二
第 22 章
「雨のようね」と嫂が聞いた。
「ええ」 自分は半ば風に吹き寄せられた厚い窓掛の、じとじとに湿ったのを片方へがらりと引いた。
途端に母の寝返りを打つ音が聞こえた。
「二郎、ここはどこだい」「名古屋です」 自分は吹き込む紗の窓を通して、ほとんど人影の射さない停車場の光景を、雨のうちに眺めた。
名古屋名古屋と呼ぶ声がまだ遠くの方で聞こえた。
それからこつりこつりという足音がたった一人で活きて来るように響いた。
「二郎ついでに妾の足の方も締めておくれな」「御母さんの所も硝子が閉っていないんですか。先刻呼んだらよく寝ていらっしゃるようでしたから……」 自分は嫂の方を片づけて、すぐ母の方に行った。
厚い窓掛を片寄せて、手探りに探って見ると、案外にも立派に硝子戸が締まっていた。
「御母さんこっちは雨なんか這入りゃしませんよ。大丈夫です、この通りだから」 自分はこう云いながら、母の足の方に当る硝子を、とんとんと手で叩いて見せた。
「おや雨は這入らないのかい」「這入るものですか」 母は微笑した。
「いつ頃から雨が降り出したか御母さんはちっとも知らなかったよ」 母はさも愛想らしくまた弁疏らしく口を利いて、「二郎、御苦労だったね、早く御休み。もうよっぽど遅いんだろう」と云った。
時計は十二時過であった。
自分はまたそっと上の寝台に登った。
車室は元の通り静かになった。
嫂は母が口を利き出してから、何も云わなくなった。
母は自分が自分の寝台に上ってから、また何も云わなくなった。
ただ兄だけは始めからしまいまで一言も物を云わなかった。
彼は聖者のごとくただすやすやと眠っていた。
この眠方が自分には今でも不審の一つになっている。
彼は自分で時々公言するごとく多少の神経衰弱に陥っていた。
そうして時々不眠のために苦しめられた。
また正直にそれを家族の誰彼に訴えた。
けれども眠くて困ると云った事はいまだかつてなかった。
富士が見え出して雨上りの雲が列車に逆らって飛ぶ景色を、みんなが起きて珍らしそうに眺める時すら、彼は前後に関係なく心持よさそうに寝ていた。
食堂が開いて乗客の多数が朝飯を済ました後、自分は母を連れて昨夜以来の空腹を充たすべく細い廊下を伝わって後部の方へ行った。
その時母は嫂に向って、「もう好い加減に一郎を起して、いっしょにあっちへ御出で。妾達は向へ行って待っているから」と云った。
嫂はいつもの通り淋しい笑い方をして、「ええ直御後から参ります」と答えた。
自分達は室内の掃除に取りかかろうとする給仕を後にして食堂へ這入った。
食堂はまだだいぶ込んでいた。
出たり這入ったりするものが絶えず狭い通り路をざわつかせた。
自分が母に紅茶と果物を勧めている時分に、兄と嫂の姿がようやく入口に現れた。
不幸にして彼らの席は自分達の傍に見出せるほど、食卓は空いていなかった。
彼らは入口の所に差し向いで座を占めた。
そうして普通の夫婦のように笑いながら話したり、窓の外を眺めたりした。
自分を相手に茶を啜っていた母は、時々その様子を満足らしく見た。
自分達はかくして東京へ帰ったのである。