行人

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二

第 12 章
母ははの宿やどはさほど大きくおおきくはなかったけれども、自分じぶんの泊っとまっている所ところよりはよほど上品じょうぼんな構かまえであった。
室むろには扇風せんぷう器うつわだの、唐とう机つくえだの、特別とくべつにその唐とう机つくえの傍そばに備えつけそなえつけた電灯でんとうなどがあった。
兄あにはすぐそこにある電報でんぽう紙かみへ大阪おおさか着きの旨むねを書いかいて下女げじょに渡しわたしていた。
岡田おかだはいつの間まにか用意よういして来きた三四さんよん枚ばいの絵え端書はしがきを袂たもとの中なかから出しだして、これは叔父おじさん、これはお重おしげさん、これはお貞おさださんと一々いちいち名宛なあてを書いかいて、「さあ一口ひとくちずつ皆みななどうぞ」と方々かたがたへ配っくばっていた。
自分じぶんはお貞おさださんの絵え端書はしがきへ「おめでとう」と書いかいた。
すると母ははがその後そのあとへ「病気びょうきを大事だいじになさい」と書いかいたので吃驚びっくりした。
「お貞おさださんは病気びょうきなんですか」「実じつはあの事ことがあるので、ちょうど好いよい折おりだから、今度こんど伴れつれて来ようこようと思っおもって仕度したくまでさせたところが、あいにくお腹おなかが悪くわるくなってね。残念ざんねんな事ことをしましたよ」「でも大したたいした事ことじゃないのよ。もうお粥かゆがそろそろ食べたべられるんだから」と嫂ねーが傍そばから説明せつめいした。
その嫂ねーは父ちちに出すだす絵え端書はしがきを持っもったまま何なんか考えかんがえていた。
「叔父おじさんは風流ふうりゅう人ひとだから歌うたが好いよいでしょう」と岡田おかだに勧めすすめられて、「歌うたなんぞできるもんですか」と断っことわった。
岡田おかだはまたお重じゅうへ宛てあてたのに、「あなたの口くちの悪いわるいところを聞けきけないのが残念ざんねんだ」と細かくこまかく謹んつつしんで書いかいたので、兄あにから「将棋しょうぎの駒こまがまだ祟ったたってると見えるみえるね」と笑わわらわれていた。
絵え端書はしがきが済んすんで、しばらく世間せけん話はなしをした後あとで、岡田おかだとお兼けんさんはまた来るくると云っいって、母ははや兄あにが止めるとめるのも聞かきかずに帰っかえって行っいった。
「お兼けんさんは本当ほんとうに奥さんおくさんらしくなったね」「宅たくへ仕立物したてものを持っもって来きた時分じぶんを考えるかんがえると、まるで見違えるみちがえるようだよ」 母ははが兄あにとお兼けんさんを評しひょうし合っあった言葉ことばの裏うらには、己れおのれがそれだけ年ねんを取っとったという淡いあわい哀愁あいしゅうを含んふくんでいた。
「お貞おさださんだって、もう直じかですよお母さんおははさん」と自分じぶんは横合よこあいから口くちを出しだした。
「本当ほんとうにね」と母ははは答えこたえた。
母ははは腹はらの中なかで、まだ片づくかたづく当とうのないお重おしげの事ことでも考えかんがえているらしかった。
兄あには自分じぶんを顧みかえりみて、「三沢みさわが病気びょうきだったので、どこへも行かいかなかったそうだね」と聞いきいた。
自分じぶんは「ええ。とんだところへ引っかかっひっかかってどこへも行かいかずじまいでした」と答えこたえた。
自分じぶんと兄あにとは常つねにこのくらい懸隔けんかくのある言葉ことばで応対おうたいするのが例れいになっていた。
これは年ねんが少しすこし違うちがうのと、父ちちが昔むかし堅気かたぎで、長男ちょうなんに最上さいじょうの権力けんりょくを塗りつけるぬりつけるようにして育て上げそだてあげた結果けっかである。
母ははもたまには自分じぶんをさんづけにして二郎じろうさんと呼んよんでくれる事こともあるが、これは単にたんに兄あにの一郎いちろうさんのお余りあまりに過ぎすぎないと自分じぶんは信じしんじていた。
みんなは話はなしに気きを取らとられて浴衣ゆかたを着換えるきかえるのを忘れわすれていた。
兄あには立ったって、糊のりの強いつよいのを肩かたへ掛けかけながら、「どうだい」と自分じぶんを促がしうながした。
嫂ねーは浴衣ゆかたを自分じぶんに渡しわたして、「全体ぜんたいあなたのお部屋へやはどこにあるの」と聞いきいた。
手摺てすりの所ところへ出でて、鼻はなの先さきにある高いたかい塗塀ぬりへいを欝陶しうっとうしそうに眺めながめていた母ははは、「いい室むろだが少しすこし陰気いんきだね。二郎じろうお前おまえのお室むろもこんなかい」と聞いきいた。
自分じぶんは母ははのいる傍そばへ行っいって、下したを見みた。
下したには張物はりもの板いたのような細長いほそながい庭にわに、細いほそい竹たけが疎まばらに生えはえて錆びさびた鉄てつ灯籠とうろうが石いしの上うえに置いおいてあった。
その石いしも竹たけも打水うちみずで皆みなしっとり濡れぬれていた。
「狭いせまいが凝っこってますね。その代りかわり僕ぼくの所ところのように河かわがありませんよ、お母さんおははさん」「おやどこに河かわがあるの」と母ははがいう後あとから、兄あにも嫂ねーもその河かわの見えるみえる座敷ざしきと取換えとりかえて貰おうもらおうと云いいい出しだした。
自分じぶんは自分じぶんの宿やどのある方角ほうがくやら地理ちりやらを説明せつめいして聞かしきかした。
そうしてひとまず帰っかえって荷物にもつを纏めまとめた上うえまたここへ来るくる約束やくそくをして宿やどを出でた。
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