一
第 31 章
陰刻な冬が彼岸の風に吹き払われた時自分は寒い窖から顔を出した人のように明るい世界を眺めた。
自分の心のどこかにはこの明るい世界もまた今やり過ごした冬と同様に平凡だという感じがあった。
けれども呼息をするたびに春の匂が脈の中に流れ込む快よさを忘れるほど自分は老いていなかった。
自分は天気の好い折々室の障子を明け放って往来を眺めた。
また廂の先に横わる蒼空を下から透すように望んだ。
そうしてどこか遠くへ行きたいと願った。
学校にいた時分ならもう春休みを利用して旅へ出る支度をするはずなのだけれども、事務所へ通うようになった今の自分には、そんな自由はとても望めなかった。
偶の日曜ですら寝起の悪い顔を一日下宿に持ち扱って、散歩にさえ出ない事があった。
自分は半ば春を迎えながら半ば春を呪う気になっていた。
下宿へ帰って夕飯を済ますと、火鉢の前へ坐って煙草を吹かしながら茫然自分の未来を想像したりした。
その未来を織る糸のうちには、自分に媚びる花やかな色が、新しく活けた佐倉炭の焔と共にちらちらと燃え上るのが常であったけれども、時には一面に変色してどこまで行っても灰のように光沢を失っていた。
自分はこういう想像の夢から突然何かの拍子で現在の我に立ち返る事があった。
そうしてこの現在の自分と未来の自分とを運命がどういう手段で結びつけて行くだろうと考えた。
自分が不意に下宿の下女から驚かされたのは、ちょうどこんな風に現実と空想の間に迷ってじっと火鉢に手を翳していた、ある宵の口の出来事であった。
自分は自分の注意を己れ一人に集めていたというものか、実際下女の廊下を踏んで来る足音に気がつかなかった。
彼女が思いがけなくすうと襖を開けた時自分は始めて偶然のように眼を上げて彼女と顔を見合せた。
「風呂かい」 自分はすぐこう聞いた。
これよりほかに下女が今頃自分の室の襖を開けるはずがないと思ったからである。
すると下女は立ちながら「いいえ」と答えたなり黙っていた。
自分は下女の眼元に一種の笑いを見た。
その笑いの中には相手を翻弄し得た瞬間の愉快を女性的に貪りつつある妙な閃があった。
自分は鋭く下女に向って、「何だい、突立ったまま」と云った。
下女はすぐ敷居際に膝を突いた。
そうして「御客様です」とやや真面目に答えた。
「三沢だろう」と自分が云った。
自分はある事で三沢の訪問を予期していたのである。
「いいえ女の方です」「女の人?」 自分は不審の眉を寄せて下女に見せた。
下女はかえって澄ましていた。
「こちらへ御通し申しますか」「何という人だい」「知りません」「知りませんって、名前を聞かないでむやみに人の室へ客を案内する奴があるかい」「だって聞いてもおっしゃらないんですもの」 下女はこう云って、また先刻のような意地の悪い笑を目元で笑った。
自分はいきなり火鉢から手を放して立ち上った。
敷居際に膝を突いている下女を追い退けるようにして上り口まで出た。
そうして土間の片隅にコートを着たまま寒そうに立っていた嫂の姿を見出した。