こころ

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七

第 27 章
「私わたくしが三さん度目どめに帰国きこくしたのは、それからまた一いち年ねん経っきょうった夏なつの取付とりつけでした。私わたくしはいつでも学年がくねん試験しけんの済むすむのを待ちまちかねて東京とうきょうを逃げにげました。私わたくしには故郷こきょうがそれほど懐かしかっなつかしかったからです。あなたにも覚えおぼえがあるでしょう、生れうまれた所ところは空気くうきの色いろが違いちがいます、土地とちの匂いにおいも格別かくべつです、父ちちや母ははの記憶きおくも濃こかに漂っただよっています。一いち年ねんのうちで、七なな、八はちの二に月つきをその中なかに包まつつまれて、穴あなに入っはいった蛇へびのように凝とじっとしているのは、私わたくしに取っとって何なんよりも温かいあたたかい好いよい心持こころもちだったのです。 単純たんじゅんな私わたくしは従妹じゅうまいとの結婚けっこん問題もんだいについて、さほど頭あたまを痛めるいためる必要ひつようがないと思っおもっていました。厭いやなものは断ることわる、断っことわってさえしまえば後あとには何なんも残らのこらない、私わたくしはこう信じしんじていたのです。だから叔父おじの希望きぼう通りとおりに意志いしを曲げまげなかったにもかかわらず、私わたくしはむしろ平気へいきでした。過去かこ一いち年ねんの間まいまだかつてそんな事ことに屈托くったくした覚えおぼえもなく、相そう変らかわらずの元気げんきで国くにへ帰っかえったのです。 ところが帰っかえって見るみると叔父おじの態度たいどが違っちがっています。元もとのように好いよい顔かおをして私わたくしを自分じぶんの懐ふところに抱こういだこうとしません。それでも鷹揚おうように育っそだった私わたくしは、帰っかえって四よん、五ご日ひの間まは気きが付かつかずにいました。ただ何なんかの機会きかいにふと変へんに思い出しおもいだしたのです。すると妙みょうなのは、叔父おじばかりではないのです。叔母おばも妙みょうなのです。従妹じゅうまいも妙みょうなのです。中学校ちゅうがっこうを出でて、これから東京とうきょうの高等こうとう商業しょうぎょうへはいるつもりだといって、手紙てがみでその様子ようすを聞き合せききあわせたりした叔父おじの男の子おとこのこまで妙みょうなのです。 私わたくしの性分しょうぶんとして考えかんがえずにはいられなくなりました。どうして私わたくしの心持こころもちがこう変っかわったのだろう。いやどうして向うむこうがこう変っかわったのだろう。私わたくしは突然とつぜん死んしんだ父ちちや母ははが、鈍いにぶい私わたくしの眼めを洗っあらって、急きゅうに世の中よのなかが判然はんぜん見えるみえるようにしてくれたのではないかと疑いうたがいました。私わたくしは父ちちや母ははがこの世このよにいなくなった後あとでも、いた時じと同じおなじように私わたくしを愛しあいしてくれるものと、どこか心こころの奥おくで信じしんじていたのです。もっともその頃ころでも私わたくしは決してけっして理りに暗いくらい質しつではありませんでした。しかし先祖せんぞから譲らゆずられた迷信めいしんの塊りかたまりも、強いつよい力ちからで私わたくしの血ちの中なかに潜んひそんでいたのです。今いまでも潜んひそんでいるでしょう。 私わたくしはたった一人ひとり山やまへ行っいって、父母ふぼの墓はかの前まえに跪きひざまずきました。半はんは哀悼あいとうの意味いみ、半はんは感謝かんしゃの心持こころもちで跪いひざまずいたのです。そうして私わたくしの未来みらいの幸福こうふくが、この冷たいつめたい石いしの下したに横たわるよこたわる彼かれらの手てにまだ握らにぎられてでもいるような気分きぶんで、私わたくしの運命うんめいを守るまもるべく彼かれらに祈りいのりました。あなたは笑うわらうかもしれない。私わたくしも笑わわらわれても仕方しかたがないと思いおもいます。しかし私わたくしはそうした人間にんげんだったのです。 私わたくしの世界せかいは掌てのひらを翻すひるがえすように変りかわりました。もっともこれは私わたくしに取っとって始めてはじめての経験けいけんではなかったのです。私わたくしが十六じゅうろく、七ななの時じでしたろう、始めはじめて世の中よのなかに美しいうつくしいものがあるという事実じじつを発見はっけんした時じには、一度いちどにはっと驚きおどろきました。何なん遍へんも自分じぶんの眼めを疑っうたがって、何なん遍へんも自分じぶんの眼めを擦りすりました。そうして心こころの中なかでああ美しいうつくしいと叫びさけびました。十六じゅうろく、七ななといえば、男おとこでも女おんなでも、俗ぞくにいう色気いろけの付くつく頃ころです。色気いろけの付いついた私わたくしは世の中よのなかにある美しいうつくしいものの代表者だいひょうしゃとして、始めはじめて女おんなを見るみる事ことができたのです。今までいままでその存在そんざいに少しすこしも気きの付かつかなかった異性いせいに対したいして、盲目もうもくの眼めが忽ちたちまち開いひらいたのです。それ以来いらい私わたくしの天地てんちは全くまったく新しいあたらしいものとなりました。 私わたくしが叔父おじの態度たいどに心づいこころづいたのも、全くまったくこれと同じおなじなんでしょう。俄然がぜんとして心づいこころづいたのです。何なんの予感よかんも準備じゅんびもなく、不意ふいに来きたのです。不意ふいに彼かれと彼かれの家族かぞくが、今までいままでとはまるで別物べつもののように私わたくしの眼めに映っうつったのです。私わたくしは驚きおどろきました。そうしてこのままにしておいては、自分じぶんの行先いきさきがどうなるか分らわからないという気きになりました。
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