こころ

3/30

三

第 3 章
私わたくしは次の日つぎのひも同じおなじ時刻じこくに浜はまへ行っいって先生せんせいの顔かおを見みた。
その次の日つぎのひにもまた同じおなじ事ことを繰り返しくりかえした。
けれども物ものをいい掛けるかける機会きかいも、挨拶あいさつをする場合ばあいも、二人ふたりの間まには起らおこらなかった。
その上うえ先生せんせいの態度たいどはむしろ非ひ社交的しゃこうてきであった。
一定いっていの時刻じこくに超然ちょうぜんとして来きて、また超然ちょうぜんと帰っかえって行っいった。
周囲しゅういがいくら賑やかにぎやかでも、それにはほとんど注意ちゅういを払うはらう様子ようすが見えみえなかった。
最初さいしょいっしょに来きた西洋せいよう人ひとはその後そのあとまるで姿すがたを見せみせなかった。
先生せんせいはいつでも一人ひとりであった。
或るある時じ先生せんせいが例れいの通りとおりさっさと海うみから上がっあがって来きて、いつもの場所ばしょに脱ぎ棄てぬぎすてた浴衣ゆかたを着ようきようとすると、どうした訳わけか、その浴衣ゆかたに砂すながいっぱい着いついていた。
先生せんせいはそれを落すおとすために、後ろ向きうしろむきになって、浴衣ゆかたを二に、三さん度ど振っふった。
すると着物きものの下したに置いおいてあった眼鏡めがねが板いたの隙間すきまから下したへ落ちおちた。
先生せんせいは白絣しろがすりの上うえへ兵児帯へこおびを締めしめてから、眼鏡めがねの失くなっなくなったのに気きが付いついたと見えみえて、急きゅうにそこいらを探しさがし始めはじめた。
私わたくしはすぐ腰掛こしかけの下したへ首くびと手てを突とっッっ込んこんで眼鏡めがねを拾い出しひろいだした。
先生せんせいは有難うありがとうといって、それを私わたくしの手てから受け取っうけとった。
次の日つぎのひ私わたくしは先生せんせいの後あとにつづいて海うみへ飛び込んとびこんだ。
そうして先生せんせいといっしょの方角ほうがくに泳いえいいで行っいった。
二に丁ていほど沖おきへ出るでると、先生せんせいは後ろうしろを振り返っふりかえって私わたくしに話し掛けはなしかけた。
広いひろい蒼いあおい海うみの表面ひょうめんに浮いういているものは、その近所きんじょに私わたくしら二人ふたりより外そとになかった。
そうして強いつよい太陽たいようの光ひかりが、眼めの届くとどく限りかぎり水みずと山やまとを照らしてらしていた。
私わたくしは自由じゆうと歓喜かんきに充ちみちた筋肉きんにくを動かしうごかして海うみの中なかで躍り狂っおどりくるった。
先生せんせいはまたぱたりと手足てあしの運動うんどうを已めやめて仰向けあおむけになったまま浪なみの上うえに寝ねた。
私わたくしもその真似まねをした。
青空あおぞらの色いろがぎらぎらと眼めを射るいるように痛烈つうれつな色いろを私わたくしの顔かおに投げ付けなげつけた。
「愉快ゆかいですね」と私わたくしは大きなおおきな声こえを出しだした。
しばらくして海うみの中なかで起き上がるおきあがるように姿勢しせいを改めあらためた先生せんせいは、「もう帰りかえりませんか」といって私わたくしを促しうながした。
比較的ひかくてき強いつよい体質たいしつをもった私わたくしは、もっと海うみの中なかで遊んあそんでいたかった。
しかし先生せんせいから誘わさそわれた時じ、私わたくしはすぐ「ええ帰りかえりましょう」と快くこころよく答えこたえた。
そうして二人ふたりでまた元もとの路みちを浜辺はまべへ引き返しひきかえした。
私わたくしはこれから先生せんせいと懇意こんいになった。
しかし先生せんせいがどこにいるかはまだ知らしらなかった。
それから中なか二に日ひおいてちょうど三さん日ひ目めの午後ごごだったと思うおもう。
先生せんせいと掛茶屋かけちゃやで出会っであった時じ、先生せんせいは突然とつぜん私わたくしに向かっむかって、「君きみはまだ大分おおいた長くながくここにいるつもりですか」と聞いきいた。
考えかんがえのない私わたくしはこういう問いといに答えるこたえるだけの用意よういを頭あたまの中なかに蓄えたくわえていなかった。
それで「どうだか分りわかりません」と答えこたえた。
しかしにやにや笑っわらっている先生せんせいの顔かおを見みた時じ、私わたくしは急きゅうに極りきまりが悪くわるくなった。
「先生せんせいは?」と聞き返さききかえさずにはいられなかった。
これが私わたくしの口くちを出でた先生せんせいという言葉ことばの始まりはじまりである。
私わたくしはその晩ばん先生せんせいの宿やどを尋ねたずねた。
宿やどといっても普通ふつうの旅館りょかんと違っちがって、広いひろい寺てらの境内けいだいにある別荘べっそうのような建物たてものであった。
そこに住んすんでいる人ひとの先生せんせいの家族かぞくでない事ことも解っわかった。
私わたくしが先生せんせい先生せんせいと呼び掛けるよびかけるので、先生せんせいは苦笑いにがわらいをした。
私わたくしはそれが年長者ねんちょうしゃに対するたいする私わたくしの口癖くちぐせだといって弁解べんかいした。
私わたくしはこの間まの西洋せいよう人ひとの事ことを聞いきいてみた。
先生せんせいは彼かれの風変りふうがわりのところや、もう鎌倉かまくらにいない事ことや、色々いろいろの話はなしをした末すえ、日本人にっぽんにんにさえあまり交際こうさいをもたないのに、そういう外国人がいこくにんと近付きちかづきになったのは不思議ふしぎだといったりした。
私わたくしは最後さいごに先生せんせいに向かっむかって、どこかで先生せんせいを見みたように思うおもうけれども、どうしても思い出せおもいだせないといった。
若いわかい私わたくしはその時じ暗にあんに相手あいても私わたくしと同じおなじような感じかんじを持っもっていはしまいかと疑っうたがった。
そうして腹はらの中なかで先生せんせいの返事へんじを予期よきしてかかった。
ところが先生せんせいはしばらく沈吟ちんぎんしたあとで、「どうも君きみの顔かおには見覚えみおぼえがありませんね。人違いひとちがいじゃないですか」といったので私わたくしは変へんに一種いっしゅの失望しつぼうを感じかんじた。
3/30