行人

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九

第 19 章
岡田おかだはその夜よるだいぶ酒さけを呑んのんだ。
彼かれは是非ぜひ都合つごうして和歌わかの浦うらまでいっしょに行くいくつもりでいたが、あいにく同僚どうりょうが病気びょうきで欠勤けっきんしているので、予期よきの通りとおりにならないのがはなはだ残念ざんねんだと云っいってしきりに母ははや兄あにに詫びわびていた。
「じゃ今夜こんやが御ご別れわかれだから、少しすこし御ご過ごしすごしなさい」と母ははが勧めすすめた。
あいにく自分じぶんの家族かぞくは酒さけに親しみしたしみの薄いうすいものばかりで、誰だれも彼かれの相手あいてにはなれなかった。
それで皆みなな御免ごめん蒙っこうむって岡田おかだより先さきへ食事しょくじを済ましすました。
岡田おかだはそれがこっちも勝手かってだといった風かぜに、独りひとり膳ぜんを控えひかえて盃さかずきを甜めなめ続けつづけた。
彼かれは性来しょうらい元気げんきな男おとこであった。
その上うえ酒さけを呑むのむとますます陽気ようきになる好いよい癖くせを持っもっていた。
そうして相手あいてが聞こうきこうが聞くきくまいが、頓着とんちゃくなしに好きすきな事ことを喋舌っしゃべって、時々ときどき一人ひとり高笑いたかわらいをした。
彼かれは大阪おおさかの富とみが過去かこ二十にじゅう年間ねんかんにどのくらい殖えふえて、これから十じゅう年ねん立つたつとまたその富とみが今いまの何十なんじゅう倍ばいになるというような統計とうけいを挙げあげておおいに満足まんぞくらしく見えみえた。
「大阪おおさかの富とみより君きみ自身じしんの富とみはどうだい」と兄あにが皮肉ひにくを云っいったとき、岡田おかだは禿げはげかかった頭あたまへ手てを載せのせて笑いわらい出しだした。
「しかし僕ぼくの今日きょうあるも――というと、偉えら過ぎるすぎるが、まあどうかこうかやって行けるいけるのも、全くまったく叔父おじさんと叔母おばさんのお蔭おかげです。僕ぼくはいくらこうして酒さけを呑んのんで太平楽たいへいらくを並べならべていたって、それだけはけっして忘れわすれやしません」 岡田おかだはこんな事ことを云っいって、傍そばにいる母ははと遠くとおくにいる父ちちに感謝かんしゃの意いを表しあらわした。
彼かれは酔うようと同じおなじ言葉ことばを何なん遍へんも繰返すくりかえす癖くせのある男おとこだったが、ことにこの感謝かんしゃの意いは少しすこしずつ違っちがった形式けいしきで、幾度いくどか彼かれの口くちから洩れもれた。
しまいに彼かれは灘なだ万まんのまな鰹かつおとか何なんとかいうものを、是非ぜひ父ちちに喰わくわせたいと云い募っいいつのった。
自分じぶんは彼かれがもと書生しょせいであった頃ころ、ある正月しょうがつの宵よいどこかで振舞ふるまい酒さけを浴びあびて帰っかえって来きて、父ちちの前まえへ長さながさ三さん寸すんばかりの赤いあかい蟹かにの足あしを置きおきながら平伏しひれふして、謹んつつしんで北海ほっかいの珍味ちんみを献上けんじょうしますと云っいったら、父ちちは「何なんだそんな朱塗りしゅぬりの文鎮ぶんちん見みたいなもの。要らいらないから早くはやくそっちへ持っもって行けいけ」と怒っどった昔むかしを思い出しおもいだした。
岡田おかだはいつまでも飲んのんで帰らかえらなかった。
始めはじめは興きょうを添えそえた彼かれの座談ざだんもだんだん皆みななに飽きあきられて来きた。
嫂ねーは団扇うちわを顔かおへ当てあてて欠けつを隠しかくした。
自分じぶんはとうとう彼かれを外そとへ連れん出さださなければならなかった。
自分じぶんは散歩さんぽにかこつけて五六ごろく町まち彼かれといっしょに歩いあるいた。
そうして懐ふところから例れいの金きんを出しだして彼かれに返しかえした。
金きんを受取っうけとった時じの彼かれは、酔っよいっているにもかかわらず驚ろくおどろくべくたしかなものであった。
「今いまでなくってもいいのに。しかしお兼けんが喜びよろこびますよ。ありがとう」と云っいって、洋服ようふくの内うち隠いん袋ふくろへ収めおさめた。
通りとおりは静せいであった。
自分じぶんはわれ知らしらず空そらを仰いおっしゃいだ。
空そらには星ほしの光ひかりが存外ぞんがい濁っにごっていた。
自分じぶんは心こころの内うちに明日あすの天気てんきを気遣っきづかいった。
すると岡田おかだが藪やぶから棒ぼうに「一郎いちろうさんは実際じっさいむずかしやでしたね」と云いいい出しだした。
そうして昔むかしし兄あにと自分じぶんと将棋しょうぎを指しさした時じ、自分じぶんが何なんか一口ひとくち云っいったのを癪しゃくに、いきなり将棋しょうぎの駒こまを自分じぶんの額がくへぶつけた騒ぎさわぎを、新しくあたらしく自分じぶんの記憶きおくから呼び覚しよびさました。
「あの時分じぶんからわがままだったからね、どうも。しかしこの頃このごろはだいぶ機嫌きげんが好いよいようじゃありませんか」と彼かれがまた云っいった。
自分じぶんは煮えにえ切らきらない生返事なまへんじをしておいた。
「もっとも奥さんおくさんができてから、もうよっぽどになりますからね。しかし奥さんおくさんの方ほうでもずいぶん気骨きぼねが折れるおれるでしょう。あれじゃ」 自分じぶんはそれでも何なんの答こたえもしなかった。
ある四角しかくへ来きて彼かれと別れるわかれるときただ「お兼けんさんによろしく」と云っいったまままた元もとの路みちへ引き返しひきかえした。
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