五
第 25 章
そのうち夏もしだいに過ぎた。
宵々に見る星の光が夜ごとに深くなって来た。
梧桐の葉の朝夕風に揺ぐのが、肌に応えるように眼をひやひやと揺振った。
自分は秋に入ると生れ変ったように愉快な気分を時々感じ得た。
自分より詩的な兄はかつて透き通る秋の空を眺めてああ生き甲斐のある天だと云って嬉しそうに真蒼な頭の上を眺めた事があった。
「兄さんいよいよ生き甲斐のある時候が来ましたね」と自分は兄の書斎のヴェランダに立って彼を顧みた。
彼はそこにある籐椅子の上に寝ていた。
「まだ本当の秋の気分にゃなれない。もう少し経たなくっちゃ駄目だね」と答えて彼は膝の上に伏せた厚い書物を取り上げた。
時は食事前の夕方であった。
自分はそれなり書斎を出て下へ行こうとした。
すると兄が急に自分を呼び止めた。
「芳江は下にいるかい」「いるでしょう。先刻裏庭で見たようでした」 自分は北の方の窓を開けて下を覗いて見た。
下には特に彼女のために植木屋が拵えたブランコがあった。
しかし先刻いた芳江の姿は見えなかった。
「おやどこへか行ったかな」と自分が独言を云ってると、彼女の鋭い笑い声が風呂場の中で聞えた。
「ああ湯に這入っています」「直といっしょかい。御母さんとかい」 芳江の笑い声の間にはたしかに、女として深さのあり過ぎる嫂の声が聞えた。
「姉さんです」と自分は答えた。
「だいぶ機嫌が好さそうじゃないか」 自分は思わずこう云った兄の顔を見た。
彼は手に持っていた大きな書物で頭まで隠していたからこの言葉を発した時の表情は少しも見る事ができなかった。
けれども、彼の意味はその調子で自分によく呑み込めた。
自分は少し逡巡した後で、「兄さんは子供をあやす事を知らないから」と云った。
兄の顔はそれでも書物の後に隠れていた。
それを急に取るや否や彼は「おれの綾成す事のできないのは子供ばかりじゃないよ」と云った。
自分は黙って彼の顔を打ち守った。
「おれは自分の子供を綾成す事ができないばかりじゃない。自分の父や母でさえ綾成す技巧を持っていない。それどころか肝心のわが妻さえどうしたら綾成せるかいまだに分別がつかないんだ。この年になるまで学問をした御蔭で、そんな技巧は覚える余暇がなかった。二郎、ある技巧は、人生を幸福にするために、どうしても必要と見えるね」「でも立派な講義さえできりゃ、それですべてを償って余あるから好いでさあ」 自分はこう云って、様子次第、退却しようとした。
ところが兄は中止する気色を見せなかった。
「おれは講義を作るためばかりに生れた人間じゃない。しかし講義を作ったり書物を読んだりする必要があるために肝心の人間らしい心持を人間らしく満足させる事ができなくなってしまったのだ。でなければ先方で満足させてくれる事ができなくなったのだ」 自分は兄の言葉の裏に、彼の周囲を呪うように苦々しいある物を発見した。
自分は何とか答えなければならなかった。
しかし何と答えて好いか見当がつかなかった。
ただ問題が例の嫂事件を再発させては大変だと考えた。
それで卑怯のようではあるが、問答がそこへ流れ入る事を故意に防いだ。
「兄さんが考え過ぎるから、自分でそう思うんですよ。それよりかこの好天気を利用して、今度の日曜ぐらいに、どこかへ遠足でもしようじゃありませんか」 兄はかすかに「うん」と云って慵げに承諾の意を示した。