。
お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子は左利なので、左の手に軽い小さな象牙製の双眼鏡を持ったまま、その肱を、赤い布で裹んだ手摺の上に載せながら、後をふり返った。
「遅かったのね。あたし宅の方へいらっしゃるのかと思ってたのよ」 年の若い彼女は、まだ津田の病気について挨拶かたがたお延に何か云うほどの智慧をもたなかった。
「御用があったの?」「ええ」 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。
それは先刻から姉妹の母親が傍目もふらず熱心に見つめている方角であった。
彼女とお延は最初顔を見合せた時に、ちょっと黙礼を取り替わせただけで、拍子木の鳴るまでついに一言も口を利かなかった。
四十六
「よく来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻継と話してたの」 幕が引かれてから、始めてうち寛ろいだ様子を示した細君は、ようやくお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後を云い足した。
「あたしお母さまと賭をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違ないって受け合ったの」「そう。また御神籤を引いて」 継子は長さ二寸五分幅六分ぐらいの小さな神籤箱の所有者であった。
黒塗の上へ篆書の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙を平たく削った精巧の番号札が数通り百本納められていた。
彼女はよく「ちょっと見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝入を取り扱うような手つきで、短冊形の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合うようにできた文句入の折手本を繰りひろげて見た。
そうしてそこに書いてある蠅の頭ほどな細かい字を読むために、これも附属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重の裏をつけた更紗の袋から取り出して、もったいらしくその上へ翳したりした。
お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子にとって、処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けてくれる無邪気な装飾品であった。
彼女は時として帙入のままそれを机の上から取って帯の間に挟んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」 お延は調戯半分彼女に訊いて見たくなった。
彼女は苦笑しながら首を振った。
母が傍から彼女に代って返事をするごとくに云った。
「今日の予言はお神籤じゃないのよ。お神籤よりもっと偉い予言なの」「そう」 お延は後が聞きたそうにして、母子を見比べた。
「継はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被せるようにとめた。
「止してちょうだいよ、お母さま。そんな事ここで云っちゃ悪いわよ」 今まで黙って三人の会話を聴いていた妹娘の百合子が、くすくす笑い出した。
「あたし云ってあげてもいいわ」「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。いいわ、そんなら、もうピヤノを浚って上げないから」 母は隣りにいる人の注意を惹かないように、小さな声を出して笑った。
お延もおかしかった。
同時になお訳が訊きたかった。
「話してちょうだいよ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫よ」 百合子はわざと腮を前へ突き出すようにして姉を見た。
心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「いいわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」 こう云いながら立つと、継子は後の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」「怒ったんじゃないよ。きまりが悪いんだよ」「だってきまりの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」「だから話してちょうだいよ」 年歯の六つほど下な百合子の小供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨く利用しようと試みた。
けれども不意に座を立った姉の挙動が、もうすでにその状態を崩していたので、お延の慫慂は何の効目もなかった。
母はとうとうすべてに対する責任を一人で背負わなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日はきっと来るに違ないって云っただけなんだよ」「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母しく見えるの。ありがたいわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さん見たような人の所へお嫁に行くといいって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが恥ずかしいもんだから、ああやって出て行ったんだよ」「まあ」 お延は弱い感投詞をむしろ淋しそうに投げた。
四十七
手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。
自分の朝夕尽している親切は、ずいぶん精一杯なつもりでいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。
彼女はその疑念を晴らしてくれる唯一の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。
その細君は、遠くに離れている両親をもった彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」 これがお延のとうから叔母にぶつかって、質して見たい問であった。
不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。
見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈のできるこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制した。
ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻はいつでも夫の相手であり、またたまには夫の敵であるにしたところで、いったん世間に向ったが最後、どこまでも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結びつけられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。
だから打ち明け話をして、何か訴えたくてたまらない時でも、夫婦から見れば、やっぱり「世間」という他人の部類へ入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返してくれないのを、足りない自分の不行届からでも出たように、傍から解釈されてはならないと日頃から掛念していた。
すべての噂のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なして行けないのは、畢竟知恵がないからだ」 知恵と徳とをほとんど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。
女として男に対する腕をもっていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白するくらいの屈辱として、お延の自尊心を傷けたのである。
時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにしたところで、お延は黙っているよりほかに仕方がなかった。
意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外せた。
舞台一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目の少し切れた間から誰かが見物の方を覗いた。
気のせいかそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼をまたよそに移した。
下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。
坐ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩したりして、片時も休まなかった。
無数の黒い頭が渦のように見えた。
彼らの或者の派出な扮装が、色彩の運動から来る落ちつかない快感を、乱雑にちらちらさせた。
土間から眼を放したお延は、ついに谷を隔てた向う側を吟味し始めた。
するとちょうどその時後をふり向いた百合子が不意に云った。
「あすこに吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当へつけて、そこに容易く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、いつ見つけたの」「見つけやしないのよ。先刻から知ってるのよ」「叔母さんや継子さんも知ってるの」「ええ皆な知ってるのよ」 知らないのは自分だけだったのにようやく気のついたお延が、なおその方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭だわ。あんなにして見られちゃ」 お延は隠れるように身を縮めた。
それでも向側の双眼鏡は、なかなかお延の見当から離れなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しちまうだけだから」 お延はすぐ継子の後を追かけて廊下へ出た。
四十八
そこから見渡した外部の光景も場所柄だけに賑わっていた。
裏へ貫を打って取り除しのできるように拵らえた透しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。
廊下の端に立って、半ば柱に身を靠たせたお延が、継子の姿を見出すまでには多少の時間がかかった。
それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。
そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指す人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」 後から覗き込むようにして訊いたお延の顔と、驚ろいてふり返った継子の顔とが、ほとんど擦れ擦れになって、微笑み合った。
「今困ってるところなのよ。一さんが何かお土産を買ってくれって云うから、見ているんだけれども、あいにく何にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」 疳違いをして、男の子の玩具を買おうとした継子は、それからそれへといろいろなものを並べられて、買うには買われず、止すには止されず、弱っているところであった。
役者に縁故のある紋などを着けた花簪だの、紙入だの、手拭だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたらよかろうという訴えの眼をお延に向けた。
お延はすぐ口を利いてやった。
「駄目よ、あの子は、拳銃とか木剣とか、人殺しのできそうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんな粋な所にあろうはずがないわ」 売店の男は笑い出した。
お延はそれを機に年下の女の手を取った。
「とにかく叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃいずれまた後ほど」 こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端まで引張るようにして連れて来た。
そこでとまった二人は、また一本の軒柱を盾に立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日はなぜいらっしゃらないの」「来るのよ、今に」 お延は意外に思った。
四人でさえ窮屈なところへ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一事件であった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたし見たいに薄っぺらなものは、圧されてへしゃげちまうわ」「百合子さんと入れ代るのよ」「どうして」「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんはいてもいなくっても構わないんだから」「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしといっしょに来たらどうするの」「その時はその時で、またどうかするつもりなんでしょう。もう一間取るとか、それでなければ、吉川さんの方といっしょになるとか」「吉川さんとも前から約束があったの?」「ええ」 継子はその後を云わなかった。
岡本と吉川の家庭がそれほど接近しているとも考えていなかったお延は、そこに何か意味があるのではないかと、ちょっと不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起りがちな、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女はついに何にも訊かなかった。
二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。
お延はわざと手真似までして見せた。
「こうやって真ともに向けるんだから、敵わないわね」「ずいぶん無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそうおっしゃってよ」「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああやってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」「見て御覧なさい、きっと嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」 二人が声を出して笑い合っている傍に、どこからか来た一人の若い男がちょっと立ちどまった。
無地の羽織に友縫の紋を付けて、セルの行灯袴を穿いたその青年紳士は、彼らと顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶でもして通り過ぎるように、鄭重な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。
継子は赧くなった。
「もう這入りましょうよ」 彼女はすぐお延を促がして内へ入った。
四十九
場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。
土間を歩く男女の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。
できるだけ多くの注意を惹こうとする浮誇の活動さえ至る所に出現した。
そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。
眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうしていつでも粉飾であった。
比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。
合間合間には幕の後で拍子木を打つ音が、攪き廻された注意を一点に纏めようとする警柝の如に聞こえた。
不思議なのは観客であった。
何もする事のないこの長い幕間を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛なく時間のために流されていた。
彼らは穏和かであった。
彼らは楽しそうに見えた。
お互の吐く呼息に酔っ払った彼らは、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。
そうしてすぐそこに陶然たる或物を認めた。
すぐ相手の気分に同化する事ができた。
席に戻った二人は愉快らしく四辺を見廻した。
それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。
婦人の双眼鏡はもう彼らを覘っていなかった。
その代り双眼鏡の主人もどこかへ行ってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」「本当ね」「あたし探してあげましょうか」 百合子はすぐ自分の手に持ったこっちのオペラグラスを眼へ宛てがった。
「いない、いない、どこかへ行っちまった。あの奥さんなら二人前ぐらい肥ってるんだから、すぐ分るはずだけれども、やっぱりいないわよ」 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。
綺麗な友染模様の背中が隠れるほど、帯を高く背負った令嬢としては、言葉が少しもよそゆきでないので、姉はおかしさを堪えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘なめた。
「百合子さん」 妹は少しも応えなかった。
例の通りちょっと小鼻を膨らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」「帰りたければお帰りよ。お父さまがいらっしゃらなくっても構わないから」「でもいるわ」 百合子はやはり動かなかった。
子供でなくってはふるまいにくいこの腕白らしい態度の傍に、お延が年相応の分別を出して叔母に向った。
「あたしちょっと行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。澄ましていちゃ悪いわね」 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。
向うでもこっちを嫌っているように思えた。
しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気な理由さえあった。
自分が嫌われるべき何らのきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。
先刻双眼鏡を向けられた時、すでに挨拶に行かなければならないと気のついた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行ってくれはしまいかと暗に願っていた。
叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方がいいよ。行っといでよ」「でも今いらっしゃらないから」「なにきっと廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」「でも、――じゃ行くから叔母さんもいっしょにいらっしゃいな」「叔母さんは――」「いらっしゃらない?」「行ってもいいがね。どうせ今に御飯を食べる時に、いっしょになるはずになってるんだから、御免蒙ってその時にしようかと思ってるのよ」「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰がいっしょに御飯を召上がるの」「みんなよ」「あたしも?」「ああ」 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」
五十
岡本の来たのはそれから間もなくであった。
茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、おいでおいでをして百合子を廊下へ呼び出した。
そこで二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。
そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。
こんな場所ではちょっと身体の位置を変るのさえ臆劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってからふと気のついたように、半分ばかり背後を向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」 一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺へ遠慮して動かなかった。
毛織ものを肌へ着けた例のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもおつき合だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。
そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。
荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄を穿いているので、歩くたびにちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。
彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからそのついでに観客の方へ眼を移した。
然るに観客の顔はことごとく緊張していた。
雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。
急に表から入って来た彼にとって、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、また馬鹿らしかったのか、しばらくすると彼はまた窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」 簡単な質問を次から次へと三つ四つかけて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をしてさらに訊いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。おおかたぐずぐず云ったんだろう。おれが病気で寝ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万だとか何とか。え? きっとそうだろう」「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だぐらい云われたに違あるまい。電話の様子がどうも変だったぜ」 小声でさえ話をするものが周囲に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのはきまりが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をしてやるから、そんな事は心配しないでもいいよ」「あたし心配なんかしちゃいないわ」「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」 お延は煩さそうに眉を動かした。
面白半分調戯って見た岡本は少し真面目になった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気のところを無理に来て貰ったような訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話しておけば何でもない事さ。叔父さんがよく話しておくよ」 お延の眼は急に舞台を離れた。
「理由っていったい何」「今ここじゃ話し悪いがね。いずれ後で話すよ」 お延は黙るよりほかに仕方なかった。
岡本はつけ足すように云った。
「今日は吉川さんといっしょに食堂で晩食を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川もあすこへ来ているだろう」 先刻まで眼につかなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんといっしょに来たんだよ。倶楽部から」 二人の会話はそこで途切れた。
お延はまた真面目に舞台の方を見出した。
しかし十分経つか経たないうちに、彼女の注意がまたそっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。
男は叔母に何か耳語いた。
叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させておきましたから、この次の幕間にどうぞ食堂へおいで下さいますようにって」 叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」 男はまた戸をそっと閉てて出て行った。
これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。
五十一
彼女が叔父叔母の後に随いて、継子といっしょに、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。
彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹に小声で訊いて見た。
「いったいこれから何が始まるの」「知らないわ」 継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」「そうなんでしょう」 訊こうとすれば訊こうとするほど、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。
継子は前に行く父母に遠慮があるのかも知れなかった。
また自分は何にも承知していないのかも分らなかった。
あるいは承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
鋭い一瞥の注意を彼らの上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。
忽然お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。
姿恰好は継子に立ち優っていても、服装や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、いつまでも子供らしく羞恥んでいるような、またどこまでも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。
そこにはたとい気の毒だという侮蔑の意が全く打ち消されていないにしたところで、ちょっと彼我の地位を易えて立って見たいぐらいな羨望の念が、著るしく働らいていた。
お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事ができなかった。
平生継子を標準におかないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑やかな電灯で明るく照らされた廊下の上に立って、またかつて感じた事のない一種の哀愁に打たれた。
それは軽いものであった。
しかし涙に変化しやすい性質のものであった。
そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。
彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨やましがるほど純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、けっしてこっちの思う通りに感謝してくれるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛くあたるかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気にもっているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたのもっているような天然そのままの器が完全に具わっておりませんでしたから、それほどの損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下を離れると共に、すぐ天真の姿を傷けられます。あなたは私よりも可哀相です」 二人の歩き方は遅かった。
先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くおいでなね。何をぐずぐずしているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待っていらっしゃるんだよ」 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。
言葉もとくに彼女に向ってかけられた。
けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。
彼女は自分のあまり好いていない、また向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。
彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の妻君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。
平静のうちに一種の緊張を包んで彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。
五十二
叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談をしていた。
大きな叔父の後姿よりも、向う側に食み出している大々した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。
それと同時に、肉づきの豊かな頬に笑いを漲らしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。
しかし咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、ついに互を認め合わなかった。
夫人に投げかけた一瞥についで、お延はまたその傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。
それが間違もなく、先刻廊下で継子といっしょになって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。
紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、また継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延はついに