こころ

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一

第 21 章
「……私わたくしはこの夏なつあなたから二に、三さん度ど手紙てがみを受け取りうけとりました。東京とうきょうで相当そうとうの地位ちいを得とくたいから宜しくよろしく頼むたのむと書いかいてあったのは、たしか二に度目どめに手てに入っはいったものと記憶きおくしています。私わたくしはそれを読んよんだ時じ何なんとかしたいと思っおもったのです。少なくすくなくとも返事へんじを上げあげなければ済ますまんとは考えかんがえたのです。しかし自白じはくすると、私わたくしはあなたの依頼いらいに対したいして、まるで努力どりょくをしなかったのです。ご承知ごしょうちの通りとおり、交際こうさい区域くいきの狭いせまいというよりも、世の中よのなかにたった一人ひとりで暮しくらしているといった方ほうが適切てきせつなくらいの私わたくしには、そういう努力どりょくをあえてする余地よちが全くまったくないのです。しかしそれは問題もんだいではありません。実じつをいうと、私わたくしはこの自分じぶんをどうすれば好いよいのかと思い煩っおもいわずらっていたところなのです。このまま人間にんげんの中なかに取り残さとりのこされたミイラみいらのように存在そんざいして行こういこうか、それとも……その時分じぶんの私わたくしは「それとも」という言葉ことばを心こころのうちで繰り返すくりかえすたびにぞっとしました。
馳はせ足あしで絶壁ぜっぺきの端はしまで来きて、急きゅうに底そこの見えみえない谷たにを覗き込んのぞきこんだ人ひとのように。
私わたくしは卑怯ひきょうでした。
そうして多くおおくの卑怯ひきょうな人ひとと同じおなじ程度ていどにおいて煩悶はんもんしたのです。
遺憾いかんながら、その時じの私わたくしには、あなたというものがほとんど存在そんざいしていなかったといっても誇張こちょうではありません。
一歩いちほ進めすすめていうと、あなたの地位ちい、あなたの糊口ここうの資し、そんなものは私わたくしにとってまるで無意味むいみなのでした。
どうでも構わかまわなかったのです。
私わたくしはそれどころの騒ぎさわぎでなかったのです。
私わたくしは状差じょうさしへあなたの手紙てがみを差しさしたなり、依然いぜんとして腕組うでぐみをして考え込んかんがえこんでいました。
宅たくに相応そうおうの財産ざいさんがあるものが、何なんを苦しんくるしんで、卒業そつぎょうするかしないのに、地位ちい地位ちいといって藻掻きもがき廻るまわるのか。
私わたくしはむしろ苦々しいにがにがしい気分きぶんで、遠くとおくにいるあなたにこんな一瞥いちべつを与えあたえただけでした。
私わたくしは返事へんじを上げあげなければ済ますまないあなたに対したいして、言訳いいわけのためにこんな事ことを打ち明けるうちあけるのです。
あなたを怒らすいからすためにわざと無躾ぶしつけな言葉ことばを弄するろうするのではありません。
私わたくしの本意ほんいは後あとをご覧ごらんになればよく解るわかる事ことと信じしんじます。
とにかく私わたくしは何なんとか挨拶あいさつすべきところを黙っだまっていたのですから、私わたくしはこの怠慢たいまんの罪つみをあなたの前まえに謝ししゃしたいと思いおもいます。
その後そのあと私わたくしはあなたに電報でんぽうを打ちうちました。
有体ありていにいえば、あの時じ私わたくしはちょっとあなたに会いあいたかったのです。
それからあなたの希望きぼう通りとおり私わたくしの過去かこをあなたのために物語りものがたりたかったのです。
あなたは返電へんでんを掛けかけて、今いま東京とうきょうへは出でられないと断っことわって来きましたが、私わたくしは失望しつぼうして永らくながらくあの電報でんぽうを眺めながめていました。
あなたも電報でんぽうだけでは気きが済ますまなかったとみえて、また後あとから長いながい手紙てがみを寄こしよこしてくれたので、あなたの出京しゅっきょうできない事情じじょうがよく解りわかりました。
私わたくしはあなたを失礼しつれいな男おとこだとも何なんとも思うおもう訳わけがありません。
あなたの大事だいじなお父さんおちちさんの病気びょうきをそっち退けそっちのけにして、何なんであなたが宅たくを空けあけられるものですか。
そのお父さんおちちさんの生死せいしを忘れわすれているような私わたくしの態度たいどこそ不都合ふつごうです。
――私わたくしは実際じっさいあの電報でんぽうを打つうつ時じに、あなたのお父さんおちちさんの事ことを忘れわすれていたのです。
そのくせあなたが東京とうきょうにいる頃ころには、難症なんしょうだからよく注意ちゅういしなくってはいけないと、あれほど忠告ちゅうこくしたのは私わたくしですのに。
私わたくしはこういう矛盾むじゅんな人間にんげんなのです。
あるいは私わたくしの脳髄のうずいよりも、私わたくしの過去かこが私わたくしを圧迫あっぱくする結果けっかこんな矛盾むじゅんな人間にんげんに私わたくしを変化へんかさせるのかも知れしれません。
私わたくしはこの点てんにおいても充分じゅうぶん私わたくしの我われを認めみとめています。
あなたに許しゆるしてもらわなくてはなりません。
あなたの手紙てがみ、――あなたから来きた最後さいごの手紙てがみ――を読んよんだ時じ、私わたくしは悪いわるい事ことをしたと思いおもいました。
それでその意味いみの返事へんじを出そうでそうかと考えかんがえて、筆ふでを執りとりかけましたが、一行いっこうも書かかかずに已めやめました。
どうせ書くかくなら、この手紙てがみを書いかいて上げあげたかったから、そうしてこの手紙てがみを書くかくにはまだ時機じきが少しすこし早はや過ぎすぎたから、已めやめにしたのです。
私わたくしがただ来るくるに及ばおよばないという簡単かんたんな電報でんぽうを再びふたたび打っうったのは、それがためです。
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