六
第 6 章
お兼さんは黒い盆の上に載せた平野水と洋盃を自分の前に置いて、「いかがでございますか」と聞いた。
自分は「ありがとう」と答えて、盆を引き寄せようとした。
お兼さんは「いえ私が」と云って急に罎を取り上げた。
自分はこの時黙ってお兼さんの白い手ばかり見ていた。
その手には昨夕気がつかなかった指環が一つ光っていた。
自分が洋盃を取上げて咽喉を潤した時、お兼さんは帯の間から一枚の葉書を取り出した。
「先ほどお出かけになった後で」と云いかけて、にやにや笑っている。
自分はその表面に三沢の二字を認めた。
「とうとう参りましたね。御待かねの……」 自分は微笑しながら、すぐ裏を返して見た。
「一両日後れるかも知れぬ」 葉書に大きく書いた文字はただこれだけであった。
「まるで電報のようでございますね」「それであなた笑ってたんですか」「そう云う訳でもございませんけれども、何だかあんまり……」 お兼さんはそこで黙ってしまった。
自分はお兼さんをもっと笑わせたかった。
「あんまり、どうしました」「あんまりもったいないようですから」 お兼さんのお父さんというのは大変緻密な人で、お兼さんの所へ手紙を寄こすにも、たいていは葉書で用を弁じている代りに蠅の頭のような字を十五行も並べて来るという話しを、お兼さんは面白そうにした。
自分は三沢の事を全く忘れて、ただ前にいるお兼さんを的に、さまざまの事を尋ねたり聞いたりした。
「奥さん、子供が欲しかありませんか。こうやって、一人で留守をしていると退屈するでしょう」「そうでもございませんわ。私兄弟の多い家に生れて大変苦労して育ったせいか、子供ほど親を意地見るものはないと思っておりますから」「だって一人や二人はいいでしょう。岡田君は子供がないと淋しくっていけないって云ってましたよ」 お兼さんは何にも答えずに窓の外の方を眺めていた。
顔を元へ戻しても、自分を見ずに、畳の上にある平野水の罎を見ていた。
自分は何にも気がつかなかった。
それでまた「奥さんはなぜ子供ができないんでしょう」と聞いた。
するとお兼さんは急に赤い顔をした。
自分はただ心やすだてで云ったことが、はなはだ面白くない結果を引き起したのを後悔した。
けれどもどうする訳にも行かなかった。
その時はただお兼さんに気の毒をしたという心だけで、お兼さんの赤くなった意味を知ろうなどとは夢にも思わなかった。
自分はこの居苦しくまた立苦しくなったように見える若い細君を、どうともして救わなければならなかった。
それには是非共話頭を転ずる必要があった。
自分はかねてからさほど重きを置いていなかった岡田のいわゆる「例の一件」をとうとう持ち出した。
お兼さんはすぐ元の態度を回復した。
けれども夫に責任の過半を譲るつもりか、けっして多くを語らなかった。
自分もそう根掘り葉掘り聞きもしなかった。