明暗

8/19

その三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉を開けて内へ入る事ができたのである。

第 8 章
実際じっさい彼女かのじょは三四さんよん日ひ前まえに来きた時じのように、編へん上うえだの畳たたみつきだのという雑然ざつぜんたる穿物を、一足いっそくも沓脱くつぬぎの上うえに見出さみだしさなかった。
患者かんじゃの影かげは無論むろんの事ことであった。
時間外じかんがいという考えかんがえを少しすこしも頭あたまの中なかに入れいれていなかった彼女かのじょには、それがいかにも不思議ふしぎであったくらい四囲しいは寂寞じゃくまくしていた。
彼女かのじょはその森もりとした玄関げんかんの沓脱くつぬぎの上うえに、行儀ぎょうぎよく揃えそろえられたただ一足いっそくの女おんな下駄げたを認めみとめた。
価あたい段だんから云っいっても看護婦かんごふなどの穿きはきそうもない新らしいあたらしいその下駄げたが突然とつぜん彼女かのじょの心こころを躍らおどらせた。
下駄げたはまさしく若いわかい婦人ふじんのものであった。
小林こばやしから受けうけた疑念ぎねんで胸むねがいっぱいになっていた彼女かのじょは、しばらくそれから眼めを放すはなす事ことができなかった。
彼女かのじょは猛烈もうれつにそれを見みた。
右手みぎてにある小さいちいさい四角しかくな窓まどから書生しょせいが顔かおを出しだした。
そうしてそこに動かうごかないお延のべの姿すがたを認めみとめた時じ、誰何すいかでもする人ひとのような表情ひょうじょうを彼女かのじょの上うえに注いそそいだ。
彼女かのじょはすぐ津田つだへの来客らいきゃくがあるかないかを確かめたしかめた。
それが若いわかい女おんなであるかないかも訊いきいた。
それからわざと取次とりつぎを断っことわって、ひとりで階子段はしごだんの下したまで来きた。
そうして上うえを見上げみあげた。
上うえでは絶えたえざる話し声はなしごえが聞こえきこえた。
しかし普通ふつう雑談ざつだんの時じに、言葉ことばが対話者たいわしゃの間まを、淀みよどみなく往っいったり来きたり流れながれているのとはだいぶ趣おもむきを異ことにしていた。
そこには強いつよい感情かんじょうがあった。
亢奮こうふんがあった。
しかもそれを抑えつけようおさえつけようとする努力どりょくの痕あとがありありと聞こえきこえた。
他聞たぶんを憚かるはばかるとしか受取れうけとれないその談話だんわが、お延のべの神経しんけいを針はりのように鋭どくするどくした。
下駄げたを見つめみつめた時じより以上いじょうの猛烈もうれつさがそこに現われあらわれた。
彼女かのじょは一倍いちばい猛烈もうれつに耳みみを傾むけかたむけた。
津田つだの部屋へやは診察室しんさつしつの真上まうえにあった。
家いえの構造こうぞうから云ういうと、階子段はしごだんを上っのぼってすぐ取とりつきが壁かべで、その右手みぎてがまた四よん畳たたみ半はんの小さいちいさい部屋へやになっているので、この部屋へやの前まえを廊下ろうか伝いつたいに通り越さとおりこさなければ、津田つだの寝ねている所ところへは出でられなかった。
したがってお延のべの聴こうきこうとする談話だんわは、聴くきくに都合つごうの好くよくない見当けんとう、すなわち彼女かのじょの後あとの方ほうから洩れもれて来るくるのであった。
彼女かのじょはそっと階子段はしごだんを上っのぼった。
柔やわ婉えんな体格たいかくをもった彼女かのじょの足音あしおとは猫ねこのように静かしずかであった。
そうして猫ねこと同じおなじような成せい効かいをもって酬いむくいられた。
上り口あがりぐちの一方いっぽうには、落ちおちない用心ようじんに、一いち間まほどの手て欄らんが拵えこしらえてあった。
お延のべはそれに倚っよって、津田つだの様子ようすを窺っうかがった。
するとたちまち鋭どいするどいお秀しゅうの声こえが彼女かのじょの耳みみに入っはいった。
ことに嫂ねーさんがという特殊とくしゅな言葉ことばが際立っきわだって鼓膜こまくに響いひびいた。
みごとに予期よきの外れはずれた彼女かのじょは、またはっと思わおもわせられた。
硬いかたい緊張きんちょうが弛むたゆむ暇ひまなく再びふたたび彼女かのじょを襲っおそって来きた。
彼女かのじょは津田つだに向っむかってお秀おひでの口くちから抛げなげつけられる嫂ねーさんというその言葉ことばが、どんな意味いみに用いもちいられているかを知らしらなければならなかった。
彼女かのじょは耳みみを澄ましすました。
二人ふたりの語勢ごせいは聴いきいているうちに急きゅうになって来きた。
二人ふたりは明らかあきらかに喧嘩けんかをしていた。
その喧嘩けんかの渦中かちゅうには、知らしらない間まに、自分じぶんが引き込まひきこまれていた。
あるいは自分じぶんがこの喧嘩けんかの主なおもな原因げんいんかも分らわからなかった。
しかし前後ぜんごの関係かんけいを知らしらない彼女かのじょは、ただそれだけで自分じぶんの位置いちをきめる訳わけに行かいかなかった。
それに二人ふたりの使うつかう、というよりもむしろお秀おひでの使うつかう言葉ことばは霰あられのように忙がしかっいそがしかった。
後あとから後あとから落ちおちてくる単語たんごの意味いみを、一いち粒つぶずつ拾っじゅうって吟味ぎんみしている閑かんなどはとうていなかった。
「人格じんかく」、「大事だいじにする」、「当り前あたりまえ」、こんな言葉ことばがそれからそれへとそこに佇立ちょりつんでいる彼女かのじょの耳朶みみたぶを叩きたたきに来るくるだけであった。
彼女かのじょは事件じけんが分明ふんみょうになるまでじっと動かうごかずに立ったっていようかと考えかんがえた。
するとその時じお秀おひでの口くちから最後さいごの砲撃ほうげきのように出でた「兄さんあにさんは嫂ねーさんよりほかにもまだ大事だいじにしている人ひとがあるのだ」という句くが、突然とつぜん彼女かのじょの心こころを震わせふるわせた。
際立っきわだって明暸めいりょうに聞こえきこえたこの一句いっくほどお延のべにとって大切たいせつなものはなかった。
同時どうじにこの一句いっくほど彼女かのじょにとって不ふ明暸めいりょうなものもなかった。
後あとを聞かきかなければ、それだけで独立どくりつした役やくにはとても立てたてられなかった。
お延のべはどんな犠牲ぎせいを払っはらっても、その後そのあとを聴かきかなければ気きがすまなかった。
しかしその後そのあとはまたどうしても聴いきいていられなかった。
先刻せんこくから一言ひとこと葉はごとに一いち調子ちょうしずつ高まったかまって来きた二人ふたりの遣けん取とりは、ここで絶頂ぜっちょうに達したっしたものと見傚すみなすよりほかに途とはなかった。
もう一いち歩あゆみも先さきへ進めすすめない極端きょくたんまで来きていた。
もし強いてしいて先さきへ出ようでようとすれば、どっちかで手てを出さださなければならなかった。
したがってお延のべは不体裁ふていさいを防ぐふせぐ緩和かんわ剤ざいとして、どうしても病室びょうしつへ入らはいらなければならなかった。
彼女かのじょは兄妹きょうだいの中なかをよく知っしっていた。
彼かれらの不和ふわの原因げんいんが自分じぶんにある事ことも彼女かのじょには平生へいぜいから解っわかっていた。
そこへ顔かおを出すだすには、出すだすだけの手際てぎわが要っいった。
しかし彼女かのじょにはその自信じしんがないでもなかった。
彼女かのじょは際どいきわどい刹那せつなに覚悟かくごをきめた。
そうしてわざと静かしずかに病室びょうしつの襖ふすまを開けあけた。
百四ひゃくよん
二人ふたりははたしてぴたりと黙っだまった。
しかし暴風ぼうふう雨あめがこれから荒れようあれようとする途中とちゅうで、急きゅうにその進行しんこうを止めとめられた時じの沈黙ちんもくは、けっして平和へいわの象徴しょうちょうではなかった。
不自然ふしぜんに抑えつけおさえつけられた無言むごんの瞬間しゅんかんにはむしろ物凄いものすごい或ある物ものが潜んひそんでいた。
二人ふたりの位置いち関係かんけいから云っいって、最初さいしょにお延のべを見みたものは津田つだであった。
南向みなみむかいの縁側えんがわの方ほうを枕まくらにして寝ねている彼かれの眼めに、反対はんたいの側がわから入っはいって来きたお延のべの姿すがたが一番いちばん早くはやく映るうつるのは順序じゅんじょであった。
その刹那せつなに彼かれは二につのものをお延のべに握らにぎられた。
一いちつは彼かれの不安ふあんであった。
一いちつは彼かれの安堵あんどであった。
困っこまったという心持こころもちと、助かったすかったという心持こころもちが、包みつつみ蔵すぞうす余裕よゆうのないうちに、一度いちどに彼かれの顔かおに出でた。
そうしてそれが突然とつぜん入っはいって来きたお延のべの予期よきとぴたりと一致いっちした。
彼女かのじょはこの時夫ときおの面上めんじょうに現われあらわれた表情ひょうじょうの一部分いちぶぶんから、或ある物ものを疑っうたがっても差支えさしつかえないという証左しょうさを、永くながく心こころの中なかに掴んつかんだ。
しかしそれは秘密ひみつであった。
とっさの場合ばあい、彼女かのじょはただ夫おっとの他ほかの半面はんめんに応ずるおうずるのを、ここへ来きた刻下こっかの目的もくてきとしなければならなかった。
彼女かのじょは蒼白いあおじろい頬ほおに無理むりな微笑びしょうを湛えたたえて津田つだを見みた。
そうしてそれがちょうどお秀おひでのふり返るふりかえるのと同時どうじに起っおこった所作しょさだったので、お秀おひでにはお延のべが自分じぶんを出し抜いだしぬいて、津田つだと黙契もっけいを取りとり換かえわせているように取れとれた。
薄赤いうすあかい血潮ちしおが覚えおぼえずお秀おひでの頬ほおに上っのぼった。
「おや」「今日はきょうは」 軽いかるい挨拶あいさつが二人ふたりの間まに起っおこった。
しかしそれが済むすむと話はなしはいつものように続かつづかなかった。
二人ふたりとも手持無沙汰てもちむさたに圧迫あっぱくされ始めはじめなければならなかった。
滅多めったな事ことの云えいえないお延のべは、脇わきに抱えかかえて来きた風呂敷ふろしき包つつみを開けあけて、岡本おかもとの貸しかしてくれた英語えいごの滑稽本こっけいほんを出しだして津田つだに渡しわたした。
その指ゆびの先さきには、お秀おひでが始終しじゅう腹はらの中なかで問題もんだいにしている例れいの指輪ゆびわが光っひかりっていた。
津田つだは薄いうすい小型こがたな書物しょもつを一いちつ一いちつ取り上げとりあげて、さらさら頁ぺーじを翻こぼしえして見みたぎりで、再びふたたびそれを枕元まくらもとへ置いおいた。
彼かれは
8/19