六
第 36 章
それから三四日の間というもの自分の頭は絶えず嫂の幽霊に追い廻された。
事務所の机の前に立って肝心の図を引く時ですら、自分はこの祟を払い退ける手段を知らなかった。
ある日には始終他人の手を借りて仕事を運んで行くようなはがゆい思さえ加わった。
こうして自分で自分を離れた気分を持ちながら、上部だけを人並にやって行くのに傍の者はなぜ不審がらないのだろうと疑ぐって見たりした。
自分はよほど前から事務所ではもう快活な男として通用しないようになっていた。
ことに近来は口数さえ碌に利かなかった。
それでこの三四日間に起った変化もまた他の注意に上らずに済んでいるのだろうと考えた。
そうして自己と周囲と全く遮断された人の淋しさを独り感じた。
自分はこの間に一人の嫂をいろいろに視た。
――彼女は男子さえ超越する事のできないあるものを嫁に来たその日からすでに超越していた。
あるいは彼女には始めから超越すべき牆も壁もなかった。
始めから囚われない自由な女であった。
彼女の今までの行動は何物にも拘泥しない天真の発現に過ぎなかった。
ある時はまた彼女がすべてを胸のうちに畳み込んで、容易に己を露出しないいわゆるしっかりもののごとく自分の眼に映じた。
そうした意味から見ると、彼女はありふれたしっかりものの域を遥に通り越していた。
あの落ちつき、あの品位、あの寡黙、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。
驚くべく図々しいものでもあった。
ある刹那には彼女は忍耐の権化のごとく、自分の前に立った。
そうしてその忍耐には苦痛の痕迹さえ認められない気高さが潜んでいた。
彼女は眉をひそめる代りに微笑した。
泣き伏す代りに端然と坐った。
あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。
要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。
一人の嫂が自分にはこういろいろに見えた。
事務所の机の前、昼餐の卓の上、帰り途の電車の中、下宿の火鉢の周囲、さまざまの所でさまざまに変って見えた。
自分は他の知らない苦しみを他に言わずに苦しんだ。
その間思い切って番町へ出かけて行って、大体の様子を探るのがともかくも順序だとはしばしば胸に浮かんだ。
けれども卑怯な自分はそれをあえてする勇気をもたなかった。
眼の前に怖い物のあるのを知りながら、わざと見ないために瞼を閉じていた。
すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口まで呼び出された。
「御前は二郎かい」「そうです」「明日の朝ちょっと行くが好いかい」「へえ」「差支えがあるかい」「いえ別に……」「じゃ待っててくれ、好いだろうね。さようなら」 父はそれで電話を切ってしまった。
自分は少からず狼狽した。
何の用事であるかをさえ確める余裕をもたなかった自分は、電話口を離れてから後悔した。
もし用事があるなら呼びつけられそうなものだのにとすぐ変に思っても見た。
父が向うから来るという違例な事が、この間の嫂の訪問に何か関係があるような気がして、自分の胸は一層不安になった。
下宿に帰ったら、大阪の岡田から来た一枚の絵端書が机の上に載せてあった。
それは彼ら夫婦が佐野とお貞さんを誘って、楽しい半日を郊外に暮らした記念であった。
自分は机に向って長い間その絵端書を見つめていた。