こころ

22/30

二

第 22 章
「私わたくしはそれからこの手紙てがみを書き出しかきだしました。平生へいぜい筆ふでを持ちもちつけない私わたくしには、自分じぶんの思うおもうように、事件じけんなり思想しそうなりが運ばはこばないのが重いおもい苦痛くつうでした。私わたくしはもう少しすこしで、あなたに対するたいする私わたくしのこの義務ぎむを放擲ほうてきするところでした。しかしいくら止そうよそうと思っおもって筆ふでを擱いおいても、何になんにもなりませんでした。私わたくしは一いち時間じかん経たへたないうちにまた書きかきたくなりました。あなたから見みたら、これが義務ぎむの遂行すいこうを重んずるおもんずる私わたくしの性格せいかくのように思わおもわれるかも知れしれません。私わたくしもそれは否みいなみません。私わたくしはあなたの知っしっている通りとおり、ほとんど世間せけんと交渉こうしょうのない孤独こどくな人間にんげんですから、義務ぎむというほどの義務ぎむは、自分じぶんの左右さゆう前後ぜんごを見廻しみまわしても、どの方角ほうがくにも根ねを張っちょうっておりません。故意こいか自然しぜんか、私わたくしはそれをできるだけ切り詰めきりつめた生活せいかつをしていたのです。けれども私わたくしは義務ぎむに冷淡れいたんだからこうなったのではありません。むしろ鋭敏えいびん過ぎすぎて刺戟しげきに堪えるこたえるだけの精力せいりょくがないから、ご覧ごらんのように消極的しょうきょくてきな月日つきひを送るおくる事ことになったのです。だから一旦いったん約束やくそくした以上いじょう、それを果たさはたさないのは、大変たいへん厭いやな心持こころもちです。私わたくしはあなたに対したいしてこの厭いやな心持こころもちを避けるさけるためにでも、擱いおいた筆ふでをまた取り上げとりあげなければならないのです。 その上うえ私わたくしは書きかきたいのです。義務ぎむは別べつとして私わたくしの過去かこを書きかきたいのです。私わたくしの過去かこは私わたくしだけの経験けいけんだから、私わたくしだけの所有しょゆうといっても差支えさしつかえないでしょう。それを人ひとに与えあたえないで死ぬしぬのは、惜しいおしいともいわれるでしょう。私わたくしにも多少たしょうそんな心持こころもちがあります。ただし受け入れるうけいれる事ことのできない人ひとに与えるあたえるくらいなら、私わたくしはむしろ私わたくしの経験けいけんを私わたくしの生命せいめいと共ともに葬っそうった方ほうが好いよいと思いおもいます。実際じっさいここにあなたという一人ひとりの男おとこが存在そんざいしていないならば、私わたくしの過去かこはついに私わたくしの過去かこで、間接かんせつにも他人たにんの知識ちしきにはならないで済んすんだでしょう。私わたくしは何千なんぜん万まんといる日本人にっぽんにんのうちで、ただあなただけに、私わたくしの過去かこを物語りものがたりたいのです。あなたは真面目まじめだから。あなたは真面目まじめに人生じんせいそのものから生きいきた教訓きょうくんを得とくたいといったから。 私わたくしは暗いくらい人世じんせいの影かげを遠慮えんりょなくあなたの頭あたまの上うえに投げかけなげかけて上げあげます。しかし恐れおそれてはいけません。暗いくらいものを凝とじっと見詰めみつめて、その中なかからあなたの参考さんこうになるものをお攫みつかみなさい。私わたくしの暗いくらいというのは、固よりもとより倫理的りんりてきに暗いくらいのです。私わたくしは倫理的りんりてきに生れうまれた男おとこです。また倫理的りんりてきに育てそだてられた男おとこです。その倫理りんり上うえの考えかんがえは、今いまの若いわかい人ひとと大分おおいた違っちがったところがあるかも知れしれません。しかしどう間違っまちがっても、私自身わたくしじしんのものです。間まに合せあわせに借りかりた損料そんりょう着きではありません。だからこれから発達はったつしようというあなたには幾分いくぶんか参考さんこうになるだろうと思うおもうのです。 あなたは現代げんだいの思想しそう問題もんだいについて、よく私わたくしに議論ぎろんを向けむけた事ことを記憶きおくしているでしょう。私わたくしのそれに対するたいする態度たいどもよく解っわかっているでしょう。私わたくしはあなたの意見いけんを軽蔑けいべつまでしなかったけれども、決してけっして尊敬そんけいを払いはらい得るうる程度ていどにはなれなかった。あなたの考えかんがえには何なんらの背景はいけいもなかったし、あなたは自分じぶんの過去かこをもつには余りあまりに若わか過ぎすぎたからです。私わたくしは時々ときどき笑っわらった。あなたは物もの足りたりなそうな顔かおをちょいちょい私わたくしに見せみせた。その極きょくあなたは私わたくしの過去かこを絵巻物えまきもののように、あなたの前まえに展開てんかいしてくれと逼っせまった。私わたくしはその時じ心こころのうちで、始めはじめてあなたを尊敬そんけいした。あなたが無遠慮むえんりょに私わたくしの腹はらの中なかから、或るある生きいきたものを捕まえようつかまえようという決心けっしんを見せみせたからです。私わたくしの心臓しんぞうを立ちたち割わりって、温かくあたたかく流れるながれる血潮ちしおを啜ろうすすろうとしたからです。その時じ私わたくしはまだ生きいきていた。死ぬしぬのが厭いやであった。それで他日たじつを約しやくして、あなたの要求ようきゅうを斥けしりぞけてしまった。私わたくしは今いま自分じぶんで自分じぶんの心臓しんぞうを破っやぶって、その血ちをあなたの顔かおに浴びせかけようあびせかけようとしているのです。私わたくしの鼓動こどうが停っとまった時じ、あなたの胸むねに新しいあたらしい命いのちが宿るやどる事ことができるなら満足まんぞくです。
22/30