行人

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八

第 38 章
その日ひ自分じぶんは父ちちに伴れつれられて上野うえのの表慶ひょうけい館やかたを見みた。
今までいままで彼かれに随いしたがいてそういう所ところへ行っいった事ことは幾度いくどとなくあったが、まさかそのために彼かれがわざわざ下宿げしゅくへ誘いさそいに来ようこようとは思えおもえなかった。
自分じぶんは父ちちと共ともに下宿げしゅくの門もんを出でて上野うえのへ向うむこう途々とも、今いまに彼かれの口くちから何なんか本当ほんとうの用事ようじが出るでるに違いないと予期よきしていた。
しかしそれをこっちから聞くきく勇気ゆうきはとても起らおこらなかった。
兄あにの名なも嫂ねーの名なも彼かれの前まえには封じふうじられた言葉ことばのごとく、自分じぶんの声帯せいたいを固くかたく括りくくりつけた。
表慶ひょうけい館やかたで彼かれは利休りきゅうの手紙てがみの前まえへ立ったって、何々なになにせしめ候こう……かね、といった風かぜに、解らわからない字じを無理むりにぽつぽつ読んよんでいた。
御物ぎょぶつの王おう羲之ぎしの書しょを見みた時じ、彼かれは「ふうんなるほど」と感心かんしんしていた。
その書しょがまた自分じぶんには至っていたってつまらなく見えるみえるので、「大いにおおいに人ひと意いを強うつようするに足るたるものだ」と云っいったら、「なぜ」と彼かれは反問はんもんした。
二人ふたりは二に階かいの広間ひろまへ入っはいった。
するとそこに応挙おうきょの絵えがずらりと十じゅう幅はばばかりかけてあった。
それが不思議ふしぎにも続きものつづきもので、右みぎの端はしの巌いわの上うえに立ったっている三さん羽はねの鶴つると、左ひだりの隅すみに翼つばさをひろげて飛んとんでいる一いち羽はねのほかは、距離きょりにしたら約やく二三にさん間まの間まことごとく波なみで埋っうまっていた。
「唐紙とうしに貼っはってあったのを、剥がしはがして懸物かけものにしたのだね」 一いち幅はばごとに残っのこっている開閉かいへいの手摺てすりの痕あとと、引手ひきての取れとれた部分ぶぶんの白いしろい型かたを、父ちちは自分じぶんに指し示しさししめした。
自分じぶんは広間ひろまの真中まなかに立ったってこの雄大ゆうだいな画がを描いえがいた昔むかしの日本人にっぽんにんを尊敬そんけいする事ことを、父ちちの御蔭みかげでようやく知っしった。
二に階かいから下りくだりた時じ、父ちちは玉たまだの高麗こま焼やけだのの講釈こうしゃくをした。
柿右衛門かきえもんと云ういう名前なまえも聞かさきかされた。
一番いちばん下らしたらないのはのんこうの茶碗ちゃわんであった。
疲れつかれた二人ふたりはついに表慶ひょうけい館やかたを出でた。
館やかたの前まえを掩うおおうように聳えそびえている蒼黒いあおぐろい一いち本ほんの松まつの木きを右みぎに見みて、綺麗きれいな小路こうじをのそのそ歩いあるいた。
それでも肝心かんじんの用事ようじについて、父ちちは一言ひとことも云わいわなかった。
「もうじき花はなが咲くさくね」「咲きさきますね」 二人ふたりはまたのそのそ東照宮とうしょうぐうの前まえまで来きた。
「精養軒せいようけんで飯めしでも食うくうか」 時計とけいはもう一いち時半じはんであった。
小さいちいさい時分じぶんから父ちちに伴れつれられて外出がいしゅつするたびに、きっとどこかで物ものを食うくう癖くせのついた自分じぶんは、成人せいじんの後あとも御供ごくと御馳走ごちそうを引き離しひきはなしては考えかんがえていなかった。
けれどもその日ひはなぜだか早くはやく父ちちに別れわかれたかった。
行きがけいきがけに気きのつかなかったその精養軒せいようけんの入口いりぐちは、五色ごしきの旗はたで隙間すきまなく飾らかざられた綱つなを、いつの間まにか縦横じゅうおうに渡しわたして、絹きぬ帽ぼうの客きゃくを華やかはなやかに迎えむかえていた。
「何なんかあるんですよ今日きょうは。おおかた貸し切りかしきりなんでしょう」「なるほど」 父ちちは立ち留ったちどまって木の間このまにちらちらする旗はたの色いろを眺めながめていたが、やがて気きのついた風かぜで、「今日きょうは二十三にじゅうさん日ひだったね」と聞いきいた。
その日ひは二十三にじゅうさん日ひであった。
そうしてKという兄あにの知人ちじんの結婚けっこん披露ひろうの当日とうじつであった。
「つい忘れわすれていた。一いち週間しゅうかんばかり前まえに招待状しょうたいじょうが来きていたっけ。一郎いちろうと直じかと二人ふたりの名宛なあてで」「Kさんはまだ結婚けっこんしなかったのですかね」「そうさ。善くよく知らしらないが、まさか二に度目どめじゃなかろうよ」 二人ふたりは山やまを下りくだりてとうとうその左側ひだりがわにある洋食屋ようしょくやに這入っはいった。
「ここは往来おうらいがよく見えるみえる。ことに寄るよると一郎いちろうが、絹きぬ帽ぼうを被っかぶって通るとおるかも知れしれないよ」「嫂ねーさんもいっしょなんですか」「さあ。どうかね」 二に階かいの窓際まどぎわ近くちかくに席せきを占めしめた自分じぶん達とおるは、花はなで飾らかざられた低いひくい瓶びんを前まえに、広々ひろびろした三橋さんきょうの通りとおりを見下しみくだした。
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