明暗

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その一冊を抽いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯ずかせるような趣がそこここに見えた。不幸にして彼は諧謔を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれほど応えなかった。頭にさえ呑み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見つけようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下のようなのが彼の眼に触れた。

第 11 章
「娘むすめの父ちちが青年せいねんに向っむかって、あなたは私わたくしの娘むすめを愛しあいしておいでなのですかと訊いきいたら、青年せいねんは、愛するあいするの愛さあいさないのっていう段だんじゃありません、お嬢さんおじょうさんのためなら死のうしのうとまで思っおもっているんです。あの懐かしいなつかしい眼めで、優しいやさしい眼め遣いつかいをただの一度いちどでもしていただく事ことができるなら、僕ぼくはもうそれだけで死ぬしぬのです。すぐあの二百にひゃく尺さしもあろうという崖がけの上うえから、岩いわの上うえへ落ちおちて、めちゃくちゃな血ちだらけな塊りかたまりになって御覧ごらんに入れいれます。と答えこたえた。娘むすめの父ちちは首くびを掉とうって、実じつを云ういうと、私わたくしも少しすこし嘘うそを吐くはく性分しょうぶんだが、私わたくしの家いえのような少人数しょうにんずうな家族かぞくに、嘘うそ付ふが二人ふたりできるのは、少しすこし考えものかんがえものですからね。と答えこたえた」 嘘うそ吐とという言葉ことばがいつもより皮肉ひにくに津田つだを苦笑くしょうさせた。
彼かれは腹はらの中なかで、嘘うそ吐とな自分じぶんを肯がう男おとこであった。
同時どうじに他人たにんの嘘うそをも根本的こんぽんてきに認定にんていする男おとこであった。
それでいて少しすこしも厭世えんせい的まとにならない男おとこであった。
むしろその反対はんたいに生活せいかつする事ことのできるために、嘘うそが必要ひつようになるのだぐらいに考えるかんがえる男おとこであった。
彼かれは、今までいままでこういう漠然ばくぜんとした人世じんせい観かんの下したに生きいきて来きながら、自分じぶんではそれを知らしらなかった。
彼かれはただ行っいったのである。
だから少しすこし深くふかく入り込むはいりこむと、自分じぶんで自分じぶんの立場たちばが分らわからなくなるだけであった。
「愛あいと虚偽きょぎ」 自分じぶんの読んよんだ一口ひとくち噺はなしからこの二に字じを暗示あんじされた彼かれは、二につのものの関係かんけいをどう説明せつめいしていいかに迷っまよった。
彼かれは自分じぶんに大事だいじなある問題もんだいの所有者しょゆうしゃであった。
内心ないしんの要求ようきゅう上うえ是非ぜひ共ともそれを解決かいけつしなければならない彼かれは、実験じっけんの機会きかいが彼かれに与えあたえられない限りかぎり、頭あたまの中なかでいたずらに考えかんがえなければならなかった。
哲学者てつがくしゃでない彼かれは、自身じしんに今までいままで行っいって来きた人世じんせい観かんをすら、組織そしき正しいただしい形式けいしきの下したに、わが眼めの前まえに並べならべて見るみる事ことができなかったのである。
百十六ひゃくじゅうろく
津田つだは纏まらまとまらない事ことをそれからそれへと考えかんがえた。
そのうちいつか午過ぎひるすぎになってしまった。
彼かれの頭あたまは疲れつかれていた。
もう一いちつ事ことを長くながく思いおもい続けるつづける勇気ゆうきがなくなった。
しかし秋あきとは云いいいながら、独りひとり寝ねているには日ひがあまりに長なが過ぎすぎた。
彼かれは退屈たいくつを感じかんじ出しだした。
そうしてまたお延のべの方ほうに想いおもいを馳せはせた。
彼女かのじょの姿すがたを今日きょうも自分じぶんの眼めの前まえに予期よきしていた彼かれは横着おうちゃくであった。
今までいままで彼女かのじょの手前てまえ憚からはばからなければならないような事ことばかりを、さんざん考えかんがえ抜いぬいたあげく、それが厭いやになると、すぐお延のべはもう来きそうなものだと思っおもって平気へいきでいた。
自然しぜん頭あたまの中なかに湧いわいて出るでるものに対したいして、責任せきにんはもてないという弁解べんかいさえその時じの彼かれにはなかった。
彼かれの見みたお延のべに不可解ふかかいな点てんがある代りかわりに、自分じぶんもお延のべの知らしらない事実じじつを、胸むねの中なかに納めおさめているのだぐらいの料簡りょうけんは、遠くとおくの方ほうで働はたらけらいていたかも知れしれないが、それさえ、いざとならなければ判然はんぜんした言葉ことばになって、彼かれの頭あたまに現われあらわれて来るくるはずがなかった。
お延のべはなかなか来きなかった。
お延のべ以上いじょうに待たまたれる吉川よしかわ夫人ふじんは固よりもとより姿すがたを見せみせなかった。
津田つだは面白くおもしろくなかった。
先刻せんこくから近くちかくで誰だれかがやっている、彼かれの最ももっとも嫌いやな謡うたいの声こえが、不快ふかいに彼かれの耳みみを刺戟しげきした。
彼かれの記憶きおくにある謡曲ようきょく指南しなんという細長いほそながい看板かんばんが急きゅうに思い出さおもいだされた。
それは洗濯せんたく屋やの筋向うすじむこうに当るあたる二に階かい建けんの家いえであった。
二に階かいが稽古けいこをする座敷ざしきにでもなっていると見えみえて、距離きょりの割わりに声こえの方ほうがむやみに大きくおおきく響いひびいた。
他ほかが勝手にかってにやっているものを止めとめさせる権利けんりをどこにも見出しみだし得とくない彼かれは、彼かれの不平ふへいをどうする事こともできなかった。
彼かれはただ早くはやく退院たいいんしたいと思うおもうだけであった。
柳やなぎの木きの後あとにある赤いあかい煉瓦れんが造りつくりの倉くらに、山形やまがたの下したに一いちを引いひいた屋号やごうのような紋もんが付いついていて、その左右さゆうに何なんのためとも解らわからない、大きなおおきな折おり釘くぎに似にたものが壁かべの中なかから突き出しつきだしている所ところを、津田つだが見るみるとも見みないとも片かたのつかない眼めで、ぼんやり眺めながめていた時じ、遠慮えんりょのない足音あしおとが急きゅうに聞こえきこえて、誰だれかが階子段はしごだんを、どしどし上っのぼって来きた。
津田つだはおやと思っおもった。
この足音あしおとの調子ちょうしから、その主ぬしがもう七なな分ぶん通りとおり、彼かれの頭あたまの中なかでは推定すいていされていた。
彼かれの予覚よかくはすぐ事実じじつになった。
彼かれが室むろの入口いりぐちに眼めを転ずるてんずると、ほとんどおッおっつかッっつに、小林こばやしは貰いもらい立てたての外套がいとうを着きたままつかつか入っはいって来きた。
「どうかね」 彼かれはすぐ胡坐こざをかいた。
津田つだはむしろ苦しくるしそうな笑いわらいを挨拶あいさつの代りかわりにした。
何なんしに来きたんだという心持こころもちが、顔かおを見るみると共ともにもう起っおこっていた。
「これだ」と彼かれは外套がいとうの袖そでを津田つだに突きつけるつきつけるようにして見せみせた。
「ありがとう、お蔭おかげでこの冬ふゆも生きいきて行かいかれるよ」 小林こばやしはお延のべの前まえで云っいったと同じおなじ言葉ことばを津田つだの前まえで繰り返しくりかえした。
しかし津田つだはお延のべからそれを聴かさきかされていなかったので、別べつに皮肉ひにくとも思わおもわなかった。
「奥さんおくさんが来きたろう」 小林こばやしはまたこう訊いきいた。
「来きたさ。来るくるのは当り前あたりまえじゃないか」「何なんか云っいってたろう」 津田つだは「うん」と答えようこたえようか、「いいや」と答えようこたえようかと思っおもって、少しすこし躊躇ちゅうちょした。
彼かれは小林こばやしがどんな事ことをお延のべに話しはなしたか、それを知りしりたかった。
それを彼かれの口くちからここで繰り返さくりかえさせさえすれば、自分じぶんの答こたえは「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じおなじ事ことであった。
しかしどっちが成功せいこうするかそこはとっさの際さいにきめる訳わけに行かいかなかった。
ところがその態度たいどが意外いがいな意味いみになって小林こばやしに反響はんきょうした。
「奥さんおくさんが怒っどって来きたな。きっとそんな事ことだろうと、僕ぼくも思っおもってたよ」 容易よういに手がかりてがかりを得とくた津田つだは、すぐそれに縋りついすがりついた。
「君きみがあんまり苛めるいじめるからさ」「いや苛めいじめやしないよ。ただ少しすこし調ちょう戯たわむれい過ぎすぎたんだ、可哀想かわいそうに。泣きゃなきゃしなかったかね」 津田つだは少しすこし驚ろいおどろいた。
「泣かなきかせるような事ことでも云っいったのかい」「なにどうせ僕ぼくの云ういう事ことだから出鱈目でたらめさ。つまり奥さんおくさんは、岡本おかもとさん見みたいな上流じょうりゅうの家庭かていで育っそだったので、天下てんかに僕ぼくのような愚劣ぐれつな人間にんげんが存在そんざいしている事ことをまだ知らしらないんだ。それでちょっとした事ことまで苦くにするんだろうよ。あんな馬鹿ばかに取り合うとりあうなと君きみが平生へいぜいから教えおしえておきさえすればそれでいいんだ」「そう教えおしえている事ことはいるよ」と津田つだも負けまけずにやり返しやりかえした。
小林こばやしはハハははと笑っわらった。
「まだ少しすこし訓練くんれんが足りたりないんじゃないか」 津田つだは言葉ことばを改めあらためた。
「しかし君きみはいったいどんな事ことを云っいって、彼奴きゃつに調ちょう戯たわむれったのかい」「そりゃもうお延のべさんから聴いきいたろう」「いいや聴かきかない」 二人ふたりは顔かおを見合せみあわせた。
互いたがいの胸むねを忖度そんたくしようとする試みこころみが、同時どうじにそこに現われあらわれた。
百十七ひゃくじゅうなな
津田つだが小林こばやしに本音ほんねを吹かふかせようとするところには、ある特別とくべつの意味いみがあった。
彼かれはお延のべの性質せいしつをその著るきるしい断面だんめんにおいてよく承知しょうちしていた。
お秀おひでと正反対せいはんたいな彼女かのじょは、飽くまであくまで素直すなおに、飽くまであくまで閑雅かんがな態度たいどを、絶えたえず彼かれの前まえに示すしめす事ことを忘れわすれないと共ともに、どうしてもまた彼かれの自由じゆうにならない点てんを、同様どうような程度ていどでちゃんともっていた。
彼女かのじょの才さいは一いちつであった。
けれどもその応用おうようは両面りょうめんに亘っわたっていた。
これは夫おっとに知らしらせてならないと思うおもう事こと、または隠しかくしておく方ほうが便宜べんぎだときめた事こと、そういう場合ばあいになると、彼女かのじょは全くまったく津田つだの手てにあまる細君さいくんであった。
彼女かのじょが柔順じゅうじゅんであればあるほど、津田つだは彼女かのじょから何になんにも掘り出すほりだす事ことができなかった。
彼女かのじょと小林こばやしの間まに昨日きのうどんなやりとりが起っおこったか、それはお秀おひでの騒ぎさわぎで委細いさいを訊くきく暇ひまもないうちに、時間じかんが経っきょうってしまったのだから、事実じじつやむをえないとしても、もしそういう故障こしょうのない時じに、津田つだから詳しいくわしいありのままを問わとわれたら、お延のべはおいそれと彼かれの希望きぼう通りとおり、綿密めんみつな返事へんじを惜まおしまずに、彼かれの要求ようきゅうを満足まんぞくさせたろうかと考えるかんがえると、そこには大きなおおきな疑問ぎもんがあった。
お延のべの平生へいぜいから推しおして、津田つだはむしろごまかされるに違いないと思っおもった。
ことに彼かれがもしやと思っおもっている点てんを、小林こばやしが遠慮えんりょなくしゃべったとすれば、お延のべはなおの事こと、それを聴かきかないふりをして、黙っだまって夫おっとの前まえを通り抜けるとおりぬける女おんならしく見えみえた。
少くすくなくとも津田つだの観察かんさつした彼女かのじょにはそれだけの余裕よゆうが充分じゅうぶんあった。
すでにお延のべの方ほうを諦たいらめなければならないとすると、津田つだは自分じぶんに必要ひつような知識ちしきの出所しゅっしょを、小林こばやしに向っむかって求めるもとめるよりほかに仕方しかたがなかった。
小林こばやしは何なんだかそこを承知しょうちしているらしかった。
「なに何になんにも云やいやしないよ。嘘うそだと思うおもうなら、もう一遍いちぺんお延おのべさんに訊いきいて見みたまえ。もっとも僕ぼくは帰りがけかえりがけに悪いわるいと思っおもったから、詫わびまって来きたがね。実じつを云ういうと、何なんで詫わびまったか、僕ぼく自身じしんにも解らわからないくらいのものさ」 彼かれはこう云っいって嘯いうそぶいた。
それからいきなり手てを延べのべて、津田つだの枕元まくらもとにある読みかけよみかけの書物しょもつを取り上げとりあげて、一いち分ぶんばかりそれを黙読もくどくした。
「こんなものを読むよむのかね」と彼かれはさも軽蔑けいべつした口調くちょうで津田つだに訊いきいた。
彼かれはぞんざいに頁ぺーじを剥繰りくりながら、終りおわりの方ほうから逆ぎゃくに始めはじめへ来きた。
そうしてそこに岡本おかもとという小さいちいさい見留みとめ印しるしを見出しみだした時じ、彼かれは「ふん」と云っいった。
「お延おのべさんが持っもって来きたんだな。道理どうりで妙みょうな本ほんだと思っおもった。――時じに君きみ、岡本おかもとさんは金持かねもちだろうね」「そんな事ことは知らしらないよ」「知らしらないはずはあるまい。だってお延のべさんの里さとじゃないか」「僕ぼくは岡本おかもとの財産ざいさんを調べしらべた上うえで、結婚けっこんなんかしたんじゃないよ」「そうか」 この単純たんじゅんな「そうか」が変へんに津田つだの頭あたまに響いひびいた。
「岡本おかもとの財産ざいさんを調べしらべないで、君きみが結婚けっこんするものか」という意味いみにさえ取れとれた。
「岡本おかもとはお延のべの叔父おじだぜ、君きみ知らしらないのか。里さとでも何なんでもありゃしないよ」「そうか」 小林こばやしはまた同じおなじ言葉ことばを繰り返しくりかえした。
津田つだはなお不愉快ふゆかいになった。
「そんなに岡本おかもとの財産ざいさんが知りしりたければ、調べしらべてやろうか」 小林こばやしは「えへへ」と云っいった。
「貧乏びんぼうすると他ほかの財産ざいさんまで苦くになってしようがない」 津田つだは取り合わとりあわなかった。
それでその問題もんだいを切り上げるきりあげるかと思っおもっていると、小林こばやしはすぐ元もとへ帰っかえって来きた。
「しかしいくらぐらいあるんだろう、本当ほんとうのところ」 こう云ういう態度たいどはまさしく彼かれの特色とくしょくであった。
そうしていつでも二に様ように解釈かいしゃくする事ことができた。
頭あたまから向うむこうを馬鹿ばかだと認定にんていしてしまえばそれまでであると共ともに、一度いちどこっちが馬鹿ばかにされているのだと思い出すおもいだすと、また際限さいげんもなく馬鹿ばかにされている訳わけにもなった。
彼かれに対するたいする津田つだは実じつのところ半信はんしん半疑はんぎの真中まなかに立ったっていた。
だからそこに幾分いくぶんでも自分じぶんの弱点じゃくてんが潜在せんざいする場合ばあいには、馬鹿ばかにされる方ほうの解釈かいしゃくに傾けいむかざるを得とくなかった。
ただ相手あいてをつけあがらせない用心ようじんをするよりほかに仕方しかたがなかった彼かれは、ただ微笑びしょうした。
「少しすこし借りかりてやろうか」「借りるかりるのは厭いやだ。貰うもらうなら貰っもらってもいいがね。――いや貰うもらうのも御免ごめんだ、どうせくれる気遣きづかいはないんだから。仕方しかたがなければ、まあ取るとるんだな」小林こばやしはははと笑っわらった。
「一いちつ朝鮮ちょうせんへ行くいく前まえに、面白いおもしろい秘密ひみつでも提供ていきょうして、岡本おかもとさんから少しすこし取っとって行くいくかな」 津田つだはすぐ話はなしをその朝鮮ちょうせんへ持っもって行っいった。
「時じにいつ立つたつんだね」「まだしっかり判らわからない」「しかし立つたつ事ことは立つたつのかい」「立つたつ事ことは立つたつ。君きみが催促さいそくしても、しなくっても、立つたつ日ひが来れこればちゃんと立つたつ」「僕ぼくは催促さいそくをするんじゃない。時間じかんがあったら君きみのために送別会そうべつかいを開いひらいてやろうというのだ」 今日きょう小林こばやしから充分じゅうぶんな事ことが聴けきけなかったら、その送別会そうべつかいでも利用りようしてやろうと思いついおもいついた津田つだは、こう云っいって予備よびとしての第だい二にの機会きかいを暗にあんに作り上げつくりあげた。
百十八ひゃくじゅうはち
故意こいだか偶然ぐうぜんだか、津田つだの持っもって行こういこうとする方面ほうめんへはなかなか持っもって行かいかれない小林こばやしに対したいして、この注意ちゅういはむしろ必要ひつようかも知れしれなかった。
彼かれはいつまでも津田つだの問もんに応ずるおうずるようなまた応じおうじないような態度たいどを取っとった。
そうしてしつこく自分自身じぶんじしんの話題わだいにばかり纏綿てんめんわった。
それがまた津田つだの訊こうきこうとする事ことと、間接かんせつではあるが深いぶかい関係かんけいがあるので、津田つだは蒼蠅さばえくもあり、じれったくもあった。
何なんとなく遠廻しとおまわしに痛いた振らふられるような気きもした。
「君吉きみきち川かわと岡本おかもととは親類しんるいかね」と小林こばやしが云いいい出しだした。
津田つだにはこの質問しつもんが無邪気むじゃきとは思えおもえなかった。
「親類しんるいじゃない、ただの友達ともだちだよ。いつかも君きみが訊いきいた時じに、そう云っいって話しはなしたじゃないか」「そうか、あんまり僕ぼくに関係かんけいの遠いとおい人ひと達とおるの事ことだもんだから、つい忘れわすれちまった。しかし彼かれらは友達ともだちにしても、ただの友達ともだちじゃあるまい」「何なんを云っいってるんだ」 津田つだはついその後そのあとへ馬鹿ばか野郎やろうと付け足しつけたしたかった。
「いや、よほどの親友しんゆうなんだろうという意味いみだ。そんなに怒らおこらなくってもよかろう」 吉川よしかわと岡本おかもととは、小林こばやしの想像そうぞうする通りとおりの間柄あいだがらに違いなかった。
単なるたんなる事実じじつはただそれだけであった。
しかしその裏うらに、津田つだとお延のべを貼りつけはりつけて、裏表うらおもての意味いみを同時どうじに眺めるながめる事ことは自由じゆうにできた。
「君きみは仕合せしあわせな男おとこだな」と小林こばやしが云っいった。
「お延おのべさんさえ大事だいじにしていれば間ま違いはないんだから」「だから大事だいじにしているよ。君きみの注意ちゅういがなくったって、そのくらいの事ことは心得こころえているんだ」「そうか」 小林こばやしはまた「そうか」という言葉ことばを使っつかった。
この真面目くさっまじめくさった「そうか」が重なるかさなるたびに、津田つだは彼かれから脅やかさおびやかされるような気きがした。
「しかし君きみは僕ぼくなどと違っちがって聡明そうめいだからいい。他ほかはみんな君きみがお延のべさんに降参こうさんし切っきってるように思っおもってるぜ」「他ほかとは誰だれの事ことだい」「先生せんせいでも奥さんおくさんでもさ」 藤井ふじいの叔父おじや叔母おばから、そう思わおもわれている事ことは、津田つだにもほぼ見当けんとうがついていた。
「降参こうさんし切っきっているんだから、そう見えみえたって仕方しかたがないさ」「そうか。――しかし僕ぼくのような正直しょうじき者ものには、とても君きみの真似まねはできない。君きみはやッぱりやっぱりえらい男おとこだ」「君きみが正直しょうじきで僕ぼくが偽物にせものなのか。その偽物にせものがまた偉くえらくって正直しょうじき者ものは馬鹿ばかなのか。君きみはいつまたそんな哲学てつがくを発明はつめいしたのかい」「哲学てつがくはよほど前まえから発明はつめいしているんだがね。今度こんど改めてあらためてそれを発表はっぴょうしようと云ういうんだ、朝鮮ちょうせんへ行くいくについて」 津田つだの頭あたまに妙みょうな暗示あんじが閃めかさひらめかされた。
「君きみ旅費りょひはもうできたのか」「旅費りょひはどうでもできるつもりだがね」「社しゃの方ほうで出しだしてくれる事ことにきまったのかい」「いいや。もう先生せんせいから借りるかりる事ことにしてしまった」「そうか。そりゃ好いよい具合ぐあいだ」「ちっとも好いよい具合ぐあいじゃない。僕ぼくはこれでも先生せんせいの世話せわになるのが気の毒きのどくでたまらないんだ」 こういう彼かれは、平気へいきで自分じぶんの妹いもうとのお金きんさんを藤井ふじいに片づけかたづけて貰うもらう男おとこであった。
「いくら僕ぼくが恥はじ知らしらずでも、この上金じょうきんの事ことで、先生せんせいに迷惑めいわくをかけてはすまないからね」 津田つだは何なんとも答えこたえなかった。
小林こばやしは無邪気むじゃきに相談そうだんでもするような調子ちょうしで云っいった。
「君きみどこかに強奪ごうだつる所ところはないかね」「まあないね」と云い放っいいはなった津田つだは、わざとそっぽを向いむかいた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」「ないよ。近頃ちかごろは不景気ふけいきだから」「君きみはどうだい。世間せけんはとにかく、君きみだけはいつも景気けいきが好さよさそうじゃないか」「馬鹿ばか云ういうな」 岡本おかもとから貰っもらった小切手こぎっても、お秀おひでの置いおいて行っいった紙包かみづつみも、みんなお延のべに渡しわたしてしまった後あとの彼かれの財布さいふは空そらと同じおなじ事ことであった。
よしそれが手元てもとにあったにしたところで、彼かれはこの場合ばあい小林こばやしのために金銭きんせん上うえの犠牲ぎせいを払うはらう気きは起らおこらなかった。
第だい一事いちじがそこまで切迫せっぱくして来きない限りかぎり、彼かれは相談そうだんに応ずるおうずる必要ひつようを毫もごうも認めみとめなかった。
不思議ふしぎに小林こばやしの方ほうでも、それ以上いじょう津田つだを押さおさなかった。
その代りかわり突然とつぜん妙みょうなところへ話はなしを切り出しきりだして彼かれを驚ろかしおどろかした。
その朝あさ藤井ふじいへ行っいった彼かれは、そこで例れいもするように昼飯ちゅうはんの馳走ちそうになって、長いながい時間じかんを原稿げんこうの整理せいりで過ごしすごしているうちに、玄関げんかんの格子こうしが開いひらいたので、ひょいと自分じぶんで取次とりつぎに出でた。
そうしてそこに偶然ぐうぜんお秀おひでの姿すがたを見出しみだしたのである。
小林こばやしの話はなしをそこまで聴いきいた時じ、津田つだは思わおもわず腹はらの中なかで「畜生ちくしょうッっ先廻りさきまわりをしたな」と叫んさけんだ。
しかしただそれだけではすまなかった。
小林こばやしの頭あたまにはまだ津田つだを驚ろかおどろかせる材料ざいりょうが残っのこっていた。
百十九ひゃくじゅうきゅう
しかし彼かれの驚ろかしおどろかし方ほうには、また彼かれ一流いちりゅうの順序じゅんじょがあった。
彼かれは一番いちばん始めはじめにこんな事ことを云っいって津田つだに調ちょう戯たわむれった。
「兄妹きょうだい喧嘩けんかをしたんだって云ういうじゃないか。先生せんせいも奥さんおくさんも、お秀おひでさんにしゃべりつけられて弱っよわってたぜ」「君きみはまた傍そばでそれを聴いきいていたのか」 小林こばやしは苦笑くしょうしながら頭あたまを掻いかいた。
「なに聴こうきこうと思っおもって聴いきいた訳わけでもないがね。まあ天然てんねん自然しぜん耳みみへ入っはいったようなものだ。何しろなにしろしゃべる人ひとがお秀おひでさんで、しゃべらせる人ひとが先生せんせいだからな」 お秀おひでにはどこか片意地かたいじで一本調子いちぽんちょうしな趣おもむきがあった。
それに一種いっしゅの刺戟しげきが加わるくわわると、平生へいぜいの落ちつきおちつきが全くまったく無くなっなくなって、不断ふだんと打っうって変っかわった猛烈もうれつさをひょっくり出現しゅつげんさせるところに、津田つだとはまるで違っちがった特色とくしょくがあった。
叔父おじはまた叔父おじで、何なんでも構わかまわず底そこの底そこまで突きとめつきとめなければ承知しょうちのできない男おとこであった。
単にたんに言葉ことばの上うえだけでもいいから、前後ぜんご一貫いっかんして俗ぞくにいう辻褄つじつまが合うあう最後さいごまで行きいきたいというのが、こういう場合ばあい相手あいてに対するたいする彼かれの態度たいどであった。
筆ふでの先さきで思想しそう上うえの問題もんだいを始終しじゅう取りとり扱こきかいつけている癖くせが、活字かつじを離れはなれた彼かれの日常生活にちじょうせいかつにも憑りうつり移っうつってしまった結果けっかは、そこによく現われあらわれた。
彼かれは相手あいてにいくらでも口くちを利かりかせた。
その代りかわりまたいくらでも質問しつもんをかけた。
それが或ある程度ていどまで行くいくと、質問しつもんという性質せいしつを離れはなれて、詰問きつもんに変化へんかする事ことさえしばしばあった。
津田つだは心こころの中なかで、この叔父おじと妹いもうとと対坐たいざした時じの様子ようすを想像そうぞうした。
ことによるとそこでまた一いち波瀾はらん起しおこしたのではあるまいかという疑ぎさえ出でた。
しかし小林こばやしに対するたいする手前てまえもあるので、上部じょうぶはわざと高くたかく出でた。
「おおかためちゃくちゃに僕ぼくの悪口わるぐちでも云っいったんだろう」 小林こばやしは御ご挨拶あいさつにただ高笑いたかわらいをした後あとで、こんな事ことを云っいった。
「だが君きみにも似合わにあわないね、お秀おひでさんと喧嘩けんかをするなんて」「僕ぼくだからしたのさ。彼奴きゃつだって堀ほりの前まえなら、もっと遠慮えんりょすらあね」「なるほどそうかな。世間せけんじゃよく夫婦ふうふ喧嘩けんかっていうが、夫婦ふうふ喧嘩けんかより兄妹きょうだい喧嘩けんかの方ほうが普通ふつうなものかな。僕ぼくはまだ女房にょうぼうを持っもった経験けいけんがないから、そっちのほうの消息しょうそくはまるで解らわからないが、これでも妹いもうとはあるから兄妹きょうだいの味あじならよく心得こころえているつもりだ。君きみ何なんだぜ。僕ぼくのような兄あにでも、妹いもうとと喧嘩けんかなんかした覚さとしはまだないぜ」「そりゃ妹いもうと次第しだいさ」「けれどもそこはまた兄あに次第しだいだろう」「いくら兄あにだって、少しすこしは腹はらの立つたつ場合ばあいもあるよ」 小林こばやしはにやにや笑っわらっていた。
「だが、いくら君きみだって、今いまお秀おひでさんを怒らおこらせるのが得策とくさくだとは思っおもってやしまい」「そりゃ当り前あたりまえだよ。好んこのんで誰だれが喧嘩けんかなんかするもんか。あんな奴やつと」 小林こばやしはますます笑っわらった。
彼かれは笑うわらうたびに一いち調子ちょうしずつ余裕よゆうを生じしょうじて来きた。
「蓋しけだしやむをえなかった訳わけだろう。しかしそれは僕ぼくの云ういう事ことだ。僕ぼくは誰だれと喧嘩けんかしたって構わかまわない男おとこだ。誰だれと喧嘩けんかしたって損そんをしっこない境遇きょうぐうに沈淪ちんりんしている人間にんげんだ。喧嘩けんかの結果けっかがもしどこかにあるとすれば、それは僕ぼくの損そんにゃならない。何なんとなれば、僕ぼくはいまだかつて損そんになるべき何物なにものをも最初さいしょからもっていないんだからね。要するようするに喧嘩けんかから起りおこり得るうるすべての変化へんかは、みんな僕ぼくの得とくになるだけなんだから、僕ぼくはむしろ喧嘩けんかを希望きぼうしてもいいくらいなものだ。けれども君きみは違うちがうよ。君きみの喧嘩けんかはけっして得とくにゃならない。そうして君きみほどまた損得そんとく利害りがいをよく心得こころえている男おとこは世間せけんにたんとないんだ。ただ心得こころえてるばかりじゃない、君きみはそうした心得こころえの下したに、朝あさから晩ばんまで寝ねたり起きおきたりしていられる男おとこなんだ。少くすくなくともそうしなければならないと始終しじゅう考えかんがえている男おとこなんだ。好いよいかね。その君きみにして――」 津田つだは面倒臭めんどうしゅうそうに小林こばやしを遮ぎっさえぎった。
「よし解っわかった。解っわかったよ。つまり他ほかと衝突しょうとつするなと注意ちゅういしてくれるんだろう。ことに君きみと衝突しょうとつしちゃ僕ぼくの損そんになるだけだから、なるべく事ことを穏便おんびんにしろという忠告ちゅうこくなんだろう、君きみの主意しゅいは」 小林こばやしは惚けぼけた顔かおをしてすまし返っかえった。
「何なん僕ぼくと? 僕ぼくはちっとも君きみと喧嘩けんかをする気きはないよ」「もう解っわかったというのに」「解っわかったらそれでいいがね。誤解ごかいのないように注意ちゅういしておくが、僕ぼくは先刻せんこくからお秀おひでさんの事ことを問題もんだいにしているんだぜ、君きみ」「それも解っわかってるよ」「解っわかってるって、そりゃ京都きょうとの事ことだろう。あっちが不首尾ふしゅびになるという意味いみだろう」「もちろんさ」「ところが君きみそれだけじゃないぜ。まだほかにも響いひびいて来るくるんだぜ、気きをつけないと」 小林こばやしはそこで句くを切っきって、自分じぶんの言葉ことばの影響えいきょうを試験しけんするために、津田つだの顔かおを眺めながめた。
津田つだははたして平気へいきでいる事ことができなかった。
百二十ひゃくにじゅう
小林こばやしはここだという時機じきを捕まえつかまえた。
「お秀おひでさんはね君きみ」と云いいい出しだした時じの彼かれは、もう津田つだを擒とりこにしていた。
「お秀おひでさんはね君きみ、先生せんせいの所ところへ来るくる前まえに、もう一いち軒のきほかへ廻っまわって来きたんだぜ。
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