十
第 20 章
翌日朝の汽車で立った自分達は狭い列車のなかの食堂で昼飯を食った。
「給仕がみんな女だから面白い。しかもなかなか別嬪がいますぜ、白いエプロンを掛けてね。是非中で昼飯をやって御覧なさい」と岡田が自分に注意したから、自分は皿を運んだりサイダーを注いだりする女をよく心づけて見た。
しかし別にこれというほどの器量をもったものもいなかった。
母と嫂は物珍らしそうに窓の外を眺めて、田舎めいた景色を賞し合った。
実際窓外の眺めは大阪を今離れたばかりの自分達には一つの変化であった。
ことに汽車が海岸近くを走るときは、松の緑と海の藍とで、煙に疲れた眼に爽かな青色を射返した。
木蔭から出たり隠れたりする屋根瓦の積み方も東京地方のものには珍らしかった。
「あれは妙だね。御寺かと思うと、そうでもないし。二郎、やっぱり百姓家なのかね」と母がわざわざ指をさして、比較的大きな屋根を自分に示した。
自分は汽車の中で兄と隣り合せに坐った。
兄は何か考え込んでいた。
自分は心の内でまた例のが始まったのじゃないかと思った。
少し話でもして機嫌を直そうか、それとも黙って知らん顔をしていようかと躊躇した。
兄は何か癪に障った時でも、むずかしい高尚な問題を考えている時でも同じくこんな様子をするから、自分にはいっこう見分がつかなかった。
自分はしまいにとうとう思い切ってこっちから何か話を切り出そうとした。
と云うのは、向側に腰をかけている母が、嫂と応対の相間相間に、兄の顔を偸むように一二度見たからである。
「兄さん、面白い話がありますがね」と自分は兄の方を見た。
「何だ」と兄が云った。
兄の調子は自分の予期した通り無愛想であった。
しかしそれは覚悟の前であった。
「ついこの間三沢から聞いたばかりの話ですがね。……」 自分は例の精神病の娘さんがいったん嫁いだあと不縁になって、三沢の宅へ引き取られた時、三沢の出る後を慕って、早く帰って来てちょうだいと、いつでも云い習わした話をしようと思ってちょっとそこで句を切った。
すると兄は急に気乗りのしたような顔をして、「その話ならおれも聞いて知っている。三沢がその女の死んだとき、冷たい額へ接吻したという話だろう」と云った。
自分は喫驚した。
「そんな事があるんですか。三沢は接吻の事については一口も云いませんでしたがね。皆ないる前でですか、三沢が接吻したって云うのは」「それは知らない。皆の前でやったのか。またはほかに人のいない時にやったのか」「だって三沢がたった一人でその娘さんの死骸の傍にいるはずがないと思いますがね。もし誰もそばにいない時接吻したとすると」「だから知らんと断ってるじゃないか」 自分は黙って考え込んだ。
「いったい兄さんはどうして、そんな話を知ってるんです」「Hから聞いた」 Hとは兄の同僚で、三沢を教えた男であった。
そのHは三沢の保証人だったから、少しは関係の深い間柄なんだろうけれども、どうしてこんな際どい話を聞き込んで、兄に伝えたものだろうか、それは彼も知らなかった。
「兄さんはなぜまた今日までその話を為ずに黙っていたんです」と自分は最後に兄に聞いた。
兄は苦い顔をして、「する必要がないからさ」と答えた。
自分は様子によったらもっと肉薄して見ようかと思っているうちに汽車が着いた。
十一
停車場を出るとすぐそこに電車が待っていた。
兄と自分は手提鞄を持ったまま婦人を扶けて急いでそれに乗り込んだ。
電車は自分達四人が一度に這入っただけで、なかなか動き出さなかった。
「閑静な電車ですね」と自分が侮どるように云った。
「これなら妾達の荷物を乗っけてもよさそうだね」と母は停車場の方を顧みた。
ところへ書物を持った書生体の男だの、扇を使う商人風の男だのが二三人前後して車台に上ってばらばらに腰をかけ始めたので、運転手はついに把手を動かし出した。
自分達は何だか市の外廓らしい淋しい土塀つづきの狭い町を曲って、二三度停留所を通り越した後、高い石垣の下にある濠を見た。
濠の中には蓮が一面に青い葉を浮べていた。
その青い葉の中に、点々と咲く紅の花が、落ちつかない自分達の眼をちらちらさせた。
「へえーこれが昔のお城かね」と母は感心していた。
母の叔母というのが、昔し紀州家の奥に勤めていたとか云うので、母は一層感慨の念が深かったのだろう。
自分も子供の時、折々耳にした紀州様、紀州様という封建時代の言葉をふと思い出した。
和歌山市を通り越して少し田舎道を走ると、電車はじき和歌の浦へ着いた。
抜目のない岡田はかねてから注意して土地で一流の宿屋へ室の注文をしたのだが、あいにく避暑の客が込み合って、眺めの好い座敷が塞がっているとかで、自分達は直に俥を命じて浜手の角を曲った。
そうして海を真前に控えた高い三階の上層の一室に入った。
そこは南と西の開いた広い座敷だったが、普請は気の利いた東京の下宿屋ぐらいなもので、品位からいうと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかった。
時々大一座でもあった時に使う二階はぶっ通しの大広間で、伽藍堂のような真中に立って、波を打った安畳を眺めると、何となく殺風景な感が起った。
兄はその大広間に仮の仕切として立ててあった六枚折の屏風を黙って見ていた。
彼はこういうものに対して、父の薫陶から来た一種の鑑賞力をもっていた。
その屏風には妙にべろべろした葉の竹が巧に描かれていた。
兄は突然後を向いて「おい二郎」と云った。
その時兄と自分は下の風呂に行くつもりで二人ながら手拭をさげていた。
そうして自分は彼の二間ばかり後に立って、屏風の竹を眺める彼をまた眺めていた。
自分は兄がこの屏風の画について、何かまた批評を加えるに違いないと思った。
「何です」と答えた。
「先刻汽車の中で話しが出た、あの三沢の事だね。お前はどう思う」 兄の質問は実際自分に取って意外であった。
彼はなぜその話しを今まで自分に聞かせなかったと汽車の中で問われた時、すでに苦い顔をして必要がないからだと答えたばかりであった。
「例の接吻の話ですか」と自分は聞き返した。
「いえ接吻じゃない。その女が三沢の出る後を慕って、早く帰って来てちょうだいと必ず云ったという方の話さ」「僕には両方共面白いが、接吻の方が何だかより多く純粋でかつ美しい気がしますね」 この時自分達は二階の梯子段を半分ほど降りていた。
兄はその中途でぴたりと留った。
「そりゃ詩的に云うのだろう。詩を見る眼で云ったら、両方共等しく面白いだろう。けれどもおれの云うのはそうじゃない。もっと実際問題にしての話だ」
十二
自分には兄の意味がよく解らなかった。
黙って梯子段の下まで降りた。
兄も仕方なしに自分の後に跟いて来た。
風呂場の入口で立ち留った自分は、ふり返って兄に聞いた。
「実際問題と云うと、どういう事になるんですか。ちょっと僕には解らないんですが」 兄は焦急たそうに説明した。
「つまりその女がさ、三沢の想像する通り本当にあの男を思っていたか、または先の夫に対して云いたかった事を、我慢して云わずにいたので、精神病の結果ふらふらと口にし始めたのか、どっちだと思うと云うんだ」 自分もこの問題は始めその話を聞いた時、少し考えて見た。
けれどもどっちがどうだかとうてい分るべきはずの者でないと諦めて、それなり放ってしまった。
それで自分は兄の質問に対してこれというほどの意見も持っていなかった。
「僕には解らんです」「そうか」 兄はこう云いながら、やっぱり風呂に這入ろうともせず、そのまま立っていた。
自分も仕方なしに裸になるのを控えていた。
風呂は思ったより小さくかつ多少古びていた。
自分はまず薄暗い風呂を覗き込んで、また兄に向った。
「兄さんには何か意見が有るんですか」「おれはどうしてもその女が三沢に気があったのだとしか思われんがね」「なぜですか」「なぜでもおれはそう解釈するんだ」 二人はその話の結末をつけずに湯に入った。
湯から上って婦人連と入代った時、室には西日がいっぱい射して、海の上は溶けた鉄のように熱く輝いた。
二人は日を避けて次の室に這入った。
そうしてそこで相対して坐った時、先刻の問題がまた兄の口から話頭に上った。
「おれはどうしてもこう思うんだがね……」「ええ」と自分はただおとなしく聞いていた。
「人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくっても云えない事がたくさんあるだろう」「それはたくさんあります」「けれどもそれが精神病になると――云うとすべての精神病を含めて云うようで、医者から笑われるかも知れないが、――しかし精神病になったら、大変気が楽になるだろうじゃないか」「そう云う種類の患者もあるでしょう」「ところでさ、もしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並の責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遥に誠の籠った純粋のものじゃなかろうか」 自分は兄の解釈にひどく感服してしまった。
「それは面白い」と思わず手を拍った。
すると兄は案外不機嫌な顔をした。
「面白いとか面白くないとか云う浮いた話じゃない。二郎、実際今の解釈が正確だと思うか」と問いつめるように聞いた。
「そうですね」 自分は何となく躊躇しなければならなかった。
「噫々女も気狂にして見なくっちゃ、本体はとうてい解らないのかな」 兄はこう云って苦しい溜息を洩らした。
十三
宿の下にはかなり大きな掘割があった。
それがどうして海へつづいているかちょっと解らなかったが、夕方には漁船が一二艘どこからか漕ぎ寄せて来て、緩やかに楼の前を通り過ぎた。
自分達はその掘割に沿うて一二丁右の方へ歩いた後、また左へ切れて田圃路を横切り始めた。
向うを見ると、田の果がだらだら坂の上りになって、それを上り尽した土手の縁には、松が左右に長く続いていた。
自分達の耳には大きな波の石に砕ける音がどどんどどんと聞えた。
三階から見るとその砕けた波が忽然白い煙となって空に打上げられる様が、明かに見えた。
自分達はついにその土手の上へ出た。
波は土手のもう一つ先にある厚く築き上げられた石垣に当って、みごとに粉微塵となった末、煮え返るような色を起して空を吹くのが常であったが、たまには崩れたなり石垣の上を流れ越えて、ざっと内側へ落ち込んだりする大きいのもあった。
自分達はしばらくその壮観に見惚れていたが、やがて強い浪の響を耳にしながら歩き出した。
その時母と自分は、これが片男波だろうと好い加減な想像を話の種に二人並んで歩いた。
兄夫婦は自分達より少し先へ行った。
二人とも浴衣がけで、兄は細い洋杖を突いていた。
嫂はまた幅の狭い御殿模様か何かの麻の帯を締めていた。
彼らは自分達よりほとんど二十間ばかり先へ出ていた。
そうして二人とも並んで足を運ばして行った。
けれども彼らの間にはかれこれ一間の距離があった。
母はそれを気にするような、また気にしないような眼遣で、時々見た。
その見方がまた余りに神経的なので、母の心はこの二人について何事かを考えながら歩いているとしか思えなかった。
けれども自分は話しの面倒になるのを恐れたから、素知らぬ顔をしてわざと緩々歩いた。
そうしてなるべく呑ん気そうに見せるつもりで母を笑わせるような剽軽な事ばかり饒舌った。
母はいつもの通り「二郎、御前見たいに暮して行けたら、世間に苦はあるまいね」と云ったりした。
しまいに彼女はとうとう堪え切れなくなったと見えて、「二郎あれを御覧」と云い出した。
「何ですか」と自分は聞き返した。
「あれだから本当に困るよ」と母が云った。
その時母の眼は先へ行く二人の後姿をじっと見つめていた。
自分は少くとも彼女の困ると云った意味を表向承認しない訳に行かなかった。
「また何か兄さんの気に障る事でもできたんですか」「そりゃあの人の事だから何とも云えないがね。けれども夫婦となった以上は、お前、いくら旦那が素っ気なくしていたって、こっちは女だもの。直の方から少しは機嫌の直るように仕向けてくれなくっちゃ困るじゃないか。あれを御覧な、あれじゃまるであかの他人が同なじ方角へ歩いて行くのと違やしないやね。なんぼ一郎だって直に傍へ寄ってくれるなと頼みやしまいし」 母は無言のまま離れて歩いている夫婦のうちで、ただ嫂の方にばかり罪を着せたがった。
これには多少自分にも同感なところもあった。
そうしてこの同感は平生から兄夫婦の関係を傍で見ているものの胸にはきっと起る自然のものであった。
「兄さんはまた何か考え込んでいるんですよ。それで姉さんも遠慮してわざと口を利かずにいるんでしょう」 自分は母のためにわざとこんな気休めを云ってごまかそうとした。
十四
「たとい何か考えているにしてもだね。直の方がああ無頓着じゃ片っ方でも口の利きようがないよ。まるでわざわざ離れて歩いているようだもの」 兄に同情の多い母から見ると、嫂の後姿は、いかにも冷淡らしく思われたのだろう。
が自分はそれに対して何とも答えなかった。
ただ歩きながら嫂の性格をもっと一般的に考えるようになった。
自分は母の批評が満更当っていないとも思わなかった。
けれども我肉身の子を可愛がり過ぎるせいで、少し彼女の欠点を苛酷に見ていはしまいかと疑った。
自分の見た彼女はけっして温かい女ではなかった。
けれども相手から熱を与えると、温め得る女であった。
持って生れた天然の愛嬌のない代りには、こっちの手加減でずいぶん愛嬌を搾り出す事のできる女であった。
自分は腹の立つほどの冷淡さを嫁入後の彼女に見出した事が時々あった。
けれども矯めがたい不親切や残酷心はまさかにあるまいと信じていた。
不幸にして兄は今自分が嫂について云ったような気質を多量に具えていた。
したがって同じ型に出来上ったこの夫婦は、己れの要するものを、要する事のできないお互に対して、初手から求め合っていて、いまだにしっくり反が合わずにいるのではあるまいか。
時々兄の機嫌の好い時だけ、嫂も愉快そうに見えるのは、兄の方が熱しやすい性だけに、女に働きかける温か味の功力と見るのが当然だろう。
そうでない時は、母が嫂を冷淡過ぎると評するように、嫂もまた兄を冷淡過ぎると腹のうちで評しているかも知れない。
自分は母と並んで歩きながら先へ行く二人をこんなに考えた。
けれども母に対してはそんなむずかしい理窟を云う気にはなれなかった。
すると「どうも不思議だよ」と母が云い出した。
「いったい直は愛嬌のある質じゃないが、御父さんや妾にはいつだって同なじ調子だがね。二郎、御前にだってそうだろう」 これは全く母の云う通りであった。
自分は元来性急な性分で、よく大きな声を出したり、怒鳴りつけたりするが、不思議にまだ嫂と喧嘩をした例はなかったのみならず、場合によると、兄よりもかえって心おきなく話をした。
「僕にもそうですがね。なるほどそう云われれば少々変には違ない」「だからさ妾には直が一郎に対してだけ、わざわざ、あんな風をつらあてがましくやっているように思われて仕方がないんだよ」「まさか」 自白すると自分はこの問題を母ほど細かく考えていなかった。
したがってそんな疑いを挟さむ余地がなかった。
あってもその原因が第一不審であった。
「だって宅中で兄さんが一番大事な人じゃありませんか、姉さんにとって」「だからさ。御母さんには訳が解らないと云うのさ」 自分にはせっかくこんな景色の好い所へ来ながら、際限もなく母を相手に、嫂を陰で評しているのが馬鹿らしく感ぜられてきた。
「そのうち機会があったら、姉さんにまたよく腹の中を僕から聞いて見ましょう。何心配するほどの事はありませんよ」と云い切って、向の石垣まで突き出している掛茶屋から防波堤の上に馳け上った。
そうして、精一杯の声を揚げて、「おーいおーい」と呼んだ。
兄夫婦は驚いてふり向いた。
その時石の堤に当って砕けた波が、吹き上げる泡と脚を洗う流れとで、自分を濡鼠のごとくにした。
自分は母に叱られながら、ぽたぽた雫を垂らして、三人と共に宿に帰った。
どどんどどんという波の音が、帰り道中自分の鼓膜に響いた。
十五
その晩自分は母といっしょに真白な蚊帳の中に寝た。
普通の麻よりは遥に薄くできているので、風が来て綺麗なレースを弄ぶ様が涼しそうに見えた。
「好い蚊帳ですね。宅でも一つこんなのを買おうじゃありませんか」と母に勧めた。
「こりゃ見てくれだけは綺麗だが、それほど高いものじゃないよ。かえって宅にあるあの白麻の方が上等なんだよ。ただこっちのほうが軽くって、継ぎ目がないだけに華奢に見えるのさ」 母は昔ものだけあって宅にある岩国かどこかでできる麻の蚊帳の方を賞めていた。
「だいち寝冷をしないだけでもあっちの方が得じゃないか」と云った。
下女が来て障子を締め切ってから、蚊帳は少しも動かなくなった。
「急に暑苦しくなりましたね」と自分は嘆息するように云った。
「そうさね」と答えた母の言葉は、まるで暑さが苦にならないほど落ちついていた。
それでも団扇遣の音だけは微かに聞こえた。
母はそれからふっつり口を利かなくなった。
自分も眼を眠った。
襖一つ隔てた隣座敷には兄夫婦が寝ていた。
これは先刻から静であった。
自分の話相手がなくなってこっちの室が急にひっそりして見ると、兄の室はなお森閑と自分の耳を澄ました。
自分は眼を閉じたままじっとしていた。
しかしいつまで経っても寝つかれなかった。
しまいには静さに祟られたようなこの暑い苦しみを痛切に感じ出した。
それで母の眠を妨げないようにそっと蒲団の上に起き直った。
それから蚊帳の裾を捲って縁側へ出る気で、なるべく音のしないように障子をすうと開けにかかった。
すると今まで寝入っていたとばかり思った母が突然「二郎どこへ行くんだい」と聞いた。
「あんまり寝苦しいから、縁側へ出て少し涼もうと思います」「そうかい」 母の声は明晰で落ちついていた。
自分はその調子で、彼女がまんじりともせずに今まで起きていた事を知った。
「御母さんも、まだ御休みにならないんですか」「ええ寝床の変ったせいか何だか勝手が違ってね」 自分は貸浴衣の腰に三尺帯を一重廻しただけで、懐へ敷島の袋と燐寸を入れて縁側へ出た。
縁側には白いカヴァーのかかった椅子が二脚ほど出ていた。
自分はその一脚を引き寄せて腰をかけた。
「あまりがたがた云わして、兄さんの邪魔になるといけないよ」 母からこう注意された自分は、煙草を吹かしながら黙って、夢のような眼前の景色を眺めていた。
景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。
月のない晩なので、ことさら暗いものが蔓り過ぎた。
そのうちに昼間見た土手の松並木だけが一際黒ずんで左右に長い帯を引き渡していた。
その下に浪の砕けた白い泡が夜の中に絶間なく動揺するのが、比較的刺戟強く見えた。
「もう好い加減に御這入りよ。風邪でも引くといけないから」 母は障子の内からこう云って注意した。
自分は椅子に倚りながら、母に夜の景色を見せようと思ってちょっと勧めたが、彼女は応じなかった。
自分は素直にまた蚊帳の中に這入って、枕の上に頭を着けた。
自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森として元のごとく静かであった。
自分が再び床に着いた後も依然として同じ沈黙に鎖されていた。
ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんといつまでも響いた。
十六
朝起きて膳に向った時見ると、四人はことごとく寝足らない顔をしていた。
そうして四人ともその寝足らない雲を膳の上に打ちひろげてわざと会話を陰気にしているらしかった。
自分も変に窮屈だった。
「昨夕食った鯛の焙烙蒸にあてられたらしい」と云って、自分は不味そうな顔をして席を立った。
手摺の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。
この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂まで物数奇な人間を引き上げる仕掛であった。
所にも似ず無風流な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日から自分の注意を惹いていた。
はたして早起の客が二人三人ぽつぽつもう乗り始めた。
早く食事を終えた兄はいつの間にか、自分の後へ来て、小楊枝を使いながら、上ったり下りたりする鉄の箱を自分と同じように眺めていた。
「二郎、今朝ちょっとあの昇降器へ乗って見ようじゃないか」と兄が突然云った。
自分は兄にしてはちと子供らしい事を云うと思って、ひょっと後を顧みた。
「何だか面白そうじゃないか」と兄は柄にもない稚気を言葉に現した。
自分は昇降器へ乗るのは好いが、ある目的地へ行けるかどうかそれが危しかった。
「どこへ行けるんでしょう」「どこだって構わない。さあ行こう」 自分は母と嫂も無論いっしょに連れて行くつもりで、「さあさあ」と大きな声で呼び掛けた。
すると兄は急に自分を留めた。
「二人で行こう。二人ぎりで」と云った。
そこへ母と嫂が「どこへ行くの」と云って顔を出した。
「何ちょっとあのエレヴェーターへ乗って見るんです。二郎といっしょに。女には剣呑だから、御母さんや直は止した方が好いでしょう。僕らがまあ乗って、試して見ますから」 母は虚空に昇って行く鉄の箱を見ながら気味の悪そうな顔をした。
「直お前どうするい」 母がこう聞いた時、嫂は例の通り淋しい靨を寄せて、「妾はどうでも構いません」と答えた。
それがおとなしいとも取れるし、また聴きようでは、冷淡とも無愛想とも取れた。
それを自分は兄に対して気の毒と思い嫂に対しては損だと考えた。
二人は浴衣がけで宿を出ると、すぐ昇降器へ乗った。
箱は一間四方くらいのもので、中に五六人這入ると戸を閉めて、すぐ引き上げられた。
兄と自分は顔さえ出す事のできない鉄の棒の間から外を見た。
そうして非常に欝陶しい感じを起した。
「牢屋見たいだな」と兄が低い声で私語いた。
「そうですね」と自分が答えた。
「人間もこの通りだ」 兄は時々こんな哲学者めいた事をいう癖があった。
自分はただ「そうですな」と答えただけであった。
けれども兄の言葉は単にその輪廓ぐらいしか自分には呑み込めなかった。
牢屋に似た箱の上りつめた頂点は、小さい石山の天辺であった。
そのところどころに背の低い松が噛りつくように青味を添えて、単調を破るのが、夏の眼に嬉しく映った。
そうしてわずかな平地に掛茶屋があって、猿が一匹飼ってあった。
兄と自分は猿に芋をやったり、調戯ったりして、物の十分もその茶屋で費やした。
「どこか二人だけで話す所はないかな」 兄はこう云って四方を見渡した。
その眼は本当に二人だけで話のできる静かな場所を見つけているらしかった。
十七
そこは高い地勢のお蔭で四方ともよく見晴らされた。
ことに有名な紀三井寺を蓊欝した木立の中に遠く望む事ができた。
その麓に入江らしく穏かに光る水がまた海浜とは思われない沢辺の景色を、複雑な色に描き出していた。
自分は傍にいる人から浄瑠璃にある下り松というのを教えて貰った。
その松はなるほど懸崖を伝うように逆に枝を伸していた。
兄は茶店の女に、ここいらで静な話をするに都合の好い場所はないかと尋ねていたが、茶店の女は兄の問が解らないのか、何を云っても少しも要領を得なかった。
そうして地方訛ののしとかいう語尾をしきりに繰返した。
しまいに兄は「じゃその権現様へでも行くかな」と云い出した。
「権現様も名所の一つだから好いでしょう」 二人はすぐ山を下りた。
俥にも乗らず、傘も差さず、麦藁帽子だけ被って暑い砂道を歩いた。
こうして兄といっしょに昇降器へ乗ったり、権現へ行ったりするのが、その日は自分に取って、何だか不安に感ぜられた。
平生でも兄と差向いになると多少気不精には違なかったけれども、その日ほど落ちつかない事もまた珍らしかった。
自分は兄から「おい二郎二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時からすでに変な心持がした。
二人は額から油汗をじりじり湧かした。
その上に自分は実際昨夕食った鯛の焙烙蒸に少しあてられていた。
そこへだんだん高くなる太陽が容赦なく具合の悪い頭を照らしたので、自分は仕方なしに黙って歩いていた。
兄も無言のまま体を運ばした。
宿で借りた粗末な下駄がさくさく砂に喰い込む音が耳についた。
「二郎どうかしたか」 兄の声は全く藪から棒が急に出たように自分を驚かした。
「少し心持が変です」 二人はまた無言で歩き出した。
ようやく権現の下へ来た時、細い急な石段を仰ぎ見た自分は、その高いのに辟易するだけで、容易に登る勇気は出し得なかった。
兄はその下に並べてある藁草履を突掛けて十段ばかり一人で上って行ったが、後から続かない自分に気がついて、「おい来ないか」と嶮しく呼んだ。
自分も仕方なしに婆さんから草履を一足借りて、骨を折って石段を上り始めた。
それでも中途ぐらいから一歩ごとに膝の上に両手を置いて、身体の重みを託さなければならなかった。
兄を下から見上げるとさも焦熱ったそうに頂上の山門の角に立っていた。
「まるで酔っ払いのようじゃないか、段々を筋違に練って歩くざまは」 自分は何と評されても構わない気で、早速帽子を地の上に投げると同時に、肌を抜いだ。
扇を持たないので、手にした手帛でしきりに胸の辺りを払った。
自分は後から「おい二郎」ときっと何か云われるだろうと思って、内心穏かでなかったせいか、汗に濡れた手帛をむやみに振り動かした。
そうして「暑い暑い」と続けさまに云った。
兄はやがて自分の傍へ来てそこにあった石に腰をおろした。
その石の後は篠竹が一面に生えて遥の下まで石垣の縁を隠すように茂っていた。
その中から大きな椿が所々に白茶けた幹を現すのがことに目立って見えた。
「なるほどここは静だ。ここならゆっくり話ができそうだ」と兄は四方を見廻した。
十八
「二郎少し御前に話があるがね」と兄が云った。
「何です」 兄はしばらく逡巡して口を開かなかった。
自分はまたそれを聞くのが厭さに、催促もしなかった。
「ここは涼しいですね」と云った。
「ああ涼しい」と兄も答えた。
実際そこは日影に遠いせいか涼しい風の通う高みであった。
自分は三四分手帛を動かした後、急に肌を入れた。
山門の裏には物寂びた小さい拝殿があった。
よほど古い建物と見えて、軒に彫つけた獅子の頭などは絵の具が半分剥げかかっていた。
自分は立って山門を潜って拝殿の方へ行った。
「兄さんこっちの方がまだ涼しい。こっちへいらっしゃい」 兄は答えもしなかった。
自分はそれを機に拝殿の前面を左右に逍遥した。
そうして暑い日を遮る高い常磐木を見ていた。
ところへ兄が不平な顔をして自分に近づいて来た。
「おい少し話しがあるんだと云ったじゃないか」 自分は仕方なしに拝殿の段々に腰をかけた。
兄も自分に並んで腰をかけた。
「何ですか」「実は直の事だがね」と兄ははなはだ云い悪いところをやっと云い切ったという風に見えた。
自分は「直」という言葉を聞くや否や冷りとした。
兄夫婦の間柄は母が自分に訴えた通り、自分にもたいていは呑み込めていた。
そうして母に約束したごとく、自分はいつか折を見て、嫂に腹の中をとっくり聴糺した上、こっちからその知識をもって、積極的に兄に向おうと思っていた。
それを自分がやらないうちに、もし兄から先を越されでもすると困るので、自分はひそかにそこを心配していた。
実を云うと、今朝兄から「二郎、二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時、自分はあるいはこの問題が出るのではあるまいかと掛念して自と厭になったのである。
「嫂さんがどうかしたんですか」と自分はやむを得ず兄に聞き返した。
「直は御前に惚れてるんじゃないか」 兄の言葉は突然であった。
かつ普通兄のもっている品格にあたいしなかった。
「どうして」「どうしてと聞かれると困る。それから失礼だと怒られてはなお困る。何も文を拾ったとか、接吻したところを見たとか云う実証から来た話ではないんだから。本当いうと表向こんな愚劣な問を、いやしくも夫たるおれが、他人に向ってかけられた訳のものではない。ないが相手が御前だからおれもおれの体面を構わずに、聞き悪いところを我慢して聞くんだ。だから云ってくれ」「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、ことに現在の嫂ですぜ」 自分はこう答えた。
そうしてこう答えるよりほかに何と云う言葉も出なかった。
「それは表面の形式から云えば誰もそう答えなければならない。御前も普通の人間だからそう答えるのが至当だろう。おれもその一言を聞けばただ恥じ入るよりほかに仕方がない。けれども二郎御前は幸いに正直な御父さんの遺伝を受けている。それに近頃の、何事も隠さないという主義を最高のものとして信じているから聞くのだ。形式上の答えはおれにも聞かない先から解っているが、ただ聞きたいのは、もっと奥の奥の底にある御前の感じだ。その本当のところをどうぞ聞かしてくれ」
十九
「そんな腹の奥の奥底にある感じなんて僕に有るはずがないじゃありませんか」 こう答えた時、自分は兄の顔を見ないで、山門の屋根を眺めていた。
兄の言葉はしばらく自分の耳に聞こえなかった。
するとそれが一種の癇高い、さも昂奮を抑えたような調子になって響いて来た。
「おい二郎何だってそんな軽薄な挨拶をする。おれと御前は兄弟じゃないか」 自分は驚いて兄の顔を見た。
兄の顔は常磐木の影で見るせいかやや蒼味を帯びていた。
「兄弟ですとも。僕はあなたの本当の弟です。だから本当の事を御答えしたつもりです。今云ったのはけっして空々しい挨拶でも何でもありません。真底そうだからそういうのです」 兄の神経の鋭敏なごとく自分は熱しやすい性急であった。
平生の自分ならあるいはこんな返事は出なかったかも知れない。
兄はその時簡単な一句を射た。
「きっと」「ええきっと」「だって御前の顔は赤いじゃないか」 実際その時の自分の顔は赤かったかも知れない。
兄の面色の蒼いのに反して、自分は我知らず、両方の頬の熱るのを強く感じた。
その上自分は何と返事をして好いか分らなかった。
すると兄は何と思ったかたちまち階段から腰を起した。
そうして腕組をしながら、自分の席を取っている前を右左に歩き出した。
自分は不安な眼をして、彼の姿を見守った。
彼は始めから眼を地面の上に落していた。
二三度自分の前を横切ったけれどもけっして一遍もその眼を上げて自分を見なかった。
三度目に彼は突如として、自分の前に来て立ち留った。
「二郎」「はい」「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」 兄の眼の中には涙がいっぱい溜っていた。
「なぜです」「おれはこれでも御前より学問も余計したつもりだ。見識も普通の人間より持っているとばかり今日まで考えていた。ところがあんな子供らしい事をつい口にしてしまった。まことに面目ない。どうぞ兄を軽蔑してくれるな」「なぜです」 自分は簡単なこの問を再び繰返した。
「なぜですとそう真面目に聞いてくれるな。ああおれは馬鹿だ」 兄はこう云って手を出した。
自分はすぐその手を握った。
兄の手は冷たかった。
自分の手も冷たかった。
「ただ御前の顔が少しばかり赤くなったからと云って、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に対して済まない事だ。どうぞ堪忍してくれ」 自分は兄の気質が女に似て陰晴常なき天候のごとく変るのをよく承知していた。
しかし一と見識ある彼の特長として、自分にはそれが天真爛漫の子供らしく見えたり、または玉のように玲瓏な詩人らしく見えたりした。
自分は彼を尊敬しつつも、どこか馬鹿にしやすいところのある男のように考えない訳に行かなかった。
自分は彼の手を握ったまま「兄さん、今日は頭がどうかしているんですよ。そんな下らない事はもうこれぎりにしてそろそろ帰ろうじゃありませんか」と云った。
二十
兄は突然自分の手を放した。
けれどもけっしてそこを動こうとしなかった。
元の通り立ったまま何も云わずに自分を見下した。
「御前他の心が解るかい」と突然聞いた。
今度は自分の方が何も云わずに兄を見上げなければならなかった。
「僕の心が兄さんには分らないんですか」とやや間を置いて云った。
自分の答には兄の言葉より一種の根強さが籠っていた。
「御前の心はおれによく解っている」と兄はすぐ答えた。
「じゃそれで好いじゃありませんか」と自分は云った。
「いや御前の心じゃない。女の心の事を云ってるんだ」 兄の言語のうち、後一句には火の付いたような鋭さがあった。
その鋭さが自分の耳に一種異様の響を伝えた。
「女の心だって男の心だって」と云いかけた自分を彼は急に遮った。
「御前は幸福な男だ。おそらくそんな事をまだ研究する必要が出て来なかったんだろう」「そりゃ兄さんのような学者じゃないから……」「馬鹿云え」と兄は叱りつけるように叫んだ。
「書物の研究とか心理学の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのじゃない。現在自分の眼前にいて、最も親しかるべきはずの人、その人の心を研究しなければ、いても立ってもいられないというような必要に出逢った事があるかと聞いてるんだ」 最も親しかるべきはずの人と云った兄の意味は自分にすぐ解った。
「兄さんはあんまり考え過ぎるんじゃありませんか、学問をした結果。もう少し馬鹿になったら好いでしょう」「向うでわざと考えさせるように仕向けて来るんだ。おれの考え慣れた頭を逆に利用して。どうしても馬鹿にさせてくれないんだ」 自分はここにいたって、ほとんど慰藉の辞に窮した。
自分より幾倍立派な頭をもっているか分らない兄が、こんな妙な問題に対して自分より幾倍頭を悩めているかを考えると、はなはだ気の毒でならなかった。
兄が自分より神経質な事は、兄も自分もよく承知していた。
けれども今まで兄からこう歇私的里的に出られた事がないので、自分も実は途方に暮れてしまった。
「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。
「名前だけは聞いています」「あの人の書翰集を読んだ事があるか」「読むどころか表紙を見た事もありません」「そうか」 彼はこう云って再び自分の傍へ腰をかけた。
自分はこの時始めて懐中に敷島の袋と燐寸のある事に気がついた。
それを取り出して、自分からまず火を点けて兄に渡した。
兄は器械的にそれを吸った。
「その人の書翰の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌に満足する人を見ると羨ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊というか魂というか、いわゆるスピリットを攫まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」「メレジスって男は生涯独身で暮したんですかね」「そんな事は知らない。またそんな事はどうでも構わないじゃないか。しかし二郎、おれが霊も魂もいわゆるスピリットも攫まない女と結婚している事だけはたしかだ」
二十一
兄の顔には苦悶の表情がありありと見えた。
いろいろな点において兄を尊敬する事を忘れなかった自分は、この時胸の奥でほとんど恐怖に近い不安を感ぜずにはいられなかった。
「兄さん」と自分はわざと落ちつき払って云った。
「何だ」 自分はこの答を聞くと同時に立った。
そうして、ことさらに兄の腰をかけている前を、先刻兄がやったと同じように、しかし全く別の意味で、右左へと二三度横切った。
兄は自分にはまるで無頓着に見えた。
両手の指を、少し長くなった髪の間に、櫛の歯のように深く差し込んで下を向いていた。
彼は大変色沢の好い髪の所有者であった。
自分は彼の前を横切るたびに、その漆黒の髪とその間から見える関節の細い、華奢な指に眼を惹かれた。
その指は平生から自分の眼には彼の神経質を代表するごとく優しくかつ骨張って映った。
「兄さん」と自分が再び呼びかけた時、彼はようやく重そうに頭を上げた。
「兄さんに対して僕がこんな事をいうとはなはだ失礼かも知れませんがね。他の心なんて、いくら学問をしたって、研究をしたって、解りっこないだろうと僕は思うんです。兄さんは僕よりも偉い学者だから固よりそこに気がついていらっしゃるでしょうけれども、いくら親しい親子だって兄弟だって、心と心はただ通じているような気持がするだけで、実際向うとこっちとは身体が離れている通り心も離れているんだからしようがないじゃありませんか」「他の心は外から研究はできる。けれどもその心になって見る事はできない。そのくらいの事ならおれだって心得ているつもりだ」 兄は吐き出すように、また懶そうにこう云った。
自分はすぐその後に跟いた。
「それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんは何でもよく考える性質だから……」「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」 兄はさも忌々しそうにこう云い放った。
そうしておいて、「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」と云った。
兄の言葉は立派な教育を受けた人の言葉であった。
しかし彼の態度はほとんど十八九の子供に近かった。
自分はかかる兄を自分の前に見るのが悲しかった。
その時の彼はほとんど砂の中で狂う泥鰌のようであった。
いずれの点においても自分より立ち勝った兄が、こんな態度を自分に示したのはこの時が始めてであった。
自分はそれを悲しく思うと同時に、この傾向で彼がだんだん進んで行ったならあるいは遠からず彼の精神に異状を呈するようになりはしまいかと懸念して、それが急に恐ろしくなった。
「兄さん、この事については僕も実はとうから考えていたんです……」「いや御前の考えなんか聞こうと思っていやしない。今日御前をここへ連れて来たのは少し御前に頼みがあるからだ。どうぞ聞いてくれ」「何ですか」 事はだんだん面倒になって来そうであった。
けれども兄は容易にその頼みというのを打ち明けなかった。
ところへ我々と同じ遊覧人めいた男女が三四人石段の下に現れた。
彼らはてんでに下駄を草履と脱ぎ易えて、高い石段をこっちへ登って来た。
兄はその人影を見るや否や急に立上がった。
「二郎帰ろう」と云いながら石段を下りかけた。
自分もすぐその後に随った。
二十二
兄と自分はまた元の路へ引返した。
朝来た時も腹や頭の具合が変であったが、帰りは日盛になったせいかなお苦しかった。
あいにく二人共時計を忘れたので何時だかちょっと分り兼ねた。
「もう何時だろう」と兄が聞いた。
「そうですね」と自分はぎらぎらする太陽を仰ぎ見た。
「まだ午にはならないでしょう」 二人は元の路を逆に歩いているつもりであったが、どう間違えたものか、変に磯臭い浜辺へ出た。
そこには漁師の家が雑貨店と交って貧しい町をかたち作っていた。
古い旗を屋根の上に立てた汽船会社の待合所も見えた。
「何だか路が違ったようじゃありませんか」 兄は相変らず下を向いて考えながら歩いていた。
下には貝殻がそこここに散っていた。
それを踏み砕く二人の足音が時々単調な歩行に一種田舎びた変化を与えた。
兄はちょっと立ち留って左右を見た。
「ここは往に通らなかったかな」「ええ通りゃしません」「そうか」 二人はまた歩き出した。
兄は依然として下を向き勝であった。
自分は路を迷ったため、存外宿へ帰るのが遅くなりはしまいかと心配した。
「何狭い所だ。どこをどう間違えたって、帰れるのは同なじ事だ」 兄はこう云ってすたすた行った。
自分は彼の歩き方を後から見て、足に任せてという故い言葉を思い出した。
そうして彼より五六間後れた事をこの場合何よりもありがたく感じた。
自分は二人の帰り道に、兄から例の依頼というのをきっと打ち明けられるに違いないと思って暗にその覚悟をしていた。
ところが事実は反対で、彼はできるだけ口数を慎んで、さっさと歩く方針に出た。
それが少しは無気味でもあったがまただいぶ嬉しくもあった。
宿では母と嫂が欄干に縞絽だか明石だかよそゆきの着物を掛けて二人とも浴衣のまま差向いで坐っていた。
自分達の姿を見た母は、「まあどこまで行ったの」と驚いた顔をした。
「あなた方はどこへも行かなかったんですか」 欄干に干してある着物を見ながら、自分がこう聞いた時、嫂は「ええ行ったわ」と答えた。
「どこへ」「あてて御覧なさい」 今の自分は兄のいる前で嫂からこう気易く話しかけられるのが、兄に対して何とも申し訳がないようであった。
のみならず、兄の眼から見れば、彼女が故意に自分にだけ親しみを表わしているとしか解釈ができまいと考えて誰にも打ち明けられない苦痛を感じた。
嫂はいっこう平気であった。
自分にはそれが冷淡から出るのか、無頓着から来るのか、または常識を無視しているのか、少し解り兼ねた。
彼らの見物して来た所は紀三井寺であった。
玉津島明神の前を通りへ出て、そこから電車に乗るとすぐ寺の前へ出るのだと母は兄に説明していた。
「高い石段でね。こうして見上げるだけでも眼が眩いそうなんだよ、お母さんには。これじゃとても上れっこないと思って、妾ゃどうしようか知らと考えたけれども、直に手を引っ張って貰って、ようやくお参りだけは済ませたが、その代り汗で着物がぐっしょりさ……」 兄は「はあ、そうですかそうですか」と時々気のない返事をした。
二十三
その日は何事も起らずに済んだ。
夕方は四人でトランプをした。
みんなが四枚ずつのカードを持って、その一枚を順送りに次の者へ伏せ渡しにするうちに数の揃ったのを出してしまうと、どこかにスペードの一が残る。
それを握ったものが負になるという温泉場などでよく流行る至極簡単なものであった。
母と自分はよくスペードを握っては妙な顔をしてすぐ勘づかれた。
兄も時々苦笑した。
一番冷淡なのは嫂であった。
スペードを握ろうが握るまいがわれにはいっこう関係がないという風をしていた。
これは風というよりもむしろ彼女の性質であった。
自分はそれでも兄が先刻の会談のあと、よくこれほどに昂奮した神経を治められたものだと思ってひそかに感心した。
晩は寝られなかった。
昨夕よりもなお寝られなかった。
自分はどどんどどんと響く浪の音の間に、兄夫婦の寝ている室に耳を澄ました。
けれども彼らの室は依然として昨夜のごとく静であった。
自分は母に見咎められるのを恐れて、その夜はあえて縁側へ出なかった。
朝になって自分は母と嫂を例の東洋第一エレヴェーターへ案内した。
そうして昨日のように山の上の猿に芋をやった。
今度は猿に馴染のある宿の女中がいっしょに随いて来たので、猿を抱いたり鳴かしたり前の日よりはだいぶ賑やかだった。
母は茶店の床几に腰をかけて、新和歌の浦とかいう禿げて茶色になった山を指して何だろうと聞いていた。
嫂はしきりに遠眼鏡はないか遠眼鏡はないかと騒いだ。
「姉さん、芝の愛宕様じゃありませんよ」と自分は云ってやった。
「だって遠眼鏡ぐらいあったって好いじゃありませんか」と嫂はまだ不足を並べていた。
夕方になって自分はとうとう兄に引っ張られて紀三井寺へ行った。
これは婦人連が昨日すでに参詣したというのを口実に、我々二人だけが行く事にしたのであるが、その実兄の依頼を聞くために自分が彼から誘い出されたのである。
自分達は母の見ただけで恐れたという高い石段を一直線に上った。
その上は平たい山の中腹で眺望の好い所にベンチが一つ据えてあった。
本堂は傍に五重の塔を控えて、普通ありふれた仏閣よりも寂があった。
廂の最中から下っている白い紐などはいかにも閑静に見えた。
自分達は何物も眼を遮らないベンチの上に腰をおろして並び合った。
「好い景色ですね」 眼の下には遥の海が鰯の腹のように輝いた。
そこへ名残の太陽が一面に射して、眩ゆさが赤く頬を染めるごとくに感じた。
沢らしい不規則な水の形もまた海より近くに、平たい面を鏡のように展べていた。
兄は例の洋杖を顋の下に支えて黙っていたが、やがて思い切ったという風に自分の方を向いた。
「二郎実は頼みがあるんだが」「ええ、それを伺うつもりでわざわざ来たんだからゆっくり話して下さい。できる事なら何でもしますから」「二郎実は少し云い悪い事なんだがな」「云い悪い事でも僕だから好いでしょう」「うんおれは御前を信用しているから話すよ。しかし驚いてくれるな」 自分は兄からこう云われた時に、話を聞かない先にまず驚いた。
そうしてどんな注文が兄の口から出るかを恐れた。
兄の気分は前云った通り変り易かった。
けれどもいったん何か云い出すと、意地にもそれを通さなければ承知しなかった。
二十四
「二郎驚いちゃいけないぜ」と兄が繰返した。
そうして現に驚いている自分を嘲けるごとく見た。
自分は今の兄と権現社頭の兄とを比較してまるで別人の観をなした。
今の兄は翻がえしがたい堅い決心をもって自分に向っているとしか自分には見えなかった。
「二郎おれは御前を信用している。御前の潔白な事はすでに御前の言語が証明している。それに間違はないだろう」「ありません」「それでは打ち明けるが、実は直の節操を御前に試して貰いたいのだ」 自分は「節操を試す」という言葉を聞いた時、本当に驚いた。
当人から驚くなという注意が二遍あったにかかわらず、非常に驚いた。
ただあっけに取られて、呆然としていた。
「なぜ今になってそんな顔をするんだ」と兄が云った。
自分は兄の眼に映じた自分の顔をいかにも情なく感ぜざるを得なかった。
まるでこの間の会見とは兄弟地を換えて立ったとしか思えなかった。
それで急に気を取り直した。
「姉さんの節操を試すなんて、――そんな事は廃した方が好いでしょう」「なぜ」「なぜって、あんまり馬鹿らしいじゃありませんか」「何が馬鹿らしい」「馬鹿らしかないかも知れないが、必要がないじゃありませんか」「必要があるから頼むんだ」 自分はしばらく黙っていた。
広い境内には参詣人の影も見えないので、四辺は存外静であった。
自分はそこいらを見廻して、最後に我々二人の淋しい姿をその一隅に見出した時、薄気味の悪い心持がした。
「試すって、どうすれば試されるんです」「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好いんだ」「下らない」と自分は一口に退ぞけた。
すると今度は兄が黙った。
自分は固より無言であった。
海に射りつける落日の光がしだいに薄くなりつつなお名残の熱を薄赤く遠い彼方に棚引かしていた。
「厭かい」と兄が聞いた。
「ええ、ほかの事ならですが、それだけは御免です」と自分は判切り云い切った。
「じゃ頼むまい。その代りおれは生涯御前を疑ぐるよ」「そりゃ困る」「困るならおれの頼む通りやってくれ」 自分はただ俯向いていた。
いつもの兄ならもう疾に手を出している時分であった。
自分は俯向きながら、今に兄の拳が帽子の上へ飛んで来るか、または彼の平手が頬のあたりでピシャリと鳴るかと思って、じっと癇癪玉の破裂するのを期待していた。
そうしてその破裂の後に多く生ずる反動を機会として、兄の心を落ちつけようとした。
自分は人より一倍強い程度で、この反動に罹り易い兄の気質をよく呑み込んでいた。
自分はだいぶ辛抱して兄の鉄拳の飛んで来るのを待っていた。
けれども自分の期待は全く徒労であった。
兄は死んだ人のごとく静であった。
ついには自分の方から狐のように変な眼遣いをして、兄の顔を偸み見なければならなかった。
兄は蒼い顔をしていた。
けれどもけっして衝動的に動いて来る気色には見えなかった。
二十五
ややあって兄は昂奮した調子でこう云った。
「二郎おれはお前を信用している。けれども直を疑ぐっている。しかもその疑ぐられた当人の相手は不幸にしてお前だ。ただし不幸と云うのは、お前に取って不幸というので、おれにはかえって幸になるかも知れない。と云うのは、おれは今明言した通り、お前の云う事なら何でも信じられるしまた何でも打明けられるから、それでおれには幸いなのだ。だから頼むのだ。おれの云う事に満更論理のない事もあるまい」 自分はその時兄の言葉の奥に、何か深い意味が籠っているのではなかろうかと疑い出した。
兄は腹の中で、自分と嫂の間に肉体上の関係を認めたと信じて、わざとこういう難題を持ちかけるのではあるまいか。
自分は「兄さん」と呼んだ。
兄の耳にはとにかく、自分はよほど力強い声を出したつもりであった。
「兄さん、ほかの事とは違ってこれは倫理上の大問題ですよ……」「当り前さ」 自分は兄の答えのことのほか冷淡なのを意外に感じた。
同時に先の疑いがますます深くなって来た。
「兄さん、いくら兄弟の仲だって僕はそんな残酷な事はしたくないです」「いや向うの方がおれに対して残酷なんだ」 自分は兄に向って嫂がなぜ残酷であるかの意味を聞こうともしなかった。
「そりゃ改めてまた伺いますが、何しろ今の御依頼だけは御免蒙ります。僕には僕の名誉がありますから。いくら兄さんのためだって、名誉まで犠牲にはできません」「名誉?」「無論名誉です。人から頼まれて他を試験するなんて、――ほかの事だって厭でさあ。ましてそんな……探偵じゃあるまいし……」「二郎、おれはそんな下等な行為をお前から向うへ仕かけてくれと頼んでいるのじゃない。単に嫂としまた弟として一つ所へ行って一つ宿へ泊ってくれというのだ。不名誉でも何でもないじゃないか」「兄さんは僕を疑ぐっていらっしゃるんでしょう。そんな無理をおっしゃるのは」「いや信じているから頼むのだ」「口で信じていて、腹では疑ぐっていらっしゃる」「馬鹿な」 兄と自分はこんな会話を何遍も繰返した。
そうして繰返すたびに双方共激して来た。
するとちょっとした言葉から熱が急に引いたように二人共治まった。
その激したある時に自分は兄を真正の精神病患者だと断定した瞬間さえあった。
しかしその発作が風のように過ぎた後ではまた通例の人間のようにも感じた。
しまいに自分はこう云った。
「実はこの間から僕もその事については少々考えがあって、機会があったら姉さんにとくと腹の中を聞いて見る気でいたんですから、それだけなら受合いましょう。もうじき東京へ帰るでしょうから」「じゃそれを明日やってくれ。あした昼いっしょに和歌山へ行って、昼のうちに返って来れば差支えないだろう」 自分はなぜかそれが厭だった。
東京へ帰ってゆっくり折を見ての事にしたいと思ったが、片方を断った今更一方も否とは云いかねて、とうとう和歌山見物だけは引き受ける事にした。
二十六
その明くる朝は起きた時からあいにく空に斑が見えた。
しかも風さえ高く吹いて例の防波堤に崩ける波の音が凄じく聞え出した。
欄干に倚って眺めると、白い煙が濛々と岸一面を立て籠めた。
午前は四人とも海岸に出る気がしなかった。
午過ぎになって、空模様は少し穏かになった。
雲の重なる間から日脚さえちょいちょい光を出した。
それでも漁船が四五艘いつもより早く楼前の掘割へ漕ぎ入れて来た。
「気味が悪いね。何だか暴風雨でもありそうじゃないか」 母はいつもと違う空を仰いで、こう云いながらまた元の座敷へ引返して来た。
兄はすぐ立ってまた欄干へ出た。
「何大丈夫だよ。大した事はないにきまっている。御母さん僕が受け合いますから出かけようじゃありませんか。俥もすでに誂えてありますから」 母は何とも云わずに自分の顔を見た。
「そりゃ行っても好いけれど、行くなら皆なでいっしょに行こうじゃないか」 自分はその方が遥に楽であった。
でき得るならどうか母の御供をして、和歌山行をやめたいと考えた。
「じゃ僕達もいっしょにその切り開いた山道の方へ行って見ましょうか」と云いながら立ちかけた。
すると嶮しい兄の眼がすぐ自分の上に落ちた。
自分はとうていこれでは約束を履行するよりほかに道がなかろうとまた思い返した。
「そうそう姉さんと約束があったっけ」 自分は兄に対して、つい空惚けた挨拶をしなければすまなくなった。
すると母が今度は苦い顔をした。
「和歌山はやめにおしよ」 自分は母と兄の顔を見比べてどうしたものだろうと躊躇した。
嫂はいつものように冷然としていた。
自分が母と兄の間に迷っている間、彼女はほとんど一言も口にしなかった。
「直御前二郎に和歌山へ連れて行って貰うはずだったね」と兄が云った時、嫂はただ「ええ」と答えただけであった。
母が「今日はお止しよ」と止めた時、嫂はまた「ええ」と答えただけであった。
自分が「姉さんどうします」と顧みた時は、また「どうでも好いわ」と答えた。
自分はちょっと用事に下へ降りた。
すると母がまた後から降りて来た。
彼女の様子は何だかそわそわしていた。
「御前本当に直と二人で和歌山へ行く気かい」「ええ、だって兄さんが承知なんですもの」「いくら承知でも御母さんが困るから御止しよ」 母の顔のどこかには不安の色が見えた。
自分はその不安の出所が兄にあるのか、または嫂と自分にあるか、ちょっと判断に苦しんだ。
「なぜです」と聞いた。
「なぜですって、御前と直と行くのはいけないよ」「兄さんに悪いと云うんですか」 自分は露骨にこう聞いて見た。
「兄さんに悪いばかりじゃないが……」「じゃ姉さんだの僕だのに悪いと云うんですか」 自分の問は前よりなお露骨であった。
母は黙ってそこに佇ずんでいた。
自分は母の表情に珍らしく猜疑の影を見た。
二十七
自分は自分を信じ切り、また愛し切っているとばかり考えていた母の表情を見てたちまち臆した。
「では止します。元々僕の発案で姉さんを誘い出すんじゃない。兄さんが二人で行って来いと云うから行くだけの事です。御母さんが御不承知ならいつでもやめます。その代り御母さんから兄さんに談判して行かないで好いようにして下さい。僕は兄さんに約束があるんだから」 自分はこう答えて、何だかきまりが悪そうに母の前に立っていた。
実は母の前を去る勇気が出なかったのである。
母は少し途方に暮れた様子であった。
しかししまいに思い切ったと見えて、「じゃ兄さんには妾から話をするから、その代り御前はここに待ってておくれ、三階へ一緒に来るとまた事が面倒になるかも知れないから」と云った。
自分は母の後影を見送りながら、事がこんな風に引絡まった日には、とても嫂を連れて和歌山などへ行く気になれない、行ったところで肝心の用は弁じない、どうか母の思い通りに事が変じてくれれば好いがと思った。
そうして気の落ちつかない胸を抱いて、広い座敷を右左に目的もなく往ったり来たりした。
やがて三階から兄が下りて来た。
自分はその顔をちらりと見た時、これはどうしても行かなければ済まないなとすぐ読んだ。
「二郎、今になって違約して貰っちゃおれが困る。貴様だって男だろう」 自分は時々兄から貴様と呼ばれる事があった。
そうしてこの貴様が彼の口から出たときはきっと用心して後難を避けた。
「いえ行くんです。行くんですがお母さんが止せとおっしゃるから」 自分がこう云ってるうちに、母がまた心配そうに三階から下りて来た。
そうしてすぐ自分の傍へ寄って、「二郎お母さんは先刻ああ云ったけれども、よく一郎に聞いて見ると、何だか紀三井寺で約束した事があるとか云う話だから、残念だが仕方ない。やっぱりその約束通りになさい」と云った。
「ええ」 自分はこう答えて、あとは何にも云わない事にした。
やがて母と兄は下に待っている俥に乗って、楼前から右の方へ鉄輪の音を鳴らして去った。
「じゃ僕らもそろそろ出かけましょうかね」と嫂を顧みた時、自分は実際好い心持ではなかった。
「どうです出かける勇気がありますか」と聞いた。
「あなたは」と向も聞いた。
「僕はあります」「あなたにあれば、妾にだってあるわ」 自分は立って着物を着換え始めた。
嫂は上着を引掛けてくれながら、「あなた何だか今日は勇気がないようね」と調戯い半分に云った。
自分は全く勇気がなかった。
二人は電車の出る所まで歩いて行った。
あいにく近路を取ったので、嫂の薄い下駄と白足袋が一足ごとに砂の中に潜った。
「歩き悪いでしょう」「ええ」と云って彼女は傘を手に持ったまま、後を向いて自分の後足を顧みた。
自分は赤い靴を砂の中に埋めながら、今日の使命をどこでどう果したものだろうと考えた。
考えながら歩くせいか会話は少しも機まない心持がした。
「あなた今日は珍らしく黙っていらっしゃるのね」とついに嫂から注意された。
二十八
自分は嫂と並んで電車に腰を掛けた。
けれども大事の用を前に控えているという気が胸にあるので、どうしても機嫌よく話はできなかった。
「なぜそんなに黙っていらっしゃるの」と彼女が聞いた。
自分は宿を出てからこう云う意味の質問を彼女からすでに二度まで受けた。
それを裏から見ると、二人でもっと面白く話そうじゃありませんかと云う意味も映っていた。
「あなた兄さんにそんな事を云ったことがありますか」 自分の顔はやや真面目であった。
嫂はちょっとそれを見て、すぐ窓の外を眺めた。
そうして「好い景色ね」と云った。
なるほどその時電車の走っていた所は、悪い景色ではなかったけれども、彼女のことさらにそれを眺めた事は明かであった。
自分はわざと嫂を呼んで再び前の質問を繰返した。
「なぜそんなつまらない事を聞くのよ」と云った彼女は、ほとんど一顧に価しない風をした。
電車はまた走った。
自分は次の停留所へ来る前また執拗く同じ問をかけて見た。
「うるさい方ね」と彼女がついに云った。
「そんな事聞いて何になさるの。そりゃ夫婦ですもの、そのくらいな事云った覚はあるでしょうよ。それがどうしたの」「どうもしやしません。兄さんにもそういう親しい言葉を始終かけて上げて下さいと云うだけです」 彼女は蒼白い頬へ少し血を寄せた。
その量が乏しいせいか、頬の奥の方に灯を点けたのが遠くから皮膚をほてらしているようであった。
しかし自分はその意味を深くも考えなかった。
和歌山へ着いた時、二人は電車を降りた。
降りて始めて自分は和歌山へ始めて来た事を覚った。
実はこの地を見物する口実の下に、嫂を連れて来たのだから、形式にもどこか見なければならなかった。
「あらあなたまだ和歌山を知らないの。それでいて妾を連れて来るなんて、ずいぶん呑気ね」 嫂は心細そうに四方を見廻した。
自分も何分かきまりが悪かった。
「俥へでも乗って車夫に好い加減な所へ連れて行って貰いましょうか。それともぶらぶら御城の方へでも歩いて行きますか」「そうね」 嫂は遠くの空を眺めて、近い自分には眼を注がなかった。
空はここも海辺と同じように曇っていた。
不規則に濃淡を乱した雲が幾重にも二人の頭の上を蔽って、日を直下に受けるよりは蒸し熱かった。
その上いつ驟雨が来るか解らないほどに、空の一部分がすでに黒ずんでいた。
その黒ずんだ円の四方が暈されたように輝いて、ちょうど今我々が見捨てて来た和歌の浦の見当に、凄じい空の一角を描き出していた。
嫂は今その気味の悪い所を眉を寄せて眺めているらしかった。
「降るでしょうか」 自分は固より降るに違ないと思っていた。
それでとにかく俥を雇って、見るだけの所を馳け抜けた方が得策だと考えた。
自分は直に俥を命じて、どこでも構わないからなるべく早く見物のできるように挽いて廻れと命じた。
車夫は要領を得たごとくまた得ないごとく、むやみに駆けた。
狭い町へ出たり、例の蓮の咲いている濠へ出たりまた狭い町へ出たりしたが、いっこうこれぞという所はなかった。
最後に自分は俥の上で、こう駆けてばかりいては肝心の話ができないと気がついて、車夫にどこかゆっくり坐って話のできる所へ連れて行けと差図した。
二十九
車夫は心得て駆け出した。
今までと違って威勢があまり好過ぎると思ううちに、二人の俥は狭い横町を曲って、突然大きな門を潜った。
自分があわてて、車夫を呼び留めようとした時、梶棒はすでに玄関に横付になっていた。
二人はどうする事もできなかった。
その上若い着飾った下女が案内に出たので、二人はついに上るべく余儀なくされた。
「こんな所へ来るはずじゃなかったんですが」と自分はつい言訳らしい事を云った。
「なぜ。だって立派な御茶屋じゃありませんか。結構だわ」と嫂が答えた。
その答えぶりから推すと、彼女は最初からこういう料理屋めいた所へでも来るのを予期していたらしかった。
実際嫂のいった通りその座敷は物綺麗にかつ堅牢に出来上っていた。
「東京辺の安料理屋よりかえって好いくらいですね」と自分は柱の木口や床の軸などを見廻した。
嫂は手摺の所へ出て、中庭を眺めていた。
古い梅の株の下に蘭の茂りが蒼黒い影を深く見せていた。
梅の幹にも硬くて細長い苔らしいものがところどころに喰ついていた。
下女が浴衣を持って風呂の案内に来た。
自分は風呂に這入る時間が惜しかった。
そうして日が暮れはしまいかと心配した。
できるならば一刻も早く用を片づけて、約束通り明るい路を浜辺まで帰りたいと念じた。
「どうします姉さん、風呂は」と聞いて見た。
嫂も明るいうちには帰るように兄から兼ねて云いつけられていたので、そこはよく承知していた。
彼女は帯の間から時計を出して見た。
「まだ早いのよ、二郎さん。お湯へ這入っても大丈夫だわ」 彼女は時間の遅く見えるのを全く天気のせいにした。
もっとも濁った雲が幾重にも空を鎖しているので、時計の時間よりは世の中が暗く見えたのはたしかに違いなかった。
自分はまた今にも降り出しそうな雨を恐れた。
降るならひとしきりざっと来た後で、帰った方がかえって楽だろうと考えた。
「じゃちょっと汗を流して行きましょうか」 二人はとうとう風呂に入った。
風呂から出ると膳が運ばれた。
時間からいうと飯には早過ぎた。
酒は遠慮したかった。
かつ飲める口でもなかった。
自分はやむをえず、吸物を吸ったり、刺身を突ついたりした。
下女が邪魔になるので、用があれば呼ぶからと云って下げた。
嫂には改まって云い出したものだろうか、またはそれとなく話のついでにそこへ持って行ったものだろうかと思案した。
思案し出すとどっちもいいようでまたどっちも悪いようであった。
自分は吸物椀を手にしたままぼんやり庭の方を眺めていた。
「何を考えていらっしゃるの」と嫂が聞いた。
「何、降りゃしまいかと思ってね」と自分はいい加減な答をした。
「そう。そんなに御天気が怖いの。あなたにも似合わないのね」「怖かないけど、もし強雨にでもなっちゃ大変ですからね」 自分がこう云っている内に、雨はぽつりぽつりと落ちて来た。
よほど早くからの宴会でもあるのか、向うに見える二階の広間に、二三人紋付羽織の人影が見えた。
その見当で芸者が三味線の調子を合わせている音が聞え出した。
宿を出るときすでにざわついていた自分の心は、この時一層落ちつきを失いかけて来た。
自分は腹の中で、今日はとてもしんみりした話をする気になれないと恐れた。
なぜまたその今日に限って、こんな変な事を引受けたのだろうと後悔もした。
三十
嫂はそんな事に気のつくはずがなかった。
自分が雨を気にするのを見て、彼女はかえって不思議そうに詰った。
「何でそんなに雨が気になるの。降れば後が涼しくなって好いじゃありませんか」「だっていつやむか解らないから困るんです」「困りゃしないわ。いくら約束があったって、御天気のせいなら仕方がないんだから」「しかし兄さんに対して僕の責任がありますよ」「じゃすぐ帰りましょう」 嫂はこう云って、すぐ立ち上った。
その様子には一種の決断があらわれていた。
向の座敷では客の頭が揃ったのか、三味線の音が雨を隔てて爽かに聞え出した。
電灯もすでに輝いた。
自分も半ば嫂の決心に促されて、腰を立てかけたが、考えると受合って来た話はまだ一言も口へ出していなかった。
後れて帰るのが母や兄にすまないごとく、少しも嫂に肝心の用談を打ち明けないのがまた自分の心にすまなかった。
「姉さんこの雨は容易にやみそうもありませんよ。それに僕は姉さんに少し用談があって来たんだから」 自分は半分空を眺めてまた嫂をふり返った。
自分は固よりの事、立ち上った彼女も、まだ帰る仕度は始めなかった。
彼女は立ち上ったには、立ち上ったが、自分の様子しだいでその以後の態度を一定しようと、五分の隙間なく身構えているらしく見えた。
自分はまた軒端へ首を出して上の方を望んだ。
室の位置が中庭を隔てて向うに大きな二階建の広間を控えているため、空はいつものように広くは限界に落ちなかった。
したがって雲の往来や雨の降り按排も、一般的にはよく分らなかった。
けれども凄まじさが先刻よりは一層はなはだしく庭木を痛振っているのは事実であった。
自分は雨よりも空よりも、まずこの風に辟易した。
「あなたも妙な方ね。帰るというからそのつもりで仕度をすれば、また坐ってしまって」「仕度ってほどの仕度もしないじゃありませんか。ただ立ったぎりでさあ」 自分がこう云った時、嫂はにっこりと笑った。
そうして故意と己れの袖や裾のあたりをなるほどといったようなまた意外だと驚いたような眼つきで見廻した。
それから微笑を含んでその様子を見ていた自分の前に再びぺたりと坐った。
「何よ用談があるって。妾にそんなむずかしい事が分りゃしないわ。それよりか向うの御座敷の三味線でも聞いてた方が増しよ」 雨は軒に響くというよりもむしろ風に乗せられて、気ままな場所へ叩きつけられて行くような音を起した。
その間に三味線の音が気紛れものらしく時々二人の耳を掠め去った。
「用があるなら早くおっしゃいな」と彼女は催促した。
「催促されたってちょっと云える事じゃありません」 自分は実際彼女から促された時、何と切り出して好いか分らなかった。
すると彼女はにやにやと笑った。
「あなた取っていくつなの」「そんなに冷かしちゃいけません。本当に真面目な事なんだから」「だから早くおっしゃいな」 自分はいよいよ改まって忠告がましい事を云うのが厭になった。
そうして彼女の前へ出た今の自分が何だか彼女から一段低く見縊られているような気がしてならなかった。
それだのにそこに一種の親しみを感じずにはまたいられなかった。
三十一
「姉さんはいくつでしたっけね」と自分はついに即かぬ事を聞き出した。
「これでもまだ若いのよ。あなたよりよっぽど下のつもりですわ」 自分は始めから彼女の年と自分の年を比較する気はなかった。
「兄さんとこへ来てからもう何年になりますかね」と聞いた。
嫂はただ澄まして「そうね」と云った。
「妾そんな事みんな忘れちまったわ。だいち自分の年さえ忘れるくらいですもの」 嫂のこの恍け方はいかにも嫂らしく響いた。
そうして自分にはかえって嬌態とも見えるこの不自然が、真面目な兄にはなはだしい不愉快を与えるのではなかろうかと考えた。
「姉さんは自分の年にさえ冷淡なんですね」 自分はこんな皮肉を何となく云った。
しかし云ったときの浮気な心にすぐ気がつくと急に兄にすまない恐ろしさに襲われた。
「自分の年なんかに、いくら冷淡でも構わないから、兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい」「妾そんなに兄さんに不親切に見えて。これでもできるだけの事は兄さんにして上げてるつもりよ。兄さんばかりじゃないわ。あなたにだってそうでしょう。ねえ二郎さん」 自分は、自分にもっと不親切にして構わないから、兄の方には最少し優しくしてくれろと、頼むつもりで嫂の眼を見た時、また急に自分の甘いのに気がついた。
嫂の前へ出て、こう差し向いに坐ったが最後、とうてい真底から誠実に兄のために計る事はできないのだとまで思った。
自分は言葉には少しも窮しなかった。
どんな言語でも兄のために使おうとすれば使われた。
けれどもそれを使う自分の心は、兄のためでなくってかえって自分のために使うのと同じ結果になりやすかった。
自分はけっしてこんな役割を引き受けべき人格でなかった。
自分は今更のように後悔した。
「あなた急に黙っちまったのね」とその時嫂が云った。
あたかも自分の急所を突くように。
「兄さんのために、僕が先刻からあなたに頼んでいる事を、姉さんは真面目に聞いて下さらないから」 自分は恥ずかしい心を抑えてわざとこう云った。
すると嫂は変に淋しい笑い方をした。
「だってそりゃ無理よ二郎さん。妾馬鹿で気がつかないから、みんなから冷淡と思われているかも知れないけれど、これで全くできるだけの事を兄さんに対してしている気なんですもの。――妾ゃ本当に腑抜なのよ。ことに近頃は魂の抜殻になっちまったんだから」「そう気を腐らせないで、もう少し積極的にしたらどうです」「積極的ってどうするの。御世辞を使うの。妾御世辞は大嫌いよ。兄さんも御嫌いよ」「御世辞なんか嬉しがるものもないでしょうけれども、もう少しどうかしたら兄さんも幸福でしょうし、姉さんも仕合せだろうから……」「よござんす。もう伺わないでも」と云った嫂は、その言葉の終らないうちに涙をぽろぽろと落した。
「妾のような魂の抜殻はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう。しかし私はこれで満足です。これでたくさんです。兄さんについて今まで何の不足を誰にも云った事はないつもりです。そのくらいの事は二郎さんもたいてい見ていて解りそうなもんだのに……」 泣きながら云う嫂の言葉は途切れ途切れにしか聞こえなかった。
しかしその途切れ途切れの言葉が鋭い力をもって自分の頭に応えた。
三十二
自分は経験のある或る年長者から女の涙に金剛石はほとんどない、たいていは皆ギヤマン細工だとかつて教わった事がある。
その時自分はなるほどそんなものかと思って感心して聞いていた。
けれどもそれは単に言葉の上の智識に過ぎなかった。
若輩な自分は嫂の涙を眼の前に見て、何となく可憐に堪えないような気がした。
ほかの場合なら彼女の手を取って共に泣いてやりたかった。
「そりゃ兄さんの気むずかしい事は誰にでも解ってます。あなたの辛抱も並大抵じゃないでしょう。けれども兄さんはあれで潔白すぎるほど潔白で正直すぎるほど正直な高尚な男です。敬愛すべき人物です……」「二郎さんに何もそんな事を伺わないでも兄さんの性質ぐらい妾だって承知しているつもりです。妻ですもの」 嫂はこう云ってまたしゃくり上げた。
自分はますます可哀そうになった。
見ると彼女の眼を拭っていた小形の手帛が、皺だらけになって濡れていた。
自分は乾いている自分ので彼女の眼や頬を撫でてやるために、彼女の顔に手を出したくてたまらなかった。
けれども、何とも知れない力がまたその手をぐっと抑えて動けないように締めつけている感じが強く働いた。
「正直なところ姉さんは兄さんが好きなんですか、また嫌なんですか」 自分はこう云ってしまった後で、この言葉は手を出して嫂の頬を、拭いてやれない代りに自然口の方から出たのだと気がついた。
嫂は手帛と涙の間から、自分の顔を覗くように見た。
「二郎さん」「ええ」 この簡単な答は、あたかも磁石に吸われた鉄の屑のように、自分の口から少しの抵抗もなく、何らの自覚もなく釣り出された。
「あなた何の必要があってそんな事を聞くの。兄さんが好きか嫌いかなんて。妾が兄さん以外に好いてる男でもあると思っていらっしゃるの」「そういう訳じゃけっしてないんですが」「だから先刻から云ってるじゃありませんか。私が冷淡に見えるのは、全く私が腑抜のせいだって」「そう腑抜をことさらに振り舞わされちゃ困るね。誰も宅のものでそんな悪口を云うものは一人もないんですから」「云わなくっても腑抜よ。よく知ってるわ、自分だって。けど、これでも時々は他から親切だって賞められる事もあってよ。そう馬鹿にしたものでもないわ」 自分はかつて大きなクッションに蜻蛉だの草花だのをいろいろの糸で、嫂に縫いつけて貰った御礼に、あなたは親切だと感謝した事があった。
「あれ、まだ有るでしょう綺麗ね」と彼女が云った。
「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。
自分は事実だからこう答えざるを得なかった。
こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。
ふと耳を欹てると向うの二階で弾いていた三味線はいつの間にかやんでいた。
残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。
もうそれほど遅くなったのかと思って、時計を捜し出しにかかったところへ女中が飛石伝に縁側から首を出した。
自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。
電話が切れて話が通じないという事を知った。
往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。
三十三
自分はその時急に母や兄の事を思い出した。
眉を焦す火のごとく思い出した。
狂う風と渦巻く浪に弄ばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。
「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。
嫂はそれほど驚いた様子もなかった。
けれども気のせいか、常から蒼い頬が一層蒼いように感ぜられた。
その蒼い頬の一部と眼の縁に先刻泣いた痕跡がまだ残っていた。
嫂はそれを下女に悟られるのが厭なんだろう、電灯に疎い不自然な方角へ顔を向けて、わざと入口の方を見なかった。
「和歌の浦へはどうしても帰られないんでしょうか」と云った。
見当違いの方から出たこの問は、自分に云うのか、または下女に聞くのか、ちょっと解らなかった。
「俥でも駄目だろうね」と自分が同じような問を下女に取次いだ。
下女は駄目という言葉こそ繰返さなかったが、危険な意味を反覆説明して、聞かせた上、是非今夜だけは和歌山へ泊れと忠告した。
彼女の顔はむしろわれわれ二人の利害を標的にして物を云ってるらしく真面目に見えた。
自分は下女の言葉を信ずれば信ずるほど母の事が気になった。
防波堤と母の宿との間にはかれこれ五六町の道程があった。
波が高くて少し土手を越すくらいなら、容易に三階の座敷まで来る気遣いはなかろうとも考えた。
しかしもし海嘯が一度に寄せて来るとすると、……「おい海嘯であすこいらの宿屋がすっかり波に攫われる事があるかい」 自分は本当に心配の余り下女にこう聞いた。
下女はそんな事はないと断言した。
しかし波が防波堤を越えて土手下へ落ちてくるため、中が湖水のようにいっぱいになる事は二三度あったと告げた。
「それにしたって、水に浸った家は大変だろう」と自分はまた聞いた。
下女は、高々水の中で家がぐるぐる回るくらいなもので、海まで持って行かれる心配はまずあるまいと答えた。
この呑気な答えが心配の中にも自分を失笑せしめた。
「ぐるぐる回りゃそれでたくさんだ。その上海まで持ってかれた日にゃ好い災難じゃないか」 下女は何とも云わずに笑っていた。
嫂も暗い方から電灯をまともに見始めた。
「姉さんどうします」「どうしますって、妾女だからどうして好いか解らないわ。もしあなたが帰るとおっしゃれば、どんな危険があったって、妾いっしょに行くわ」「行くのは構わないが、――困ったな。じゃ今夜は仕方がないからここへ泊るとしますか」「あなたが御泊りになれば妾も泊るよりほかに仕方がないわ。女一人でこの暗いのにとても和歌の浦まで行く訳には行かないから」 下女は今まで勘違をしていたと云わぬばかりの眼遣をして二人を見較べた。
「おい電話はどうしても通じないんだね」と自分はまた念のため聞いて見た。
「通じません」 自分は電話口へ出て直接に試みて見る勇気もなかった。
「じゃしようがない泊ることにきめましょう」と今度は嫂に向った。
「ええ」 彼女の返事はいつもの通り簡単でそうして落ちついていた。
「町の中なら俥が通うんだね」と自分はまた下女に向った。
三十四
二人はこれから料理屋で周旋してくれた宿屋まで行かなければならなかった。
仕度をして玄関を下りた時、そこに輝く電灯と、車夫の提灯とが、雨の音と風の叫びに冴えて、あたかも闇に狂う物凄さを照らす道具のように思われた。
嫂はまず色の眼につくあでやかな姿を黒い幌の中へ隠した。
自分もつづいて窮屈な深い桐油の中に身体を入れた。
幌の中に包まれた自分はほとんど往来の凄じさを見る遑がなかった。
自分の頭はまだ経験した事のない海嘯というものに絶えず支配された。
でなければ、意地の悪い天候のお蔭で、自分が兄の前で一徹に退けた事を、どうしても実行しなければならなくなった運命をつらく観じた。
自分の頭は落ちついて想像したり観じたりするほどの余裕を無論もたなかった。
ただ乱雑な火事場のように取留めもなくくるくる廻転した。
そのうち俥の梶棒が一軒の宿屋のような構の門口へ横づけになった。
自分は何だか暖簾を潜って土間へ這入ったような気がしたがたしかには覚えていない。
土間は幅の割に竪からいってだいぶ長かった。
帳場も見えず番頭もいず、ただ一人の下女が取次に出ただけで、宵の口としては至って淋しい光景であった。
自分達は黙ってそこに突立っていた。
自分はなぜだか嫂に話したくなかった。
彼女も澄まして絹張の傘の先を斜に土間に突いたなりで立っていた。
下女の案内で二人の通された部屋は、縁側を前に御簾のような簀垂を軒に懸けた古めかしい座敷であった。
柱は時代で黒く光っていた。
天井にも煤の色が一面に見えた。
嫂は例の傘を次の間の衣桁に懸けて、「ここは向うが高い棟で、こっちが厚い練塀らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻俥へ乗った時は大変ね。幌の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌に乗しかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。妾もう少しで俥が引っ繰返るかも知れないと思ったわ」と云った。
自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。
けれどもその通りを真直に答えるほどの勇気もなかった。
「ええずいぶんな風でしたね」とごまかした。
「ここでこのくらいじゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」と嫂が始めて和歌の浦の事を云い出した。
自分は胸がまたわくわくし出した。
「姐さんここの電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。
そこで帳面を引っ繰返しながら、号鈴をしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へかけて見た。
すると不思議に向うで二言三言何か云ったような気がするので、これはありがたいと思いつつなお暴風雨の模様を聞こうとすると、またさっぱり通じなくなった。
それから何遍もしもしと呼んでもいくら号鈴を鳴らしても、呼び甲斐も鳴らし甲斐も全く無くなったので、ついに我を折ってわが部屋へ引き戻して来た。
嫂は蒲団の上に坐って茶を啜っていたが、自分の足音を聴きつつふり返って、「電話はどうして? 通じて?」と聞いた。
自分は電話について今の一部始終を説明した。
「おおかたそんな事だろうと思った。とても駄目よ今夜は。いくらかけたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」 風はどこからか二筋に綯れて来たのが、急に擦違になって唸るような怪しい音を立てて、また虚空遥に騰るごとくに見えた。
三十五
二人が風に耳を峙だてていると、下女が風呂の案内に来た。
それから晩食を食うかと聞いた。
自分は晩食などを欲しいと思う気になれなかった。
「どうします」と嫂に相談して見た。
「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳だけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。
下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中の電灯がぱたりと消えた。
黒い柱と煤けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗になった。
自分は鼻の先に坐っている嫂を嗅げば嗅がれるような気がした。
「姉さん怖かありませんか」「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。
けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。
またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉の態度もなかった。
二人は暗黒のうちに坐っていた。
動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。
眼に色を見ないせいか、外の暴風雨は今までよりは余計耳についた。
雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根も塀も電柱も、見境なく吹き捲って悲鳴を上げさせた。
自分達の室は地面の上の穴倉みたような所で、四方共頑丈な建物だの厚い塗壁だのに包まれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種凄じい音響は、暗闇に伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇であった。
「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯を持って来るでしょうから」 自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜に響いてくるのを暗に予期していた。
すると彼女は何事をも答えなかった。
それが漆に似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。
しまいに自分の傍にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。
「姉さん」 嫂はまだ黙っていた。
自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。
そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」 彼女の答は何だか蒼蠅そうであった。
「いるんですか」「いるわあなた。人間ですもの。嘘だと思うならここへ来て手で障って御覧なさい」 自分は手捜りに捜り寄って見たい気がした。
けれどもそれほどの度胸がなかった。
そのうち彼女の坐っている見当で女帯の擦れる音がした。
「姉さん何かしているんですか」と聞いた。
「ええ」「何をしているんですか」と再び聞いた。
「先刻下女が浴衣を持って来たから、着換えようと思って、今帯を解いているところです」と嫂が答えた。
自分が暗闇で帯の音を聞いているうちに、下女は古風な蝋燭を点けて縁側伝いに持って来た。
そうしてそれを座敷の床の横にある机の上に立てた。
蝋燭の焔がちらちら右左へ揺れるので、黒い柱や煤けた天井はもちろん、灯の勢の及ぶ限りは、穏かならぬ薄暗い光にどよめいて、自分の心を淋しく焦立たせた。
ことさら床に掛けた軸と、その前に活けてある花とが、気味の悪いほど目立って蝋燭の灯の影響を受けた。
自分は手拭を持って、また汗を流しに風呂へ行った。
風呂は怪しげなカンテラで照らされていた。
三十六
自分は佗びしい光でやっと見分のつく小桶を使ってざあざあ背中を流した。
出がけにまた念のためだから電話をちりんちりん鳴らして見たがさらに通じる気色がないのでやめた。
嫂は自分と入れ代りに風呂へ入ったかと思うとすぐ出て来た。
「何だか暗くって気味が悪いのね。それに桶や湯槽が古いんでゆっくり洗う気にもなれないわ」 その時自分は畏まった下女を前に置いて蝋燭の灯を便に宿帳をつけべく余儀なくされていた。
「姉さん宿帳はどうつけたら好いでしょう」「どうでも。好い加減に願います」 嫂はこう云って小さい袋から櫛やなにか這入っている更紗の畳紙を出し始めた。
彼女は後向になって蝋燭を一つ占領して鏡台に向いつつ何かやっていた。
自分は仕方なしに東京の番地と嫂の名を書いて、わざと傍に一郎妻と認めた。
同様の意味で自分の側にも一郎弟とわざわざ断った。
飯の出る前に、何の拍子か、先に暗くなった電灯がまた一時に明るくなった。
その時台所の方でわあと喜びの鬨の声を挙げたものがあった。
暴風雨で魚がないと下女が言訳を云ったにかかわらず、われわれの膳の上は明かであった。
「まるで生返ったようね」と嫂が云った。
すると電灯がまたぱっと消えた。
自分は急に箸を消えたところに留めたぎり、しばらく動かさなかった。
「おやおや」 下女は大きな声をして朋輩の名を呼びながら灯火を求めた。
自分は電気灯がぱっと明るくなった瞬間に嫂が、いつの間にか薄く化粧を施したという艶かしい事実を見て取った。
電灯の消えた今、その顔だけが真闇なうちにもとの通り残っているような気がしてならなかった。
「姉さんいつ御粧したんです」「あら厭だ真闇になってから、そんな事を云いだして。あなたいつ見たの」 下女は暗闇で笑い出した。
そうして自分の眼ざとい事を賞めた。
「こんな時に白粉まで持って来るのは実に細かいですね、姉さんは」と自分はまた暗闇の中で嫂に云った。
「白粉なんか持って来やしないわ。持って来たのはクリームよ、あなた」と彼女はまた暗闇の中で弁解した。
自分は暗がりの中で、しかも下女のいる前で、こんな冗談を云うのが常よりは面白かった。
そこへ彼女の朋輩がまた別の蝋燭を二本ばかり点けて来た。
室の中は裸蝋燭の灯で渦を巻くように動揺した。
自分も嫂も眉を顰めて燃える焔の先を見つめていた。
そうして落ちつきのない淋しさとでも形容すべき心持を味わった。
ほどなく自分達は寝た。
便所に立った時、自分は窓の間から空を仰ぐように覗いて見た。
今まで多少静まっていた暴風雨が、この時は夜更と共に募ったものか、真黒な空が真黒いなりに活動して、瞬間も休まないように感ぜられた。
自分は恐ろしい空の中で、黒い電光が擦れ合って、互に黒い針に似たものを隙間なく出しながら、この暗さを大きな音の中に維持しているのだと想像し、かつその想像の前に畏縮した。
蚊帳の外には蝋燭の代りに下女が床を延べた時、行灯を置いて行った。
その行灯がまた古風な陰気なもので、いっそ吹き消して闇がりにした方が、微かな光に照らされる無気味さよりはかえって心持が好いくらいだった。
自分は燐寸を擦って、薄暗い所で煙草を呑み始めた。
三十七
自分は先刻から少しも寝なかった。
小用に立って、一本の紙巻を吹かす間にもいろいろな事を考えた。
それが取りとめもなく雑然と一度に来るので、自分にも何が主要の問題だか捕えられなかった。
自分は燐寸を擦って煙草を呑んでいる事さえ時々忘れた。
しかもそこに気がついて、再び吸口を唇に銜える時の煙の無味さはまた特別であった。
自分の頭の中には、今見て来た正体の解らない黒い空が、凄まじく一様に動いていた。
それから母や兄のいる三階の宿が波を幾度となく被って、くるりくるりと廻り出していた。
それが片づかないうちに、この部屋の中に寝ている嫂の事がまた気になり出した。
天災とは云え二人でここへ泊った言訳をどうしたものだろうと考えた。
弁解してから後、兄の機嫌をどうして取り直したものだろうとも考えた。
同時に今日嫂といっしょに出て、滅多にないこんな冒険を共にした嬉しさがどこからか湧いて出た。
その嬉しさが出た時、自分は風も雨も海嘯も母も兄もことごとく忘れた。
するとその嬉しさがまた俄然として一種の恐ろしさに変化した。
恐ろしさと云うよりも、むしろ恐ろしさの前触であった。
どこかに潜伏しているように思われる不安の徴候であった。
そうしてその時は外面を狂い廻る暴風雨が、木を根こぎにしたり、塀を倒したり、屋根瓦を捲くったりするのみならず、今薄暗い行灯の下で味のない煙草を吸っているこの自分を、粉微塵に破壊する予告のごとく思われた。
自分がこんな事をぐるぐる考えているうちに、蚊帳の中に死人のごとくおとなしくしていた嫂が、急に寝返をした。
そうして自分に聞えるように長い欠伸をした。
「姉さんまだ寝ないんですか」と自分は煙草の煙の間から嫂に聞いた。
「ええ、だってこの吹き降りじゃ寝ようにも寝られないじゃありませんか」「僕もあの風の音が耳についてどうする事もできない。電灯の消えたのは、何でもここいら近所にある柱が一本とか二本とか倒れたためだってね」「そうよ、そんな事を先刻下女が云ったわね」「御母さんと兄さんはどうしたでしょう」「妾も先刻からその事ばかり考えているの。しかしまさか浪は這入らないでしょう。這入ったって、あの土手の松の近所にある怪しい藁屋ぐらいなものよ。持ってかれるのは。もし本当の海嘯が来てあすこ界隈をすっかり攫って行くんなら、妾本当に惜しい事をしたと思うわ」「なぜ」「なぜって、妾そんな物凄いところが見たいんですもの」「冗談じゃない」と自分は嫂の言葉をぶった切るつもりで云った。
すると嫂は真面目に答えた。
「あら本当よ二郎さん。妾死ぬなら首を縊ったり咽喉を突いたり、そんな小刀細工をするのは嫌よ。大水に攫われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」 自分は小説などをそれほど愛読しない嫂から、始めてこんなロマンチックな言葉を聞いた。
そうして心のうちでこれは全く神経の昂奮から来たに違いないと判じた。
「何かの本にでも出て来そうな死方ですね」「本に出るか芝居でやるか知らないが、妾ゃ真剣にそう考えてるのよ。嘘だと思うならこれから二人で和歌の浦へ行って浪でも海嘯でも構わない、いっしょに飛び込んで御目にかけましょうか」「あなた今夜は昂奮している」と自分は慰撫めるごとく云った。
「妾の方があなたよりどのくらい落ちついているか知れやしない。たいていの男は意気地なしね、いざとなると」と彼女は床の中で答えた。
三十八
自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。
嫂はどこからどう押しても押しようのない女であった。
こっちが積極的に進むとまるで暖簾のように抵抗がなかった。
仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。
その力の中にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。
またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。
自分は彼女と話している間始終彼女から翻弄されつつあるような心持がした。
不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。
彼女は最後に物凄い決心を語った。
海嘯に攫われて行きたいとか、雷火に打たれて死にたいとか、何しろ平凡以上に壮烈な最後を望んでいた。
自分は平生から(ことに二人でこの和歌山に来てから)体力や筋力において遥に優勢な位地に立ちつつも、嫂に対してはどことなく無気味な感じがあった。
そうしてその無気味さがはなはだ狎れやすい感じと妙に相伴っていた。
自分は詩や小説にそれほど親しみのない嫂のくせに、何に昂奮して海嘯に攫われて死にたいなどと云うのか、そこをもっと突きとめて見たかった。
「姉さんが死ぬなんて事を云い出したのは今夜始めてですね」「ええ口へ出したのは今夜が始めてかも知れなくってよ。けれども死ぬ事は、死ぬ事だけはどうしたって心の中で忘れた日はありゃしないわ。だから嘘だと思うなら、和歌の浦まで伴れて行ってちょうだい。きっと浪の中へ飛込んで死んで見せるから」 薄暗い行灯の下で、暴風雨の音の間にこの言葉を聞いた自分は、実際物凄かった。
彼女は平生から落ちついた女であった。
歇私的里風なところはほとんどなかった。
けれども寡言な彼女の頬は常に蒼かった。
そうしてどこかの調子で眼の中に意味の強い解すべからざる光が出た。
「姉さんは今夜よっぽどどうかしている。何か昂奮している事でもあるんですか」 自分は彼女の涙を見る事はできなかった。
また彼女の泣き声を聞く事もできなかった。
けれども今にもそこに至りそうな気がするので、暗い行灯の光を便りに、蚊帳の中を覗いて見た。
彼女は赤い蒲団を二枚重ねてその上に縁を取った白麻の掛蒲団を胸の所まで行儀よく掛けていた。
自分が暗い灯でその姿を覗き込んだ時、彼女は枕を動かして自分の方を見た。
「あなた昂奮昂奮って、よくおっしゃるけれども妾ゃあなたよりいくら落ちついてるか解りゃしないわ。いつでも覚悟ができてるんですもの」 自分は何と答うべき言葉も持たなかった。
黙って二本目の敷島を暗い灯影で吸い出した。
自分はわが鼻と口から濛々と出る煙ばかりを眺めていた。
自分はその間に気味のわるい眼を転じて、時々蚊帳の中を窺った。
嫂の姿は死んだように静であった。
あるいはすでに寝ついたのではないかとも思われた。
すると突然仰向けになった顔の中から、「二郎さん」と云う声が聞こえた。
「何ですか」と自分は答えた。
「あなたそこで何をしていらっしゃるの」「煙草を呑んでるんです。寝られないから」「早く御休みなさいよ。寝られないと毒だから」「ええ」 自分は蚊帳の裾を捲くって、自分の床の中に這入った。
三十九
翌日は昨日と打って変って美しい空を朝まだきから仰ぐ事を得た。
「好い天気になりましたね」と自分は嫂に向って云った。
「本当ね」と彼女も答えた。
二人はよく寝なかったから、夢から覚めたという心持はしなかった。
ただ床を離れるや否や魔から覚めたという感じがしたほど、空は蒼く染められていた。
自分は朝飯の膳に向いながら、廂を洩れる明らかな光を見て、急に気分の変化に心づいた。
したがって向い合っている嫂の姿が昨夕の嫂とは全く異なるような心持もした。
今朝見ると彼女の眼にどこといって浪漫的な光は射していなかった。
ただ寝の足りない※が急に爽かな光に照らされて、それに抵抗するのがいかにも慵いと云ったような一種の倦怠るさが見えた。
頬の蒼白いのも常に変らなかった。
我々はできるだけ早く朝飯を済まして宿を立った。
電車はまだ通じないだろうという宿のものの注意を信用して俥を雇った。
車夫は土間から表に出た我々を一目見て、すぐ夫婦ものと鑑定したらしかった。
俥に乗るや否や自分の梶棒を先へ上げた。
自分はそれをとめるように、「後から後から」と云った。
車夫は心得て「奥さんの方が先だ」と相図した。
嫂の俥が自分の傍を擦り抜ける時、彼女は例の片靨を見せて「御先へ」と挨拶した。
自分は「さあどうぞ」と云ったようなものの、腹の中では車夫の口にした奥さんという言葉が大いに気になった。
嫂はそんな景色もなく、自分を乗り越すや否や、琥珀に刺繍のある日傘を翳した。
彼女の後姿はいかにも涼しそうに見えた。
奥さんと云われても云われないでも全く無関係の態度で、俥の上に澄まして乗っているとしか思われなかった。
自分は嫂の後姿を見つめながら、また彼女の人となりに思い及んだ。
自分は平生こそ嫂の性質を幾分かしっかり手に握っているつもりであったが、いざ本式に彼女の口から本当のところを聞いて見ようとすると、まるで八幡の藪知らずへ這入ったように、すべてが解らなくなった。
すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない嫂のごときものに帰着するのではあるまいか。
経験に乏しい自分はこうも考えて見た。
またその正体の知れないところがすなわち他の婦人に見出しがたい嫂だけの特色であるようにも考えて見た。
とにかく嫂の正体は全く解らないうちに、空が蒼々と晴れてしまった。
自分は気の抜けた麦酒のような心持を抱いて、先へ行く彼女の後姿を絶えず眺めていた。
突然自分は宿へ帰ってから嫂について兄に報告をする義務がまだ残っている事に気がついた。
自分は何と報告して好いかよく解らなかった。
云うべき言葉はたくさんあったけれども、それを一々兄の前に並べるのはとうてい自分の勇気ではできなかった。
よし並べたって最後の一句は正体が知れないという簡単な事実に帰するだけであった。
あるいは兄自身も自分と同じく、この正体を見届ようと煩悶し抜いた結果、こんな事になったのではなかろうか。
自分は自分がもし兄と同じ運命に遭遇したら、あるいは兄以上に神経を悩ましはしまいかと思って、始めて恐ろしい心持がした。
俥が宿へ着いたとき、三階の縁側には母の影も兄の姿も見えなかった。
四十
兄は三階の日に遠い室で例の黒い光沢のある頭を枕に着けて仰向きになっていた。
けれども眠ってはいなかった。
むしろ充血した眼を見張るように緊張して天井を見つめていた。
彼は自分達の足音を聞くや否や、いきなりその血走った眼を自分と嫂に注いだ。
自分は兼てからその眼つきを予想し得なかったほど兄を知らない訳でもなかった。
けれども室の入口で嫂と相並んで立ちながら、昨夕まんじりともしなかったと自白しているような彼の赤くて鋭い眼つきを見た時は、少し驚かされた。
自分はこういう場合の緩和剤として例の通り母を求めた。
その母は座敷の中にも縁側にもどこにも見当らなかった。
自分が彼女を探しているうちに嫂は兄の枕元に坐って挨拶をした。
「ただいま」 兄は何とも答えなかった。
嫂はまた坐ったなりそこを動かなかった。
自分は勢いとして口を開くべく余儀なくされた。
「昨夕こっちは大変な暴風雨でしたってね」「うんずいぶんひどい風だった」「波があの石の土手を越して松並木から下へ流れ込んだの」 これは嫂の言葉であった。
兄はしばらく彼女の顔を眺めていた。
それから徐ろに答えた。
「いやそうでもない。家に故障はなかったはずだ」「じゃ。無理に帰れば帰れたのね」 嫂はこう云って自分を顧みた。
自分は彼女よりもむしろ兄の方に向いた。
「いやとても帰れなかったんです。電車がだいち通じないんですもの」「そうかも知れない。昨日は夕方あたりからあの波が非常に高く見えたから」「夜中に宅が揺れやしなくって」 これも嫂の兄に聞いた問であった。
今度は兄がすぐ答えた。
「揺れた。お母さんは危険だからと云って下へ降りて行かれたくらい揺れた」 自分は兄の眼色の険悪な割合に、それほど殺気を帯びていない彼の言語動作をようよう確め得た時やっと安心した。
彼は自分の性急に比べると約五倍がたの癇癪持であった。
けれども一種天賦の能力があって、時にその癇癪を巧に殺す事ができた。
その内に明神様へ御参りに行った母が帰って来た。
彼女は自分の顔を見てようやく安心したというような色をしてくれた。
「よく早く帰れて好かったね。――まあ昨夕の恐ろしさったら、そりゃ御話にも何にもならないんだよ、二郎。この柱がぎいぎいって鳴るたんびに、座敷が右左に動くんだろう。そこへ持って来て、あの浪の音がね。――わたしゃ今聞いても本当にぞっとするよ……」 母は昨夕の暴風雨をひどく怖がった。
ことにその聯想から出る、防波堤を砕きにかかる浪の音を嫌った。
「もうもう和歌の浦も御免。海も御免。慾も得も要らないから、早く東京へ帰りたいよ」 母はこう云って眉をひそめた。
兄は肉のない頬へ皺を寄せて苦笑した。
「二郎達は昨夕どこへ泊ったんだい」と聞いた。
自分は和歌山の宿の名を挙げて答えた。
「好い宿かい」「何だかかんだか、ただ暗くって陰気なだけです。ねえ姉さん」 その時兄は走るような眼を嫂に転じた。
嫂はただ自分の顔を見て「まるでお化でも出そうな宅ね」と云った。
日の夕暮に自分は嫂と階段の下で出逢った。
その時自分は彼女に「どうです、兄さんは怒ってるんでしょうか」と聞いて見た。
嫂は「どうだか腹の中はちょっと解らないわ」と淋しく笑いながら上へ昇って行った。
四十一
母が暴風雨に怖気がついて、早く立とうと云うのを機に、みんなここを切上げて一刻も早く帰る事にした。
「いかな名所でも一日二日は好いが、長くなるとつまらないですね」と兄は母に同意していた。
母は自分を小蔭へ呼んで、「二郎お前どうするつもりだい」と聞いた。
自分は自分の留守中に兄が万事を母に打ち明けたのかと思った。
しかし兄の平生から察すると、そんな行き抜けの人となりでもなさそうであった。
「兄さんは昨夕僕らが帰らないんで、機嫌でも悪くしているんですか」 自分がこう質問をかけた時、母は少しの間黙っていた。
「昨夕はね、知っての通りの浪や風だから、そんな話をする閑も無かったけれども……」 母はどうしてもそこまでしか云わなかった。
「お母さんは何だか僕と嫂さんの仲を疑ぐっていらっしゃるようだが……」と云いかけると、今まで自分の眼をじっと見ていた母は急に手を振って自分を遮った。
「そんな事があるものかねお前、お母さんに限って」 母の言葉は実際判然した言葉に違なかった。
顔つきも眼つきもきびきびしていた。
けれども彼女の腹の中はとても読めなかった。
自分は親身の子として、時たま本当の父や母に向いながら嘘と知りつつ真顔で何か云い聞かされる事を覚えて以来、世の中で本式の本当を云い続けに云うものは一人もないと諦めていた。
「兄さんには僕から万事話す事になっています。そう云う約束になってるんだから、お母さんが心配なさる必要はありません。安心していらっしゃい」「じゃなるべく早く片づけた方が好いよ二郎」 自分達はその明くる宵の急行で東京へ帰る事にきめていた。
実はまだ大阪を中心として、見物かたがた歩くべき場所はたくさんあったけれども、母の気が進まず、兄の興味が乗らず、大阪で中継をする時間さえ惜んで、すぐ東京まで寝台で通そうと云うのが母と兄の主張であった。
自分達は是非共翌日の朝の汽車で和歌山から大阪へ向けて立たなければならなかった。
自分は母の命令で岡田の宅まで電報を打った。
「佐野さんへはかける必要もないでしょう」と云いながら自分は母と兄の顔を眺めた。
「あるまい」と兄が答えた。
「岡田へさえ打っておけば、佐野さんはうっちゃっておいてもきっと送りに来てくれるよ」 自分は電報紙を持ちながら、是非共お貞さんを貰いたいという佐野のお凸額とその金縁眼鏡を思い出した。
「ではあのお凸額さんは止めておこう」 自分はこう云って、みんなを笑わせた。
自分がとうから佐野の御凸額を気にしていたごとく、ほかのものも同じ人の同じ特色を注意していたらしかった。
「写真で見たより御凸額ね」と嫂は真面目な顔で云った。
自分は冗談のうちに自分を紛しつつ、どんな折を利用して嫂の事を兄に復命したものだろうかと考えていた。
それで時々偸むようにまた先方の気のつかないように兄の様子を見た。
ところが兄は自分の予期に反して、全くそれには無頓着のように思われた。
四十二
自分が兄から別室に呼出されたのはそれが済んでしばらくしてであった。
その時兄は常に変らない様子をして、(嫂に評させると常に変らない様子を装って、)「二郎ちょっと話がある。あっちの室へ来てくれ」と穏かに云った。
自分はおとなしく「はい」と答えて立った。
しかしどうした機か立つときに嫂の顔をちょっと見た。
その時は何の気もつかなかったが、この平凡な所作がその後自分の胸には絶えず驕慢の発現として響いた。
嫂は自分と顔を合せた時、いつもの通り片靨を見せて笑った。
自分と嫂の眼を他から見たら、どこかに得意の光を帯びていたのではあるまいか。
自分は立ちながら、次の室で浴衣を畳んでいた母の方をちょっと顧て、思わず立竦んだ。
母の眼つきは先刻からたった一人でそっと我々を観察していたとしか見えなかった。
自分は母から疑惑の矢を胸に射つけられたような気分で兄のいる室へ這入った。
その頃はちょうど旧暦の盆で、いわゆる盆波の荒いためか、泊り客は無論、日返りの遊び客さえいつもほどは影を見せなかった。
広い三階建てはしたがって空いている室の方が多かった。
少しの間融通しようと思えば、いつでも自分の自由になった。
兄は兼てから下女に命じておいたものと見えて、室には麻の蒲団が差し向いに二枚、華奢な煙草盆を間に、団扇さえ添えて据えられてあった。
自分は兄の前に坐った。
けれども何と云い出して然るべきだか、その手加減がちょっと解らないので、ただ黙っていた。
兄も容易に口を開かなかった。
しかしこんな場合になると性質上きっと兄の方から積極的に出るに違いないと踏んだ自分は、わざと巻莨を吹かしつづけた。
自分はこの時の自分の心理状態を解剖して、今から顧みると、兄に調戯うというほどでもないが、多少彼を焦らす気味でいたのはたしかであると自白せざるを得ない。
もっとも自分がなぜそれほど兄に対して大胆になり得たかは、我ながら解らない。
恐らく嫂の態度が知らぬ間に自分に乗り移っていたものだろう。
自分は今になって、取り返す事も償う事もできないこの態度を深く懺悔したいと思う。
自分が巻莨を吹かして黙っていると兄ははたして「二郎」と呼びかけた。
「お前直の性質が解ったかい」「解りません」 自分は兄の問の余りに厳格なため、ついこう簡単に答えてしまった。
そうしてそのあまりに形式的なのに後から気がついて、悪かったと思い返したが、もう及ばなかった。
兄はその後一口も聞きもせず、また答えもしなかった。
二人こうして黙っている間が、自分には非常な苦痛であった。
今考えると兄には、なおさらの苦痛であったに違ない。
「二郎、おれはお前の兄として、ただ解りませんという冷淡な挨拶を受けようとは思わなかった」 兄はこう云った。
そうしてその声は低くかつ顫えていた。
彼は母の手前、宿の手前、また自分の手前と問題の手前とを兼ねて、高くなるべきはずの咽喉を、やっとの思いで抑えているように見えた。
「お前そんな冷淡な挨拶を一口したぎりで済むものと、高を括ってるのか、子供じゃあるまいし」「いえけっしてそんなわけじゃありません」 これだけの返事をした時の自分は真に純良なる弟であった。
四十三
「そう云うつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳く話したら好いじゃないか」 兄は苦り切って団扇の絵を見つめていた。
自分は兄に顔を見られないのを幸いに、暗に彼の様子を窺った。
自分からこういうと兄を軽蔑するようではなはだすまないが、彼の表情のどこかには、というよりも、彼の態度のどこかには、少し大人気を欠いた稚気さえ現われていた。
今の自分はこの純粋な一本調子に対して、相応の尊敬を払う見地を具えているつもりである。
けれども人格のできていなかった当時の自分には、ただ向の隙を見て事をするのが賢いのだという利害の念が、こんな問題にまでつけ纏わっていた。
自分はしばらく兄の様子を見ていた。
そうしてこれは与しやすいという心が起った。
彼は癇癪を起している。
彼は焦れ切っている。
彼はわざとそれを抑えようとしている。
全く余裕のないほど緊張している。
しかし風船球のように軽く緊張している。
もう少し待っていれば自分の力で破裂するか、または自分の力でどこかへ飛んで行くに相違ない。
――自分はこう観察した。
嫂が兄の手に合わないのも全くここに根ざしているのだと自分はこの時ようやく勘づいた。
また嫂として存在するには、彼女の遣口が一番巧妙なんだろうとも考えた。
自分は今日までただ兄の正面ばかり見て、遠慮したり気兼したり、時によっては恐れ入ったりしていた。
しかし昨日一日一晩嫂と暮した経験は図らずもこの苦々しい兄を裏から甘く見る結果になって眼前に現われて来た。
自分はいつ嫂から兄をこう見ろと教わった覚はなかった。
けれども兄の前へ出て、これほど度胸の据った事もまたなかった。
自分は比較的すまして、団扇を見つめている兄の額のあたりをこっちでも見つめていた。
すると兄が急に首を上げた。
「二郎何とか云わないか」と励しい言葉を自分の鼓膜に射込んだ。
自分はその声でまたはっと平生の自分に返った。
「今云おうと思ってるところです。しかし事が複雑なだけに、何から話して好いか解らないんでちょっと困ってるんです。兄さんもほかの事たあ違うんだから、もう少し打ち解けてゆっくり聞いて下さらなくっちゃ。そう裁判所みたように生真面目に叱りつけられちゃ、せっかく咽喉まで出かかったものも、辟易して引込んじまいますから」 自分がこう云うと、兄はさすがに一見識ある人だけあって、「ああそうかおれが悪かった。お前が性急の上へ持って来て、おれが癇癪持と来ているから、つい変にもなるんだろう。二郎、それじゃいつゆっくり話される。ゆっくり聞く事なら今でもおれにはできるつもりだが」と云った。
「まあ東京へ帰るまで待って下さい。東京へ帰るたって、あすの晩の急行だから、もう直です。その上で落ちついて僕の考えも申し上げたいと思ってますから」「それでも好い」 兄は落ちついて答えた。
今までの彼の癇癪を自分の信用で吹き払い得たごとくに。
「ではどうか、そう願います」と云って自分が立ちかけた時、兄は「ああ」と肯ずいて見せたが、自分が敷居を跨ぐ拍子に「おい二郎」とまた呼び戻した。
「詳い事は追って東京で聞くとして、ただ一言だけ要領を聞いておこうか」「姉さんについて……」「無論」「姉さんの人格について、御疑いになるところはまるでありません」 自分がこう云った時、兄は急に色を変えた。
けれども何にも云わなかった。
自分はそれぎり席を立ってしまった。
四十四
自分はその時場合によれば、兄から拳骨を食うか、または後から熱罵を浴せかけられる事と予期していた。
色を変えた彼を後に見捨てて、自分の席を立ったくらいだから、自分は普通よりよほど彼を見縊っていたに違なかった。
その上自分はいざとなれば腕力に訴えてでも嫂を弁護する気概を十分具えていた。
これは嫂が潔白だからというよりも嫂に新たなる同情が加わったからと云う方が適切かも知れなかった。
云い換えると、自分は兄をそれだけ軽蔑し始めたのである。
席を立つ時などは多少彼に対する敵愾心さえ起った。
自分が室へ帰って来た時、母はもう浴衣を畳んではいなかった。
けれども小さい行李の始末に余念なく手を動かしていた。
それでも心は手許になかったと見えて、自分の足音を聞くや否や、すぐこっちを向いた。
「兄さんは」「今来るでしょう」「もう話は済んだの」「済むの済まないのって、始めからそんな大した話じゃないんです」 自分は母の気を休めるため、わざと蒼蠅そうにこう云った。
母はまた行李の中へ、こまごましたものを出したり入れたりし始めた。
自分は今度は彼の女に恥じて、けっして傍に手伝っている嫂の顔をあえて見なかった。
それでも彼女の若くて淋しい唇には冷かな笑の影が、自分の眼を掠めるように過ぎた。
「今から荷造りですか。ちっと早過ぎるな」と自分はわざと年を取った母を嘲けるごとく注意した。
「だって立つとなれば、なるたけ早く用意しておいた方が都合が好いからね」「そうですとも」 嫂のこの返事は、自分が何か云おうとする先を越して声に応ずる響のごとく出た。
「じゃ縄でも絡げましょう。男の役だから」 自分は兄と反対に車夫や職人のするような荒仕事に妙を得ていた。
ことに行李を括るのは得意であった。
自分が縄を十文字に掛け始めると、嫂はすぐ立って兄のいる室の方に行った。
自分は思わずその後姿を見送った。
「二郎兄さんの機嫌はどうだったい」と母がわざわざ小さな声で自分に聞いた。
「別にこれと云う事もありません。なあに心配なさる事があるもんですか。大丈夫です」と自分はことさらに荒っぽく云って、右足で行李の蓋をぎいぎい締めた。
「実はお前にも話したい事があるんだが。東京へでも帰ったらいずれまたゆっくりね」「ええゆっくり伺いましょう」 自分はこう無造作に答えながら、腹の中では母のいわゆる話なるものの内容を朧気ながら髣髴した。
しばらくすると、兄と嫂が別席から出て来た。
自分は平気を粧いながら母と話している間にも、両人の会見とその会見の結果について多少気がかりなところがあった。
母は二人の並んで来る様子を見て、やっと安心した風を見せた。
自分にもどこかにそんなところがあった。
自分は行李を絡げる努力で、顔やら背中やらから汗がたくさん出た。
腕捲りをした上、浴衣の袖で汗を容赦なく拭いた。
「おい暑そうだ。少し扇いでやるが好い」 兄はこう云って嫂を顧みた。
嫂は静に立って自分を扇いでくれた。
「何よござんす。もう直ですから」 自分がこう断っているうちに、やがて明日の荷造りは出来上った。
帰ってから