八
第 18 章
自分達はその翌日の朝和歌山へ向けて立つはずになっていた。
どうせいったんはここへ引返して来なければならないのだから、岡田の金もその時で好いとは思ったが、性急の自分には紙入をそのまま懐中しているからがすでに厭だった。
岡田はその晩も例の通り宿屋へ話に来るだろうと想像された。
だからその折にそっと返しておこうと自分は腹の中できめた。
兄が湯から上って来た。
帯も締めずに、浴衣を羽織るようにひっかけたままずっと欄干の所まで行ってそこへ濡手拭を懸けた。
「お待遠」「お母さん、どうです」と自分は母を促がした。
「まあお這入りよ、お前から」と云った母は、兄の首や胸の所を眺めて、「大変好い血色におなりだね。それに少し肉が付いたようじゃないか」と賞めていた。
兄は性来の痩っぽちであった。
宅ではそれをみんな神経のせいにして、もう少し肥らなくっちゃ駄目だと云い合っていた。
その内でも母は最も気を揉んだ。
当人自身も痩せているのを何かの刑罰のように忌み恐れた。
それでもちっとも肥れなかった。
自分は母の言葉を聞きながら、この苦しい愛嬌を、慰藉の一つとしてわが子の前に捧げなければならない彼女の心事を気の毒に思った。
兄に比べると遥かに頑丈な体躯を起しながら、「じゃ御先へ」と母に挨拶して下へ降りた。
風呂場の隣の小さい座敷をちょいと覗くと、嫂は今髷ができたところで、合せ鏡をして鬢だの髱だのを撫でていた。
「もう済んだんですか」「ええ。どこへいらっしゃるの」「御湯へ這入ろうと思って。お先へ失礼してもよござんすか」「さあどうぞ」 自分は湯に入りながら、嫂が今日に限ってなんでまた丸髷なんて仰山な頭に結うのだろうと思った。
大きな声を出して、「姉さん、姉さん」と湯壺の中から呼んで見た。
「なによ」という返事が廊下の出口で聞こえた。
「御苦労さま、この暑いのに」と自分が云った。
「なぜ」「なぜって、兄さんの御好みなんですか、そのでこでこ頭は」「知らないわ」 嫂の廊下伝いに梯子段を上る草履の音がはっきり聞こえた。
廊下の前は中庭で八つ手の株が見えた。
自分はその暗い庭を前に眺めて、番頭に背中を流して貰っていた。
すると入口の方から縁側を沿って、また活溌な足音が聞こえた。
そうして詰襟の白い洋服を着た岡田が自分の前を通った。
自分は思わず、「おい君、君」と呼んだ。
「や、今お湯、暗いんでちっとも気がつかなかった」と岡田は一足後戻りして風呂を覗き込みながら挨拶をした。
「あなたに話がある」と自分は突然云った。
「話が? 何です」「まあ、お入んなさい」 岡田は冗談じゃないと云う顔をした。
「お兼は来ませんか」 自分が「いいえ」と答えると、今度は「皆さんは」と聞いた。
自分がまた「みんないますよ」というと、不思議そうに「じゃ今日はどこへも行かなかったんですか」と聞いた。
「行ってもう帰って来たんです」「実は僕も今会社から帰りがけですがね。どうも暑いじゃあありませんか。――とにかくちょっと伺候して来ますから。失礼」 岡田はこう云い捨てたなり、とうとう自分の用事を聞かずに二階へ上って行ってしまった。
自分もしばらくして風呂から出た。