行人

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四

第 34 章
自分じぶんはいつか手てを出しだして火鉢ひばちへあたっていた。
その火鉢ひばちは幾分いくぶんか背せを高くたかくかつ分厚ぶあつに拵えこしらえたものであったけれども、大きさおおきさから云ういうと、普通ふつうの箱ばこ火鉢ひばちと同じおなじ事ことなので二人ふたり向い合せむかいあわせに手てを翳すかざすと、顔かおと顔かおとの距離きょりがあまり近きん過ぎるすぎるくらいの位地いちにあった。
嫂ねーは席せきに着いついた初はつから寒いさむいといって、猫背ねこぜの人ひとのように、心持こころもち胸むねから上うえを前まえの方ほうに屈めかがめて坐っすわっていた。
彼女かのじょのこの姿勢しせいのうちには女おんならしいという以外いがいに何なんの非難ひなんも加えくわえようがなかった。
けれどもその結果けっかとして自分じぶんは勢いいきおい後あとへ反り返るそりかえる気味きみで座ざを構えかまえなければならなくなった。
それですら自分じぶんは彼女かのじょの富士額ふじびたいをこれほど近くほどちかくかつ長くながく見つめみつめた事ことはなかった。
自分じぶんは彼女かのじょの蒼白いあおじろい頬ほおの色いろを※のごとく眩しくまぶしく思っおもった。
自分じぶんはこういう比較的ひかくてき窮屈きゅうくつな態度たいどの下したに、彼女かのじょから突如とつじょとして彼女かのじょと兄あにの関係かんけいが、自分じぶんが宅たくを出でた後あともただ好くよくない一方いっぽうに進んすすんで行くいくだけであるという厭いやな事実じじつを聞かさきかされた。
彼女かのじょはこれまでこちらから問いかけといかけなければ、けっして兄あにの事ことについて口くちを開かひらかない主義しゅぎを取っとっていた。
たといこちらから問いかけといかけても「相そう変らかわらずですわ」とか、「何なん心配しんぱいするほどの事ことじゃなくってよ」とか答えこたえてただ微笑びしょうするのが常つねであった。
それをまるで逆さまさかさまにして、自分じぶんの最ももっとも心苦しくこころぐるしく思っおもっている問題もんだいの真相しんそうを、向うむこうから積極的せっきょくてきにこちらへ吐きはきかけたのだから、卑怯ひきょうな自分じぶんは不意ふいに硫酸りゅうさんを浴せよくせられたようにひりひりとした。
しかしいったん緒いとぐちを見出しみだした時じ、自分じぶんはできるだけ根掘りねほり葉掘りはほり聞こうきこうとした。
けれども言葉ことばの浪費ろうひを忌むいむ彼女かのじょは、そうこちらの思いおもい通りとおりにはさせなかった。
彼女かのじょの口くちにするところは重じゅうに彼かれら夫婦間ふうふかんに横たわるよこたわる気き不味ふみさの閃せん電でんに過ぎすぎなかった。
そうして気き不味ふみさの近因きんいんについてはついに一言ひとことも口くちにしなかった。
それを聞くきくと、彼女かのじょはただ「なぜだか分らわからないのよ」というだけであった。
実際じっさい彼女かのじょにはそれが分らわからないのかも知れしれなかった。
また分っわかっている癖くせにわざと話さはなさないのかも知れしれなかった。
「どうせ妾めかけがこんな馬鹿ばかに生れうまれたんだから仕方しかたがないわ。いくらどうしたってなるようになるよりほかに道みちはないんだから。そう思っおもって諦たいらめていればそれまでよ」 彼女かのじょは初めはじめから運命うんめいなら畏れおそれないという宗教しゅうきょう心こころを、自分じぶん一人ひとりで持っもって生れうまれた女おんならしかった。
その代りかわり他ほかの運命うんめいも畏れおそれないという性質せいしつにも見えみえた。
「男おとこは厭いやになりさえすれば二郎じろうさん見みたいにどこへでも飛んとんで行けるいけるけれども、女おんなはそうは行きいきませんから。妾めかけなんかちょうど親おやの手てで植付けうえつけられた鉢植はちうえのようなもので一遍いちぺん植えうえられたが最後さいご、誰だれか来きて動かしうごかしてくれない以上いじょう、とても動けうごけやしません。じっとしているだけです。立枯たちがれになるまでじっとしているよりほかに仕方しかたがないんですもの」 自分じぶんは気の毒きのどくそうに見えるみえるこの訴えうったえの裏面りめんに、測るはかるべからざる女性じょせいの強さつよさを電気でんきのように感じかんじた。
そうしてこの強さつよさが兄あにに対したいしてどう働くはたらくかに思い及んおもいおよんだ時じ、思わおもわずひやりとした。
「兄さんあにさんはただ機嫌きげんが悪いわるいだけなんでしょうね。ほかにどこも変っかわったところはありませんか」「そうね。そりゃ何なんとも云えいえないわ。人間にんげんだからいつどんな病気びょうきに罹らかからないとも限らかぎらないから」 彼女かのじょはやがて帯おびの間まから小さいちいさい女持おんなもちの時計とけいを出しだしてそれを眺めながめた。
室むろが静かしずかなのでその蓋ふたを締めるしめる音おとが意外いがいに強くつよく耳みみに鳴っなった。
あたかも穏かおだやかな皮膚ひふの面めんに鋭いするどい針はりの先さきが触れふれたようであった。
「もう帰りかえりましょう。――二郎じろうさん御ご迷惑めいわくでしたろうこんな厭いやな話はなしを聞かきかせて。妾めかけ今までいままで誰だれにもした事ことはないのよ、こんな事こと。今日きょう自分じぶんの宅たくへ行っいってさえ黙っだまってるくらいですもの」 上り口あがりぐちに待っまっていた車夫しゃふの提灯ちょうちんには彼女かのじょの里方さとかたの定紋じょうもんが付いついていた。
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