行人

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七

第 17 章
自分じぶんは立つたつ前まえに岡田おかだに借りかりた金きんの片かたをつけて行きいきたかった。
もっとも彼かれに話はなしをしさえすれば、東京とうきょうへ帰っかえってからでも構わかまわないとは思っおもったけれども、ああいう人ひとの金きんはなるべく早くはやく返しかえしておいた方ほうが、こっちの心持こころもちがいいという考えかんがえがあった。
それで誰だれも傍そばにいない折おりを見計らっみはからって、母ははにどうかしてくれと頼んたのんだ。
母ははは兄あにを大事だいじにするだけあって、無論むろん彼かれを心こころから愛しあいしていた。
けれども長男ちょうなんという訳わけか、また気むずかしいきむずかしいというせいか、どこかに遠慮えんりょがあるらしかった。
ちょっとの事ことを注意ちゅういするにしても、なるべく気きに障らさわらないように、始めはじめから気きを置いおいてかかった。
そこへ行くいくと自分じぶんはまるで子供こども同様どうようの待遇たいぐうを母ははから受けうけていた。
「二郎じろうそんな法ほうがあるのかい」などと頭ごなしあたまごなしにやっつけられた。
その代りかわりまた兄あに以上いじょうに可愛かわいがられもした。
小遣こづかいなどは兄あににないしょでよく貰っもらった覚さとしがある。
父ちちの着物きものなどもいつの間まにか自分じぶんのに仕立したて直しなおしてある事ことは珍らしくめずらしくなかった。
こういう母ははの仕打しうちが、例れいの兄あににはまたすこぶる気きに入らはいらなかった。
些細ささいな事ことから兄あにはよく機嫌きげんを悪くわるくした。
そうして明るいあかるい家いえの中なかに陰気いんきな空気くうきを漲ぎらみなぎらした。
母ははは眉まゆをひそめて、「また一郎いちろうの病気びょうきが始まっはじまったよ」と自分じぶんに時々ときどき私語しごいた。
自分じぶんは母ははから腹心ふくしんの郎党ろうとうとして取扱わとりあつかわれるのが嬉しさうれしさに、「癖くせなんだから、放っはなっておおきなさい」ぐらい云っいって澄ましすましていた時代じだいもあった。
兄あにの性質せいしつが気むずかしいきむずかしいばかりでなく、大小だいしょうとなく影かげでこそこそ何なんかやられるのを忌むいむ正義まさよしの念ねんから出るでるのだという事ことを後あとから知っしって以来いらい、自分じぶんは彼かれに対したいしてこんな軽薄けいはくな批評ひひょうを加えるくわえるのを恥ずるはずるようになった。
けれども表ひょう向むかい兄あにの承諾しょうだくを求めるもとめると、とうてい行わおこなわれにくい用件ようけんが多いおおいので、自分じぶんはつい機会きかいを見みては母ははの懐ふところに一人ひとり抱かかかえかれようとした。
母ははは自分じぶんが三沢みさわのために岡田おかだから金きんを借りかりた顛末てんまつを聞いきいて驚いおどろいた顔かおをした。
「そんな女おんなのためにお金おかねを使うつかう訳わけがないじゃないか、三沢みさわさんだって。馬鹿ばからしい」と云っいった。
「だけど、そこには三沢みさわも義理ぎりがあるんだから」と自分じぶんは弁解べんかいした。
「義理ぎり義理ぎりって、御ご母さんははさんには解らわからないよ、お前おまえのいう事ことは。気の毒きのどくなら、手ぶらてぶらで見舞みまいに行くいくだけの事ことじゃないか。もし手ぶらてぶらできまりが悪けれわるければ、菓子折かしおりの一いちつも持っもって行きゃいきゃあたくさんだね」 自分じぶんはしばらく黙っだまっていた。
「よし三沢みさわさんにそれだけの義理ぎりがあったにしたところでさ。何なんもお前おまえが岡田おかだなんぞからそれを借りかりて上げるあげるだけの義理ぎりはなかろうじゃないか」「じゃよござんす」と自分じぶんは答えこたえた。
そうして立ったって下したへ行こういこうとした。
兄あには湯ゆに入っはいっていた。
嫂ねーは小さいちいさい下したの座敷ざしきを借りかりて髪かみを結わゆわしていた。
座敷ざしきには母ははよりほかにいなかった。
「まあお待ちまちよ」と母ははが呼びよび留めとめた。
「何なんも出しだして上げあげないと云っいってやしないじゃないか」 母ははの言葉ことばには兄あに一人ひとりでさえたくさんなところへ、何なんの必要ひつようがあって、自分じぶんまでこの年寄としよりを苛めるいじめるかと云わいわぬばかりの心細こころぼそさが籠っこもっていた。
自分じぶんは母ははのいう通りとおり元もとの席せきに着いついたが、気の毒きのどくでちょっと顔かおを上げあげ得とくなかった。
そうしてこの無む恰好かっこな態度たいどで、さも子供こどもらしく母ははから要るいるだけの金子かねこを受取っうけとった。
母ははが一段いちだん声こえを落しおとして、いつものように、「兄さんあにさんにはないしょだよ」と云っいった時じ、自分じぶんは不意ふいに名状めいじょうしがたい不愉快ふゆかいに襲わおそわれた。
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