行人

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二

第 32 章
その日ひは朝あさから曇っくもっていた。
しかも打ち続いうちつづいた好よしみ天気てんきを一度いちどに追い払うおいはらうように寒いさむい風かぜが吹いふいた。
自分じぶんは事務所じむしょから帰りがけかえりがけに、外套がいとうの襟えりを立てたてて歩きあるきながら道々みちみち雨あめになるのを気遣っきづかいった。
その雨あめが先刻せんこく夕飯ゆうはんの膳ぜんに向うむこう時分じぶんからしとしとと降りふり出しだした。
「好くよくこんな寒いさむい晩ばんに御ご出かけでかけでした」 嫂ねーは軽くかるく「ええ」と答えこたえたぎりであった。
自分じぶんは今までいままで坐っすわっていた蒲団ふとんの裏うらを返しかえして、それを三さん尺さしの床ゆかの前まえに直しなおして、「さあこっちへいらっしゃい」と勧めすすめた。
彼女かのじょはコートこーとの片袖かたそでをするすると脱ぎぬぎながら「そうお客扱いきゃくあつかいにしちゃ厭いやよ」と云っいった。
自分じぶんは茶器ちゃきを洒がそそがせるために電鈴でんれいを押しおした手てを放しはなして、彼女かのじょの顔かおを見みた。
寒いさむい戸外こがいの空気くうきに冷えひえたその頬ほおはいつもより蒼白くあおじろく自分じぶんの眸子ぼうしを射いた。
不断ふだんから淋しいさびしい片かた靨えくぼさえ平生へいぜいとは違っちがった意味いみの淋しさびしさを消えるきえる瞬間しゅんかんにちらちらと動かしうごかした。
「まあ好いよいからそこへ坐っすわって下さいください」 彼女かのじょは自分じぶんの云ういう通りとおりに蒲団ふとんの上うえに坐っすわった。
そうして白いしろい指ゆびを火鉢ひばちの上うえに翳しかざした。
彼女かのじょはその姿すがたから想像そうぞうされる通りとおり手て爪先つまさきの尋常じんじょうな女おんなであった。
彼女かのじょの持っもって生れうまれた道具どうぐのうちで、初はつから自分じぶんの注意ちゅういを惹いひいたものは、華奢きゃしゃに出来上っできあがったその手てと足あしとであった。
「二郎じろうさん、あなたも手てを出しだして御ごあたりなさいな」 自分じぶんはなぜか躊躇ちゅうちょして手てを出しだしかねた。
その時雨しぐれの音おとが窓まどの外そとで蕭々しょうしょうとした。
昼間ひるま吹ふき募っつのった西北にしきたの風かぜは雨あめと共ともにぱったりと落ちおちたため世間せけんは案外あんがい静かしずかになっていた。
ただ時じを区切っくぎって樋といを叩くたたく雨滴うてきの音おとだけがぽたりぽたりと響いひびいた。
嫂ねーは平生へいぜいの通りとおり落ちついおちついた態度たいどで、室むろの中なかを見廻しみまわしながら「なるほど好いよい御室おむろね、そうして静せいだ事こと」と云っいった。
「夜よるだから好くよく見えるみえるんです。昼間ひるま来きて御覧ごらんなさい、ずいぶん汚ならしいきたならしい室むろですよ」 自分じぶんはしばらく嫂ねーと応対おうたいしていた。
けれども今いま自白じはくすると腹はらの中なかは話はなしの調子ちょうしで示さしめされるほど穏かおだやかなものではけっしてなかった。
自分じぶんは嫂ねーがこの下宿げしゅくへ訪ねたずねて来ようこようとはその時じまでけっして予期よきしていなかったのである。
空想くうそうにすら描いえがいていなかったのである。
彼女かのじょの姿すがたを上り口あがりぐちの土間どまに見出しみだした時じ自分じぶんははっと驚いおどろいた。
そうしてその驚きおどろきは喜びよろこびの驚きおどろきよりもむしろ不安ふあんの驚きおどろきであった。
「何なんで来きたのだろう。何なんでこの寒いさむいのにわざわざ来きたのだろう。何なんでわざわざ晩ばんになって灯あかりが点いついてから来きたのだろう」 これが彼女かのじょを見みた瞬間しゅんかんの疑惑ぎわくであった。
この疑惑ぎわくに初手しょてからこだわった自分じぶんの胸むねには、火鉢ひばちを隔てへだてて彼女かのじょと相対そうたいしている日常にちじょうの態度たいどの中なかに絶えたえざる圧迫あっぱくがあった。
それが自分じぶんの談話だんわや調子ちょうしに不愉快ふゆかいなそらぞらしさを与えあたえた。
自分じぶんはそれを明かあきらかに自覚じかくした。
それからその空々しそらぞらしさがよく相手あいての頭あたまに映っうつっているという事ことも自覚じかくした。
けれどもどうする訳わけにも行かいかなかった。
自分じぶんは嫂ねーに「冴え返っさえかえって寒くさむくなりましたね」と云っいった。
「雨あめの降るふるのに好くよく御ご出かけでかけですね」と云っいった。
「どうして今頃いまごろ御ご出かけでかけです」と聞いきいた。
対話たいわがそこまで行っいっても自分じぶんの胸むねに少しすこしの光明こうみょうを投げなげなかった時じ、自分じぶんは硬くかたくなった、そうしてジョコンダじょこんだに似にた怪しいあやしい微笑びしょうの前まえに立ち竦またちすくまざるを得とくなかった。
「二郎じろうさんはしばらく会わあわないうちに、急きゅうに改まっあらたまっちまったのね」と嫂ねーが云いいい出しだした。
「そんな事ことはありません」と自分じぶんは答えこたえた。
「いいえそうよ」と彼女かのじょが押し返しおしかえした。
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