行人

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五

第 5 章
その晩ばんはとうとう岡田おかだの家いえへ泊っとまった。
六ろく畳たたみの二に階かいで一人ひとり寝かさねかされた自分じぶんは、蚊帳かやの中なかの暑苦しあつくるしさに堪えこらえかねて、なるべく夫婦ふうふに知れしれないように、そっと雨戸あまどを開け放っあけはなった。
窓際まどぎわを枕まくらに寝ねていたので、空そらは蚊帳かや越こしにも見えみえた。
試みに赤いあかい裾すそから、頭あたまだけ出しだして眺めるながめると星ほしがきらきらと光っひかりった。
自分じぶんはこんな事ことをする間まにも、下したにいる岡田おかだ夫婦ふうふの今昔こんじゃくは忘れわすれなかった。
結婚けっこんしてからああ親しくしたしくできたらさぞ幸福こうふくだろうと羨ましいうらやましい気きもした。
三沢みさわから何なんの音信おんしんのないのも気がかりきがかりであった。
しかしこうして幸福こうふくな家庭かていの客きゃくとなって、彼かれの消息しょうそくを待つまつために四五しご日ひぐずぐずしているのも悪くわるくはないと考えかんがえた。
一番いちばんどうでも好かっよかったのは岡田おかだのいわゆる「例れいの一いち件けん」であった。
翌日よくじつ眼めが覚めるさめると、窓まどの下したの狭苦しいせまくるしい庭にわで、岡田おかだの声こえがした。
「おいお兼けんとうとう絞りしぼりのが咲きさき出しだしたぜ。ちょいと来きて御覧ごらん」 自分じぶんは時計とけいを見みて、腹這はらばいになった。
そうして燐寸まっちを擦っすって敷島しきしまへ火ひを点けつけながら、暗にあんにお兼けんさんの返事へんじを待ち構えまちかまえた。
けれどもお兼けんさんの声こえはまるで聞えきこえなかった。
岡田おかだは「おい」「おいお兼けん」をまた二三にさん度ど繰返しくりかえした。
やがて、「せわしない方ほうね、あなたは。今朝けさ顔かおどころじゃないわ、台所だいどころが忙しくいそがしくって」という言葉ことばが手てに取るとるように聞こえきこえた。
お兼けんさんは勝手かってから出でて来きて座敷ざしきの縁側えんがわに立ったっているらしい。
「それでも綺麗きれいね。咲いさいて見るみると。――金魚きんぎょはどうして」「金魚きんぎょは泳いえいいでいるがね。どうもこのほうはむずかしいらしい」 自分じぶんはお兼けんさんが、死にかかっしにかかった金魚きんぎょの運命うんめいについて、何なんかセンチメンタルせんちめんたるな事ことでもいうかと思っおもって、煙草たばこを吹かしふかしながら聴いきいていた。
けれどもいくら待っまっていても、お兼けんさんは何なんとも云わいわなかった。
岡田おかだの声こえも聞こえきこえなかった。
自分じぶんは煙草たばこを捨てすてて立ち上ったちのぼった。
そうしてかなり急きゅうな階子段はしごだんを一いち段だんずつ音おとを立てたてて下したへ降りふりて行っいった。
三さん人ひとで飯めしを済ましすました後あと、岡田おかだは会社かいしゃへ出勤しゅっきんしなければならないので、緩りゆるり案内あんないをする時間じかんがないのを残念ざんねんがった。
自分じぶんはここへ来るくる前まえから、そんな事ことを全くまったく予期よきしていなかったと云っいって、白いしろい詰襟つめえり姿すがたの彼かれを坐っすわったまま眺めながめていた。
「お兼けん、お前おまえ暇ひまがあるなら二郎じろうさんを案内あんないして上げるあげるが好いよい」と岡田おかだは急きゅうに思いついおもいついたような顔つきかおつきで云っいった。
お兼けんさんはいつもの様子ようすに似にず、この時じだけは夫おっとにも自分じぶんにも何なんとも答えこたえなかった。
自分じぶんはすぐ、「なに構わかまわない。君きみといっしょに君きみの会社かいしゃのある方角ほうがくまで行っいって、そこいらを逍遥しょうよういて見ようみよう」と云いいいながら立ったった。
お兼けんさんは玄関げんかんで自分じぶんの洋傘ようがさを取っとって、自分じぶんに手渡してわたししてくれた。
それからただ一口ひとくち「お早くはやく」と云っいった。
自分じぶんは二に度ど電車でんしゃに乗せのせられて、二に度ど下ろさおろされた。
そうして岡田おかだの通っとおっている石造せきぞうの会社かいしゃの周囲しゅういを好いよい加減かげんに歩きあるき廻っまわった。
同じおなじ流れながれか、違うちがう流れながれか、水みずの面めんが二三にさん度目どめに入っはいった。
そのうち暑さあつさに堪えこらえられなくなって、また好いよい加減かげんに岡田おかだの家いえへ帰っかえって来きた。
二に階かいへ上っのぼって、――自分じぶんは昨夜さくやからこの六ろく畳たたみの二に階かいを、自分じぶんの室むろと心得るこころえるようになった。
――休息きゅうそくしていると、下したから階子段はしごだんを踏むふむ音おとがして、お兼けんさんが上っのぼって来きた。
自分じぶんは驚いおどろいて脱いぬいだ肌はだを入れいれた。
昨日きのう廂ひさしに束ねたばねてあったお兼けんさんの髪かみは、いつの間まにか大きなおおきな丸髷まるまげに変っかわっていた。
そうして桃色ももいろの手絡てがらが髷まげの間まから覗いのぞいていた。
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