一
第 21 章
自分は兄夫婦の仲がどうなる事かと思って和歌山から帰って来た。
自分の予想ははたして外れなかった。
自分は自然の暴風雨に次で、兄の頭に一種の旋風が起る徴候を十分認めて彼の前を引き下った。
けれどもその徴候は嫂が行って十分か十五分話しているうちに、ほとんど警戒を要しないほど穏かになった。
自分は心のうちでこの変化に驚いた。
針鼠のように尖ってるあの兄を、わずかの間に丸め込んだ嫂の手腕にはなおさら敬服した。
自分はようやく安心したような顔を、晴々と輝かせた母を見るだけでも満足であった。
兄の機嫌は和歌の浦を立つ時も変らなかった。
汽車の内でも同じ事であった。
大阪へ来てもなお続いていた。
彼は見送りに出た岡田夫婦を捕まえて戯談さえ云った。
「岡田君お重に何か言伝はないかね」 岡田は要領を得ない顔をして、「お重さんにだけですか」と聞き返していた。
「そうさ君の仇敵のお重にさ」 兄がこう答えた時、岡田はやっと気のついたという風に笑い出した。
同じ意味で謎の解けたお兼さんも笑い出した。
母の予言通り見送りに来ていた佐野も、ようやく笑う機会が来たように、憚りなく口を開いて周囲の人を驚かした。
自分はその時まで嫂にどうして兄の機嫌を直したかを聞いて見なかった。
その後もついぞ聞く機会をもたなかった。
けれどもこういう霊妙な手腕をもっている彼女であればこそ、あの兄に対して始終ああ高を括っていられるのだと思った。
そうしてその手腕を彼女はわざと出したり引込ましたりする、単に時と場合ばかりでなく、全く己れの気まま次第で出したり引込ましたりするのではあるまいかと疑ぐった。
汽車は例のごとく込み合っていた。
自分達は仕切りの付いている寝台をやっとの思いで四つ買った。
四つで一室になっているので都合は大変好かった。
兄と自分は体力の優秀な男子と云う訳で、婦人方二人に、下のベッドを当がって、上へ寝た。
自分の下には嫂が横になっていた。
自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。
彼女の事を考えると愉快であった。
同時に不愉快であった。
何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした。
兄は谷一つ隔てて向うに寝ていた。
これは身体が寝ているよりも本当に精神が寝ているように思われた。
そうしてその寝ている精神を、ぐにゃぐにゃした例の青大将が筋違に頭から足の先まで巻き詰めているごとく感じた。
自分の想像にはその青大将が時々熱くなったり冷たくなったりした。
それからその巻きようが緩くなったり、緊くなったりした。
兄の顔色は青大将の熱度の変ずるたびに、それからその絡みつく強さの変ずるたびに、変った。
自分は自分の寝台の上で、半は想像のごとく半は夢のごとくにこの青大将と嫂とを連想してやまなかった。
自分はこの詩に似たような眠が、駅夫の呼ぶ名古屋名古屋と云う声で、急に破られたのを今でも記憶している。
その時汽車の音がはたりと留ると同時に、さあという雨の音が聞こえた。
自分は靴足袋の裏に湿気を感じて起き上ると、足の方に当る窓が塵除の紗で張ってあった。
自分はいそいで窓を閉て換えた。
ほかの人のはどうかと思って、聞いて見たが、答がなかった。
ただ嫂だけが雨が降り込むようだというので、やむをえず上から飛び下りてまた窓を閉て換えてやった。