七
第 27 章
食卓の上で父と母は偶然またお貞さんの結婚問題を話頭に上せた。
母は兼て白縮緬を織屋から買っておいたから、それを紋付に染めようと思っているなどと云った。
お貞さんはその時みんなの後に坐って給仕をしていたが、急に黒塗の盆をおはちの上へ置いたなり席を立ってしまった。
自分は彼女の後姿を見て笑い出した。
兄は反対に苦い顔をした。
「二郎お前がむやみに調戯うからいけない。ああ云う乙女にはもう少しデリカシーの籠った言葉を使ってやらなくっては」「二郎はまるで堂摺連と同じ事だ」と父が笑うようなまた窘なめるような句調で云った。
母だけは一人不思議な顔をしていた。
「なに二郎がね。お貞さんの顔さえ見ればおめでとうだの嬉しい事がありそうだのって、いろいろの事を云うから、向うでも恥かしがるんです。今も二階で顔を赤くさせたばかりのところだもんだから、すぐ逃げ出したんです。お貞さんは生れつきからして直とはまるで違ってるんだから、こっちでもそのつもりで注意して取り扱ってやらないといけません……」 兄の説明を聞いた母は始めてなるほどと云ったように苦笑した。
もう食事を済ましていた嫂は、わざと自分の顔を見て変な眼遣をした。
それが自分には一種の相図のごとく見えた。
自分は父から評された通りだいぶ堂摺連の傾きを持っていたが、この時は父や母に憚って、嫂の相図を返す気は毫も起らなかった。
嫂は無言のまますっと立った、室の出口でちょっと振り返って芳江を手招きした。
芳江もすぐ立った。
「おや今日はお菓子を頂かないで行くの」とお重が聞いた。
芳江はそこに立ったまま、どうしたものだろうかと思案する様子に見えた。
嫂は「おや芳江さん来ないの」とさもおとなしやかに云って廊下の外へ出た。
今まで躊躇していた芳江は、嫂の姿が見えなくなるや否や急に意を決したもののごとく、ばたばたとその後を追駈けた。
お重は彼女の後姿をさも忌々しそうに見送った。
父と母は厳格な顔をして己れの皿の中を見つめていた。
お重は兄を筋違いに見た。
けれども兄は遠くの方をぼんやり眺めていた。
もっとも彼の眉根には薄く八の字が描かれていた。
「兄さん、そのプッジングを妾にちょうだい。ね、好いでしょう」とお重が兄に云った。
兄は無言のまま皿をお重の方に押やった。
お重も無言のままそれを匙で突ついたが、自分から見ると、食べたくない物を業腹で食べているとしか思われなかった。
兄が席を立って書斎に入ったのはそれからしてしばらく後の事であった。
自分は耳を峙てて彼の上靴が静に階段を上って行く音を聞いた。
やがて上の方で書斎の戸がどたんと閉まる声がして、後は静になった。
東京へ帰ってから自分はこんな光景をしばしば目撃した。
父もそこには気がついているらしかった。
けれども一番心配そうなのは母であった。
彼女は嫂の態度を見破って、かつ容赦の色を見せないお重を、一日も早く片づけて若い女同士の葛藤を避けたい気色を色にも顔にも挙動にも現した。
次にはなるべく早く嫁を持たして、兄夫婦の間から自分という厄介ものを抜き去りたかった。
けれども複雑な世の中は、そう母の思うように旨く回転してくれなかった。
自分は相変らず、のらくらしていた。
お重はますます嫂を敵のように振舞った。
不思議に彼女は芳江を愛した。
けれどもそれは嫂のいない留守に限られていた。
芳江も嫂のいない時ばかりお重に縋りついた。
兄の額には学者らしい皺がだんだん深く刻まれて来た。
彼はますます書物と思索の中に沈んで行った。