三
第 13 章
自分はその夕方宿の払を済まして母や兄といっしょになった。
三人は少し夕飯が後れたと見えて、膳を控えたまま楊枝を使っていた。
自分は彼らを散歩に連れ出そうと試みた。
母は疲れたと云って応じなかった。
兄は面倒らしかった。
嫂だけには行きたい様子が見えた。
「今夜は御止しよ」と母が留めた。
兄は寝転びながら話をした。
そうして口では大阪を知ってるような事を云った。
けれどもよく聞いて見ると、知っているのは天王寺だの中の島だの千日前だのという名前ばかりで地理上の知識になると、まるで夢のように散漫極まるものであった。
もっとも「大坂城の石垣の石は実に大きかった」とか、「天王寺の塔の上へ登って下を見たら眼が眩んだ」とか断片的の光景は実際覚えているらしかった。
そのうちで一番面白く自分の耳に響いたのは彼の昔泊ったという宿屋の夜の景色であった。
「細い通りの角で、欄干の所へ出ると柳が見えた。家が隙間なく並んでいる割には閑静で、窓から眺められる長い橋も画のように趣があった。その上を通る車の音も愉快に響いた。もっとも宿そのものは不親切で汚なくって困ったが……」「いったいそれは大阪のどこなの」と嫂が聞いたが、兄は全く知らなかった。
方角さえ分らないと答えた。
これが兄の特色であった。
彼は事件の断面を驚くばかり鮮かに覚えている代りに、場所の名や年月を全く忘れてしまう癖があった。
それで彼は平気でいた。
「どこだか解らなくっちゃつまらないわね」と嫂がまた云った。
兄と嫂とはこんなところでよく喰い違った。
兄の機嫌の悪くない時はそれでも済むが、少しの具合で事が面倒になる例も稀ではなかった。
こういう消息に通じた母は、「どこでも構わないが、それだけじゃないはずだったのにね。後を御話しよ」と云った。
兄は「御母さんにも直にもつまらない事ですよ」と断って、「二郎そこの二階に泊ったとき面白いと思ったのはね」と自分に話し掛けた。
自分は固より兄の話を一人で聞くべき責任を引受けた。
「どうしました」「夜になって一寝入して眼が醒めると、明かるい月が出て、その月が青い柳を照していた。それを寝ながら見ているとね、下の方で、急にやっという掛声が聞こえた。あたりは案外静まり返っているので、その掛声がことさら強く聞こえたんだろう、おれはすぐ起きて欄干の傍まで出て下を覗いた。すると向に見える柳の下で、真裸な男が三人代る代る大な沢庵石の持ち上げ競をしていた。やっと云うのは両手へ力を入れて差し上げる時の声なんだよ。それを三人とも夢中になって熱心にやっていたが、熱心なせいか、誰も一口も物を云わない。おれは明らかな月影に黙って動く裸体の人影を見て、妙に不思議な心持がした。するとそのうちの一人が細長い天秤棒のようなものをぐるりぐるりと廻し始めた……」「何だか水滸伝のような趣じゃありませんか」「その時からしてがすでに縹緲たるものさ。今日になって回顧するとまるで夢のようだ」 兄はこんな事を回想するのが好であった。
そうしてそれは母にも嫂にも通じない、ただ父と自分だけに解る趣であった。
「その時大阪で面白いと思ったのはただそれぎりだが、何だかそんな連想を持って来て見ると、いっこう大阪らしい気がしないね」 自分は三沢のいた病院の三階から見下される狭い綺麗な通を思い出した。
そうして兄の見た棒使や力持はあんな町内にいる若い衆じゃなかろうかと想像した。
岡田夫婦は約のごとくその晩また尋ねて来た。