彼岸過迄

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一

第 1 章
敬太郎けいたろうはそれほど験げんの見えみえないこの間このまからの運動うんどうと奔走ほんそうに少しすこし厭気いやけが注しさして来きた。
元々もともと頑丈がんじょうにできた身体しんたいだから単にたんに馳はせけ歩くあるくという労力ろうりょくだけなら大してたいして苦くにもなるまいとは自分じぶんでも承知しょうちしているが、思うおもう事ことが引いんっ懸っかかったなり居据っいすわって動かうごかなかったり、または引いんっ懸ろうかかろうとして手てを出すだす途端とたんにすぽりと外れはずれたりする反間はんかんが度重なるたびかさなるに連れつれて、身体しんたいよりも頭あたまの方ほうがだんだん云ういう事ことを聞かきかなくなって来きた。
で、今夜こんやは少しすこし癪しゃくも手伝ってつだって、飲みのみたくもない麦酒びーるをわざとポンポンぽんぽん抜いぬいて、できるだけ快かい豁な気分きぶんを自分じぶんと誘っさそって見みた。
けれどもいつまで経っきょうっても、ことさらに借着かりぎをして陽気ようきがろうとする自覚じかくが退かしりぞかないので、しまいに下女げじょを呼んよんで、そこいらを片づけかたづけさした。
下女げじょは敬太郎けいたろうの顔かおを見みて、「まあ田川たがわさん」と云っいったが、その後そのあとからまた「本当ほんとうにまあ」とつけ足しつけたした。
敬太郎けいたろうは自分じぶんの顔かおを撫でなでながら、「赤いあかいだろう。こんな好いよい色いろをいつまでも電灯でんとうに照らしてらしておくのはもったいないから、もう寝るねるんだ。ついでに床ゆかを取っとってくれ」と云っいって、下女げじょがまだ何なんかやり返そうやりかえそうとするのをわざと外しはずして廊下ろうかへ出でた。
そうして便所べんじょから帰っかえって夜具やぐの中なかに潜り込むもぐりこむ時じ、まあ当分とうぶん休養きゅうようする事ことにするんだと口くちの内うちで呟いつぶやいた。
敬太郎けいたろうは夜中よなかに二に返かえし眼めを覚ましさました。
一度いちどは咽喉のどが渇いかわいたため、一度いちどは夢ゆめを見みたためであった。
三さん度目どめに眼めが開いひらいた時じは、もう明るくあかるくなっていた。
世の中よのなかが動きうごき出しだしているなと気きがつくや否いなや敬太郎けいたろうは、休養きゅうよう休養きゅうようと云っいってまた眼めを眠っねむってしまった。
その次つぎには気きの利かりかないボンボンぼんぼん時計とけいの大きなおおきな音おとが無遠慮むえんりょに耳みみに響いひびいた。
それから後あとはいくら苦心くしんしても寝つかねつかれなかった。
やむを得とくず横よこになったまま巻煙草まきたばこを一いち本ほん吸っすっていると、半分はんぶんほどに燃えもえて来きた敷島しきしまの先さきが崩れくずれて、白いしろい枕まくらが灰はいだらけになった。
それでも彼かれはじっとしているつもりであったが、しまいに東ひがし窓まどから射し込むさしこむ強いつよい日脚ひあしに打たうたれた気味きみで、少しすこし頭痛ずつうがし出しだしたので、ようやく我われを折っおって起き上っおきあがったなり、楊枝ようじを銜えくわえたまま、手拭てぬぐいをぶら下げぶらさげて湯ゆに行っいった。
湯屋ゆやの時計とけいはもう十じゅう時じ少しすこし廻っまわっていたが、流しながしの方ほうはからりと片づいかたづいて、小桶こおけ一いちつ出でていない。
ただ浴槽よくそうの中なかに一人ひとり横向よこむきになって、硝子がらす越こしに射し込んさしこんでくる日光にっこうを眺めながめながら、呑気のんきそうにじゃぶじゃぶやってるものがある。
それが敬太郎けいたろうと同じおなじ下宿げしゅくにいる森本もりもとという男おとこだったので、敬太郎けいたろうはやあ御早うおはようと声こえを掛けかけた。
すると、向うむこうでも、やあ御早うおはようと挨拶あいさつをしたが、「何なんです今頃いまごろ楊枝ようじなぞを銜え込んくわえこんで、冗談じょうだんじゃない。そう云やいやあ昨夕さくゆうあなたの部屋へやに電気でんきが点いついていないようでしたね」と云っいった。
「電気でんきは宵の口よいのくちから煌々こうこうと点いついていたさ。僕ぼくはあなたと違っちがって品行ひんこう方正ほうせいだから、夜遊びよあそびなんか滅多めったにした事ことはありませんよ」「全くまったくだ。あなたは堅いかたいからね。羨ましいうらやましいくらい堅いかたいんだから」 敬太郎けいたろうは少しすこし羞はじ痒かゆたいような気きがした。
相手あいてを見るみると依然いぜんとして横隔膜よこかくまくから下したを湯ゆに浸けつけたまま、まだ飽きあきずにじゃぶじゃぶやっている。
そうして比較的ひかくてき真面目まじめな顔かおをしている。
敬太郎けいたろうはこの気楽きらくそうな男おとこの口髭くちひげがだらしなく濡れぬれて一いち本ほん一いち本ほん下向げこうに垂れたれたところを眺めながめながら、「僕ぼくの事ことはどうでも好いよいが、あなたはどうしたんです。役所やくしょは」と聞いきいた。
すると森本もりもとは倦怠けんたいそうに浴槽よくそうの側がわに両肱りょうひじを置いおいてその上うえに額がくを載せのせながら俯伏になったまま、「役所やくしょは御ご休みやすみです」と頭痛ずつうでもする人ひとのように答えこたえた。
「何なんで」「何なんででもないが、僕ぼくの方ほうで御ご休みやすみです」 敬太郎けいたろうは思わおもわず自分じぶんの同類どうるいを一人ひとり発見はっけんしたような気きがした。
それでつい、「やっぱり休養きゅうようですか」と云ういうと、相手あいても「ええ休養きゅうようです」と答えこたえたなり元もとのとおり湯槽ゆぶねの側がわに突伏しつっぷしていた。
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