三
第 23 章
繰返していうが、我々はこうして東京へ帰ったのである。
東京の宅は平生の通り別にこれと云って変った様子もなかった。
お貞さんは襷を掛けて別条なく働いていた。
彼女が手拭を被って洗濯をしている後姿を見て、一段落置いた昔のお貞さんを思いだしたのは、帰って二日目の朝であった。
芳江というのは兄夫婦の間にできた一人っ子であった。
留守のうちはお重が引受けて万事世話をしていた。
芳江は元来母や嫂に馴ついていたが、いざとなると、お重だけでも不自由を感じないほど世話の焼けない子であった。
自分はそれを嫂の気性を受けて生れたためか、そうでなければお重の愛嬌のあるためだと解釈していた。
「お重お前のようなものがよくあの芳江を預かる事ができるね。さすがにやっぱり女だなあ」と父が云ったら、お重は膨れた顔をして、「御父さんもずいぶんな方ね」と母にわざわざ訴えに来た話を、汽車の中で聞いた。
自分は帰ってから一両日して、彼女に、「お重お前を御父さんがやっぱり女だなとおっしゃったって怒ってるそうだね」と聞いた。
彼女は「怒ったわ」と答えたなり、父の書斎の花瓶の水を易えながら、乾いた布巾で水を切っていた。
「まだ怒ってるのかい」「まだってもう忘れちまったわ。――綺麗ねこの花は何というんでしょう」「お重しかし、女だなあというのは、そりゃ賞めた言葉だよ。女らしい親切な子だというんだ。怒る奴があるもんか」「どうでもよくってよ」 お重は帯で隠した尻の辺を左右に振って、両手で花瓶を持ちながら父の居間の方へ行った。
それが自分にはあたかも彼女が尻で怒を見せているようでおかしかった。
芳江は我々が帰るや否や、すぐお重の手から母と嫂に引渡された。
二人は彼女を奪い合うように抱いたり下したりした。
自分の平生から不思議に思っていたのは、この外見上冷静な嫂に、頑是ない芳江がよくあれほどに馴つきえたものだという眼前の事実であった。
この眸の黒い髪のたくさんある、そうして母の血を受けて人並よりも蒼白い頬をした少女は、馴れやすからざる彼女の母の後を、奇蹟のごとく追って歩いた。
それを嫂は日本一の誇として、宅中の誰彼に見せびらかした。
ことに己の夫に対しては見せびらかすという意味を通り越して、むしろ残酷な敵打をする風にも取れた。
兄は思索に遠ざかる事のできない読書家として、たいていは書斎裡の人であったので、いくら腹のうちでこの少女を鍾愛しても、鍾愛の報酬たる親しみの程度ははなはだ稀薄なものであった。
感情的な兄がそれを物足らず思うのも無理はなかった。
食卓の上などでそれが色に出る時さえ兄の性質としてはたまにはあった。
そうなるとほかのものよりお重が承知しなかった。
「芳江さんは御母さん子ね。なぜ御父さんの側に行かないの」などと故意とらしく聞いた。
「だって……」と芳江は云った。
「だってどうしたの」とお重がまた聞いた。
「だって怖いから」と芳江はわざと小さな声で答えた。
それがお重にはなおさら忌々しく聞こえるのであった。
「なに? 怖いって? 誰が怖いの?」 こんな問答がよく繰り返えされて、時には五分も十分も続いた。
嫂はこう云う場合に、けっして眉目を動さなかった。
いつでも蒼い頬に微笑を見せながらどこまでも尋常な応対をした。
しまいには父や母が双方を宥めるために、兄から果物を貰わしたり、菓子を受け取らしたりさせて、「さあそれで好い。御父さんから旨いものをちょうだいして」とやっと御茶を濁す事もあった。
お重はそれでも腹が癒えなそうに膨れた頬をみんなに見せた。
兄は黙って独り書斎へ退くのが常であった。