こころ

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八

第 28 章
「私わたくしは今までいままで叔父おじ任せまかせにしておいた家いえの財産ざいさんについて、詳しいくわしい知識ちしきを得とくなければ、死んしんだ父母ふぼに対したいして済ますまないという気きを起しおこしたのです。叔父おじは忙しいいそがしい身体しんたいだと自称じしょうするごとく、毎晩まいばん同じおなじ所ところに寝泊りねとまりはしていませんでした。二に日ひ家いえへ帰るかえると三さん日ひは市しの方ほうで暮らすくらすといった風かぜに、両方りょうほうの間まを往来おうらいして、その日ひその日ひを落ちおち付きつきのない顔かおで過ごしすごしていました。そうして忙しいいそがしいという言葉ことばを口癖くちぐせのように使いつかいました。何なんの疑いうたがいも起らおこらない時じは、私わたくしも実際じっさいに忙しいいそがしいのだろうと思っおもっていたのです。それから、忙しいそがしがらなくては当世とうせい流りゅうでないのだろうと、皮肉ひにくにも解釈かいしゃくしていたのです。けれども財産ざいさんの事ことについて、時間じかんの掛かるかかる話はなしをしようという目的もくてきができた眼めで、この忙しいそがしがる様子ようすを見るみると、それが単にたんに私わたくしを避けるさける口実こうじつとしか受け取れうけとれなくなって来きたのです。私わたくしは容易よういに叔父おじを捕まえるつかまえる機会きかいを得とくませんでした。 私わたくしは叔父おじが市しの方ほうに妾めかけをもっているという噂うわさを聞きききました。私わたくしはその噂うわさを昔むかし中学ちゅうがくの同級生どうきゅうせいであったある友達ともだちから聞いきいたのです。妾めかけを置くおくぐらいの事ことは、この叔父おじとして少しすこしも怪しむあやしむに足らあしらないのですが、父ちちの生きいきているうちに、そんな評判ひょうばんを耳みみに入れいれた覚えおぼえのない私わたくしは驚きおどろきました。友達ともだちはその外そとにも色々いろいろ叔父おじについての噂うわさを語っごって聞かきかせました。一時いちじ事業じぎょうで失敗しっぱいしかかっていたように他ほかから思わおもわれていたのに、この二に、三さん年ねん来きまた急きゅうに盛り返しもりかえして来きたというのも、その一いちつでした。しかも私わたくしの疑惑ぎわくを強くつよく染めそめつけたものの一いちつでした。 私わたくしはとうとう叔父おじと談判だんぱんを開きひらきました。談判だんぱんというのは少しすこし不穏当ふおんとうかも知れしれませんが、話はなしの成行きなりゆきからいうと、そんな言葉ことばで形容けいようするより外そとに途とのないところへ、自然しぜんの調子ちょうしが落ちおちて来きたのです。叔父おじはどこまでも私わたくしを子供こども扱いあつかいにしようとします。私わたくしはまた始めはじめから猜疑さいぎの眼めで叔父おじに対したいしています。穏やかおだやかに解決かいけつのつくはずはなかったのです。 遺憾いかんながら私わたくしは今いまその談判だんぱんの顛末てんまつを詳しくくわしくここに書くかく事ことのできないほど先さきを急いいそいでいます。実じつをいうと、私わたくしはこれより以上いじょうに、もっと大事だいじなものを控えひかえているのです。私わたくしのペンぺんは早くはやくからそこへ辿りつきたどりつきたがっているのを、漸とやっとの事ことで抑えつけおさえつけているくらいです。あなたに会っかいって静かしずかに話すはなす機会きかいを永久えいきゅうに失っうしなった私わたくしは、筆ふでを執るとる術じゅつに慣れなれないばかりでなく、貴いとうとい時間じかんを惜むおしむという意味いみからして、書きかきたい事ことも省かしょうかなければなりません。 あなたはまだ覚えおぼえているでしょう、私わたくしがいつかあなたに、造り付けつくりつけの悪人あくにんが世の中よのなかにいるものではないといった事ことを。多くおおくの善人ぜんにんがいざという場合ばあいに突然とつぜん悪人あくにんになるのだから油断ゆだんしてはいけないといった事ことを。あの時じあなたは私わたくしに昂奮こうふんしていると注意ちゅういしてくれました。そうしてどんな場合ばあいに、善人ぜんにんが悪人あくにんに変化へんかするのかと尋ねたずねました。私わたくしがただ一口ひとくち金きんと答えこたえた時じ、あなたは不満ふまんな顔かおをしました。私わたくしはあなたの不満ふまんな顔かおをよく記憶きおくしています。私わたくしは今いまあなたの前まえに打ち明けるうちあけるが、私わたくしはあの時じこの叔父おじの事ことを考えかんがえていたのです。普通ふつうのものが金きんを見みて急きゅうに悪人あくにんになる例れいとして、世の中よのなかに信用しんようするに足るたるものが存在そんざいし得とくない例れいとして、憎悪ぞうおと共ともに私わたくしはこの叔父おじを考えかんがえていたのです。私わたくしの答えこたえは、思想しそう界さかいの奥おくへ突き進んつきすすんで行こういこうとするあなたに取っとって物もの足りたりなかったかも知れしれません、陳腐ちんぷだったかも知れしれません。けれども私わたくしにはあれが生きいきた答えこたえでした。現にげんに私わたくしは昂奮こうふんしていたではありませんか。私わたくしは冷やかひややかな頭あたまで新しいあたらしい事ことを口くちにするよりも、熱しねっした舌したで平凡へいぼんな説せつを述べるのべる方ほうが生きいきていると信じしんじています。血ちの力ちからで体からだが動くうごくからです。言葉ことばが空気くうきに波動はどうを伝えるつたえるばかりでなく、もっと強いつよい物ものにもっと強くつよく働き掛けるはたらきかける事ことができるからです。
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