行人

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八

第 28 章
こんな訳わけで、母ははの一番いちばん軽くかるく見みていたお貞おさださんの結婚けっこんが最初さいしょにきまったのは、彼女かのじょの思わくおもわくとはまるで反対はんたいであった。
けれども早晩そうばん片づけかたづけなければならないお貞おさださんの運命うんめいに一段落いちだんらくをつけるのも、やはり父ちちや母ははの義務ぎむなんだから、彼かれらは岡田おかだの好意こういを喜びよろこびこそすれ、けっしてそれを悪くわるく思うおもうはずはなかった。
彼女かのじょの結婚けっこんが家中かちゅうの問題もんだいになったのもつまりはそのためであった。
お重おしげはこの問題もんだいについてよくお貞おさださんを捕まえつかまえて離さはなさなかった。
お貞おさださんはまたお重じゅうには赤いあかい顔かおも見せみせずに、いろいろの相談そうだんをしたり己れおのれの将来しょうらいをも語り合っかたりあったらしい。
ある日ひ自分じぶんが外そとから帰っかえって来きて、風呂ふろから上っのぼったところへ、お重おしげが、「兄さんあにさん佐野さのさんていったいどんな人ひとなの」と例れいの前後ぜんごを顧慮こりょしない調子ちょうしで聞いきいた。
これは自分じぶんが大阪おおさかから帰っかえってから、もう二に度目どめもしくは三さん度目どめの質問しつもんであった。
「何なんだそんな藪やぶから棒ぼうに。御前ごぜんはいったい軽卒けいそつでいけないよ」 怒りいかりやすいお重おしげは黙っだまって自分じぶんの顔かおを見みていた。
自分じぶんは胡坐こざをかきながら、三沢みさわへやる端書はしがきを書いかいていたが、この様子ようすを見みて、ちょっと筆ふでを留めとめた。
「お重おしげまた怒っどったな。――佐野さのさんはね、この間ま云っいった通りとおり金縁きんぶち眼鏡めがねをかけたお凸とつ額がくさんだよ。それで好いよいじゃないか。何なん遍へん聞いきいたって同じおなじ事ことだ」「お凸とつ額がくや眼鏡めがねは写真しゃしんで充分じゅうぶんだわ。何なんも兄さんあにさんから聞かきかないだって妾めかけ知っしっててよ。眼めがあるじゃありませんか」 彼女かのじょはまだ打ち解けうちとけそうな口くちの利ききき方ほうをしなかった。
自分じぶんは静かしずかに端書はしがきと筆ふでを机つくえの上うえへ置いおいた。
「全体ぜんたい何なんを聞こうきこうと云ういうのだい」「全体ぜんたいあなたは何なんを研究けんきゅうしていらしったんです。佐野さのさんについて」 お重おしげという女おんなは議論ぎろんでもやり出すだすとまるで自分じぶんを同輩どうはいのように見るみる、癖くせだか、親しみしたしみだか、猛烈もうれつな気性きしょうだか、稚気ちきだかがあった。
「佐野さのさんについてって……」と自分じぶんは聞いきいた。
「佐野さのさんの人となりひととなりについてです」 自分じぶんは固よりもとよりお重おしげを馬鹿ばかにしていたが、こういう真面目まじめな質問しつもんになると、腹はらの中なかでどっしりした何物なにものも貯えたくわえていなかった。
自分じぶんはすまして巻煙草まきたばこを吹かしふかし出しだした。
お重おしげは口惜しくやしそうな顔かおをした。
「だって余よまりじゃありませんか、お貞おさださんがあんなに心配しんぱいしているのに」「だって岡田おかだがたしかだって保証ほしょうするんだから、好いよいじゃないか」「兄さんあにさんは岡田おかださんをどのくらい信用しんようしていらっしゃるんです。岡田おかださんはたかが将棋しょうぎの駒こまじゃありませんか」「顔かおは将棋しょうぎの駒こまだって何なんだって……」「顔かおじゃありません。心こころが浮いういてるんです」 自分じぶんは面倒めんどうと癇癪かんしゃくでお重おしげを相手あいてにするのが厭いやになった。
「お重おしげ御前ごぜんそんなにお貞おさださんの事ことを心配しんぱいするより、自分じぶんが早くはやく嫁よめにでも行くいく工夫くふうをした方ほうがよっぽど利口りこうだよ。お父さんおちちさんやお母さんおははさんは、お前おまえが片づいかたづいてくれる方ほうをお貞おさださんの結婚けっこんよりどのくらい助かるたすかると思っおもっているか解りゃわかりゃしない。お貞おさださんの事ことなんかどうでもいいから、早くはやく自分じぶんの身体しんたいの落ちつくおちつくようにして、少しすこし親孝行おやこうこうでも心がけるこころがけるが好いよい」 お重おしげははたして泣きなき出しだした。
自分じぶんはお重おしげと喧嘩けんかをするたびに向うむこうが泣いないてくれないと手て応おうがないようで、何なんだか物もの足らあしらなかった。
自分じぶんは平気へいきで莨たばこを吹かしふかした。
「じゃ兄さんあにさんも早くはやくお嫁よめを貰っもらって独立どくりつしたら好いよいでしょう。その方ほうが妾めかけが結婚けっこんするよりいくら親孝行おやこうこうになるか知れしれやしない。厭いやに嫂ねーさんの肩かたばかり持っもって……」「お前おまえは嫂ねーさんに抵抗ていこうし過ぎるすぎるよ」「当前とうぜんですわ。大兄たいけいさんの妹いもうとですもの」
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