行人

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六

第 26 章
兄あにの顔かおには孤独こどくの淋しみさびしみが広いひろい額がくを伝わっつたわって瘠けた頬ほおに漲っみなぎっていた。
「二郎じろうおれは昔むかしから自然しぜんが好きすきだが、つまり人間にんげんと合わあわないので、やむをえず自然しぜんの方ほうに心こころを移すうつす訳わけになるんだろうかな」 自分じぶんは兄あにが気の毒きのどくになった。
「そんな事ことはないでしょう」と一口ひとくちに打ち消しうちけして見みた。
けれどもそれで兄あにの満足まんぞくを買うかう訳わけには行かいかなかった。
自分じぶんはすかさずまたこう云っいった。
「やっぱり家いえの血統けっとうにそう云ういう傾きかたむきがあるんですよ。御ご父さんちちさんは無論むろん、僕ぼくでも兄さんあにさんの知っしっていらっしゃる通りとおりですし、それにね、あのお重おしげがまた不思議ふしぎと、花はなや木きが好きすきで、今いまじゃ山水画さんすいがなどを見るみると感かんに堪えこらえたような顔かおをして時々ときどき眺めながめている事ことがありますよ」 自分じぶんはなるべく兄あにを慰めようなぐさめようとして、いろいろな話はなしをしていた。
そこへお貞おさださんが下したから夕食ゆうしょくの報知ほうちに来きた。
自分じぶんは彼女かのじょに、「お貞おさださんは近頃ちかごろ嬉しいうれしいと見えみえて妙みょうににこにこしていますね」と云っいった。
自分じぶんが大阪おおさかから帰るかえるや否いなや、お貞おさださんは暑いあつい下女げじょ室むろの隅すみに引込んひきこんで容易よういに顔かおを出さださなかった。
それが大阪おおさかから出しだしたみんなの合併がっぺい絵葉書えはがきの中なかへ、自分じぶんがお貞おさださん宛ずつに「おめでとう」と書いかいた五字ごじから起っおこったのだと知れしれて家内かない中なか大笑いおおわらいをした。
そのためか一いちつ家いえにいながらお貞おさださんは変へんに自分じぶんを回避かいひした。
したがって顔かおを合わせるあわせると自分じぶんはことさらに何なんか云いいいたくなった。
「お貞おさださん何なんが嬉しいうれしいんですか」と自分じぶんは面白おもしろ半分はんぶん追窮ついきゅうするように聞いきいた。
お貞おさださんは手てを突いついたなり耳みみまで赤くあかくなった。
兄あには籐椅子とういすの上うえからお貞おさださんを見みて、「お貞おさださん、結婚けっこんの話はなしで顔かおを赤くあかくするうちが女おんなの花はなだよ。行っいって見るみるとね、結婚けっこんは顔かおを赤くあかくするほど嬉しいうれしいものでもなければ、恥ずかしいはずかしいものでもないよ。それどころか、結婚けっこんをして一人ひとりの人間にんげんが二人ふたりになると、一人ひとりでいた時じよりも人間にんげんの品格ひんかくが堕落だらくする場合ばあいが多いおおい。恐ろしいおそろしい目めに会うあう事ことさえある。まあ用心ようじんが肝心かんじんだ」と云っいった。
お貞おさださんには兄あにの意味いみが全くまったく通じつうじなかったらしい。
何なんと答えこたえて好いよいか解らわからないので、むしろ途方とほうに暮れくれた顔かおをしながら涙なみだを眼めにいっぱい溜めためていた。
兄あにはそれを見みて、「お貞おさださん余計よけいな事ことを話しはなして御ご気の毒きのどくだったね。今いまのは冗談じょうだんだよ。二郎じろうのような向うむこう見みずに云っいって聞かきかせる事ことを、ついお貞おさださん見みたいな優しいやさしい娘むすめさんに云っいっちまったんだ。全くまったくの間ま違いだ。勘弁かんべんしてくれたまえ。今夜こんやは御馳走ごちそうがあるかね。二郎じろうそれじゃ御ご膳ぜんを食べたべに行こういこう」と云っいった。
お貞おさださんは兄あにが籐椅子とういすから立ち上るたちのぼるのを見るみるや否いなや、すぐ腰こしを立てたてて一足先いちそくさきへ階子段はしごだんをとんとんと下りくだりて行っいった。
自分じぶんは兄あにと肩かたを比べくらべて室むろを出でにかかった。
その時じ兄あには自分じぶんを顧みかえりみて「二郎じろう、この間まの問題もんだいもそれぎりになっていたね。つい書物しょもつや講義こうぎの事ことが忙しいいそがしいものだから、聞こうきこう聞こうきこうと思いおもいながら、ついそのままにしておいてすまない。そのうちゆっくり聴くきくつもりだから、どうか話しはなしてくれ」と云っいった。
自分じぶんは「この間まの問題もんだいとは何なんですか」と空惚けそらとぼけたかった。
けれどもそんな勇気ゆうきはこの際さい出るでる余裕よゆうがなかったから、まず体裁ていさいの好いよい挨拶あいさつだけをしておいた。
「こう時間じかんが経つたつと、何なんだか気きの抜けぬけた麦酒びーる見みたようで、僕ぼくには話しはなし悪くわるくなってしまいましたよ。しかしせっかくのお約束やくそくだから聴くきくとおっしゃればやらん事こともありませんがね。しかし兄さんあにさんのいわゆる生き甲斐いきがいのある秋あきにもなったものだから、そんなつまらない事ことより、まず第だい一いちに遠足えんそくでもしようじゃありませんか」「うん遠足えんそくも好かろうよかろうが……」 二人ふたりはこんな話はなしを交換こうかんしながら、食卓しょくたくの据えすえてある下したの室むろに入っはいった。
そうしてそこに芳江よしえを傍そばに引きつけひきつけている嫂ねーを見出しみだした。
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