行人

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六

第 16 章
実際じっさいその頃ころの大阪おおさかは暑かっあつかった。
ことに我々われわれの泊っとまっている宿屋やどやは暑かっあつかった。
庭にわが狭いせまいのと塀へいが高いたかいので、日ひの射し込むさしこむ余地よちもなかったが、その代りかわり風かぜの通るとおる隙間すきまにも乏しかっとぼしかった。
ある時じは湿っぽいしめっぽい茶ちゃ座敷ざしきの中なかで、四方しほうから焚火たきびに焙らあぶられているような苦しくるしさがあった。
自分じぶんは夜通しよどおし扇風せんぷう器うつわをかけてぶうぶう鳴らしならしたため、馬鹿ばかな真似まねをして風邪かぜでもひいたらどうすると云っいって母ははから叱らしかられた事ことさえあった。
大阪おおさかを立とうたとうという兄あにの意見いけんに賛成さんせいした自分じぶんは、有馬ありまなら涼しくすずしくって兄あにの頭あたまによかろうと思っおもった。
自分じぶんはこの有名ゆうめいな温泉おんせんをまだ知らしらなかった。
車夫しゃふが梶棒かじぼうへ綱つなを付けつけて、その綱つなの先さきをまた犬いぬに付けつけて坂路はんろを上るのぼるのだそうだが、暑いあついので犬いぬがともすると渓けい河かわの清水しみずを飲もうのもうとするのを、車夫しゃふが怒っどって竹たけの棒ぼうでむやみに打だ擲くたたくから、犬いぬがひんひん苦しくるしがりながら俥くるまを引くひくんだという話はなしを、かつて聞いきいたまましゃべった。
「厭いやだねそんな俥くるまに乗るのるのは、可哀想かわいそうで」と母ははが眉まゆをひそめた。
「なぜまた水みずを飲まのませないんだろう。俥くるまが遅れるおくれるからかね」と兄あにが聞いきいた。
「途中とちゅうで水みずを飲むのむと疲れつかれて役やくに立たたたないからだそうです」と自分じぶんが答えこたえた。
「へえー、なぜ」と今度こんどは嫂ねーが不思議ふしぎそうに聞いきいたが、それには自分じぶんも答えるこたえる事ことができなかった。
有馬ありま行こうは犬いぬのせいでもなかったろうけれども、とうとう立たて消しょうになった。
そうして意外いがいにも和歌わかの浦うら見物けんぶつが兄あにの口くちから発議はつぎされた。
これは自分じぶんもかねてから見みたいと思っおもっていた名所めいしょであった。
母ははも子供こどもの時じからその名なに親しみしたしみがあるとかで、すぐ同意どういした。
嫂ねーだけはどこでも構わかまわないという風かぜに見えみえた。
兄あには学者がくしゃであった。
また見識けんしき家いえであった。
その上うえ詩人しじんらしい純粋じゅんすいな気質きしつを持っもって生れうまれた好いよい男おとこであった。
けれども長男ちょうなんだけにどこかわがままなところを具えそなえていた。
自分じぶんから云ういうと、普通ふつうの長男ちょうなんよりは、だいぶ甘やかさあまやかされて育っそだったとしか見えみえなかった。
自分じぶんばかりではない、母ははや嫂ねーに対したいしても、機嫌きげんの好いよい時じは馬鹿ばかに好いよいが、いったん旋毛せんもうが曲りまがり出すだすと、幾いく日ひでも苦いにがい顔かおをして、わざと口くちを利かりかずにいた。
それで他人たにんの前まえへ出るでると、また全くまったく人間にんげんが変っかわったように、たいていな事ことがあっても滅多めったに紳士しんしの態度たいどを崩さくずさない、円満えんまんな好よしみ侶伴りょはんであった。
だから彼かれの朋友ほうゆうはことごとく彼かれを穏かおだやかな好いよい人物じんぶつだと信じしんじていた。
父ちちや母はははその評判ひょうばんを聞くきくたびに案外あんがいな顔かおをした。
けれどもやっぱり自分じぶんの子こだと見えみえて、どこか嬉しうれしそうな様子ようすが見えみえた。
兄あにと衝突しょうとつしている時じにこんな評判ひょうばんでも耳みみに入ろうはいろうものなら、自分じぶんはむやみに腹はらが立ったった。
一々いちいちその人ひとの宅たくまで出かけでかけて行っいって、彼かれらの誤解ごかいを訂正ていせいしてやりたいような気きさえ起っおこった。
和歌わかの浦うら行こうに母ははがすぐ賛成さんせいしたのも、実じつは彼女かのじょが兄あにの気性きしょうをよく呑み込んのみこんでいるからだろうと自分じぶんは思っおもった。
母ははは長いながい間まわが子この我われを助けたすけて育てるそだてるようにした結果けっかとして、今いまでは何事なにごとによらずその我われの前まえに跪くひざまずく運命うんめいを甘んじあまんじなければならない位地いちにあった。
自分じぶんは便所べんじょに立ったった時じ、手水鉢ちょうずばちの傍そばにぼんやり立ったっていた嫂ねーを見付けみつけて、「姉さんあねさんどうです近頃ちかごろは。兄さんあにさんの機嫌きげんは好いよい方ほうなんですか悪いわるい方ほうなんですか」と聞いきいた。
嫂ねーは「相そう変らかわらずですわ」とただ一口ひとくち答えこたえただけであった。
嫂ねーはそれでも淋しいさびしい頬ほおに片かた靨えくぼを寄せよせて見せみせた。
彼女かのじょは淋しいさびしい色沢しきたくの頬ほおをもっていた。
それからその真中まなかに淋しいさびしい片かた靨えくぼをもっていた。
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