九
第 39 章
食事中父は機嫌よく話した。
しかし用談らしい改まったものは、珈琲を飲むまでついに彼の口に上らなかった。
表へ出た時、彼は始めて気のついたらしい顔をして、向う側の白い大きな建物を眺めた。
「やあいつの間にか勧工場が活動に変化しているね。ちっとも知らなかった。いつ変ったんだろう」 白い洋館の正面に金字で書いてある看板の周囲は、無数の旗の影で安価に彩られていた。
自分は職業柄、さも仰山らしく東京の真中に立っているこの粗末な建築を、情ない眼つきで見た。
「どうも驚くね世の中の早く変るには。そう思うとおれなぞもいつ死ぬか分らない」 好い日曜なのと時刻が時刻なので、往来は今が人の出盛りであった。
華やかな色と、陽気な肉と、浮いた足並の簇がるなかでこう云った父の言葉は、妙に周囲と調和を欠いていた。
自分は番町と下宿と方角の岐れる所で、父に別れようとした。
「用があるのかい」「ええ少し……」「まあ好いから宅までおいで」 自分は帽子の鍔へ手をかけたまま躊躇した。
「いいからおいでよ。自分の宅じゃないか。たまには来るものだ」 自分はきまりの悪い顔をして父の後に随がった。
父はすぐ後をふり向いた。
「宅じゃ近頃御前が来ないので、みんな不思議がってるんだぜ。二郎はどうしたんだろうって。遠慮が無沙汰というが、御前のは無遠慮が無沙汰になるんだからなお悪い」「そう云う訳でもありませんが。……」「何しろ来るが好い。言訳は宅へ行って、御母さんにたんとするさ。おれはただ引っ張って行く役なんだから」 父はずんずん歩いた。
自分は腹の中であたかも丁年未満の若者のような自分の態度を苦笑しながら、黙って父と歩調を共にした。
その日はこの間とは打って変って、青春の第一日ともいうべき暖かい光を、南へ廻った太陽が自分達の上へ投げかけていた。
獺の襟をつけた重いとんびを纏った父も、少し厚手の外套を着た自分も、先刻からの運動で、少し温気に蒸される気味であった。
その春の半日を自分は父の御蔭で、珍らしく方々引っ張り廻された。
この老いた父と、こう肩を並べて歩いた例は近頃とんとなかった。
この老いた父とこれから先もう何度こうして歩けるものかそれも分らなかった。
自分は鈍い不安のうちに、微かな嬉しさと、その嬉しさに伴う一種のはかなさとを感じた。
そうして不意に自分の胸を襲ったこの感傷的な気分に、なるべく己れを任せるような心持で足を運ばせた。
「御母さんは驚いているよ。御彼岸に御萩を持たせてやっても、返事も寄こさなければ、重箱を返しもしないって。ちょっとでも好いから来ればいいのさ。来られない訳が急にできた訳でもあるまいし」 自分は何とも返事をしなかった。
「今日は久しぶりに御前を伴れて行って皆なに会わせようと思って。――御前一郎に近頃会った事はあるまい」「ええ実は下宿をする時挨拶をしたぎりです」「それ見ろ。ところが今日はあいにく一郎が留守だがね。御父さんが上野の披露会の事を忘れていたのが悪かったけれども」 自分は父に伴れられて、とうとう番町の門を潜った。