彼岸過迄

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四

第 42 章
父ちちと母ははの間まはどれほど円満えんまんであったか、僕ぼくには分らわからない。
僕ぼくはまだ妻つまを貰っもらった経験けいけんがないから、そう云ういう事ことを口くちにする資格しかくはないかも知れしれないが、いかな仲なかの善いよい夫婦ふうふでも、時々ときどきは気き不味いまじい思おもうをしあうのが人間にんげんの常つねだろうから、彼かれらだって永くながく添っそっているうちには面白くおもしろくない汚点おてんを双方そうほうの胸むねの裏うらに見出しみだしつつ、世間せけんも知らしらず互たがいも口くちにしない不満ふまんを、自分じぶん一人ひとり苦くにがく味わっあじわって我慢がまんした場合ばあいもあったのだろうと思うおもう。
もっとも父ちちは疳かん癖くせの強いつよい割わりに陰性いんせいな男おとこだったし、母ははは長唄ながうたをうたう時じよりほかに、大きなおおきな声こえの出せだせない性分しょうぶんなので、僕ぼくは二人ふたりの言いいい争そうそう現場げんばを、父ちちの死ぬしぬまでいまだかつて目撃もくげきした事ことがなかった。
要するようするに世間せけんから云えいえば、僕ぼくらの宅たくほど静かしずかに整せいのった家庭かていは滅多めったに見当らみあたらなかったのである。
あのくらい他ほかの悪口わるぐちを露骨ろこつにいう松本まつもとの叔父おじでさえ、今いまだにそう認めみとめて間ま違いないものと信じしんじ切っきっている。
母ははは僕ぼくに対したいして死んしんだ父ちちを語るかたるごとに、世間せけんの夫おっとのうちで最ももっとも完全かんぜんに近いちかいもののように説明せつめいしてやまない。
これは幾分いくぶんか僕ぼくの腹はらの底そこに濁っにごったまま沈んしずんでいる父ちちの記憶きおくを清めきよめたいための弁護べんごとも思わおもわれる。
または彼女かのじょ自身じしんの記憶きおくに時間じかんの布巾ふきんをかけてだんだん光沢こうたくを出すだすつもりとも見みられる。
けれども慈愛じあいに充ちみちた親おやとしての父ちちを僕ぼくに紹介しょうかいする時じには、彼女かのじょの態度たいどが全くまったく一変いっぺんする。
平生へいぜい僕ぼくが目のあたりまのあたりに見みているあの柔和にゅうわな母ははが、どうしてこう真面目まじめになれるだろうと驚ろくおどろくくらい、厳粛げんしゅくな気象きしょうで僕ぼくを打ち据えるうちすえる事ことさえあった。
が、それは僕ぼくが中学ちゅうがくから高等学校こうとうがっこうへ移るうつる時分じぶんの昔むかしである。
今いまはいくら母ははに強請っねだって同じおなじ話はなしをくり返しくりかえして貰っもらっても、そんな気高いけだかい気分きぶんにはとてもなれない。
僕ぼくの情操じょうそうはその頃ころから学校がっこうを卒業そつぎょうするまでの間まに、近頃ちかごろの小説しょうせつに出るでる主人公しゅじんこうのように、まるで荒みすさみ果てはてたのだろう。
現代げんだいの空気くうきに中毒ちゅうどくした自分じぶんを呪いのろいたくなると、僕ぼくは時々ときどきもう一遍いちぺんで好いよいから、母ははの前まえでああ云ういう崇高すうこうな感じかんじに触れふれて見みたいという望もちを起すおこすが、同時どうじにその望みのぞみがとても遂げとげられない過去かこの夢ゆめであるという悲しみかなしみも湧いわいて来るくる。
母ははの性格せいかくは吾々われわれが昔むかしから用いもちい慣れなれた慈母じぼという言葉ことばで形容けいようさえすれば、それで尽きつきている。
僕ぼくから見るみると彼女かのじょはこの二に字じのために生れうまれてこの二に字じのために死ぬしぬと云っいっても差支さしつかえない。
まことに気の毒きのどくであるが、それでも母ははは生活せいかつの満足まんぞくをこの一いち点てんにのみ集注しっちゅうしているのだから、僕ぼくさえ充分じゅうぶんの孝行こうこうができれば、これに越しこした彼女かのじょの喜きはないのである。
が、もしその僕ぼくが彼女かのじょの意いに背くそむく事ことが多かっおおかったら、これほどの不幸ふこうはまた彼女かのじょに取っとってけっしてない訳わけになる。
それを思うおもうと僕ぼくは非常ひじょうに心苦しいこころぐるしい事ことがある。
思い出しおもいだしたからここでちょっと云ういうが、僕ぼくは生れうまれてからの一人息子ひとりむすこではない。
子供こどもの時分じぶんに妙みょうちゃんという妹いもうとと毎日まいにち遊んあそんだ事ことを覚えおぼえている。
その妹いもうとは大きなおおきな模様もようのある被布ひふを平生へいぜい着きて、人形にんぎょうのように髪かみを切り下げきりさげていた。
そうして僕ぼくの事ことを常つねに市蔵いちぞうちゃん市蔵いちぞうちゃんと云っいって、兄さんあにさんとはけっして呼ばよばなかった。
この妹いもうとは父ちちの亡くなるなくなる何なん年ねん前まえかに実じつ扶的里亜さとあで死んしんでしまった。
その頃ころは血清けっせい注射ちゅうしゃがまだ発明はつめいされない時分じぶんだったので、治療ちりょうも大変たいへんに困難こんなんだったのだろう。
僕ぼくは固よりもとより実じつ扶的里亜さとあと云ういう名前なまえさえ知らしらなかった。
宅たくへ見舞みまいに来きた松本まつもとに、御前ごぜんも実じつ扶的里亜さとあかと調ちょう戯たわむれわれて、うんそうじゃないよ僕ぼく軍人ぐんじんだよと答えこたえたのを今いまだに忘れわすれずにいる。
妹いもうとが死んしんでから当分とうぶんはむずかしい父ちちの顔かおがだいぶ優しくやさしく見えみえた。
母ははに向っむかって、まことに御前ごぜんには気の毒きのどくな事ことをしたといった顔かおがことに穏かおだやかだったので、小供こどもながら、ついその時じの言葉ことばまで小さいちいさい胸むねに刻みつけきざみつけておいた。
しかし母ははがそれに対したいしてどう答えこたえたかは全くまったく知らしらない。
いくら思い出そうおもいだそうとしても思い出せおもいだせないところをもって見るみると、初はつから覚えおぼえなかったのだろう。
これほど鋭敏えいびんに父ちちを観察かんさつする能力のうりょくを、小供こどもの時じから持っもっていた僕ぼくが、母ははに対するたいする注意ちゅういに欠けかけていたのも不思議ふしぎである。
人間にんげんが自分じぶんよりも余計よけいに他ほかを知りしりたがる癖くせのあるものだとすれば、僕ぼくの父ちちは母ははよりもよほど他人たにんらしく僕ぼくに見えみえていたのかも分らわからない。
それを逆ぎゃくに云ういうと、母ははは観察かんさつに価あたいしないほど僕ぼくに親しかっしたしかったのである。
――とにかく妹いもうとは死んしんだ。
それからの僕ぼくは父ちちに対したいしても母ははに対したいしても一人息子ひとりむすこであった。
父ちちが死んしんで以後いごの今いまの僕ぼくは母ははに対したいしての一人息子ひとりむすこである。
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