こころ

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五

第 15 章
父ちちの元気げんきは次第しだいに衰えおとろえて行っいった。
私わたくしを驚かおどろきかせたハンケチはんけち付きつきの古いふるい麦藁帽子むぎわらぼうしが自然しぜんと閑却かんきゃくされるようになった。
私わたくしは黒いくろい煤けすすけた棚たなの上うえに載っのっているその帽子ぼうしを眺めるながめるたびに、父ちちに対したいして気の毒きのどくな思いおもいをした。
父ちちが以前いぜんのように、軽々けいけいと動くうごく間まは、もう少しすこし慎んつつしんでくれたらと心配しんぱいした。
父ちちが凝とじっと坐り込むすわりこむようになると、やはり元もとの方ほうが達者たっしゃだったのだという気きが起っおこった。
私わたくしは父ちちの健康けんこうについてよく母ははと話し合っはなしあった。
「まったく気きのせいだよ」と母ははがいった。
母ははの頭あたまは陛下へいかの病やまいと父ちちの病やまいとを結び付けむすびつけて考えかんがえていた。
私わたくしにはそうばかりとも思えおもえなかった。
「気きじゃない。本当ほんとうに身体しんたいが悪わるかないんでしょうか。どうも気分きぶんより健康けんこうの方ほうが悪くわるくなって行くいくらしい」 私わたくしはこういって、心こころのうちでまた遠くとおくから相当そうとうの医者いしゃでも呼んよんで、一いちつ見せようみせようかしらと思案しあんした。
「今年ことしの夏なつはお前おまえも詰らなじらなかろう。せっかく卒業そつぎょうしたのに、お祝いおいわいもして上げるあげる事ことができず、お父さんおちちさんの身体しんたいもあの通りとおりだし。それに天子てんし様ようのご病気びょうきで。――いっその事こと、帰るかえるすぐにお客おきゃくでも呼ぶよぶ方ほうが好かっよかったんだよ」 私わたくしが帰っかえったのは七なな月つきの五ご、六ろく日ひで、父ちちや母ははが私わたくしの卒業そつぎょうを祝ういわうために客きゃくを呼ぼうよぼうといいだしたのは、それから一いち週間しゅうかん後あとであった。
そうしていよいよと極めきわめた日ひはそれからまた一いち週間しゅうかんの余よも先さきになっていた。
時間じかんに束縛そくばくを許さゆるさない悠長ゆうちょうな田舎いなかに帰っかえった私わたくしは、お蔭おかげで好もしくこのもしくない社交しゃこう上うえの苦痛くつうから救わすくわれたも同じおなじ事ことであったが、私わたくしを理解りかいしない母ははは少しすこしもそこに気きが付いついていないらしかった。
崩御ほうぎょの報知ほうちが伝えつたえられた時じ、父ちちはその新聞しんぶんを手てにして、「ああ、ああ」といった。
「ああ、ああ、天子てんし様ようもとうとうおかくれになる。己おのれも……」 父ちちはその後そのあとをいわなかった。
私わたくしは黒いくろいうすものを買うかうために町まちへ出でた。
それで旗竿はたざおの球たまを包んつつんで、それで旗竿はたざおの先さきへ三さん寸すん幅はばのひらひらを付けつけて、門もんの扉とびらの横よこから斜めななめに往来おうらいへさし出しさしだした。
旗はたも黒いくろいひらひらも、風かぜのない空気くうきのなかにだらりと下がっさがった。
私わたくしの宅たくの古いふるい門もんの屋根やねは藁わらで葺いふいてあった。
雨あめや風かぜに打たうたれたりまた吹かふかれたりしたその藁わらの色いろはとくに変色へんしょくして、薄くうすく灰色はいいろを帯びおびた上うえに、所々ところどころの凸凹でこぼこさえ眼めに着いついた。
私わたくしはひとり門もんの外そとへ出でて、黒いくろいひらひらと、白いしろいめりんすの地ちと、地ちのなかに染め出しそめだした赤いあかい日の丸ひのまるの色いろとを眺めながめた。
それが薄うす汚ないきたない屋根やねの藁わらに映るうつるのも眺めながめた。
私わたくしはかつて先生せんせいから「あなたの宅たくの構えかまえはどんな体裁ていさいですか。私わたくしの郷里きょうりの方ほうとは大分おおいた趣おもむきが違っちがっていますかね」と聞かきかれた事ことを思い出しおもいだした。
私わたくしは自分じぶんの生れうまれたこの古いふるい家いえを、先生せんせいに見せみせたくもあった。
また先生せんせいに見せるみせるのが恥ずかしくはずかしくもあった。
私わたくしはまた一人ひとり家いえのなかへはいった。
自分じぶんの机つくえの置いおいてある所ところへ来きて、新聞しんぶんを読みよみながら、遠いとおい東京とうきょうの有様ありさまを想像そうぞうした。
私わたくしの想像そうぞうは日本一にっぽんいちの大きなおおきな都とが、どんなに暗いくらいなかでどんなに動いうごいているだろうかの画面がめんに集めあつめられた。
私わたくしはその黒いくろいなりに動かうごかなければ仕末しまつのつかなくなった都会とかいの、不安ふあんでざわざわしているなかに、一いち点てんの燈火とうかのごとくに先生せんせいの家いえを見みた。
私わたくしはその時じこの燈火とうかが音おとのしない渦うずの中なかに、自然しぜんと捲き込ままきこまれている事ことに気きが付かつかなかった。
しばらくすれば、その灯あかりもまたふっと消えきえてしまうべき運命うんめいを、眼めの前まえに控えひかえているのだとは固よりもとより気きが付かつかなかった。
私わたくしは今度こんどの事件じけんについて先生せんせいに手紙てがみを書こうかこうかと思っおもって、筆ふでを執りとりかけた。
私わたくしはそれを十じゅう行こうばかり書いかいて已めやめた。
書いかいた所ところは寸々すんずんに引き裂いひきさいて屑籠くずかごへ投げ込んなげこんだ。
(先生せんせいに宛てあててそういう事ことを書いかいても仕方しかたがないとも思っおもったし、前例ぜんれいに徴ししるしてみると、とても返事へんじをくれそうになかったから)。
私わたくしは淋しかっさびしかった。
それで手紙てがみを書くかくのであった。
そうして返事へんじが来れこれば好いよいと思うおもうのであった。
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