三
第 33 章
自分はつと立って嫂の後へ廻った。
彼女は半間の床を背にして坐っていた。
室が狭いので彼女の帯のあたりはほとんど杉の床柱とすれすれであった。
自分がその間へ一足割り込んだ時、彼女は窮屈そうに体躯を前の方へ屈めて「何をなさるの」と聞いた。
自分は片足を宙に浮かしたまま、床の奥から黒塗の重箱を取り出して、それを彼女の前へ置いた。
「一つどうです」 こう云いながら蓋を取ろうとすると、彼女は微かに苦笑を洩らした。
重箱の中には白砂糖をふりかけた牡丹餅が行儀よく並べてあった。
昨日が彼岸の中日である事を自分はこの牡丹餅によって始めて知ったのである。
自分は嫂の顔を見て真面目に「食べませんか」と尋ねた。
彼女はたちまち吹き出した。
「あなたもずいぶんね、その御萩は昨日宅から持たせて上げたんじゃありませんか」 自分はやむをえず苦笑しながら一つ頬張った。
彼女は自分のために湯呑へ茶を注いでくれた。
自分はこの牡丹餅から彼女が今日墓詣りのため里へ行ってその帰りがけにここへ寄ったのだと云う事をようやく確めた。
「大変御無沙汰をしていますが、あちらでも別にお変りはありませんか」「ええありがとう、別に……」 言葉寡な彼女はただ簡単にこう答えただけであったが、その後へ、「御無沙汰って云えば、あなた番町へもずいぶん御無沙汰ね」と付け加えて、ことさらに自分の顔を見た。
自分は全く番町へは遠ざかっていた。
始めは宅の事が苦になって一週に一度か二度行かないと気が済まないくらいだったが、いつか中心を離れてよそからそっと眺める癖を養い出した。
そうしてその眺めている間少くとも事が起らずに済んだという自覚が、無沙汰を無事の原因のように思わせていた。
「なぜ元のようにちょくちょくいらっしゃらないの」「少し仕事の方が忙しいもんですから」「そう? 本当に? そうじゃないでしょう」 自分は嫂からこう追窮されるのに堪えなかった。
その上自分には彼女の心理が解らなかった。
他の人はどうあろうとも、嫂だけはこの点において自分を追窮する勇気のないものと今まで固く信じていたからである。
自分は思い切って「あなたは大胆過ぎる」と云おうかと思った。
けれども疾に相手から小胆と見縊られている自分はついに卑怯であった。
「本当に忙がしいのです。実はこの間から少し勉強しようと思って、そろそろその準備に取りかかったもんですから、つい近頃はどこへも出る気にならないんです。僕はいつまでこんな事をしてぐずぐずしていたってつまらないから、今のうち少し本でも読んでおいて、もう少ししたら外国へでも行って見たいと思ってるんだから」 この答えの後半は本当に自分の希望であった。
自分は何でもいいからただ遠くへ行きたい行きたいと願っていた。
「外国って、洋行?」と嫂が聞いた。
「まあそうです」「結構ね。御父さんに願って早くやって御頂きなさい。妾話して上げましょうか」 自分も無駄と知りながらそんな事を幻のように考えていたのだが、彼女の言葉を聞いた時急に、「お父さんは駄目ですよ」と首を振って見せた。
彼女はしばらく黙っていた。
やがて物憂そうな調子で「男は気楽なものね」と云った。
「ちっとも気楽じゃありません」「だって厭になればどこへでも勝手に飛んで歩けるじゃありませんか」