十
第 20 章
父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。
私はその間に長い手紙を九州にいる兄宛で出した。
妹へは母から出させた。
私は腹の中で、おそらくこれが父の健康に関して二人へやる最後の音信だろうと思った。
それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。
兄は忙しい職にいた。
妹は妊娠中であった。
だから父の危険が眼の前に逼らないうちに呼び寄せる自由は利かなかった。
といって、折角都合して来たには来たが、間に合わなかったといわれるのも辛かった。
私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。
「そう判然りした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」 停車場のある町から迎えた医者は私にこういった。
私は母と相談して、その医者の周旋で、町の病院から看護婦を一人頼む事にした。
父は枕元へ来て挨拶する白い服を着た女を見て変な顔をした。
父は死病に罹っている事をとうから自覚していた。
それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。
「今に癒ったらもう一返東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」 母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。
時とするとまた非常に淋しがった。
「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」 私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。
東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍もそれを繰り返したのは、私が卒業した日の晩の事であった。
私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。
あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。
今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。
私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。
しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。
「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといっていいくらいです」 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌った。
父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
病人があるので自然家の出入りも多くなった。
近所にいる親類などは、二日に一人ぐらいの割で代る代る見舞に来た。
中には比較的遠くにいて平生疎遠なものもあった。
「どうかと思ったら、この様子じゃ大丈夫だ。話も自由だし、だいち顔がちっとも瘠せていないじゃないか」などといって帰るものがあった。
私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。
その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。
私は母や伯父と相談して、とうとう兄と妹に電報を打った。
兄からはすぐ行くという返事が来た。
妹の夫からも立つという報知があった。
妹はこの前懐妊した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。
十一
こうした落ち付きのない間にも、私はまだ静かに坐る余裕をもっていた。
偶には書物を開けて十頁もつづけざまに読む時間さえ出て来た。
一旦堅く括られた私の行李は、いつの間にか解かれてしまった。
私は要るに任せて、その中から色々なものを取り出した。
私は東京を立つ時、心のうちで極めた、この夏中の日課を顧みた。
私のやった事はこの日課の三が一にも足らなかった。
私は今までもこういう不愉快を何度となく重ねて来た。
しかしこの夏ほど思った通り仕事の運ばない例も少なかった。
これが人の世の常だろうと思いながらも私は厭な気持に抑え付けられた。
私はこの不快の裏に坐りながら、一方に父の病気を考えた。
父の死んだ後の事を想像した。
そうしてそれと同時に、先生の事を一方に思い浮べた。
私はこの不快な心持の両端に地位、教育、性格の全然異なった二人の面影を眺めた。
私が父の枕元を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。
「少し午眠でもおしよ。お前もさぞ草臥れるだろう」 母は私の気分を了解していなかった。
私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。
私は単簡に礼を述べた。
母はまだ室の入口に立っていた。
「お父さんは?」と私が聞いた。
「今よく寝てお出だよ」と母が答えた。
母は突然はいって来て私の傍に坐った。
「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。
母はその時の私の言葉を信じていた。
その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。
しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。
私は心得があって母を欺いたと同じ結果に陥った。
「もう一遍手紙を出してご覧な」と母がいった。
役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭うような私ではなかった。
けれどもこういう用件で先生にせまるのは私の苦痛であった。
私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥かに恐れていた。
あの依頼に対して今まで返事の貰えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。
「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒は明きませんよ。どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ」「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」「そりゃ解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」 私は始め心のなかで、何も知らない母を憐れんだ。
しかし母がなぜこんな問題をこのざわざわした際に持ち出したのか理解できなかった。
私が父の病気をよそに、静かに坐ったり書見したりする余裕のあるごとくに、母も眼の前の病人を忘れて、外の事を考えるだけ、胸に空地があるのかしらと疑った。
その時「実はね」と母がいい出した。
「実はお父さんの生きてお出のうちに、お前の口が極ったらさぞ安心なさるだろうと思うんだがね。この様子じゃ、とても間に合わないかも知れないけれども、それにしても、まだああやって口も慥かなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」 憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。
私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。
十二
兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。
父は平生から何を措いても新聞だけには眼を通す習慣であったが、床についてからは、退屈のため猶更それを読みたがった。
母も私も強いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。
「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いようじゃありませんか」 兄はこんな事をいいながら父と話をした。
その賑やか過ぎる調子が私にはかえって不調和に聞こえた。
それでも父の前を外して私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。
「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」 兄は私の弁解を黙って聞いていた。
やがて、「よく解るのかな」といった。
兄は父の理解力が病気のために、平生よりはよっぽど鈍っているように観察したらしい。
「そりゃ慥かです。私はさっき二十分ばかり枕元に坐って色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」 兄と前後して着いた妹の夫の意見は、我々よりもよほど楽観的であった。
父は彼に向かって妹の事をあれこれと尋ねていた。
「身体が身体だからむやみに汽車になんぞ乗って揺れない方が好い。無理をして見舞に来られたりすると、かえってこっちが心配だから」といっていた。
「なに今に治ったら赤ん坊の顔でも見に、久しぶりにこっちから出掛けるから差支えない」ともいっていた。
乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。
「大変だ大変だ」といった。
何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。
「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。
「私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。
その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった。
私は父の枕元に坐って鄭寧にそれを読んだ。
読む時間のない時は、そっと自分の室へ持って来て、残らず眼を通した。
私の眼は長い間、軍服を着た乃木大将と、それから官女みたような服装をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。
悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹や草を震わせている最中に、突然私は一通の電報を先生から受け取った。
洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所では、一通の電報すら大事件であった。
それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。
「何だい」といって、私の封を開くのを傍に立って待っていた。
電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。
私は首を傾けた。
「きっとお頼もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。
私もあるいはそうかも知れないと思った。
しかしそれにしては少し変だとも考えた。
とにかく兄や妹の夫まで呼び寄せた私が、父の病気を打遣って、東京へ行く訳には行かなかった。
私は母と相談して、行かれないという返電を打つ事にした。
できるだけ簡略な言葉で父の病気の危篤に陥りつつある旨も付け加えたが、それでも気が済まなかったから、委細手紙として、細かい事情をその日のうちに認めて郵便で出した。
頼んだ位地の事とばかり信じ切った母は、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。
十三
私の書いた手紙はかなり長いものであった。
母も私も今度こそ先生から何とかいって来るだろうと考えていた。
すると手紙を出して二日目にまた電報が私宛で届いた。
それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。
私はそれを母に見せた。
「大方手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」 母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。
私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推してみると、どうも変に思われた。
「先生が口を探してくれる」。
これはあり得べからざる事のように私には見えた。
「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」 私は母に向かってこんな分り切った事をいった。
母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。
私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。
その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。
二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸などをして帰って行った。
父は医者から安臥を命ぜられて以来、両便とも寝たまま他の手で始末してもらっていた。
潔癖な父は、最初の間こそ甚だしくそれを忌み嫌ったが、身体が利かないので、やむを得ずいやいや床の上で用を足した。
それが病気の加減で頭がだんだん鈍くなるのか何だか、日を経るに従って、無精な排泄を意としないようになった。
たまには蒲団や敷布を汚して、傍のものが眉を寄せるのに、当人はかえって平気でいたりした。
もっとも尿の量は病気の性質として、極めて少なくなった。
医者はそれを苦にした。
食欲も次第に衰えた。
たまに何か欲しがっても、舌が欲しがるだけで、咽喉から下へはごく僅しか通らなかった。
好きな新聞も手に取る気力がなくなった。
枕の傍にある老眼鏡は、いつまでも黒い鞘に納められたままであった。
子供の時分から仲の好かった作さんという今では一里ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。
「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨ましいね。己はもう駄目だ」「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」 浣腸をしたのは作さんが来てから二、三日あとの事であった。
父は医者のお蔭で大変楽になったといって喜んだ。
少し自分の寿命に対する度胸ができたという風に機嫌が直った。
傍にいる母は、それに釣り込まれたのか、病人に気力を付けるためか、先生から電報のきた事を、あたかも私の位置が父の希望する通り東京にあったように話した。
傍にいる私はむずがゆい心持がしたが、母の言葉を遮る訳にもゆかないので、黙って聞いていた。
病人は嬉しそうな顔をした。
「そりゃ結構です」と妹の夫もいった。
「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。
私は今更それを否定する勇気を失った。
自分にも何とも訳の分らない曖昧な返事をして、わざと席を立った。
十四
父の病気は最後の一撃を待つ間際まで進んで来て、そこでしばらく躊躇するようにみえた。
家のものは運命の宣告が、今日下るか、今日下るかと思って、毎夜床にはいった。
父は傍のものを辛くするほどの苦痛をどこにも感じていなかった。
その点になると看病はむしろ楽であった。
要心のために、誰か一人ぐらいずつ代る代る起きてはいたが、あとのものは相当の時間に各自の寝床へ引き取って差支えなかった。
何かの拍子で眠れなかった時、病人の唸るような声を微かに聞いたと思い誤った私は、一遍半夜に床を抜け出して、念のため父の枕元まで行ってみた事があった。
その夜は母が起きている番に当っていた。
しかしその母は父の横に肱を曲げて枕としたなり寝入っていた。
父も深い眠りの裏にそっと置かれた人のように静かにしていた。
私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。
私は兄といっしょの蚊帳の中に寝た。
妹の夫だけは、客扱いを受けているせいか、独り離れた座敷に入って休んだ。
「関さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」 関というのはその人の苗字であった。
「しかしそんな忙しい身体でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」「困っても仕方がない。外の事と違うからな」 兄と床を並べて寝る私は、こんな寝物語をした。
兄の頭にも私の胸にも、父はどうせ助からないという考えがあった。
どうせ助からないものならばという考えもあった。
我々は子として親の死ぬのを待っているようなものであった。
しかし子としての我々はそれを言葉の上に表わすのを憚かった。
そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。
「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。
実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。
近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。
会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。
その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。
「お前の卒業祝いは已めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。
私はアルコールに煽られたその時の乱雑な有様を想い出して苦笑した。
飲むものや食うものを強いて廻る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
私たちはそれほど仲の好い兄弟ではなかった。
小さいうちは好く喧嘩をして、年の少ない私の方がいつでも泣かされた。
学校へはいってからの専門の相違も、全く性格の相違から出ていた。
大学にいる時分の私は、ことに先生に接触した私は、遠くから兄を眺めて、常に動物的だと思っていた。
私は長く兄に会わなかったので、また懸け隔たった遠くにいたので、時からいっても距離からいっても、兄はいつでも私には近くなかったのである。
それでも久しぶりにこう落ち合ってみると、兄弟の優しい心持がどこからか自然に湧いて出た。
場合が場合なのもその大きな源因になっていた。
二人に共通な父、その父の死のうとしている枕元で、兄と私は握手したのであった。
「お前これからどうする」と兄は聞いた。
私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。
「一体家の財産はどうなってるんだろう」「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高の知れたものだろう」 母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。
「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。
十五
「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。
「こないだ話したじゃないか」と私は答えた。
私は自分で質問をしておきながら、すぐ他の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。
「聞いた事は聞いたけれども」 兄は必竟聞いても解らないというのであった。
私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。
けれども腹は立った。
また例の兄らしい所が出て来たと思った。
先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。
少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。
名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。
兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。
けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らん人間に限るといった風の口吻を洩らした。
「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だからね。人は自分のもっている才能をできるだけ働かせなくっちゃ嘘だ」 私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。
「それでもその人のお蔭で地位ができればまあ結構だ。お父さんも喜んでるようじゃないか」 兄は後からこんな事をいった。
先生から明瞭な手紙の来ない以上、私はそう信ずる事もできず、またそう口に出す勇気もなかった。
それを母の早呑み込みでみんなにそう吹聴してしまった今となってみると、私は急にそれを打ち消す訳に行かなくなった。
私は母に催促されるまでもなく、先生の手紙を待ち受けた。
そうしてその手紙に、どうかみんなの考えているような衣食の口の事が書いてあればいいがと念じた。
私は死に瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
父が変な黄色いものも嘔いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。
「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。
兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。
それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。
私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。
「お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。
私は何とも答えなかった。
「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。
兄は私を土の臭いを嗅いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。
「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。
「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口に斥けた。
兄の腹の中には、世の中でこれから仕事をしようという気が充ち満ちていた。
「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」 兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後について、こんな風に語り合った。
十六
父は時々囈語をいうようになった。
「乃木大将に済まない。実に面目次第がない。いえ私もすぐお後から」 こんな言葉をひょいひょい出した。
母は気味を悪がった。
なるべくみんなを枕元へ集めておきたがった。
気のたしかな時は頻りに淋しがる病人にもそれが希望らしく見えた。
ことに室の中を見廻して母の影が見えないと、父は必ず「お光は」と聞いた。
聞かないでも、眼がそれを物語っていた。
私はよく起って母を呼びに行った。
「何かご用ですか」と、母が仕掛けた用をそのままにしておいて病室へ来ると、父はただ母の顔を見詰めるだけで何もいわない事があった。
そうかと思うと、まるで懸け離れた話をした。
突然「お光お前にも色々世話になったね」などと優しい言葉を出す時もあった。
母はそういう言葉の前にきっと涙ぐんだ。
そうした後ではまたきっと丈夫であった昔の父をその対照として想い出すらしかった。
「あんな憐れっぽい事をお言いだがね、あれでもとはずいぶん酷かったんだよ」 母は父のために箒で背中をどやされた時の事などを話した。
今まで何遍もそれを聞かされた私と兄は、いつもとはまるで違った気分で、母の言葉を父の記念のように耳へ受け入れた。
父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかった。
「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。
「そうだなあ」と私は答えた。
私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好し悪しだと考えていた。
二人は決しかねてついに伯父に相談をかけた。
伯父も首を傾けた。
「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」 話はとうとう愚図愚図になってしまった。
そのうちに昏睡が来た。
例の通り何も知らない母は、それをただの眠りと思い違えてかえって喜んだ。
「まあああして楽に寝られれば、傍にいるものも助かります」といった。
父は時々眼を開けて、誰はどうしたなどと突然聞いた。
その誰はつい先刻までそこに坐っていた人の名に限られていた。
父の意識には暗い所と明るい所とできて、その明るい所だけが、闇を縫う白い糸のように、ある距離を置いて連続するようにみえた。
母が昏睡状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。
そのうち舌が段々縺れて来た。
何かいい出しても尻が不明瞭に了るために、要領を得ないでしまう事が多くあった。
そのくせ話し始める時は、危篤の病人とは思われないほど、強い声を出した。
我々は固より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。
「頭を冷やすと好い心持ですか」「うん」 私は看護婦を相手に、父の水枕を取り更えて、それから新しい氷を入れた氷嚢を頭の上へ載せた。
がさがさに割られて尖り切った氷の破片が、嚢の中で落ちつく間、私は父の禿げ上った額の外でそれを柔らかに抑えていた。
その時兄が廊下伝いにはいって来て、一通の郵便を無言のまま私の手に渡した。
空いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。
それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。
並の状袋にも入れてなかった。
また並の状袋に入れられべき分量でもなかった。
半紙で包んで、封じ目を鄭寧に糊で貼り付けてあった。
私はそれを兄の手から受け取った時、すぐその書留である事に気が付いた。
裏を返して見るとそこに先生の名がつつしんだ字で書いてあった。
手の放せない私は、すぐ封を切る訳に行かないので、ちょっとそれを懐に差し込んだ。
十七
その日は病人の出来がことに悪いように見えた。
私が厠へ行こうとして席を立った時、廊下で行き合った兄は「どこへ行く」と番兵のような口調で誰何した。
「どうも様子が少し変だからなるべく傍にいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。
私もそう思っていた。
懐中した手紙はそのままにしてまた病室へ帰った。
父は眼を開けて、そこに並んでいる人の名前を母に尋ねた。
母があれは誰、これは誰と一々説明してやると、父はそのたびに首肯いた。
首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。
「どうも色々お世話になります」 父はこういった。
そうしてまた昏睡状態に陥った。
枕辺を取り巻いている人は無言のまましばらく病人の様子を見詰めていた。
やがてその中の一人が立って次の間へ出た。
するとまた一人立った。
私も三人目にとうとう席を外して、自分の室へ来た。
私には先刻懐へ入れた郵便物の中を開けて見ようという目的があった。
それは病人の枕元でも容易にできる所作には違いなかった。
しかし書かれたものの分量があまりに多過ぎるので、一息にそこで読み通す訳には行かなかった。
私は特別の時間を偸んでそれに充てた。
私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂き破った。
中から出たものは、縦横に引いた罫の中へ行儀よく書いた原稿様のものであった。
そうして封じる便宜のために、四つ折に畳まれてあった。
私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。
私の心はこの多量の紙と印気が、私に何事を語るのだろうかと思って驚いた。
私は同時に病室の事が気にかかった。
私がこのかきものを読み始めて、読み終らない前に、父はきっとどうかなる、少なくとも、私は兄からか母からか、それでなければ伯父からか、呼ばれるに極っているという予覚があった。
私は落ち付いて先生の書いたものを読む気になれなかった。
私はそわそわしながらただ最初の一頁を読んだ。
その頁は下のように綴られていた。
「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸するようになります。そうすると、あの時あれほど堅く約束した言葉がまるで嘘になります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」 私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。
私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣いはないと、私は初手から信じていた。
しかし筆を執ることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。
先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。
「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」 私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。
私は突然不安に襲われた。
私はつづいて後を読もうとした。
その時病室の方から、私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。
私はまた驚いて立ち上った。
廊下を馳け抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。
私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。
十八
病室にはいつの間にか医者が来ていた。
なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸を試みるところであった。
看護婦は昨夜の疲れを休めるために別室で寝ていた。
慣れない兄は起ってまごまごしていた。
私の顔を見ると、「ちょっと手をお貸し」といったまま、自分は席に着いた。
私は兄に代って、油紙を父の尻の下に宛てがったりした。
父の様子は少しくつろいで来た。
三十分ほど枕元に坐っていた医者は、浣腸の結果を認めた上、また来るといって、帰って行った。
帰り際に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。
私は今にも変がありそうな病室を退いてまた先生の手紙を読もうとした。
しかし私はすこしも寛くりした気分になれなかった。
机の前に坐るや否や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。
そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖が私の手を顫わした。
私は先生の手紙をただ無意味に頁だけ剥繰って行った。
私の眼は几帳面に枠の中に篏められた字画を見た。
けれどもそれを読む余裕はなかった。
拾い読みにする余裕すら覚束なかった。
私は一番しまいの頁まで順々に開けて見て、またそれを元の通りに畳んで机の上に置こうとした。
その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」 私ははっと思った。
今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結したように感じた。
私はまた逆に頁をはぐり返した。
そうして一枚に一句ぐらいずつの割で倒に読んで行った。
私は咄嗟の間に、私の知らなければならない事を知ろうとして、ちらちらする文字を、眼で刺し通そうと試みた。
その時私の知ろうとするのは、ただ先生の安否だけであった。
先生の過去、かつて先生が私に話そうと約束した薄暗いその過去、そんなものは私に取って、全く無用であった。
私は倒まに頁をはぐりながら、私に必要な知識を容易に与えてくれないこの長い手紙を自烈たそうに畳んだ。
私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。
病人の枕辺は存外静かであった。
頼りなさそうに疲れた顔をしてそこに坐っている母を手招ぎして、「どうですか様子は」と聞いた。
母は「今少し持ち合ってるようだよ」と答えた。
私は父の眼の前へ顔を出して、「どうです、浣腸して少しは心持が好くなりましたか」と尋ねた。
父は首肯いた。
父ははっきり「有難う」といった。
父の精神は存外朦朧としていなかった。
私はまた病室を退いて自分の部屋に帰った。
そこで時計を見ながら、汽車の発着表を調べた。
私は突然立って帯を締め直して、袂の中へ先生の手紙を投げ込んだ。
それから勝手口から表へ出た。
私は夢中で医者の家へ馳け込んだ。
私は医者から父がもう二、三日保つだろうか、そこのところを判然聞こうとした。
注射でも何でもして、保たしてくれと頼もうとした。
医者は生憎留守であった。
私には凝として彼の帰るのを待ち受ける時間がなかった。
心の落ち付きもなかった。
私はすぐ俥を停車場へ急がせた。
私は停車場の壁へ紙片を宛てがって、その上から鉛筆で母と兄あてで手紙を書いた。
手紙はごく簡単なものであったが、断らないで走るよりまだ増しだろうと思って、それを急いで宅へ届けるように車夫に頼んだ。
そうして思い切った勢いで東京行きの汽車に飛び乗ってしまった。
私はごうごう鳴る三等列車の中で、また袂から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。
下 先生と遺書