行人

35/40

五

第 35 章
その晩ばんは静かしずかな雨あめが夜通しよどおし降っふった。
枕まくらを叩くたたくような雨滴うてきの音おとの中なかに、自分じぶんはいつまでも嫂ねーの幻影げんえいを描いえがいた。
濃いこい眉まゆとそれから濃いこい眸子ぼうし、それが眼めに浮ぶうかぶと、蒼白いあおじろい額がくや頬ほおは、磁石じしゃくに吸いつけすいつけられる鉄片てっぺんの速度そくどで、すぐその周囲しゅういに反映はんえいした。
彼女かのじょの幻影げんえいは何なん遍へんも打ち崩さうちくずされた。
打ち崩さうちくずされるたびに復また同じおなじ順序じゅんじょがすぐ繰返さくりかえされた。
自分じぶんはついに彼女かのじょの唇くちびるの色いろまで鮮かあざやかに見みた。
その唇くちびるの両端りょうたんにあたる筋肉きんにくが声こえに出でない言葉ことばの符号ふごうのごとく微かかすかに顫動せんどうするのを見みた。
それから、肉眼にくがんの注意ちゅういを逃れようのがれようとする微細びさいの渦うずが、靨えくぼに寄ろうよろうか崩れようくずれようかと迷うまよう姿すがたで、間断かんだんなく波なみを打つうつ彼女かのじょの頬ほおをありありと見みた。
自分じぶんはそれくらい活きつきた彼女かのじょをそれくらい劇しくはげしく想像そうぞうした。
そうして雨滴うてきの音おとのぽたりぽたりと響くひびく中なかに、取り留めとりとめもないいろいろな事ことを考えかんがえて、火照っほでりのった頭あたまを悩ましなやまし始めはじめた。
彼女かのじょと兄あにとの関係かんけいが悪くわるく変るかわる以上いじょう、自分じぶんの身体しんたいがどこにどう飛んとんで行こういこうとも、自分じぶんの心こころはけっして安穏あんのんであり得とくなかった。
自分じぶんはこの点てんについて彼女かのじょにもっと具体的ぐたいてきな説明せつめいを求めもとめたけれども、普通ふつうの女おんなのように零砕れいさいな事実じじつを訴えうったえの材料ざいりょうにしない彼女かのじょは、ほとんど自分じぶんの要求ようきゅうを無視むししたように取り合わとりあわなかった。
自分じぶんは結果けっかからいうと、焦慮しょうりょされるために彼女かのじょの訪問ほうもんを受けうけたと同じおなじ事ことであった。
彼女かのじょの言葉ことばはすべて影かげのように暗かっくらかった。
それでいて、稲妻いなずまのように簡潔かんけつな閃せんを自分じぶんの胸むねに投げ込んなげこんだ。
自分じぶんはこの影かげと稲妻いなずまとを綴り合せつづりあわせて、もしや兄あにがこの間中まなか癇癖かんぺきの嵩じこうじたあげく、嫂ねーに対したいして今までいままでにない手荒てあらな事ことでもしたのではなかろうかと考えかんがえた。
打擲ちょうちゃくという字じは折檻せっかんとか虐待ぎゃくたいとかいう字じと並べならべて見るみると、忌わしいいまわしい残酷ざんこくな響ひびきを持っもっている。
嫂ねーは今いまの女おんなだから兄あにの行為こういを全くまったくこの意味いみに解しかいしているかも知れしれない。
自分じぶんが彼女かのじょに兄あにの健康状態けんこうじょうたいを聞いきいた時じ、彼女かのじょは人間にんげんだからいつどんな病気びょうきに罹るかかるかも知れしれないと冷れいかに云っいって退けしりぞけた。
自分じぶんが兄あにの精神せいしん作用さように掛かかり念ねんがあってこの問もんを出しだしたのは彼女かのじょにも通じつうじているはずである。
したがって平生へいぜいよりもなお冷淡れいたんな彼女かのじょの答こたえは、美しいうつくしい己れおのれの肉にくに加えくわえられた鞭むちの音おとを、夫おっとの未来みらいに反響はんきょうさせる復讐ふくしゅうの声こえとも取れとれた。
――自分じぶんは怖かっこわかった。
自分じぶんは明日あすにも番町ばんちょうへ行っいって、母ははからでもそっと彼かれら二人ふたりの近況きんきょうを聞かきかなければならないと思っおもった。
けれども嫂ねーはすでに明言めいげんした。
彼かれら夫婦関係ふうふかんけいの変化へんかについては何人なんにんもまだ知らしらない、また何人なんにんにも告げつげた事ことがないと明言めいげんした。
影かげのような稲妻いなずまのような言葉ことばのうちからその消息しょうそくをぼんやりと焼きつけやきつけられたのは、天下てんかに自分じぶんの胸むねがたった一いちつあるばかりであった。
なぜあれほど言葉ことばの寡やもめない嫂ねーが自分じぶんにだけそれを話しはなし出しだしたのだろうか。
彼女かのじょは平生へいぜいから落ちついおちついている。
今夜こんやも平生へいぜいの通りとおり落ちついおちついていた。
彼女かのじょは昂奮こうふんの極きょく訴えるうったえる所ところがないので、わざわざ自分じぶんを訪うおとなうたものとは思えおもえなかった。
だいち訴えうったえという言葉ことばからしてが彼女かのじょの態度たいどには不ふ似合にあいであった。
結果けっかから云えいえば、自分じぶんは先刻せんこく云っいった通りとおりむしろ彼女かのじょから焦慮しょうりょされたのであるから。
彼女かのじょは火鉢ひばちにあたる自分じぶんの顔かおを見みて、「なぜそう堅苦しくかたくるしくしていらっしゃるの」と聞いきいた。
自分じぶんが「別段べつだん堅苦しくかたくるしくはしていません」と答えこたえた時じ、彼女かのじょは「だって反っ繰り返っそっくりかえってるじゃありませんか」と笑っわらった。
その時じの彼女かのじょの態度たいどは、細いほそい人ひと指ゆびゆびで火鉢ひばちの向側むかいがわから自分じぶんの頬ほおぺたでも突っつきつっつきそうに狎れ狎れしかっなれなれしかった。
彼女かのじょはまた自分じぶんの名なを呼んよんで、「吃驚びっくりしたでしょう」と云っいった。
突然とつぜん雨あめの降るふる寒いさむい晩ばんに来きて、自分じぶんを驚かしおどろかしてやったのが、さも愉快ゆかいな悪戯いたずらででもあるかのごとくに云っいった。
…… 自分じぶんの想像そうぞうと記憶きおくは、ぽたりぽたりと垂れるたれる雨滴うてきの拍子ひょうしのうちに、それからそれからととめどもなく深更しんこうまで廻転かいてんした。
35/40