行人

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三

第 3 章
お兼けんさんの態度たいどは明瞭めいりょうで落ちついおちついて、どこにも下卑げびた家庭かていに育っそだったという面影おもかげは見えみえなかった。
「二三にさん日ひ前まえからもうおいでだろうと思っおもって、心こころ待まちに御ご待まち申しもうしておりました」などと云っいって、眼めの縁えんに愛嬌あいきょうを漂よわただよわせるところなどは、自分じぶんの妹いもうとよりも品しなの良いよいばかりでなく、様子ようすも幾分いくぶんか立たて優っゆうって見えみえた。
自分じぶんはしばらくお兼けんさんと話しはなしているうちに、これなら岡田おかだがわざわざ東京とうきょうまで出でて来きて連れつれて行っいってもしかるべきだという気きになった。
この若いわかい細君さいくんがまだ娘むすめ盛さかんの五六ごろく年ねん前まえに、自分じぶんはすでにその声こえも眼鼻めはな立たても知っしっていたのではあるが、それほど親しくしたしく言葉ことばを換かえわす機会きかいもなかったので、こうして岡田おかだ夫人ふじんとして改まっあらたまって会っかいって見るみると、そう馴々しいなれなれしい応対おうたいもできなかった。
それで自分じぶんは自分じぶんと同どう階級かいきゅうに属するぞくする未知みちの女おんなに対するたいするごとく、畏まっかしこまった言語げんごをぽつぽつ使っつかった。
岡田おかだはそれがおかしいのか、または嬉しいうれしいのか、時々ときどき自分じぶんの顔かおを見みて笑っわらった。
それだけなら構わかまわないが、折節おりふしはお兼けんさんの顔かおを見みて笑っわらった。
けれどもお兼けんさんは澄ましすましていた。
お兼けんさんがちょっと用ようがあって奥おくへ立ったった時じ、岡田おかだはわざと低いひくい声こえをして、自分じぶんの膝ひざを突っつきつっつきながら、「なぜあいつに対したいして、そう改まっあらたまってるんです。元もとから知っしってる間柄あいだがらじゃありませんか」と冷笑れいしょうすような句く調ちょうで云っいった。
「好いよい奥さんおくさんになったね。あれなら僕ぼくが貰もらえやよかった」「冗談じょうだんいっちゃいけない」と云っいって岡田おかだは一層いっそう大きなおおきな声こえを出しだして笑っわらった。
やがて少しすこし真面目まじめになって、「だってあなたはあいつの悪口わるぐちをお母さんおははさんに云っいったっていうじゃありませんか」と聞いきいた。
「なんて」「岡田おかだも気の毒きのどくだ、あんなものを大阪おおさか下りくだりまで引っ張っひっぱって行くいくなんて。もう少しすこし待っまっていればおれが相当そうとうなのを見つけみつけてやるのにって」「そりゃ君きみ昔むかしの事ことですよ」 こうは答えこたえたようなものの、自分じぶんは少しすこし恐縮きょうしゅくした。
かつちょっと狼狽ろうばいした。
そうして先刻せんこく岡田おかだが変へんな眼め遣けんをして、時々ときどき細君さいくんの方ほうを見みた意味いみをようやく理解りかいした。
「あの時じは僕ぼくも母ははから大変たいへん叱らしかられてね。おまえのような書生しょせいに何なんが解るわかるものか。岡田おかださんの事ことはお父さんおちちさんと私わたくしとで当人とうにん達とおるに都合つごうの好いよいようにしたんだから、余計よけいな口くちを利かりかずに黙っだまって見みておいでなさいって。どうも手痛くていたくやられました」 自分じぶんは母ははから叱らしかられたという事実じじつが、自分じぶんの弁解べんかいにでもなるような語気ごきで、その時じの様子ようすを多少たしょう誇張こちょうして述べのべた。
岡田おかだはますます笑っわらった。
それでもお兼けんさんがまた座敷ざしきへ顔かおを出しだした時じ、自分じぶんは多少たしょうきまりの悪いわるい思おもうをしなければならなかった。
人ひとの悪いわるい岡田おかだはわざわざ細君さいくんに、「今いま二郎じろうさんがおまえの事ことを大変たいへん賞めほめて下すっくだすったぜ。よく御礼ごれいを申し上げるもうしあげるが好いよい」と云っいった。
お兼けんさんは「あなたがあんまり悪口わるぐちをおっしゃるからでしょう」と夫おっとに答えこたえて、眼めでは自分じぶんの方ほうを見みて微笑びしょうした。
夕飯ゆうはん前まえに浴衣がけゆかたがけで、岡田おかだと二人ふたり岡おかの上うえを散歩さんぽした。
まばらに建てたてられた家屋かおくや、それを取り巻くとりまく垣根かきねが東京とうきょうの山の手やまのてを通り越しとおりこした郊外こうがいを思い出さおもいださせた。
自分じぶんは突然とつぜん大阪おおさかで会合かいごうしようと約束やくそくした友達ともだちの消息しょうそくが気きになり出しだした。
自分じぶんはいきなり岡田おかだに向っむかって、「君きみの所ところにゃ電話でんわはないんでしょうね」と聞いきいた。
「あの構かまえで電話でんわがあるように見えみえますかね」と答えこたえた岡田おかだの顔かおには、ただ機嫌きげんの好いよい浮き浮きうきうきした調子ちょうしばかり見えみえた。
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