二
第 22 章
突きとめて見ると、田口の役に立ちそうな種はまるで上がっていないようにも思われるので、敬太郎は少し心細くなって来た。
けれども先方では今朝にも彼の報告を待ち受けているように気が急くので、彼はさっそく田口家へ電話を掛けた。
これから直行っていいかと聞くと、だいぶ待たした後で、差支ないという答が、例の書生の口を通して来たので、彼は猶予なく内幸町へ出かけた。
田口の門前には車が二台待っていた。
玄関にも靴と下駄が一足ずつあった。
彼はこの間と違って日本間の方へ案内された。
そこは十畳ほどの広い座敷で、長い床に大きな懸物が二幅掛かっていた。
湯呑のような深い茶碗に、書生が番茶を一杯汲んで出した。
桐を刳った手焙も同じ書生の手で運ばれた。
柔かい座蒲団も同じ男が勧めてくれただけで、女はいっさい出て来なかった。
敬太郎は広い室の真中に畏まって、主人の足音の近づくのを窮屈に待った。
ところがその主人は用談が果てないと見えて、いつまで待ってもなかなか現われなかった。
敬太郎はやむを得ず茶色になった古そうな懸物の価額を想像したり、手焙の縁を撫で廻したり、あるいは袴の膝へきちりと両手を乗せて一人改たまって見たりした。
すべて自分の周囲があまり綺麗に調っているだけに、居心地が新らし過ぎて彼は容易に落ちつけなかったのである。
しまいに違棚の上にある画帖らしい物を取りおろしてみようかと思ったが、その立派な表紙が、これは装飾だから手を触れちゃいけないと断るように光るので、彼はついに手を出しかねた。
こう敬太郎の神経を悩ました主人は、彼をやや小一時間も待たした後で、ようやく応接間から出て来た。
「どうも長い間御待たせ申して。――客がなかなか帰らないものだから」 敬太郎はこの言訳に対して適当と思うような挨拶を一と口と、それに添えた叮嚀な御辞儀を一つした。
それからすぐ昨日の事を云い出そうとしたが、何をどう先に述べたら都合がいいか、この場に臨んで急にまた迷い始めたうちに、切り出す機を逸してしまった。
主人はまた冒頭からさも忙がしそうに声も身体も取り扱かっている癖に、どこか腹の中に余裕の貯蔵庫でもあるように、けっして周章て探偵の結果を聞きたがらなかった。
本郷では氷が張るかとか、三階では風が強く当るだろうとか、下宿にも電話があるのかとか、調子は至極面白そうだけれども、その実つまらない事ばかり話の種にした。
敬太郎は向うの問に従って主人の満足する程度にわが答えを運んでいたが、相手はこんな無意味な話を進めて行くうちに、暗に彼の様子を注意しているらしかった。
そこまでは彼もぼんやり気がついた。
しかし主人がなぜそんな注意を自分に払うのか、その訳はまるで解らなかった。
すると、「どうです昨日は。旨く行きましたか」と主人が突然聞き出した。
こう聞かれるだろうぐらいの腹は始めから敬太郎にもあったのだが、正直に答えれば、「どうですか」という他を馬鹿にした生返事になるので、彼はちょっと口籠った後、「そうです御通知のあった人だけはやっと探し当てました」と答えた。
「眉間に黒子がありましたか」 敬太郎は少し隆起した黒い肉の一点を局部に認めたと答えた。
「衣服もこっちから云って上げた通りでしたか。黒の中折に、霜降の外套を着て」「そうです」「それじゃ大抵間違はないでしょう。四時と五時の間に小川町で降りたんですね」「時間は少し後れたようです」「何分ぐらい」「何分か知りませんが、何でも五時よっぽど過のようでした」「よっぽど過。よっぽど過ならそんな人を待っていなくても好いじゃありませんか。四時から五時までの間と、わざわざ時間を切って通知して上げたくらいだから、五時を過ぎればもうあなたの義務はすんだも同然じゃないですか。なぜそのまま帰って、その通り報知しないんです」 今まで穏やかに機嫌よく話していた長者から突然こう手厳しくやりつけられようとは、敬太郎は夢にも思わなかった。