こころ

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四

第 24 章
「とにかくたった一人ひとり取り残さとりのこされた私わたくしは、母ははのいい付けつけ通りとおり、この叔父おじを頼るたよるより外そとに途とはなかったのです。叔父おじはまた一切いっさいを引き受けひきうけて凡てすべての世話せわをしてくれました。そうして私わたくしを私わたくしの希望きぼうする東京とうきょうへ出でられるように取り計らっとりはからってくれました。 私わたくしは東京とうきょうへ来きて高等学校こうとうがっこうへはいりました。その時じの高等学校こうとうがっこうの生徒せいとは今いまよりもよほど殺伐さつばつで粗野そやでした。私わたくしの知っしったものに、夜中よなか職人しょくにんと喧嘩けんかをして、相手あいての頭あたまへ下駄げたで傷きずを負わおわせたのがありました。それが酒さけを飲んのんだ揚句あげくの事ことなので、夢中むちゅうに擲りなぐり合いあいをしている間まに、学校がっこうの制帽せいぼうをとうとう向うむこうのものに取らとられてしまったのです。ところがその帽子ぼうしの裏うらには当人とうにんの名前なまえがちゃんと、菱形ひしがたの白しろいきれの上うえに書いかいてあったのです。それで事ことが面倒めんどうになって、その男おとこはもう少しすこしで警察けいさつから学校がっこうへ照会しょうかいされるところでした。しかし友達ともだちが色々いろいろと骨ほねを折っおって、ついに表沙汰ひょうさたにせずに済むすむようにしてやりました。こんな乱暴らんぼうな行為こういを、上品じょうぼんな今いまの空気くうきのなかに育っそだったあなた方ほうに聞かきかせたら、定めてさだめて馬鹿馬鹿しいばかばかしい感じかんじを起すおこすでしょう。私わたくしも実際じっさい馬鹿馬鹿しくばかばかしく思いおもいます。しかし彼かれらは今いまの学生がくせいにない一いち種しゅ質朴しつぼくな点てんをその代りかわりにもっていたのです。当時とうじ私わたくしの月々つきづき叔父おじから貰っもらっていた金きんは、あなたが今いま、お父さんおちちさんから送っおくってもらう学資がくしに比べるくらべると遥かはるかに少ないすくないものでした。(無論むろん物価ぶっかも違いちがいましょうが)。それでいて私わたくしは少しすこしの不足ふそくも感じかんじませんでした。のみならず数すうある同級生どうきゅうせいのうちで、経済けいざいの点てんにかけては、決してけっして人ひとを羨ましうらやましがる憐れあわれな境遇きょうぐうにいた訳わけではないのです。今いまから回顧かいこすると、むしろ人ひとに羨ましうらやましがられる方ほうだったのでしょう。というのは、私わたくしは月々つきづき極っきょくった送金そうきんの外そとに、書籍しょせき費ひ、(私わたくしはその時分じぶんから書物しょもつを買うかう事ことが好きすきでした)、および臨時りんじの費用ひようを、よく叔父おじから請求せいきゅうして、ずんずんそれを自分じぶんの思うおもうように消費しょうひする事ことができたのですから。 何なんも知らしらない私わたくしは、叔父おじを信じしんじていたばかりでなく、常つねに感謝かんしゃの心こころをもって、叔父おじをありがたいもののように尊敬そんけいしていました。叔父おじは事業家じぎょうかでした。県会議員けんかいぎいんにもなりました。その関係かんけいからでもありましょう、政党せいとうにも縁故えんこがあったように記憶きおくしています。父ちちの実じつの弟おとうとですけれども、そういう点てんで、性格せいかくからいうと父ちちとはまるで違っちがった方ほうへ向いむかいて発達はったつしたようにも見えみえます。父ちちは先祖せんぞから譲らゆずられた遺産いさんを大事だいじに守っまもって行くいく篤実とくじつ一方いっぽうの男おとこでした。楽しみたのしみには、茶ちゃだの花はなだのをやりました。それから詩集ししゅうなどを読むよむ事ことも好きすきでした。書画しょが骨董こっとうといった風かぜのものにも、多くおおくの趣味しゅみをもっている様子ようすでした。家いえは田舎いなかにありましたけれども、二に里さとばかり隔たっへだたった市し、――その市しには叔父おじが住んすんでいたのです、――その市しから時々ときどき道具屋どうぐやが懸物かけものだの、香炉こうろだのを持っもって、わざわざ父ちちに見せみせに来きました。父ちちは一口ひとくちにいうと、まあマンまん・オフおふ・ミーンズみーんずとでも評しひょうしたら好いよいのでしょう。比較的ひかくてき上品じょうぼんな嗜好しこうをもった田舎いなか紳士しんしだったのです。だから気性きしょうからいうと、闊達かったつな叔父おじとはよほどの懸隔けんかくがありました。それでいて二人ふたりはまた妙みょうに仲なかが好かっよかったのです。父ちちはよく叔父おじを評しひょうして、自分じぶんよりも遥かはるかに働きはたらきのある頼もしいたのもしい人ひとのようにいっていました。自分じぶんのように、親おやから財産ざいさんを譲らゆずられたものは、どうしても固有こゆうの材幹ざいかんが鈍るにぶる、つまり世の中よのなかと闘うたたかう必要ひつようがないからいけないのだともいっていました。この言葉ことばは母ははも聞きききました。私わたくしも聞きききました。父ちちはむしろ私わたくしの心得こころえになるつもりで、それをいったらしく思わおもわれます。「お前おまえもよく覚えおぼえているが好いよい」と父ちちはその時じわざわざ私わたくしの顔かおを見みたのです。
だから私わたくしはまだそれを忘れわすれずにいます。
このくらい私わたくしの父ちちから信用しんようされたり、褒めほめられたりしていた叔父おじを、私わたくしがどうして疑ううたがう事ことができるでしょう。
私わたくしにはただでさえ誇りほこりになるべき叔父おじでした。
父ちちや母ははが亡くなっなくなって、万事ばんじその人ひとの世話せわにならなければならない私わたくしには、もう単なるたんなる誇りほこりではなかったのです。
私わたくしの存在そんざいに必要ひつような人間にんげんになっていたのです。
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