明暗

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その一人は事実彼の妹婿にほかならなかった。この暗い室の中で突然彼の姿を認めた時、津田は吃驚した。そんな事に対して比較的無頓着な相手も、津田の驚ろき方が反響したために、ちょっと挨拶に窮したらしかった。

第 2 章
他ほかの一人ひとりは友達ともだちであった。
これは津田つだが自分じぶんと同性どうせい質しつの病気びょうきに罹っかかっているものと思い込んおもいこんで、向うむこうから平気へいきに声こえをかけた。
彼かれらはその時じ二人ふたりいっしょに医者いしゃの門もんを出でて、晩飯ばんめしを食いくいながら、性せいと愛あいという問題もんだいについてむずかしい議論ぎろんをした。
妹婿いもうとむこの事ことは一時いちじの驚ろきおどろきだけで、大したたいした影響えいきょうもなく済んすんだが、それぎりで後あとのなさそうに思えおもえた友達ともだちと彼かれとの間まには、その後あと異常いじょうな結果けっかが生れうまれた。
その時じの友達ともだちの言葉ことばと今いまの友達ともだちの境遇きょうぐうとを連結れんけつして考えかんがえなければならなかった津田つだは、突然とつぜん衝撃しょうげきを受けうけた人ひとのように、眼めを開いひらいて額がくから手てを放しはなした。
すると診察しんさつ所ところから紺こんセルせるの洋服ようふくを着きた三十さんじゅう恰好かっこの男おとこが出でて来きて、すぐ薬局やっきょくの窓まどの所ところへ行っいった。
彼かれが隠いん袋ふくろから紙入かみいれを出しだして金きんを払おうはらおうとする途端とたんに、看護婦かんごふが敷居しきいの上うえに立ったった。
彼女かのじょと見知りみしり越こしの津田つだは、次つぎの患者かんじゃの名なを呼んよんで再びふたたび診察しんさつ所ところの方ほうへ引き返そうひきかえそうとする彼女かのじょを呼びよび留めとめた。
「順番じゅんばんを待っまっているのが面倒めんどうだからちょっと先生せんせいに訊いきいて下さいください。明日あすか明後日みょうごにち手術しゅじゅつを受けうけに来きて好いよいかって」 奥おくへ入っはいった看護婦かんごふはすぐまた白いしろい姿すがたを暗いくらい室むろの戸口とぐちに現わしあらわした。
「今いまちょうど二に階かいが空いむなしいておりますから、いつでも御都合ごつごうの宜しいよろしい時じにどうぞ」 津田つだは逃れるのがれるように暗いくらい室むろを出でた。
彼かれが急いいそいで靴くつを穿いはいて、擦硝子がらす張ちょうの大きなおおきな扉とびらを内側うちがわへ引いひいた時じ、今までいままで真暗まっくらに見えみえた控室ひかえしつにぱっと電灯でんとうが点いついた。
十八じゅうはち
津田つだの宅たくへ帰っかえったのは、昨日きのうよりはやや早目はやめであったけれども、近頃ちかごろ急きゅうに短かくみじかくなった秋あきの日脚ひあしは疾くとくに傾いかたむいて、先刻せんこくまで往来おうらいにだけ残っのこっていた肌寒はださむの余光よこうが、一度いちどに地上ちじょうから払い去らはらいさられるように消えきえて行くいく頃ころであった。
彼かれの二に階かいには無論むろん火ひが点いついていなかった。
玄関げんかんも真暗まっくらであった。
今角こんかくの車屋くるまやの軒灯けんとうを明らかあきらかに眺めながめて来きたばかりの彼かれの眼めは少しすこし失望しつぼうを感じかんじた。
彼かれはがらりと格子こうしを開けあけた。
それでもお延のべは出でて来きなかった。
昨日きのうの今頃いまごろ待ち伏せまちぶせでもするようにして彼女かのじょから毒気どくけを抜かぬかれた時じは、余りあまり好いよい心持こころもちもしなかったが、こうして迎えるむかえる人ひともない真暗まっくらな玄関げんかんに立たさたたされて見るみると、やっぱり昨日きのうの方ほうが愉快ゆかいだったという気きが彼かれの胸むねのどこかでした。
彼かれは立ちたちながら、「お延のべお延のべ」と呼んよんだ。
すると思いがけおもいがけない二に階かいの方ほうで「はい」という返事へんじがした。
それから階子段はしごだんを踏んふんで降りふりて来るくる彼女かのじょの足音あしおとが聞こえきこえた。
同時どうじに下女げじょが勝手かっての方ほうから馳はせけ出しけだして来きた。
「何なんをしているんだ」 津田つだの言葉ことばには多少たしょう不満ふまんの響きひびきがあった。
お延のべは何になんにも云わいわなかった。
しかしその顔かおを見上げみあげた時じ、彼かれはいつもの通りとおり無言むごんの裡りに自分じぶんを牽きひきつけようとする彼女かのじょの微笑びしょうを認めみとめない訳わけに行かいかなかった。
白いしろい歯はが何なんより先さきに彼かれの視線しせんを奪っうばった。
「二に階かいは真暗まっくらじゃないか」「ええ。何なんだかぼんやりして考えかんがえていたもんだから、つい御ご帰りかえりに気きがつかなかったの」「寝ねていたな」「まさか」 下女げじょが大きなおおきな声こえを出しだして笑いわらい出しだしたので、二人ふたりの会話かいわはそれぎり切れきれてしまった。
湯ゆに行くいく時じ、お延のべは「ちょっと待っまって」と云いいいながら、石鹸せっけんと手拭てぬぐいを例れいの通りとおり彼女かのじょの手てから受け取っうけとって火鉢ひばちの傍そばを離れようはなれようとする夫おっとを引きとめひきとめた。
彼女かのじょは後ろうしろ向むかいになって、重ねかさね箪笥たんすの一いち番ばん下したの抽斗ひきだしから、ネルねるを重ねかさねた銘仙めいせんの褞袍を出しだして夫おっとの前まえへ置いおいた。
「ちょっと着きてみてちょうだい。まだ圧あつが好くよく利いきいていないかも知れしれないけども」 津田つだは煙けむりに巻かまきかれたような顔かおをして、黒くろ八丈はちじょうの襟えりのかかった荒いあらい竪縞たてじまの褞袍を見み守まもるもった。
それは自分じぶんの買っかった品しなでもなければ、拵えこしらえてくれと誂えあつらえた物ものでもなかった。
「どうしたんだい。これは」「拵えこしらえたのよ。あなたが病院びょういんへ入るはいる時じの用心ようじんに。ああいう所ところで、あんまり変へんな服装ふくそうをしているのは見っともないみっともないから」「いつの間まに拵えこしらえたのかね」 彼かれが手術しゅじゅつのため一いち週間しゅうかんばかり家いえを空けあけなければならないと云っいって、その訳わけをお延のべに話しはなしたのは、つい二三にさん日ひ前まえの事ことであった。
その上うえ彼かれはその日ひから今日きょうに至るいたるまで、ついぞ針はりを持っもって裁物たちもの板いたの前まえに坐っすわった細君さいくんの姿すがたを見みた事ことがなかった。
彼かれは不思議ふしぎの感かんに打たうたれざるを得とくなかった。
お延のべはまた夫おっとのこの驚きおどろきをあたかも自分じぶんの労力ろうりょくに対するたいする報酬ほうしゅうのごとくに眺めながめた。
そうしてわざと説明せつめいも何なんも加えくわえなかった。
「布ぬのは買っかったのかい」「いいえ、これあたしの御古おふるよ。この冬着ふゆぎようと思っおもって、洗張あらいはりをしたまま仕立てしたてずにしまっといたの」 なるほど若いわかい女おんなの着るきる柄がらだけに、縞しまがただ荒いあらいばかりでなく、色合いろあいもどっちかというとむしろ派出はしゅつ過ぎすぎた。
津田つだは袖そでを通しとおしたわが姿すがたを、奴凧やっこだこのような風かぜをして、少しすこしきまり悪きまりわるそうに眺めながめた後あとでお延のべに云っいった。
「とうとう明日あすか明後日みょうごにちやって貰うもらう事ことにきめて来きたよ」「そう。それであたしはどうなるの」「御前ごぜんはどうもしやしないさ」「いっしょに随いしたがいて行っいっちゃいけないの。病院びょういんへ」 お延のべは金きんの事ことなどをまるで苦くにしていないらしく見えみえた。
十九じゅうきゅう
津田つだの明るあかる朝あさ眼めを覚ましさましたのはいつもよりずっと遅かっおそかった。
家いえの内うちはもう一いち片かた付ふかたづいた後あとのようにひっそり閑ひっそりかんとしていた。
座敷ざしきから玄関げんかんを通っとおって茶の間ちゃのまの障子しょうじを開けあけた彼かれは、そこの火鉢ひばちの傍そばにきちんと坐っすわって新聞しんぶんを手てにしている細君さいくんを見みた。
穏やかおだやかな家庭かていを代表だいひょうするような音おとを立てたてて鉄瓶てつびんが鳴っなっていた。
「気きを許しゆるして寝るねると、寝坊ねぼうをするつもりはなくっても、つい寝過ごすねすごすもんだな」 彼かれは云い訳いいわけらしい事ことをいって、暦こよみの上うえにかけてある時計とけいを眺めながめた。
時計とけいの針はりはもう十じゅう時じ近くちかくの所ところを指しさしていた。
顔かおを洗っあらってまた茶の間ちゃのまへ戻っもどった時じ、彼かれは何気なんげなく例れいの黒塗くろぬりの膳ぜんに向っむかった。
その膳ぜんは彼かれの着席ちゃくせきを待ち受けまちうけたというよりも、むしろ待ち草臥れまちくたびれたといった方ほうが適当てきとうであった。
彼かれは膳ぜんの上うえに掛けかけてある布巾ふきんを除じょろうとしてふと気きがついた。
「こりゃいけない」 彼かれは手術しゅじゅつを受けるうける前日ぜんじつに取るとるべき注意ちゅういを、かつて医者いしゃから聞かさきかされた事ことを思い出しおもいだした。
しかし今いまの彼かれはそれを明らかあきらかに覚えおぼえていなかった。
彼かれは突然とつぜん細君さいくんに云っいった。
「ちょっと訊いきいてくる」「今いますぐ?」 お延のべは吃驚びっくりして夫おっとの顔かおを見みた。
「なに電話でんわでだよ。訳わけゃない」 彼かれは静かしずかな茶の間ちゃのまの空気くうきを自分じぶんで蹴散らすけちらす人ひとのように立ち上るたちのぼると、すぐ玄関げんかんから表ひょうへ出でた。
そうして電車でんしゃ通りとおりを半丁はんちょうほど右みぎへ行っいった所ところにある自動じどう電話でんわへ馳けつけかけつけた。
そこからまた急ぎ足いそぎあしに取っとって返しかえした彼かれは玄関げんかんに立ったったまま細君さいくんを呼んよんだ。
「ちょっと二に階かいにある紙入かみいれを取っとってくれ。御前ごぜんの蟇口がまぐちでも好いよい」「何なんになさるの」 お延のべには夫おっとの意味いみがまるで解らわからなかった。
「何なんでもいいから早くはやく出しだしてくれ」 彼かれはお延のべから受取っうけとった蟇口がまぐちを懐中かいちゅうへ放り込んほうりこんだまま、すぐ大通りおおどおりの方ほうへ引き返しひきかえした。
そうして電車でんしゃに乗っのった。
彼かれがかなり大きなおおきな紙包かみづつみを抱えかかえてまた戻っもどって来きたのは、それから約やく三四十さんよんじゅう分ぶん後あとで、もう午うまに間まもない頃ころであった。
「あの蟇口がまぐちの中なかにゃ少しすこしっきゃ入っはいっていないんだね。もう少しすこしあるのかと思っおもったら」 津田つだはそう云いいいながら腋わきに抱えかかえた包みつつみを茶の間ちゃのまの畳たたみの上うえへ放り出しほうりだした。
「足りたりなくって?」 お延のべは細かいこまかい事ことにまで気きを遣わつかわないではいられないという眼つきめつきを夫おっとの上うえに向けむけた。
「いや足りたりないというほどでもないがね」「だけど何なんをお買いかいになるかあたしちっとも解らわからないんですもの。もしかすると髪結床かみゆいゆかかと思っおもったけれども」 津田つだは二にカ月かげつ以上いじょう手てを入れいれない自分じぶんの頭あたまに気きがついた。
永くながく髪かみを刈らからないと、心こころ持番もちばんの小さいちいさい彼かれの帽子ぼうしが、被るかぶるたんびに少しすこしずつきしんで来るくるようだという、つい昨日きのうの朝あさ受けうけた新らしいあたらしい感じかんじまで思い出しおもいだした。
「それにあんまり急いいそいでいらっしったもんだから、つい二に階かいまで取りとりに行けいけなかったのよ」「実じつはおれの紙入かみいれの中なかにも、そうたくさん入っはいってる訳わけじゃないんだから、まあどっちにしたって大したたいした変りかわりはないんだがね」 彼かれは蟇口がまぐちの悪口わるぐちばかり云えいえた義理ぎりでもなかった。
お延のべは手早くてばやく包紙つつみがみを解いといて、中なかから紅茶こうちゃの缶かんと、麺めん麭と牛酪ぎゅうらくを取り出しとりだした。
「おやおやこれ召しゃめしゃがるの。そんなら時じを取りとりにおやりになればいいのに」「なにあいつじゃ分らわからない。何なんを買っかって来るくるか知れしれやしない」 やがて好いよい香こうのするトーストとーすとと濃いこいけむりを立てるたてるウーロンうーろん茶ちゃとがお延のべの手てで用意よういされた。
朝飯あさめしとも午飯ごはんとも片かたのつかない、極めてきわめて単純たんじゅんな西洋せいよう流りゅうの食事しょくじを済ましすました後あとで、津田つだは独りごとひとりごとのように云っいった。
「今日きょうは病気びょうきの報知ほうちかたがた無沙汰むさた見舞みまいに、ちょっと朝あさの内うち藤井ふじいの叔父おじの所ところまで行っいって来ようこようと思っおもってたのに、とうとう遅くおそくなっちまった」 彼かれの意味いみは仕方しかたがないから午後ごごにこの訪問ほうもんの義務ぎむを果そうはたそうというのであった。
二十にじゅう
藤井ふじいというのは津田つだの父ちちの弟おとうとであった。
広島ひろしまに三さん年ねん長崎ながさきに二に年ねんという風かぜに、方々かたがた移り歩かうつりあるかなければならない官吏かんり生活せいかつを余儀よぎなくされた彼かれの父ちちは、教育きょういく上津田かみつでんを連れつれて任地にんち任地にんちを巡礼じゅんれいのように経めぐるへめぐる不便ふべんと不利益ふりえきとに痛くいたく頭あたまを悩ましなやましたあげく、早くはやくから彼かれをその弟おとうとに託したくして、いっさいの面倒めんどうを見みて貰うもらう事ことにした。
だから津田つだは手てもなくこの叔父おじに育て上げそだてあげられたようなものであった。
したがって二人ふたりの関係かんけいは普通ふつうの叔父おじ甥おいの域いきを通り越しとおりこしていた。
性質せいしつや職業しょくぎょうの差違さいを問題もんだいのほかに置いおいて評するひょうすると、彼かれらは叔父おじ甥おいというよりもむしろ親子おやこであった。
もし第だい二にの親子おやこという言葉ことばが使えるつかえるなら、それは最ももっとも適切てきせつにこの二人ふたりの間柄あいだがらを説明せつめいするものであった。
津田つだの父ちちと違っちがってこの叔父おじはついぞ東京とうきょうを離れはなれた事ことがなかった。
半生はんせいの間ま始終しじゅう動きうごき勝かちであった父ちちに比べるくらべると、単にたんにこの点てんだけでもそこに非常ひじょうな相違そういがあった。
少なくすくなくとも非常ひじょうな相違そういがあるように津田つだの眼めには映じえいじた。
「緩慢かんまんなる人世じんせいの旅行者りょこうしゃ」 叔父おじがかつて津田つだの父ちちを評しひょうした言葉ことばのうちにこういう文句もんくがあった。
それを何気なんげなく小耳こみみに挟んはさんだ津田つだは、すぐ自分じぶんの父ちちをそういう人ひとだと思い込んおもいこんでしまった。
そうして今日きょうまでその言葉ことばを忘れわすれなかった。
しかし叔父おじの使っつかった文句もんくの意味いみは、頭あたまの発達はったつしない当時とうじよく解らわからなかったと同じおなじように、今いまになっても判然はんぜんしなかった。
ただ彼かれは父ちちの顔かおを見るみるたんびにそれを思い出しおもいだした。
肉にくの少ないすくない細面ほそおもての腮の下したに、売卜ばいぼく者もの見みたような疎まばら髯ひげを垂らしたらしたその姿すがたと、叔父おじのこの言葉ことばとは、彼かれにとってほとんど同じおなじものを意味いみしていた。
彼かれの父ちちは今いまから十じゅう年ねんばかり前まえに、突然とつぜん遍路へんろに倦みあぐみ果てはてた人ひとのように官界かんかいを退いしりぞいた。
そうして実業じつぎょうに従事じゅうじし出しだした。
彼かれは最後さいごの八はち年ねんを神戸こうべで費やしついやした後あと、その間まに買っかっておいた京都きょうとの地面じめんへ、新らしいあたらしい普請ふしんをして、二に年ねん前まえにとうとうそこへ引き移っひきうつった。
津田つだの知らしらない間まに、この閑静かんせいな古いふるい都とが、彼かれの父ちちにとって隠栖いんせいの場所ばしょと定めさだめられると共ともに、終焉しゅうえんの土地とちとも変化へんかしたのである。
その時じ叔父おじは鼻はなの頭あたまへ皺しわを寄せるよせるようにして津田つだに云っいった。
「兄貴あにきはそれでも少しすこし金きんが溜ったまったと見えるみえるな。あの風船ふうせん玉たまが、じっと落ちつけるおちつけるようになったのは、全くまったく金きんの重みおもみのために違いない」 しかし金きんの重みおもみのいつまで経っきょうってもかからない彼かれ自身じしんは、最初さいしょから動かうごかなかった。
彼かれは始終しじゅう東京とうきょうにいて始終しじゅう貧乏びんぼうしていた。
彼かれはいまだかつて月給げっきゅうというものを貰っもらった覚さとしのない男おとこであった。
月給げっきゅうが嫌いきらいというよりも、むしろくれ手くれてがなかったほどわがままだったという方ほうが適当てきとうかも知れしれなかった。
規則きそくずくめな事ことに何なんでも反対はんたいしたがった彼かれは、年ねんを取っとってその考かんがえが少しすこし変っかわって来きた後あとでも、やはり以前いぜんの強情ごうじょを押し通しおしとおしていた。
これは今さらいまさら自分じぶんの主義しゅぎを改めあらためたところで、ただ人ひとに軽蔑けいべつされるだけで、いっこう得とくにはならないという事ことをよく承知しょうちしているからでもあった。
実際じっさいの世の中よのなかに立ったって、端的たんてきな事実じじつと組み打ちくみうちをして働はたらけらいた経験けいけんのないこの叔父おじは、一面いちめんにおいて当然とうぜん迂濶うかつな人生じんせい批評家ひひょうかでなければならないと同時どうじに、一面いちめんにおいてははなはだ鋭利えいりな観察かんさつ者ものであった。
そうしてその鋭利えいりな点てんはことごとく彼かれの迂濶うかつな所ところから生み出さうみだされていた。
言葉ことばを換えかえていうと、彼かれは迂濶うかつの御蔭みかげで奇警きけいな事ことを云っいったり為ためたりした。
彼かれの知識ちしきは豊富ほうふな代りかわりに雑駁ざっぱくであった。
したがって彼かれは多くおおくの問題もんだいに口くちを出しだしたがった。
けれどもいつまで行っいっても傍観者ぼうかんしゃの態度たいどを離れるはなれる事ことができなかった。
それは彼かれの位地いちが彼かれを余儀よぎなくするばかりでなく、彼かれの性質せいしつが彼かれをそこに抑えつけおさえつけておくせいでもあった。
彼かれは或ある頭あたまをもっていた。
けれども彼かれには手てがなかった。
もしくは手てがあっても、それを使おうつかおうとしなかった。
彼かれは始終しじゅう懐手ふところでをしていたがった。
一種いっしゅの勉強家べんきょうかであると共ともに一種いっしゅの不精ぶしょう者ものに生れうまれついた彼かれは、ついに活字かつじで飯めしを食わくわなければならない運命うんめいの所有者しょゆうしゃに過ぎすぎなかった。
二十一にじゅういち
こういう人ひとにありがちな場末ばすえ生活せいかつを、藤井ふじいは市しの西北にしきたにあたる高台たかだいの片隅かたすみで、この六七ろくなな年ねん続けつづけて来きたのである。
ついこの間ままで郊外こうがいに等しかっひとしかったその高台たかだいのここかしこに年々ねんねん建て増さたてまされる大小だいしょうの家いえが、年々ねんねん彼かれの眼めから蒼いあおい色いろを奪っうばって行くいくように感ぜかんぜられる時じ、彼かれは洋よう筆ふでを走らすはしらす手てを止めとめて、よく自分じぶんの兄あにの身の上みのうえを考えかんがえた。
折々おりおりは兄あにから金きんでも借りかりて、自分じぶんも一いちつ住宅じゅうたくを拵えこしらえて見ようみようかしらという気きを起しおこした。
その金きんを兄あにはとても貸しかしてくれそうもなかった。
自分じぶんもいざとなると貸しかして貰うもらう性分しょうぶんではなかった。
「緩慢かんまんなる人生じんせいの旅行者りょこうしゃ」と兄あにを評しひょうした彼かれは、実じつを云ういうと、物質的ぶっしつてきに不安ふあんなる人生じんせいの旅行者りょこうしゃであった。
そうして多数たすうの人ひとの場合ばあいにおいて常つねに見出さみだしされるごとく、物質ぶっしつ上うえの不安ふあんは、彼かれにとってある程度ていどの精神的せいしんてき不安ふあんに過ぎすぎなかった。
津田つだの宅たくからこの叔父おじの所ところへ行くいくには、半分はんぶん道みちほど川沿かわそいの電車でんしゃを利用りようする便利べんりがあった。
けれどもみんな歩いあるいたところで、一いち時間じかんとかからない近距離きんきょりなので、たまさかの散歩さんぽがてらには、かえってやかましい交通機関こうつうきかんの援えんに依らよらない方ほうが、彼かれの勝手かってであった。
一時いちじ少しすこし前まえに宅たくを出でた津田つだは、ぶらぶら河縁かわえんを伝っつたって終点しゅうてんの方ほうに近づいちかづいた。
空そらは高かったかかった。
日ひの光ひかりが至る所いたるところに充ちみちていた。
向うむこうの高みたかみを蔽っおおっている深いぶかい木立こだちの色いろが、浮き出しうきだしたように、くっきり見えみえた。
彼かれは道々みちみち今朝けさ買いかい忘れわすれたリチネの事ことを思い出しおもいだした。
それを今日きょうの午後ごご四よん時じ頃ころに呑めのめと医者いしゃから命令めいれいされた彼かれには、ちょっと薬種やくしゅ屋やへ寄っよってこの下剤げざいを手てに入れいれておく必要ひつようがあった。
彼かれはいつもの通りとおり終点しゅうてんを右みぎへ折れおれて橋はしを渡らわたらずに、それとは反対はんたいな賑やかにぎやかな町まちの方ほうへ歩いあるいて行こういこうとした。
すると新らしくあたらしく線路せんろを延長えんちょうする計劃けいでもあると見えみえて、彼かれの通路つうろに当るあたる往来おうらいの一部分いちぶぶんが、最ももっとも無遠慮むえんりょな形式けいしきで筋違すじかいに切断せつだんされていた。
彼かれは残酷ざんこくに在来ざいらいの家屋かおくを掻きかき※って、無理むりにそれを取り払っとりはらったような凸凹でこぼこだらけの新しん道路どうろの角かくに立ったって、その片隅かたすみに塊まっかたまっている一群いちぐんの人々ひとびとを見みた。
群集ぐんしゅうはまばらではあるが三さん列れつもしくは五ご列れつくらいの厚あつしさで、真中まなかにいる彼かれとほぼ同年輩どうねんぱいぐらいな男おとこの周囲しゅういに半はん円形えんけいをかたちづくっていた。
小肥りこぶとりにふとったその男おとこは双子ふたご木綿もめんの羽織はおり着物きものに角帯かくおびを締めしめて俎まないた下駄げたを穿いはいていたが、頭あたまには笠かさも帽子ぼうしも被っかぶっていなかった。
彼かれの後あとに取り残さとりのこされた一いち本ほんの柳やなぎを盾たてに、彼かれは綿めんフラネルふらねるの裏うらの付いついた大きなおおきな袋ふくろを両手りょうてで持ちもちながら、見物人けんぶつにんを見廻しみまわした。
「諸君しょくん僕ぼくがこの袋ふくろの中なかから玉子たまごを出すだす。この空そらっぽうの袋ふくろの中なかからきっと出しだして見せるみせる。驚ろいおどろいちゃいけない、種しゅは懐中かいちゅうにあるんだから」 彼かれはこの種しゅの人間にんげんとしてはむしろ不相応ふそうおうなくらい横風おうふうな言葉ことばでこんな事ことを云っいった。
それから片手かたてを胸むねの所ところで握っにぎって見せみせて、その握っにぎった拳こぶしをまたぱっと袋ふくろの方ほうへぶつけるように開いひらいた。
「そら玉子たまごを袋ふくろの中なかへ投げ込んなげこんだぞ」と騙さだまさないばかりに。
しかし彼かれは騙しだましたのではなかった。
彼かれが手てを袋ふくろの中なかへ入れいれた時じは、もう玉子たまごがちゃんとその中なかに入っはいっていた。
彼かれはそれを親指おやゆびと人さし指ひとさしゆびの間まに挟んはさんで、一応いちおう半はん円形えんけいをかたちづくっている見物けんぶつにとっくり眺めながめさした後あとで地面じめんの上うえに置いおいた。
津田つだは軽蔑けいべつに嘆賞たんしょうを交えまじえたような顔かおをして、ちょっと首くびを傾けかたむけた。
すると突然とつぜん後あとから彼かれの腰こしのあたりを突っつくつっつくもののあるのに気きがついた。
軽いかるい衝撃しょうげきを受けうけた彼かれはほとんど反射はんしゃ作用さようのように後あとをふり向いふりむいた。
そうしてそこにさも悪戯いたずら小僧こぞうらしく笑いわらいながら立ったっている叔父おじの子こを見出しみだした。
徽章きしょうの着いついた制帽せいぼうと、半はん洋よう袴はかまと、背中せなかにしょった背嚢はいのうとが、その子この来きた方角ほうがくを彼かれに語るかたるには充分じゅうぶんであった。
「今いま学校がっこうの帰りかえりか」「うん」 子供こどもは「はい」とも「ええ」とも云わいわなかった。
二十二にじゅうに
「お父さんおちちさんはどうした」「知らしらない」「相そう変らかわらずかね」「どうだか知らしらない」 自分じぶんが十じゅうぐらいであった時じの心理状態しんりじょうたいをまるで忘れわすれてしまった津田つだには、この返事へんじが少しすこし意外いがいに思えおもえた。
苦笑くしょうした彼かれは、そこへ気きがつくと共ともに黙っだまった。
子供こどもはまた一生懸命いっしょうけんめいに手品てじな遣いつかいの方ほうばかり注意ちゅういしだした。
服装ふくそうから云ういうと一夜いちや作りつくりとも見みられるその男おとこはこの時精じせい一杯いちばい大きなおおきな声こえを張りあげはりあげた。
「諸君しょくんもう一いちつ出すだすから見みていたまえ」 彼かれは例れいの袋ふくろを片手かたてでぐっと締しめ扱いあつかいて、再びふたたび何なんか投げ込むなげこむ真似まねを小器用しょうきようにした後あと、麗々れいれいと第だい二にの玉子たまごを袋ふくろの底そこから取り出しとりだした。
それでも飽き足らあきたらないと見えみえて、今度こんどは袋ふくろを裏返しうらがえしにして、薄うす汚ないきたない棉わたフラネルふらねるの縞柄しまがらを遠慮えんりょなく群衆ぐんしゅうの前まえに示ししめした。
しかし第だい三さんの玉子たまごは同じおなじ手真似てまねと共ともに安々やすやすと取り出さとりだされた。
最後さいごに彼かれはあたかも貴重品きちょうひんでも取扱うとりあつかうような様子ようすで、それを丁寧ていねいに地面じめんの上うえへ並べならべた。
「どうだ諸君しょくんこうやって出そうでそうとすれば、何個なんこでも出せるだせる。しかしそう玉子たまごばかり出しだしてもつまらないから、今度こんどは一いちつ生きいきた鶏にわとりを出そうでそう」 津田つだは叔父おじの子供こどもをふり返っふりかえった。
「おい真事しんじもう行こういこう。小父おじさんはこれからお前おまえの宅たくへ行くいくんだよ」 真事しんじには津田つだよりも生きいきた鶏にわとりの方ほうが大事だいじであった。
「小父おじさん先さきへ行っいってさ。僕ぼくもっと見みているから」「ありゃ嘘うそだよ。いつまで経っきょうったって生きいきた鶏にわとりなんか出でて来きやしないよ」「どうして? だって玉子たまごはあんなに出でたじゃないの」「玉子たまごは出でたが、鶏にわとりは出でないんだよ。ああ云っいって嘘うそを吐いはいていつまでも人ひとを散らさちらさないようにするんだよ」「そうしてどうするの」 そうしてどうするのかその後そのあとの事ことは津田つだにもちっとも解らわからなかった。
面倒めんどうになった彼かれは、真事しんじを置き去りおきざりにして先さきへ行こういこうとした。
すると真事しんじが彼かれの袂たもとを捉えとらえた。
「小父おじさん何なんか買っかってさ」 宅たくで強請らねだられるたんびに、この次つぎこの次つぎといって逃げにげておきながら、その次つぎ行くいく時じには、つい買っかってやるのを忘れるわすれるのが常つねのようになっていた彼かれは、例れいの調子ちょうしで「うん買っかってやるさ」と云っいった。
「じゃ自動車じどうしゃ、ね」「自動車じどうしゃは少しすこし大きおおき過ぎるすぎるな」「なに小さいちいさいのさ。七なな円えん五十ごじゅう銭せんのさ」 七なな円えん五十ごじゅう銭せんでも津田つだにはたしかに大きおおき過ぎすぎた。
彼かれは何になんにも云わいわずに歩きあるき出しだした。
「だってこの前まえもその前まえも買っかってやるっていったじゃないの。小父おじさんの方ほうがあの玉子たまごを出すだす人ひとよりよっぽど嘘吐きうそつきじゃないか」「あいつは玉子たまごは出すだすが鶏にわとりなんか出せだせやしないんだよ」「どうして」「どうしてって、出せだせないよ」「だから小父おじさんも自動車じどうしゃなんか買えかえないの」「うん。――まあそうだ。だから何なんかほかのものを買っかってやろう」「じゃキッドきっどの靴くつさ」 毒気どくけを抜かぬかれた津田つだは、返事へんじをする前まえにまた黙っだまって一二いちに間ま歩いあるいた。
彼かれは眼めを落しおとして真事しんじの足あしを見みた。
さほど見苦しくみぐるしくもないその靴くつは、茶ちゃとも黒くろともつかない一種いっしゅ変へんな色いろをしていた。
「赤かっあかかったのを宅たくでお父さんおちちさんが染めそめたんだよ」 津田つだは笑いわらいだした。
藤井ふじいが子供こどもの赤靴あかくつを黒くくろく染めそめたという事柄ことがらが、何なんだか彼かれにはおかしかった。
学校がっこうの規則きそくを知らしらないで拵らえこしらえた赤靴あかくつを規則きそく通りとおりに黒くくろくしたのだという説明せつめいを聞いきいた時じ、彼かれはまた叔父おじの窮策きゅうさくを滑稽こっけい的まとに批判ひはんしたくなった。
そうしてその窮策きゅうさくから出でた現在げんざいのお手際てぎわを擽ぐったいくすぐったいような顔かおをしてじろじろ眺めながめた。
二十三にじゅうさん
「真事しんじ、そりゃ好いよい靴くつだよ、お前おまえ」「だってこんな色いろの靴くつ誰だれも穿いはいていないんだもの」「色いろはどうでもね、お父さんおちちさんが自分じぶんで染めそめてくれた靴くつなんか滅多めったに穿けはけやしないよ。ありがたいと思っおもって大事だいじにして穿かはかなくっちゃいけない」「だってみんなが尨犬むくいぬの皮かわだ尨犬むくいぬの皮かわだって揶揄うからかうんだもの」 藤井ふじいの叔父おじと尨犬むくいぬの皮かわ、この二につの言葉ことばをつなげると、結果けっかはまた新らしいあたらしいおかしみになった。
しかしそのおかしみは微かかすかな哀傷あいしょうを誘っさそって、津田つだの胸むねを通り過ぎとおりすぎた。
「尨犬むくいぬじゃないよ、小父おじさんが受け合っうけあってやる。大丈夫だいじょうぶ尨犬むくいぬじゃない立派りっぱな……」 津田つだは立派りっぱな何なんといっていいかちょっと行きつまっいきつまった。
そこを好いよい加減かげんにしておく真事しんじではなかった。
「立派りっぱな何なんさ」「立派りっぱな――靴くつさ」 津田つだはもし懐中かいちゅうが許すゆるすならば、真事しんじのために、望みのぞみ通りとおりキッドきっどの編へん上うえを買っかってやりたい気きがした。
それが叔父おじに対するたいする恩返しおんがえしの一端いっぱしになるようにも思わおもわれた。
彼かれは胸むね算さんで自分じぶんの懐ふところにある紙入かみいれの中なかを勘定かんじょうして見みた。
しかし今いまの彼かれにそれだけの都合つごうをつける余裕よゆうはほとんどなかった。
もし京都きょうとから為替かわせが届くとどくならばとも考えかんがえたが、まだ届くとどくか届かとどけかないか分らわからない前まえに、苦しいくるしい思いおもいをして、それだけの実意じついを見せるみせるにも及ぶおよぶまいという世間せけん心こころも起っおこった。
「真事しんじ、そんなにキッドきっどが買いかいたければね、今度こんど宅たくへ来きた時じ、小母おばさんに買っかってお貰いもらい。小父おじさんは貧乏びんぼうだからもっと安いやすいもので今日きょうは負けまけといてくれ」 彼かれは賺すすかすようにまた宥めるなだめるように真事しんじの手てを引いひいて広いひろい往来おうらいをぶらぶら歩いあるいた。
終点しゅうてんに近いちかいその通りとおりは、電車でんしゃへ乗り降りのりおりの必要ひつよう上うえ、無数むすうの人ひとの穿物で絶えたえず踏みふみ堅めかためられる結果けっかとして、四五しご年ねんこの方ほう町並まちなみが生れ変っうまれかわったように立派りっぱに整せいのって来きた。
ところどころのショーウィンドーしょーうぃんどーには、一概いちがいに場末ばすえものとして馬鹿ばかにできないような品しなが綺麗きれいに飾り立てかざりたてられていた。
真事しんじはその間まを向う側むこうがわへ馳はせけ抜けぬけて、朝鮮人ちょうせんにんの飴屋あめやの前まえへ立つたつかと思うおもうと、また此方側こちらがわへ戻っもどって来きて、金魚きんぎょ屋やの軒のきの下したに佇立ちょりつんだ。
彼かれの馳はせけ出すけだす時じには、隠いん袋ふくろの中なかでビー玉びーだまの音おとが、きっとじゃらじゃらした。
「今日きょう学校がっこうでこんなに勝っかっちゃった」 彼かれは隠いん袋ふくろの中なかへ手てをぐっと挿しさし込んこんで掌てのひらいっぱいにそのビー玉びーだまを載せのせて見せみせた。
水色みずいろだの紫色むらさきいろだのの丸いまりい硝子がらす玉たまが迸ばしるように往来おうらいの真中まなかへ転がりころがり出しだした時じ、彼かれは周章てあわててそれを追いかけおいかけた。
そうして後あとを振り向きふりむきながら津田つだに云っいった。
「小父おじさんも拾っじゅうってさ」 最後さいごにこの目まぐるしいめまぐるしい叔父おじの子このために一いち軒のきの玩具屋おもちゃやへ引き摺りひきずり込まこまれた津田つだは、とうとうそこで一いち円えん五十ごじゅう銭せんの空気銃くうきじゅうを買っかってやらなければならない事ことになった。
「雀すずめならいいが、むやみに人ひとを狙っねらっちゃいけないよ」「こんな安いやすい鉄砲てっぽうじゃ雀すずめなんか取れとれないだろう」「そりゃお前おまえが下手へただからさ。下手へたならいくら鉄砲てっぽうが好くよくったって取れとれないさ」「じゃ小父おじさんこれで雀すずめ打っうってくれる? これから宅たくへ行っいって」 好いよい加減かげんをいうとすぐ後あとから実行じっこうを逼らせまられそうな様子ようすなので、津田つだは生返事なまへんじをしたなり話はなしをほかへそらした。
真事しんじは戸田とだだの渋谷しぶやだの坂口さかぐちだのと、相手あいての知りしりもしない友達ともだちの名前なまえを勝手にかってに並べ立てならべたててて、その友達ともだちを片端かたはしから批評ひひょうし始めはじめた。
「あの岡本おかもとって奴やつ、そりゃ狡猾こうかついんだよ。靴くつを三さん足あしも買っかってもらってるんだもの」 話はなしはまた靴くつへ戻っもどって来きた。
津田つだはお延のべと関係かんけいの深いぶかいその岡本おかもとの子こと、今いま自分じぶんの前まえでその子こを評しひょうしている真事しんじとを心こころの中なかで比較ひかくした。
二十四にじゅうよん
「御前ごぜん近頃ちかごろ岡本おかもとの所ところへ遊びあそびに行くいくかい」「ううん、行かいかない」「また喧嘩けんかしたな」「ううん、喧嘩けんかなんかしない」「じゃなぜ行かいかないんだ」「どうしてでも――」 真事しんじの言葉ことばには後あとがありそうだった。
津田つだはそれが知りしりたかった。
「あすこへ行くいくといろんなものをくれるだろう」「ううん、そんなにくれない」「じゃ御馳走ごちそうするだろう」「僕ぼくこないだ岡本おかもとの所ところでライスカレーらいすかれーを食べたべたら、そりゃ辛かっつらかったよ」 ライスカレーらいすかれーの辛いつらいぐらいは、岡本おかもとへ行かいかない理由りゆうになりそうもなかった。
「それで行くいくのが厭いやになった訳わけでもあるまい」「ううん。だってお父さんおちちさんが止せよせって云ういうんだもの。僕ぼく岡本おかもとの所ところへ行っいってブランコぶらんこがしたいんだけども」 津田つだは小首こくびを傾けかたむけた。
叔父おじが子供こどもを岡本おかもとへやりたがらない理由りゆうは何なんだろうと考えかんがえた。
肌合はだあいの相違そうい、家風かふうの相違そうい、生活せいかつの相違そうい、それらのものがすぐ彼かれの心こころに浮かんうかんだ。
始終しじゅう机つくえに向っむかって沈黙ちんもくの間まに活字かつじ的まとの気き※を天下てんかに散布さんぷしている叔父おじは、実際じっさいの世間せけんにおいてけっして筆ふでほどの有力ゆうりょく者ものではなかった。
彼かれは暗にあんにその距離きょりを自覚じかくしていた。
その自覚じかくはまた彼かれを多少たしょう頑固がんこにした。
幾分いくぶんか排外的はいがいてきにもした。
金力きんりょく権力けんりょく本位ほんいの社会しゃかいに出でて、他ほかから馬鹿ばかにされるのを恐れるおそれる彼かれの一面いちめんには、その金力きんりょく権力けんりょくのために、自己じこの本領ほんりょうを一いち分ぶんでも冒さおかされては大変たいへんだという警戒けいかいの念ねんが絶えたえずどこかに働いはたらいているらしく見えみえた。
「真事しんじなぜお父さんおちちさんに訊いきいて見みなかったのだい。岡本おかもとへ行っいっちゃなぜいけないんですって」「僕ぼく訊いきいたよ」「訊いきいたらお父さんおちちさんは何なんと云っいった。――何なんとも云わいわなかったろう」「ううん、云っいった」「何なんと云っいった」 真事しんじは少しすこし羞恥しゅうちんでいた。
しばらくしてから、彼かれはぽつりぽつり句切くぎりを置くおくような重いおもい口調くちょうで答えこたえた。
「あのね、岡本おかもとへ行くいくとね、何なんでも一いちさんの持っもってるものをね、宅たくへ帰っかえって来きてからね、買っかってくれ、買っかってくれっていうから、それでいけないって」 津田つだはようやく気きがついた。
富とみの程度ていどに多少たしょう等差とうさのある二人ふたりの活計かっけい向むかいは、彼かれらの子供こどもが持つもつ玩具がんぐの末すえに至るいたるまでに、多少たしょう等差とうさをつけさせなければならなかったのである。
「それでこいつ自動車じどうしゃだのキッドきっどの靴くつだのって、むやみに高いたかいものばかり強請んねだんだな。みんな一いちさんの持っもってるのを見みて来きたんだろう」 津田つだは揶揄いからかい半分はんぶん手てを挙げあげて真事しんじの背中せなかを打とううとうとした。
真事しんじは跋ばつの悪いわるい真相しんそうを曝露ばくろされた大人おとなに近いちかい表情ひょうじょうをした。
けれども大人おとなのように言訳いいわけがましい事ことはまるで云わいわなかった。
「嘘うそだよ。嘘うそだよ」 彼かれは先刻せんこく津田つだに買っかってもらった一いち円えん五十ごじゅう銭せんの空気銃くうきじゅうを担いにないだままどんどん自分じぶんの宅たくの方ほうへ逃げ出しにげだした。
彼かれの隠いん袋ふくろの中なかにあるビー玉びーだまが数珠じゅずを劇しくはげしく揉むもむように鳴っなった。
背嚢はいのうの中なかでは弁当箱べんとうばこだか教科書きょうかしょだかが互たがいにぶつかり合うぶつかりあう音おとがごとりごとりと聞こえきこえた。
彼かれは曲り角まがりかどの黒板こくばん塀へいの所ところでちょっと立ちどまったちどまって鼬いたちのように津田つだをふり返っふりかえったまま、すぐ小さいちいさい姿すがたを小路こうじのうちに隠しかくした。
津田つだがその小路こうじを行きいき尽しつくして突きあたりつきあたりにある藤井ふじいの門もんを潜っもぐった時じ、突然とつぜんドンどんという銃声じゅうせいが彼かれの一いち間まばかり前まえで起っおこった。
彼かれは右手みぎての生垣いけがきの間まから大事だいじそうに彼かれを狙撃そげきしている真事しんじの黒いくろい姿すがたを苦笑くしょうをもって認めみとめた。
二十五にじゅうご
座敷ざしきで誰だれかと話はなしをしている叔父おじの声こえを聞いきいた津田つだは、格子こうしの間まから一足いっそくの客きゃく靴くつを覗いのぞいて見みたなり、わざと玄関げんかんを開けあけずに、茶の間ちゃのまの縁側えんがわの方ほうへ廻っまわった。
もと植木屋うえきやででもあったらしいその庭先にわさきには木戸きどの用心ようじんも竹垣たけがきの仕切しきりもないので、同じおなじ地面じめんの中なかに近頃ちかごろ建て増さたてまされた新らしいあたらしい貸家かしやの勝手口かってぐちを廻るまわると、すぐ縁えん鼻はなまで歩いあるいて行けいけた。
目隠しめかくしにしては少しすこし低てい過ぎるすぎる高いたかい茶ちゃの樹きを二三にさん本ほん通り越しとおりこして、彼かれの記憶きおくにいつまでも残っのこっている柿かきの樹きの下したを潜っもぐった津田つだは、型かたのごとくそこに叔母おばの姿すがたを見出しみだした。
障子しょうじの篏入硝子がらすに映るうつるその横顔よこがおが彼かれの眼めに入っはいった時じ、津田つだは外部がいぶから声こえを掛けかけた。
「叔母おばさん」 叔母おばはすぐ障子しょうじを開けあけた。
「今日きょうはどうしたの」 彼女かのじょは子供こどもが買っかって貰っもらった空気銃くうきじゅうの礼れいも云わいわずに、不思議ふしぎそうな眼めを津田つだの上うえに向けむけた。
四十よんじゅうの上うえをもう三さんつか四よんつ越しこしたこの叔母おばの態度たいどには、ほとんど愛想あいそというものがなかった。
その代りかわり時じと場合ばあいによると世間せけん並なみの遠慮えんりょを超越ちょうえつした自然しぜんが出でた。
そのうちにはほとんど性せいの感じかんじを離れはなれた自然しぜんさえあった。
津田つだはいつでもこの叔母おばと吉川よしかわの細君さいくんとを腹はらの中なかで比較ひかくした。
そうしていつでもその相違そういに驚ろいおどろいた。
同じおなじ女おんな、しかも年齢ねんれいのそう違わちがわない二人ふたりの女おんなが、どうしてこんなに違っちがった感じかんじを他ほかに与えるあたえる事ことができるかというのが、第だい一いちの疑問ぎもんであった。
「叔母おばさんは相そう変らかわらず色気いろけがないな」「この年齢ねんれいになって色気いろけがあっちゃ気狂きちがいだわ」 津田つだは縁側えんがわへ腰こしをかけた。
叔母おばは上れのぼれとも云わいわないで、膝ひざの上うえに載せのせた紅絹もみの片かたへ軽いかるい火熨斗ひのしを当てあてていた。
すると次の間つぎのまからほどき物ものを持っもって出でて来きたお金おかねさんという女おんなが津田つだにお辞儀おじぎをしたので、彼かれはすぐ言葉ことばをかけた。
「お金おかねさん、まだお嫁よめの口くちはきまりませんか。まだなら一いちつ好いよいところを周旋しゅうせんしましょうか」 お金おかねさんはえへへと人ひとの好さよさそうに笑いわらいながら少しすこし顔かおを赤らめあからめて、彼かれのために座蒲団ざふとんを縁側えんがわへ持っもって来ようこようとした。
津田つだはそれを手てで制しせいして、自分じぶんから座敷ざしきの中なかに上り込んあがりこんだ。
「ねえ叔母おばさん」「ええ」 気きのなさそうな生返事なまへんじをした叔母おばは、お金おかねさんが生温なまぬるるい番茶ばんちゃを形式的けいしきてきに津田つだの前まえへ注いそそいで出しだした時じ、ちょっと首くびをあげた。
「お金おかねさん由雄よしおさんによく頼んたのんでおおきなさいよ。この男おとこは親切しんせつで嘘うそを吐かはかない人ひとだから」 お金おかねさんはまだ逃げ出さにげださずにもじもじしていた。
津田つだは何なんとか云わいわなければすまなくなった。
「お世辞おせじじゃありません、本当ほんとうの事ことです」 叔母おばは別べつに取り合うとりあう様子ようすもなかった。
その時じ裏うらで真事しんじの打つうつ空気銃くうきじゅうの音おとがぽんぽんしたので叔母おばはすぐ聴ちょう耳みみを立てたてた。
「お金おかねさん、ちょっと見みて来きて下さいください。バラばら丸まるを入れいれて打つうつと危険きけんいから」 叔母おばは余計よけいなものを買っかってくれたと云わいわんばかりの顔かおをした。
「大丈夫だいじょうぶですよ。よく云いいい聞かしきかしてあるんだから」「いえいけません。きっとあれで面白おもしろ半分はんぶんにお隣りとなりの鶏にわとりを打つうつに違いないから。構わかまわないから丸まるだけ取り上げとりあげて来きて下さいください」 お金おかねさんはそれを好いよい機きに茶の間ちゃのまから姿すがたをかくした。
叔母おばは黙っだまって火鉢ひばちに挿しさし込んこんだ鏝こてをまた取り上げとりあげた。
皺しわだらけな薄いうすい絹きぬが、彼女かのじょの膝ひざの上うえで、綺麗きれいに平たくひらたく延びのびて行くいくのを何気なんげなく眺めながめていた津田つだの耳みみに、客間きゃくまの話し声はなしごえが途切れ途切れとぎれとぎれに聞こえきこえて来きた。
「時じに誰だれです、お客おきゃくは」 叔母おばは驚ろいおどろいたようにまた顔かおを上げあげた。
「今までいままで気きがつかなかったの。妙みょうねあなたの耳みみもずいぶん。ここで聞いきいてたってよく解るわかるじゃありませんか」
二十六にじゅうろく
津田つだは客間きゃくまにいる声こえの主ぬしを、坐っすわったまま突き留めようつきとめようと力めりきめて見みた。
やがて彼かれは軽くかるく膝ひざを拍っうった。
「ああ解っわかった。小林こばやしでしょう」「ええ」 叔母おばは嫣然えんぜんともせずに、簡単かんたんな答こたえを落ちついおちついて与えあたえた。
「何なんだ小林こばやしか。新らしいあたらしい赤靴あかくつなんか穿きはき込んこんで厭いやにお客さんおきゃくさんぶってるもんだから誰だれかと思っおもったら。そんなら僕ぼくも遠慮えんりょしずにあっちへ行けいけばよかった」 想像そうぞうの眼めで見るみるにはあまりに陳腐ちんぷ過ぎるすぎる彼かれの姿すがたが津田つだの頭あたまの中なかに出でて来きた。
この夏なつ会っかいった時じの彼かれの異ないな服装ふくそうもおのずと思い出さおもいだされた。
白しろ縮緬ちりめんの襟えりのかかった襦袢じゅばんの上うえへ薩摩さつま絣かすりを着きて、茶ちゃの千筋せんすじの袴はかまに透綾すきやの羽織はおりをはおったその拵えこしらえは、まるで傘屋かさやの主人しゅじんが町内ちょうないの葬式そうしきの供ともに立ったった帰りがけかえりがけで、強飯こわいいの折おりでも懐ふところに入れいれているとしか受け取れうけとれなかった。
その時じ彼かれは泥棒どろぼうに洋服ようふくを盗まぬすまれたという言訳いいわけを津田つだにした。
それから金きんを七なな円えんほど貸しかしてくれと頼んたのんだ。
これはある友達ともだちが彼かれの盗難とうなんに同情どうじょうして、もし自分じぶんの質しつに入れいれてある夏服なつふくを受け出すうけだす余裕よゆうが彼かれにあるならば、それを彼かれにやってもいいと云っいったからであった。
津田つだは微笑びしょうしながら叔母おばに訊いきいた。
「あいつまた何なんだって今日きょうに限っかぎって座敷ざしきなんかへ通っとおって、堂々どうどうとお客おきゃくぶりを発揮はっきしているんだろう」「少しすこし叔父おじさんに話はなしがあるのよ。それがここじゃちょっと云いいい悪いわるい事ことなんでね」「へえ、小林こばやしにもそんな真面目まじめな話はなしがあるのかな。金きんの事ことか、それでなければ……」 こう云いいいかけた津田つだは、ふと真面目まじめな叔母おばの顔かおを見るみると共ともに、後あとを引っ込ましひっこめましてしまった。
叔母おばは少しすこし声こえを低くひくくした。
その声こえはむしろ彼女かのじょの落ちついおちついた調子ちょうしに釣り合っつりあっていた。
「お金おかねさんの縁談えんだんの事こともあるんだからね。ここであんまり何なんかいうと、あの子こがきまりを悪くわるくするからね」 いつもの高調子こうちょうしと違っちがって、茶の間ちゃのまで聞いきいているとちょっと誰だれだか分らわからないくらいな紳士しんし風かぜの声こえを、小林こばやしが出しだしているのは全くまったくそれがためであった。
「もうきまったんですか」「まあ旨くうまく行きいきそうなのさ」 叔母おばの眼めには多少たしょうの期待きたいが輝やいかがやいた。
少しすこし乾いぬい燥ぎはしゃぎ気味きみになった津田つだはすぐ付け加えつけくわえた。
「じゃ僕ぼくが骨ほねを折っおって周旋しゅうせんしなくっても、もういいんだな」 叔母おばは黙っだまって津田つだを眺めながめた。
たとい軽薄けいはくとまで行かいかないでも、こういう巫山戯ふざけた空虚くうきょうな彼かれの態度たいどは、今いまの叔母おばの生活せいかつ気分きぶんとまるでかけ離れかけはなれたものらしく見えみえた。
「由雄よしおさん、お前おまえさん自分じぶんで奥さんおくさんを貰うもらう時じ、やっぱりそんな料簡りょうけんで貰っもらったの」 叔母おばの質問しつもんは突然とつぜんであると共ともに、どういう意味いみでかけられたのかさえ津田つだには見当けんとうがつかなかった。
「そんな料簡りょうけんって、叔母おばさんだけ承知しょうちしているぎりで、当人とうにんの僕ぼくにゃ分らわからないんだから、ちょっと返事へんじのしようがないがな」「何なんも返事へんじを聞かきかなくったって、叔母おばさんは困りゃこまりゃしないけれどもね。――女おんな一人ひとりを片づけるかたづける方ほうの身みになって御覧ごらんなさい。たいていの事ことじゃないから」 藤井ふじいは四よん年ねん前まえ長女ちょうじょを片づけるかたづける時じ、仕度したくをしてやる余裕よゆうがないのですでに相当そうとうの借金しゃっきんをした。
その借金しゃっきんがようやく片づいかたづいたと思うおもうと、今度こんどはもう次女じじょを嫁よめにやらなければならなくなった。
だからここでもしお金おかねさんの縁談えんだんが纏まるまとまるとすれば、それは正にまさに三人目さんにんめの出費しゅっぴに違いなかった。
娘むすめとは格かくが違うちがうからという意味いみで、できるだけ倹約けんやくしたところで、現在げんざいの生計せいけい向むかいに多少たしょう苦しいくるしい負担ふたんの暗影あんえいを投げるなげる事ことはたしかであった。
二十七にじゅうなな
こういう時じに、せめて費用ひようの半分はんぶんでも、津田つだが進んすすんで受け持つうけもつ事ことができたなら、年頃としごろ彼かれの世話せわをしてきた藤井ふじい夫婦ふうふにとっては定めしさだめし満足まんぞくな報酬ほうしゅうであったろう。
けれども今いまのところ財力ざいりょくの上うえで叔父叔母おじおばに捧げささげ得るうる彼かれの同情どうじょうは、高々たかだか真事しんじの穿きはきたがっているキッドきっどの靴くつを買っかってやるくらいなものであった。
それさえ彼かれは懐ふところ都合つごうで見合せみあわせなければならなかったのである。
まして京都きょうとから多少たしょうの融通ゆうずうを仰いおっしゃいで、彼かれらの経済けいざいに幾分いくぶんの潤沢じゅんたくをつけてやろうなどという親切気しんせつきはてんで起らおこらなかった。
これは自分じぶんが事情じじょうを報告ほうこくしたところで動くうごく父ちちでもなし、父ちちが動いうごいたところで借りるかりる叔父おじでもないと頭あたまからきめてかかっているせいでもあった。
それで彼かれはただ自分じぶんの所ところへさえ早くはやく為替かわせが届いとどいてくれればいいという期待きたいに縛らしばられて、叔母おばの言葉ことばにはあまり感激かんげきした様子ようすも見せみせなかった。
すると叔母おばが「由雄よしおさん」と云いいい出しだした。
「由雄よしおさん、じゃどんな料簡りょうけんで奥さんおくさんを貰っもらったの、お前おまえさんは」「まさか冗談じょうだんに貰もらえやしません。いくら僕ぼくだってそう浮ついうわついたところばかりから出来上っできあがってるように解釈かいしゃくされちゃ可哀相かわいそうだ」「そりゃ無論むろん本気ほんきでしょうよ。無論むろん本気ほんきには違いなかろうけれどもね、その本気ほんきにもまたいろいろ段だん等とうがあるもんだからね」 相手あいて次第しだいでは侮辱ぶじょくとも受け取らうけとられるこの叔母おばの言葉ことばを、津田つだはかえって好奇心こうきしんで聞いきいた。
「じゃ叔母おばさんの眼めに僕ぼくはどう見えるみえるんです。遠慮えんりょなく云っいって下さいくださいな」 叔母おばは下したを向いむかいて、ほどき物ものをいじくりながら薄笑いうすわらいをした。
それが津田つだの顔かおを見みないせいだか何なんだか、急きゅうに気味きみの悪いわるい心持こころもちを彼かれに与えあたえた。
しかし彼かれは叔母おばに対したいして少しすこしも退避たいひぐ気きはなかった。
「これでもいざとなると、なかなか真面目まじめなところもありますからね」「そりゃ男おとこだもの、どこかちゃんとしたところがなくっちゃ、毎日まいにち会社かいしゃへ出でたって、勤まりつとまりっこありゃしないからね。だけども――」 こう云いいいかけた叔母おばは、そこで急きゅうに気きを換えかえたようにつけ足しつけたした。
「まあ止しよしましょう。今さらいまさら云っいったって始まらはじまらない事ことだから」 叔母おばは先刻せんこく火熨斗ひのしをかけた紅絹もみの片かたを鄭てい寧ねいに重ねかさねて、濃いこい渋しぶを引いひいた畳紙たとうがみの中なかへしまい出しだした。
それから何なんとなく拍子ひょうし抜けぬけのした、しかもどこかに物もの足らあしらなそうな不安ふあんの影かげを宿しやどしている津田つだの顔かおを見みて、ふと気きがついたような調子ちょうしで云っいった。
「由雄よしおさんはいったい贅沢ぜいたく過ぎるすぎるよ」 学校がっこうを卒業そつぎょうしてから以来いらいの津田つだは叔母おばに始終しじゅうこう云わいわれつけていた。
自分じぶんでもまたそう信じしんじて疑わうたがわなかった。
そうしてそれを大したたいした悪いわるい事ことのようにも考えかんがえていなかった。
「ええ少しすこし贅沢ぜいたくです」「服装ふくそうや食物しょくもつばかりじゃないのよ。心こころが派出はしゅつで贅沢ぜいたくに出来上っできあがってるんだから困るこまるっていうのよ。始終しじゅう御ご馳走ちそうはないかないかって、きょろきょろそこいらを見廻しみまわしてる人ひとみたようで」「じゃ贅沢ぜいたくどころかまるで乞食こじきじゃありませんか」「乞食こじきじゃないけれども、自然しぜん真面目まじめさが足りたりない人ひとのように見えるみえるのよ。人間にんげんは好いよい加減かげんなところで落ちつくおちつくと、大変たいへん見みっとも好いよいもんだがね」 この時じ津田つだの胸むねを掠めかすめて、自分じぶんの従妹じゅうまいに当るあたる叔母おばの娘むすめの影かげが突然とつぜん通り過ぎとおりすぎた。
その娘むすめは二人ふたりとも既婚きこんの人ひとであった。
四よん年ねん前まえに片づいかたづいた長女ちょうじょは、その後夫ごふに従っしたがって台湾たいわんに渡っわたったぎり、今いまでもそこに暮しくらしていた。
彼かれの結婚けっこんと前後ぜんごして、ついこの間ま嫁よめに行っいった次女じじょは、式しきが済むすむとすぐ連れつれられて福岡ふくおかへ立ったってしまった。
その福岡ふくおかは長男ちょうなんの真弓まゆみが今年ことしから籍せきを置いおいた大学だいがくの所在地しょざいちでもあった。
この二人ふたりの従妹じゅうまいのどっちも、貰おうもらおうとすれば容易くたやすく貰えるもらえる地位ちいにあった津田つだの眼めから見るみると、けっして自分じぶんの細君さいくんとして適当てきとうの候補者こうほしゃではなかった。
だから彼かれは知らしらん顔かおをして過ぎすぎた。
当時とうじ彼かれの取っとった態度たいどを、叔母おばの今いまの言葉ことばと結びつけむすびつけて考えかんがえた津田つだは、別べつにこれぞと云っいって疾しつましい点てんも見出しみだし得とくなかったので、何気なんげない風かぜをして叔母おばの動作どうさを見守っみまもっていた。
その叔母おばはついと立ったって戸棚とだなの中なかにある支那しな鞄かばんの葢おおいを開けあけて、手てに持っもった畳紙たとうがみをその中なかにしまった。
二十八にじゅうはち
奥おくの四よん畳たたみ半はんで先刻せんこくからお金おかねさんに学課がっかの復習ふくしゅうをして貰っもらっていた真事しんじが、突然とつぜんお金おかねさんにはまるで解らわからない仏蘭西ふらんす語ごの読本とくほんを浚いさらい始めはじめた。
ジュじゅ・シュイしゅい・ポリぽり、とか、チュちゅ・エえ・マラードまらーど、とか、一いち字じ一いち字じの間まにわざと長いながい句切くぎりを置いおいて読み上げるよみあげる小学しょうがく二に年生ねんせいの頓狂とんきょうな声こえを、例れいながらおかしく聞いきいている津田つだの頭あたまの上うえで、今度こんどは柱時計はしらとけいがボンボンぼんぼんと鳴っなった。
彼かれはすぐ袂たもとに入れいれてあるリチネを取り出しとりだして、飲みのみにくそうに、どろどろした油あぶらの色いろを眺めながめた。
すると、客間きゃくまでも時計とけいの音おとに促がさうながされたような叔父おじの声こえがした。
「じゃあっちへ行こういこう」 叔父おじと小林こばやしは縁えん伝いつたいに茶の間ちゃのまへ入っはいって来きた。
津田つだはちょっと居い住居じゅうきょを直しなおして叔父おじに挨拶あいさつをしたあとで、すぐ小林こばやしの方ほうを向いむかいた。
「小林こばやし君きみだいぶ景気けいきが好いよいようだね。立派りっぱな服ふくを拵えこしらえたじゃないか」 小林こばやしはホームスパンほーむすぱんみたようなざらざらした地合じあいの背広せびろを着きていた。
いつもと違っちがってその洋よう袴はかまの折目おりめがまだ少しすこしも崩れくずれていないので、誰だれの眼めにも仕立したて卸しおろしとしか見えみえなかった。
彼かれは変りかわり色いろの靴下くつしたを後あとへ隠すかくすようにして、津田つだの前まえに坐り込んすわりこんだ。
「へへ、冗談じょうだん云っいっちゃいけない。景気けいきの好いよいのは君きみの事ことだ」 彼かれの新調しんちょうはどこかのデパートメントでぱーとめんと・ストアすとあの窓まど硝子がらすの中なかに飾っかざってある三さんつ揃に括りくくりつけてあった正札しょうふだを見つけみつけて、その価あたい段だん通りとおりのものを彼かれが注文ちゅうもんして拵えこしらえたのであった。
「これで君きみ二十六にじゅうろく円えんだから、ずいぶん安いやすいものだろう。君きみ見みたいな贅沢ぜいたくやから見みたらどうか知らしらないが、僕ぼくなんぞにゃこれでたくさんだからね」 津田つだは叔母おばの手前てまえ重ねかさねて悪口わるぐちを云ういう勇気ゆうきもなかった。
黙っだまって茶碗ちゃわんを借り受けかりうけて、八はちの字じを寄せよせながらリチネを飲んのんだ。
そこにいるものがみんな不思議ふしぎそうに彼かれの所作しょさを眺めながめた。
「何なんだいそれは。変へんなものを飲むのむな。薬くすりかい」
今日きょうまで病気びょうきという病気びょうきをした例れいのない叔父おじの医薬いやくに対するたいする無知むちはまた特別とくべつのものであった。
彼かれはリチネという名前なまえを聞いきいてすら、それが何なんのために服用ふくようされるのか知らしらなかった。
あらゆる疾病しっぺいとほとんど没交渉ぼつこうしょうなこの叔父おじの前まえに、津田つだが手術しゅじゅつだの入院にゅういんだのという言葉ことばを使っつかって、自分じぶんの現在げんざいを説明せつめいした時じに、叔父おじは少しすこしも感動かんどうしなかった。
「それでその報知ほうちにわざわざやって来きた訳わけかね」 叔父おじは御苦労ごくろうさまと云わいわぬばかりの顔かおをして、胡麻塩ごましおだらけの髯ひげを撫でなでた。
生やしはやしていると云ういうよりもむしろ生えはえていると云っいった方ほうが適当てきとうなその髯ひげは、植木屋うえきやを入れいれない庭にわのように、彼かれの顔かおをところどころ爺々じいむさく見せみせた。
「いったい今いまの若いわかいものは、から駄目だめだね。下らしたらん病気びょうきばかりして」 叔母おばは津田つだの顔かおを見みてにやりと笑っわらった。
近頃ちかごろ急きゅうに「今いまの若いわかいものは」という言葉ことばを、癖くせのように使いつかい出しだした叔父おじの歴史れきしを心得こころえている津田つだも笑い返しわらいかえした。
よほど以前いぜんこの叔父おじから惑病は同源どうげんだの疾患しっかんは罪悪ざいあくだのと、さも偉えらそうに云いいい聞かさきかされた事ことを憶い出すおもいだすと、それが病気びょうきに罹らかからない自分じぶんの自慢じまんとも受け取れるうけとれるので、なおのこと滑稽こっけいに感ぜかんぜられた。
彼かれは薄笑いうすわらいと共ともにまた小林こばやしの方ほうを見みた。
小林こばやしはすぐ口くちを出しだした。
けれども津田つだの予期よきとは全くまったくの反対はんたいを云っいった。
「何なん今いまの若いわかいものだって病気びょうきをしないものもあります。現にげんに私わたくしなんか近頃ちかごろちっとも寝ねた事ことがありません。私わたくし考えるかんがえるに、人間にんげんは金きんが無いないと病気びょうきにゃ罹らかからないもんだろうと思いおもいます」 津田つだは馬鹿馬鹿しくばかばかしくなった。
「つまらない事ことをいうなよ」「いえ全くまったくだよ。現にげんに君きみなんかがよく病気びょうきをするのは、するだけの余裕よゆうがあるからだよ」 この不ふ論理ろんりな断案だんあんは、云いいい手てが真面目まじめなだけに、津田つだをなお失笑しっしょうさせた。
すると今度こんどは叔父おじが賛成さんせいした。
「そうだよこの上うえ病気びょうきにでも罹っかかった日ひにゃどうにもこうにもやり切れきれないからね」 薄暗くうすぐらくなった室むろの中なかで、叔父おじの顔かおが一番いちばん薄暗くうすぐらく見えみえた。
津田つだは立ったって電灯でんとうのスウィッチすうぃっちを捩っもじった。
二十九にじゅうきゅう
いつの間まにか勝手口かってぐちへ出でて、お金おかねさんと下女げじょを相手あいてに皿さら小鉢こばちの音おとを立てたてていた叔母おばがまた茶の間ちゃのまへ顔かおを出しだした。
「由雄よしおさん久しぶりひさしぶりだから御飯ごはんを食べたべておいで」 津田つだは明日あすの治療ちりょうを控えひかえているので断っことわって帰ろうかえろうとした。
「今日きょうは小林こばやしといっしょに飯めしを食うくうはずになっているところへお前おまえが来きたのだから、ことによると御馳走ごちそうが足りたりないかも知れしれないが、まあつき合っつきあって行くいくさ」 叔父おじにこんな事ことを云わいわれつけない津田つだは、妙みょうな心持こころもちがして、また尻しりを据えすえた。
「今日きょうは何事なにごとかあるんですか」「何なんね、小林こばやしが今度こんど――」 叔父おじはそれだけ云っいって、ちょっと小林こばやしの方ほうを見みた。
小林こばやしは少しすこし得意とくいそうににやにやしていた。
「小林こばやし君きみどうかしたのか」「何なん、君きみ、なんでもないんだ。いずれきまったら君きみの宅たくへ行っいって詳しいくわしい話はなしをするがね」「しかし僕ぼくは明日あすから入院にゅういんするんだぜ」「なに構わかまわない、病院びょういんへ行くいくよ。見舞みまいかたがた」 小林こばやしは追いかけおいかけて、その病院びょういんのある所ところだの、医者いしゃの名なだのを、さも自分じぶんに必要ひつような知識ちしきらしく訊いきいた。
医者いしゃの名なが自分じぶんと同じおなじ小林こばやしなので「はあそれじゃあの堀ほりさんの」と云っいったが急きゅうに黙っだまってしまった。
堀ほりというのは津田つだの妹婿いもうとむこの姓せいであった。
彼かれがある特殊とくしゅな病気びょうきのために、つい近所きんじょにいるその医者いしゃのもとへ通っとおったのを小林こばやしはよく知っしっていたのである。
彼かれの詳しいくわしい話はなしというのを津田つだはちょっと聞いきいて見みたい気きがした。
それは先刻せんこく叔母おばの云っいったお金おかねさんの結婚けっこん問題もんだいらしくもあった。
またそうでないらしくも見えみえた。
この思わおもわせぶりな小林こばやしの態度たいどから、多少たしょうの好奇心こうきしんを唆らそそられた津田つだは、それでも彼かれに病院びょういんへ遊びあそびに来いこいとは明言めいげんしなかった。
津田つだが手術しゅじゅつの準備じゅんびだと云っいって、せっかく叔母おばの拵えこしらえてくれた肉にくにも肴さかなにも、日頃ひごろ大好だいすきな茸飯たけめしにも手てをつけないので、さすがの叔母おばも気の毒きのどくがって、お金おかねさんに頼んたのんで、彼かれの口くちにする事ことのできる麺めん麭と牛乳ぎゅうにゅうを買っかって来きさせようとした。
ねとねとしてむやみに歯はの間まに挟まるはさまるここいらの麺めん麭に内心ないしん辟易へきえきしながら、また贅沢ぜいたくだと云わいわれるのが少しすこし怖いこわいので、津田つだはただおとなしく茶の間ちゃのまを立つたつお金おかねさんの後姿うしろすがたを見送っみおくった。
お金おかねさんの出でて行っいった後あとで、叔母おばはみんなの前まえで叔父おじに云っいった。
「どうかまああの子こも今度こんどの縁えんが纏まるまとまるようになると仕合せしあわせですがね」「纏まるまとまるだろうよ」 叔父おじは苦くのなさそうな返事へんじをした。
「至極しごくよさそうに思いおもいます」 小林こばやしの挨拶あいさつも気軽かっきがるかった。
黙っだまっているのは津田つだと真事しんじだけであった。
相手あいての名なを聞いきいた時じ、津田つだはその男おとこに一二いちに度ど叔父おじの家いえで会っかいったような心持こころもちもしたが、ほとんど何なんらの記憶きおくも残っのこっていなかった。
「お金おかねさんはその人ひとを知っしってるんですか」「顔かおは知っしってるよ。口くちは利いきいた事ことがないけれども」「じゃ向うむこうも口くちを利いきいた事ことなんかないんでしょう」「当り前あたりまえさ」「それでよく結婚けっこんが成立せいりつするもんだな」 津田つだはこういって然るしかるべき理窟りくつが充分じゅうぶん自分じぶんの方ほうにあると考えかんがえた。
それをみんなに見せるみせるために、彼かれは馬鹿馬鹿しいばかばかしいというよりもむしろ不思議ふしぎであるという顔つきかおつきをした。
「じゃどうすれば好いよいんだ。誰だれでもみんなお前おまえが結婚けっこんした時じのようにしなくっちゃいけないというのかね」 叔父おじは少しすこし機嫌きげんを損じそんじたらしい語気ごきで津田つだの方ほうを向いむかいた。
津田つだはむしろ叔母おばに対するたいするつもりでいたので、少しすこし気の毒きのどくになった。
「そういう訳わけじゃないんです。そういう事情じじょうのもとにお金おかねさんの結婚けっこんが成立せいりつしちゃ不都合ふつごうだなんていう気きは全くまったくなかったのです。たといどんな事情じじょうだろうと結婚けっこんが成立せいりつさえすれば、無論むろん結構けっこうなんですから」
三十さんじゅう
それでも座ざは白けしらけてしまった。
今までいままで心持こころもちよく流れながれていた談話だんわが、急きゅうに堰き止めせきとめられたように、誰だれも津田つだの言葉ことばを受け継いうけついで、順々じゅんじゅんに後あとへ送っおくってくれるものがなくなった。
小林こばやしは自分じぶんの前まえにある麦酒びーるの洋盃こっぷを指しさして、ないしょのような小さいちいさい声こえで、隣りとなりにいる真事しんじに訊いきいた。
「真事しんじさん、お酒さけを上げあげましょうか。少しすこし飲んのんで御覧ごらんなさい」「苦いにがいから僕ぼく厭いやだよ」 真事しんじはすぐ跳ねはねつけた。
始めはじめから飲まのませる気きのなかった小林こばやしは、それを機きにははと笑っわらった。
好いよい相手あいてができたと思っおもったのか真事しんじは突然とつぜん小林こばやしに云っいった。
「僕ぼく一いち円えん五十ごじゅう銭せんの空気銃くうきじゅうをもってるよ。持っもって来きて見せようみせようか」 すぐ立ったって奥おくの四よん畳たたみ半はんへ馳け込んかけこんだ彼かれが、そこから新らしいあたらしい玩具がんぐを茶の間ちゃのまへ持ち出しもちだした時じ、小林こばやしは行きいきがかり上うえ、ぴかぴかする空気銃くうきじゅうの嘆賞たんしょう者ものとならなければすまなかった。
叔父おじも叔母おばも嬉しうれしがっているわが子このために、一言ひとことの愛嬌あいきょうを義務的ぎむてきに添えるそえる必要ひつようがあった。
「どうも時計とけいを買えかえの、万年筆まんねんひつを買えかえのって、貧乏びんぼうな阿爺あやを責めせめて困るこまる。それでも近頃ちかごろ馬うまだけはどうかこうか諦たいらめたようだから、まだ始末しまつが好いよい」「馬うまも存外ぞんがい安いやすいもんですな。北海道ほっかいどうへ行きいきますと、一いち頭あたま五六ごろく円えんで立派りっぱなのが手てに入りいります」「見みて来きたような事ことを云ういうな」 空気銃くうきじゅうの御蔭みかげで、みんながまた満遍まんべんなく口くちを利くきくようになった。
結婚けっこんが再びふたたび彼かれらの話頭わとうに上っのぼった。
それは途切れとぎれた前まえの続きつづきに相違そういなかった。
けれどもそれを口くちにする人々ひとびとは、少しすこしずつ前まえと異っちがった気分きぶんによって、彼かれらの表現ひょうげんを支配しはいされていた。
「こればかりは妙みょうなものでね。全くまったく見みず知らしらずのものが、いっしょになったところで、きっと不縁ふえんになるとも限らかぎらないしね、またいくらこの人ひとならばと思い込んおもいこんでできた夫婦ふうふでも、末すえ始終しじゅう和合わごうするとは限らかぎらないんだから」 叔母おばの見みて来きた世の中よのなかを正直しょうじきに纏めるまとめるとこうなるよりほかに仕方なかっしかたなかった。
この大きなおおきな事実じじつの一隅いちぐうにお金おかねさんの結婚けっこんを安全あんぜんにおこうとする彼女かのじょの態度たいどは、弁護べんご的まとというよりもむしろ説明的せつめいてきであった。
そうしてその説明せつめいは津田つだから見るみると最ももっとも不完全ふかんぜんでまた最ももっとも不ふ安全あんぜんであった。
結婚けっこんについて津田つだの誠実せいじつを疑ううたがうような口ぶりくちぶりを見せみせた叔母おばこそ、この点てんにかけて根本的こんぽんてきな真面目まじめさを欠いかいているとしか彼かれには思えおもえなかった。
「そりゃ楽らくな身分みぶんの人ひとの云いいい草くさですよ」と叔母おばは開き直っひらきなおって津田つだに云っいった。
「やれ交際こうさいだの、やれ婚約こんやくだのって、そんな贅沢ぜいたくな事ことを、我々われわれ風情ふぜいが云っいってられますか。貰っもらってくれ手くれて、来きてくれ手くれてがあれば、それでありがたいと思わおもわなくっちゃならないくらいのものです」 津田つだはみんなの手前てまえ今いまのお金きんさんの場合ばあいについてかれこれ云いいいたくなかった。
それをいうほどの深いぶかい関係かんけいもなくまた興味きょうみもない彼かれは、ただ叔母おばが自分じぶんに対したいしてもつ、不真面目ふまじめという疑念ぎねんを塗り潰すぬりつぶすために、向うむこうの不真面目ふまじめさを啓発けいはつしておかなくてはいけないという心持こころもちに制せせいせられるので、黙っだまってしまう訳わけに行かいかなかった。
彼かれは首くびを捻っひねって考え込むかんがえこむ様子ようすをしながら云っいった。
「何なんもお金きんさんの場合ばあいをとやかく批評ひひょうする気きはないんだが、いったい結婚けっこんを、そう容易くたやすく考えかんがえて構わかまわないものか知らかしら。僕ぼくには何なんだか不真面目ふまじめなような気きがしていけないがな」「だって行くいく方ほうで真面目まじめに行くいく気きになり、貰うもらう方ほうでも真面目まじめに貰うもらう気きになれば、どこと云っいって不真面目ふまじめなところが出でて来ようこようはずがないじゃないか。由雄よしおさん」「そういう風かぜに手っとりてっとり早くはやく真面目まじめになれるかが問題もんだいでしょう」「なれればこそ叔母おばさんなんぞはこの藤井ふじい家いえへお嫁よめに来きて、ちゃんとこうしているじゃありませんか」「そりゃ叔母おばさんはそうでしょうが、今いまの若いわかいものは……」「今いまだって昔むかしだって人間にんげんに変りかわりがあるものかね。みんな自分じぶんの決心けっしん一いちつです」「そう云っいった日ひにゃまるで議論ぎろんにならない」「議論ぎろんにならなくっても、事実じじつの上うえで、あたしの方ほうが由雄よしおさんに勝っかってるんだから仕方しかたがない。いろいろ選り好みえりごのみをしたあげく、お嫁よめさんを貰っもらった後あとでも、まだ選り好みえりごのみをして落ちつかおちつかずにいる人ひとよりも、こっちの方ほうがどのくらい真面目まじめだか解りゃわかりゃしない」 先刻せんこくから肉にくを突とっッっついていた叔父おじは、自分じぶんの口くちを出さださなければならない時機じきに到着とうちゃくした人ひとのように、皿さらから眼めを放しはなした。
三十一さんじゅういち
「だいぶやかましくなって来きたね。黙っだまって聞いきいていると、叔母おば甥おいの対話たいわとは思えおもえないよ」 二人ふたりの間まにこう云っいって割り込んわりこんで来きた叔父おじはその実行じっこう司つかさでも審判官しんぱんかんでもなかった。
「何なんだか双方そうほう敵愾心てきがいしんをもって云い合っいいあってるようだが、喧嘩けんかでもしたのかい」 彼かれの質問しつもんは、単にたんに質問しつもんの形式けいしきを具えそなえた注意ちゅういに過ぎすぎなかった。
真事しんじを相手あいてにビーびー珠たまを転がしころがしていた小林こばやしが偸むぬすむようにしてこっちを見みた。
叔母おばも津田つだも一度いちどに黙っだまってしまった。
叔父おじはついに調停ちょうてい者ものの態度たいどで口くちを開かひらかなければならなくなった。
「由雄よしお、御前ごぜん見みたような今いまの若いわかいものには、ちょっと理解りかい出来でき悪いわるいかも知れしれないがね、叔母おばさんは嘘うそを吐いはいてるんじゃないよ。知りしりもしないおれの所ところへ来るくるとき、もうちゃんと覚悟かくごをきめていたんだからね。叔母おばさんは本当ほんとうに来きない前まえから来きた後あとと同じおなじように真面目まじめだったのさ」「そりゃ僕ぼくだって伺わうかがわないでも承知しょうちしています」「ところがさ、その叔母おばさんがだね。どういう訳わけでそんな大おお決心けっしんをしたかというとだね」 そろそろ酔よいの廻っまわった叔父おじは、火ひ熱っねつった顔かおへ水分すいぶんを供給きょうきゅうする義務ぎむを感じかんじた人ひとのように、また洋盃こっぷを取り上げとりあげて麦酒びーるをぐいと飲んのんだ。
「実じつを云ういうとその訳わけを今日きょうまでまだ誰だれにも話しはなした事ことがないんだが、どうだ一いちつ話しはなして聞かきかせようか」「ええ」 津田つだも半分はんぶんは真面目まじめであった。
「実じつはだね。この叔母おばさんはこれでこのおれに意いがあったんだ。つまり初めはじめからおれの所ところへ来きたかったんだね。だからまだ来きないうちから、もう猛烈もうれつに自分じぶんの覚悟かくごをきめてしまったんだ。――」「馬鹿ばかな事ことをおっしゃい。誰だれがあなたのような醜男ぶおとこに意いなんぞあるもんですか」 津田つだも小林こばやしも吹き出しふきだした。
独りひとりきょとんとした真事しんじは叔母おばの方ほうを向いむかいた。
「お母さんおははさん意いがあるって何なん」「お母さんおははさんは知らしらないからお父さんおちちさんに伺っうかがって御覧ごらん」「じゃお父さんおちちさん、何なんさ、意いがあるってのは」 叔父おじはにやにやしながら、禿げはげた頭あたまの真中まなかを大事だいじそうに撫でなで廻しまわした。
気きのせいかその禿はげが普通ふつうの時じよりは少しすこし赤いあかいように、津田つだの眼めに映っうつった。
「真事しんじ、意いがあるってえのはね。――つまりそのね。――まあ、好きすきなのさ」「ふん。じゃ好いよいじゃないか」「だから誰だれも悪いわるいと云っいってやしない」「だって皆みなな笑うわらうじゃないか」 この問答もんどうの途中とちゅうへお金おかねさんがちょうど帰っかえって来きたので、叔母おばはすぐ真事しんじの床ゆかを敷かしきかして、彼かれを寝間ねまの方ほうへ追いやっおいやった。
興きょうに乗っのった叔父おじの話はなしはますます発展はってんするばかりであった。
「そりゃ昔むかししだって恋愛れんあい事件じけんはあったよ。いくらお朝あさが怖いこわい顔かおをしたってあったに違いないが、だね。そこにまた今いまの若いわかいものにはとうてい解らわからない方面ほうめんもあるんだから、妙みょうだろう。昔むかしは女おんなの方ほうで男おとこに惚れほれたけれども、男おとこの方ほうではけっして女おんなに惚れほれなかったもんだ。――ねえお朝あさそうだったろう」「どうだか存じぞんじませんよ」 叔母おばは真事しんじの立ったった後あとへ坐っすわって、さっさと松まつ茸飯たけめしを手て盛さかんにして食べたべ始めはじめた。
「そう怒っどったって仕方しかたがない。そこに事実じじつがあると同時どうじに、一種いっしゅの哲学てつがくがあるんだから。今いまおれがその哲学てつがくを講釈こうしゃくしてやる」「もうそんなむずかしいものは、伺わうかがわなくってもたくさんです」「じゃ若いわかいものだけに教えおしえてやる。由雄よしおも小林こばやしも参考さんこうのためによく聴いきいとくがいい。いったいお前おまえ達とおるは他ほかの娘むすめを何なんだと思うおもう」「女おんなだと思っおもってます」 津田つだは交ぜ返しまぜかえし半分はんぶんわざと返事へんじをした。
「そうだろう。ただ女おんなだと思うおもうだけで、娘むすめとは思わおもわないんだろう。それがおれ達とおるとは大違いおおちがいだて。おれ達とおるは父母ふぼから独立どくりつしたただの女おんなとして他人たにんの娘むすめを眺めながめた事ことがいまだかつてない。だからどこのお嬢さんおじょうさんを拝見はいけんしても、そのお嬢さんおじょうさんには、父母ふぼという所有者しょゆうしゃがちゃんと食っしょくっついてるんだと始めはじめから観念かんねんしている。だからいくら惚れほれたくっても惚れほれられなくなる義理ぎりじゃないか。なぜと云っいって御覧ごらん、惚れるほれるとか愛し合うあいしあうとかいうのは、つまり相手あいてをこっちが所有しょゆうしてしまうという意味いみだろう。すでに所有権しょゆうけんのついてるものに手てを出すだすのは泥棒どろぼうじゃないか。そういう訳わけで義理ぎり堅いかたい昔むかしの男おとこはけっして惚れほれなかったね。もっとも女おんなはたしかに惚れほれたよ。現にげんにそこで松まつ茸飯たけめしを食っしょくってるお朝あさなぞも実じつはおれに惚れほれたのさ。しかしおれの方ほうじゃかつて彼女かのじょを愛しあいした覚さとしがない」「どうでもいいから、もう好いよい加減かげんにして御飯ごはんになさい」 真事しんじを寝かしつけねかしつけに行っいったお金おかねさんを呼び返しよびかえした叔母おばは、彼女かのじょにいいつけて、みんなの茶碗ちゃわんに飯めしをよそわせた。
津田つだは仕方なししかたなしに、ひとり下した味いあじわい食しょく麺めん麭をにちゃにちゃ噛んかんだ。
三十二さんじゅうに
食後しょくごの話はなしはもうはずまなかった。
と云っいって、別べつにしんみりした方面ほうめんへ落ちおちて行くいくでもなかった。
人々ひとびとの興味きょうみを共通きょうつうに支配しはいする題目だいもくの柱はしらが折れおれた時じのように、彼かれらはてんでんばらばらに口くちを聞いきいた後あとで、誰だれもそれを会話かいわの中心ちゅうしんに纏めようまとめようと努力どりょくするもののないのに気きが付いついた。
餉台の上うえに両肱りょうひじを突いついた叔父おじが酔よい後あとの欠けつを続けざまつづけざまに二につした。
叔母おばが下女げじょを呼んよんで残物ざんぶつを勝手かってへ運ばはこばした。
先刻せんこくから重苦しいおもくるしい空気くうきの影響えいきょうを少しすこしずつ感じかんじていた津田つだの胸むねに、今夜こんや聞いきいた叔父おじの言葉ことばが、月つきの面めんを過ぎるすぎる浮雲うきぐものように、時々ときどき薄いうすい陰かげを投げなげた。
そのたびに他人たにんから見るみると、麦酒びーるの泡あわと共ともに消えきえてしまうべきはずの言葉ことばを、津田つだはかえって意味いみありげに自分じぶんで追いかけおいかけて見みたり、また自分じぶんで追い戻しおいもどして見みたりした。
そこに気きのついた時じ、彼かれは我われながら不愉快ふゆかいになった。
同時どうじに彼かれは自分じぶんと叔母おばとの間まに取りとり換かえわされた言葉ことばの投げなげ合あわせも思い出さおもいださずにはいられなかった。
その投げなげ合あわせの間ま、彼かれは始終しじゅう自分じぶんを抑えつけおさえつけて、なるべく心こころの色いろを外そとへ出さださないようにしていた。
そこに彼かれの誇りほこりがあると共ともに、そこに一種いっしゅの不快ふかいも潜んひそんでいたことは、彼かれの気分きぶんが彼かれに教えるおしえる事実じじつであった。
半日はんじつ以上いじょうの暇ひまを潰しつぶしたこの久しぶりひさしぶりの訪問ほうもんを、単にたんにこういう快かい不快ふかいの立場たちばから眺めながめた津田つだは、すぐその対照たいしょうとして活溌かっぱつな吉川よしかわ夫人ふじんとその綺麗きれいな応接おうせつ間まとを記憶きおくの舞台ぶたいに躍らしおどらした。
つづいて近頃ちかごろようやく丸髷まるまげに結いゆい出しだしたお延のべの顔かおが眼めの前まえに動いうごいた。
彼かれは座ざを立とうたとうとして小林こばやしを顧みかえりみた。
「君きみはまだいるかね」「いや。僕ぼくももう御ご暇ひましよう」 小林こばやしはすぐ吸いすい残しのこした敷島しきしまの袋ふくろを洋よう袴はかまの隠いん袋ふくろへねじ込んねじこんだ。
すると彼かれらの立ちたち際さいに、叔父おじが偶然ぐうぜんらしくまた口くちを開いひらいた。
「お延のべはどうしたい。行こういこう行こういこうと思いおもいながら、つい貧乏びんぼう暇ひまなしだもんだから、御無沙汰ごむさたをしている。宜しくよろしく云っいってくれ。お前おまえの留守るすにゃ閑かんで困るこまるだろうね、彼かれの女おんなも。いったい何なんをして暮しくらしてるかね」「何なんって別べつにする事こともないでしょうよ」 こう散漫さんまんに答えこたえた津田つだは、何なんと思っおもったか急きゅうに後あとからつけ足しつけたした。
「病院びょういんへいっしょに入りいりたいなんて気楽きらくな事ことをいうかと思うおもうと、やれ髪かみを刈れかれの湯ゆに行けいけのって、叔母おばさんよりもよっぽどやかましい事ことを云いいいますよ」「感心かんしんじゃないか。お前おまえのようなお洒落おしゃれにそんな注意ちゅういをしてくれるものはほかにありゃしないよ」「ありがたい仕合せしあわせだな」「芝居しばいはどうだい。近頃ちかごろ行くいくかい」「ええ時々ときどき行きいきます。この間まも岡本おかもとから誘わさそわれたんだけれども、あいにくこの病気びょうきの方ほうの片かたをつけなけりゃならないんでね」 津田つだはそこでちょっと叔母おばの方ほうを見みた。
「どうです、叔母おばさん、近いちかい内うち帝劇ていげきへでも御ご案内あんないしましょうか。たまにゃああいう所ところへ行っいって見るみるのも薬くすりですよ、気きがはればれしてね」「ええありがとう。だけど由雄よしおさんの御ご案内あんないじゃ――」「お厭いやですか」「厭いやより、いつの事ことだか分らわからないからね」 芝居しばい場ばなどを余りあまり好まこのまない叔母おばのこの返事へんじを、わざと正面しょうめんに受けうけた津田つだは頭あたまを掻いかいて見せみせた。
「そう信用しんようがなくなった日ひにゃ僕ぼくもそれまでだ」 叔母おばはふふんと笑っわらった。
「芝居しばいはどうでもいいが、由雄よしおさん京都きょうとの方ほうはどうして、それから」「京都きょうとから何なんとか云っいって来きましたかこっちへ」 津田つだは少しすこし真剣しんけんな表情ひょうじょうをして、叔父おじと叔母おばの顔かおを見比べみくらべた。
けれども二人ふたりは何なんとも答えこたえなかった。
「実じつは僕ぼくの所ところへ今月こんげつは金きんを送れおくれないから、そっちでどうでもしろって、お父さんおちちさんが云っいって来きたんだが、ずいぶん乱暴らんぼうじゃありませんか」 叔父おじは笑うわらうだけであった。
「兄貴あにきは怒っどってるんだろう」「いったいお秀おひでがまた余計よけいな事ことを云っいってやるからいけない」 津田つだは少しすこし忌々しいまいましそうに妹いもうとの名前なまえを口くちにした。
「お秀おひでに咎とがはありません。始めはじめから由雄よしおさんの方ほうが悪いわるいにきまってるんだもの」「そりゃそうかも知れしれないけれども、どこの国くににあなた阿爺あやから送っおくって貰っもらった金きんを、きちんきちん返すかえす奴やつがあるもんですか」「じゃ最初さいしょからきちんきちん返すかえすって約束やくそくなんかしなければいいのに。それに……」「もう解りわかりましたよ、叔母おばさん」 津田つだはとても敵わかなわないという心持こころもちをその様子ようすに見せみせて立ち上がったちあがった。
しかし敗北はいぼくの結果けっか急いいそいで退却たいきゃくする自分じぶんに景気けいきを添えるそえるため、促がすうながすように小林こばやしを引張っひっぱって、いっしょに表ひょうへ出るでる事ことを忘れわすれなかった。
三十三さんじゅうさん
戸外こがいには風かぜもなかった。
静かしずかな空気くうきが足早あしばやに歩くあるく二人ふたりの頬ほおに冷たくつめたく触れふれた。
星ほしの高くたかく輝やくかがやく空そらから、眼めに見えみえない透明とうめいな露ろがしとしと降りふりているらしくも思わおもわれた。
津田つだは自分じぶんで外套がいとうの肩かたを撫でなでた。
その外套がいとうの裏側うらがわに滲み込んにじみこんでくるひんやりした感じかんじを、はっきり指先ゆびさきで味わっあじわって見みた彼かれは小林こばやしを顧みかえりみた。
「日中にっちゅうは暖かあたたかだが、夜よるになるとやっぱり寒いさむいね」「うん。何なんと云っいってももう秋あきだからな。実際じっさい外套がいとうが欲しいほしいくらいだ」 小林こばやしは新調しんちょうの三さんつ揃の上うえに何になんにも着きていなかった。
ことさらに爪先つまさきを厚くあつく四角しかくに拵えこしらえたいかつい亜米利加あめりか型かたの靴くつをごとごと鳴らしならして、太いふとい洋杖すてっきをわざとらしくふり廻すふりまわす彼かれの態度たいどは、まるで冷たいつめたい空気くうきに抵抗ていこうする示威じい運動うんどう者ものに異ならことならなかった。
「君きみ学校がっこうにいた時分じぶん作っつくったあの自慢じまんの外套がいとうはどうした」 彼かれは突然とつぜん意外いがいな質問しつもんを津田つだにかけた。
津田つだは彼かれにその外套がいとうを見せびらかしみせびらかした当時とうじを思い出さおもいださない訳わけに行かいかなかった。
「うん、まだあるよ」「まだ着きているのか」「いくら僕ぼくが貧乏びんぼうだって、書生しょせい時代じだいの外套がいとうを、そう大事だいじそうにいつまで着きているものかね」「そうか、それじゃちょうど好いよい。あれを僕ぼくにくれ」「欲しけれほしければやっても好いよい」 津田つだはむしろ冷やかひややかに答えこたえた。
靴足袋くつたびまで新らしくあたらしくしている男おとこが、他ほかの着古しきふるした外套がいとうを貰いもらいたがるのは少しすこし矛盾むじゅんであった。
少くすくなくとも、その人ひとの生活せいかつに横わるよこたわる、不規則ふきそくな物質的ぶっしつてきの凸凹でこぼこを証拠しょうこ立てたてていた。
しばらくしてから、津田つだは小林こばやしに訊いきいた。
「なぜその背広せびろといっしょに外套がいとうも拵えこしらえなかったんだ」「君きみと同どうなじように僕ぼくを考えかんがえちゃ困るこまるよ」「じゃどうしてその背広せびろだの靴くつだのができたんだ」「訊ききき方ほうが少しすこし手て酷しきびし過ぎるすぎるね。なんぼ僕ぼくだってまだ泥棒どろぼうはしないから安心あんしんしてくれ」 津田つだはすぐ口くちを閉じとじた。
二人ふたりは大きなおおきな坂さかの上うえに出でた。
広いひろい谷たにを隔てへだてて向むかいに見えるみえる小高いこだかい岡おかが、怪獣かいじゅうの背せのように黒くくろく長くながく横わっよこたわっていた。
秋あきの夜よるの灯火とうかがところどころに点々てんてんと少量しょうりょうの暖かみあたたかみを滴らしたらした。
「おい、帰りかえりにどこかで一杯いちばいやろうじゃないか」 津田つだは返事へんじをする前まえに、まず小林こばやしの様子ようすを窺っうかがった。
彼かれらの右手みぎてには高いたかい土手どてがあって、その土手どての上うえには蓊欝した竹藪たけやぶが一面いちめんに生いいい被さっかぶさっていた。
風かぜがないので竹たけは鳴らならなかったけれども、眠っねむったように見えるみえるその笹ささの葉はの梢こずえは、季節きせつ相応そうおうな蕭索しょうさくの感じかんじを津田つだに与えるあたえるに充分じゅうぶんであった。
「ここはいやに陰気いんきな所ところだね。どこかの大名だいみょう華族かぞくの裏うらに当るあたるんで、いつまでもこうして放っはなってあるんだろう。早くはやく切り開いきりひらいちまえばいいのに」 津田つだはこういって当面とうめんの挨拶あいさつをごまかそうとした。
しかし小林こばやしの眼めに竹藪たけやぶなぞはまるで入らはいらなかった。
「おい行こういこうじゃないか、久しぶりひさしぶりで」「今いま飲んのんだばかりだのに、もう飲みのみたくなったのか」「今いま飲んのんだばかりって、あれっぱかり飲んのんだんじゃ飲んのんだ部ぶへ入らはいらないからね」「でも君きみはもう充分じゅうぶんですって断っことわっていたじゃないか」「先生せんせいや奥さんおくさんの前まえじゃ遠慮えんりょがあって酔えよえないから、仕方なししかたなしにああ云っいったんだね。まるっきり飲まのまないんならともかくも、あのくらい飲まのませられるのはかえって毒どくだよ。後あとから適当てきとうの程度ていどまで酔っよいっておいて止めとめないと身体しんたいに障るさわるからね」 自分じぶんに都合つごうの好いよい理窟りくつを勝手にかってに拵らえこしらえて、何なんでも津田つだを引張ろうひっぱろうとする小林こばやしは、彼かれにとって少しすこし迷惑めいわくな伴侶はんりょであった。
彼かれは冷かしひやかし半分はんぶんに訊いきいた。
「君きみが奢るおごるのか」「うん奢っおごっても好いよい」「そうしてどこへ行くいくつもりなんだ」「どこでも構わかまわない。おでん屋やでもいいじゃないか」 二人ふたりは黙っだまって坂さかの下したまで降りふりた。
三十四さんじゅうよん
順路じゅんろからいうと、津田つだはそこを右みぎへ折れおれ、小林こばやしは真直まっすぐに行かいかなければならなかった。
しかし体からだよく分れようわかれようとして帽子ぼうしへ手てをかけた津田つだの顔かおを、小林こばやしは覗き込むのぞきこむように見みて云っいった。
「僕ぼくもそっちへ行くいくよ」 彼かれらの行くいく方角ほうがくには飲み食いのみくいに都合つごうのいい町まちが二三にさん町まち続いつづいていた。
その中程なかほどにある酒場さかばめいた店みせの硝子戸がらすとが、暖かあたたかそうに内側うちがわから照らさてらされているのを見つけみつけた時じ、小林こばやしはすぐ立ちどまったちどまった。
「ここが好いよい。ここへ入ろうはいろう」「僕ぼくは厭いやだよ」「君きみの気きに入りいりそうな上等じょうとうの宅たくはここいらにないんだから、ここで我慢がまんしようじゃないか」「僕ぼくは病気びょうきだよ」「構わかまわん、病気びょうきの方ほうは僕ぼくが受け合っうけあってやるから、心配しんぱいするな」「冗談じょうだん云ういうな。厭いやだよ」「細君さいくんには僕ぼくが弁解べんかいしてやるからいいだろう」 面倒めんどうになった津田つだは、小林こばやしをそこへ置き去りおきざりにしたまま、さっさと行こういこうとした。
すると彼かれとすれすれに歩あゆみを移しうつして来きた小林こばやしが、少しすこし改まっあらたまった口調くちょうで追究ついきゅうした。
「そんなに厭かいやか、僕ぼくといっしょに酒さけを飲むのむのは」 実際じっさいそんなに厭いやであった津田つだは、この言葉ことばを聞くきくとすぐとまった。
そうして自分じぶんの傾向けいこうとはまるで反対はんたいな決断けつだんを外部がいぶへ現わしあらわした。
「じゃ飲もうのもう」 二人ふたりはすぐ明るいあかるい硝子戸がらすとを引いひいて中なかへ入っはいった。
客きゃくは彼かれらのほかに五六ごろく人ひといたぎりであったが、店みせがあまり広くひろくないので、比較的ひかくてき込み合っこみあっているように見えみえた。
割合わりあい楽らくに席せきの取れとれそうな片隅かたすみを択んえらんで、差し向いさしむかいに腰こしをおろした二人ふたりは、通しとおした注文ちゅうもんの来るくる間ま、多少たしょう物珍らしものめずらしそうな眼めを周囲しゅういへ向けむけた。
服装ふくそうから見みた彼かれらの相客あいきゃく中なかに、社会的しゃかいてき地位ちいのありそうなものは一人ひとりもなかった。
湯ゆ帰りかえりと見えみえて、縞しまの半纏はんてんの肩かたへ濡れぬれ手拭てぬぐいを掛けかけたのだの、木綿もめん物ものに角帯かくおびを締めしめて、わざとらしく平打ひらうちの羽織はおりの紐ひもの真中まなかへ擬ぎ物ものの翡翠ひすいを通しとおしたのだのはむしろ上等じょうとうの部ぶであった。
ずっとひどいのは、まるで紙屑かみくず買かいとしか見えみえなかった。
腹掛はらがけ股引ももひきも一人ひとり交っかっていた。
「どうだ平民へいみん的まとでいいじゃないか」 小林こばやしは津田つだの猪口ちょこへ酒さけを注ぎそそぎながらこう云っいった。
その言葉ことばを打ち消すうちけすような新調しんちょうしたての派出はしゅつな彼かれの背広せびろが、すぐことさららしく津田つだの眼めに映っうつったが、彼かれ自身じしんはまるでそこに気きがついていないらしかった。
「僕ぼくは君きみと違っちがってどうしても下等したとう社しゃ界さかいの方ほうに同情どうじょうがあるんだからな」 小林こばやしはあたかもそこに自分じぶんの兄弟きょうだい分ぶんでも揃っそろっているような顔かおをして、一同いちどうを見廻しみまわした。
「見みたまえ。彼かれらはみんな上流社会じょうりゅうしゃかいより好いよい人相にんそうをしているから」 挨拶あいさつをする勇気ゆうきのなかった津田つだは、一同いちどうを見廻すみまわす代りかわりに、かえって小林こばやしを熟視じゅくしした。
小林こばやしはすぐ譲歩じょうほした。
「少くすくなくとも陶然とうぜんとしているだろう」「上流社会じょうりゅうしゃかいだって陶然とうぜんとするからな」「だが陶然とうぜんとしかたが違うちがうよ」 津田つだは昂然こうぜんとして両者りょうしゃの差違さいを訊かきかなかった。
それでも小林こばやしは少しすこしも悄気しょげずに、ぐいぐい杯さかずきを重ねかさねた。
「君きみはこういう人間にんげんを軽蔑けいべつしているね。同情どうじょうに価あたいしないものとして、始めはじめから見くびっみくびっているんだ」 こういうや否いなや、彼かれは津田つだの返事へんじも待たまたずに、向うむこうにいる牛乳ぎゅうにゅう配達はいたつ見みたような若ものわかものに声こえをかけた。
「ねえ君きみ。そうだろう」 出し抜けだしぬけに呼びかけよびかけられた若者わかものは倔くつ強きょうな頸筋くびすじを曲げまげてちょっとこっちを見みた。
すると小林こばやしはすぐ杯さかずきをそっちの方ほうへ出しだした。
「まあ君きみ一いち杯さかずき飲みのみたまえ」 若者わかものはにやにやと笑っわらった。
不幸ふこうにして彼かれと小林こばやしとの間まには一いち間まほどの距離きょりがあった。
立ったって杯さかずきを受けるうけるほどの必要ひつようを感じかんじなかった彼かれは、微笑びしょうするだけで動かうごかなかった。
しかしそれでも小林こばやしには満足まんぞくらしかった。
出しだした杯さかずきを引込めひっこめながら、自分じぶんの口くちへ持っもって行っいった時じ、彼かれはまた津田つだに云っいった。
「そらあの通りとおりだ。上流社会じょうりゅうしゃかいのように高慢ちきこうまんちきな人間にんげんは一人ひとりもいやしない」
三十五さんじゅうご
インヴァネスいんゔぁねすを着きた小作りこづくりな男おとこが、半纏はんてんの角刈かくがりと入れいれ違いに這入っはいって来きて、二人ふたりから少しすこし隔っへだたった所ところに席せきを取っとった。
廂ひさしを深くふかくおろした鳥打とりうちを被っかぶったまま、彼かれは一応いちおうぐるりと四方しほうを見廻しみまわした後あとで、懐ふところへ手てを入れいれた。
そうしてそこから取り出しとりだした薄いうすい小型こがたの帳面ちょうづらを開けあけて、読むよむのだか考えるかんがえるのだか、じっと見つめみつめていた。
彼かれはいつまで経っきょうっても、古ぼけふるぼけたトンビとんびを脱ごうぬごうとしなかった。
帽子ぼうしも頭あたまへ載せのせたままであった。
しかし帳面ちょうづらはそんなに長くながくひろげていなかった。
大事だいじそうにそれを懐ふところへしまうと、今度こんどは飲みのみながら、じろりじろりと他ほかの客きゃくを、見みないようにして見み始めはじめた。
その相間あいま相間あいまには、ちんちくりんな外套がいとうの羽根はねの下したから手てを出しだして、薄いうすい鼻はなの下したの髭ひげを撫でなでた。
先刻せんこくから気きをつけるともなしにこの様子ようすに気きをつけていた二人ふたりは、自分じぶん達とおるの視線しせんが彼かれの視線しせんに行き合っいきあった時じ、ぴたりと真向まっこうになって互たがいに顔かおを見合せみあわせた。
小林こばやしは心持こころもち前まえへ乗り出しのりだした。
「何なんだか知っしってるか」 津田つだは元もとの通りとおりの姿勢しせいを崩さくずさなかった。
ほとんど返事へんじに価あたいしないという口調くちょうで答えこたえた。
「何なんだか知るしるもんか」 小林こばやしはなお声こえを低くひくくした。
「あいつは探偵たんていだぜ」 津田つだは答えこたえなかった。
相手あいてより酒量しゅりょうの強いつよい彼かれは、かえって相手あいてほど平生へいぜいを失わうしなわなかった。
黙っだまって自分じぶんの前まえにある猪口ちょこを干しほした。
小林こばやしはすぐそれへなみなみと注いそそいだ。
「あの眼つきめつきを見ろみろ」 薄笑いうすわらいをした津田つだはようやく口くちを開いひらいた。
「君きみ見みたいにむやみに上流社会じょうりゅうしゃかいの悪口わるぐちをいうと、さっそく社会主義者しゃかいしゅぎしゃと間違えまちがえられるぞ。少しすこし用心ようじんしろ」「社会主義者しゃかいしゅぎしゃ?」 小林こばやしはわざと大きなおおきな声こえを出しだして、ことさらにインヴァネスいんゔぁねすの男おとこの方ほうを見みた。
「笑わらいわかわがせやがるな。こっちゃ、こう見えみえたって、善良ぜんりょうなる細民さいみんの同情どうじょう者ものだ。僕ぼくに比べるくらべると、乙おつに上品じょうぼんぶって取りとり繕つくろいろってる君達きみたちの方ほうがよっぽどの悪者わるものだ。どっちが警察けいさつへ引っ張らひっぱられて然るしかるべきだかよく考えかんがえて見ろみろ」 鳥打とりうちの男おとこが黙っだまって下したを向いむかいているので、小林こばやしは津田つだに喰っくってかかるよりほかに仕方しかたがなかった。
「君きみはこうした土方ひじかたや人足にんそくをてんから人間にんげん扱いあつかいにしないつもりかも知れしれないが」 小林こばやしはまたこう云いいいかけて、そこいらを見廻しみまわしたが、あいにくどこにも土方ひじかたや人足にんそくはいなかった。
それでも彼かれはいっこう構わかまわずにしゃべりつづけた。
「彼かれらは君きみや探偵たんていよりいくら人間にんげんらしい崇高すうこうな生地きじをうぶのままもってるか解らわからないぜ。ただその人間にんげんらしい美しうつくしさが、貧苦ひんくという塵埃じんあいで汚れよごれているだけなんだ。つまり湯ゆに入れいれないから穢えないんだ。馬鹿ばかにするな」 小林こばやしの語気ごきは、貧民ひんみんの弁護べんごというよりもむしろ自家じかの弁護べんごらしく聞こえきこえた。
しかしむやみに取り合っとりあってこっちの体面たいめんを傷けきずつけられては困るこまるという用心ようじんが頭あたまに働くはたらくので、津田つだはわざと議論ぎろんを避けさけていた。
すると小林こばやしがなお追かけおいかけて来きた。
「君きみは黙っだまってるが僕ぼくのいう事ことを信じしんじないね。たしかに信じしんじない顔つきかおつきをしている。そんなら僕ぼくが説明せつめいしてやろう。君きみは露西亜ろしあの小説しょうせつを読んよんだろう」 露西亜ろしあの小説しょうせつを一いち冊さつも読んよんだ事ことのない津田つだはやはり何なんとも云わいわなかった。
「露西亜ろしあの小説しょうせつ、ことにドストエヴスキの小説しょうせつを読んよんだものは必ずかならず知っしってるはずだ。いかに人間にんげんが下賤げせんであろうとも、またいかに無む教育きょういくであろうとも、時じとしてその人ひとの口くちから、涙なみだがこぼれるほどありがたい、そうして少しすこしも取り繕わとりつくろわない、至純しじゅん至いたり精せいの感情かんじょうが、泉いずみのように流れ出しながれだして来るくる事ことを誰だれでも知っしってるはずだ。君きみはあれを虚偽きょぎと思うおもうか」「僕ぼくはドストエヴスキを読んよんだ事ことがないから知らしらないよ」「先生せんせいに訊くきくと、先生せんせいはありゃ嘘うそだと云ういうんだ。あんな高尚こうしょうな情操じょうそうをわざと下劣げれつな器うつわに盛っもって、感傷的かんしょうてきに読者どくしゃを刺戟しげきする策略さくりゃくに過ぎすぎない、つまりドストエヴスキがあたったために、多くおおくの模倣もほう者ものが続出ぞくしゅつして、むやみに安っぽくやすっぽくしてしまった一種いっしゅの芸術的げいじゅつてき技巧ぎこうに過ぎすぎないというんだ。しかし僕ぼくはそうは思わおもわない。先生せんせいからそんな事ことを聞くきくと腹はらが立つたつ。先生せんせいにドストエヴスキは解らわからない。いくら年齢ねんれいを取っとったって、先生せんせいは書物しょもつの上うえで年齢ねんれいを取っとっただけだ。いくら若かろうわかかろうが僕ぼくは……」 小林こばやしの言葉ことばはだんだん逼っせまって来きた。
しまいに彼かれは感慨かんがいに堪えこらえんという顔かおをして、涙なみだをぽたぽた卓たく布ぬのの上うえに落しおとした。
三十六さんじゅうろく
不幸ふこうにして津田つだの心臓しんぞうには、相手あいてに釣り込まつりこまれるほどの酔よいが廻っまわっていなかった。
同化どうかの埒外らちがいからこの興奮こうふん状態じょうたいを眺めるながめる彼かれの眼めはついに批判的ひはんてきであった。
彼かれは小林こばやしを泣かなきかせるものが酒さけであるか、叔父おじであるかを疑っうたがった。
ドストエヴスキであるか、日本にっぽんの下層かそう社会しゃかいであるかを疑っうたがった。
そのどっちにしたところで、自分じぶんとあまり交渉こうしょうのない事こともよく心得こころえていた。
彼かれはつまらなかった。
また不安ふあんであった。
感激かんげき家いえによって彼かれの前まえにふり落さふりおとされた涙なみだの痕あとを、ただ迷惑めいわくそうに眺めながめた。
探偵たんていとして物色ぶっしょくされた男おとこは、懐ふところからまた薄いうすい手帳てちょうを出しだして、その中なかへ鉛筆えんぴつで何なんかしきりに書きつけかきつけ始めはじめた。
猫ねこのように物静かものしずかでありながら、猫ねこのようにすべてを注意ちゅういしているらしい彼かれの挙動きょどうが、津田つだを変へんな気持きもちにした。
けれども小林こばやしの酔よいは、もうそんなところを通り越しとおりこしていた。
探偵たんていなどはまるで眼中がんちゅうになかった。
彼かれは新調しんちょうの背広せびろの腕うでをいきなり津田つだの鼻はなの先さきへ持っもって来きた。
「君きみは僕ぼくが汚ないきたない服装ふくそうをすると、汚ないきたないと云っいって軽蔑けいべつするだろう。またたまに綺麗きれいな着物きものを着るきると、今度こんどは綺麗きれいだと云っいって軽蔑けいべつするだろう。じゃ僕ぼくはどうすればいいんだ。どうすれば君きみから尊敬そんけいされるんだ。後生こうせいだから教えおしえてくれ。僕ぼくはこれでも君きみから尊敬そんけいされたいんだ」 津田つだは苦笑くしょうしながら彼かれの腕うでを突き返しつきかえした。
不思議ふしぎにもその腕うでには抵抗力ていこうりょくがなかった。
最初さいしょの勢いきおいが急きゅうにどこかへ抜けぬけたように、おとなしく元もとの方角ほうがくへ戻っもどって行っいった。
けれども彼かれの口くちは彼かれの腕うでほど素直すなおではなかった。
手てを引込ひっこめました彼かれはすぐ口くちを開いひらいた。
「僕ぼくは君きみの腹はらの中なかをちゃんと知っしってる。君きみは僕ぼくがこれほど下層かそう社会しゃかいに同情どうじょうしながら、自分自身じぶんじしん貧乏びんぼうな癖くせに、新らしいあたらしい洋服ようふくなんか拵えこしらえたので、それを矛盾むじゅんだと云っいって笑うわらう気きだろう」「いくら貧乏びんぼうだって、洋服ようふくの一いち着きぐらい拵えるこしらえるのは当り前あたりまえだよ。拵えこしらえなけりゃ赤裸あかはだかで往来おうらいを歩かふかなければなるまい。拵えこしらえたって結構けっこうじゃないか。誰だれも何なんとも思っおもってやしないよ」「ところがそうでない。君きみは僕ぼくをただめかすんだと思っおもってる。お洒落おしゃれだと解釈かいしゃくしている。それが悪いわるい」「そうか。そりゃ悪かっわるかった」 もうやりきれないと観念かんねんした津田つだは、とうとう降参こうさんの便利べんりを悟っさとったので、好いよい加減かげんに調子ちょうしを合せあわせ出しだした。
すると小林こばやしの調子ちょうしも自然しぜんと変っかわって来きた。
「いや僕ぼくも悪いわるい。悪かっわるかった。僕ぼくにも洒落気しゃれけはあるよ。そりゃ僕ぼくも充分じゅうぶん認めるみとめる。認めるみとめるには認めるみとめるが、僕ぼくがなぜ今度こんどこの洋服ようふくを作っつくったか、その訳わけを君きみは知るしるまい」 そんな特別とくべつの理由りゆうを津田つだは固よりもとより知ろうしろうはずがなかった。
また知りしりたくもなかった。
けれども行きいきがかり上うえ訊いきいてやらない訳わけにも行かいかなかった。
両手りょうてを左右さゆうへひろげた小林こばやしは、自分じぶんで自分じぶんの服装ふくそうを見廻しみまわしながら、むしろ心細こころぼそそうに答えこたえた。
「実じつはこの着物きもので近々ちかぢか都落みやこおちをやるんだよ。朝鮮ちょうせんへ落ちるおちるんだよ」 津田つだは始めはじめて意外いがいな顔かおをして相手あいてを見みた。
ついでに先刻せんこくから苦くになっていた襟えり飾かざりの横っちょよこっちょに曲っきょくっているのを注意ちゅういして直さなおさせた後あとで、また彼かれの話はなしを聴きききつづけた。
長いながい間ま叔父おじの雑誌ざっしの編輯へんしゅうをしたり、校正こうせいをしたり、その間まには自分じぶんの原稿げんこうを書いかいて、金きんをくれそうな所ところへ方々かたがた持っもって廻っまわったりして、始終しじゅう忙がしいそがしそうに見えみえた彼かれは、とうとう東京とうきょうにいたたまれなくなった結果けっか、朝鮮ちょうせんへ渡っわたって、そこの或ある新聞社しんぶんしゃへ雇わやとわれる事ことに、はぼ相談そうだんがきまったのであった。
「こう苦しくくるしくっちゃ、いくら東京とうきょうに辛しん防ぼうしていたって、仕方しかたがないからね。未来みらいのない所ところに住んすんでるのは実際じっさい厭いやだよ」 その未来みらいが朝鮮ちょうせんへ行けいけば、あらゆる準備じゅんびをして自分じぶんを待っまっていそうな事ことをいう彼かれは、すぐまた前言ぜんげんを取り消すとりけすような口くちも利いきいた。
「要するようするに僕ぼくなんぞは、生涯しょうがい漂浪ひょうろうして歩くあるく運命うんめいをもって生れうまれて来きた人間にんげんかも知れしれないよ。どうしても落ちつけおちつけないんだもの。たとい自分じぶんが落ちつくおちつく気きでも、世間せけんが落ちつかおちつかせてくれないから残酷ざんこくだよ。駈落者ものになるよりほかに仕方しかたがないじゃないか」「落ちつけおちつけないのは君きみばかりじゃない。僕ぼくだってちっとも落ちついおちついていられやしない」「もったいない事ことをいうな。君きみの落ちつけおちつけないのは贅沢ぜいたくだからさ。僕ぼくのは死ぬしぬまで麺めん麭を追かけおいかけて歩かふかなければならないんだから苦しいくるしいんだ」「しかし落ちつけおちつけないのは、現代人げんだいにんの一般いっぱんの特色とくしょくだからね。苦しいくるしいのは君きみばかりじゃないよ」 小林こばやしは津田つだの言葉ことばから何なんらの慰藉いしゃを受けるうける気色けしきもなかった。
三十七さんじゅうなな
先刻せんこくから二人ふたりの様子ようすを眺めながめていた下女げじょが、いきなり来きて、わざとらしく食卓しょくたくの上うえを片づけかたづけ始めはじめた。
それを相図あいずのように、インヴァネスいんゔぁねすを着きた男おとこがすうと立ち上ったちのぼった。
疾うとうに酒さけをやめて、ただ話はなしばかりしていた二人ふたりも澄ましすましている訳わけに行かいかなかった。
津田つだは機会きかいを捉えとらえてすぐ腰こしを上げあげた。
小林こばやしは椅子いすを離れるはなれる前まえに、まず彼かれらの間まに置かおかれたM・C・C・の箱ばこを取っとった。
そうしてその中なかからまた新らしいあたらしい金口きんぐちを一いち本ほん出しだしてそれに火ひを点けつけた。
行きがけいきがけの駄賃だちんらしいこの所作しょさが、煙草たばこの箱ばこを受け取っうけとって袂たもとへ入れるいれる津田つだの眼めを、皮肉ひにくに擽ぐったくくすぐったくした。
時刻じこくはそれほどでなかったけれども、秋あきの夜よるの往来おうらいは意外いがいに更けふけやすかった。
昼ひるは耳みみにつかない一種いっしゅの音おとを立てたてて電車でんしゃが遠くとおくの方ほうを走っはしっていた。
別々べつべつの気分きぶんに働らきはたらきかけられている二人ふたりの黒いくろい影かげが、まだ離れはなれずに河かわの縁えんをつたって動いうごいて行っいった。
「朝鮮ちょうせんへはいつ頃いつごろ行くいくんだね」「ことによると君きみの病院びょういんへ入いりいっているうちかも知れしれない」「そんなに急きゅうに立つたつのか」「いやそうとも限らかぎらない。もう一遍いちぺん先生せんせいが向うむこうの主筆しゅひつに会っかいってくれてからでないと、判然はんぜんした事ことは分らわからないんだ」「立つたつ日ひがかい、あるいは行くいく事ことがかい」「うん、まあ――」 彼かれの返事へんじは少しすこし曖昧あいまいであった。
津田つだがそれを追究ついきゅうもしないで、さっさと行きいき出しだした時じ、彼かれはまた云いいい直しなおした。
「実じつを云ういうと、僕ぼくは行きいきたくもないんだがなあ」「藤井ふじいの叔父おじが是非ぜひ行けいけとでも云ういうのかい」「なにそうでもないんだ」「じゃ止しよしたらいいじゃないか」 津田つだの言葉ことばは誰だれにでも解りわかり切っきった理窟りくつなだけに、同情どうじょうに飢えうえていそうな相手あいての気分きぶんを残酷ざんこくに射貫いいぬいたと一般いっぱんであった。
数すう歩あゆみの後あと、小林こばやしは突然とつぜん津田つだの方ほうを向いむかいた。
「津田つだ君きみ、僕ぼくは淋しいさびしいよ」 津田つだは返事へんじをしなかった。
二人ふたりはまた黙っだまって歩いあるいた。
浅いあさい河床かわどこの真中まなかを、少しすこしばかり流れながれている水みずが、ぼんやり見えるみえる橋杭はしぐいの下したで黒くくろく消えきえて行くいく時じ、幽かかすかに音おとを立てたてて、電車でんしゃの通るとおる相間あいま相間あいまに、ちょろちょろと鳴っなった。
「僕ぼくはやっぱり行くいくよ。どうしても行っいった方ほうがいいんだからね」「じゃ行くいくさ」「うん、行くいくとも。こんな所ところにいて、みんなに馬鹿ばかにされるより、朝鮮ちょうせんか台湾たいわんに行っいった方ほうがよっぽど増しましだ」 彼かれの語気ごきは癇かん走っはしっていた。
津田つだは急きゅうに穏やかおだやかな調子ちょうしを使うつかう必要ひつようを感じかんじた。
「あんまりそう悲観ひかんしちゃいけないよ。年歯ねんしさえ若くわかくって身体しんたいさえ丈夫じょうぶなら、どこへ行っいったって立派りっぱに成せい効かいできるじゃないか。――君きみが立つたつ前まえ一いちつ送別会そうべつかいを開こうひらこう、君きみを愉快ゆかいにするために」 今度こんどは小林こばやしの方ほうがいい返事へんじをしなかった。
津田つだは重ねかさねて跋ばつを合せるあわせる態度たいどに出でた。
「君きみが行っいったらお金おかねさんの結婚けっこんする時じ困るこまるだろう」 小林こばやしは今までいままで頭あたまのなかになかった妹いもうとの事ことを、はっと思い出しおもいだした人ひとのように津田つだを見みた。
「うん、あいつも可哀相かわいそうだけれども仕方しかたがない。つまりこんなやくざな兄貴あにきをもったのが不仕合せふしあわせだと思っおもって、諦たいらめて貰うもらうんだ」「君きみがいなくったって、叔父おじや叔母おばがどうかしてくれるんだろう」「まあそんな事ことになるよりほかに仕方しかたがないからな。でなければこの結婚けっこんを断っことわって、いつまでも下女げじょ代りかわりに、先生せんせいの宅たくで使っつかって貰うもらうんだが、――そいつはまあどっちにしたって同じおなじようなもんだろう。それより僕ぼくはまだ先生せんせいに気の毒きのどくな事ことがあるんだ。もし行くいくとなると、先生せんせいから旅費りょひを借りかりなければならないからね」「向うむこうじゃくれないのか」「くれそうもないな」「どうにかして出さださせたら好いよいだろう」「さあ」 一いち分ぶんばかりの沈黙ちんもくを破っやぶった時じ、彼かれはまた独り言ひとりごとのように云っいった。
「旅費りょひは先生せんせいから借りるかりる、外套がいとうは君きみから貰うもらう、たった一人ひとりの妹いもうとは置いおいてき堀ほりにする、世話せわはないや」 これがその晩ばん小林こばやしの口くちから出でた最後さいごの台詞せりふであった。
二人ふたりはついに分れわかれた。
津田つだは後あとをも見みずにさっさと宅たくの方ほうへ急いいそいだ。
三十八さんじゅうはち
彼かれの門もんは例れいの通りとおり締まっしまっていた。
彼かれは潜り戸くぐりどへ手てをかけた。
ところが今夜こんやはその潜り戸くぐりどもまた開かひらかなかった。
立てたてつけの悪いわるいせいかと思っおもって、二三にさん度どやり直しやりなおしたあげく、力任せちからまかせに戸とを引いひいた時じ、ごとりという重苦しいおもくるしい※の抵抗力ていこうりょくを裏側うらがわに聞いきいた彼かれはようやく断念だんねんした。
彼かれはこの予想外よそうがいの出来事できごとに首くびを傾けかたむけて、しばらく戸との前まえに佇立ちょりつんだ。
新らしいあたらしい世帯せたいを持っもってから今日きょうに至るいたるまで、一度いちども外泊がいはくした覚さとしのない彼かれは、たまに夜よる遅くおそく帰るかえる事ことがあっても、まだこうした経験けいけんには出会わであわなかったのである。
今日きょうの彼かれは灯あかり点しともし頃ころから早くはやく宅たくへ帰りかえりたがっていた。
叔父おじの家いえで名なばかりの晩飯ばんめしを食っしょくったのも仕方なししかたなしに食っしょくったのであった。
進みすすみもしない酒さけを少しすこし飲んのんだのも小林こばやしに対するたいする義理ぎりに過ぎすぎなかった。
夕方ゆうがた以後いごの彼かれは、むしろお延のべの面影おもかげを心こころにおきながら外そとで暮しくらしていた。
その薄ら寒いうすらさみい外そとから帰っかえって来きた彼かれは、ちょうど暖かいあたたかい家庭かていの灯火とうかを慕っしたって、それを目標もくひょうに足あしを運んはこんだのと一般いっぱんであった。
彼かれの身体しんたいが土塀どべいに行き当っゆきあたった馬うまのようにとまると共ともに、彼かれの期待きたいも急きゅうに門前もんぜんで喰いとめくいとめられなければならなかった。
そうしてそれを喰いとめくいとめたものがお延のべであるか、偶然ぐうぜんであるかは、今いまの彼かれにとってけっして小さなちいさな問題もんだいでなかった。
彼かれは手てを挙げあげて開かひらかない潜り戸くぐりどをとんとんと二につ敲いたたいた。
「ここを開けろあけろ」というよりも「ここをなぜ締めしめた」といって詰問きつもんするような音おとが、更けふけ渡りわたりつつある往来おうらいの暗がりくらがりに響いひびいた。
すると内側うちがわですぐ「はい」という返事へんじがした。
ほとんど反響はんきょうに等しいひとしいくらい早くはやく彼かれの鼓膜こまくを打っうったその声こえの主ぬしは、下女げじょでなくてお延のべであった。
急きゅうに静まり返っしずまりかえった彼かれは戸との此方側こちらがわで耳みみを澄ましすました。
用ようのある時じだけ使うつかう事ことにしてある玄関先げんかんさきの電灯でんとうのスウィッチすうぃっちを捩るもじる音おとが明らかあきらかに聞こえきこえた。
格子こうしがすぐがらりと開いひらいた。
入口いりぐちの開き戸ひらきどがまだ閉へいててない事ことはたしかであった。
「どなた?」 潜りもぐりのすぐ向う側むこうがわまで来きた足音あしおとが止まるとまると、お延のべはまずこう云っいって誰何すいかした。
彼かれはなおの事こと急き込んせきこんだ。
「早くはやく開けろあけろ、おれだ」 お延のべは「あらッっ」と叫んさけんだ。
「あなただったの。御免ごめん遊ばせあそばせ」 ごとごと云わしいわして※を外しはずした後あとで夫おっとを内うちへ入れいれた彼女かのじょはいつもより少しすこし蒼いあおい顔かおをしていた。
彼かれはすぐ玄関げんかんから茶の間ちゃのまへ通り抜けとおりぬけた。
茶の間ちゃのまはいつもの通りとおりきちんと片づいかたづいていた。
鉄瓶てつびんが約束やくそく通りとおり鳴っなっていた。
長火鉢ながひばちの前まえには、例れいによって厚いあついメリンスめりんすの座蒲団ざふとんが、彼かれの帰りかえりを待ち受けるまちうけるごとくに敷かしきかれてあった。
お延のべの坐りすわりつけたその向むかいには、彼女かのじょの座蒲団ざふとんのほかに、女持おんなもちの硯箱すずりばこが出しだしてあった。
青貝あおがいで梅うめの花はなを散らしちらした螺鈿らでんの葢おおいは傍そばへ取り除けとりのぞけられて、梨地なしじの中なかに篏めはめ込んこんだ小さなちいさな硯すずりがつやつやと濡れぬれていた。
持主もちぬしが急いいそいで座ざを立ったった証拠しょうこに、細いほそい筆ふでの穂先ほさきが、巻紙まきがみの上うえへ墨すみを滲まにじませて、七八しちはち寸すん書きかきかけた手紙てがみの末すえを汚しよごしていた。
戸締りとじまりをして夫おっとの後あとから入っはいってきたお延のべは寝巻ねまきの上うえへ平生へいぜい着きの羽織はおりを引っかけひっかけたままそこへぺたりと坐っすわった。
「どうもすみません」 津田つだは眼めを上げあげて柱時計はしらとけいを見みた。
時計とけいは今いま十一じゅういち時じを打っうったばかりのところであった。
結婚後けっこんご彼かれがこのくらいな刻限こくげんに帰っかえったのは、例外れいがいにしたところで、けっして始めはじめてではなかった。
「何なんだって締め出ししめだしなんか喰わくわせたんだい。もう帰らかえらないとでも思っおもったのか」「いいえ、さっきから、もうお帰りかえりか、もうお帰りかえりかと思っおもって待っまってたの。しまいにあんまり淋しくさびしくってたまらなくなったから、とうとう宅たくへ手紙てがみを書き出しかきだしたの」 お延のべの両親りょうしんは津田つだの父母ふぼと同じおなじように京都きょうとにいた。
津田つだは遠くとおくからその書きかけかきかけの手紙てがみを眺めながめた。
けれどもまだ納得なっとくができなかった。
「待っまってたものがなんで門もんなんか締めるしめるんだ。物騒ぶっそうだからかね」「いいえ。――あたし門もんなんか締めしめやしないわ」「だって現にげんに締まっしまっていたじゃないか」「時じが昨夕さくゆう締めしめっ放しっぱなしにしたまんまなのよ、きっと。いやな人ひと」 こう云っいったお延のべはいつもする癖くせの通りとおり、ぴくぴく彼女かのじょの眉まゆを動かしうごかして見せみせた。
日中にっちゅう用ようのない潜り戸くぐりどの※を、朝あさ外しはずし忘れわすれたという弁解べんかいは、けっして不合理ふごうりなものではなかった。
「時じはどうしたい」「もう先刻せんこく寝かしねかしてやったわ」 下女げじょを起しおこしてまで責任者せきにんしゃを調べるしらべる必要ひつようを認めみとめなかった津田つだは、潜り戸くぐりどの事ことをそのままにして寝ねた。
三十九さんじゅうきゅう
あくる朝あさの津田つだは、顔かおも洗わあらわない先さきから、昨夜さくや寝るねるまで全くまったく予想よそうしていなかった不意ふいの観かん物ものによって驚ろかさおどろかされた。
彼かれの床ゆかを離れはなれたのは九きゅう時じ頃ころであった。
彼かれはいつもの通りとおり玄関げんかんを抜けぬけて茶の間ちゃのまから勝手かってへ出ようでようとした。
すると嬋娟せんけんに盛粧せいそうしたお延のべが澄ましすましてそこに坐っすわっていた。
津田つだははっと思っおもった。
寝ね起きの顔かおへ水みずをかけられたような夫おっとの様子ようすに満足まんぞくしたらしい彼女かのじょは微笑びしょうを洩らしもらした。
「今いま御ご眼め覚さとし?」 津田つだは眼めをぱちつかせて、赤いあかい手絡てがらをかけた大おお丸髷まるまげと、派出はしゅつな刺繍ししゅうをした半襟はんえりの模様もようと、それからその真中まなかにある化粧けしょう後あとの白いしろい顔かおとを、さも珍らしいめずらしい物ものでも見るみるような新らしいあたらしい眼つきめつきで眺めながめた。
「いったいどうしたんだい。朝っぱらあさっぱらから」 お延のべは平気へいきなものであった。
「どうもしないわ。――だって今日きょうはあなたがお医者いしゃ様ようへいらっしゃる日ひじゃないの」 昨夜さくや遅くおそくそこへ脱ぎ捨てぬぎすてて寝ねたはずの彼かれの袴はかまも羽織はおりも、畳んたたんだなり、ちゃんと取り揃えとりそろえて、渋紙しぶがみの上うえへ載せのせてあった。
「お前おまえもいっしょに行くいくつもりだったのかい」「ええ無論むろん行くいくつもりだわ。行っいっちゃ御ご迷惑めいわくなの」「迷惑めいわくって訳わけはないがね。――」 津田つだはまた改めてあらためて細君さいくんの服装ふくそうを吟味ぎんみするように見みた。
「あんまりおつくりが大袈裟おおげさだからね」 彼かれはすぐ心こころの中なかでこの間ま見みた薄暗いうすぐらい控室ひかえしつの光景こうけいを思い出しおもいだした。
そこに坐っすわっている患者かんじゃの一群いちぐんとこの着飾っきかざった若いわかい奥様おくさまとは、とても調和ちょうわすべき性質せいしつのものでなかった。
「だってあなた今日きょうは日曜にちようよ」「日曜にちようだって、芝居しばいやお花見はなみに行くいくのとは少しすこし違うちがうよ」「だって妾めかけ……」 津田つだに云わいわせれば、日曜にちようはなおの事こと患者かんじゃが朝あさから込み合うこみあうだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装ふくそうをして、あのお医者いしゃ様ようへ夫婦ふうふお揃いおそろいで乗り込むのりこむのは、少しすこし――」「辟易へきえき?」 お延のべの漢語かんごが突然とつぜん津田つだを擽っくすぐった。
彼かれは笑いわらい出しだした。
ちょっと眉まゆを動かしうごかしたお延のべはすぐ甘かん垂れるたれるような口調くちょうを使っつかった。
「だってこれから着物きものなんか着換えるきかえるのは時間じかんがかかって大変たいへんなんですもの。せっかく着きちまったんだから、今日きょうはこれで堪忍かんにんしてちょうだいよ、ね」 津田つだはとうとう敗北はいぼくした。
顔かおを洗っあらっているとき、彼かれは下女げじょに俥くるまを二に台だい云いいいつけるお延のべの声こえを、あたかも自分じぶんが急き立てせきたてられでもするように世話せわしなく聞いきいた。
普通ふつうの食事しょくじを取らとらない彼かれの朝飯あさめしはほとんど五ご分ぶんとかからなかった。
楊枝ようじも使わつかわないで立ち上ったちのぼった彼かれはすぐ二に階かいへ行こういこうとした。
「病院びょういんへ持っもって行くいくものを纏めまとめなくっちゃ」 津田つだの言葉ことばと共ともに、お延のべはすぐ自分じぶんの後あとにある戸棚とだなを開けあけた。
「ここに拵えこしらえてあるからちょっと見みてちょうだい」 よそ行こう着きを着きた細君さいくんを労らいたわらなければならなかった津田つだは、やや重いおもい手提てさげ鞄かばんと小さなちいさな風呂敷ふろしき包つつみを、自分じぶんの手てで戸棚とだなから引き摺りひきずり出しだした。
包つつみの中なかには試しためしに袖そでを通しとおしたばかりの例れいの褞袍と平絎ひらぐけの寝巻ねまき紐ひもが這入っはいっているだけであったが、鞄かばんの中なかからは、楊枝ようじだの歯磨はみがき粉こなだの、使いつかいつけたラヴェンダーらゔぇんだー色いろの書翰しょかん用よう紙かみだの、同じおなじ色いろの封筒ふうとうだの、万年筆まんねんひつだの、小さいちいさい鋏はさみだの、毛抜けぬきだのが雑然ざつぜんと現われあらわれた。
そのうちで一番いちばん重くおもくて嵩張っかさばった大きなおおきな洋書ようしょを取り出しとりだした時じ、彼かれはお延のべに云っいった。
「これは置いおいて行くいくよ」「そう、でもいつでも机つくえの上うえに乗っのっていて、枝折しおりが挟んはさんであるから、お読みよみになるのかと思っおもって入れいれといたのよ」 津田つだ君きみは何になんにも云わいわずに、二にカ月かげつ以上いじょうもかかってまだ読みよみ切れきれない経済学けいざいがくの独どく逸書いっしょを重じゅうそうに畳たたみの上うえに置いおいた。
「寝ねていて読むよむにゃ重くおもくって駄目だめだよ」 こう云っいった津田つだは、それがこの大部たいぶの書物しょもつを残しのこして行くいく正当せいとうの理由りゆうであると知りしりながら、あまり好いよい心持こころもちがしなかった。
「そう、本ほんはどれが要るいるんだか妾めかけ分らわからないから、あなた自分じぶんでお好きすきなのを択っよってちょうだい」 津田つだは二に階かいから軽いかるい小説しょうせつを二三にさん冊さつ持っもって来きて、経済けいざい書しょの代りかわりに鞄かばんの中なかへ詰め込んつめこんだ。
四十よんじゅう
天気てんきが好いよいので幌ほろを畳またたました二人ふたりは、鞄かばんと風呂敷ふろしき包つつみを、各自かくじの俥くるまの上うえに一いちつずつ乗せのせて家いえを出でた。
小路こうじの角かくを曲っきょくって電車でんしゃ通りとおりを一二いちに丁てい行くいくと、お延のべの車夫しゃふが突然とつぜん津田つだの車夫しゃふに声こえをかけた。
俥くるまは前後ぜんごともすぐとまった。
「大変たいへん。忘れものわすれものがあるの」 車上しゃじょうでふり返っふりかえった津田つだは、何になんにも云わいわずに細君さいくんの顔かおを見守っみまもった。
念ねん入いりに身み仕舞しまいをした若いわかい女おんなの口くちから出るでる刺戟しげき性せいに富んとんだ言葉ことばのために引きつけひきつけられたものは夫おっとばかりではなかった。
車夫しゃふも梶棒かじぼうを握っにぎったまま、等しくひとしくお延のべの方ほうへ好奇こうきの視線しせんを向けむけた。
傍そばを通るとおる往来おうらいの人ひとさえ一瞥いちべつの注意ちゅういを夫婦ふうふの上うえへ与えあたえないではいられなかった。
「何なんだい。何なんを忘れわすれたんだい」 お延のべは思案しあんするらしい様子ようすをした。
「ちょっと待っまっててちょうだい。すぐだから」 彼女かのじょは自分じぶんの俥くるまだけを元もとへ返しかえした。
中ぶらりんちゅうぶらりんの心的しんてき状態じょうたいでそこに取り残さとりのこされた津田つだは、黙っだまってその後姿うしろすがたを見送っみおくった。
いったん小路こうじの中なかに隠れかくれた俥くるまがやがてまた現われるあらわれると、劇しいはげしい速力そくりょくでまた彼かれの待っまっている所ところまで馳はせけて来きた。
それが彼かれの眼めの前まえでとまった時じ、車上しゃじょうのお延のべは帯おびの間まから一いち尺さしばかりの鉄製てつせいの鎖くさりを出しだして長くながくぶら下げぶらさげて見せみせた。
その鎖くさりの端はしには環かんがあって、環かんの中なかには大小だいしょう五六ごろく個この鍵かぎが通しとおしてあるので、鎖くさりを高くたかく示そうしめそうとしたお延のべの所作しょさと共ともに、じゃらじゃらという音おとが津田つだの耳みみに響いひびいた。
「これ忘れわすれたの。箪笥たんすの上うえに置きおきっ放しっぱなしにしたまま」 夫婦ふうふ以外いがいに下女げじょしかいない彼かれらの家庭かていでは、二人ふたり揃っそろって外出がいしゅつする時じの用心ようじんに、大事だいじなものに錠じょうを卸しおろしておいて、どっちかが鍵かぎだけ持っもって出るでる必要ひつようがあった。
「お前おまえ預かっあずかっておいで」 じゃらじゃらするものを再びふたたび帯おびの間まに押し込んおしこんだお延のべは、平手ひらてでぽんとその上うえを敲きたたきながら、津田つだを見みて微笑びしょうした。
「大丈夫だいじょうぶ」 俥くるまは再びふたたび走そうけ出しけだした。
彼かれらの医者いしゃに着いついたのは予定よていの時刻じこくより少しすこし後れおくれていた。
しかし午うままでの診察しんさつ時間じかんに間に合わまにあわないほどでもなかった。
夫婦ふうふして控室ひかえしつに並んならんで坐るすわるのが苦くになるので、津田つだは玄関げんかんを上るのぼると、すぐ薬局やっきょくの口くちへ行っいった。
「すぐ二に階かいへ行っいってもいいでしょうね」 薬局やっきょくにいた書生しょせいは奥おくから見習いみならいの看護婦かんごふを呼んよんでくれた。
まだ十じゅう六ろく七ななにしかならないその看護婦かんごふは、何なんの造作ぞうさもなく笑いわらいながら津田つだにお辞儀おじぎをしたが、傍そばに立ったっているお延のべの姿すがたを見るみると、少しすこし物々しものものしさに打たうたれた気味きみで、いったいこの孔雀くじゃくはどこから入っはいって来きたのだろうという顔つきかおつきをした。
お延のべが先さきを越しこして、「御ご厄介やっかいになります」とこっちから挨拶あいさつをしたので、始めはじめて気きがついたように、看護婦かんごふも頭あたまを下げさげた。
「君きみ、こいつを一いちつ持っもってくれたまえ」 津田つだは車夫しゃふから受取っうけとった鞄かばんを看護婦かんごふに渡しわたして、二に階かいの上り口あがりぐちの方ほうへ廻っまわった。
「お延のべこっちだ」 控室ひかえしつの入口いりぐちに立ったって、患者かんじゃのいる部屋へやの中なかを覗き込んのぞきこんでいたお延のべは、すぐ津田つだの後あとに随いしたがいて階子段はしごだんを上っのぼった。
「大変たいへん陰気いんきな室むろね、あすこは」 南東なんとうの開いひらいた二に階かいは幸みゆきに明るかっあかるかった。
障子しょうじを開けあけて縁側えんがわへ出でた彼女かのじょは、つい鼻はなの先さきにある西洋せいよう洗濯せんたく屋やの物干ものほしを見みながら、津田つだを顧みかえりみた。
「下したと違っちがってここは陽気ようきね。そうしてちょっといいお部屋へやね。畳たたみは汚れよごれているけれども」 もと請負師うけおいしか何なんかの妾宅しょうたくに手てを入れいれて出来上っできあがったその医院いいんの二に階かいには、どことなく粋いきな昔むかしの面影おもかげが残っのこっていた。
「古いふるいけれども宅たくの二に階かいよりましかも知れしれないね」 日ひに照らさてらされてきらきらする白いしろい洗濯物せんたくぶつの色いろを、秋あきらしい気分きぶんで眺めながめていた津田つだは、こう云っいって、時代じだいのために多少たしょう燻ぶっふすぶった天井てんじょうだの床柱とこばしらだのを見廻しみまわした。
四十一よんじゅういち
そこへ先刻せんこくの看護婦かんごふが急須きゅうすへ茶ちゃを淹れいれて持っもって来きた。
「今いま仕度したくをしておりますから、少しすこしの間まどうぞ」 二人ふたりは仕方なししかたなしに行儀ぎょうぎよく差向いさしむかいに坐っすわったなり茶ちゃを飲んのんだ。
「何なんだか気きがそわそわして落ちつかおちつかないのね」「まるでお客さまおきゃくさまに行っいったようだろう」「ええ」 お延のべは帯おびの間まから女持おんなもちの時計とけいを出しだして見みた。
津田つだは時間じかんの事ことよりもこれから受けるうける手術しゅじゅつの方ほうが気きになった。
「いったい何分なんふんぐらいで済むすむのかなあ。眼めで見みないでもあの刃物はものの音おとだけ聞いきいていると、好いよい加減かげん変へんな心持こころもちになるからな」「あたし怖いこわいわ、そんなものを見るみるのは」 お延のべは実際じっさい怖こわそうに眉まゆを動かしうごかした。
「だからお前おまえはここに待っまっといでよ。わざわざ手術しゅじゅつ台だいの傍そばまで来きて、穢えないところを見るみる必要ひつようはないんだから」「でもこんな場合ばあいには誰だれか身み寄のものが立ち合わたちあわなくっちゃ悪いわるいんでしょう」 津田つだは真面目まじめなお延のべの顔かおを見みて笑いわらい出しだした。
「そりゃ死ぬしぬか生きるいきるかっていうような重いおもい病気びょうきの時じの事ことだね。誰だれがこれしきの療治りょうじに立合たてあい人ひとなんか呼んよんで来るくる奴やつがあるものかね」 津田つだは女おんなに穢えないものを見せるみせるのが嫌いやな男おとこであった。
ことに自分じぶんの穢えないところを見せるみせるは厭いやであった。
もっと押しつめおしつめていうと、自分じぶんで自分じぶんの穢えないところを見るみるのでさえ、普通ふつうの人ひと以上いじょうに苦痛くつうを感ずるかんずる男おとこであった。
「じゃ止しよしましょう」と云っいったお延のべはまた時計とけいを出しだした。
「お午うままでに済むすむでしょうか」「済むすむだろうと思うおもうがね。どうせこうなりゃいつだって同どうなじこっちゃないか」「そりゃそうだけど……」 お延のべは後あとを云わいわなかった。
津田つだも訊かきかなかった。
看護婦かんごふがまた階子段はしごだんの上うえへ顔かおを出しだした。
「支度したくができましたからどうぞ」 津田つだはすぐ立ち上ったちのぼった。
お延のべも同時どうじに立ち上ろうたちのぼろうとした。
「お前おまえはそこに待っまっといでと云ういうのに」「診察室しんさつしつへ行くいくんじゃないのよ。ちょっとここの電話でんわを借りるかりるのよ」「どこかへ用ようがあるのかね」「用ようじゃないけど、――ちょっとお秀おひでさんの所ところへあなたの事ことを知らしらせておこうと思っおもって」 同じおなじ区内くないにある津田つだの妹いもうとの家いえはそこからあまり遠くとおくはなかった。
今度こんどの病気びょうきについて妹いもうとの事ことをあまり頭あたまの中なかに入れいれていなかった津田つだは、立とうたとうとするお延のべを留めとめた。
「いいよ、知らしらせないでも。お秀おひでなんかに知らしらせるのはあんまり仰山ぎょうさん過ぎるすぎるよ。それにあいつが来るくるとやかましくっていけないからね」 年ねんは下したでも、性質せいしつの違うちがうこの妹いもうとは、津田つだから見みたある意味いみの苦手にがてであった。
お延のべは中腰ちゅうごしのまま答えこたえた。
「でも後あとでまた何なんか云わいわれると、あたしが困るこまるわ」 強いてしいてとめる理由りゆうも見出しみだし得とくなかった津田つだは仕方なししかたなしに云っいった。
「かけても構わかまわないが、何なんも今いまに限っかぎった事ことはないだろう。あいつは近所きんじょだから、きっとすぐ来るくるよ。手術しゅじゅつをしたばかりで、神経しんけいが過敏かびんになってるところへもって来きて、兄さんあにさんが何なんとかで、お父さんおちちさんがかんとかだと云わいわれるのは実際じっさい楽らくじゃないからね」 お延のべは微かかすかな声こえで階下かいかを憚かるはばかるような笑いわらい方ほうをした。
しかし彼女かのじょの露わあらわした白いしろい歯はは、気の毒きのどくだという同情どうじょうよりも、滑稽こっけいだという単純たんじゅんな感じかんじを明らかあきらかに夫おっとに物語っものがたりっていた。
「じゃお秀おひでさんへかけるのは止すよすから」 こう云っいったお延のべは、とうとう津田つだといっしょに立ち上ったちのぼった。
「まだほかにかける所ところがあるのかい」「ええ岡本おかもとへかけるのよ。午うままでにかけるって約束やくそくがあるんだから、いいでしょう、かけても」 前後ぜんごして階子段はしごだんを下りくだりた二人ふたりは、そこで別々べつべつになった。
一人ひとりが電話でんわ口くちの前まえに立ったった時じ、一人ひとりは診察室しんさつしつの椅子いすへ腰こしをおろした。
四十二よんじゅうに
「リチネはお飲みのみでしたろうね」 医者いしゃは糊のりの強いつよい洗い立てあらいたての白いしろい手術しゅじゅつ着きをごわごわさせながら津田つだに訊いきいた。
「飲みのみましたが思っおもったほど効目ききめがないようでした」 昨日きのうの津田つだにはリチネの効目ききめを気きにするだけの暇ひまさえなかった。
それからそれへと忙がしくいそがしく心こころを使わつかわせられた彼かれがこの下剤げざいから受けうけた影響えいきょうは、ほとんど精神的せいしんてきに零れいであったのみならず、生理的せいりてきにも案外あんがい微弱びじゃくであった。
「じゃもう一度いちど浣腸かんちょうしましょう」 浣腸かんちょうの結果けっかも充分じゅうぶんでなかった。
津田つだはそれなり手術しゅじゅつ台だいに上っのぼって仰あおぐ向むかいに寝ねた。
冷たいつめたい防水ぼうすい布ぬのがじかに皮膚ひふに触れふれた時じ、彼かれは思わおもわず冷れいりとした。
堅いかたい括り枕くくりまくらに着けつけた彼かれの頭あたまとは反対はんたいの方角ほうがくからばかり光線こうせんが差し込むさしこむので、彼かれの眼めは明りあかりに向っむかって寝るねる人ひとのように、少しすこしも落ちつけおちつけなかった。
彼かれは何度なんども瞬きまばたきをして、何度なんども天井てんじょうを見直しみなおした。
すると看護婦かんごふが手術しゅじゅつの器械きかいを入れいれたニッケルにっける製せいの四角しかくな浅いあさい盆ぼんみたようなものを持っもって彼かれの横よこを通っとおったので、白いしろい金属性きんぞくせいの光ひかりがちらちらと動いうごいた。
仰向けあおむけに寝ねている彼かれには、それが自分じぶんの眼めを掠めかすめて通り過ぎるとおりすぎるとしか思わおもわれなかった。
見みてならない気味きみの悪いわるいものを、ことさらに偸み見ぬすみみたのだという心持こころもちがなおのこと募っつのった。
その時じ表ひょうの方ほうで鳴るなる電話でんわのベルべるが突然とつぜん彼かれの耳みみに響いひびいた。
彼かれは今までいままで忘れわすれていたお延のべの事ことを急きゅうに思い出しおもいだした。
彼女かのじょの岡本おかもとへかけた用事ようじがやっと済んすんだ時じに、彼かれの療治りょうじはようやく始まっはじまったのである。
「コカインこかいんだけでやります。なに大してたいして痛いいたい事ことはないでしょう。もし注射ちゅうしゃが駄目だめだったら、奥おくの方ほうへ薬くすりを吹き込みふきこみながら進んすすんで行くいくつもりです。それで多分たぶんできそうですから」 局部きょくぶを消毒しょうどくしながらこんな事ことを云ういう医者いしゃの言葉ことばを、津田つだは恐ろしいおそろしいようなまた何なんでもないような一種いっしゅの心持こころもちで聴いきいた。
局部きょくぶ魔ま睡ねむは都合つごうよく行っいった。
まじまじと天井てんじょうを眺めながめている彼かれは、ほとんど自分じぶんの腰こしから下したに、どんな大事件だいじけんが起っおこっているか知らしらなかった。
ただ時々ときどき自分じぶんの肉体にくたいの一部いちぶに、遠いとおい所ところで誰だれかが圧迫あっぱくを加えくわえているような気きがするだけであった。
鈍いにぶい抵抗ていこうがそこに感ぜかんぜられた。
「どんなです。痛いたかないでしょう」 医者いしゃの質問しつもんには充分じゅうぶんの自信じしんがあった。
津田つだは天井てんじょうを見みながら答えこたえた。
「痛いたかありません。しかし重いおもい感じかんじだけはあります」 その重いおもい感じかんじというのを、どう云いいい現わしあらわしていいか、彼かれには適当てきとうな言葉ことばがなかった。
無神経むしんけいな地面じめんが人間にんげんの手てで掘りほり割らわられる時じ、ひょっとしたらこんな感じかんじを起しおこしはしまいかという空想くうそうが、ひょっくり彼かれの頭あたまの中なかに浮かんうかんだ。
「どうも妙みょうな感じかんじです。説明せつめいのできないような」「そうですか。我慢がまんできますか」 途中とちゅうで脳貧血のうひんけつでも起さおこされては困るこまると思っおもったらしい医者いしゃの言葉つきことばつきが、何なんでもない彼かれをかえって不安ふあんにした。
こういう場合ばあい予防よぼうのために葡萄酒ぶどうしゅなどを飲まさのまされるものかどうか彼かれは全くまったく知らしらなかったが、何しろなにしろ特別とくべつの手当てあてを受けるうける事ことは厭いやであった。
「大丈夫だいじょうぶです」「そうですか。もう直じかです」 こういう会話かいわを患者かんじゃと取りとり換かえわせながら、間断かんだんなく手てを働はたらけらかせている医者いしゃの態度たいどには、熟練じゅくれんからのみ来るくる手際てぎわが閃めいひらめいていそうに思わおもわれた。
けれども手術しゅじゅつは彼かれの言葉ことば通りとおりそう早くはやくは片づかかたづかなかった。
切せつ物ものの皿さらに当っあたって鳴るなる音おとが時々ときどきした。
鋏はさみで肉にくをじょきじょき切るきるような響きひびきが、強くつよく誇張こちょうされて鼓膜こまくを威嚇いかくした。
津田つだはそのたびにガーゼがーぜで拭き取らふきとられなければならない赤いあかい血潮ちしおの色いろを、想像そうぞうの眼めで腥なまぐささそうに眺めながめた。
じっと寝かさねかされている彼かれの神経しんけいはじっとしているのが苦くになるほど緊張きんちょうして来きた。
むず痒いむずがゆい虫むしのようなものが、彼かれの身体しんたいを不安ふあんにするために、気味きみ悪くわるく血管けっかんの中なかを這いはい廻っまわった。
彼かれは大きなおおきな眼めを開いひらいて天井てんじょうを見みた。
その天井てんじょうの上うえには綺麗きれいに着飾っきかざったお延のべがいた。
そのお延のべが今いま何なんを考えかんがえているか、何なんをしているか、彼かれにはまるで分らわからなかった。
彼かれは下したから大きなおおきな声こえを出しだして、彼女かのじょを呼んよんで見みたくなった。
すると足あしの方ほうで医者いしゃの声こえがした。
「やっと済みすみました」 むやみにガーゼがーぜを詰め込まつめこまれる、こそばゆい感じかんじのした後あとで、医者いしゃはまた云っいった。
「瘢痕はんこんが案外あんがい堅いかたいんで、出血しゅっけつの恐れおそれがありますから、当分とうぶんじっとしていて下さいください」 最後さいごの注意ちゅういと共ともに、津田つだはようやく手術しゅじゅつ台だいから下ろさおろされた。
四十三よんじゅうさん
診察室しんさつしつを出るでるとき、後あとから随いしたがいて来きた看護婦かんごふが彼かれに訊いきいた。
「いかがです。気分きぶんのお悪いわるいような事ことはございませんか」「いいえ。――蒼いあおい顔かおでもしているかね」 自分自身じぶんじしんに多少たしょう懸念けねんのあった津田つだはこう云っいって訊き返さききかえさなければならなかった。
創口そうこうにできるだけ多くおおくのガーゼがーぜを詰め込まつめこまれた彼かれの感じかんじは、他ほかが想像そうぞうする倍ばい以上いじょうに重苦しいおもくるしいものであった。
彼かれは仕方なししかたなしにのそのそ歩いあるいた。
それでも階子段はしごだんを上るのぼる時じには、割かわりかれた肉にくとガーゼがーぜとが擦れ合っこすれあってざらざらするような心持こころもちがした。
お延のべは階段かいだんの上うえに立ったっていた。
津田つだの顔かおを見るみると、すぐ上うえから声こえを掛けかけた。
「済んすんだの? どうして?」 津田つだははっきりした返事へんじも与えあたえずに室むろの中なかに這入っはいった。
そこには彼かれの予期よき通りとおり、白いしろいシーツしーつに裹まれた蒲団ふとんが、彼かれの安臥あんがを待つまつべく長々ながながと延べのべてあった。
羽織はおりを脱ぎ捨てるぬぎすてるが早いはやいか、彼かれはすぐその上うえへ横よこになった。
鼠地ねずじのネルねるを重ねかさねた銘仙めいせんの褞袍を後あとから着せるきせるつもりで、両手りょうてで襟えりの所ところを持ち上げもちあげたお延のべは、拍子ひょうし抜けぬけのした苦笑くしょうと共ともに、またそれを袖畳みそでだたみにして床ゆかの裾すその方ほうに置いおいた。
「お薬くすりはいただかなくっていいの」 彼女かのじょは傍そばにいる看護婦かんごふの方ほうを向いむかいて訊いきいた。
「別べつに内用ないようのお薬くすりは召し上らめしあがらないでも差支えさしつかえないのでございます。お食事しょくじの方ほうはただいま拵えこしらえてこちらから持っもって参りまいります」 看護婦かんごふは立ちたちかけた。
黙っだまって寝ねていた津田つだは急きゅうに口くちを開いひらいた。
「お延のべ、お前おまえ何なんか食うくうなら看護婦かんごふさんに頼んたのんだらいいだろう」「そうね」 お延のべは躊躇ちゅうちょした。
「あたしどうしようかしら」「だって、もう昼ひる過すぎだろう」「ええ。十二じゅうに時じ二に十分じゅうふんよ。あなたの手術しゅじゅつはちょうど二十八にじゅうはち分ぶんかかったのね」 時計とけいの葢おおいを開けあけたお延のべは、それを眺めながめながら精密せいみつな時間じかんを云っいった。
津田つだが手術しゅじゅつ台だいの上うえで俎まないたへ乗せのせられた魚さかなのように、おとなしく我慢がまんしている間ま、お延のべはまた彼かれの見つめみつめなければならなかった天井てんじょうの上うえで、時計とけいと睨めにらめっ競せりでもするように、手術しゅじゅつの時間じかんを計っけいっていたのである。
津田つだは再びふたたび訊いきいた。
「今いまから宅たくへ帰っかえったって仕方しかたがないだろう」「ええ」「じゃここで洋食ようしょくでも取っとって貰っもらって食っしょくったらいいじゃないか」「ええ」 お延のべの返事へんじはいつまで経っきょうっても捗々しくはかばかしくなかった。
看護婦かんごふはとうとう下したへ降りふりて行っいった。
津田つだは疲れつかれた人ひとが光線こうせんの刺戟しげきを避けるさけるような気分きぶんで眼めをねむった。
するとお延のべが頭あたまの上うえで、「あなた、あなた」というので、また眼めを開かひらかなければならなかった。
「心持こころもちが悪いわるいの?」「いいや」 念ねんを押しおしたお延のべはすぐ後あとを云っいった。
「岡本おかもとでよろしくって。いずれそのうち御見舞おみまいに上りのぼりますからって」「そうか」 津田つだは軽いかるい返事へんじをしたなり、また眼めをつぶろうとした。
するとお延のべがそうさせなかった。
「あの岡本おかもとでね、今日きょう是非ぜひ芝居しばいへいっしょに来いこいって云ういうんですが、行っいっちゃいけなくって」 気きのよく廻るまわる津田つだの頭あたまに、今朝けさからのお延のべの所作しょさが一度いちどに閃めいひらめいた。
病院びょういんへ随いしたがいて来るくるにしては派出はしゅつ過ぎるすぎる彼女かのじょの衣裳いしょうといい、出るでる前まえに日曜にちようだと断っことわった彼女かのじょの注意ちゅういといい、ここへ来きてから、そわそわして岡本おかもとへ電話でんわをかけた彼女かのじょの態度たいどといい、ことごとく芝居しばいの二に字じに向っむかって注ぎ込まそそぎこまれているようにも取れとれた。
そういう眼めで見るみると、手術しゅじゅつの時間じかんを精密せいみつに計っけいった彼女かのじょの動機どうきさえ疑惑ぎわくの種しゅにならないではすまなかった。
津田つだは黙っだまって横よこを向いむかいた。
床の間とこのまの上うえに取り揃えとりそろえて積み重ねつみかさねてある、封筒ふうとうだの書翰しょかん用よう紙かみだの鋏はさみだの書物しょもつだのが彼かれの眼めについた。
それは先刻せんこく鞄かばんへ入れいれて彼かれがここへ持っもって来きたものであった。
「看護婦かんごふに小さいちいさい机つくえを借りかりて、その上うえへ載せようのせようと思っおもったんですけれども、まだ持っもって来きてくれないから、しばらくの間ま、ああしておいたのよ。本ほんでも御覧ごらんになって」 お延のべはすぐ立ったって床の間とこのまから書物しょもつをおろした。
四十四よんじゅうよん
津田つだは書物しょもつに手てを触れふれなかった。
「岡本おかもとへは断っことわったんじゃないのか」 不審ふしんよりも不平ふへいな顔かおをした彼かれが、向むかいを変えかえて寝返りねがえりを打っうった時じに、堅固けんごにできていない二に階かいの床ゆかが、彼かれの意いを迎えるむかえるように、ずしんと鳴っなった。
「断っことわったのよ」「断っことわったのに是非ぜひ来いこいっていうのかね」 この時じ津田つだは始めはじめてお延のべの顔かおを見みた。
けれどもそこには彼かれの予期よきした何物なにものも現われあらわれて来きなかった。
彼女かのじょはかえって微笑びしょうした。
「断っことわったのに是非ぜひ来いこいっていうのよ」「しかし……」 彼かれはちょっと行きつまっいきつまった。
彼かれの胸むねには云ういうべき事ことがまだ残っのこっているのに、彼かれの頭あたまは自分じぶんの思わくおもわく通りとおり迅速じんそくに働はたらけらいてくれなかった。
「しかし――断っことわったのに是非ぜひ来いこいなんていうはずがないじゃないか」「それを云ういうのよ。岡本おかもともよっぽどの没ぼつ分ぶん暁あかつき漢かんね」 津田つだは黙っだまってしまった。
何なんといって彼女かのじょを追究ついきゅうしていいか見当けんとうがつかなかった。
「あなたまだ何なんかあたしを疑ぐっうたぐっていらっしゃるの。あたし厭いやだわ、あなたからそんなに疑ぐらうたぐられちゃ」 彼女かのじょの眉まゆがさもさも厭いやそうに動いうごいた。
「疑ぐりゃうたぐりゃしないが、何なんだか変へんだからさ」「そう。じゃその変へんなところを云っいってちょうだいな、いくらでも説明せつめいするから」 不幸ふこうにして津田つだにはその変へんなところが明暸めいりょうに云えいえなかった。
「やっぱり疑ぐっうたぐっていらっしゃるのね」 津田つだははっきり疑っうたがっていないと云わいわなければ、何なんだか夫おっととして自分じぶんの品格ひんかくに関わるかかわるような気きがした。
と云っいって、女おんなから甘くあまく見みられるのも、彼かれにとって少なからすくなからざる苦痛くつうであった。
二につの我がわが我われを張り合っはりあって、彼かれの心こころのうちで闘うたたかう間ま、よそ目よそめに見えるみえる彼かれは、比較的ひかくてき冷静れいせいであった。
「ああ」 お延のべは微かかすかな溜息ためいきを洩らしもらしてそっと立ち上ったちのぼった。
いったん閉へいて切っきった障子しょうじをまた開けあけて、南向みなみむかいの縁側えんがわへ出でた彼女かのじょは、手摺てすりの上うえへ手てを置いおいて、高くたかく澄んすんだ秋あきの空そらをぼんやり眺めながめた。
隣となりの洗濯せんたく屋やの物干ものほしに隙間すきまなく吊さつるされたワイわい襯衣だのシーツしーつだのが、先刻せんこく見みた時じと同じおなじように、強いつよい日光にっこうを浴びあびながら、乾いかわいた風かぜに揺れゆれていた。
「好いよいお天気てんきだ事こと」 お延のべが小さなちいさな声こえで独りごとひとりごとのようにこう云っいった時じ、それを耳みみにした津田つだは、突然とつぜん籠かごの中なかにいる小鳥ことりの訴えうったえを聞かさきかされたような心持こころもちがした。
弱いよわい女おんなを自分じぶんの傍そばに縛りつけしばりつけておくのが少しすこし可哀相かわいそうになった。
彼かれはお延のべに言葉ことばをかけようとして、接穂つぎほのないのに困っこまった。
お延のべも欄干らんかんに身みを倚せたまますぐ座敷ざしきの中なかへ戻っもどって来きなかった。
そこへ看護婦かんごふが二人ふたりの食事しょくじを持っもって下したから上っのぼって来きた。
「どうもお待遠まちどおさま」 津田つだの膳ぜんには二に個この鶏卵けいらんと一いち合あわせのソップそっぷと麺めん麭がついているだけであった。
その麺めん麭も半片はんぺらの二に分ぶんノの一いちと分量ぶんりょうはいつのまにか定めさだめられていた。
津田つだは床ゆかの上うえに腹這はらばいになったまま、むしゃむしゃ口くちを動かしうごかしながら、機会きかいを見計らっみはからって、お延のべに云っいった。
「行くいくのか、行かいかないのかい」 お延のべはすぐ肉にく匙さじの手てを休めやすめた。
「あなた次第しだいよ。あなたが行けいけとおっしゃれば行くいくし、止せよせとおっしゃれば止すよすわ」「大変たいへん柔順じゅうじゅんだな」「いつでも柔順じゅうじゅんだわ。――岡本おかもとだってあなたに伺っうかがって見みた上うえで、もしいいとおっしゃったら連れつれて行っいってやるから、御ご病気びょうきが大したたいした事ことでなかったら、訊いきいて見ろみろって云ういうんですもの」「だってお前おまえの方ほうから岡本おかもとへ電話でんわをかけたんじゃないか」「ええそりゃそうよ、約束やくそくですもの。一いち返かえし断っことわったけれども、模様もよう次第しだいでは行けるいけるかも知れしれないだろうから、もう一いち返かえしその日ひの午うままでに電話でんわで都合つごうを知らしらせろって云っいって来きたんですもの」「岡本おかもとからそういう返事へんじが来きたのかい」「ええ」 しかしお延のべはその手紙てがみを津田つだに示ししめしていなかった。
「要するようするに、お前おまえはどうなんだ。行きいきたいのか、行きいきたくないのか」 津田つだの顔色かおいろを見定めみさだめたお延のべはすぐ答えこたえた。
「そりゃ行きいきたいわ」「とうとう白状はくじょうしたな。じゃおいでよ」 二人ふたりはこういう会話かいわと共ともに午飯ごはんを済ましすました。
四十五よんじゅうご
手術しゅじゅつ後あとの夫おっとを、やっと安静あんせい状態じょうたいに寝かしねかしておいて、自分じぶん一人ひとり下したへ降りふりた時じ、お延のべはもう約束やくそくの時間じかんをだいぶ後らせおくらせていた。
彼女かのじょは自分じぶんの行先いきさきを車夫しゃふに教えるおしえるために、ただ一口ひとくち劇場げきじょうの名なを云っいったなり、すぐ俥くるまに乗っのった。
門前もんぜんに待たまたせておいたその俥くるまは、角かくの帳場ちょうばにある四五しご台だいのうちで一番いちばん新らしいあたらしいものであった。
小路こうじを出でた護謨ごむ輪わは電車でんしゃ通りとおりばかり走っはしった。
何なんの意味いみなしに、ただ賑やかにぎやかな方角ほうがくへ向けむけてのみ速力そくりょくを出すだすといった風かぜの、景気けいきの好いよい車夫しゃふの駈方が、お延のべに感染かんせんした。
ふっくらした厚いあつい席せきの上うえで、彼女かのじょの身体しんたいが浮つきうわつきながら早くはやく揺くわななくと共ともに、彼女かのじょの心こころにも柔らかやわらかで軽快けいかいな一種いっしゅの動揺どうようが起っおこった。
それは自分じぶんの左右さゆう前後ぜんごに紛ふんとして活躍かつやくする人生じんせいを、容赦ようしゃなく横切っよこぎって目的地もくてきちへ行くいく時じの快感かいかんであった。
車上しゃじょうの彼女かのじょは宅たくの事ことを考えるかんがえる暇ひまがなかった。
機嫌きげんよく病院びょういんの二に階かいへ寝かしねかして来きた津田つだの影像えいぞうが、今日きょう一いち日ひぐらい安心あんしんして彼かれを忘れわすれても差支えさしつかえないという保証ほしょうを彼女かのじょに与えるあたえるので、夫おっとの事こともまるで苦くにならなかった。
ただ目前もくぜんの未来みらいが彼女かのじょの俥くるまとともに動いうごいた。
芝居しばいその物ものに大したたいした嗜好しこうを始めはじめからもっていない彼女かのじょは、時間じかんが後れおくれたのを気きにするよりも、ただ早くはやくそこに行き着くいきつくのを気きにした。
こうして新らしいあたらしい俥くるまで走っはしっている道中どうちゅうが現にげんに刺戟しげきであると同様どうようの意味いみで、そこへ行き着くいきつくのはさらに一層いっそうの刺戟しげきであった。
俥くるまは茶屋ちゃやの前まえでとまった。
挨拶あいさつをする下女げじょにすぐ「岡本おかもと」と答えこたえたお延のべの頭あたまには、提灯ちょうちんだの暖簾のれんだの、紅白こうはくの造り花つくりばななどがちらちらした。
彼女かのじょは俥くるまを降りるおりる時じ一度いちどに眼めに入っはいったこれらの色いろと形かたちの影かげを、まだ片づけるかたづける暇ひまもないうちに、すぐ廊下ろうか伝いつたいに案内あんないされて、それよりも何なん層倍そうばいか錯綜さくそうした、また何なん層倍そうばいか濃厚のうこうな模様もようを、縦横じゅうおうに織りおり拡げひろげている、海うみのような場ば内うちへ、ひょっこり顔かおを出しだした。
それは茶屋ちゃやの男おとこが廊下ろうかの戸とを開けあけて「こちらへ」と云っいった時じ、その隙間すきまから遠くとおくに前まえの方ほうを眺めながめたお延のべの感じかんじであった。
好んこのんでこういう場所ばしょへ出入でいりしたがる彼女かのじょにとって、別べつに珍らしくめずらしくもないこの感じかんじは、彼女かのじょにとって、永久えいきゅうに新らしいあたらしい感じかんじであった。
だからまた永久えいきゅうに珍らしいめずらしい感じかんじであるとも云えいえた。
彼女かのじょは暗闇くらやみを通り抜けとおりぬけて、急きゅうに明海めいかいへ出でた人ひとのように眼めを覚ましさました。
そうしてこの氛囲気きの片隅かたすみに身みを置いおいた自分じぶんは、眼めの前まえに動くうごく生きいきた大きなおおきな模様もようの一部分いちぶぶんとなって、挙止きょし動作どうさ共ともことごとくこれからその中なかに織り込まおりこまれて行くいくのだという自覚じかくが、緊張きんちょうした彼女かのじょの胸むねにはっきり浮んうかんだ。
席せきには岡本おかもとの姿すがたが見えみえなかった。
細君さいくんに娘むすめ二人ふたりを入れいれても三さん人ひとにしかならないので、お延のべの坐るすわるべき余地よちは充分じゅうぶんあった。
それでも姉娘あねむすめの継子けいしは、お延のべの座ざがあいにく自分じぶんの影かげになるのを気遣うきづかうように、後あとを向いむかいて筋違すじかいに身体しんたいを延ばしのばしながらお延のべに訊いきいた。
「見えみえて? 少しすこしここと換かえってあげましょうか」「ありがとう。ここでたくさん」 お延のべは首くびを振っふって見せみせた。
お延のべのすぐ前まえに坐っすわっていた十四じゅうよんになる妹娘いもうとむすめの百合子ゆりこは左利ひだりりなので、左ひだりの手てに軽いかるい小さなちいさな象牙ぞうげ製せいの双眼鏡そうがんきょうを持っもったまま、その肱ひじを、赤いあかい布ぬので裹んだ手摺てすりの上うえに載せのせながら、後あとをふり返っふりかえった。
「遅かっおそかったのね。あたし宅たくの方ほうへいらっしゃるのかと思っおもってたのよ」 年ねんの若いわかい彼女かのじょは、まだ津田つだの病気びょうきについて挨拶あいさつかたがたお延のべに何なんか云ういうほどの智慧ちえをもたなかった。
「御用ごようがあったの?」「ええ」 お延のべはただ簡単かんたんな返事へんじをしたぎり舞台ぶたいの方ほうを見みた。
それは先刻せんこくから姉妹しまいの母親ははおやが傍目はためもふらず熱心ねっしんに見つめみつめている方角ほうがくであった。
彼女かのじょとお延のべは最初さいしょ顔かおを見合せみあわせた時じに、ちょっと黙礼もくれいを取りとり替かえわせただけで、拍子ひょうし木きの鳴るなるまでついに一言ひとことも口くちを利かりかなかった。
四十六よんじゅうろく
「よく来きられたのね。ことによると今日きょうはむずかしいんじゃないかって、先刻せんこく継つぎと話しはなしてたの」 幕まくが引かひかれてから、始めはじめてうち寛ろいくつろいだ様子ようすを示ししめした細君さいくんは、ようやくお延のべに口くちを利ききき出しだした。
「そら御覧ごらんなさい、あたしの云っいった通りとおりじゃなくって」 誇り顔ほこりがおに母ははの方ほうを見みてこう云っいった継子けいしはすぐお延のべに向っむかってその後そのあとを云いいい足したした。
「あたしお母さまおははさまと賭かけをしたのよ。今日きょうあなたが来るくるか来きないかって。お母さまおははさまはことによると来きないだろうっておっしゃるから、あたしきっといらっしゃるに違いないって受け合っうけあったの」「そう。また御神籤おみくじを引いひいて」 継子けいしは長さながさ二に寸すん五ご分ぶん幅はば六ろく分ぶんぐらいの小さなちいさな神籤みくじ箱ばこの所有者しょゆうしゃであった。
黒塗くろぬりの上うえへ篆書てんしょの金きん文字もじで神籤みくじと書いかいたその箱ばこの中なかには、象牙ぞうげを平たくひらたく削っけずった精巧せいこうの番号ばんごう札さつが数すう通りとおり百ひゃく本ほん納めおさめられていた。
彼女かのじょはよく「ちょっと見みて上げあげましょうか」と云いいいながら、小楊枝しょうようじ入いりを取り扱うとりあつかうような手つきてつきで、短冊たんざく形かたちの薄いうすい象牙ぞうげ札さつを振り出しふりだしては、箱ばこの大きさおおきさと釣り合うつりあうようにできた文句もんく入いりの折おり手本てほんを繰りひろげくりひろげて見みた。
そうしてそこに書いかいてある蠅はえの頭あたまほどな細かいこまかい字じを読むよむために、これも附属ふぞく品しなとして始めはじめから添えそえてある小さなちいさな虫眼鏡むしめがねを、羽二重はぶたえの裏うらをつけた更紗さらさの袋ふくろから取り出しとりだして、もったいらしくその上うえへ翳しかざしたりした。
お延のべが津田つだと浅草あさくさへ遊びあそびに行っいった時じ、玩具がんぐとしては高こう過ぎるすぎる四よん円えん近くちかくの代価だいかを払っはらって、仲見世なかみせから買っかって帰っかえった精巧せいこうなこの贈物おくりものは、来年らいねん二十一にじゅういちになる継子けいしにとって、処女しょじょの空想くうそうに神秘しんぴの色いろを遊戯ゆうぎ的まとに着けつけてくれる無邪気むじゃきな装飾品そうしょくひんであった。
彼女かのじょは時じとして帙ちつ入いりのままそれを机つくえの上うえから取っとって帯おびの間まに挟んはさんで外出がいしゅつする事ことさえあった。
「今日きょうも持っもって来きたの?」 お延のべは調ちょう戯たわむれ半分はんぶん彼女かのじょに訊いきいて見みたくなった。
彼女かのじょは苦笑くしょうしながら首くびを振っふった。
母ははが傍そばから彼女かのじょに代っかわって返事へんじをするごとくに云っいった。
「今日きょうの予言よげんはお神籤みくじじゃないのよ。お神籤みくじよりもっと偉いえらい予言よげんなの」「そう」 お延のべは後あとが聞きききたそうにして、母子ぼしを見比べみくらべた。
「継つぎはね……」と母ははが云いいいかけたのを、娘むすめはすぐ追つい被せるかぶせるようにとめた。
「止しよしてちょうだいよ、お母さまおははさま。そんな事ことここで云っいっちゃ悪いわるいわよ」 今までいままで黙っだまって三さん人ひとの会話かいわを聴いきいていた妹娘いもうとむすめの百合子ゆりこが、くすくす笑いわらい出しだした。
「あたし云っいってあげてもいいわ」「お止しよしなさいよ、百合子ゆりこさん。そんな意地いじの悪いわるい事ことするのは。いいわ、そんなら、もうピヤノぴやのを浚っさらって上げあげないから」 母ははは隣りとなりにいる人ひとの注意ちゅういを惹かひかないように、小さなちいさな声こえを出しだして笑っわらった。
お延のべもおかしかった。
同時どうじになお訳わけが訊きききたかった。
「話しはなしてちょうだいよ、お姉あねさまに怒らおこられたって構わかまわないじゃないの。あたしがついてるから大丈夫だいじょうぶよ」 百合子ゆりこはわざと腮を前まえへ突き出すつきだすようにして姉あねを見みた。
心持こころもち小鼻こばなをふくらませたその態度たいどは、話すはなす話さはなさないの自由じゆうを我われに握っにぎった人ひとの勝利しょうりを、ものものしく相手あいてに示ししめしていた。
「いいわ、百合子ゆりこさん。どうでも勝手にかってになさい」 こう云いいいながら立つたつと、継子けいしは後あとの戸とを開けあけてすぐ廊下ろうかへ出でた。
「お姉あねさま怒っどったのね」「怒っどったんじゃないよ。きまりが悪いわるいんだよ」「だってきまりの悪いわるい事ことなんかなかないの。あんな事こと云っいったって」「だから話しはなしてちょうだいよ」 年歯ねんしの六ろくつほど下したな百合子ゆりこの小供こどもらしい心理状態しんりじょうたいを観察かんさつしたお延のべは、それを旨くうまく利用りようしようと試みこころみた。
けれども不意ふいに座ざを立ったった姉あねの挙動きょどうが、もうすでにその状態じょうたいを崩しくずしていたので、お延のべの慫慂しょうようは何なんの効目ききめもなかった。
母はははとうとうすべてに対するたいする責任せきにんを一人ひとりで背負わせおわなければならなかった。
「なに何なんでもないんだよ。継つぎがね、由雄よしおさんはああいう優しいやさしい好いよい人ひとで、何なんでも延子のぶこさんのいう通りとおりになるんだから、今日きょうはきっと来るくるに違いないって云っいっただけなんだよ」「そう。由雄よしおが継子けいしさんにはそんなに頼母しくたのもしく見えるみえるの。ありがたいわね。お礼おれいを云わいわなくっちゃならないわ」「そうしたら百合子ゆりこが、そんならお姉あね様ようも由雄よしおさん見みたような人ひとの所ところへお嫁よめに行くいくといいって云っいったんでね、それをお前おまえの前まえで云わいわれるのが恥ずかしいはずかしいもんだから、ああやって出でて行っいったんだよ」「まあ」 お延のべは弱いよわい感かん投なげ詞しをむしろ淋しさびしそうに投げなげた。
四十七よんじゅうなな
手前勝手てまえかってな男おとことしての津田つだが不意ふいにお延のべの胸むねに上っのぼった。
自分じぶんの朝夕あさゆう尽しつくしている親切しんせつは、ずいぶん精一杯せいいっぱいなつもりでいるのに、夫おっとの要求ようきゅうする犠牲ぎせいには際限さいげんがないのかしらんという、不断ふだんからの疑念ぎねんが、濃いこい色いろでぱっと頭あたまの中なかへ出でた。
彼女かのじょはその疑念ぎねんを晴らしはらしてくれる唯一ゆいいつの責任者せきにんしゃが今いま自分じぶんの前まえにいるのだという自覚じかくと共ともに、岡本おかもとの細君さいくんを見みた。
その細君さいくんは、遠くとおくに離れはなれている両親りょうしんをもった彼女かのじょから云えいえば、東京とうきょう中なかで頼りたよりにするたった一人ひとりの叔母おばであった。
「良人おっとというものは、ただ妻つまの情愛じょうあいを吸い込むすいこむためにのみ生存せいぞんする海綿かいめんに過ぎすぎないのだろうか」 これがお延のべのとうから叔母おばにぶつかって、質しただして見みたい問もんであった。
不幸ふこうにして彼女かのじょには持っもって生れうまれた一種いっしゅの気位きぐらいがあった。
見方みかた次第しだいでは痩やせ我慢がまんとも虚栄心きょえいしんとも解釈かいしゃくのできるこの気位きぐらいが、叔母おばに対するたいする彼女かのじょを、この一いち点てんで強くつよく牽制けんせいした。
ある意味いみからいうと、毎日まいにち土俵どひょうの上うえで顔かおを合せあわせて相撲すもうを取っとっているような夫婦関係ふうふかんけいというものを、内側うちがわの二人ふたりから眺めながめた時じに、妻つまはいつでも夫おっとの相手あいてであり、またたまには夫おっとの敵てきであるにしたところで、いったん世間せけんに向っむかったが最後さいご、どこまでも夫おっとの肩かたを持たもたなければ、体からだよく夫婦ふうふとして結びつけむすびつけられた二人ふたりの弱味よわみを表ひょうへ曝すさらすような気きがして、恥ずかしくはずかしくていられないというのがお延のべの意地いじであった。
だから打ち明けうちあけ話はなしをして、何なんか訴えうったえたくてたまらない時じでも、夫婦ふうふから見れみれば、やっぱり「世間せけん」という他人たにんの部類ぶるいへ入れいれべきこの叔母おばの前まえへ出るでると、敏感びんかんのお延のべは外聞がいぶんが悪くわるくって何なんも云ういう気きにならなかった。
その上うえ彼女かのじょは、自分じぶんの予期よき通りとおり、夫おっとが親切しんせつに親切しんせつを返しかえしてくれないのを、足りたりない自分じぶんの不行届ふゆきとどきからでも出でたように、傍そばから解釈かいしゃくされてはならないと日頃ひごろから掛かかり念ねんしていた。
すべての噂うわさのうちで、愚鈍ぐどんという非難ひなんを、彼女かのじょは火ひのように恐れおそれていた。
「世間せけんには津田つだよりも何なん層倍そうばいか気むずかしいきむずかしい男おとこを、すぐ手の内てのうちに丸め込むまるめこむ若いわかい女おんなさえあるのに、二十三にじゅうさんにもなって、自分じぶんの思うおもうように良人おっとを綾なしあやなして行けいけないのは、畢竟ひっきょう知恵ちえがないからだ」 知恵ちえと徳とくとをほとんど同じおなじように考えかんがえていたお延のべには、叔母おばからこう云わいわれるのが、何なんよりの苦痛くつうであった。
女おんなとして男おとこに対するたいする腕うでをもっていないと自白じはくするのは、人間にんげんでありながら人間にんげんの用ようをなさないと自白じはくするくらいの屈辱くつじょくとして、お延のべの自尊心じそんしんを傷けきずつけたのである。
時じと場合ばあいが、こういう立ち入ったちいった談話だんわを許さゆるさない劇場げきじょうでないにしたところで、お延のべは黙っだまっているよりほかに仕方しかたがなかった。
意味いみありげに叔母おばの顔かおを見みた彼女かのじょは、すぐ眼めを外せはずせた。
舞台ぶたい一面いちめんに垂れたれている幕まくがふわふわ動いうごいて、継目つぎめの少しすこし切れきれた間まから誰だれかが見物けんぶつの方ほうを覗いのぞいた。
気きのせいかそれがお延のべの方ほうを見みているようなので、彼女かのじょは今いま向けむけ換えかえたばかりの眼めをまたよそに移しうつした。
下したは席せきを出るでる人ひと、座ざへ戻るもどる人ひと、途中とちゅうを歩くあるく人ひとで、一度いちどにざわつき始めはじめていた。
坐っすわったぎりの大多数だいたすうも、前後ぜんご左右さゆうに思い思いおもいおもいの姿勢しせいを取っとったり崩しくずしたりして、片時かたときも休まやすまなかった。
無数むすうの黒いくろい頭あたまが渦うずのように見えみえた。
彼かれらの或ある者ものの派出はしゅつな扮装ふんそうが、色彩しきさいの運動うんどうから来るくる落ちつかおちつかない快感かいかんを、乱雑らんざつにちらちらさせた。
土間どまから眼めを放しはなしたお延のべは、ついに谷たにを隔てへだてた向う側むこうがわを吟味ぎんみし始めはじめた。
するとちょうどその時じ後あとをふり向いふりむいた百合子ゆりこが不意ふいに云っいった。
「あすこに吉川よしかわさんの奥さんおくさんが来きていてよ。見えみえたでしょう」 お延のべは少しすこし驚ろかさおどろかされた眼めを、教わっおそわった通りとおりの見当けんとうへつけて、そこに容易くたやすく吉川よしかわ夫人ふじんらしい人ひとの姿すがたを発見はっけんした。
「百合子ゆりこさん、眼めが早いはやいのね、いつ見つけみつけたの」「見つけみつけやしないのよ。先刻せんこくから知っしってるのよ」「叔母おばさんや継子けいしさんも知っしってるの」「ええ皆みなな知っしってるのよ」 知らしらないのは自分じぶんだけだったのにようやく気きのついたお延のべが、なおその方ほうを百合子ゆりこの影かげから見守っみまもっていると、故意こいだか偶然ぐうぜんだか、いきなり吉川よしかわ夫人ふじんの手てにあった双眼鏡そうがんきょうが、お延のべの席せきに向けむけられた。
「あたし厭いやだわ。あんなにして見みられちゃ」 お延のべは隠れるかくれるように身みを縮めちぢめた。
それでも向側むかいがわの双眼鏡そうがんきょうは、なかなかお延のべの見当けんとうから離れはなれなかった。
「そんならいいわ。逃げ出しにげだしちまうだけだから」 お延のべはすぐ継子けいしの後あとを追かけおいかけて廊下ろうかへ出でた。
四十八よんじゅうはち
そこから見渡しみわたした外部がいぶの光景こうけいも場所柄ばしょがらだけに賑わっにぎわっていた。
裏うらへ貫ぬきを打っうって取りとり除しじょしのできるように拵らえこしらえた透しとおしの板敷いたじきを、絶間たえまなく知らしらない人ひとが往っいったり来きたりした。
廊下ろうかの端はしに立ったって、半ばなかば柱はしらに身みを靠たせたお延のべが、継子けいしの姿すがたを見み出すだすまでには多少たしょうの時間じかんがかかった。
それを向う側むこうがわに並んならんでいる売店ばいてんの前まえに認めみとめた時じ、彼女かのじょはすぐ下したへ降りふりた。
そうして軽くかるく足早あしばやに板敷いたじきを踏んふんで、目指すめざす人ひとのいる方ほうへ渡っわたった。
「何なんを買っかってるの」 後あとから覗き込むのぞきこむようにして訊いきいたお延のべの顔かおと、驚ろいおどろいてふり返っふりかえった継子けいしの顔かおとが、ほとんど擦れ擦れすれすれになって、微笑みほほえみ合っあった。
「今いま困っこまってるところなのよ。一いちさんが何なんかお土産みやげを買っかってくれって云ういうから、見みているんだけれども、あいにく何になんにもないのよ、あの人ひとの喜びよろこびそうなものは」 疳かん違いちがいをして、男の子おとこのこの玩具がんぐを買おうかおうとした継子けいしは、それからそれへといろいろなものを並べならべられて、買うかうには買わかわれず、止すよすには止さよされず、弱っよわっているところであった。
役者やくしゃに縁故えんこのある紋もんなどを着けつけた花簪はなかんざしだの、紙入かみいれだの、手拭てぬぐいだのの前まえに立ったって、もじもじしていた彼女かのじょは、どうしたらよかろうという訴えうったえの眼めをお延のべに向けむけた。
お延のべはすぐ口くちを利いきいてやった。
「駄目だめよ、あの子こは、拳銃けんじゅうとか木剣ぼっけんとか、人殺しひとごろしのできそうなものでなくっちゃ気きに入らはいらないんだから。そんな物ものこんな粋いきな所ところにあろうはずがないわ」 売店ばいてんの男おとこは笑いわらい出しだした。
お延のべはそれを機きに年下とししたの女おんなの手てを取っとった。
「とにかく叔母おばさんに訊いきいてからになさいよ。――どうもお気の毒きのどくさま、じゃいずれまた後ほどのちほど」 こう云っいったなりさっさと歩きあるき出しだした彼女かのじょは、気の毒きのどくそうにしている継子けいしを、廊下ろうかの端はしまで引張るひっぱるようにして連れつれて来きた。
そこでとまった二人ふたりは、また一いち本ほんの軒のき柱はしらを盾たてに立話たちばなしをした。
「叔父おじさんはどうなすったの。今日きょうはなぜいらっしゃらないの」「来るくるのよ、今いまに」 お延のべは意外いがいに思っおもった。
四よん人ひとでさえ窮屈きゅうくつなところへ、あの大きなおおきな男おとこが割り込んわりこんで来るくるのはたしかに一いち事件じけんであった。
「あの上うえ叔父おじさんに来きられちゃ、あたし見みたいに薄っぺらうすっぺらなものは、圧さおされてへしゃげちまうわ」「百合子ゆりこさんと入れ代るいれかわるのよ」「どうして」「どうしてでもその方ほうが都合つごうが好いよいんでしょう。百合子ゆりこさんはいてもいなくっても構わかまわないんだから」「そう。じゃもし、由雄よしおが病気びょうきでなくって、あたしといっしょに来きたらどうするの」「その時じはその時じで、またどうかするつもりなんでしょう。もう一いち間ま取るとるとか、それでなければ、吉川よしかわさんの方ほうといっしょになるとか」「吉川よしかわさんとも前まえから約束やくそくがあったの?」「ええ」 継子けいしはその後そのあとを云わいわなかった。
岡本おかもとと吉川よしかわの家庭かていがそれほど接近せっきんしているとも考えかんがえていなかったお延のべは、そこに何なんか意味いみがあるのではないかと、ちょっと不審ふしんを打っうって見みたが、時間じかんに余裕よゆうのある人ひとの間まに起りおこりがちな、単にたんに娯楽ごらくのための約束やくそくとして、それを眺めるながめる余地よちも充分じゅうぶんあるので、彼女かのじょはついに何になんにも訊かきかなかった。
二人ふたりの話はなしはただ吉川よしかわ夫人ふじんの双眼鏡そうがんきょうに触れふれただけであった。
お延のべはわざと手真似てまねまでして見せみせた。
「こうやって真ともまともに向けるむけるんだから、敵わかなわないわね」「ずいぶん無遠慮むえんりょでしょう。だけど、あれ西洋風せいようふうなんだって、宅たくのお父さまおちちさまがそうおっしゃってよ」「あら西洋せいようじゃ構わかまわないの。じゃあたしの方ほうでも奥さんおくさんの顔かおをああやってつけつけ見みても好いよい訳わけね。あたし見みて上げようあげようかしら」「見みて御覧ごらんなさい、きっと嬉しうれしがってよ。延子のぶこさんはハイカラはいからだって」 二人ふたりが声こえを出しだして笑い合っわらいあっている傍そばに、どこからか来きた一人ひとりの若いわかい男おとこがちょっと立ちどまったちどまった。
無地むじの羽織はおりに友とも縫ぬいの紋もんを付けつけて、セルせるの行灯あんどん袴はかまを穿いはいたその青年せいねん紳士しんしは、彼かれらと顔かおを見合せるみあわせるや否いなや、「失礼しつれい」と挨拶あいさつでもして通り過ぎるとおりすぎるように、鄭重ていちょうな態度たいどを無言むごんのうちに示ししめして、板敷いたじきへ下りくだりて向うむこうへ行っいった。
継子けいしは赧くあかくなった。
「もう這入りはいりましょうよ」 彼女かのじょはすぐお延のべを促がしうながして内うちへ入っはいった。
四十九よんじゅうきゅう
場中じょうちゅうの様子ようすは先刻せんこく見みた時じと何なんの変りかわりもなかった。
土間どまを歩くあるく男女だんじょの姿すがたが、まるで人ひとの頭あたまの上うえを渡っわたっているように煩はんらわしく眺めながめられた。
できるだけ多くおおくの注意ちゅういを惹こうひこうとする浮うき誇ほこりの活動かつどうさえ至る所いたるところに出現しゅつげんした。
そうして次つぎの色彩しきさいに席せきを譲るゆずるべくすぐ消滅しょうめつした。
眼中がんちゅうの小しょう世界せかいはただ動揺どうようであった、乱雑らんざつであった、そうしていつでも粉飾ふんしょくであった。
比較的ひかくてき静かしずかな舞台ぶたいの裏側うらがわでは、道具どうぐ方ほうの使うつかう金槌かなづちの音おとが、一般いっぱんの予期よきを唆るそそるべく、折々おりおり場ば内うちへ響きひびき渡っわたった。
合間あいま合間あいまには幕まくの後あとで拍子ひょうし木きを打つうつ音おとが、攪き廻さかきまわされた注意ちゅういを一いち点てんに纏めようまとめようとする警けい柝きの如じょに聞こえきこえた。
不思議ふしぎなのは観客かんきゃくであった。
何なんもする事ことのないこの長いながい幕間まくあいを、少しすこしの不平ふへいも云わいわず、かつて退屈たいくつの色いろも見せみせず、さも太平たいへいらしく、空疎くうそな腹はらに散漫さんまんな刺戟しげきを盛っもって、他愛たあいなく時間じかんのために流さながされていた。
彼かれらは穏和おんわかであった。
彼かれらは楽したのしそうに見えみえた。
お互たがいの吐くはく呼息こそくに酔っ払っよっぱらった彼かれらは、少しすこし醒めさめかけると、すぐ眼めを転じてんじて誰だれかの顔かおを眺めながめた。
そうしてすぐそこに陶然とうぜんたる或ある物ものを認めみとめた。
すぐ相手あいての気分きぶんに同化どうかする事ことができた。
席せきに戻っもどった二人ふたりは愉快ゆかいらしく四辺しへんを見廻しみまわした。
それから申し合せもうしあわせたように問題もんだいの吉川よしかわ夫人ふじんの方ほうを見みた。
婦人ふじんの双眼鏡そうがんきょうはもう彼かれらを覘っていなかった。
その代りかわり双眼鏡そうがんきょうの主人しゅじんもどこかへ行っいってしまった。
「あらいらっしゃらないわ」「本当ほんとうね」「あたし探しさがしてあげましょうか」 百合子ゆりこはすぐ自分じぶんの手てに持っもったこっちのオペラグラスおぺらぐらすを眼めへ宛てがっあてがった。
「いない、いない、どこかへ行っいっちまった。あの奥さんおくさんなら二人ふたり前まえぐらい肥っふとってるんだから、すぐ分るわかるはずだけれども、やっぱりいないわよ」 そう云いいいながら百合子ゆりこは象牙ぞうげの眼鏡めがねを下したへ置いおいた。
綺麗きれいな友染ともそめ模様もようの背中せなかが隠れるかくれるほど、帯おびを高くたかく背負っせおった令嬢れいじょうとしては、言葉ことばが少しすこしもよそゆきでないので、姉あねはおかしさを堪えるこたえるような口元くちもとに、年上としうえらしい威厳いげんを示ししめして、妹いもうとを窘なめた。
「百合子ゆりこさん」 妹いもうとは少しすこしも応えこたえなかった。
例れいの通りとおりちょっと小鼻こばなを膨らまふくらませて、それがどうしたんだといった風かぜの表情ひょうじょうをしながら、わざと継子けいしを見みた。
「あたしもう帰りかえりたくなったわ。早くはやくお父さまおちちさまが来きてくれると好いよいんだけどな」「帰りかえりたければお帰りかえりよ。お父さまおちちさまがいらっしゃらなくっても構わかまわないから」「でもいるわ」 百合子ゆりこはやはり動かうごかなかった。
子供こどもでなくってはふるまいにくいこの腕白わんぱくらしい態度たいどの傍そばに、お延のべが年ねん相応そうおうの分別ぶんべつを出しだして叔母おばに向っむかった。
「あたしちょっと行っいって吉川よしかわさんの奥さんおくさんに御ご挨拶あいさつをして来きましょうか。澄ましすましていちゃ悪いわるいわね」 実じつを云ういうと彼女かのじょはこの夫人ふじんをあまり好いよいていなかった。
向うむこうでもこっちを嫌っいやっているように思えおもえた。
しかも最初さいしょ先方せんぽうから自分じぶんを嫌いきらい始めはじめたために、この不愉快ふゆかいな現象げんしょうが二人ふたりの間まに起っおこったのだという朧気おぼろきな理由りゆうさえあった。
自分じぶんが嫌わいやわれるべき何なんらのきっかけも与えあたえないのに、向うむこうで嫌いきらい始めはじめたのだという自信じしんも伴っともなっていた。
先刻せんこく双眼鏡そうがんきょうを向けむけられた時じ、すでに挨拶あいさつに行かいかなければならないと気きのついた彼女かのじょは、即座そくざにそれを断行だんこうする勇気ゆうきを起しおこし得とくなかったので、内心ないしんの不安ふあんを質問しつもんの形かたちに引き直しひきなおして叔母おばに相談そうだんしかけながら、腹はらの中なかでは、その義務ぎむを容易くたやすく果さはたさせるために、叔母おばが自分じぶんと連れ立っつれだって、夫人ふじんの所ところへ行っいってくれはしまいかと暗にあんに願っねがっていた。
叔母おばはすぐ返事へんじをした。
「ああ行っいった方ほうがいいよ。行っいっといでよ」「でも今いまいらっしゃらないから」「なにきっと廊下ろうかにでも出でておいでなんだよ。行けいけば分るわかるよ」「でも、――じゃ行くいくから叔母おばさんもいっしょにいらっしゃいな」「叔母おばさんは――」「いらっしゃらない?」「行っいってもいいがね。どうせ今いまに御飯ごはんを食べるたべる時じに、いっしょになるはずになってるんだから、御免ごめん蒙っこうむってその時じにしようかと思っおもってるのよ」「あらそんなお約束やくそくがあるの。あたしちっとも知らしらなかったわ。誰だれと誰だれがいっしょに御飯ごはんを召上がるめしあがるの」「みんなよ」「あたしも?」「ああ」 意外いがいの感かんに打たうたれたお延のべは、しばらくしてから答えこたえた。
「そんならあたしもその時じにするわ」
五十ごじゅう
岡本おかもとの来きたのはそれから間まもなくであった。
茶屋ちゃやの男おとこに開けあけて貰っもらった戸との隙間すきまから中なかを覗いのぞいた彼かれは、おいでおいでをして百合子ゆりこを廊下ろうかへ呼び出しよびだした。
そこで二人ふたりがみんなの邪魔じゃまにならないような小声こごえの立たて談だんを、二言にごん三さん言げん取りとり換かえわした後あとで、百合子ゆりこは約束やくそく通りとおり男おとこに送らおくられてすぐ場外じょうがいへ出でた。
そうして入れ代りいれかわりに入っはいって来きた彼かれがその後そのあとへ窮屈きゅうくつそうに坐っすわった。
こんな場所ばしょではちょっと身体しんたいの位置いちを変るかわるのさえ臆劫おっくうそうに見えるみえる肥満ひまんな彼かれは、坐っすわってしまってからふと気きのついたように、半分はんぶんばかり背後はいごを向いむかいた。
「お延のべ、代っかわってやろうか。あんまり大きいおおきいのが前まえを塞いせいで邪魔じゃまだろう」 一夜いちや作りつくりの山やまが急きゅうに出来上っできあがったような心持こころもちのしたお延のべは、舞台ぶたいへ気きを取らとられている四辺しへんへ遠慮えんりょして動かうごかなかった。
毛織けおりものを肌はだへ着けつけた例れいのない岡本おかもとは、毛けだらけな腕うでを組んくんで、これもおつき合あわせだと云っいった風かぜに、みんなの見みている方角ほうがくへ視線しせんを向けむけた。
そこでは色いろの生っ白いなまっちろい変へんな男おとこが柳やなぎの下したをうろうろしていた。
荒いあらい縞しまの着物きものをぞろりと着流しきながして、博多はかたの帯おびをわざと下したの方ほうへ締めしめたその色男いろおとこは、素足すあしに雪駄せったを穿いはいているので、歩くあるくたびにちゃらちゃらいう不愉快ふゆかいな音おとを岡本おかもとの耳みみに響かひびきかせた。
彼かれは柳やなぎの傍そばにある橋はしと、橋はしの向うむこうに並んならんでいる土蔵どぞうの白壁しらかべを見廻しみまわして、それからそのついでに観客かんきゃくの方ほうへ眼めを移しうつした。
然るしかるに観客かんきゃくの顔かおはことごとく緊張きんちょうしていた。
雪駄せったをちゃらちゃら鳴らしならして舞台ぶたいの上うえを往っいったり来きたりするこの若いわかい男おとこの運動うんどうに、非常ひじょうな重大じゅうだいの意味いみでもあるように、満場まんじょうは静まり返っしずまりかえって、咳せき一いちつするものがなかった。
急きゅうに表ひょうから入っはいって来きた彼かれにとって、すぐこの特殊とくしゅな空気くうきに感染かんせんする事ことが困難こんなんであったのか、また馬鹿ばからしかったのか、しばらくすると彼かれはまた窮屈きゅうくつそうに半分はんぶん後あとを向いむかいて、小声こごえでお延のべに話しかけはなしかけた。
「どうだ面白いおもしろいかね。――由雄よしおさんはどうだ。――」 簡単かんたんな質問しつもんを次つぎから次つぎへと三さんつ四よんつかけて、一口ひとくちずつの返事へんじをお延のべから受け取っうけとった彼かれは、最後さいごに意味いみありげな眼めをしてさらに訊いきいた。
「今日きょうはどうだったい。由雄よしおさんが何なんとか云やいやしなかったかね。おおかたぐずぐず云っいったんだろう。おれが病気びょうきで寝ねているのに貴様きさま一人ひとり芝居しばいへ行くいくなんて不埒ふらち千万せんまんだとか何なんとか。え? きっとそうだろう」「不埒ふらち千万せんまんだなんて、そんな事こと云やいやしないわ」「でも何なんか云わいわれたろう。岡本おかもとは不都合ふつごうな奴やつだぐらい云わいわれたに違いあるまい。電話でんわの様子ようすがどうも変へんだったぜ」 小声こごえでさえ話はなしをするものが周囲しゅういに一人ひとりもない所ところで、自分じぶんだけ長いながい受けうけ答こたえをするのはきまりが悪かっわるかったので、お延のべはただ微笑びしょうしていた。
「構わかまわないよ。叔父おじさんが後あとで話はなしをしてやるから、そんな事ことは心配しんぱいしないでもいいよ」「あたし心配しんぱいなんかしちゃいないわ」「そうか、それでも少すくなしゃ気がかりきがかりだろう。結婚けっこん早々はやばや旦那だんな様ようの御機嫌ごきげんを損じそんじちゃ」「大丈夫だいじょうぶよ。御機嫌ごきげんなんか損じそんじちゃいないって云ういうのに」 お延のべは煩さうるささそうに眉まゆを動かしうごかした。
面白おもしろ半分はんぶん調ちょう戯たわむれって見みた岡本おかもとは少しすこし真面目まじめになった。
「実じつは今日きょうお前おまえを呼んよんだのはね、ただ芝居しばいを見せるみせるためばかりじゃない、少しすこし呼ぶよぶ必要ひつようがあったんだよ。それで由雄よしおさんが病気びょうきのところを無理むりに来きて貰っもらったような訳わけだが、その訳わけさえ由雄よしおさんに後あとから話しはなしておけば何なんでもない事ことさ。叔父おじさんがよく話しはなしておくよ」 お延のべの眼めは急きゅうに舞台ぶたいを離れはなれた。
「理由りゆうっていったい何なん」「今いまここじゃ話しはなし悪いわるいがね。いずれ後あとで話すはなすよ」 お延のべは黙るだまるよりほかに仕方なかっしかたなかった。
岡本おかもとはつけ足すつけたすように云っいった。
「今日きょうは吉川よしかわさんといっしょに食堂しょくどうで晩食ばんしょくを食べるたべる事ことになってるんだよ。知っしってるかね。そら吉川よしかわもあすこへ来きているだろう」 先刻せんこくまで眼めにつかなかった吉川よしかわの姿すがたがすぐお延のべの眼めに入っはいった。
「叔父おじさんといっしょに来きたんだよ。倶楽部くらぶから」 二人ふたりの会話かいわはそこで途切れとぎれた。
お延のべはまた真面目まじめに舞台ぶたいの方ほうを見出しみだした。
しかし十分じゅうふん経つたつか経たへたないうちに、彼女かのじょの注意ちゅういがまたそっと後あとの戸とを開けるあける茶屋ちゃやの男おとこによって乱さみだされた。
男おとこは叔母おばに何なんか耳語じごいた。
叔母おばはすぐ叔父おじの方ほうへ顔かおを寄せよせた。
「あのね吉川よしかわさんから、食事しょくじの用意よういを致さいたさせておきましたから、この次つぎの幕間まくあいにどうぞ食堂しょくどうへおいで下さいくださいますようにって」 叔父おじはすぐ返事へんじを伝えつたえさせた。
「承知しょうちしました」 男おとこはまた戸とをそっと閉へいてて出でて行っいった。
これから何なんが始まるはじまるのだろうかと思っおもったお延のべは、黙っだまって会食かいしょくの時間じかんを待っまった。
五十一ごじゅういち
彼女かのじょが叔父叔母おじおばの後あとに随いしたがいて、継子けいしといっしょに、二に階かいの片隅かたすみにある奥行おくゆきの深いぶかい食堂しょくどうに入るはいるべく席せきを立ったったのは、それから小しょう一いち時間じかん後あとであった。
彼女かのじょは自分じぶんと肩かたを並べならべて、すれすれに廊下ろうかを歩いあるいて行くいく従妹じゅうまいに小声こごえで訊いきいて見みた。
「いったいこれから何なんが始まるはじまるの」「知らしらないわ」 継子けいしは下したを向いむかいて答えこたえた。
「ただ御飯ごはんを食べるたべるぎりなの」「そうなんでしょう」 訊こうきこうとすれば訊こうきこうとするほど、継子けいしの返事へんじが曖昧あいまいになってくるように思わおもわれたので、お延のべはそれぎり口くちを閉じとじた。
継子けいしは前まえに行くいく父母ふぼに遠慮えんりょがあるのかも知れしれなかった。
また自分じぶんは何になんにも承知しょうちしていないのかも分らわからなかった。
あるいは承知しょうちしていても、お延のべに話しはなしたくないので、わざと短かいみじかい返事へんじを小さなちいさな声こえで与えあたえないとも限らかぎらなかった。
鋭いするどい一瞥いちべつの注意ちゅういを彼かれらの上うえに払っはらって行きいきがちな、廊下ろうかで出逢うであう多数たすうの人々ひとびとは、みんなお延のべよりも継子けいしの方ほうに余分よぶんの視線しせんを向けむけた。
忽然こつぜんお延のべの頭あたまに彼女かのじょと自分じぶんとの比較ひかくが閃めいひらめいた。
姿すがた恰好かっこは継子けいしに立ち優ったちまさっていても、服装ふくそうや顔形かおかたちで是非ぜひひけを取らとらなければならなかった彼女かのじょは、いつまでも子供こどもらしく羞恥しゅうちんでいるような、またどこまでも気苦労きくろうのなさそうに初々しくういういしく出来上っできあがった、処女しょじょとしては水みずの滴しずくたるばかりの、この従妹じゅうまいを軽いかるい嫉妬しっとの眼めで視みた。
そこにはたとい気の毒きのどくだという侮蔑ぶべつの意いが全くまったく打ち消さうちけされていないにしたところで、ちょっと彼我ひがの地位ちいを易えかえて立ったって見みたいぐらいな羨望せんぼうの念ねんが、著るきるしく働はたらけらいていた。
お延のべは考えかんがえた。
「処女しょじょであった頃ころ、自分じぶんにもかつてこんなお嬢さんおじょうさんらしい時期じきがあったろうか」 幸みゆきか不幸ふこうか彼女かのじょはその時期じきを思い出すおもいだす事ことができなかった。
平生へいぜい継子けいしを標準ひょうじゅんにおかないで、何なんとも思わおもわずに暮しくらしていた彼女かのじょは、今いまその従妹じゅうまいと肩かたを並べならべながら、賑やかにぎやかな電灯でんとうで明るくあかるく照らさてらされた廊下ろうかの上うえに立ったって、またかつて感じかんじた事ことのない一いち種しゅの哀愁あいしゅうに打たうたれた。
それは軽いかるいものであった。
しかし涙なみだに変化へんかしやすい性質せいしつのものであった。
そうして今いま嫉妬しっとの眼めで眺めながめたばかりの相手あいての手てを、固くかたく握り締めにぎりしめたくなるような種類しゅるいのものであった。
彼女かのじょは心こころの中なかで継子けいしに云っいった。
「あなたは私わたくしより純潔じゅんけつです。私わたくしが羨やましうらやましがるほど純潔じゅんけつです。けれどもあなたの純潔じゅんけつは、あなたの未来みらいの夫おっとに対したいして、何なんの役やくにも立たたたない武器ぶきに過ぎすぎません。私わたくしのように手落ておちなく仕向けしむけてすら夫おっとは、けっしてこっちの思うおもう通りとおりに感謝かんしゃしてくれるものではありません。あなたは今いまに夫おっとの愛あいを繋ぐつなぐために、その貴いとうとい純潔じゅんけつな生地きじを失わうしなわなければならないのです。それだけの犠牲ぎせいを払っはらって夫おっとのために尽しつくしてすら、夫おっとはことによるとあなたに辛くつらくあたるかも知れしれません。私わたくしはあなたが羨ましいうらやましいと同時どうじに、あなたがお気の毒きのどくです。近いちかいうちに破壊はかいしなければならない貴いとうとい宝物ほうもつを、あなたはそれと心づかこころづかずに、無邪気むじゃきにもっているからです。幸みゆきか不幸ふこうか始めはじめから私わたくしには今いまあなたのもっているような天然てんねんそのままの器うつわが完全かんぜんに具わっそなわっておりませんでしたから、それほどの損失そんしつもないのだと云えいえば、云わいわれないこともないでしょうが、あなたは私わたくしと違いちがいます。あなたは父母ふぼの膝下しっかを離れるはなれると共ともに、すぐ天真てんしんの姿すがたを傷けきずつけられます。あなたは私わたくしよりも可哀相かわいそうです」 二人ふたりの歩きあるき方ほうは遅かっおそかった。
先さきに行っいった岡本おかもと夫婦ふうふが人ひとに遮ぎらさえぎられて見えみえなくなった時じ、叔母おばはわざわざ取っとって返しかえした。
「早くはやくおいでなね。何なんをぐずぐずしているの。もう吉川よしかわさんの方ほうじゃ先さきへ来きて待っまっていらっしゃるんだよ」 叔母おばの眼めは継子けいしの方ほうにばかり注がちゅうがれていた。
言葉ことばもとくに彼女かのじょに向っむかってかけられた。
けれども吉川よしかわという名前なまえを聞いきいたお延のべの耳みみには、それが今までいままでの気分きぶんを一度いちどに吹き散らすふきちらす風かぜのように響いひびいた。
彼女かのじょは自分じぶんのあまり好いよいていない、また向うむこうでも自分じぶんをあまり好いよいていないらしい、吉川よしかわ夫人ふじんの事ことをすぐ思い出しおもいだした。
彼女かのじょは自分じぶんの夫おっとが、平生へいぜいから一方いっぽうならぬ恩顧おんこを受けうけている勢力せいりょく家いえの妻君さいくんとして、今いまその人ひとの前まえに、能うあたう限りかぎりの愛嬌あいきょうと礼儀れいぎとを示さしめさなければならなかった。
平静へいせいのうちに一種いっしゅの緊張きんちょうを包んつつんで彼女かのじょは、知らしらん顔かおをして、みんなの後あとに随いしたがいて食堂しょくどうに入っはいった。
五十二ごじゅうに
叔母おばの云っいった通りとおり、吉川よしかわ夫婦ふうふは自分じぶん達とおるより一足いっそく早くはやく約束やくそくの場所ばしょへ来きたものと見えみえて、お延のべの目標もくひょうにするその夫人ふじんは、入口いりぐちの方ほうを向いむかいて叔父おじと立たて談だんをしていた。
大きなおおきな叔父おじの後姿うしろすがたよりも、向う側むこうがわに食み出しはみだしている大々だいだいした夫人ふじんのかっぷくが、まずお延のべの眼めに入っはいった。
それと同時どうじに、肉づきにくづきの豊かゆたかな頬ほおに笑いわらいを漲らしみなぎらしていた夫人ふじんの方ほうでも、すぐ眸ひとみをお延のべの上うえに移しうつした。
しかし咄嗟とっさの電でん火ひ作用さようは起るおこると共ともに消えきえたので、二人ふたりは正式せいしきに挨拶あいさつを取りとり換かえすまで、ついに互たがいを認め合わみとめあわなかった。
夫人ふじんに投げかけなげかけた一瞥いちべつについで、お延のべはまたその傍そばに立ったっている若いわかい紳士しんしを見みない訳わけに行かいかなかった。
それが間ま違いもなく、先刻せんこく廊下ろうかで継子けいしといっしょになって、冗談じょうだん半分はんぶん夫人ふじんの双眼鏡そうがんきょうをはしたなく批評ひひょうし合っあった時じに、自分じぶん達とおるを驚ろかしおどろかした無言むごんの男おとこなので、彼女かのじょは思わおもわずひやりとした。
簡単かんたんな挨拶あいさつが各自かくじの間まに行わおこなわれる間ま、控ひかえ目めにみんなの後あとに立ったっていた彼女かのじょは、やがて自分じぶんの番ばんが廻っまわって来きた時じ、ただ三好みよしさんとしてこの未知みちの人ひとに紹介しょうかいされた。
紹介者しょうかいしゃは吉川よしかわ夫人ふじんであったが、夫人ふじんの用いるもちいる言葉ことばが、叔父おじに対したいしても、叔母おばに対したいしても、また継子けいしに対したいしても、みんな自分じぶんに対するたいするのと同じおなじ事ことで、その間まに少しすこしも変りかわりがないので、お延のべはついに
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