彼岸過迄

22/58

二

第 22 章
突きとめつきとめて見るみると、田口たぐちの役やくに立ちたちそうな種しゅはまるで上がっあがっていないようにも思わおもわれるので、敬太郎けいたろうは少しすこし心細くこころぼそくなって来きた。
けれども先方せんぽうでは今朝けさにも彼かれの報告ほうこくを待ち受けまちうけているように気きが急くせくので、彼かれはさっそく田口たぐち家いえへ電話でんわを掛けかけた。
これから直行ちょっこうっていいかと聞くきくと、だいぶ待たしまたした後あとで、差支さしつかえないという答こたえが、例れいの書生しょせいの口くちを通しとおして来きたので、彼かれは猶予ゆうよなく内幸町うちさいわいちょうへ出かけでかけた。
田口たぐちの門前もんぜんには車くるまが二に台だい待っまっていた。
玄関げんかんにも靴くつと下駄げたが一足いっそくずつあった。
彼かれはこの間まと違っちがって日本にっぽん間まの方ほうへ案内あんないされた。
そこは十じゅう畳たたみほどの広いひろい座敷ざしきで、長いながい床ゆかに大きなおおきな懸物かけものが二に幅はば掛かっかかっていた。
湯呑ゆのみのような深いぶかい茶碗ちゃわんに、書生しょせいが番茶ばんちゃを一杯いちばい汲んくんで出しだした。
桐きりを刳っくった手焙てあぶりも同じおなじ書生しょせいの手てで運ばはこばれた。
柔かいやわらかい座蒲団ざふとんも同じおなじ男おとこが勧めすすめてくれただけで、女おんなはいっさい出でて来きなかった。
敬太郎けいたろうは広いひろい室むろの真中まなかに畏まっかしこまって、主人しゅじんの足音あしおとの近づくちかづくのを窮屈きゅうくつに待っまった。
ところがその主人しゅじんは用談ようだんが果てはてないと見えみえて、いつまで待っまってもなかなか現われあらわれなかった。
敬太郎けいたろうはやむを得とくず茶色ちゃいろになった古ふるそうな懸物かけものの価額かがくを想像そうぞうしたり、手焙てあぶりの縁えんを撫でなで廻しまわしたり、あるいは袴はかまの膝ひざへきちりと両手りょうてを乗せのせて一人ひとり改あらためたまって見みたりした。
すべて自分じぶんの周囲しゅういがあまり綺麗きれいに調っととのっているだけに、居心地いごこちが新らしあたらし過ぎすぎて彼かれは容易よういに落ちつけおちつけなかったのである。
しまいに違棚ちがいだなの上うえにある画帖がじょうらしい物ものを取りおろしとりおろしてみようかと思っおもったが、その立派りっぱな表紙ひょうしが、これは装飾そうしょくだから手てを触れふれちゃいけないと断ることわるように光るひかるので、彼かれはついに手てを出しだしかねた。
こう敬太郎けいたろうの神経しんけいを悩ましなやました主人しゅじんは、彼かれをやや小しょう一いち時間じかんも待たしまたした後あとで、ようやく応接間おうせつかんから出でて来きた。
「どうも長いながい間ま御ご待たまたせ申しもうして。――客きゃくがなかなか帰らかえらないものだから」 敬太郎けいたろうはこの言訳いいわけに対したいして適当てきとうと思うおもうような挨拶あいさつを一いちと口くちと、それに添えそえた叮嚀ていねいな御辞儀ごじぎを一いちつした。
それからすぐ昨日きのうの事ことを云いいい出そうでそうとしたが、何なんをどう先さきに述べのべたら都合つごうがいいか、この場ばに臨んのぞんで急きゅうにまた迷いまよい始めはじめたうちに、切り出すきりだす機きを逸しいっしてしまった。
主人しゅじんはまた冒頭ぼうとうからさも忙がしいそがしそうに声こえも身体しんたいも取りとり扱こきかっている癖くせに、どこか腹はらの中なかに余裕よゆうの貯蔵庫ちょぞうこでもあるように、けっして周章てあわて探偵たんていの結果けっかを聞きききたがらなかった。
本郷ほんごうでは氷こおりが張るはるかとか、三さん階かいでは風かぜが強くつよく当るあたるだろうとか、下宿げしゅくにも電話でんわがあるのかとか、調子ちょうしは至極しごく面白おもしろそうだけれども、その実じつつまらない事ことばかり話はなしの種しゅにした。
敬太郎けいたろうは向うむこうの問もんに従っしたがって主人しゅじんの満足まんぞくする程度ていどにわが答えこたえを運んはこんでいたが、相手あいてはこんな無意味むいみな話はなしを進めすすめて行くいくうちに、暗にあんに彼かれの様子ようすを注意ちゅういしているらしかった。
そこまでは彼かれもぼんやり気きがついた。
しかし主人しゅじんがなぜそんな注意ちゅういを自分じぶんに払うはらうのか、その訳わけはまるで解らわからなかった。
すると、「どうです昨日きのうは。旨くうまく行きいきましたか」と主人しゅじんが突然とつぜん聞き出しききだした。
こう聞かきかれるだろうぐらいの腹はらは始めはじめから敬太郎けいたろうにもあったのだが、正直しょうじきに答えれこたえれば、「どうですか」という他ほかを馬鹿ばかにした生返事なまへんじになるので、彼かれはちょっと口籠っくちごもった後あと、「そうです御ご通知つうちのあった人ひとだけはやっと探し当てさがしあてました」と答えこたえた。
「眉間みけんに黒子ほくろがありましたか」 敬太郎けいたろうは少しすこし隆起りゅうきした黒いくろい肉にくの一いち点てんを局部きょくぶに認めみとめたと答えこたえた。
「衣服いふくもこっちから云っいって上げあげた通りとおりでしたか。黒くろの中折なかおれに、霜降そうこうの外套がいとうを着きて」「そうです」「それじゃ大抵たいてい間ま違いはないでしょう。四よん時じと五ご時じの間まに小川おがわ町まちで降りふりたんですね」「時間じかんは少しすこし後れおくれたようです」「何なん分ぶんぐらい」「何なん分ぶんか知りしりませんが、何なんでも五ご時じよっぽど過すぎのようでした」「よっぽど過すぎ。よっぽど過すぎならそんな人ひとを待っまっていなくても好いよいじゃありませんか。四よん時じから五ご時じまでの間まと、わざわざ時間じかんを切っきって通知つうちして上げあげたくらいだから、五ご時じを過ぎれすぎればもうあなたの義務ぎむはすんだも同然どうぜんじゃないですか。なぜそのまま帰っかえって、その通りとおり報知ほうちしないんです」 今までいままで穏やかおだやかに機嫌きげんよく話しはなしていた長者ちょうじゃから突然とつぜんこう手厳しくてきびしくやりつけられようとは、敬太郎けいたろうは夢ゆめにも思わおもわなかった。
22/58