九
第 29 章
自分は三沢へ端書を書いた後で、風呂から出立の頬に髪剃をあてようと思っていた。
お重を相手にぐずぐずいうのが面倒になったのを好い幸いに、「お重気の毒だが風呂場から熱い湯をうがい茶碗にいっぱい持って来てくれないか」と頼んだ。
お重は嗽茶碗どころの騒ぎではないらしかった。
それよりまだ十倍も厳粛な人生問題を考えているもののごとく澄まして膨れていた。
自分はお重に構わず、手を鳴らして下女から必要な湯を貰った。
それから机の上へ旅行用の鏡を立てて、象牙の柄のついた髪剃を並べて、熱湯で濡らした頬をわざと滑稽に膨らませた。
自分が物新しそうにシェーヴィング・ブラッシを振り廻して、石鹸の泡で顔中を真白にしていると、先刻から傍に坐ってこの様子を見ていたお重は、ワッと云う悲劇的な声をふり上げて泣き出した。
自分はお重の性質として、早晩ここに来るだろうと思って、暗にこの悲鳴を予期していたのである。
そこでますます頬ぺたに空気をいっぱい入れて、白い石鹸をすうすうと髪剃の刃で心持よさそうに落し始めた。
お重はそれを見て業腹だか何だかますます騒々しい声を立てた。
しまいに「兄さん」と鋭どく自分を呼んだ。
自分はお重を馬鹿にしていたには違ないが、この鋭い声には少し驚かされた。
「何だ」「何だって、そんなに人を馬鹿にするんです。これでも私はあなたの妹です。嫂さんはいくらあなたが贔屓にしたって、もともと他人じゃありませんか」 自分は髪剃を下へ置いて、石鹸だらけの頬をお重の方に向けた。
「お重お前は逆せているよ。お前がおれの妹で、嫂さんが他家から嫁に来た女だぐらいは、お前に教わらないでも知ってるさ」「だから私に早く嫁に行けなんて余計な事を云わないで、あなたこそ早くあなたの好きな嫂さんみたような方をお貰いなすったら好いじゃありませんか」 自分は平手でお重の頭を一つ張りつけてやりたかった。
けれども家中騒ぎ廻られるのが怖いんで、容易に手は出せなかった。
「じゃお前も早く兄さんみたような学者を探して嫁に行ったら好かろう」 お重はこの言葉を聞くや否や、急に掴みかかりかねまじき凄じい勢いを示した。
そうして涙の途切れ目途切れ目に、彼女の結婚がお貞さんより後れたので、それでこんなに愚弄されるのだと言明した末、自分を兄妹に同情のない野蛮人だと評した。
自分も固より彼女の相手になり得るほどの悪口家であった。
けれども最後にとうとう根気負がして黙ってしまった。
それでも彼女は自分の傍を去らなかった。
そうして事実は無論の事、事実が生んだ飛んでもない想像まで縦横に喋舌り廻してやまなかった。
その中で彼女の最も得意とする主題は、何でもかでも自分と嫂とを結びつけて当て擦るという悪い意地であった。
自分はそれが何より厭であった。
自分はその時心の中で、どんなお多福でも構わないから、お重より早く結婚して、この夫婦関係がどうだの、男女の愛がどうだのと囀る女を、たった一人後に取り残してやりたい気がした。
それからその方がまた実際母の心配する通り、兄夫婦にも都合が好かろうと真面目に考えても見た。
自分は今でも雨に叩かれたようなお重の仏頂面を覚えている。
お重はまた石鹸を溶いた金盥の中に顔を突込んだとしか思われない自分の異な顔を、どうしても忘れ得ないそうである。