行人

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十

第 20 章
翌日よくじつ朝あさの汽車きしゃで立ったった自分じぶん達とおるは狭いせまい列車れっしゃのなかの食堂しょくどうで昼飯ちゅうはんを食っしょくった。
「給仕きゅうじがみんな女おんなだから面白いおもしろい。しかもなかなか別嬪べっぴんがいますぜ、白いしろいエプロンえぷろんを掛けかけてね。是非ぜひ中なかで昼飯ちゅうはんをやって御覧ごらんなさい」と岡田おかだが自分じぶんに注意ちゅういしたから、自分じぶんは皿さらを運んはこんだりサイダーさいだーを注いそそいだりする女おんなをよく心づけこころづけて見みた。
しかし別べつにこれというほどの器量きりょうをもったものもいなかった。
母ははと嫂ねーは物珍らしものめずらしそうに窓まどの外そとを眺めながめて、田舎いなかめいた景色けしきを賞ししょうし合っあった。
実際じっさい窓外そうがいの眺めながめは大阪おおさかを今いま離れはなれたばかりの自分じぶん達とおるには一いちつの変化へんかであった。
ことに汽車きしゃが海岸かいがん近くちかくを走るはしるときは、松まつの緑みどりと海うみの藍あいとで、煙けむりに疲れつかれた眼めに爽かさわやかな青色あおいろを射返しいかえした。
木蔭こかげから出でたり隠れかくれたりする屋根瓦やねがわらの積みつみ方ほうも東京とうきょう地方ちほうのものには珍らしかっめずらしかった。
「あれは妙みょうだね。御ご寺てらかと思うおもうと、そうでもないし。二郎じろう、やっぱり百姓家ひゃくしょうかなのかね」と母ははがわざわざ指ゆびをさして、比較的ひかくてき大きなおおきな屋根やねを自分じぶんに示ししめした。
自分じぶんは汽車きしゃの中なかで兄あにと隣り合せとなりあわせに坐っすわった。
兄あには何なんか考え込んかんがえこんでいた。
自分じぶんは心こころの内うちでまた例れいのが始まっはじまったのじゃないかと思っおもった。
少しすこし話はなしでもして機嫌きげんを直そうなおそうか、それとも黙っだまって知らしらん顔かおをしていようかと躊躇ちゅうちょした。
兄あには何なんか癪しゃくに障っさわった時じでも、むずかしい高尚こうしょうな問題もんだいを考えかんがえている時じでも同じくおなじくこんな様子ようすをするから、自分じぶんにはいっこう見分けんぶんがつかなかった。
自分じぶんはしまいにとうとう思い切っおもいきってこっちから何なんか話はなしを切り出そうきりだそうとした。
と云ういうのは、向側むかいがわに腰こしをかけている母ははが、嫂ねーと応対おうたいの相間あいま相間あいまに、兄あにの顔かおを偸むぬすむように一二いちに度ど見みたからである。
「兄さんあにさん、面白いおもしろい話はなしがありますがね」と自分じぶんは兄あにの方ほうを見みた。
「何なんだ」と兄あにが云っいった。
兄あにの調子ちょうしは自分じぶんの予期よきした通りとおり無愛想むあいそであった。
しかしそれは覚悟かくごの前まえであった。
「ついこの間ま三沢みさわから聞いきいたばかりの話はなしですがね。……」 自分じぶんは例れいの精神病せいしんびょうの娘むすめさんがいったん嫁いよめいだあと不縁ふえんになって、三沢みさわの宅たくへ引き取らひきとられた時じ、三沢みさわの出るでる後あとを慕っしたって、早くはやく帰っかえって来きてちょうだいと、いつでも云いいい習わしならわした話はなしをしようと思っおもってちょっとそこで句くを切っきった。
すると兄あには急きゅうに気乗りきのりのしたような顔かおをして、「その話はなしならおれも聞いきいて知っしっている。三沢みさわがその女おんなの死んしんだとき、冷たいつめたい額がくへ接吻せっぷんしたという話はなしだろう」と云っいった。
自分じぶんは喫驚きっきょうした。
「そんな事ことがあるんですか。三沢みさわは接吻せっぷんの事ことについては一口ひとくちも云いいいませんでしたがね。皆みなないる前まえでですか、三沢みさわが接吻せっぷんしたって云ういうのは」「それは知らしらない。皆みなの前まえでやったのか。またはほかに人ひとのいない時じにやったのか」「だって三沢みさわがたった一人ひとりでその娘むすめさんの死骸しがいの傍そばにいるはずがないと思いおもいますがね。もし誰だれもそばにいない時じ接吻せっぷんしたとすると」「だから知らしらんと断っことわってるじゃないか」 自分じぶんは黙っだまって考え込んかんがえこんだ。
「いったい兄さんあにさんはどうして、そんな話はなしを知っしってるんです」「Hから聞いきいた」 Hとは兄あにの同僚どうりょうで、三沢みさわを教えおしえた男おとこであった。
そのHは三沢みさわの保証人ほしょうにんだったから、少しすこしは関係かんけいの深いぶかい間柄あいだがらなんだろうけれども、どうしてこんな際どいきわどい話はなしを聞き込んききこんで、兄あにに伝えつたえたものだろうか、それは彼かれも知らしらなかった。
「兄さんあにさんはなぜまた今日きょうまでその話はなしを為ためずに黙っだまっていたんです」と自分じぶんは最後さいごに兄あにに聞いきいた。
兄あには苦いにがい顔かおをして、「する必要ひつようがないからさ」と答えこたえた。
自分じぶんは様子ようすによったらもっと肉薄にくはくして見ようみようかと思っおもっているうちに汽車きしゃが着いついた。
十一じゅういち
停車場ていしゃじょうを出るでるとすぐそこに電車でんしゃが待っまっていた。
兄あにと自分じぶんは手提てさげ鞄かばんを持っもったまま婦人ふじんを扶けたすけて急いいそいでそれに乗り込んのりこんだ。
電車でんしゃは自分じぶん達とおる四よん人ひとが一度いちどに這入っはいっただけで、なかなか動きうごき出さださなかった。
「閑静かんせいな電車でんしゃですね」と自分じぶんが侮あなどりどるように云っいった。
「これなら妾めかけ達とおるの荷物にもつを乗っけのっけてもよさそうだね」と母ははは停車場ていしゃじょうの方ほうを顧みかえりみた。
ところへ書物しょもつを持っもった書生しょせい体からだの男おとこだの、扇おうぎを使うつかう商人しょうにん風かぜの男おとこだのが二三にさん人ひと前後ぜんごして車台しゃだいに上っのぼってばらばらに腰こしをかけ始めはじめたので、運転手うんてんしゅはついに把手とってを動かしうごかし出しだした。
自分じぶん達とおるは何なんだか市しの外廓がいかくらしい淋しいさびしい土塀どべいつづきの狭いせまい町まちを曲っきょくって、二三にさん度ど停留所ていりゅうしょを通り越しとおりこした後あと、高いたかい石垣いしがきの下したにある濠ほりを見みた。
濠ほりの中なかには蓮れんが一面いちめんに青いあおい葉はを浮べうかべていた。
その青いあおい葉はの中なかに、点々てんてんと咲くさく紅くれないの花はなが、落ちつかおちつかない自分じぶん達とおるの眼めをちらちらさせた。
「へえーこれが昔むかしのお城しろかね」と母ははは感心かんしんしていた。
母ははの叔母おばというのが、昔むかしし紀州きしゅう家いえの奥おくに勤めつとめていたとか云ういうので、母ははは一層いっそう感慨かんがいの念ねんが深かっぶかかったのだろう。
自分じぶんも子供こどもの時じ、折々おりおり耳みみにした紀州きしゅう様よう、紀州きしゅう様ようという封建ほうけん時代じだいの言葉ことばをふと思い出しおもいだした。
和歌山市わかやましを通り越しとおりこして少しすこし田舎道いなかみちを走るはしると、電車でんしゃはじき和歌わかの浦うらへ着いついた。
抜目ぬけめのない岡田おかだはかねてから注意ちゅういして土地とちで一流いちりゅうの宿屋やどやへ室むろの注文ちゅうもんをしたのだが、あいにく避暑ひしょの客きゃくが込み合っこみあって、眺めながめの好いよい座敷ざしきが塞がっふさがっているとかで、自分じぶん達とおるは直じかに俥くるまを命じめいじて浜手はまての角かくを曲っきょくった。
そうして海うみを真前まんまえに控えひかえた高いたかい三さん階かいの上層じょうそうの一室いっしつに入っはいった。
そこは南みなみと西にしの開いひらいた広いひろい座敷ざしきだったが、普請ふしんは気きの利いきいた東京とうきょうの下宿屋げしゅくやぐらいなもので、品位ひんいからいうと大阪おおさかの旅館りょかんとはてんで比べ物くらべものにならなかった。
時々ときどき大おお一座いちざでもあった時じに使うつかう二に階かいはぶっ通しぶっとおしの大広間おおひろまで、伽藍堂がらんどうのような真中まなかに立ったって、波なみを打っうった安あん畳たたみを眺めるながめると、何なんとなく殺風景さっぷうけいな感かんが起っおこった。
兄あにはその大広間おおひろまに仮かりの仕切しきりとして立てたててあった六ろく枚ばい折おりの屏風びょうぶを黙っだまって見みていた。
彼かれはこういうものに対したいして、父ちちの薫陶くんとうから来きた一種いっしゅの鑑賞かんしょう力ちからをもっていた。
その屏風びょうぶには妙みょうにべろべろした葉はの竹たけが巧たくみに描かえがかれていた。
兄あには突然とつぜん後あとを向いむかいて「おい二郎じろう」と云っいった。
その時じ兄あにと自分じぶんは下したの風呂ふろに行くいくつもりで二人ふたりながら手拭てぬぐいをさげていた。
そうして自分じぶんは彼かれの二に間まばかり後あとに立ったって、屏風びょうぶの竹たけを眺めるながめる彼かれをまた眺めながめていた。
自分じぶんは兄あにがこの屏風びょうぶの画がについて、何なんかまた批評ひひょうを加えるくわえるに違いちがいないと思っおもった。
「何なんです」と答えこたえた。
「先刻せんこく汽車きしゃの中なかで話しはなしが出でた、あの三沢みさわの事ことだね。お前おまえはどう思うおもう」 兄あにの質問しつもんは実際じっさい自分じぶんに取っとって意外いがいであった。
彼かれはなぜその話しはなしを今までいままで自分じぶんに聞かきかせなかったと汽車きしゃの中なかで問わとわれた時じ、すでに苦いにがい顔かおをして必要ひつようがないからだと答えこたえたばかりであった。
「例れいの接吻せっぷんの話はなしですか」と自分じぶんは聞き返しききかえした。
「いえ接吻せっぷんじゃない。その女おんなが三沢みさわの出るでる後あとを慕っしたって、早くはやく帰っかえって来きてちょうだいと必ずかならず云っいったという方ほうの話はなしさ」「僕ぼくには両方りょうほう共とも面白いおもしろいが、接吻せっぷんの方ほうが何なんだかより多くおおく純粋じゅんすいでかつ美しいうつくしい気きがしますね」 この時じ自分じぶん達とおるは二に階かいの梯子段はしごだんを半分はんぶんほど降りふりていた。
兄あにはその中途ちゅうとでぴたりと留っとめった。
「そりゃ詩的してきに云ういうのだろう。詩しを見るみる眼めで云っいったら、両方りょうほう共とも等しくひとしく面白いおもしろいだろう。けれどもおれの云ういうのはそうじゃない。もっと実際じっさい問題もんだいにしての話はなしだ」
十二じゅうに
自分じぶんには兄あにの意味いみがよく解らわからなかった。
黙っだまって梯子段はしごだんの下したまで降りふりた。
兄あにも仕方なししかたなしに自分じぶんの後あとに跟いて来きた。
風呂場ふろばの入口いりぐちで立ち留ったちどまった自分じぶんは、ふり返っふりかえって兄あにに聞いきいた。
「実際じっさい問題もんだいと云ういうと、どういう事ことになるんですか。ちょっと僕ぼくには解らわからないんですが」 兄あには焦しょう急きゅうたそうに説明せつめいした。
「つまりその女おんながさ、三沢みさわの想像そうぞうする通りとおり本当ほんとうにあの男おとこを思っおもっていたか、または先さきの夫おっとに対したいして云いいいたかった事ことを、我慢がまんして云わいわずにいたので、精神病せいしんびょうの結果けっかふらふらと口くちにし始めはじめたのか、どっちだと思うおもうと云ういうんだ」 自分じぶんもこの問題もんだいは始めはじめその話はなしを聞いきいた時じ、少しすこし考えかんがえて見みた。
けれどもどっちがどうだかとうてい分るわかるべきはずの者ものでないと諦めあきらめて、それなり放っはなってしまった。
それで自分じぶんは兄あにの質問しつもんに対したいしてこれというほどの意見いけんも持っもっていなかった。
「僕ぼくには解らわからんです」「そうか」 兄あにはこう云いいいながら、やっぱり風呂ふろに這入ろうはいろうともせず、そのまま立ったっていた。
自分じぶんも仕方なししかたなしに裸はだかになるのを控えひかえていた。
風呂ふろは思っおもったより小さくちいさくかつ多少たしょう古びふるびていた。
自分じぶんはまず薄暗いうすぐらい風呂ふろを覗き込んのぞきこんで、また兄あにに向っむかった。
「兄さんあにさんには何なんか意見いけんが有るあるんですか」「おれはどうしてもその女おんなが三沢みさわに気きがあったのだとしか思わおもわれんがね」「なぜですか」「なぜでもおれはそう解釈かいしゃくするんだ」 二人ふたりはその話はなしの結末けつまつをつけずに湯ゆに入っはいった。
湯ゆから上っのぼって婦人ふじん連れんと入いり代っかわった時じ、室むろには西日にしびがいっぱい射ししゃして、海うみの上うえは溶けとけた鉄てつのように熱くあつく輝いかがやいた。
二人ふたりは日ひを避けさけて次つぎの室むろに這入っはいった。
そうしてそこで相対そうたいして坐っすわった時じ、先刻せんこくの問題もんだいがまた兄あにの口くちから話頭わとうに上っのぼった。
「おれはどうしてもこう思うおもうんだがね……」「ええ」と自分じぶんはただおとなしく聞いきいていた。
「人間にんげんは普通ふつうの場合ばあいには世間せけんの手前てまえとか義理ぎりとかで、いくら云いいいたくっても云えいえない事ことがたくさんあるだろう」「それはたくさんあります」「けれどもそれが精神病せいしんびょうになると――云ういうとすべての精神病せいしんびょうを含めふくめて云ういうようで、医者いしゃから笑わわらわれるかも知れしれないが、――しかし精神病せいしんびょうになったら、大変たいへん気きが楽らくになるだろうじゃないか」「そう云ういう種類しゅるいの患者かんじゃもあるでしょう」「ところでさ、もしその女おんながはたしてそういう種類しゅるいの精神病せいしんびょう患者かんじゃだとすると、すべて世間せけん並なみの責任せきにんはその女おんなの頭あたまの中なかから消えきえて無くなっなくなってしまうに違いなかろう。消えきえて無くなれなくなれば、胸むねに浮かんうかんだ事ことなら何なんでも構わかまわず露骨ろこつに云えるいえるだろう。そうすると、その女おんなの三沢みさわに云っいった言葉ことばは、普通ふつう我々われわれが口くちにする好いよい加減かげんな挨拶あいさつよりも遥はるかに誠まことの籠っこもった純粋じゅんすいのものじゃなかろうか」 自分じぶんは兄あにの解釈かいしゃくにひどく感服かんぷくしてしまった。
「それは面白いおもしろい」と思わおもわず手てを拍っうった。
すると兄あには案外あんがい不機嫌ふきげんな顔かおをした。
「面白いおもしろいとか面白くおもしろくないとか云ういう浮いういた話はなしじゃない。二郎じろう、実際じっさい今いまの解釈かいしゃくが正確せいかくだと思うおもうか」と問いつめるといつめるように聞いきいた。
「そうですね」 自分じぶんは何なんとなく躊躇ちゅうちょしなければならなかった。
「噫々ああ女おんなも気狂きちがいにして見みなくっちゃ、本体ほんたいはとうてい解らわからないのかな」 兄あにはこう云っいって苦しいくるしい溜息ためいきを洩らしもらした。
十三じゅうさん
宿やどの下したにはかなり大きなおおきな掘割ほりわりがあった。
それがどうして海うみへつづいているかちょっと解らわからなかったが、夕方ゆうがたには漁船ぎょせんが一二いちに艘そうどこからか漕ぎ寄せこぎよせて来きて、緩やかゆるやかに楼ろうの前まえを通り過ぎとおりすぎた。
自分じぶん達とおるはその掘割ほりわりに沿うそうて一二いちに丁てい右みぎの方ほうへ歩いあるいた後あと、また左ひだりへ切れきれて田圃たんぼ路みちを横切りよこぎり始めはじめた。
向うむこうを見るみると、田たの果かがだらだら坂さかの上りのぼりになって、それを上りのぼり尽しつくした土手どての縁えんには、松まつが左右さゆうに長くながく続いつづいていた。
自分じぶん達とおるの耳みみには大きなおおきな波なみの石いしに砕けるくだける音おとがどどんどどんと聞えきこえた。
三さん階かいから見るみるとその砕けくだけた波なみが忽然こつぜん白いしろい煙けむりとなって空そらに打上げうちあげられる様ようが、明かあきらかに見えみえた。
自分じぶん達とおるはついにその土手どての上うえへ出でた。
波なみは土手どてのもう一いちつ先さきにある厚くあつく築き上げきずきあげられた石垣いしがきに当っあたって、みごとに粉微塵こなみじんとなった末すえ、煮え返るにえかえるような色いろを起しおこして空そらを吹くふくのが常つねであったが、たまには崩れくずれたなり石垣いしがきの上うえを流れながれ越えこえて、ざっと内側うちがわへ落ち込んおちこんだりする大きいおおきいのもあった。
自分じぶん達とおるはしばらくその壮観そうかんに見惚れみとれていたが、やがて強いつよい浪なみの響ひびきを耳みみにしながら歩きあるき出しだした。
その時じ母ははと自分じぶんは、これが片男波かたおなみだろうと好いよい加減かげんな想像そうぞうを話はなしの種しゅに二人ふたり並んならんで歩いあるいた。
兄あに夫婦ふうふは自分じぶん達とおるより少しすこし先さきへ行っいった。
二人ふたりとも浴衣がけゆかたがけで、兄あには細いほそい洋杖すてっきを突いついていた。
嫂ねーはまた幅はばの狭いせまい御殿ごてん模様もようか何なんかの麻あさの帯おびを締めしめていた。
彼かれらは自分じぶん達とおるよりほとんど二十にじゅう間まばかり先さきへ出でていた。
そうして二人ふたりとも並んならんで足あしを運ばはこばして行っいった。
けれども彼かれらの間まにはかれこれ一いち間まの距離きょりがあった。
母はははそれを気きにするような、また気きにしないような眼め遣けんで、時々ときどき見みた。
その見方みかたがまた余りあまりに神経的しんけいてきなので、母ははの心こころはこの二人ふたりについて何事なにごとかを考えかんがえながら歩いあるいているとしか思えおもえなかった。
けれども自分じぶんは話しはなしの面倒めんどうになるのを恐れおそれたから、素知らぬそしらぬ顔かおをしてわざと緩々ゆるゆる歩いあるいた。
そうしてなるべく呑んのん気きそうに見せるみせるつもりで母ははを笑わわらわせるような剽軽ひょうきんな事ことばかり饒舌にょうぜつった。
母はははいつもの通りとおり「二郎じろう、御前ごぜん見みたいに暮しくらして行けいけたら、世間せけんに苦くはあるまいね」と云っいったりした。
しまいに彼女かのじょはとうとう堪えこらえ切れきれなくなったと見えみえて、「二郎じろうあれを御覧ごらん」と云いいい出しだした。
「何なんですか」と自分じぶんは聞き返しききかえした。
「あれだから本当ほんとうに困るこまるよ」と母ははが云っいった。
その時じ母ははの眼めは先さきへ行くいく二人ふたりの後姿うしろすがたをじっと見つめみつめていた。
自分じぶんは少くすくなくとも彼女かのじょの困るこまると云っいった意味いみを表ひょう向むかい承認しょうにんしない訳わけに行かいかなかった。
「また何なんか兄さんあにさんの気きに障るさわる事ことでもできたんですか」「そりゃあの人ひとの事ことだから何なんとも云えいえないがね。けれども夫婦ふうふとなった以上いじょうは、お前おまえ、いくら旦那だんなが素っ気なくそっけなくしていたって、こっちは女おんなだもの。直じかの方ほうから少しすこしは機嫌きげんの直るなおるように仕向けしむけてくれなくっちゃ困るこまるじゃないか。あれを御覧ごらんな、あれじゃまるであかの他人たにんが同どうなじ方角ほうがくへ歩いあるいて行くいくのと違いやしないやね。なんぼ一郎いちろうだって直じかに傍そばへ寄っよってくれるなと頼みたのみやしまいし」 母ははは無言むごんのまま離れはなれて歩いあるいている夫婦ふうふのうちで、ただ嫂ねーの方ほうにばかり罪つみを着せきせたがった。
これには多少たしょう自分じぶんにも同感どうかんなところもあった。
そうしてこの同感どうかんは平生へいぜいから兄あに夫婦ふうふの関係かんけいを傍そばで見みているものの胸むねにはきっと起るおこる自然しぜんのものであった。
「兄さんあにさんはまた何なんか考え込んかんがえこんでいるんですよ。それで姉さんあねさんも遠慮えんりょしてわざと口くちを利かりかずにいるんでしょう」 自分じぶんは母ははのためにわざとこんな気休めきやすめを云っいってごまかそうとした。
十四じゅうよん
「たとい何なんか考えかんがえているにしてもだね。直じかの方ほうがああ無頓着むとんちゃくじゃ片っ方かたっぽでも口くちの利きききようがないよ。まるでわざわざ離れはなれて歩いあるいているようだもの」 兄あにに同情どうじょうの多いおおい母ははから見るみると、嫂ねーの後姿うしろすがたは、いかにも冷淡れいたんらしく思わおもわれたのだろう。
が自分じぶんはそれに対したいして何なんとも答えこたえなかった。
ただ歩きあるきながら嫂ねーの性格せいかくをもっと一般的いっぱんてきに考えるかんがえるようになった。
自分じぶんは母ははの批評ひひょうが満更まんざら当っあたっていないとも思わおもわなかった。
けれども我われ肉にく身みの子こを可愛かわいがり過ぎるすぎるせいで、少しすこし彼女かのじょの欠点けってんを苛酷かこくに見みていはしまいかと疑っうたがった。
自分じぶんの見みた彼女かのじょはけっして温かいあたたかい女おんなではなかった。
けれども相手あいてから熱ねつを与えるあたえると、温めあたため得るうる女おんなであった。
持っもって生れうまれた天然てんねんの愛嬌あいきょうのない代りかわりには、こっちの手加減てかげんでずいぶん愛嬌あいきょうを搾り出すしぼりだす事ことのできる女おんなであった。
自分じぶんは腹はらの立つたつほどの冷淡れいたんさを嫁入よめいり後あとの彼女かのじょに見出しみだした事ことが時々ときどきあった。
けれども矯めためがたい不親切ふしんせつや残酷ざんこく心こころはまさかにあるまいと信じしんじていた。
不幸ふこうにして兄あには今いま自分じぶんが嫂ねーについて云っいったような気質きしつを多量たりょうに具えそなえていた。
したがって同じおなじ型かたに出来上っできあがったこの夫婦ふうふは、己れおのれの要するようするものを、要するようする事ことのできないお互たがいに対したいして、初手しょてから求め合っもとめあっていて、いまだにしっくり反はんが合わあわずにいるのではあるまいか。
時々ときどき兄あにの機嫌きげんの好いよい時じだけ、嫂ねーも愉快ゆかいそうに見えるみえるのは、兄あにの方ほうが熱しねっしやすい性せいだけに、女おんなに働きかけるはたらきかける温か味あたたかみの功力くりきと見るみるのが当然とうぜんだろう。
そうでない時じは、母ははが嫂ねーを冷淡れいたん過ぎるすぎると評するひょうするように、嫂ねーもまた兄あにを冷淡れいたん過ぎるすぎると腹はらのうちで評しひょうしているかも知れしれない。
自分じぶんは母ははと並んならんで歩きあるきながら先さきへ行くいく二人ふたりをこんなに考えかんがえた。
けれども母ははに対したいしてはそんなむずかしい理窟りくつを云ういう気きにはなれなかった。
すると「どうも不思議ふしぎだよ」と母ははが云いいい出しだした。
「いったい直じかは愛嬌あいきょうのある質しつじゃないが、御ご父さんちちさんや妾めかけにはいつだって同どうなじ調子ちょうしだがね。二郎じろう、御前ごぜんにだってそうだろう」 これは全くまったく母ははの云ういう通りとおりであった。
自分じぶんは元来がんらい性急せいきゅうな性分しょうぶんで、よく大きなおおきな声こえを出しだしたり、怒鳴りつけどなりつけたりするが、不思議ふしぎにまだ嫂ねーと喧嘩けんかをした例れいはなかったのみならず、場合ばあいによると、兄あによりもかえって心おきこころおきなく話はなしをした。
「僕ぼくにもそうですがね。なるほどそう云わいわれれば少々しょうしょう変へんには違いない」「だからさ妾めかけには直じかが一郎いちろうに対したいしてだけ、わざわざ、あんな風かぜをつらあてがましくやっているように思わおもわれて仕方しかたがないんだよ」「まさか」 自白じはくすると自分じぶんはこの問題もんだいを母ははほど細かくこまかく考えかんがえていなかった。
したがってそんな疑いうたがいを挟きょうさむ余地よちがなかった。
あってもその原因げんいんが第一だいいち不審ふしんであった。
「だって宅たく中なかで兄さんあにさんが一番いちばん大事だいじな人ひとじゃありませんか、姉さんあねさんにとって」「だからさ。御ご母さんははさんには訳わけが解らわからないと云ういうのさ」 自分じぶんにはせっかくこんな景色けしきの好いよい所ところへ来きながら、際限さいげんもなく母ははを相手あいてに、嫂ねーを陰かげで評しひょうしているのが馬鹿ばからしく感ぜかんぜられてきた。
「そのうち機会きかいがあったら、姉さんあねさんにまたよく腹はらの中なかを僕ぼくから聞いきいて見みましょう。何なん心配しんぱいするほどの事ことはありませんよ」と云い切っいいきって、向むかいの石垣いしがきまで突き出しつきだしている掛茶屋かけちゃやから防波堤ぼうはていの上うえに馳はせけ上っのぼった。
そうして、精一杯せいいっぱいの声こえを揚げあげて、「おーいおーい」と呼んよんだ。
兄あに夫婦ふうふは驚いおどろいてふり向いふりむいた。
その時じ石いしの堤つつみに当っあたって砕けくだけた波なみが、吹き上げるふきあげる泡あわと脚あしを洗うあらう流れながれとで、自分じぶんを濡鼠ぬれねずみのごとくにした。
自分じぶんは母ははに叱らしかられながら、ぽたぽた雫しずくを垂らしたらして、三さん人ひとと共ともに宿やどに帰っかえった。
どどんどどんという波なみの音おとが、帰りかえり道中どうちゅう自分じぶんの鼓膜こまくに響いひびいた。
十五じゅうご
その晩ばん自分じぶんは母ははといっしょに真白まっしろな蚊帳かやの中なかに寝ねた。
普通ふつうの麻あさよりは遥はるかに薄くうすくできているので、風かぜが来きて綺麗きれいなレースれーすを弄ぶもてあそぶ様ようが涼しすずしそうに見えみえた。
「好いよい蚊帳かやですね。宅たくでも一いちつこんなのを買おうかおうじゃありませんか」と母ははに勧めすすめた。
「こりゃ見みてくれだけは綺麗きれいだが、それほど高いたかいものじゃないよ。かえって宅たくにあるあの白麻しろあさの方ほうが上等じょうとうなんだよ。ただこっちのほうが軽くかるくって、継ぎ目つぎめがないだけに華奢きゃしゃに見えるみえるのさ」 母ははは昔むかしものだけあって宅たくにある岩国いわくにかどこかでできる麻あさの蚊帳かやの方ほうを賞めほめていた。
「だいち寝ね冷れいをしないだけでもあっちの方ほうが得とくじゃないか」と云っいった。
下女げじょが来きて障子しょうじを締め切っしめきってから、蚊帳かやは少しすこしも動かうごかなくなった。
「急きゅうに暑苦しくあつくるしくなりましたね」と自分じぶんは嘆息たんそくするように云っいった。
「そうさね」と答えこたえた母ははの言葉ことばは、まるで暑さあつさが苦くにならないほど落ちついおちついていた。
それでも団扇うちわ遣けんの音おとだけは微かかすかに聞こえきこえた。
母はははそれからふっつり口くちを利かりかなくなった。
自分じぶんも眼めを眠っねむった。
襖ふすま一いちつ隔てへだてた隣となり座敷ざしきには兄あに夫婦ふうふが寝ねていた。
これは先刻せんこくから静せいであった。
自分じぶんの話はなし相手あいてがなくなってこっちの室むろが急きゅうにひっそりして見るみると、兄あにの室むろはなお森閑しんかんと自分じぶんの耳みみを澄ましすました。
自分じぶんは眼めを閉じとじたままじっとしていた。
しかしいつまで経っきょうっても寝つかねつかれなかった。
しまいには静せいさに祟らたたられたようなこの暑いあつい苦しみくるしみを痛切つうせつに感じかんじ出しだした。
それで母ははの眠ねむりを妨げさまたげないようにそっと蒲団ふとんの上うえに起き直っおきなおった。
それから蚊帳かやの裾すそを捲っまくって縁側えんがわへ出るでる気きで、なるべく音おとのしないように障子しょうじをすうと開けあけにかかった。
すると今までいままで寝入っねいっていたとばかり思っおもった母ははが突然とつぜん「二郎じろうどこへ行くいくんだい」と聞いきいた。
「あんまり寝苦しいねぐるしいから、縁側えんがわへ出でて少しすこし涼もうすずもうと思いおもいます」「そうかい」 母ははの声こえは明晰めいせきで落ちついおちついていた。
自分じぶんはその調子ちょうしで、彼女かのじょがまんじりともせずに今までいままで起きおきていた事ことを知っしった。
「御ご母さんははさんも、まだ御ご休みやすみにならないんですか」「ええ寝床ねどこの変っかわったせいか何なんだか勝手かってが違っちがってね」 自分じぶんは貸かし浴衣ゆかたの腰こしに三さん尺さし帯おびを一いち重じゅう廻しまわしただけで、懐ふところへ敷島しきしまの袋ふくろと燐寸まっちを入れいれて縁側えんがわへ出でた。
縁側えんがわには白いしろいカヴァーかゔぁーのかかった椅子いすが二に脚あしほど出でていた。
自分じぶんはその一いち脚あしを引き寄せひきよせて腰こしをかけた。
「あまりがたがた云わしいわして、兄さんあにさんの邪魔じゃまになるといけないよ」 母ははからこう注意ちゅういされた自分じぶんは、煙草たばこを吹かしふかしながら黙っだまって、夢ゆめのような眼前がんぜんの景色けしきを眺めながめていた。
景色けしきは夜よると共ともに無論むろんぼんやりしていた。
月つきのない晩ばんなので、ことさら暗いくらいものが蔓つるり過ぎすぎた。
そのうちに昼間ひるま見みた土手どての松並木まつなみきだけが一際ひときわ黒ずんくろずんで左右さゆうに長いながい帯おびを引き渡しひきわたしていた。
その下したに浪なみの砕けくだけた白いしろい泡あわが夜よるの中なかに絶間たえまなく動揺どうようするのが、比較的ひかくてき刺戟しげき強くつよく見えみえた。
「もう好いよい加減かげんに御ご這入りはいりよ。風邪かぜでも引くひくといけないから」 母ははは障子しょうじの内うちからこう云っいって注意ちゅういした。
自分じぶんは椅子いすに倚りよりながら、母ははに夜よるの景色けしきを見せようみせようと思っおもってちょっと勧めすすめたが、彼女かのじょは応じおうじなかった。
自分じぶんは素直すなおにまた蚊帳かやの中なかに這入っはいって、枕まくらの上うえに頭あたまを着けつけた。
自分じぶんが蚊帳かやを出でたり這入っはいったりした間ま、兄あに夫婦ふうふの室むろは森もりとして元もとのごとく静かしずかであった。
自分じぶんが再びふたたび床ゆかに着いついた後あとも依然いぜんとして同じおなじ沈黙ちんもくに鎖ささされていた。
ただ防波堤ぼうはていに当っあたって砕けるくだける波なみの音おとのみが、どどんどどんといつまでも響いひびいた。
十六じゅうろく
朝あさ起きおきて膳ぜんに向っむかった時じ見るみると、四よん人ひとはことごとく寝ね足らあしらない顔かおをしていた。
そうして四よん人ひとともその寝ね足らあしらない雲くもを膳ぜんの上うえに打ちうちひろげてわざと会話かいわを陰気いんきにしているらしかった。
自分じぶんも変へんに窮屈きゅうくつだった。
「昨夕さくゆう食っしょくった鯛たいの焙烙ほうらく蒸むしにあてられたらしい」と云っいって、自分じぶんは不味ふみそうな顔かおをして席せきを立ったった。
手摺てすりの所ところへ来きて、隣となりに見えるみえる東洋とうよう第だい一いちエレヴェーターえれゔぇーたーと云ういう看板かんばんを眺めながめていた。
この昇降しょうこう器うつわは普通ふつうのように、家いえの下層かそうから上層じょうそうに通じつうじているのとは違っちがって、地面じめんから岩山いわやまの頂いただきまで物もの数奇すうきな人間にんげんを引き上げるひきあげる仕掛しかけであった。
所ところにも似にず無風流むふうりゅうな装置そうちには違いないが、浅草あさくさにもまだない新しあたらしさが、昨日きのうから自分じぶんの注意ちゅういを惹いひいていた。
はたして早起はやきの客きゃくが二人ふたり三さん人ひとぽつぽつもう乗りのり始めはじめた。
早くはやく食事しょくじを終えおえた兄あにはいつの間まにか、自分じぶんの後あとへ来きて、小楊枝しょうようじを使いつかいながら、上っのぼったり下りくだりたりする鉄てつの箱ばこを自分じぶんと同じおなじように眺めながめていた。
「二郎じろう、今朝けさちょっとあの昇降しょうこう器うつわへ乗っのって見ようみようじゃないか」と兄あにが突然とつぜん云っいった。
自分じぶんは兄あににしてはちと子供こどもらしい事ことを云ういうと思っおもって、ひょっと後あとを顧みかえりみた。
「何なんだか面白おもしろそうじゃないか」と兄あには柄がらにもない稚気ちきを言葉ことばに現しあらわした。
自分じぶんは昇降しょうこう器うつわへ乗るのるのは好いよいが、ある目的地もくてきちへ行けるいけるかどうかそれが危きしかった。
「どこへ行けるいけるんでしょう」「どこだって構わかまわない。さあ行こういこう」 自分じぶんは母ははと嫂ねーも無論むろんいっしょに連れつれて行くいくつもりで、「さあさあ」と大きなおおきな声こえで呼び掛けよびかけた。
すると兄あには急きゅうに自分じぶんを留めとめた。
「二人ふたりで行こういこう。二人ふたりぎりで」と云っいった。
そこへ母ははと嫂ねーが「どこへ行くいくの」と云っいって顔かおを出しだした。
「何なんちょっとあのエレヴェーターえれゔぇーたーへ乗っのって見るみるんです。二郎じろうといっしょに。女おんなには剣呑けんのんだから、御ご母さんははさんや直じかは止しよした方ほうが好いよいでしょう。僕ぼくらがまあ乗っのって、試しためして見みますから」 母ははは虚空こくうに昇っのぼって行くいく鉄てつの箱ばこを見みながら気味きみの悪わるそうな顔かおをした。
「直じかお前おまえどうするい」 母ははがこう聞いきいた時じ、嫂ねーは例れいの通りとおり淋しいさびしい靨えくぼを寄せよせて、「妾めかけはどうでも構いかまいません」と答えこたえた。
それがおとなしいとも取れるとれるし、また聴きききようでは、冷淡れいたんとも無愛想むあいそとも取れとれた。
それを自分じぶんは兄あにに対したいして気の毒きのどくと思いおもい嫂ねーに対したいしては損そんだと考えかんがえた。
二人ふたりは浴衣がけゆかたがけで宿やどを出るでると、すぐ昇降しょうこう器うつわへ乗っのった。
箱ばこは一いち間ま四方しほうくらいのもので、中なかに五六ごろく人ひと這入るはいると戸とを閉めしめて、すぐ引き上げひきあげられた。
兄あにと自分じぶんは顔かおさえ出すだす事ことのできない鉄てつの棒ぼうの間まから外そとを見みた。
そうして非常ひじょうに欝陶しいうっとうしい感じかんじを起しおこした。
「牢屋ろうや見みたいだな」と兄あにが低いひくい声こえで私語しごいた。
「そうですね」と自分じぶんが答えこたえた。
「人間にんげんもこの通りとおりだ」 兄あには時々ときどきこんな哲学者てつがくしゃめいた事ことをいう癖くせがあった。
自分じぶんはただ「そうですな」と答えこたえただけであった。
けれども兄あにの言葉ことばは単にたんにその輪廓りんかくぐらいしか自分じぶんには呑み込めのみこめなかった。
牢屋ろうやに似にた箱ばこの上りつめのぼりつめた頂点ちょうてんは、小さいちいさい石山いしやまの天辺てっぺんであった。
そのところどころに背せの低いひくい松まつが噛りつくように青味あおみを添えそえて、単調たんちょうを破るやぶるのが、夏なつの眼めに嬉しくうれしく映っうつった。
そうしてわずかな平地へいちに掛茶屋かけちゃやがあって、猿さるが一いち匹ひき飼っかってあった。
兄あにと自分じぶんは猿さるに芋いもをやったり、調ちょう戯たわむれったりして、物ものの十じゅう分ぶんもその茶屋ちゃやで費やしついやした。
「どこか二人ふたりだけで話すはなす所ところはないかな」 兄あにはこう云っいって四方しほうを見渡しみわたした。
その眼めは本当ほんとうに二人ふたりだけで話はなしのできる静かしずかな場所ばしょを見つけみつけているらしかった。
十七じゅうなな
そこは高いたかい地勢ちせいのお蔭おかげで四方しほうともよく見晴らさみはらされた。
ことに有名ゆうめいな紀三井寺きみいでらを蓊欝した木立こだちの中なかに遠くとおく望むのぞむ事ことができた。
その麓ふもとに入江いりえらしく穏かおだやかに光るひかる水みずがまた海浜かいひんとは思わおもわれない沢辺さわべの景色けしきを、複雑ふくざつな色いろに描き出しえがきだしていた。
自分じぶんは傍そばにいる人ひとから浄瑠璃じょうるりにある下り松さがりまつというのを教えおしえて貰っもらった。
その松まつはなるほど懸崖けんがいを伝うつたうように逆ぎゃくに枝えだを伸しのしていた。
兄あには茶店ちゃみせの女おんなに、ここいらで静せいな話はなしをするに都合つごうの好いよい場所ばしょはないかと尋ねたずねていたが、茶店ちゃみせの女おんなは兄あにの問もんが解らわからないのか、何なんを云っいっても少しすこしも要領ようりょうを得とくなかった。
そうして地方ちほう訛なまりののしとかいう語尾ごびをしきりに繰返しくりかえした。
しまいに兄あには「じゃその権現ごんげん様ようへでも行くいくかな」と云いいい出しだした。
「権現ごんげん様ようも名所めいしょの一いちつだから好いよいでしょう」 二人ふたりはすぐ山やまを下りくだりた。
俥くるまにも乗らのらず、傘かさも差さささず、麦藁帽子むぎわらぼうしだけ被っかぶって暑いあつい砂道すなみちを歩いあるいた。
こうして兄あにといっしょに昇降しょうこう器うつわへ乗っのったり、権現ごんげんへ行っいったりするのが、その日ひは自分じぶんに取っとって、何なんだか不安ふあんに感ぜかんぜられた。
平生へいぜいでも兄あにと差向いさしむかいになると多少たしょう気き不精ぶしょうには違いなかったけれども、その日ひほど落ちつかおちつかない事こともまた珍らしかっめずらしかった。
自分じぶんは兄あにから「おい二郎じろう二人ふたりで行こういこう、二人ふたりぎりで」と云わいわれた時じからすでに変へんな心持こころもちがした。
二人ふたりは額がくから油汗あぶらあせをじりじり湧かしわかした。
その上うえに自分じぶんは実際じっさい昨夕さくゆう食っしょくった鯛たいの焙烙ほうらく蒸むしに少しすこしあてられていた。
そこへだんだん高くたかくなる太陽たいようが容赦ようしゃなく具合ぐあいの悪いわるい頭あたまを照らしてらしたので、自分じぶんは仕方なししかたなしに黙っだまって歩いあるいていた。
兄あにも無言むごんのまま体からだを運ばはこばした。
宿やどで借りかりた粗末そまつな下駄げたがさくさく砂すなに喰い込むくいこむ音おとが耳みみについた。
「二郎じろうどうかしたか」 兄あにの声こえは全くまったく藪やぶから棒ぼうが急きゅうに出でたように自分じぶんを驚かしおどろかした。
「少しすこし心持こころもちが変へんです」 二人ふたりはまた無言むごんで歩きあるき出しだした。
ようやく権現ごんげんの下したへ来きた時じ、細いほそい急きゅうな石段いしだんを仰ぎ見あおぎみた自分じぶんは、その高いたかいのに辟易へきえきするだけで、容易よういに登るのぼる勇気ゆうきは出しだし得とくなかった。
兄あにはその下したに並べならべてある藁わら草履ぞうりを突掛けつっかけて十じゅう段だんばかり一人ひとりで上っのぼって行っいったが、後あとから続かつづかない自分じぶんに気きがついて、「おい来きないか」と嶮しくけわしく呼んよんだ。
自分じぶんも仕方なししかたなしに婆ばあさんから草履ぞうりを一足いっそく借りかりて、骨ほねを折っおって石段いしだんを上りのぼり始めはじめた。
それでも中途ちゅうとぐらいから一歩いちほごとに膝ひざの上うえに両手りょうてを置いおいて、身体しんたいの重みおもみを託さたくさなければならなかった。
兄あにを下したから見上げるみあげるとさも焦しょう熱っねつったそうに頂上ちょうじょうの山門さんもんの角かくに立ったっていた。
「まるで酔っ払いよっぱらいのようじゃないか、段々だんだんを筋違すじかいに練っれんって歩くあるくざまは」 自分じぶんは何なんと評さひょうされても構わかまわない気きで、早速さっそく帽子ぼうしを地ちの上うえに投げるなげると同時どうじに、肌はだを抜いぬいだ。
扇おうぎを持たもたないので、手てにした手帛はんけちでしきりに胸むねの辺りあたりを払っはらった。
自分じぶんは後あとから「おい二郎じろう」ときっと何なんか云わいわれるだろうと思っおもって、内心ないしん穏かおだやかでなかったせいか、汗あせに濡れぬれた手帛はんけちをむやみに振り動かしふりうごかした。
そうして「暑いあつい暑いあつい」と続けつづけさまに云っいった。
兄あにはやがて自分じぶんの傍そばへ来きてそこにあった石いしに腰こしをおろした。
その石いしの後あとは篠竹しのだけが一面いちめんに生えはえて遥はるかの下したまで石垣いしがきの縁えんを隠すかくすように茂っしげるっていた。
その中なかから大きなおおきな椿つばきが所々ところどころに白茶けしらちゃけた幹みきを現すあらわすのがことに目立っめだって見えみえた。
「なるほどここは静せいだ。ここならゆっくり話はなしができそうだ」と兄あには四方しほうを見廻しみまわした。
十八じゅうはち
「二郎じろう少しすこし御前ごぜんに話はなしがあるがね」と兄あにが云っいった。
「何なんです」 兄あにはしばらく逡巡しゅんじゅんして口くちを開かひらかなかった。
自分じぶんはまたそれを聞くきくのが厭いやさに、催促さいそくもしなかった。
「ここは涼しいすずしいですね」と云っいった。
「ああ涼しいすずしい」と兄あにも答えこたえた。
実際じっさいそこは日影ひかげに遠いとおいせいか涼しいすずしい風かぜの通うかよう高みたかみであった。
自分じぶんは三四さんよん分ぶん手帛はんけちを動かしうごかした後あと、急きゅうに肌はだを入れいれた。
山門さんもんの裏うらには物寂びものさびた小さいちいさい拝殿はいでんがあった。
よほど古いふるい建物たてものと見えみえて、軒のきに彫ほりつけた獅子ししの頭あたまなどは絵の具えのぐが半分はんぶん剥げはげかかっていた。
自分じぶんは立ったって山門さんもんを潜っもぐって拝殿はいでんの方ほうへ行っいった。
「兄さんあにさんこっちの方ほうがまだ涼しいすずしい。こっちへいらっしゃい」 兄あには答えこたえもしなかった。
自分じぶんはそれを機きに拝殿はいでんの前面ぜんめんを左右さゆうに逍遥しょうようした。
そうして暑いあつい日ひを遮るさえぎる高いたかい常磐木ときわぎを見みていた。
ところへ兄あにが不平ふへいな顔かおをして自分じぶんに近づいちかづいて来きた。
「おい少しすこし話しはなしがあるんだと云っいったじゃないか」 自分じぶんは仕方なししかたなしに拝殿はいでんの段々だんだんに腰こしをかけた。
兄あにも自分じぶんに並んならんで腰こしをかけた。
「何なんですか」「実じつは直じかの事ことだがね」と兄あにははなはだ云いいい悪いわるいところをやっと云い切っいいきったという風かぜに見えみえた。
自分じぶんは「直じか」という言葉ことばを聞くきくや否いなや冷れいりとした。
兄あに夫婦ふうふの間柄あいだがらは母ははが自分じぶんに訴えうったえた通りとおり、自分じぶんにもたいていは呑み込めのみこめていた。
そうして母ははに約束やくそくしたごとく、自分じぶんはいつか折おりを見みて、嫂ねーに腹はらの中なかをとっくり聴ちょう糺しただした上うえ、こっちからその知識ちしきをもって、積極的せっきょくてきに兄あにに向おうむかおうと思っおもっていた。
それを自分じぶんがやらないうちに、もし兄あにから先さきを越さこされでもすると困るこまるので、自分じぶんはひそかにそこを心配しんぱいしていた。
実じつを云ういうと、今朝けさ兄あにから「二郎じろう、二人ふたりで行こういこう、二人ふたりぎりで」と云わいわれた時じ、自分じぶんはあるいはこの問題もんだいが出るでるのではあるまいかと掛かかり念ねんして自じと厭いやになったのである。
「嫂ねーさんがどうかしたんですか」と自分じぶんはやむを得とくず兄あにに聞き返しききかえした。
「直じかは御前ごぜんに惚れほれてるんじゃないか」 兄あにの言葉ことばは突然とつぜんであった。
かつ普通ふつう兄あにのもっている品格ひんかくにあたいしなかった。
「どうして」「どうしてと聞かきかれると困るこまる。それから失礼しつれいだと怒らおこられてはなお困るこまる。何なんも文ぶんを拾っじゅうったとか、接吻せっぷんしたところを見みたとか云ういう実証じっしょうから来きた話はなしではないんだから。本当ほんとういうと表ひょう向むかいこんな愚劣ぐれつな問もんを、いやしくも夫おっとたるおれが、他人たにんに向っむかってかけられた訳わけのものではない。ないが相手あいてが御前ごぜんだからおれもおれの体面たいめんを構わかまわずに、聞ききき悪いわるいところを我慢がまんして聞くきくんだ。だから云っいってくれ」「だって嫂ねーさんですぜ相手あいては。夫おっとのある婦人ふじん、ことに現在げんざいの嫂ねーですぜ」 自分じぶんはこう答えこたえた。
そうしてこう答えるこたえるよりほかに何なんと云ういう言葉ことばも出でなかった。
「それは表面ひょうめんの形式けいしきから云えいえば誰だれもそう答えこたえなければならない。御前ごぜんも普通ふつうの人間にんげんだからそう答えるこたえるのが至当しとうだろう。おれもその一言ひとことを聞けきけばただ恥じ入るはじいるよりほかに仕方しかたがない。けれども二郎じろう御前ごぜんは幸いさいわいに正直しょうじきな御ご父さんちちさんの遺伝いでんを受けうけている。それに近頃ちかごろの、何事なにごとも隠さかくさないという主義しゅぎを最高さいこうのものとして信じしんじているから聞くきくのだ。形式上けいしきじょうの答えこたえはおれにも聞かきかない先さきから解っわかっているが、ただ聞きききたいのは、もっと奥おくの奥おくの底そこにある御前ごぜんの感じかんじだ。その本当ほんとうのところをどうぞ聞かしきかしてくれ」
十九じゅうきゅう
「そんな腹はらの奥おくの奥底おくそこにある感じかんじなんて僕ぼくに有るあるはずがないじゃありませんか」 こう答えこたえた時じ、自分じぶんは兄あにの顔かおを見みないで、山門さんもんの屋根やねを眺めながめていた。
兄あにの言葉ことばはしばらく自分じぶんの耳みみに聞こえきこえなかった。
するとそれが一種いっしゅの癇かん高いたかい、さも昂奮こうふんを抑えおさえたような調子ちょうしになって響いひびいて来きた。
「おい二郎じろう何なんだってそんな軽薄けいはくな挨拶あいさつをする。おれと御前ごぜんは兄弟きょうだいじゃないか」 自分じぶんは驚いおどろいて兄あにの顔かおを見みた。
兄あにの顔かおは常磐木ときわぎの影かげで見るみるせいかやや蒼味あおみを帯びおびていた。
「兄弟きょうだいですとも。僕ぼくはあなたの本当ほんとうの弟おとうとです。だから本当ほんとうの事ことを御ご答えこたえしたつもりです。今いま云っいったのはけっして空々しいそらぞらしい挨拶あいさつでも何なんでもありません。真底しんそこそうだからそういうのです」 兄あにの神経しんけいの鋭敏えいびんなごとく自分じぶんは熱しねっしやすい性急せいきゅうであった。
平生へいぜいの自分じぶんならあるいはこんな返事へんじは出でなかったかも知れしれない。
兄あにはその時じ簡単かんたんな一句いっくを射いた。
「きっと」「ええきっと」「だって御前ごぜんの顔かおは赤いあかいじゃないか」 実際じっさいその時じの自分じぶんの顔かおは赤かっあかかったかも知れしれない。
兄あにの面色めんしょくの蒼いあおいのに反しはんして、自分じぶんは我われ知らしらず、両方りょうほうの頬ほおの熱るいきるのを強くつよく感じかんじた。
その上うえ自分じぶんは何なんと返事へんじをして好いよいか分らわからなかった。
すると兄あには何なんと思っおもったかたちまち階段かいだんから腰こしを起しおこした。
そうして腕組うでぐみをしながら、自分じぶんの席せきを取っとっている前まえを右左みぎひだりに歩きあるき出しだした。
自分じぶんは不安ふあんな眼めをして、彼かれの姿すがたを見守っみまもった。
彼かれは始めはじめから眼めを地面じめんの上うえに落しおとしていた。
二三にさん度ど自分じぶんの前まえを横切っよこぎったけれどもけっして一遍いちぺんもその眼めを上げあげて自分じぶんを見みなかった。
三さん度目どめに彼かれは突如とつじょとして、自分じぶんの前まえに来きて立ち留ったちどまった。
「二郎じろう」「はい」「おれは御前ごぜんの兄あにだったね。誠まことに子供こどもらしい事ことを云っいって済ますまなかった」 兄あにの眼めの中なかには涙なみだがいっぱい溜ったまっていた。
「なぜです」「おれはこれでも御前ごぜんより学問がくもんも余計よけいしたつもりだ。見識けんしきも普通ふつうの人間にんげんより持っもっているとばかり今日きょうまで考えかんがえていた。ところがあんな子供こどもらしい事ことをつい口くちにしてしまった。まことに面目めんぼくない。どうぞ兄あにを軽蔑けいべつしてくれるな」「なぜです」 自分じぶんは簡単かんたんなこの問もんを再びふたたび繰返しくりかえした。
「なぜですとそう真面目まじめに聞いきいてくれるな。ああおれは馬鹿ばかだ」 兄あにはこう云っいって手てを出しだした。
自分じぶんはすぐその手てを握っにぎった。
兄あにの手ては冷たかっつめたかった。
自分じぶんの手ても冷たかっつめたかった。
「ただ御前ごぜんの顔かおが少しすこしばかり赤くあかくなったからと云っいって、御前ごぜんの言葉ことばを疑ぐるうたぐるなんて、まことに御前ごぜんの人格じんかくに対したいして済ますまない事ことだ。どうぞ堪忍かんにんしてくれ」 自分じぶんは兄あにの気質きしつが女おんなに似にて陰晴いんせい常つねなき天候てんこうのごとく変るかわるのをよく承知しょうちしていた。
しかし一いちと見識けんしきある彼かれの特長とくちょうとして、自分じぶんにはそれが天真爛漫てんしんらんまんの子供こどもらしく見えみえたり、または玉たまのように玲瓏れいろうな詩人しじんらしく見えみえたりした。
自分じぶんは彼かれを尊敬そんけいしつつも、どこか馬鹿ばかにしやすいところのある男おとこのように考えかんがえない訳わけに行かいかなかった。
自分じぶんは彼かれの手てを握っにぎったまま「兄さんあにさん、今日きょうは頭あたまがどうかしているんですよ。そんな下らしたらない事ことはもうこれぎりにしてそろそろ帰ろうかえろうじゃありませんか」と云っいった。
二十にじゅう
兄あには突然とつぜん自分じぶんの手てを放しはなした。
けれどもけっしてそこを動こううごこうとしなかった。
元もとの通りとおり立ったったまま何なんも云わいわずに自分じぶんを見下しみくだした。
「御前ごぜん他ほかの心こころが解るわかるかい」と突然とつぜん聞いきいた。
今度こんどは自分じぶんの方ほうが何なんも云わいわずに兄あにを見上げみあげなければならなかった。
「僕ぼくの心こころが兄さんあにさんには分らわからないんですか」とやや間まを置いおいて云っいった。
自分じぶんの答こたえには兄あにの言葉ことばより一種いっしゅの根強ねづよさが籠っこもっていた。
「御前ごぜんの心こころはおれによく解っわかっている」と兄あにはすぐ答えこたえた。
「じゃそれで好いよいじゃありませんか」と自分じぶんは云っいった。
「いや御前ごぜんの心こころじゃない。女おんなの心こころの事ことを云っいってるんだ」 兄あにの言語げんごのうち、後あと一句いっくには火ひの付いついたような鋭するどさがあった。
その鋭するどさが自分じぶんの耳みみに一種いっしゅ異様いようの響ひびきを伝えつたえた。
「女おんなの心こころだって男おとこの心こころだって」と云いいいかけた自分じぶんを彼かれは急きゅうに遮っさえぎった。
「御前ごぜんは幸福こうふくな男おとこだ。おそらくそんな事ことをまだ研究けんきゅうする必要ひつようが出でて来きなかったんだろう」「そりゃ兄さんあにさんのような学者がくしゃじゃないから……」「馬鹿ばか云えいえ」と兄あには叱りつけるしかりつけるように叫んさけんだ。
「書物しょもつの研究けんきゅうとか心理学しんりがくの説明せつめいとか、そんな廻りまわり遠いとおい研究けんきゅうを指すさすのじゃない。現在げんざい自分じぶんの眼前がんぜんにいて、最ももっとも親おやしかるべきはずの人ひと、その人ひとの心こころを研究けんきゅうしなければ、いても立ったってもいられないというような必要ひつように出逢っであった事ことがあるかと聞いきいてるんだ」 最ももっとも親おやしかるべきはずの人ひとと云っいった兄あにの意味いみは自分じぶんにすぐ解っわかった。
「兄さんあにさんはあんまり考えかんがえ過ぎるすぎるんじゃありませんか、学問がくもんをした結果けっか。もう少しすこし馬鹿ばかになったら好いよいでしょう」「向うむこうでわざと考えかんがえさせるように仕向けしむけて来るくるんだ。おれの考えかんがえ慣れなれた頭あたまを逆ぎゃくに利用りようして。どうしても馬鹿ばかにさせてくれないんだ」 自分じぶんはここにいたって、ほとんど慰藉いしゃの辞じに窮しきゅうした。
自分じぶんより幾いく倍ばい立派りっぱな頭あたまをもっているか分らわからない兄あにが、こんな妙みょうな問題もんだいに対したいして自分じぶんより幾いく倍ばい頭あたまを悩めなやめているかを考えるかんがえると、はなはだ気の毒きのどくでならなかった。
兄あにが自分じぶんより神経質しんけいしつな事ことは、兄あにも自分じぶんもよく承知しょうちしていた。
けれども今までいままで兄あにからこう歇私的まと里さと的まとに出でられた事ことがないので、自分じぶんも実じつは途方とほうに暮れくれてしまった。
「御前ごぜんメレジスめれじすという人ひとを知っしってるか」と兄あにが聞いきいた。
「名前なまえだけは聞いきいています」「あの人ひとの書翰しょかん集しゅうを読んよんだ事ことがあるか」「読むよむどころか表紙ひょうしを見みた事こともありません」「そうか」 彼かれはこう云っいって再びふたたび自分じぶんの傍そばへ腰こしをかけた。
自分じぶんはこの時じ始めはじめて懐中かいちゅうに敷島しきしまの袋ふくろと燐寸まっちのある事ことに気きがついた。
それを取り出しとりだして、自分じぶんからまず火ひを点けつけて兄あにに渡しわたした。
兄あには器械きかい的まとにそれを吸っすった。
「その人ひとの書翰しょかんの一いちつのうちに彼かれはこんな事ことを云っいっている。――自分じぶんは女おんなの容貌ようぼうに満足まんぞくする人ひとを見るみると羨ましいうらやましい。女おんなの肉にくに満足まんぞくする人ひとを見みても羨ましいうらやましい。自分じぶんはどうあっても女おんなの霊れいというか魂たましいというか、いわゆるスピリットすぴりっとを攫まつかまなければ満足まんぞくができない。それだからどうしても自分じぶんには恋愛れんあい事件じけんが起らおこらない」「メレジスめれじすって男おとこは生涯しょうがい独身どくしんで暮しくらしたんですかね」「そんな事ことは知らしらない。またそんな事ことはどうでも構わかまわないじゃないか。しかし二郎じろう、おれが霊れいも魂たましいもいわゆるスピリットすぴりっとも攫まつかまない女おんなと結婚けっこんしている事ことだけはたしかだ」
二十一にじゅういち
兄あにの顔かおには苦悶くもんの表情ひょうじょうがありありと見えみえた。
いろいろな点てんにおいて兄あにを尊敬そんけいする事ことを忘れわすれなかった自分じぶんは、この時じ胸むねの奥おくでほとんど恐怖きょうふに近いちかい不安ふあんを感ぜかんぜずにはいられなかった。
「兄さんあにさん」と自分じぶんはわざと落ちつきおちつき払っはらって云っいった。
「何なんだ」 自分じぶんはこの答こたえを聞くきくと同時どうじに立ったった。
そうして、ことさらに兄あにの腰こしをかけている前まえを、先刻せんこく兄あにがやったと同じおなじように、しかし全くまったく別べつの意味いみで、右左みぎひだりへと二三にさん度ど横切っよこぎった。
兄あには自分じぶんにはまるで無頓着むとんちゃくに見えみえた。
両手りょうての指ゆびを、少しすこし長くながくなった髪かみの間まに、櫛くしの歯はのように深くふかく差し込んさしこんで下したを向いむかいていた。
彼かれは大変たいへん色沢しきたくの好いよい髪かみの所有者しょゆうしゃであった。
自分じぶんは彼かれの前まえを横切るよこぎるたびに、その漆黒しっこくの髪かみとその間まから見えるみえる関節かんせつの細いほそい、華奢きゃしゃな指ゆびに眼めを惹かひかれた。
その指ゆびは平生へいぜいから自分じぶんの眼めには彼かれの神経質しんけいしつを代表だいひょうするごとく優しくやさしくかつ骨張っほねばって映っうつった。
「兄さんあにさん」と自分じぶんが再びふたたび呼びかけよびかけた時じ、彼かれはようやく重じゅうそうに頭あたまを上げあげた。
「兄さんあにさんに対したいして僕ぼくがこんな事ことをいうとはなはだ失礼しつれいかも知れしれませんがね。他ほかの心こころなんて、いくら学問がくもんをしたって、研究けんきゅうをしたって、解りわかりっこないだろうと僕ぼくは思うおもうんです。兄さんあにさんは僕ぼくよりも偉いえらい学者がくしゃだから固よりもとよりそこに気きがついていらっしゃるでしょうけれども、いくら親しいしたしい親子おやこだって兄弟きょうだいだって、心こころと心こころはただ通じつうじているような気持きもちがするだけで、実際じっさい向うむこうとこっちとは身体しんたいが離れはなれている通りとおり心こころも離れはなれているんだからしようがないじゃありませんか」「他ほかの心こころは外そとから研究けんきゅうはできる。けれどもその心こころになって見るみる事ことはできない。そのくらいの事ことならおれだって心得こころえているつもりだ」 兄あには吐き出すはきだすように、また懶ものぐさそうにこう云っいった。
自分じぶんはすぐその後そのあとに跟いた。
「それを超越ちょうえつするのが宗教しゅうきょうなんじゃありますまいか。僕ぼくなんぞは馬鹿ばかだから仕方しかたがないが、兄さんあにさんは何なんでもよく考えるかんがえる性質せいしつだから……」「考えるかんがえるだけで誰だれが宗教しゅうきょう心こころに近づけるちかづける。宗教しゅうきょうは考えるかんがえるものじゃない、信じるしんじるものだ」 兄あにはさも忌々しいまいましそうにこう云い放っいいはなった。
そうしておいて、「ああおれはどうしても信じしんじられない。どうしても信じしんじられない。ただ考えかんがえて、考えかんがえて、考えるかんがえるだけだ。二郎じろう、どうかおれを信じしんじられるようにしてくれ」と云っいった。
兄あにの言葉ことばは立派りっぱな教育きょういくを受けうけた人ひとの言葉ことばであった。
しかし彼かれの態度たいどはほとんど十じゅう八はち九きゅうの子供こどもに近かっちかかった。
自分じぶんはかかる兄あにを自分じぶんの前まえに見るみるのが悲しかっかなしかった。
その時じの彼かれはほとんど砂すなの中なかで狂うくるう泥鰌どじょうのようであった。
いずれの点てんにおいても自分じぶんより立ち勝ったちまさった兄あにが、こんな態度たいどを自分じぶんに示ししめしたのはこの時じが始めはじめてであった。
自分じぶんはそれを悲しくかなしく思うおもうと同時どうじに、この傾向けいこうで彼かれがだんだん進んすすんで行っいったならあるいは遠からとおからず彼かれの精神せいしんに異状いじょうを呈するていするようになりはしまいかと懸念けねんして、それが急きゅうに恐ろしくおそろしくなった。
「兄さんあにさん、この事ことについては僕ぼくも実じつはとうから考えかんがえていたんです……」「いや御前ごぜんの考えかんがえなんか聞こうきこうと思っおもっていやしない。今日きょう御前ごぜんをここへ連れつれて来きたのは少しすこし御前ごぜんに頼みたのみがあるからだ。どうぞ聞いきいてくれ」「何なんですか」 事ことはだんだん面倒めんどうになって来きそうであった。
けれども兄あには容易よういにその頼みたのみというのを打ち明けうちあけなかった。
ところへ我々われわれと同じおなじ遊覧ゆうらん人ひとめいた男女だんじょが三四さんよん人ひと石段いしだんの下したに現れあらわれた。
彼かれらはてんでに下駄げたを草履ぞうりと脱ぎぬぎ易えかえて、高いたかい石段いしだんをこっちへ登っのぼって来きた。
兄あにはその人影ひとかげを見るみるや否いなや急きゅうに立上がったちあがった。
「二郎じろう帰ろうかえろう」と云いいいながら石段いしだんを下りかけおりかけた。
自分じぶんもすぐその後そのあとに随っしたがった。
二十二にじゅうに
兄あにと自分じぶんはまた元もとの路みちへ引返しひきかえした。
朝あさ来きた時じも腹はらや頭あたまの具合ぐあいが変へんであったが、帰りかえりは日盛ひもりになったせいかなお苦しかっくるしかった。
あいにく二人ふたり共とも時計とけいを忘れわすれたので何時なんじだかちょっと分りわかり兼ねけんねた。
「もう何時なんじだろう」と兄あにが聞いきいた。
「そうですね」と自分じぶんはぎらぎらする太陽たいようを仰ぎ見あおぎみた。
「まだ午うまにはならないでしょう」 二人ふたりは元もとの路みちを逆ぎゃくに歩いあるいているつもりであったが、どう間違えまちがえたものか、変へんに磯臭いいそくさい浜辺はまべへ出でた。
そこには漁師りょうしの家いえが雑貨店ざっかてんと交っかって貧しいまずしい町まちをかたち作っつくっていた。
古いふるい旗はたを屋根やねの上うえに立てたてた汽船きせん会社かいしゃの待合所まちあいしょも見えみえた。
「何なんだか路みちが違っちがったようじゃありませんか」 兄あには相そう変らかわらず下したを向いむかいて考えかんがえながら歩いあるいていた。
下したには貝殻かいがらがそこここに散っちっていた。
それを踏み砕くふみくだく二人ふたりの足音あしおとが時々ときどき単調たんちょうな歩行ほこうに一種いっしゅ田舎びいなかびた変化へんかを与えあたえた。
兄あにはちょっと立ち留ったちどまって左右さゆうを見みた。
「ここは往にいに通らとおらなかったかな」「ええ通りゃとおりゃしません」「そうか」 二人ふたりはまた歩きあるき出しだした。
兄あには依然いぜんとして下したを向きむき勝かちであった。
自分じぶんは路みちを迷っまよったため、存外ぞんがい宿やどへ帰るかえるのが遅くおそくなりはしまいかと心配しんぱいした。
「何なん狭いせまい所ところだ。どこをどう間違えまちがえたって、帰れるかえれるのは同どうなじ事ことだ」 兄あにはこう云っいってすたすた行っいった。
自分じぶんは彼かれの歩きあるき方ほうを後あとから見みて、足あしに任せまかせてという故いふりい言葉ことばを思い出しおもいだした。
そうして彼かれより五六ごろく間ま後れおくれた事ことをこの場合ばあい何なんよりもありがたく感じかんじた。
自分じぶんは二人ふたりの帰り道かえりみちに、兄あにから例れいの依頼いらいというのをきっと打ち明けうちあけられるに違いちがいないと思っおもって暗にあんにその覚悟かくごをしていた。
ところが事実じじつは反対はんたいで、彼かれはできるだけ口数くちかずを慎んつつしんで、さっさと歩くあるく方針ほうしんに出でた。
それが少しすこしは無気味むきみでもあったがまただいぶ嬉しくうれしくもあった。
宿やどでは母ははと嫂ねーが欄干らんかんに縞しま絽ろだか明石あかしだかよそゆきの着物きものを掛けかけて二人ふたりとも浴衣ゆかたのまま差向いさしむかいで坐っすわっていた。
自分じぶん達とおるの姿すがたを見みた母ははは、「まあどこまで行っいったの」と驚いおどろいた顔かおをした。
「あなた方ほうはどこへも行かいかなかったんですか」 欄干らんかんに干しほしてある着物きものを見みながら、自分じぶんがこう聞いきいた時じ、嫂ねーは「ええ行っいったわ」と答えこたえた。
「どこへ」「あてて御覧ごらんなさい」 今いまの自分じぶんは兄あにのいる前まえで嫂ねーからこう気き易くやすく話しかけはなしかけられるのが、兄あにに対したいして何なんとも申し訳もうしわけがないようであった。
のみならず、兄あにの眼めから見れみれば、彼女かのじょが故意こいに自分じぶんにだけ親しみしたしみを表わしあらわしているとしか解釈かいしゃくができまいと考えかんがえて誰だれにも打ち明けうちあけられない苦痛くつうを感じかんじた。
嫂ねーはいっこう平気へいきであった。
自分じぶんにはそれが冷淡れいたんから出るでるのか、無頓着むとんちゃくから来るくるのか、または常識じょうしきを無視むししているのか、少しすこし解りわかり兼ねけんねた。
彼かれらの見物けんぶつして来きた所ところは紀三井寺きみいでらであった。
玉津島たまつとう明神みょうじんの前まえを通りとおりへ出でて、そこから電車でんしゃに乗るのるとすぐ寺てらの前まえへ出るでるのだと母ははは兄あにに説明せつめいしていた。
「高いたかい石段いしだんでね。こうして見上げるみあげるだけでも眼めが眩いまばゆいそうなんだよ、お母さんおははさんには。これじゃとても上れのぼれっこないと思っおもって、妾めかけゃどうしようか知らかしらと考えかんがえたけれども、直じかに手てを引っ張っひっぱって貰っもらって、ようやくお参りおまいりだけは済ますませたが、その代りかわり汗あせで着物きものがぐっしょりさ……」 兄あには「はあ、そうですかそうですか」と時々ときどき気きのない返事へんじをした。
二十三にじゅうさん
その日ひは何事なにごとも起らおこらずに済んすんだ。
夕方ゆうがたは四よん人ひとでトランプとらんぷをした。
みんなが四よん枚ばいずつのカードかーどを持っもって、その一いち枚ばいを順送りじゅんおくりに次つぎの者ものへ伏せふせ渡しわたしにするうちに数すうの揃っそろったのを出しだしてしまうと、どこかにスペードすぺーどの一いちが残るのこる。
それを握っにぎったものが負ふになるという温泉場おんせんじょうなどでよく流行るはやる至極しごく簡単かんたんなものであった。
母ははと自分じぶんはよくスペードすぺーどを握っにぎっては妙みょうな顔かおをしてすぐ勘づかかんづかれた。
兄あにも時々ときどき苦笑くしょうした。
一番いちばん冷淡れいたんなのは嫂ねーであった。
スペードすぺーどを握ろうにぎろうが握るにぎるまいがわれにはいっこう関係かんけいがないという風かぜをしていた。
これは風かぜというよりもむしろ彼女かのじょの性質せいしつであった。
自分じぶんはそれでも兄あにが先刻せんこくの会談かいだんのあと、よくこれほどに昂奮こうふんした神経しんけいを治めおさめられたものだと思っおもってひそかに感心かんしんした。
晩ばんは寝ねられなかった。
昨夕さくゆうよりもなお寝ねられなかった。
自分じぶんはどどんどどんと響くひびく浪なみの音おとの間まに、兄あに夫婦ふうふの寝ねている室むろに耳みみを澄ましすました。
けれども彼かれらの室むろは依然いぜんとして昨夜さくやのごとく静せいであった。
自分じぶんは母ははに見咎めみとがめられるのを恐れおそれて、その夜よるはあえて縁側えんがわへ出でなかった。
朝あさになって自分じぶんは母ははと嫂ねーを例れいの東洋とうよう第だい一いちエレヴェーターえれゔぇーたーへ案内あんないした。
そうして昨日きのうのように山やまの上うえの猿さるに芋いもをやった。
今度こんどは猿さるに馴染なじめのある宿やどの女中じょちゅうがいっしょに随いしたがいて来きたので、猿さるを抱いいだいたり鳴かしなかしたり前の日まえのひよりはだいぶ賑やかにぎやかだった。
母ははは茶店ちゃみせの床几しょうぎに腰こしをかけて、新しん和歌わかの浦うらとかいう禿げはげて茶色ちゃいろになった山やまを指しさして何なんだろうと聞いきいていた。
嫂ねーはしきりに遠眼鏡えんがんきょうはないか遠眼鏡えんがんきょうはないかと騒いさわいだ。
「姉さんあねさん、芝しばの愛宕あたご様ようじゃありませんよ」と自分じぶんは云っいってやった。
「だって遠眼鏡えんがんきょうぐらいあったって好いよいじゃありませんか」と嫂ねーはまだ不足ふそくを並べならべていた。
夕方ゆうがたになって自分じぶんはとうとう兄あにに引っ張らひっぱられて紀三井寺きみいでらへ行っいった。
これは婦人ふじん連れんが昨日きのうすでに参詣さんけいしたというのを口実こうじつに、我々われわれ二人ふたりだけが行くいく事ことにしたのであるが、その実兄じっけいの依頼いらいを聞くきくために自分じぶんが彼かれから誘い出ささそいだされたのである。
自分じぶん達とおるは母ははの見みただけで恐れおそれたという高いたかい石段いしだんを一直線いちちょくせんに上っのぼった。
その上うえは平たいひらたい山やまの中腹ちゅうふくで眺望ちょうぼうの好いよい所ところにベンチべんちが一いちつ据えすえてあった。
本堂ほんどうは傍そばに五重の塔ごじゅうのとうを控えひかえて、普通ふつうありふれた仏閣ぶっかくよりも寂さびがあった。
廂ひさしの最中さいちゅうから下っしたっている白いしろい紐ひもなどはいかにも閑静かんせいに見えみえた。
自分じぶん達とおるは何物なにものも眼めを遮らさえぎらないベンチべんちの上うえに腰こしをおろして並びならび合っあった。
「好いよい景色けしきですね」 眼めの下したには遥はるかの海うみが鰯いわしの腹はらのように輝いかがやいた。
そこへ名残なごりの太陽たいようが一面いちめんに射ししゃして、眩ゆまばゆさが赤くあかく頬ほおを染めるそめるごとくに感じかんじた。
沢さわらしい不規則ふきそくな水みずの形かたちもまた海うみより近くちかくに、平たいひらたい面めんを鏡かがみのように展べのべていた。
兄あには例れいの洋杖すてっきを顋あごの下したに支えささえて黙っだまっていたが、やがて思い切っおもいきったという風かぜに自分じぶんの方ほうを向いむかいた。
「二郎じろう実じつは頼みたのみがあるんだが」「ええ、それを伺ううかがうつもりでわざわざ来きたんだからゆっくり話しはなして下さいください。できる事ことなら何なんでもしますから」「二郎じろう実じつは少しすこし云いいい悪いわるい事ことなんだがな」「云いいい悪いわるい事ことでも僕ぼくだから好いよいでしょう」「うんおれは御前ごぜんを信用しんようしているから話すはなすよ。しかし驚いおどろいてくれるな」 自分じぶんは兄あにからこう云わいわれた時じに、話はなしを聞かきかない先さきにまず驚いおどろいた。
そうしてどんな注文ちゅうもんが兄あにの口くちから出るでるかを恐れおそれた。
兄あにの気分きぶんは前まえ云っいった通りとおり変りかわり易かっやすかった。
けれどもいったん何なんか云いいい出すだすと、意地いじにもそれを通さとおさなければ承知しょうちしなかった。
二十四にじゅうよん
「二郎じろう驚いおどろいちゃいけないぜ」と兄あにが繰返しくりかえした。
そうして現にげんに驚いおどろいている自分じぶんを嘲けるあざけるごとく見みた。
自分じぶんは今いまの兄あにと権現ごんげん社頭しゃとうの兄あにとを比較ひかくしてまるで別人べつじんの観かんをなした。
今いまの兄あには翻がえしひるがえしがたい堅いかたい決心けっしんをもって自分じぶんに向っむかっているとしか自分じぶんには見えみえなかった。
「二郎じろうおれは御前ごぜんを信用しんようしている。御前ごぜんの潔白けっぱくな事ことはすでに御前ごぜんの言語げんごが証明しょうめいしている。それに間ま違いはないだろう」「ありません」「それでは打ち明けるうちあけるが、実じつは直じかの節操せっそうを御前ごぜんに試しためして貰いもらいたいのだ」 自分じぶんは「節操せっそうを試すためす」という言葉ことばを聞いきいた時じ、本当ほんとうに驚いおどろいた。
当人とうにんから驚くおどろくなという注意ちゅういが二に遍へんあったにかかわらず、非常ひじょうに驚いおどろいた。
ただあっけに取らとられて、呆然ぼうぜんとしていた。
「なぜ今いまになってそんな顔かおをするんだ」と兄あにが云っいった。
自分じぶんは兄あにの眼めに映じえいじた自分じぶんの顔かおをいかにも情なくなさけなく感ぜかんぜざるを得とくなかった。
まるでこの間まの会見かいけんとは兄弟きょうだい地ちを換えかえて立ったったとしか思えおもえなかった。
それで急きゅうに気きを取り直しとりなおした。
「姉さんあねさんの節操せっそうを試すためすなんて、――そんな事ことは廃しはいした方ほうが好いよいでしょう」「なぜ」「なぜって、あんまり馬鹿ばからしいじゃありませんか」「何なんが馬鹿ばからしい」「馬鹿ばからしかないかも知れしれないが、必要ひつようがないじゃありませんか」「必要ひつようがあるから頼むたのむんだ」 自分じぶんはしばらく黙っだまっていた。
広いひろい境内けいだいには参詣人さんけいにんの影かげも見えみえないので、四辺しへんは存外ぞんがい静せいであった。
自分じぶんはそこいらを見廻しみまわして、最後さいごに我々われわれ二人ふたりの淋しいさびしい姿すがたをその一隅いちぐうに見出しみだした時じ、薄うす気味きみの悪いわるい心持こころもちがした。
「試すためすって、どうすれば試さみされるんです」「御前ごぜんと直じかが二人ふたりで和歌山わかやまへ行っいって一いち晩ばん泊っとまってくれれば好いよいんだ」「下らしたらない」と自分じぶんは一口ひとくちに退ぞけしりぞけた。
すると今度こんどは兄あにが黙っだまった。
自分じぶんは固よりもとより無言むごんであった。
海うみに射いりつける落日らくじつの光ひかりがしだいに薄くうすくなりつつなお名残なごりの熱ねつを薄赤くうすあかく遠いとおい彼方かなたに棚引かたなびかしていた。
「厭いやかい」と兄あにが聞いきいた。
「ええ、ほかの事ことならですが、それだけは御免ごめんです」と自分じぶんは判はん切りきり云い切っいいきった。
「じゃ頼むたのむまい。その代りかわりおれは生涯しょうがい御前ごぜんを疑ぐるうたぐるよ」「そりゃ困るこまる」「困るこまるならおれの頼むたのむ通りとおりやってくれ」 自分じぶんはただ俯向いうつむいていた。
いつもの兄あにならもう疾しつに手てを出しだしている時分じぶんであった。
自分じぶんは俯向きうつむきながら、今いまに兄あにの拳こぶしが帽子ぼうしの上うえへ飛んとんで来るくるか、または彼かれの平手ひらてが頬ほおのあたりでピシャリぴしゃりと鳴るなるかと思っおもって、じっと癇癪玉かんしゃくたまの破裂はれつするのを期待きたいしていた。
そうしてその破裂はれつの後あとに多くおおく生ずるしょうずる反動はんどうを機会きかいとして、兄あにの心こころを落ちつけようおちつけようとした。
自分じぶんは人ひとより一倍いちばい強いつよい程度ていどで、この反動はんどうに罹りかかり易いやすい兄あにの気質きしつをよく呑み込んのみこんでいた。
自分じぶんはだいぶ辛抱しんぼうして兄あにの鉄拳てっけんの飛んとんで来るくるのを待っまっていた。
けれども自分じぶんの期待きたいは全くまったく徒労とろうであった。
兄あには死んしんだ人ひとのごとく静せいであった。
ついには自分じぶんの方ほうから狐きつねのように変へんな眼め遣いつかいをして、兄あにの顔かおを偸み見ぬすみみなければならなかった。
兄あには蒼いあおい顔かおをしていた。
けれどもけっして衝動的しょうどうてきに動いうごいて来るくる気色けしきには見えみえなかった。
二十五にじゅうご
ややあって兄あには昂奮こうふんした調子ちょうしでこう云っいった。
「二郎じろうおれはお前おまえを信用しんようしている。けれども直じかを疑ぐっうたぐっている。しかもその疑ぐらうたぐられた当人とうにんの相手あいては不幸ふこうにしてお前おまえだ。ただし不幸ふこうと云ういうのは、お前おまえに取っとって不幸ふこうというので、おれにはかえって幸みゆきになるかも知れしれない。と云ういうのは、おれは今いま明言めいげんした通りとおり、お前おまえの云ういう事ことなら何なんでも信じしんじられるしまた何なんでも打明けうちあけられるから、それでおれには幸いさいわいなのだ。だから頼むたのむのだ。おれの云ういう事ことに満更まんざら論理ろんりのない事こともあるまい」 自分じぶんはその時じ兄あにの言葉ことばの奥おくに、何なんか深いぶかい意味いみが籠っこもっているのではなかろうかと疑いうたがい出しだした。
兄あには腹はらの中なかで、自分じぶんと嫂ねーの間まに肉体にくたい上うえの関係かんけいを認めみとめたと信じしんじて、わざとこういう難題なんだいを持ちかけるもちかけるのではあるまいか。
自分じぶんは「兄さんあにさん」と呼んよんだ。
兄あにの耳みみにはとにかく、自分じぶんはよほど力強いちからづよい声こえを出しだしたつもりであった。
「兄さんあにさん、ほかの事こととは違っちがってこれは倫理りんり上うえの大おお問題もんだいですよ……」「当り前あたりまえさ」 自分じぶんは兄あにの答えこたえのことのほか冷淡れいたんなのを意外いがいに感じかんじた。
同時どうじに先さきの疑いうたがいがますます深くふかくなって来きた。
「兄さんあにさん、いくら兄弟きょうだいの仲なかだって僕ぼくはそんな残酷ざんこくな事ことはしたくないです」「いや向うむこうの方ほうがおれに対したいして残酷ざんこくなんだ」 自分じぶんは兄あにに向っむかって嫂ねーがなぜ残酷ざんこくであるかの意味いみを聞こうきこうともしなかった。
「そりゃ改めてあらためてまた伺いうかがいますが、何しろなにしろ今いまの御ご依頼いらいだけは御免ごめん蒙りこうむります。僕ぼくには僕ぼくの名誉めいよがありますから。いくら兄さんあにさんのためだって、名誉めいよまで犠牲ぎせいにはできません」「名誉めいよ?」「無論むろん名誉めいよです。人ひとから頼またのまれて他ほかを試験しけんするなんて、――ほかの事ことだって厭いやでさあ。ましてそんな……探偵たんていじゃあるまいし……」「二郎じろう、おれはそんな下等したとうな行為こういをお前おまえから向うむこうへ仕かけしかけてくれと頼んたのんでいるのじゃない。単にたんに嫂ねーとしまた弟おとうととして一いちつ所ところへ行っいって一いちつ宿やどへ泊っとまってくれというのだ。不名誉ふめいよでも何なんでもないじゃないか」「兄さんあにさんは僕ぼくを疑ぐっうたぐっていらっしゃるんでしょう。そんな無理むりをおっしゃるのは」「いや信じしんじているから頼むたのむのだ」「口くちで信じしんじていて、腹はらでは疑ぐっうたぐっていらっしゃる」「馬鹿ばかな」 兄あにと自分じぶんはこんな会話かいわを何なん遍へんも繰返しくりかえした。
そうして繰返すくりかえすたびに双方そうほう共とも激しげきして来きた。
するとちょっとした言葉ことばから熱ねつが急きゅうに引いひいたように二人ふたり共とも治まっおさまった。
その激しげきしたある時じに自分じぶんは兄あにを真正しんせいの精神病せいしんびょう患者かんじゃだと断定だんていした瞬間しゅんかんさえあった。
しかしその発作ほっさが風かぜのように過ぎすぎた後あとではまた通例つうれいの人間にんげんのようにも感じかんじた。
しまいに自分じぶんはこう云っいった。
「実じつはこの間まから僕ぼくもその事ことについては少々しょうしょう考えかんがえがあって、機会きかいがあったら姉さんあねさんにとくと腹はらの中なかを聞いきいて見るみる気きでいたんですから、それだけなら受合いうけあいましょう。もうじき東京とうきょうへ帰るかえるでしょうから」「じゃそれを明日あすやってくれ。あした昼ひるいっしょに和歌山わかやまへ行っいって、昼ひるのうちに返っかえって来れこれば差支えさしつかえないだろう」 自分じぶんはなぜかそれが厭いやだった。
東京とうきょうへ帰っかえってゆっくり折おりを見みての事ことにしたいと思っおもったが、片方かたほうを断っことわった今更いまさら一方いっぽうも否いなとは云いいいかねて、とうとう和歌山わかやま見物けんぶつだけは引き受けるひきうける事ことにした。
二十六にじゅうろく
その明くるあくる朝あさは起きおきた時じからあいにく空そらに斑ぶちが見えみえた。
しかも風かぜさえ高くたかく吹いふいて例れいの防波堤ぼうはていに崩ほうける波なみの音おとが凄じくすさまじく聞えきこえ出しだした。
欄干らんかんに倚っよって眺めるながめると、白いしろい煙けむりが濛々もうもうと岸きし一面いちめんを立てたて籠めこめた。
午前ごぜんは四よん人ひととも海岸かいがんに出るでる気きがしなかった。
午過ぎひるすぎになって、空模様そらもようは少しすこし穏かおだやかになった。
雲くもの重なるかさなる間まから日脚ひあしさえちょいちょい光ひかりを出しだした。
それでも漁船ぎょせんが四五しご艘そういつもより早くはやく楼ろう前まえの掘割ほりわりへ漕ぎこぎ入れいれて来きた。
「気味きみが悪いわるいね。何なんだか暴風ぼうふう雨あめでもありそうじゃないか」 母はははいつもと違うちがう空そらを仰いおっしゃいで、こう云いいいながらまた元もとの座敷ざしきへ引返しひきかえして来きた。
兄あにはすぐ立ったってまた欄干らんかんへ出でた。
「何なん大丈夫だいじょうぶだよ。大したたいした事ことはないにきまっている。御ご母さんははさん僕ぼくが受け合いうけあいますから出かけでかけようじゃありませんか。俥くるまもすでに誂えあつらえてありますから」 母ははは何なんとも云わいわずに自分じぶんの顔かおを見みた。
「そりゃ行っいっても好いよいけれど、行くいくなら皆みななでいっしょに行こういこうじゃないか」 自分じぶんはその方ほうが遥はるかに楽らくであった。
でき得るうるならどうか母ははの御供ごくをして、和歌山わかやま行こうをやめたいと考えかんがえた。
「じゃ僕達ぼくたちもいっしょにその切り開いきりひらいた山道さんどうの方ほうへ行っいって見みましょうか」と云いいいながら立ちたちかけた。
すると嶮しいけわしい兄あにの眼めがすぐ自分じぶんの上うえに落ちおちた。
自分じぶんはとうていこれでは約束やくそくを履行りこうするよりほかに道みちがなかろうとまた思い返しおもいかえした。
「そうそう姉さんあねさんと約束やくそくがあったっけ」 自分じぶんは兄あにに対したいして、つい空惚けそらとぼけた挨拶あいさつをしなければすまなくなった。
すると母ははが今度こんどは苦いにがい顔かおをした。
「和歌山わかやまはやめにおしよ」 自分じぶんは母ははと兄あにの顔かおを見比べみくらべてどうしたものだろうと躊躇ちゅうちょした。
嫂ねーはいつものように冷然れいぜんとしていた。
自分じぶんが母ははと兄あにの間まに迷っまよっている間ま、彼女かのじょはほとんど一言ひとことも口くちにしなかった。
「直じか御前ごぜん二郎じろうに和歌山わかやまへ連れつれて行っいって貰うもらうはずだったね」と兄あにが云っいった時じ、嫂ねーはただ「ええ」と答えこたえただけであった。
母ははが「今日きょうはお止しよしよ」と止めとめた時じ、嫂ねーはまた「ええ」と答えこたえただけであった。
自分じぶんが「姉さんあねさんどうします」と顧みかえりみた時じは、また「どうでも好いよいわ」と答えこたえた。
自分じぶんはちょっと用事ようじに下したへ降りふりた。
すると母ははがまた後あとから降りふりて来きた。
彼女かのじょの様子ようすは何なんだかそわそわしていた。
「御前ごぜん本当ほんとうに直じかと二人ふたりで和歌山わかやまへ行くいく気きかい」「ええ、だって兄さんあにさんが承知しょうちなんですもの」「いくら承知しょうちでも御ご母さんははさんが困るこまるから御ご止しよしよ」 母ははの顔かおのどこかには不安ふあんの色いろが見えみえた。
自分じぶんはその不安ふあんの出所しゅっしょが兄あににあるのか、または嫂ねーと自分じぶんにあるか、ちょっと判断はんだんに苦しんくるしんだ。
「なぜです」と聞いきいた。
「なぜですって、御前ごぜんと直じかと行くいくのはいけないよ」「兄さんあにさんに悪いわるいと云ういうんですか」 自分じぶんは露骨ろこつにこう聞いきいて見みた。
「兄さんあにさんに悪いわるいばかりじゃないが……」「じゃ姉さんあねさんだの僕ぼくだのに悪いわるいと云ういうんですか」 自分じぶんの問もんは前まえよりなお露骨ろこつであった。
母ははは黙っだまってそこに佇たたずまいずんでいた。
自分じぶんは母ははの表情ひょうじょうに珍らしくめずらしく猜疑さいぎの影かげを見みた。
二十七にじゅうなな
自分じぶんは自分じぶんを信じしんじ切りきり、また愛しあいし切っきっているとばかり考えかんがえていた母ははの表情ひょうじょうを見みてたちまち臆しおくした。
「では止しよします。元々もともと僕ぼくの発案はつあんで姉さんあねさんを誘い出すさそいだすんじゃない。兄さんあにさんが二人ふたりで行っいって来いこいと云ういうから行くいくだけの事ことです。御ご母さんははさんが御ご不承知ふしょうちならいつでもやめます。その代りかわり御ご母さんははさんから兄さんあにさんに談判だんぱんして行かいかないで好いよいようにして下さいください。僕ぼくは兄さんあにさんに約束やくそくがあるんだから」 自分じぶんはこう答えこたえて、何なんだかきまりが悪わるそうに母ははの前まえに立ったっていた。
実じつは母ははの前まえを去るさる勇気ゆうきが出でなかったのである。
母ははは少しすこし途方とほうに暮れくれた様子ようすであった。
しかししまいに思い切っおもいきったと見えみえて、「じゃ兄さんあにさんには妾めかけから話はなしをするから、その代りかわり御前ごぜんはここに待っまってておくれ、三さん階かいへ一緒いっしょに来るくるとまた事ことが面倒めんどうになるかも知れしれないから」と云っいった。
自分じぶんは母ははの後影うしろかげを見送りみおくりながら、事ことがこんな風かぜに引いん絡まっからまった日ひには、とても嫂ねーを連れつれて和歌山わかやまなどへ行くいく気きになれない、行っいったところで肝心かんじんの用ようは弁じべんじない、どうか母ははの思いおもい通りとおりに事ことが変じへんじてくれれば好いよいがと思っおもった。
そうして気きの落ちつかおちつかない胸むねを抱いいだいて、広いひろい座敷ざしきを右左みぎひだりに目的もくてきもなく往っいったり来きたりした。
やがて三さん階かいから兄あにが下りくだりて来きた。
自分じぶんはその顔かおをちらりと見みた時じ、これはどうしても行かいかなければ済ますまないなとすぐ読んよんだ。
「二郎じろう、今いまになって違約いやくして貰っもらっちゃおれが困るこまる。貴様きさまだって男おとこだろう」 自分じぶんは時々ときどき兄あにから貴様きさまと呼ばよばれる事ことがあった。
そうしてこの貴様きさまが彼かれの口くちから出でたときはきっと用心ようじんして後難こうなんを避けさけた。
「いえ行くいくんです。行くいくんですがお母さんおははさんが止せよせとおっしゃるから」 自分じぶんがこう云っいってるうちに、母ははがまた心配しんぱいそうに三さん階かいから下りくだりて来きた。
そうしてすぐ自分じぶんの傍そばへ寄っよって、「二郎じろうお母さんおははさんは先刻せんこくああ云っいったけれども、よく一郎いちろうに聞いきいて見るみると、何なんだか紀三井寺きみいでらで約束やくそくした事ことがあるとか云ういう話はなしだから、残念ざんねんだが仕方ないしかたない。やっぱりその約束やくそく通りとおりになさい」と云っいった。
「ええ」 自分じぶんはこう答えこたえて、あとは何になんにも云わいわない事ことにした。
やがて母ははと兄あには下したに待っまっている俥くるまに乗っのって、楼ろう前まえから右みぎの方ほうへ鉄輪てつりんの音おとを鳴らしならして去っさった。
「じゃ僕ぼくらもそろそろ出かけでかけましょうかね」と嫂ねーを顧みかえりみた時じ、自分じぶんは実際じっさい好いよい心持こころもちではなかった。
「どうです出かけるでかける勇気ゆうきがありますか」と聞いきいた。
「あなたは」と向むかいも聞いきいた。
「僕ぼくはあります」「あなたにあれば、妾めかけにだってあるわ」 自分じぶんは立ったって着物きものを着換えきかえ始めはじめた。
嫂ねーは上着うわぎを引いん掛けかけてくれながら、「あなた何なんだか今日きょうは勇気ゆうきがないようね」と調ちょう戯たわむれい半分はんぶんに云っいった。
自分じぶんは全くまったく勇気ゆうきがなかった。
二人ふたりは電車でんしゃの出るでる所ところまで歩いあるいて行っいった。
あいにく近きん路みちを取っとったので、嫂ねーの薄いうすい下駄げたと白足袋しろたびが一足いっそくごとに砂すなの中なかに潜っもぐった。
「歩きあるき悪いわるいでしょう」「ええ」と云っいって彼女かのじょは傘かさを手てに持っもったまま、後あとを向いむかいて自分じぶんの後足あとあしを顧みかえりみた。
自分じぶんは赤いあかい靴くつを砂すなの中なかに埋めうめながら、今日きょうの使命しめいをどこでどう果しはてしたものだろうと考えかんがえた。
考えかんがえながら歩くあるくせいか会話かいわは少しすこしも機きまない心持こころもちがした。
「あなた今日きょうは珍らしくめずらしく黙っだまっていらっしゃるのね」とついに嫂ねーから注意ちゅういされた。
二十八にじゅうはち
自分じぶんは嫂ねーと並んならんで電車でんしゃに腰こしを掛けかけた。
けれども大事だいじの用ようを前まえに控えひかえているという気きが胸むねにあるので、どうしても機嫌きげんよく話はなしはできなかった。
「なぜそんなに黙っだまっていらっしゃるの」と彼女かのじょが聞いきいた。
自分じぶんは宿やどを出でてからこう云ういう意味いみの質問しつもんを彼女かのじょからすでに二に度どまで受けうけた。
それを裏うらから見るみると、二人ふたりでもっと面白くおもしろく話そうはなそうじゃありませんかと云ういう意味いみも映っうつっていた。
「あなた兄さんあにさんにそんな事ことを云っいったことがありますか」 自分じぶんの顔かおはやや真面目まじめであった。
嫂ねーはちょっとそれを見みて、すぐ窓まどの外そとを眺めながめた。
そうして「好いよい景色けしきね」と云っいった。
なるほどその時じ電車でんしゃの走っはしっていた所ところは、悪いわるい景色けしきではなかったけれども、彼女かのじょのことさらにそれを眺めながめた事ことは明かあきらかであった。
自分じぶんはわざと嫂ねーを呼んよんで再びふたたび前まえの質問しつもんを繰返しくりかえした。
「なぜそんなつまらない事ことを聞くきくのよ」と云っいった彼女かのじょは、ほとんど一顧いっこに価あたいしない風かぜをした。
電車でんしゃはまた走っはしった。
自分じぶんは次つぎの停留所ていりゅうしょへ来るくる前まえまた執拗しつようく同じおなじ問もんをかけて見みた。
「うるさい方ほうね」と彼女かのじょがついに云っいった。
「そんな事こと聞いきいて何なんになさるの。そりゃ夫婦ふうふですもの、そのくらいな事こと云っいった覚さとしはあるでしょうよ。それがどうしたの」「どうもしやしません。兄さんあにさんにもそういう親しいしたしい言葉ことばを始終しじゅうかけて上げあげて下さいくださいと云ういうだけです」 彼女かのじょは蒼白いあおじろい頬ほおへ少しすこし血ちを寄せよせた。
その量りょうが乏しいとぼしいせいか、頬ほおの奥おくの方ほうに灯あかりを点けつけたのが遠くとおくから皮膚ひふをほてらしているようであった。
しかし自分じぶんはその意味いみを深くふかくも考えかんがえなかった。
和歌山わかやまへ着いついた時じ、二人ふたりは電車でんしゃを降りふりた。
降りふりて始めてはじめて自分じぶんは和歌山わかやまへ始めはじめて来きた事ことを覚っさとった。
実じつはこの地ちを見物けんぶつする口実こうじつの下したに、嫂ねーを連れつれて来きたのだから、形式けいしきにもどこか見みなければならなかった。
「あらあなたまだ和歌山わかやまを知らしらないの。それでいて妾めかけを連れつれて来るくるなんて、ずいぶん呑気のんきね」 嫂ねーは心細こころぼそそうに四方しほうを見廻しみまわした。
自分じぶんも何分なんふんかきまりが悪かっわるかった。
「俥くるまへでも乗っのって車夫しゃふに好いよい加減かげんな所ところへ連れつれて行っいって貰いもらいましょうか。それともぶらぶら御ご城しろの方ほうへでも歩いあるいて行きいきますか」「そうね」 嫂ねーは遠くとおくの空そらを眺めながめて、近いちかい自分じぶんには眼めを注がちゅうがなかった。
空そらはここも海辺うみべと同じおなじように曇っくもっていた。
不規則ふきそくに濃淡のうたんを乱しみだした雲くもが幾いく重じゅうにも二人ふたりの頭あたまの上うえを蔽っおおって、日ひを直下ちょっかに受けるうけるよりは蒸しむし熱かっあつかった。
その上うえいつ驟雨しゅううが来るくるか解らわからないほどに、空そらの一部分いちぶぶんがすでに黒ずんくろずんでいた。
その黒ずんくろずんだ円えんの四方しほうが暈さぼかされたように輝いかがやいて、ちょうど今いま我々われわれが見捨てみすてて来きた和歌わかの浦うらの見当けんとうに、凄じいすさまじい空そらの一角いっかくを描き出しえがきだしていた。
嫂ねーは今いまその気味きみの悪いわるい所ところを眉まゆを寄せよせて眺めながめているらしかった。
「降るふるでしょうか」 自分じぶんは固よりもとより降るふるに違いないと思っおもっていた。
それでとにかく俥くるまを雇っやとって、見るみるだけの所ところを馳はせけ抜けぬけた方ほうが得策とくさくだと考えかんがえた。
自分じぶんは直じかに俥くるまを命じめいじて、どこでも構わかまわないからなるべく早くはやく見物けんぶつのできるように挽いひいて廻れまわれと命じめいじた。
車夫しゃふは要領ようりょうを得とくたごとくまた得とくないごとく、むやみに駆けかけた。
狭いせまい町まちへ出でたり、例れいの蓮れんの咲いさいている濠ほりへ出でたりまた狭いせまい町まちへ出でたりしたが、いっこうこれぞという所ところはなかった。
最後さいごに自分じぶんは俥くるまの上うえで、こう駆けかけてばかりいては肝心かんじんの話はなしができないと気きがついて、車夫しゃふにどこかゆっくり坐っすわって話はなしのできる所ところへ連れつれて行けいけと差図さしずした。
二十九にじゅうきゅう
車夫しゃふは心得こころえて駆け出しかけだした。
今までいままでと違っちがって威勢いせいがあまり好よしみ過ぎるすぎると思うおもううちに、二人ふたりの俥くるまは狭いせまい横町よこちょうを曲っきょくって、突然とつぜん大きなおおきな門もんを潜っもぐった。
自分じぶんがあわてて、車夫しゃふを呼びよび留めようとめようとした時じ、梶棒かじぼうはすでに玄関げんかんに横よこ付ふになっていた。
二人ふたりはどうする事こともできなかった。
その上うえ若いわかい着飾っきかざった下女げじょが案内あんないに出でたので、二人ふたりはついに上るのぼるべく余儀よぎなくされた。
「こんな所ところへ来るくるはずじゃなかったんですが」と自分じぶんはつい言訳いいわけらしい事ことを云っいった。
「なぜ。だって立派りっぱな御ご茶屋ちゃやじゃありませんか。結構けっこうだわ」と嫂ねーが答えこたえた。
その答えこたえぶりから推すおすと、彼女かのじょは最初さいしょからこういう料理屋りょうりやめいた所ところへでも来るくるのを予期よきしていたらしかった。
実際じっさい嫂ねーのいった通りとおりその座敷ざしきは物もの綺麗きれいにかつ堅牢けんろうに出来上っできあがっていた。
「東京とうきょう辺へんの安あん料理屋りょうりやよりかえって好いよいくらいですね」と自分じぶんは柱はしらの木口きぐちや床ゆかの軸じくなどを見廻しみまわした。
嫂ねーは手摺てすりの所ところへ出でて、中庭なかにわを眺めながめていた。
古いふるい梅うめの株かぶの下したに蘭らんの茂りしげりが蒼黒いあおぐろい影かげを深くふかく見せみせていた。
梅うめの幹みきにも硬くかたくて細長いほそながい苔こけらしいものがところどころに喰くえついていた。
下女げじょが浴衣ゆかたを持っもって風呂ふろの案内あんないに来きた。
自分じぶんは風呂ふろに這入るはいる時間じかんが惜しかっおしかった。
そうして日ひが暮れくれはしまいかと心配しんぱいした。
できるならば一刻いっこくも早くはやく用ようを片づけかたづけて、約束やくそく通りとおり明るいあかるい路みちを浜辺はまべまで帰りかえりたいと念じねんじた。
「どうします姉さんあねさん、風呂ふろは」と聞いきいて見みた。
嫂ねーも明るいあかるいうちには帰るかえるように兄あにから兼ねけんねて云いいいつけられていたので、そこはよく承知しょうちしていた。
彼女かのじょは帯おびの間まから時計とけいを出しだして見みた。
「まだ早いはやいのよ、二郎じろうさん。お湯ゆへ這入っはいっても大丈夫だいじょうぶだわ」 彼女かのじょは時間じかんの遅くおそく見えるみえるのを全くまったく天気てんきのせいにした。
もっとも濁っにごった雲くもが幾いく重じゅうにも空そらを鎖しとざしているので、時計とけいの時間じかんよりは世の中よのなかが暗くくらく見えみえたのはたしかに違いちがいなかった。
自分じぶんはまた今いまにも降りふり出しだしそうな雨あめを恐れおそれた。
降るふるならひとしきりざっと来きた後あとで、帰っかえった方ほうがかえって楽らくだろうと考えかんがえた。
「じゃちょっと汗あせを流しながして行きいきましょうか」 二人ふたりはとうとう風呂ふろに入っはいった。
風呂ふろから出るでると膳ぜんが運ばはこばれた。
時間じかんからいうと飯めしには早はや過ぎすぎた。
酒さけは遠慮えんりょしたかった。
かつ飲めるのめる口くちでもなかった。
自分じぶんはやむをえず、吸物すいものを吸っすったり、刺身さしみを突ついつついたりした。
下女げじょが邪魔じゃまになるので、用ようがあれば呼ぶよぶからと云っいって下げさげた。
嫂ねーには改まっあらたまって云いいい出しだしたものだろうか、またはそれとなく話はなしのついでにそこへ持っもって行っいったものだろうかと思案しあんした。
思案しあんし出すだすとどっちもいいようでまたどっちも悪いわるいようであった。
自分じぶんは吸物すいもの椀わんを手てにしたままぼんやり庭にわの方ほうを眺めながめていた。
「何なんを考えかんがえていらっしゃるの」と嫂ねーが聞いきいた。
「何なん、降りゃふりゃしまいかと思っおもってね」と自分じぶんはいい加減いいかげんな答こたえをした。
「そう。そんなに御ご天気てんきが怖いこわいの。あなたにも似合わにあわないのね」「怖こわかないけど、もし強きょう雨あめにでもなっちゃ大変たいへんですからね」 自分じぶんがこう云っいっている内うちに、雨あめはぽつりぽつりと落ちおちて来きた。
よほど早くはやくからの宴会えんかいでもあるのか、向うむこうに見えるみえる二に階かいの広間ひろまに、二三にさん人ひと紋付もんつけ羽織はおりの人影ひとかげが見えみえた。
その見当けんとうで芸者げいしゃが三味線しゃみせんの調子ちょうしを合わせあわせている音おとが聞えきこえ出しだした。
宿やどを出るでるときすでにざわついていた自分じぶんの心こころは、この時じ一層いっそう落ちつきおちつきを失いかけうしないかけて来きた。
自分じぶんは腹はらの中なかで、今日きょうはとてもしんみりした話はなしをする気きになれないと恐れおそれた。
なぜまたその今日きょうに限っかぎって、こんな変へんな事ことを引受けひきうけたのだろうと後悔こうかいもした。
三十さんじゅう
嫂ねーはそんな事ことに気きのつくはずがなかった。
自分じぶんが雨あめを気きにするのを見みて、彼女かのじょはかえって不思議ふしぎそうに詰っなじった。
「何なんでそんなに雨あめが気きになるの。降れふれば後あとが涼しくすずしくなって好いよいじゃありませんか」「だっていつやむか解らわからないから困るこまるんです」「困りゃこまりゃしないわ。いくら約束やくそくがあったって、御ご天気てんきのせいなら仕方しかたがないんだから」「しかし兄さんあにさんに対したいして僕ぼくの責任せきにんがありますよ」「じゃすぐ帰りかえりましょう」 嫂ねーはこう云っいって、すぐ立ち上ったちのぼった。
その様子ようすには一種いっしゅの決断けつだんがあらわれていた。
向むかいの座敷ざしきでは客きゃくの頭あたまが揃っそろったのか、三味線しゃみせんの音おとが雨あめを隔てへだてて爽かさわやかに聞えきこえ出しだした。
電灯でんとうもすでに輝いかがやいた。
自分じぶんも半ばなかば嫂ねーの決心けっしんに促さうながされて、腰こしを立てかけたてかけたが、考えるかんがえると受合っうけあって来きた話はなしはまだ一言ひとことも口くちへ出しだしていなかった。
後れおくれて帰るかえるのが母ははや兄あににすまないごとく、少しすこしも嫂ねーに肝心かんじんの用談ようだんを打ち明けうちあけないのがまた自分じぶんの心こころにすまなかった。
「姉さんあねさんこの雨あめは容易よういにやみそうもありませんよ。それに僕ぼくは姉さんあねさんに少しすこし用談ようだんがあって来きたんだから」 自分じぶんは半分はんぶん空そらを眺めながめてまた嫂ねーをふり返っふりかえった。
自分じぶんは固よりもとよりの事こと、立ち上ったちのぼった彼女かのじょも、まだ帰るかえる仕度したくは始めはじめなかった。
彼女かのじょは立ち上ったちのぼったには、立ち上ったちのぼったが、自分じぶんの様子ようすしだいでその以後いごの態度たいどを一定いっていしようと、五ご分ぶんの隙間すきまなく身構えみがまえているらしく見えみえた。
自分じぶんはまた軒端のきばへ首くびを出しだして上うえの方ほうを望んのぞんだ。
室むろの位置いちが中庭なかにわを隔てへだてて向うむこうに大きなおおきな二に階かい建けんの広間ひろまを控えひかえているため、空そらはいつものように広くひろくは限界げんかいに落ちおちなかった。
したがって雲くもの往来おうらいや雨あめの降りふり按排あんばいも、一般的いっぱんてきにはよく分らわからなかった。
けれども凄まじすさまじさが先刻せんこくよりは一層いっそうはなはだしく庭木にわきを痛いた振っふっているのは事実じじつであった。
自分じぶんは雨あめよりも空そらよりも、まずこの風かぜに辟易へきえきした。
「あなたも妙みょうな方ほうね。帰るかえるというからそのつもりで仕度したくをすれば、また坐っすわってしまって」「仕度したくってほどの仕度したくもしないじゃありませんか。ただ立ったったぎりでさあ」 自分じぶんがこう云っいった時じ、嫂ねーはにっこりと笑っわらった。
そうして故意こいと己れおのれの袖そでや裾すそのあたりをなるほどといったようなまた意外いがいだと驚いおどろいたような眼つきめつきで見廻しみまわした。
それから微笑びしょうを含んふくんでその様子ようすを見みていた自分じぶんの前まえに再びふたたびぺたりと坐っすわった。
「何なんよ用談ようだんがあるって。妾めかけにそんなむずかしい事ことが分りゃわかりゃしないわ。それよりか向うむこうの御座敷ござしきの三味線しゃみせんでも聞いきいてた方ほうが増しましよ」 雨あめは軒のきに響くひびくというよりもむしろ風かぜに乗せのせられて、気ままきままな場所ばしょへ叩きつけたたきつけられて行くいくような音おとを起しおこした。
その間まに三味線しゃみせんの音おとが気紛れきまぐれものらしく時々ときどき二人ふたりの耳みみを掠め去っかすめさった。
「用ようがあるなら早くはやくおっしゃいな」と彼女かのじょは催促さいそくした。
「催促さいそくされたってちょっと云えるいえる事ことじゃありません」 自分じぶんは実際じっさい彼女かのじょから促さうながされた時じ、何なんと切り出しきりだして好いよいか分らわからなかった。
すると彼女かのじょはにやにやと笑っわらった。
「あなた取っとっていくつなの」「そんなに冷かしひやかしちゃいけません。本当ほんとうに真面目まじめな事ことなんだから」「だから早くはやくおっしゃいな」 自分じぶんはいよいよ改まっあらたまって忠告ちゅうこくがましい事ことを云ういうのが厭いやになった。
そうして彼女かのじょの前まえへ出でた今いまの自分じぶんが何なんだか彼女かのじょから一段いちだん低くひくく見縊らみくびられているような気きがしてならなかった。
それだのにそこに一種いっしゅの親しみしたしみを感じかんじずにはまたいられなかった。
三十一さんじゅういち
「姉さんあねさんはいくつでしたっけね」と自分じぶんはついに即かつかぬ事ことを聞き出しききだした。
「これでもまだ若いわかいのよ。あなたよりよっぽど下したのつもりですわ」 自分じぶんは始めはじめから彼女かのじょの年ねんと自分じぶんの年ねんを比較ひかくする気きはなかった。
「兄さんあにさんとこへ来きてからもう何なん年ねんになりますかね」と聞いきいた。
嫂ねーはただ澄ましすまして「そうね」と云っいった。
「妾めかけそんな事ことみんな忘れわすれちまったわ。だいち自分じぶんの年ねんさえ忘れるわすれるくらいですもの」 嫂ねーのこの恍けとぼけ方ほうはいかにも嫂ねーらしく響いひびいた。
そうして自分じぶんにはかえって嬌態きょうたいとも見えるみえるこの不ふ自然しぜんが、真面目まじめな兄あににはなはだしい不愉快ふゆかいを与えるあたえるのではなかろうかと考えかんがえた。
「姉さんあねさんは自分じぶんの年ねんにさえ冷淡れいたんなんですね」 自分じぶんはこんな皮肉ひにくを何なんとなく云っいった。
しかし云っいったときの浮気うわきな心こころにすぐ気きがつくと急きゅうに兄あににすまない恐ろしおそろしさに襲わおそわれた。
「自分じぶんの年ねんなんかに、いくら冷淡れいたんでも構わかまわないから、兄さんあにさんにだけはもう少しすこし気きをつけて親切しんせつにして上げあげて下さいください」「妾めかけそんなに兄さんあにさんに不親切ふしんせつに見えみえて。これでもできるだけの事ことは兄さんあにさんにして上げあげてるつもりよ。兄さんあにさんばかりじゃないわ。あなたにだってそうでしょう。ねえ二郎じろうさん」 自分じぶんは、自分じぶんにもっと不親切ふしんせつにして構わかまわないから、兄あにの方ほうには最少さいしょうし優しくやさしくしてくれろと、頼むたのむつもりで嫂ねーの眼めを見みた時じ、また急きゅうに自分じぶんの甘いあまいのに気きがついた。
嫂ねーの前まえへ出でて、こう差し向いさしむかいに坐っすわったが最後さいご、とうてい真底しんそこから誠実せいじつに兄あにのために計るはかる事ことはできないのだとまで思っおもった。
自分じぶんは言葉ことばには少しすこしも窮しきゅうしなかった。
どんな言語げんごでも兄あにのために使おうつかおうとすれば使わつかわれた。
けれどもそれを使うつかう自分じぶんの心こころは、兄あにのためでなくってかえって自分じぶんのために使うつかうのと同じおなじ結果けっかになりやすかった。
自分じぶんはけっしてこんな役割やくわりを引き受けひきうけべき人格じんかくでなかった。
自分じぶんは今更いまさらのように後悔こうかいした。
「あなた急きゅうに黙っだまっちまったのね」とその時じ嫂ねーが云っいった。
あたかも自分じぶんの急所きゅうしょを突くつくように。
「兄さんあにさんのために、僕ぼくが先刻せんこくからあなたに頼んたのんでいる事ことを、姉さんあねさんは真面目まじめに聞いきいて下さらくださらないから」 自分じぶんは恥ずかしいはずかしい心こころを抑えおさえてわざとこう云っいった。
すると嫂ねーは変へんに淋しいさびしい笑いわらい方ほうをした。
「だってそりゃ無理むりよ二郎じろうさん。妾めかけ馬鹿ばかで気きがつかないから、みんなから冷淡れいたんと思わおもわれているかも知れしれないけれど、これで全くまったくできるだけの事ことを兄さんあにさんに対したいしてしている気きなんですもの。――妾めかけゃ本当ほんとうに腑ふ抜ぬけなのよ。ことに近頃ちかごろは魂たましいの抜殻ぬけがらになっちまったんだから」「そう気きを腐らくさらせないで、もう少しすこし積極的せっきょくてきにしたらどうです」「積極的せっきょくてきってどうするの。御世辞ごせじを使うつかうの。妾めかけ御世辞ごせじは大嫌いだいきらいよ。兄さんあにさんも御ご嫌いきらいよ」「御世辞ごせじなんか嬉しうれしがるものもないでしょうけれども、もう少しすこしどうかしたら兄さんあにさんも幸福こうふくでしょうし、姉さんあねさんも仕合せしあわせだろうから……」「よござんす。もう伺わうかがわないでも」と云っいった嫂ねーは、その言葉ことばの終らおわらないうちに涙なみだをぽろぽろと落しおとした。
「妾めかけのような魂たましいの抜殻ぬけがらはさぞ兄さんあにさんには御ご気きに入らはいらないでしょう。しかし私わたくしはこれで満足まんぞくです。これでたくさんです。兄さんあにさんについて今までいままで何なんの不足ふそくを誰だれにも云っいった事ことはないつもりです。そのくらいの事ことは二郎じろうさんもたいてい見みていて解りわかりそうなもんだのに……」 泣きなきながら云ういう嫂ねーの言葉ことばは途切れ途切れとぎれとぎれにしか聞こえきこえなかった。
しかしその途切れ途切れとぎれとぎれの言葉ことばが鋭いするどい力ちからをもって自分じぶんの頭あたまに応えこたえた。
三十二さんじゅうに
自分じぶんは経験けいけんのある或るある年長者ねんちょうしゃから女おんなの涙なみだに金剛石こんごうせきはほとんどない、たいていは皆みなギヤマンぎやまん細工さいくだとかつて教わっおそわった事ことがある。
その時じ自分じぶんはなるほどそんなものかと思っおもって感心かんしんして聞いきいていた。
けれどもそれは単にたんに言葉ことばの上うえの智識ちしきに過ぎすぎなかった。
若輩じゃくはいな自分じぶんは嫂ねーの涙なみだを眼めの前まえに見みて、何なんとなく可憐かれんに堪えこらえないような気きがした。
ほかの場合ばあいなら彼女かのじょの手てを取っとって共ともに泣いないてやりたかった。
「そりゃ兄さんあにさんの気むずかしいきむずかしい事ことは誰だれにでも解っわかってます。あなたの辛抱しんぼうも並大抵なみたいていじゃないでしょう。けれども兄さんあにさんはあれで潔白けっぱくすぎるほど潔白けっぱくで正直しょうじきすぎるほど正直しょうじきな高尚こうしょうな男おとこです。敬愛けいあいすべき人物じんぶつです……」「二郎じろうさんに何なんもそんな事ことを伺わうかがわないでも兄さんあにさんの性質せいしつぐらい妾めかけだって承知しょうちしているつもりです。妻つまですもの」 嫂ねーはこう云っいってまたしゃくり上げしゃくりあげた。
自分じぶんはますます可哀そうかわいそうになった。
見るみると彼女かのじょの眼めを拭っぬぐっていた小形おがたの手帛はんけちが、皺しわだらけになって濡れぬれていた。
自分じぶんは乾いかわいている自分じぶんので彼女かのじょの眼めや頬ほおを撫でなでてやるために、彼女かのじょの顔かおに手てを出しだしたくてたまらなかった。
けれども、何なんとも知れしれない力ちからがまたその手てをぐっと抑えおさえて動けうごけないように締めつけしめつけている感じかんじが強くつよく働いはたらいた。
「正直しょうじきなところ姉さんあねさんは兄さんあにさんが好きすきなんですか、また嫌いやなんですか」 自分じぶんはこう云っいってしまった後あとで、この言葉ことばは手てを出しだして嫂ねーの頬ほおを、拭いぬぐいてやれない代りかわりに自然しぜん口くちの方ほうから出でたのだと気きがついた。
嫂ねーは手帛はんけちと涙なみだの間まから、自分じぶんの顔かおを覗くのぞくように見みた。
「二郎じろうさん」「ええ」 この簡単かんたんな答こたえは、あたかも磁石じしゃくに吸わすわれた鉄てつの屑くずのように、自分じぶんの口くちから少しすこしの抵抗ていこうもなく、何なんらの自覚じかくもなく釣り出さつりだされた。
「あなた何なんの必要ひつようがあってそんな事ことを聞くきくの。兄さんあにさんが好きすきか嫌いきらいかなんて。妾めかけが兄さんあにさん以外いがいに好いよいてる男おとこでもあると思っおもっていらっしゃるの」「そういう訳わけじゃけっしてないんですが」「だから先刻せんこくから云っいってるじゃありませんか。私わたくしが冷淡れいたんに見えるみえるのは、全くまったく私わたくしが腑ふ抜ぬけのせいだって」「そう腑ふ抜ぬけをことさらに振りふり舞わさまわされちゃ困るこまるね。誰だれも宅たくのものでそんな悪口わるぐちを云ういうものは一人ひとりもないんですから」「云わいわなくっても腑ふ抜よぬけよ。よく知っしってるわ、自分じぶんだって。けど、これでも時々ときどきは他ほかから親切しんせつだって賞めほめられる事こともあってよ。そう馬鹿ばかにしたものでもないわ」 自分じぶんはかつて大きなおおきなクッションくっしょんに蜻蛉かげろうだの草花くさばなだのをいろいろの糸いとで、嫂ねーに縫いつけぬいつけて貰っもらった御礼ごれいに、あなたは親切しんせつだと感謝かんしゃした事ことがあった。
「あれ、まだ有るあるでしょう綺麗きれいね」と彼女かのじょが云っいった。
「ええ。大事だいじにして持っもっています」と自分じぶんは答えこたえた。
自分じぶんは事実じじつだからこう答えこたえざるを得とくなかった。
こう答えるこたえる以上いじょう、彼女かのじょが自分じぶんに親切しんせつであったという事実じじつを裏うらから認識にんしきしない訳わけに行かいかなかった。
ふと耳みみを欹てるそばだてると向うむこうの二に階かいで弾いひいていた三味線しゃみせんはいつの間まにかやんでいた。
残りのこり客きゃくらしい人ひとの酔っよいった声こえが時々ときどき風かぜを横切っよこぎって聞こえきこえた。
もうそれほど遅くおそくなったのかと思っおもって、時計とけいを捜し出しさがしだしにかかったところへ女中じょちゅうが飛石とびいし伝つてに縁側えんがわから首くびを出しだした。
自分じぶんらはこの女中じょちゅうを通じつうじて、和歌わかの浦うらが今いま暴風ぼうふう雨あめに包まつつまれているという事ことを知っしった。
電話でんわが切れきれて話はなしが通じつうじないという事ことを知っしった。
往来おうらいの松まつが倒れたおれて電車でんしゃが通じつうじないという事ことも知っしった。
三十三さんじゅうさん
自分じぶんはその時じ急きゅうに母ははや兄あにの事ことを思い出しおもいだした。
眉まゆを焦すこがす火ひのごとく思い出しおもいだした。
狂うくるう風かぜと渦巻くうずまく浪なみに弄ばもてあそばれつつある彼かれらの宿やどが想像そうぞうの眼めにありありと浮んうかんだ。
「姉さんあねさん大変たいへんな事ことになりましたね」と自分じぶんは嫂ねーを顧みかえりみた。
嫂ねーはそれほど驚いおどろいた様子ようすもなかった。
けれども気きのせいか、常つねから蒼いあおい頬ほおが一層いっそう蒼いあおいように感ぜかんぜられた。
その蒼いあおい頬ほおの一部いちぶと眼めの縁えんに先刻せんこく泣いないた痕跡こんせきがまだ残っのこっていた。
嫂ねーはそれを下女げじょに悟らさとられるのが厭いやなんだろう、電灯でんとうに疎いうとい不自然ふしぜんな方角ほうがくへ顔かおを向けむけて、わざと入口いりぐちの方ほうを見みなかった。
「和歌わかの浦うらへはどうしても帰らかえられないんでしょうか」と云っいった。
見当けんとう違いちがいの方ほうから出でたこの問もんは、自分じぶんに云ういうのか、または下女げじょに聞くきくのか、ちょっと解らわからなかった。
「俥くるまでも駄目だめだろうね」と自分じぶんが同じおなじような問もんを下女げじょに取次いとりついだ。
下女げじょは駄目だめという言葉ことばこそ繰返さくりかえさなかったが、危険きけんな意味いみを反覆はんぷく説明せつめいして、聞かきかせた上うえ、是非ぜひ今夜こんやだけは和歌山わかやまへ泊れとまれと忠告ちゅうこくした。
彼女かのじょの顔かおはむしろわれわれ二人ふたりの利害りがいを標的ひょうてきにして物ものを云っいってるらしく真面目まじめに見えみえた。
自分じぶんは下女げじょの言葉ことばを信ずれしんずれば信ずるしんずるほど母ははの事ことが気きになった。
防波堤ぼうはていと母ははの宿やどとの間まにはかれこれ五六ごろく町まちの道程どうていがあった。
波なみが高くたかくて少しすこし土手どてを越すこすくらいなら、容易よういに三さん階かいの座敷ざしきまで来るくる気遣いきづかいはなかろうとも考えかんがえた。
しかしもし海嘯かいしょうが一度いちどに寄せよせて来るくるとすると、……「おい海嘯かいしょうであすこいらの宿屋やどやがすっかり波なみに攫わさらわれる事ことがあるかい」 自分じぶんは本当ほんとうに心配しんぱいの余りあまり下女げじょにこう聞いきいた。
下女げじょはそんな事ことはないと断言だんげんした。
しかし波なみが防波堤ぼうはていを越えこえて土手下どてしたへ落ちおちてくるため、中なかが湖水こすいのようにいっぱいになる事ことは二三にさん度どあったと告げつげた。
「それにしたって、水みずに浸っひたった家いえは大変たいへんだろう」と自分じぶんはまた聞いきいた。
下女げじょは、高々たかだか水みずの中なかで家いえがぐるぐる回るまわるくらいなもので、海うみまで持っもって行かいかれる心配しんぱいはまずあるまいと答えこたえた。
この呑気のんきな答えこたえが心配しんぱいの中なかにも自分じぶんを失笑しっしょうせしめた。
「ぐるぐる回りゃまわりゃそれでたくさんだ。その上海しゃんはいまで持っもってかれた日ひにゃ好いよい災難さいなんじゃないか」 下女げじょは何なんとも云わいわずに笑っわらっていた。
嫂ねーも暗いくらい方ほうから電灯でんとうをまともに見み始めはじめた。
「姉さんあねさんどうします」「どうしますって、妾女しょうじょだからどうして好いよいか解らわからないわ。もしあなたが帰るかえるとおっしゃれば、どんな危険きけんがあったって、妾めかけいっしょに行くいくわ」「行くいくのは構わかまわないが、――困っこまったな。じゃ今夜こんやは仕方しかたがないからここへ泊るとまるとしますか」「あなたが御ご泊りとまりになれば妾めかけも泊るとまるよりほかに仕方しかたがないわ。女おんな一人ひとりでこの暗いくらいのにとても和歌わかの浦うらまで行くいく訳わけには行かいかないから」 下女げじょは今までいままで勘かん違いをしていたと云わいわぬばかりの眼め遣けんをして二人ふたりを見較べみくらべた。
「おい電話でんわはどうしても通じつうじないんだね」と自分じぶんはまた念ねんのため聞いきいて見みた。
「通じつうじません」 自分じぶんは電話でんわ口くちへ出でて直接ちょくせつに試みこころみて見るみる勇気ゆうきもなかった。
「じゃしようがない泊るとまることにきめましょう」と今度こんどは嫂ねーに向っむかった。
「ええ」 彼女かのじょの返事へんじはいつもの通りとおり簡単かんたんでそうして落ちついおちついていた。
「町まちの中なかなら俥くるまが通うかようんだね」と自分じぶんはまた下女げじょに向っむかった。
三十四さんじゅうよん
二人ふたりはこれから料理屋りょうりやで周旋しゅうせんしてくれた宿屋やどやまで行かいかなければならなかった。
仕度したくをして玄関げんかんを下りくだりた時じ、そこに輝くかがやく電灯でんとうと、車夫しゃふの提灯ちょうちんとが、雨あめの音おとと風かぜの叫びさけびに冴えさえて、あたかも闇やみに狂うくるう物凄ものすごさを照らすてらす道具どうぐのように思わおもわれた。
嫂ねーはまず色いろの眼めにつくあでやかな姿すがたを黒いくろい幌ほろの中なかへ隠しかくした。
自分じぶんもつづいて窮屈きゅうくつな深いぶかい桐油とうゆの中なかに身体しんたいを入れいれた。
幌ほろの中なかに包まつつまれた自分じぶんはほとんど往来おうらいの凄じすさまじさを見るみる遑いとまがなかった。
自分じぶんの頭あたまはまだ経験けいけんした事ことのない海嘯かいしょうというものに絶えたえず支配しはいされた。
でなければ、意地いじの悪いわるい天候てんこうのお蔭おかげで、自分じぶんが兄あにの前まえで一徹いってつに退けしりぞけた事ことを、どうしても実行じっこうしなければならなくなった運命うんめいをつらく観じかんじた。
自分じぶんの頭あたまは落ちついおちついて想像そうぞうしたり観じかんじたりするほどの余裕よゆうを無論むろんもたなかった。
ただ乱雑らんざつな火事場かじじょうのように取留めとりとめもなくくるくる廻転かいてんした。
そのうち俥くるまの梶棒かじぼうが一いち軒のきの宿屋やどやのような構かまえの門口かどぐちへ横づけよこづけになった。
自分じぶんは何なんだか暖簾のれんを潜っもぐって土間どまへ這入っはいったような気きがしたがたしかには覚えおぼえていない。
土間どまは幅はばの割わりに竪たてからいってだいぶ長かっながかった。
帳場ちょうばも見えみえず番頭ばんとうもいず、ただ一人ひとりの下女げじょが取次とりつぎに出でただけで、宵の口よいのくちとしては至っていたって淋しいさびしい光景こうけいであった。
自分じぶん達とおるは黙っだまってそこに突立っつきたっていた。
自分じぶんはなぜだか嫂ねーに話しはなしたくなかった。
彼女かのじょも澄ましすまして絹張きぬばりの傘かさの先さきを斜しゃに土間どまに突いついたなりで立ったっていた。
下女げじょの案内あんないで二人ふたりの通さとおされた部屋へやは、縁側えんがわを前まえに御簾みすのような簀すのこ垂しでを軒のきに懸けかけた古めかしいふるめかしい座敷ざしきであった。
柱はしらは時代じだいで黒くくろく光っひかりっていた。
天井てんじょうにも煤すすの色いろが一面いちめんに見えみえた。
嫂ねーは例れいの傘かさを次の間つぎのまの衣桁いこうに懸けかけて、「ここは向うむこうが高いたかい棟むねで、こっちが厚いあつい練塀ねりべいらしいから風かぜの音おとがそんなに聞えきこえないけれど、先刻せんこく俥くるまへ乗っのった時じは大変たいへんね。幌ほろの上うえでひゅひゅいうのが気味きみが悪かっわるかったぐらいよ。あなた風かぜの重みおもみが俥くるまの幌ほろに乗しのしかかって来るくるのが乗っのってて分っわかったでしょう。妾めかけもう少しすこしで俥くるまが引いんっ繰返るかえるかも知れしれないと思っおもったわ」と云っいった。
自分じぶんは少しすこし逆上ぎゃくじょうしていたので、そんな事ことはよく注意ちゅういしていられなかった。
けれどもその通りとおりを真直まっすぐに答えるこたえるほどの勇気ゆうきもなかった。
「ええずいぶんな風かぜでしたね」とごまかした。
「ここでこのくらいじゃ、和歌わかの浦うらはさぞ大変たいへんでしょうね」と嫂ねーが始めはじめて和歌わかの浦うらの事ことを云いいい出しだした。
自分じぶんは胸むねがまたわくわくし出しだした。
「姐ねえさんここの電話でんわも切れきれてるのかね」と云っいって、答えこたえも待たまたずに風呂場ふろばに近いちかい電話でんわ口くちまで行っいった。
そこで帳面ちょうづらを引いんっ繰返しくりかえしながら、号ごう鈴すずをしきりに鳴らしならして、母ははと兄あにの泊っとまっている和歌わかの浦うらの宿やどへかけて見みた。
すると不思議ふしぎに向うむこうで二言にごん三さん言げん何なんか云っいったような気きがするので、これはありがたいと思いおもいつつなお暴風ぼうふう雨あめの模様もようを聞こうきこうとすると、またさっぱり通じつうじなくなった。
それから何なん遍へんもしもしと呼んよんでもいくら号ごう鈴すずを鳴らしならしても、呼びよび甲斐かいも鳴らしならし甲斐かいも全くまったく無くなっなくなったので、ついに我われを折っおってわが部屋へやへ引き戻しひきもどして来きた。
嫂ねーは蒲団ふとんの上うえに坐っすわって茶ちゃを啜っすすっていたが、自分じぶんの足音あしおとを聴きききつつふり返っふりかえって、「電話でんわはどうして? 通じつうじて?」と聞いきいた。
自分じぶんは電話でんわについて今いまの一部いちぶ始終しじゅうを説明せつめいした。
「おおかたそんな事ことだろうと思っおもった。とても駄目だめよ今夜こんやは。いくらかけたって、風かぜで電話線でんわせんを吹きふき切っきっちまったんだから。あの音おとを聞いきいたって解るわかるじゃありませんか」 風かぜはどこからか二に筋すじに綯れて来きたのが、急きゅうに擦違になって唸るうなるような怪しいあやしい音おとを立てたてて、また虚空こくう遥はるかに騰るあがるごとくに見えみえた。
三十五さんじゅうご
二人ふたりが風かぜに耳みみを峙だてていると、下女げじょが風呂ふろの案内あんないに来きた。
それから晩食ばんしょくを食うくうかと聞いきいた。
自分じぶんは晩食ばんしょくなどを欲しいほしいと思うおもう気きになれなかった。
「どうします」と嫂ねーに相談そうだんして見みた。
「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊っとまったもんだから、御ご膳ぜんだけでも見みた方ほうがいいでしょう」と彼女かのじょは答えこたえた。
下女げじょが心得こころえて立ったって行っいったかと思うおもうと、宅たく中なかの電灯でんとうがぱたりと消えきえた。
黒いくろい柱はしらと煤けすすけた天井てんじょうでたださえ陰気いんきな部屋へやが、今度こんどは真暗まっくらになった。
自分じぶんは鼻はなの先さきに坐っすわっている嫂ねーを嗅げかげば嗅がかがれるような気きがした。
「姉さんあねさん怖こわかありませんか」「怖いこわいわ」という声こえが想像そうぞうした通りとおりの見当けんとうで聞こえきこえた。
けれどもその声こえのうちには怖こわらしい何物なにものをも含んふくんでいなかった。
またわざと怖こわがって見せるみせる若々しいわかわかしい蓮葉はすはの態度たいどもなかった。
二人ふたりは暗黒あんこくのうちに坐っすわっていた。
動かうごかずにまた物ものを云わいわずに、黙っだまって坐っすわっていた。
眼めに色いろを見みないせいか、外そとの暴風ぼうふう雨あめは今までいままでよりは余計よけい耳みみについた。
雨あめは風かぜに散らさちらされるのでそれほど恐ろしいおそろしい音おとも伝えつたえなかったが、風かぜは屋根やねも塀へいも電柱でんちゅうも、見境みさかいなく吹きふき捲っまくって悲鳴ひめいを上げあげさせた。
自分じぶん達とおるの室むろは地面じめんの上うえの穴倉あなぐらみたような所ところで、四方しほう共とも頑丈がんじょうな建物たてものだの厚いあつい塗壁ぬりへきだのに包まつつまれて、縁えんの前まえの小さいちいさい中庭なかにわさえ比較的ひかくてき安全あんぜんに見えみえたけれども、周囲しゅうい一面いちめんから出るでる一種いっしゅ凄じいすさまじい音響おんきょうは、暗闇くらやみに伴っともなって起るおこる人間にんげんの抵抗ていこうしがたい不可思議ふかしぎな威嚇いかくであった。
「姉さんあねさんもう少しすこしだから我慢がまんなさい。今いまに女中じょちゅうが灯あかりを持っもって来るくるでしょうから」 自分じぶんはこう云っいって、例れいの見当けんとうから嫂ねーの声こえが自分じぶんの鼓膜こまくに響いひびいてくるのを暗にあんに予期よきしていた。
すると彼女かのじょは何事なにごとをも答えこたえなかった。
それが漆うるしに似にた暗闇くらやみの威力いりょくで、細いほそい女おんなの声こえさえ通らとおらないように思わおもわれるのが、自分じぶんには多少たしょう無気味むきみであった。
しまいに自分じぶんの傍そばにたしかに坐っすわっているべきはずの嫂ねーの存在そんざいが気きにかかり出しだした。
「姉さんあねさん」 嫂ねーはまだ黙っだまっていた。
自分じぶんは電気灯でんきとうの消えきえない前まえ、自分じぶんの向うむこうに坐っすわっていた嫂ねーの姿すがたを、想像そうぞうで適当てきとうの距離きょりに描き出しえがきだした。
そうしてそれを便りたよりにまた「姉さんあねさん」と呼んよんだ。
「何なんよ」 彼女かのじょの答こたえは何なんだか蒼蠅さばえそうであった。
「いるんですか」「いるわあなた。人間にんげんですもの。嘘うそだと思うおもうならここへ来きて手てで障っさわって御覧ごらんなさい」 自分じぶんは手て捜りさぐりに捜りさぐり寄っよって見みたい気きがした。
けれどもそれほどの度胸どきょうがなかった。
そのうち彼女かのじょの坐っすわっている見当けんとうで女帯おんなおびの擦れるすれる音おとがした。
「姉さんあねさん何なんかしているんですか」と聞いきいた。
「ええ」「何なんをしているんですか」と再びふたたび聞いきいた。
「先刻せんこく下女げじょが浴衣ゆかたを持っもって来きたから、着換えようきかえようと思っおもって、今いま帯おびを解いといているところです」と嫂ねーが答えこたえた。
自分じぶんが暗闇くらやみで帯おびの音おとを聞いきいているうちに、下女げじょは古風こふうな蝋燭ろうそくを点けつけて縁側えんがわ伝いつたいに持っもって来きた。
そうしてそれを座敷ざしきの床ゆかの横よこにある机つくえの上うえに立てたてた。
蝋燭ろうそくの焔ほのおがちらちら右左みぎひだりへ揺れるゆれるので、黒いくろい柱はしらや煤けすすけた天井てんじょうはもちろん、灯あかりの勢いきおいの及ぶおよぶ限りかぎりは、穏かおだやかならぬ薄暗いうすぐらい光ひかりにどよめいて、自分じぶんの心こころを淋しくさびしく焦立たいらだたせた。
ことさら床ゆかに掛けかけた軸じくと、その前まえに活けいけてある花はなとが、気味きみの悪いわるいほど目立っめだって蝋燭ろうそくの灯あかりの影響えいきょうを受けうけた。
自分じぶんは手拭てぬぐいを持っもって、また汗あせを流しながしに風呂ふろへ行っいった。
風呂ふろは怪しあやしげなカンテラかんてらで照らさてらされていた。
三十六さんじゅうろく
自分じぶんは佗びしいわびしい光ひかりでやっと見分けんぶんのつく小桶こおけを使っつかってざあざあ背中せなかを流しながした。
出がけでがけにまた念ねんのためだから電話でんわをちりんちりん鳴らしならして見みたがさらに通じるつうじる気色けしきがないのでやめた。
嫂ねーは自分じぶんと入れ代りいれかわりに風呂ふろへ入っはいったかと思うおもうとすぐ出でて来きた。
「何なんだか暗くくらくって気味きみが悪いわるいのね。それに桶おけや湯槽ゆぶねが古いふるいんでゆっくり洗うあらう気きにもなれないわ」 その時じ自分じぶんは畏まっかしこまった下女げじょを前まえに置いおいて蝋燭ろうそくの灯あかりを便びんに宿帳やどちょうをつけべく余儀よぎなくされていた。
「姉さんあねさん宿帳やどちょうはどうつけたら好いよいでしょう」「どうでも。好いよい加減かげんに願いねがいます」 嫂ねーはこう云っいって小さいちいさい袋ふくろから櫛くしやなにか這入っはいっている更紗さらさの畳紙たとうがみを出しだし始めはじめた。
彼女かのじょは後あと向むかいになって蝋燭ろうそくを一いちつ占領せんりょうして鏡台きょうだいに向いむかいつつ何なんかやっていた。
自分じぶんは仕方なししかたなしに東京とうきょうの番地ばんちと嫂ねーの名なを書いかいて、わざと傍そばに一郎いちろう妻つまと認めみとめた。
同様どうようの意味いみで自分じぶんの側がわにも一郎いちろう弟おとうととわざわざ断っことわった。
飯めしの出るでる前まえに、何なんの拍子ひょうしか、先さきに暗くくらくなった電灯でんとうがまた一時いちじに明るくあかるくなった。
その時じ台所だいどころの方ほうでわあと喜びよろこびの鬨の声ときのこえを挙げあげたものがあった。
暴風ぼうふう雨あめで魚さかながないと下女げじょが言訳いいわけを云っいったにかかわらず、われわれの膳ぜんの上うえは明かあきらかであった。
「まるで生返っいきかえったようね」と嫂ねーが云っいった。
すると電灯でんとうがまたぱっと消えきえた。
自分じぶんは急きゅうに箸はしを消えきえたところに留めとめたぎり、しばらく動かさうごかさなかった。
「おやおや」 下女げじょは大きなおおきな声こえをして朋輩ほうばいの名なを呼びよびながら灯火とうかを求めもとめた。
自分じぶんは電気灯でんきとうがぱっと明るくあかるくなった瞬間しゅんかんに嫂ねーが、いつの間まにか薄くうすく化粧けしょうを施しほどこしたという艶かしいなまめかしい事実じじつを見みて取っとった。
電灯でんとうの消えきえた今いま、その顔かおだけが真しん闇やみなうちにもとの通りとおり残っのこっているような気きがしてならなかった。
「姉さんあねさんいつ御ご粧しょうしたんです」「あら厭いやだ真しん闇やみになってから、そんな事ことを云いいいだして。あなたいつ見みたの」 下女げじょは暗闇くらやみで笑いわらい出しだした。
そうして自分じぶんの眼ざといめざとい事ことを賞めほめた。
「こんな時じに白粉おしろいまで持っもって来るくるのは実じつに細かいこまかいですね、姉さんあねさんは」と自分じぶんはまた暗闇くらやみの中なかで嫂ねーに云っいった。
「白粉おしろいなんか持っもって来きやしないわ。持っもって来きたのはクリームくりーむよ、あなた」と彼女かのじょはまた暗闇くらやみの中なかで弁解べんかいした。
自分じぶんは暗がりくらがりの中なかで、しかも下女げじょのいる前まえで、こんな冗談じょうだんを云ういうのが常つねよりは面白かっおもしろかった。
そこへ彼女かのじょの朋輩ほうばいがまた別べつの蝋燭ろうそくを二に本ほんばかり点けつけて来きた。
室むろの中なかは裸はだか蝋燭ろうそくの灯あかりで渦うずを巻くまくように動揺どうようした。
自分じぶんも嫂ねーも眉まゆを顰めしかめて燃えるもえる焔ほのおの先さきを見つめみつめていた。
そうして落ちつきおちつきのない淋しさびしさとでも形容けいようすべき心持こころもちを味わっあじわった。
ほどなく自分じぶん達とおるは寝ねた。
便所べんじょに立ったった時じ、自分じぶんは窓まどの間まから空そらを仰ぐあおぐように覗いのぞいて見みた。
今までいままで多少たしょう静まっしずまっていた暴風ぼうふう雨あめが、この時じは夜更よふけと共ともに募っつのったものか、真黒まっくろな空そらが真黒いまっくろいなりに活動かつどうして、瞬間しゅんかんも休まやすまないように感ぜかんぜられた。
自分じぶんは恐ろしいおそろしい空そらの中なかで、黒いくろい電光でんこうが擦れ合っこすれあって、互たがいに黒いくろい針はりに似にたものを隙間すきまなく出しだしながら、この暗あんさを大きなおおきな音おとの中なかに維持いじしているのだと想像そうぞうし、かつその想像そうぞうの前まえに畏縮いしゅくした。
蚊帳かやの外そとには蝋燭ろうそくの代りかわりに下女げじょが床ゆかを延べのべた時じ、行灯あんどんを置いおいて行っいった。
その行灯あんどんがまた古風こふうな陰気いんきなもので、いっそ吹き消しふきけして闇がりくらがりにした方ほうが、微かかすかな光ひかりに照らさてらされる無気味むきみさよりはかえって心持こころもちが好いよいくらいだった。
自分じぶんは燐寸まっちを擦っすって、薄暗いうすぐらい所ところで煙草たばこを呑みのみ始めはじめた。
三十七さんじゅうなな
自分じぶんは先刻せんこくから少しすこしも寝ねなかった。
小用こように立ったって、一いち本ほんの紙巻かみまきを吹かすふかす間まにもいろいろな事ことを考えかんがえた。
それが取りとめとりとめもなく雑然ざつぜんと一度いちどに来るくるので、自分じぶんにも何なんが主要しゅようの問題もんだいだか捕えとらえられなかった。
自分じぶんは燐寸まっちを擦っすって煙草たばこを呑んのんでいる事ことさえ時々ときどき忘れわすれた。
しかもそこに気きがついて、再びふたたび吸口すいくちを唇くちびるに銜えるくわえる時じの煙けむりの無味むみさはまた特別とくべつであった。
自分じぶんの頭あたまの中なかには、今いま見みて来きた正体しょうたいの解らわからない黒いくろい空そらが、凄まじくすさまじく一様いちように動いうごいていた。
それから母ははや兄あにのいる三さん階かいの宿やどが波なみを幾度いくどとなく被っかぶって、くるりくるりと廻りまわり出しだしていた。
それが片づかかたづかないうちに、この部屋へやの中なかに寝ねている嫂ねーの事ことがまた気きになり出しだした。
天災てんさいとは云えいえ二人ふたりでここへ泊っとまった言訳いいわけをどうしたものだろうと考えかんがえた。
弁解べんかいしてから後あと、兄あにの機嫌きげんをどうして取り直しとりなおしたものだろうとも考えかんがえた。
同時どうじに今日きょう嫂ねーといっしょに出でて、滅多めったにないこんな冒険ぼうけんを共ともにした嬉しさうれしさがどこからか湧いわいて出でた。
その嬉しさうれしさが出でた時じ、自分じぶんは風かぜも雨あめも海嘯かいしょうも母ははも兄あにもことごとく忘れわすれた。
するとその嬉しさうれしさがまた俄然がぜんとして一種いっしゅの恐ろしおそろしさに変化へんかした。
恐ろしおそろしさと云ういうよりも、むしろ恐ろしおそろしさの前まえ触ふれであった。
どこかに潜伏せんぷくしているように思わおもわれる不安ふあんの徴候ちょうこうであった。
そうしてその時じは外面がいめんを狂いくるい廻るまわる暴風ぼうふう雨あめが、木きを根こぎねこぎにしたり、塀へいを倒したおしたり、屋根瓦やねがわらを捲くまくったりするのみならず、今いま薄暗いうすぐらい行灯あんどんの下したで味あじのない煙草たばこを吸っすっているこの自分じぶんを、粉微塵こなみじんに破壊はかいする予告よこくのごとく思わおもわれた。
自分じぶんがこんな事ことをぐるぐる考えかんがえているうちに、蚊帳かやの中なかに死人しにんのごとくおとなしくしていた嫂ねーが、急きゅうに寝ね返かえしをした。
そうして自分じぶんに聞えるきこえるように長いながい欠伸あくびをした。
「姉さんあねさんまだ寝ねないんですか」と自分じぶんは煙草たばこの煙けむりの間まから嫂ねーに聞いきいた。
「ええ、だってこの吹き降りふきぶりじゃ寝ようねようにも寝ねられないじゃありませんか」「僕ぼくもあの風かぜの音おとが耳みみについてどうする事こともできない。電灯でんとうの消えきえたのは、何なんでもここいら近所きんじょにある柱はしらが一いち本ほんとか二に本ほんとか倒れたおれたためだってね」「そうよ、そんな事ことを先刻せんこく下女げじょが云っいったわね」「御ご母さんははさんと兄さんあにさんはどうしたでしょう」「妾めかけも先刻せんこくからその事ことばかり考えかんがえているの。しかしまさか浪なみは這入らはいらないでしょう。這入っはいったって、あの土手どての松まつの近所きんじょにある怪しいあやしい藁屋わらやぐらいなものよ。持っもってかれるのは。もし本当ほんとうの海嘯かいしょうが来きてあすこ界隈かいわいをすっかり攫っさらって行くいくんなら、妾めかけ本当ほんとうに惜しいおしい事ことをしたと思うおもうわ」「なぜ」「なぜって、妾めかけそんな物凄いものすごいところが見みたいんですもの」「冗談じょうだんじゃない」と自分じぶんは嫂ねーの言葉ことばをぶった切るぶったぎるつもりで云っいった。
すると嫂ねーは真面目まじめに答えこたえた。
「あら本当ほんとうよ二郎じろうさん。妾めかけ死ぬしぬなら首くびを縊っくびったり咽喉のどを突いついたり、そんな小刀しょうとう細工さいくをするのは嫌いやよ。大水おおみずに攫わさらわれるとか、雷火らいかに打たうたれるとか、猛烈もうれつで一息ひといきな死にしに方ほうがしたいんですもの」 自分じぶんは小説しょうせつなどをそれほど愛読あいどくしない嫂ねーから、始めはじめてこんなロマンチックろまんちっくな言葉ことばを聞いきいた。
そうして心こころのうちでこれは全くまったく神経しんけいの昂奮こうふんから来きたに違いちがいないと判じはんじた。
「何なんかの本ほんにでも出でて来きそうな死し方ほうですね」「本ほんに出るでるか芝居しばいでやるか知らしらないが、妾めかけゃ真剣しんけんにそう考えかんがえてるのよ。嘘うそだと思うおもうならこれから二人ふたりで和歌わかの浦うらへ行っいって浪なみでも海嘯かいしょうでも構わかまわない、いっしょに飛び込んとびこんで御ご目めにかけましょうか」「あなた今夜こんやは昂奮こうふんしている」と自分じぶんは慰撫いぶめるごとく云っいった。
「妾めかけの方ほうがあなたよりどのくらい落ちついおちついているか知れしれやしない。たいていの男おとこは意気地いきちなしね、いざとなると」と彼女かのじょは床ゆかの中なかで答えこたえた。
三十八さんじゅうはち
自分じぶんはこの時じ始めはじめて女おんなというものをまだ研究けんきゅうしていない事ことに気きがついた。
嫂ねーはどこからどう押しおしても押しおしようのない女おんなであった。
こっちが積極的せっきょくてきに進むすすむとまるで暖簾のれんのように抵抗ていこうがなかった。
仕方なししかたなしにこっちが引き込むひきこむと、突然とつぜん変へんなところへ強いつよい力ちからを見せみせた。
その力ちからの中なかにはとても寄りつけよりつけそうにない恐ろしいおそろしいものもあった。
またはこれなら相手あいてにできるから進もうすすもうかと思っおもって、まだ進みすすみかねている中なかに、ふっと消えきえてしまうのもあった。
自分じぶんは彼女かのじょと話しはなしている間ま始終しじゅう彼女かのじょから翻弄ほんろうされつつあるような心持こころもちがした。
不思議ふしぎな事ことに、その翻弄ほんろうされる心持こころもちが、自分じぶんに取っとって不愉快ふゆかいであるべきはずだのに、かえって愉快ゆかいでならなかった。
彼女かのじょは最後さいごに物凄いものすごい決心けっしんを語っごった。
海嘯かいしょうに攫わさらわれて行きいきたいとか、雷火らいかに打たうたれて死にしにたいとか、何しろなにしろ平凡へいぼん以上いじょうに壮烈そうれつな最後さいごを望んのぞんでいた。
自分じぶんは平生へいぜいから(ことに二人ふたりでこの和歌山わかやまに来きてから)体力たいりょくや筋力きんりょくにおいて遥はるかに優勢ゆうせいな位地いちに立ちたちつつも、嫂ねーに対したいしてはどことなく無気味むきみな感じかんじがあった。
そうしてその無気味むきみさがはなはだ狎れなれやすい感じかんじと妙みょうに相そう伴っともなっていた。
自分じぶんは詩しや小説しょうせつにそれほど親しみしたしみのない嫂ねーのくせに、何なんに昂奮こうふんして海嘯かいしょうに攫わさらわれて死にしにたいなどと云ういうのか、そこをもっと突きとめつきとめて見みたかった。
「姉さんあねさんが死ぬしぬなんて事ことを云いいい出しだしたのは今夜こんや始めはじめてですね」「ええ口くちへ出しだしたのは今夜こんやが始めはじめてかも知れしれなくってよ。けれども死ぬしぬ事ことは、死ぬしぬ事ことだけはどうしたって心こころの中なかで忘れわすれた日ひはありゃしないわ。だから嘘うそだと思うおもうなら、和歌わかの浦うらまで伴れつれて行っいってちょうだい。きっと浪なみの中なかへ飛込んとびこんで死んしんで見せるみせるから」 薄暗いうすぐらい行灯あんどんの下したで、暴風ぼうふう雨あめの音おとの間まにこの言葉ことばを聞いきいた自分じぶんは、実際じっさい物凄かっものすごかった。
彼女かのじょは平生へいぜいから落ちついおちついた女おんなであった。
歇私的まと里さと風かぜなところはほとんどなかった。
けれども寡言かげんな彼女かのじょの頬ほおは常つねに蒼かっあおかった。
そうしてどこかの調子ちょうしで眼めの中なかに意味いみの強いつよい解すかいすべからざる光ひかりが出でた。
「姉さんあねさんは今夜こんやよっぽどどうかしている。何なんか昂奮こうふんしている事ことでもあるんですか」 自分じぶんは彼女かのじょの涙なみだを見るみる事ことはできなかった。
また彼女かのじょの泣き声なきごえを聞くきく事こともできなかった。
けれども今いまにもそこに至りいたりそうな気きがするので、暗いくらい行灯あんどんの光ひかりを便りたよりに、蚊帳かやの中なかを覗いのぞいて見みた。
彼女かのじょは赤いあかい蒲団ふとんを二に枚ばい重ねかさねてその上うえに縁えんを取っとった白麻しろあさの掛蒲団かかりふとんを胸むねの所ところまで行儀ぎょうぎよく掛けかけていた。
自分じぶんが暗いくらい灯あかりでその姿すがたを覗き込んのぞきこんだ時じ、彼女かのじょは枕まくらを動かしうごかして自分じぶんの方ほうを見みた。
「あなた昂奮こうふん昂奮こうふんって、よくおっしゃるけれども妾めかけゃあなたよりいくら落ちついおちついてるか解りゃわかりゃしないわ。いつでも覚悟かくごができてるんですもの」 自分じぶんは何なんと答こたえうべき言葉ことばも持たもたなかった。
黙っだまって二に本ほん目めの敷島しきしまを暗いくらい灯影とうえいで吸い出しすいだした。
自分じぶんはわが鼻はなと口くちから濛々もうもうと出るでる煙けむりばかりを眺めながめていた。
自分じぶんはその間まに気味きみのわるい眼めを転じてんじて、時々ときどき蚊帳かやの中なかを窺っうかがった。
嫂ねーの姿すがたは死んしんだように静せいであった。
あるいはすでに寝ついねついたのではないかとも思わおもわれた。
すると突然とつぜん仰向けあおむけになった顔かおの中なかから、「二郎じろうさん」と云ういう声こえが聞こえきこえた。
「何なんですか」と自分じぶんは答えこたえた。
「あなたそこで何なんをしていらっしゃるの」「煙草たばこを呑んのんでるんです。寝ねられないから」「早くはやく御ご休みやすみなさいよ。寝ねられないと毒どくだから」「ええ」 自分じぶんは蚊帳かやの裾すそを捲くまくって、自分じぶんの床ゆかの中なかに這入っはいった。
三十九さんじゅうきゅう
翌日よくじつは昨日きのうと打っうって変っかわって美しいうつくしい空そらを朝まだきあさまだきから仰ぐあおぐ事ことを得とくた。
「好いよい天気てんきになりましたね」と自分じぶんは嫂ねーに向っむかって云っいった。
「本当ほんとうね」と彼女かのじょも答えこたえた。
二人ふたりはよく寝ねなかったから、夢ゆめから覚めさめたという心持こころもちはしなかった。
ただ床ゆかを離れるはなれるや否いなや魔まから覚めさめたという感じかんじがしたほど、空そらは蒼くあおく染めそめられていた。
自分じぶんは朝飯あさめしの膳ぜんに向いむかいながら、廂ひさしを洩れるもれる明らかあきらかな光ひかりを見みて、急きゅうに気分きぶんの変化へんかに心づいこころづいた。
したがって向い合っむかいあっている嫂ねーの姿すがたが昨夕さくゆうの嫂ねーとは全くまったく異なることなるような心持こころもちもした。
今朝けさ見るみると彼女かのじょの眼めにどこといって浪漫ろまん的まとな光ひかりは射ししゃしていなかった。
ただ寝ねの足りたりない※が急きゅうに爽かさわやかな光ひかりに照らさてらされて、それに抵抗ていこうするのがいかにも慵いと云っいったような一種いっしゅの倦怠けんたいるさが見えみえた。
頬ほおの蒼白いあおじろいのも常つねに変らかわらなかった。
我々われわれはできるだけ早くはやく朝飯あさめしを済ましすまして宿やどを立ったった。
電車でんしゃはまだ通じつうじないだろうという宿やどのものの注意ちゅういを信用しんようして俥くるまを雇っやとった。
車夫しゃふは土間どまから表ひょうに出でた我々われわれを一目いちもく見みて、すぐ夫婦ふうふものと鑑定かんていしたらしかった。
俥くるまに乗るのるや否いなや自分じぶんの梶棒かじぼうを先さきへ上げあげた。
自分じぶんはそれをとめるように、「後あとから後あとから」と云っいった。
車夫しゃふは心得こころえて「奥さんおくさんの方ほうが先さきだ」と相図あいずした。
嫂ねーの俥くるまが自分じぶんの傍そばを擦り抜けるすりぬける時じ、彼女かのじょは例れいの片かた靨えくぼを見せみせて「御ご先さきへ」と挨拶あいさつした。
自分じぶんは「さあどうぞ」と云っいったようなものの、腹はらの中なかでは車夫しゃふの口くちにした奥さんおくさんという言葉ことばが大いにおおいに気きになった。
嫂ねーはそんな景色けしきもなく、自分じぶんを乗り越すのりこすや否いなや、琥珀こはくに刺繍ししゅうのある日傘ひがさを翳しかざした。
彼女かのじょの後姿うしろすがたはいかにも涼しすずしそうに見えみえた。
奥さんおくさんと云わいわれても云わいわれないでも全くまったく無関係むかんけいの態度たいどで、俥くるまの上うえに澄ましすまして乗っのっているとしか思わおもわれなかった。
自分じぶんは嫂ねーの後姿うしろすがたを見つめみつめながら、また彼女かのじょの人となりひととなりに思い及んおもいおよんだ。
自分じぶんは平生へいぜいこそ嫂ねーの性質せいしつを幾分いくぶんかしっかり手てに握っにぎっているつもりであったが、いざ本式ほんしきに彼女かのじょの口くちから本当ほんとうのところを聞いきいて見ようみようとすると、まるで八幡はちまんの藪やぶ知らしらずへ這入っはいったように、すべてが解らわからなくなった。
すべての女おんなは、男おとこから観察かんさつしようとすると、みんな正体しょうたいの知れしれない嫂ねーのごときものに帰着きちゃくするのではあるまいか。
経験けいけんに乏しいとぼしい自分じぶんはこうも考えかんがえて見みた。
またその正体しょうたいの知れしれないところがすなわち他ほかの婦人ふじんに見出しみだしがたい嫂ねーだけの特色とくしょくであるようにも考えかんがえて見みた。
とにかく嫂ねーの正体しょうたいは全くまったく解らわからないうちに、空そらが蒼々そうそうと晴れはれてしまった。
自分じぶんは気きの抜けぬけた麦酒びーるのような心持こころもちを抱いいだいて、先さきへ行くいく彼女かのじょの後姿うしろすがたを絶えたえず眺めながめていた。
突然とつぜん自分じぶんは宿やどへ帰っかえってから嫂ねーについて兄あにに報告ほうこくをする義務ぎむがまだ残っのこっている事ことに気きがついた。
自分じぶんは何なんと報告ほうこくして好いよいかよく解らわからなかった。
云ういうべき言葉ことばはたくさんあったけれども、それを一々いちいち兄あにの前まえに並べるならべるのはとうてい自分じぶんの勇気ゆうきではできなかった。
よし並べならべたって最後さいごの一句いっくは正体しょうたいが知れしれないという簡単かんたんな事実じじつに帰するきするだけであった。
あるいは兄あに自身じしんも自分じぶんと同じくおなじく、この正体しょうたいを見み届とどけようと煩悶はんもんし抜いぬいた結果けっか、こんな事ことになったのではなかろうか。
自分じぶんは自分じぶんがもし兄あにと同じおなじ運命うんめいに遭遇そうぐうしたら、あるいは兄あに以上いじょうに神経しんけいを悩ましなやましはしまいかと思っおもって、始めはじめて恐ろしいおそろしい心持こころもちがした。
俥くるまが宿やどへ着いついたとき、三さん階かいの縁側えんがわには母ははの影かげも兄あにの姿すがたも見えみえなかった。
四十よんじゅう
兄あには三さん階かいの日ひに遠いとおい室むろで例れいの黒いくろい光沢こうたくのある頭あたまを枕まくらに着けつけて仰向きあおむきになっていた。
けれども眠っねむってはいなかった。
むしろ充血じゅうけつした眼めを見張るみはるように緊張きんちょうして天井てんじょうを見つめみつめていた。
彼かれは自分じぶん達とおるの足音あしおとを聞くきくや否いなや、いきなりその血走っちばしった眼めを自分じぶんと嫂ねーに注いそそいだ。
自分じぶんは兼てかねてからその眼つきめつきを予想よそうし得とくなかったほど兄あにを知らしらない訳わけでもなかった。
けれども室むろの入口いりぐちで嫂ねーと相そう並んならんで立ちたちながら、昨夕さくゆうまんじりともしなかったと自白じはくしているような彼かれの赤くあかくて鋭いするどい眼つきめつきを見みた時じは、少しすこし驚かさおどろかされた。
自分じぶんはこういう場合ばあいの緩和かんわ剤ざいとして例れいの通りとおり母ははを求めもとめた。
その母ははは座敷ざしきの中なかにも縁側えんがわにもどこにも見当らみあたらなかった。
自分じぶんが彼女かのじょを探しさがしているうちに嫂ねーは兄あにの枕元まくらもとに坐っすわって挨拶あいさつをした。
「ただいま」 兄あには何なんとも答えこたえなかった。
嫂ねーはまた坐っすわったなりそこを動かうごかなかった。
自分じぶんは勢いいきおいとして口くちを開くひらくべく余儀よぎなくされた。
「昨夕さくゆうこっちは大変たいへんな暴風ぼうふう雨あめでしたってね」「うんずいぶんひどい風かぜだった」「波なみがあの石いしの土手どてを越しこして松並木まつなみきから下したへ流れ込んながれこんだの」 これは嫂ねーの言葉ことばであった。
兄あにはしばらく彼女かのじょの顔かおを眺めながめていた。
それから徐ろにおもむろに答えこたえた。
「いやそうでもない。家いえに故障こしょうはなかったはずだ」「じゃ。無理むりに帰れかえれば帰れかえれたのね」 嫂ねーはこう云っいって自分じぶんを顧みかえりみた。
自分じぶんは彼女かのじょよりもむしろ兄あにの方ほうに向いむかいた。
「いやとても帰れかえれなかったんです。電車でんしゃがだいち通じつうじないんですもの」「そうかも知れしれない。昨日きのうは夕方ゆうがたあたりからあの波なみが非常ひじょうに高くたかく見えみえたから」「夜中よなかに宅たくが揺れゆれやしなくって」 これも嫂ねーの兄あにに聞いきいた問もんであった。
今度こんどは兄あにがすぐ答えこたえた。
「揺れゆれた。お母さんおははさんは危険きけんだからと云っいって下したへ降りふりて行かいかれたくらい揺れゆれた」 自分じぶんは兄あにの眼色がんしょくの険悪けんあくな割合わりあいに、それほど殺気さっきを帯びおびていない彼かれの言語げんご動作どうさをようよう確めたしかめ得とくた時じやっと安心あんしんした。
彼かれは自分じぶんの性急せいきゅうに比べるくらべると約やく五ご倍ばいがたの癇癪かんしゃく持もちであった。
けれども一種いっしゅ天賦てんぷの能力のうりょくがあって、時じにその癇癪かんしゃくを巧たくみに殺すころす事ことができた。
その内うちに明神みょうじん様ようへ御ご参りまいりに行っいった母ははが帰っかえって来きた。
彼女かのじょは自分じぶんの顔かおを見みてようやく安心あんしんしたというような色いろをしてくれた。
「よく早くはやく帰れかえれて好かっよかったね。――まあ昨夕さくゆうの恐ろしおそろしさったら、そりゃ御ご話はなしにも何になんにもならないんだよ、二郎じろう。この柱はしらがぎいぎいって鳴るなるたんびに、座敷ざしきが右左みぎひだりに動くうごくんだろう。そこへ持っもって来きて、あの浪なみの音おとがね。――わたしゃ今いま聞いきいても本当ほんとうにぞっとするよ……」 母ははは昨夕さくゆうの暴風ぼうふう雨あめをひどく怖こわがった。
ことにその聯想れんそうから出るでる、防波堤ぼうはていを砕きくだきにかかる浪なみの音おとを嫌っいやった。
「もうもう和歌わかの浦うらも御免ごめん。海うみも御免ごめん。慾よくも得とくも要らいらないから、早くはやく東京とうきょうへ帰りかえりたいよ」 母はははこう云っいって眉まゆをひそめた。
兄あには肉にくのない頬ほおへ皺しわを寄せよせて苦笑くしょうした。
「二郎じろう達とおるは昨夕さくゆうどこへ泊っとまったんだい」と聞いきいた。
自分じぶんは和歌山わかやまの宿やどの名なを挙げあげて答えこたえた。
「好いよい宿やどかい」「何なんだかかんだか、ただ暗くくらくって陰気いんきなだけです。ねえ姉さんあねさん」 その時じ兄あには走るはしるような眼めを嫂ねーに転じてんじた。
嫂ねーはただ自分じぶんの顔かおを見みて「まるでお化ばけでも出でそうな宅たくね」と云っいった。
日ひの夕暮ゆうぐれに自分じぶんは嫂ねーと階段かいだんの下したで出逢っであった。
その時じ自分じぶんは彼女かのじょに「どうです、兄さんあにさんは怒っどってるんでしょうか」と聞いきいて見みた。
嫂ねーは「どうだか腹はらの中なかはちょっと解らわからないわ」と淋しくさびしく笑いわらいながら上うえへ昇っのぼって行っいった。
四十一よんじゅういち
母ははが暴風ぼうふう雨あめに怖気おじけがついて、早くはやく立とうたとうと云ういうのを機きに、みんなここを切上げきりあげて一刻いっこくも早くはやく帰るかえる事ことにした。
「いかな名所めいしょでも一いち日ひ二に日ひは好いよいが、長くながくなるとつまらないですね」と兄あには母ははに同意どういしていた。
母ははは自分じぶんを小蔭こかげへ呼んよんで、「二郎じろうお前おまえどうするつもりだい」と聞いきいた。
自分じぶんは自分じぶんの留守るす中なかに兄あにが万事ばんじを母ははに打ち明けうちあけたのかと思っおもった。
しかし兄あにの平生へいぜいから察するさっすると、そんな行き抜けゆきぬけの人となりひととなりでもなさそうであった。
「兄さんあにさんは昨夕さくゆう僕ぼくらが帰らかえらないんで、機嫌きげんでも悪くわるくしているんですか」 自分じぶんがこう質問しつもんをかけた時じ、母ははは少しすこしの間ま黙っだまっていた。
「昨夕さくゆうはね、知っしっての通りとおりの浪なみや風かぜだから、そんな話はなしをする閑かんも無かっなかったけれども……」 母はははどうしてもそこまでしか云わいわなかった。
「お母さんおははさんは何なんだか僕ぼくと嫂ねーさんの仲なかを疑ぐっうたぐっていらっしゃるようだが……」と云いいいかけると、今までいままで自分じぶんの眼めをじっと見みていた母ははは急きゅうに手てを振っふって自分じぶんを遮っさえぎった。
「そんな事ことがあるものかねお前おまえ、お母さんおははさんに限っかぎって」 母ははの言葉ことばは実際じっさい判然はんぜんした言葉ことばに違いなかった。
顔つきかおつきも眼つきめつきもきびきびしていた。
けれども彼女かのじょの腹はらの中なかはとても読めよめなかった。
自分じぶんは親身しんみの子ことして、時たまときたま本当ほんとうの父ちちや母ははに向いむかいながら嘘うそと知りしりつつ真顔まがおで何なんか云いいい聞かさきかされる事ことを覚えおぼえて以来いらい、世の中よのなかで本式ほんしきの本当ほんとうを云いいい続けつづけに云ういうものは一人ひとりもないと諦めあきらめていた。
「兄さんあにさんには僕ぼくから万事ばんじ話すはなす事ことになっています。そう云ういう約束やくそくになってるんだから、お母さんおははさんが心配しんぱいなさる必要ひつようはありません。安心あんしんしていらっしゃい」「じゃなるべく早くはやく片づけかたづけた方ほうが好いよいよ二郎じろう」 自分じぶん達とおるはその明くるあくる宵よいの急行きゅうこうで東京とうきょうへ帰るかえる事ことにきめていた。
実じつはまだ大阪おおさかを中心ちゅうしんとして、見物けんぶつかたがた歩くあるくべき場所ばしょはたくさんあったけれども、母ははの気きが進ますすまず、兄あにの興味きょうみが乗らのらず、大阪おおさかで中継ちゅうけいをする時間じかんさえ惜んおしんで、すぐ東京とうきょうまで寝台しんだいで通そうとおそうと云ういうのが母ははと兄あにの主張しゅちょうであった。
自分じぶん達とおるは是非ぜひ共とも翌日よくじつの朝あさの汽車きしゃで和歌山わかやまから大阪おおさかへ向けむけて立たたたなければならなかった。
自分じぶんは母ははの命令めいれいで岡田おかだの宅たくまで電報でんぽうを打っうった。
「佐野さのさんへはかける必要ひつようもないでしょう」と云いいいながら自分じぶんは母ははと兄あにの顔かおを眺めながめた。
「あるまい」と兄あにが答えこたえた。
「岡田おかだへさえ打っうっておけば、佐野さのさんはうっちゃっておいてもきっと送りおくりに来きてくれるよ」 自分じぶんは電報でんぽう紙かみを持ちもちながら、是非ぜひ共ともお貞おさださんを貰いもらいたいという佐野さののお凸とつ額がくとその金縁きんぶち眼鏡めがねを思い出しおもいだした。
「ではあのお凸とつ額がくさんは止めとめておこう」 自分じぶんはこう云っいって、みんなを笑わわらわせた。
自分じぶんがとうから佐野さのの御ご凸とつ額がくを気きにしていたごとく、ほかのものも同じおなじ人ひとの同じおなじ特色とくしょくを注意ちゅういしていたらしかった。
「写真しゃしんで見みたより御ご凸とつ額がくね」と嫂ねーは真面目まじめな顔かおで云っいった。
自分じぶんは冗談じょうだんのうちに自分じぶんを紛ふんしつつ、どんな折おりを利用りようして嫂ねーの事ことを兄あにに復命ふくめいしたものだろうかと考えかんがえていた。
それで時々ときどき偸むぬすむようにまた先方せんぽうの気きのつかないように兄あにの様子ようすを見みた。
ところが兄あには自分じぶんの予期よきに反しはんして、全くまったくそれには無頓着むとんちゃくのように思わおもわれた。
四十二よんじゅうに
自分じぶんが兄あにから別室べっしつに呼出さよびだされたのはそれが済んすんでしばらくしてであった。
その時じ兄あには常つねに変らかわらない様子ようすをして、(嫂ねーに評さひょうさせると常つねに変らかわらない様子ようすを装っよそおって、)「二郎じろうちょっと話はなしがある。あっちの室むろへ来きてくれ」と穏かおだやかに云っいった。
自分じぶんはおとなしく「はい」と答えこたえて立ったった。
しかしどうした機きか立つたつときに嫂ねーの顔かおをちょっと見みた。
その時じは何なんの気きもつかなかったが、この平凡へいぼんな所作しょさがその後あと自分じぶんの胸むねには絶えたえず驕慢きょうまんの発現はつげんとして響いひびいた。
嫂ねーは自分じぶんと顔かおを合せあわせた時じ、いつもの通りとおり片かた靨えくぼを見せみせて笑っわらった。
自分じぶんと嫂ねーの眼めを他ほかから見みたら、どこかに得意とくいの光ひかりを帯びおびていたのではあるまいか。
自分じぶんは立ちたちながら、次つぎの室むろで浴衣ゆかたを畳んたたんでいた母ははの方ほうをちょっと顧こて、思わおもわず立竦んたちすくんだ。
母ははの眼つきめつきは先刻せんこくからたった一人ひとりでそっと我々われわれを観察かんさつしていたとしか見えみえなかった。
自分じぶんは母ははから疑惑ぎわくの矢やを胸むねに射いつけられたような気分きぶんで兄あにのいる室むろへ這入っはいった。
その頃ころはちょうど旧暦きゅうれきの盆ぼんで、いわゆる盆ぼん波なみの荒いあらいためか、泊り客とまりきゃくは無論むろん、日ひ返りかえりの遊び客あそびきゃくさえいつもほどは影かげを見せみせなかった。
広いひろい三さん階かい建てたてはしたがって空いむなしいている室むろの方ほうが多かっおおかった。
少しすこしの間ま融通ゆうずうしようと思えおもえば、いつでも自分じぶんの自由じゆうになった。
兄あには兼てかねてから下女げじょに命じめいじておいたものと見えみえて、室むろには麻あさの蒲団ふとんが差し向いさしむかいに二に枚ばい、華奢きゃしゃな煙草盆たばこぼんを間まに、団扇うちわさえ添えそえて据えすえられてあった。
自分じぶんは兄あにの前まえに坐っすわった。
けれども何なんと云いいい出しだして然るしかるべきだか、その手加減てかげんがちょっと解らわからないので、ただ黙っだまっていた。
兄あにも容易よういに口くちを開かひらかなかった。
しかしこんな場合ばあいになると性質せいしつ上うえきっと兄あにの方ほうから積極的せっきょくてきに出るでるに違いちがいないと踏んふんだ自分じぶんは、わざと巻まき莨たばこを吹かしふかしつづけた。
自分じぶんはこの時じの自分じぶんの心理状態しんりじょうたいを解剖かいぼうして、今いまから顧みるかえりみると、兄あにに調ちょう戯たわむれうというほどでもないが、多少たしょう彼かれを焦らすじらす気味きみでいたのはたしかであると自白じはくせざるを得とくない。
もっとも自分じぶんがなぜそれほど兄あにに対したいして大胆だいたんになり得とくたかは、我われながら解らわからない。
恐らくおそらく嫂ねーの態度たいどが知らしらぬ間まに自分じぶんに乗り移っのりうつっていたものだろう。
自分じぶんは今いまになって、取り返すとりかえす事ことも償うつぐなう事こともできないこの態度たいどを深くふかく懺悔ざんげしたいと思うおもう。
自分じぶんが巻まき莨たばこを吹かしふかして黙っだまっていると兄あにははたして「二郎じろう」と呼びかけよびかけた。
「お前おまえ直じかの性質せいしつが解っわかったかい」「解りわかりません」 自分じぶんは兄あにの問もんの余りあまりに厳格げんかくなため、ついこう簡単かんたんに答えこたえてしまった。
そうしてそのあまりに形式的けいしきてきなのに後あとから気きがついて、悪かっわるかったと思い返しおもいかえしたが、もう及ばおよばなかった。
兄あにはその後あと一口ひとくちも聞きききもせず、また答えこたえもしなかった。
二人ふたりこうして黙っだまっている間まが、自分じぶんには非常ひじょうな苦痛くつうであった。
今いま考えるかんがえると兄あにには、なおさらの苦痛くつうであったに違いない。
「二郎じろう、おれはお前おまえの兄あにとして、ただ解りわかりませんという冷淡れいたんな挨拶あいさつを受けよううけようとは思わおもわなかった」 兄あにはこう云っいった。
そうしてその声こえは低くひくくかつ顫えふるえていた。
彼かれは母ははの手前てまえ、宿やどの手前てまえ、また自分じぶんの手前てまえと問題もんだいの手前てまえとを兼ねけんねて、高くたかくなるべきはずの咽喉のどを、やっとの思いおもいで抑えおさえているように見えみえた。
「お前おまえそんな冷淡れいたんな挨拶あいさつを一口ひとくちしたぎりで済むすむものと、高こうを括っくくってるのか、子供こどもじゃあるまいし」「いえけっしてそんなわけじゃありません」 これだけの返事へんじをした時じの自分じぶんは真しんに純良じゅんりょうなる弟おとうとであった。
四十三よんじゅうさん
「そう云ういうつもりでなければ、つもりでないようにもっと詳つまびらかく話はなししたら好いよいじゃないか」 兄あには苦りにがり切っきって団扇うちわの絵えを見つめみつめていた。
自分じぶんは兄あにに顔かおを見みられないのを幸いさいわいに、暗にあんに彼かれの様子ようすを窺っうかがった。
自分じぶんからこういうと兄あにを軽蔑けいべつするようではなはだすまないが、彼かれの表情ひょうじょうのどこかには、というよりも、彼かれの態度たいどのどこかには、少しすこし大人気だいにんきを欠いかいた稚気ちきさえ現われあらわれていた。
今いまの自分じぶんはこの純粋じゅんすいな一本調子いちぽんちょうしに対したいして、相応そうおうの尊敬そんけいを払うはらう見地けんちを具えそなえているつもりである。
けれども人格じんかくのできていなかった当時とうじの自分じぶんには、ただ向むかいの隙すきを見みて事ことをするのが賢いかしこいのだという利害りがいの念ねんが、こんな問題もんだいにまでつけ纏わっまつわっていた。
自分じぶんはしばらく兄あにの様子ようすを見みていた。
そうしてこれは与しくみしやすいという心こころが起っおこった。
彼かれは癇癪かんしゃくを起しおこしている。
彼かれは焦れじれ切っきっている。
彼かれはわざとそれを抑えようおさえようとしている。
全くまったく余裕よゆうのないほど緊張きんちょうしている。
しかし風船ふうせん球たまのように軽くかるく緊張きんちょうしている。
もう少しすこし待っまっていれば自分じぶんの力ちからで破裂はれつするか、または自分じぶんの力ちからでどこかへ飛んとんで行くいくに相違そういない。
――自分じぶんはこう観察かんさつした。
嫂ねーが兄あにの手てに合わあわないのも全くまったくここに根ざしねざしているのだと自分じぶんはこの時じようやく勘づいかんづいた。
また嫂ねーとして存在そんざいするには、彼女かのじょの遣けん口くちが一番いちばん巧妙こうみょうなんだろうとも考えかんがえた。
自分じぶんは今日きょうまでただ兄あにの正面しょうめんばかり見みて、遠慮えんりょしたり気兼きがねしたり、時じによっては恐れ入っおそれいったりしていた。
しかし昨日きのう一日いちにち一いち晩ばん嫂ねーと暮しくらした経験けいけんは図らはからずもこの苦々しいにがにがしい兄あにを裏うらから甘くあまく見るみる結果けっかになって眼前がんぜんに現われあらわれて来きた。
自分じぶんはいつ嫂ねーから兄あにをこう見ろみろと教わっおそわった覚さとしはなかった。
けれども兄あにの前まえへ出でて、これほど度胸どきょうの据すえった事こともまたなかった。
自分じぶんは比較的ひかくてきすまして、団扇うちわを見つめみつめている兄あにの額がくのあたりをこっちでも見つめみつめていた。
すると兄あにが急きゅうに首くびを上げあげた。
「二郎じろう何なんとか云わいわないか」と励しはげましい言葉ことばを自分じぶんの鼓膜こまくに射込んいこんだ。
自分じぶんはその声こえでまたはっと平生へいぜいの自分じぶんに返っかえった。
「今いま云おういおうと思っおもってるところです。しかし事ことが複雑ふくざつなだけに、何なんから話しはなして好いよいか解らわからないんでちょっと困っこまってるんです。兄さんあにさんもほかの事ことたあ違うちがうんだから、もう少しすこし打ち解けうちとけてゆっくり聞いきいて下さらくださらなくっちゃ。そう裁判所さいばんしょみたように生真面目きまじめに叱りつけしかりつけられちゃ、せっかく咽喉のどまで出かかっでかかったものも、辟易へきえきして引込んひきこんじまいますから」 自分じぶんがこう云ういうと、兄あにはさすがに一いち見識けんしきある人ひとだけあって、「ああそうかおれが悪かっわるかった。お前おまえが性急せいきゅうの上うえへ持っもって来きて、おれが癇癪かんしゃく持ともちと来きているから、つい変へんにもなるんだろう。二郎じろう、それじゃいつゆっくり話さはなされる。ゆっくり聞くきく事ことなら今いまでもおれにはできるつもりだが」と云っいった。
「まあ東京とうきょうへ帰るかえるまで待っまって下さいください。東京とうきょうへ帰るかえるたって、あすの晩ばんの急行きゅうこうだから、もう直じかです。その上うえで落ちついおちついて僕ぼくの考えかんがえも申し上げもうしあげたいと思っおもってますから」「それでも好いよい」 兄あには落ちついおちついて答えこたえた。
今までいままでの彼かれの癇癪かんしゃくを自分じぶんの信用しんようで吹き払いふきはらい得とくたごとくに。
「ではどうか、そう願いねがいます」と云っいって自分じぶんが立ちたちかけた時じ、兄あには「ああ」と肯ずいて見せみせたが、自分じぶんが敷居しきいを跨ぐまたぐ拍子ひょうしに「おい二郎じろう」とまた呼び戻しよびもどした。
「詳つまびらかい事ことは追っおって東京とうきょうで聞くきくとして、ただ一言ひとことだけ要領ようりょうを聞いきいておこうか」「姉さんあねさんについて……」「無論むろん」「姉さんあねさんの人格じんかくについて、御ご疑いうたがいになるところはまるでありません」 自分じぶんがこう云っいった時じ、兄あには急きゅうに色いろを変えかえた。
けれども何になんにも云わいわなかった。
自分じぶんはそれぎり席せきを立ったってしまった。
四十四よんじゅうよん
自分じぶんはその時じ場合ばあいによれば、兄あにから拳骨げんこつを食うくうか、または後あとから熱罵ねつばを浴せかけあびせかけられる事ことと予期よきしていた。
色いろを変えかえた彼かれを後あとに見捨てみすてて、自分じぶんの席せきを立ったったくらいだから、自分じぶんは普通ふつうよりよほど彼かれを見縊っみくびっていたに違いなかった。
その上うえ自分じぶんはいざとなれば腕力わんりょくに訴えうったえてでも嫂ねーを弁護べんごする気概きがいを十分じゅうふん具えそなえていた。
これは嫂ねーが潔白けっぱくだからというよりも嫂ねーに新たあらたなる同情どうじょうが加わっくわわったからと云ういう方ほうが適切てきせつかも知れしれなかった。
云い換えるいいかえると、自分じぶんは兄あにをそれだけ軽蔑けいべつし始めはじめたのである。
席せきを立つたつ時じなどは多少たしょう彼かれに対するたいする敵愾心てきがいしんさえ起っおこった。
自分じぶんが室むろへ帰っかえって来きた時じ、母はははもう浴衣ゆかたを畳んたたんではいなかった。
けれども小さいちいさい行李こうりの始末しまつに余念よねんなく手てを動かしうごかしていた。
それでも心こころは手許てもとになかったと見えみえて、自分じぶんの足音あしおとを聞くきくや否いなや、すぐこっちを向いむかいた。
「兄さんあにさんは」「今いま来るくるでしょう」「もう話はなしは済んすんだの」「済むすむの済ますまないのって、始めはじめからそんな大したたいした話はなしじゃないんです」 自分じぶんは母ははの気きを休めるやすめるため、わざと蒼蠅さばえそうにこう云っいった。
母はははまた行李こうりの中なかへ、こまごましたものを出しだしたり入れいれたりし始めはじめた。
自分じぶんは今度こんどは彼かれの女おんなに恥じはじて、けっして傍そばに手伝ってつだっている嫂ねーの顔かおをあえて見みなかった。
それでも彼女かのじょの若くわかくて淋しいさびしい唇くちびるには冷れいかな笑わらいの影かげが、自分じぶんの眼めを掠めるかすめるように過ぎすぎた。
「今いまから荷造りにづくりですか。ちっと早はや過ぎるすぎるな」と自分じぶんはわざと年ねんを取っとった母ははを嘲けるあざけるごとく注意ちゅういした。
「だって立つたつとなれば、なるたけ早くはやく用意よういしておいた方ほうが都合つごうが好いよいからね」「そうですとも」 嫂ねーのこの返事へんじは、自分じぶんが何なんか云おういおうとする先さきを越しこして声こえに応ずるおうずる響ひびきのごとく出でた。
「じゃ縄なわでも絡げからげましょう。男おとこの役やくだから」 自分じぶんは兄あにと反対はんたいに車夫しゃふや職人しょくにんのするような荒仕事あらしごとに妙みょうを得とくていた。
ことに行李こうりを括るくくるのは得意とくいであった。
自分じぶんが縄なわを十じゅう文字もじに掛けかけ始めるはじめると、嫂ねーはすぐ立ったって兄あにのいる室むろの方ほうに行っいった。
自分じぶんは思わおもわずその後姿うしろすがたを見送っみおくった。
「二郎じろう兄さんあにさんの機嫌きげんはどうだったい」と母ははがわざわざ小さなちいさな声こえで自分じぶんに聞いきいた。
「別べつにこれと云ういう事こともありません。なあに心配しんぱいなさる事ことがあるもんですか。大丈夫だいじょうぶです」と自分じぶんはことさらに荒っぽくあらっぽく云っいって、右足みぎあしで行李こうりの蓋ふたをぎいぎい締めしめた。
「実じつはお前おまえにも話しはなしたい事ことがあるんだが。東京とうきょうへでも帰っかえったらいずれまたゆっくりね」「ええゆっくり伺いうかがいましょう」 自分じぶんはこう無造作むぞうさに答えこたえながら、腹はらの中なかでは母ははのいわゆる話はなしなるものの内容ないようを朧気おぼろきながら髣髴ほうふつした。
しばらくすると、兄あにと嫂ねーが別席べっせきから出でて来きた。
自分じぶんは平気へいきを粧いよそいながら母ははと話しはなしている間まにも、両人りょうにんの会見かいけんとその会見かいけんの結果けっかについて多少たしょう気がかりきがかりなところがあった。
母ははは二人ふたりの並んならんで来るくる様子ようすを見みて、やっと安心あんしんした風かぜを見せみせた。
自分じぶんにもどこかにそんなところがあった。
自分じぶんは行李こうりを絡げるからげる努力どりょくで、顔かおやら背中せなかやらから汗あせがたくさん出でた。
腕捲りうでまくりをした上うえ、浴衣ゆかたの袖そでで汗あせを容赦ようしゃなく拭いぬぐいた。
「おい暑しょそうだ。少しすこし扇いせんいでやるが好いよい」 兄あにはこう云っいって嫂ねーを顧みかえりみた。
嫂ねーは静せいに立ったって自分じぶんを扇いせんいでくれた。
「何なんよござんす。もう直じかですから」 自分じぶんがこう断っことわっているうちに、やがて明日あすの荷造りにづくりは出来上っできあがった。
帰っかえってから
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