五
第 35 章
その晩は静かな雨が夜通し降った。
枕を叩くような雨滴の音の中に、自分はいつまでも嫂の幻影を描いた。
濃い眉とそれから濃い眸子、それが眼に浮ぶと、蒼白い額や頬は、磁石に吸いつけられる鉄片の速度で、すぐその周囲に反映した。
彼女の幻影は何遍も打ち崩された。
打ち崩されるたびに復同じ順序がすぐ繰返された。
自分はついに彼女の唇の色まで鮮かに見た。
その唇の両端にあたる筋肉が声に出ない言葉の符号のごとく微かに顫動するのを見た。
それから、肉眼の注意を逃れようとする微細の渦が、靨に寄ろうか崩れようかと迷う姿で、間断なく波を打つ彼女の頬をありありと見た。
自分はそれくらい活きた彼女をそれくらい劇しく想像した。
そうして雨滴の音のぽたりぽたりと響く中に、取り留めもないいろいろな事を考えて、火照った頭を悩まし始めた。
彼女と兄との関係が悪く変る以上、自分の身体がどこにどう飛んで行こうとも、自分の心はけっして安穏であり得なかった。
自分はこの点について彼女にもっと具体的な説明を求めたけれども、普通の女のように零砕な事実を訴えの材料にしない彼女は、ほとんど自分の要求を無視したように取り合わなかった。
自分は結果からいうと、焦慮されるために彼女の訪問を受けたと同じ事であった。
彼女の言葉はすべて影のように暗かった。
それでいて、稲妻のように簡潔な閃を自分の胸に投げ込んだ。
自分はこの影と稲妻とを綴り合せて、もしや兄がこの間中癇癖の嵩じたあげく、嫂に対して今までにない手荒な事でもしたのではなかろうかと考えた。
打擲という字は折檻とか虐待とかいう字と並べて見ると、忌わしい残酷な響を持っている。
嫂は今の女だから兄の行為を全くこの意味に解しているかも知れない。
自分が彼女に兄の健康状態を聞いた時、彼女は人間だからいつどんな病気に罹るかも知れないと冷かに云って退けた。
自分が兄の精神作用に掛念があってこの問を出したのは彼女にも通じているはずである。
したがって平生よりもなお冷淡な彼女の答は、美しい己れの肉に加えられた鞭の音を、夫の未来に反響させる復讐の声とも取れた。
――自分は怖かった。
自分は明日にも番町へ行って、母からでもそっと彼ら二人の近況を聞かなければならないと思った。
けれども嫂はすでに明言した。
彼ら夫婦関係の変化については何人もまだ知らない、また何人にも告げた事がないと明言した。
影のような稲妻のような言葉のうちからその消息をぼんやりと焼きつけられたのは、天下に自分の胸がたった一つあるばかりであった。
なぜあれほど言葉の寡ない嫂が自分にだけそれを話し出したのだろうか。
彼女は平生から落ちついている。
今夜も平生の通り落ちついていた。
彼女は昂奮の極訴える所がないので、わざわざ自分を訪うたものとは思えなかった。
だいち訴えという言葉からしてが彼女の態度には不似合であった。
結果から云えば、自分は先刻云った通りむしろ彼女から焦慮されたのであるから。
彼女は火鉢にあたる自分の顔を見て、「なぜそう堅苦しくしていらっしゃるの」と聞いた。
自分が「別段堅苦しくはしていません」と答えた時、彼女は「だって反っ繰り返ってるじゃありませんか」と笑った。
その時の彼女の態度は、細い人指ゆびで火鉢の向側から自分の頬ぺたでも突っつきそうに狎れ狎れしかった。
彼女はまた自分の名を呼んで、「吃驚したでしょう」と云った。
突然雨の降る寒い晩に来て、自分を驚かしてやったのが、さも愉快な悪戯ででもあるかのごとくに云った。
…… 自分の想像と記憶は、ぽたりぽたりと垂れる雨滴の拍子のうちに、それからそれからととめどもなく深更まで廻転した。