行人

33/40

三

第 33 章
自分じぶんはつと立ったって嫂ねーの後あとへ廻っまわった。
彼女かのじょは半間はんまの床ゆかを背せにして坐っすわっていた。
室むろが狭いせまいので彼女かのじょの帯おびのあたりはほとんど杉すぎの床柱とこばしらとすれすれであった。
自分じぶんがその間まへ一足いっそく割り込んわりこんだ時じ、彼女かのじょは窮屈きゅうくつそうに体躯たいくを前まえの方ほうへ屈めかがめて「何なんをなさるの」と聞いきいた。
自分じぶんは片足かたあしを宙ちゅうに浮かしうかしたまま、床ゆかの奥おくから黒塗くろぬりの重箱じゅうばこを取り出しとりだして、それを彼女かのじょの前まえへ置いおいた。
「一いちつどうです」 こう云いいいながら蓋ふたを取ろうとろうとすると、彼女かのじょは微かかすかに苦笑くしょうを洩らしもらした。
重箱じゅうばこの中なかには白砂はくしゃ糖とうをふりかけた牡丹餅ぼたもちが行儀ぎょうぎよく並べならべてあった。
昨日きのうが彼岸ひがんの中日ちゅうにちである事ことを自分じぶんはこの牡丹餅ぼたもちによって始めてはじめて知っしったのである。
自分じぶんは嫂ねーの顔かおを見みて真面目まじめに「食べたべませんか」と尋ねたずねた。
彼女かのじょはたちまち吹き出しふきだした。
「あなたもずいぶんね、その御萩おはぎは昨日きのう宅たくから持たもたせて上げあげたんじゃありませんか」 自分じぶんはやむをえず苦笑くしょうしながら一いちつ頬張っほおばった。
彼女かのじょは自分じぶんのために湯呑ゆのみへ茶ちゃを注いそそいでくれた。
自分じぶんはこの牡丹餅ぼたもちから彼女かのじょが今日きょう墓詣りはかまいりのため里さとへ行っいってその帰りがけかえりがけにここへ寄っよったのだと云ういう事ことをようやく確めたしかめた。
「大変たいへん御無沙汰ごむさたをしていますが、あちらでも別べつにお変りかわりはありませんか」「ええありがとう、別べつに……」 言葉ことば寡やもめな彼女かのじょはただ簡単かんたんにこう答えこたえただけであったが、その後そのあとへ、「御無沙汰ごむさたって云えいえば、あなた番町ばんちょうへもずいぶん御無沙汰ごむさたね」と付け加えつけくわえて、ことさらに自分じぶんの顔かおを見みた。
自分じぶんは全くまったく番町ばんちょうへは遠ざかっとおざかっていた。
始めはじめは宅たくの事ことが苦くになって一いち週しゅうに一度いちどか二に度ど行かいかないと気きが済ますまないくらいだったが、いつか中心ちゅうしんを離れはなれてよそからそっと眺めるながめる癖くせを養いやしない出しだした。
そうしてその眺めながめている間ま少くすくなくとも事ことが起らおこらずに済んすんだという自覚じかくが、無沙汰むさたを無事ぶじの原因げんいんのように思わおもわせていた。
「なぜ元もとのようにちょくちょくいらっしゃらないの」「少しすこし仕事しごとの方ほうが忙しいいそがしいもんですから」「そう? 本当ほんとうに? そうじゃないでしょう」 自分じぶんは嫂ねーからこう追窮ついきゅうされるのに堪えこらえなかった。
その上うえ自分じぶんには彼女かのじょの心理しんりが解らわからなかった。
他ほかの人ひとはどうあろうとも、嫂ねーだけはこの点てんにおいて自分じぶんを追窮ついきゅうする勇気ゆうきのないものと今までいままで固くかたく信じしんじていたからである。
自分じぶんは思い切っおもいきって「あなたは大胆だいたん過ぎるすぎる」と云おういおうかと思っおもった。
けれども疾しつに相手あいてから小胆しょうたんと見縊らみくびられている自分じぶんはついに卑怯ひきょうであった。
「本当ほんとうに忙がしいいそがしいのです。実じつはこの間まから少しすこし勉強べんきょうしようと思っおもって、そろそろその準備じゅんびに取りかかっとりかかったもんですから、つい近頃ちかごろはどこへも出るでる気きにならないんです。僕ぼくはいつまでこんな事ことをしてぐずぐずしていたってつまらないから、今いまのうち少しすこし本ほんでも読んよんでおいて、もう少しすこししたら外国がいこくへでも行っいって見みたいと思っおもってるんだから」 この答えこたえの後半こうはんは本当ほんとうに自分じぶんの希望きぼうであった。
自分じぶんは何なんでもいいからただ遠くとおくへ行きいきたい行きいきたいと願っねがっていた。
「外国がいこくって、洋行ようこう?」と嫂ねーが聞いきいた。
「まあそうです」「結構けっこうね。御ご父さんちちさんに願っねがって早くはやくやって御ご頂きいただきなさい。妾めかけ話しはなして上げあげましょうか」 自分じぶんも無駄むだと知りしりながらそんな事ことを幻まぼろしのように考えかんがえていたのだが、彼女かのじょの言葉ことばを聞いきいた時じ急きゅうに、「お父さんおちちさんは駄目だめですよ」と首くびを振っふって見せみせた。
彼女かのじょはしばらく黙っだまっていた。
やがて物憂ものうそうな調子ちょうしで「男おとこは気楽きらくなものね」と云っいった。
「ちっとも気楽きらくじゃありません」「だって厭いやになればどこへでも勝手にかってに飛んとんで歩けるあるけるじゃありませんか」
33/40