彼岸過迄

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四

第 34 章
宵子よいこはうとうと寝入っねいった人ひとのように眼めを半分はんぶん閉じとじて口くちを半分はんぶん開けあけたまま千代子ちよこの膝ひざの上うえに支えささえられた。
千代子ちよこは平手ひらてでその背中せなかを二三にさん度ど叩いたたいたが、何なんの効目ききめもなかった。
「叔母おばさん、大変たいへんだから来きて下さいください」 母ははは驚ろいおどろいて箸はしと茶碗ちゃわんを放り出しほうりだしたなり、足音あしおとを立てたてて這入っはいって来きた。
どうしたのと云いいいながら、電灯でんとうの真下ましたで顔かおを仰あおぐ向むかいにして見るみると、唇くちびるにもう薄くうすく紫むらさきの色いろが注しさしていた。
口くちへ掌てのひらを当てがっあてがっても、呼息こそくの通うかよう音おとはしなかった。
母ははは呼吸こきゅうの塞っふさがったような苦しいくるしい声こえを出しだして、下女げじょに濡手ぬれて拭ぬぐえを持っもって来きさした。
それを宵子よいこの額がくに載せのせた時じ、「脈みゃくはあって」と千代子ちよこに聞いきいた。
千代子ちよこはすぐ小さいちいさい手頸てくびを握っにぎったが脈みゃくはどこにあるかまるで分らわからなかった。
「叔母おばさんどうしたら好いよいでしょう」と蒼いあおい顔かおをして泣きなき出しだした。
母ははは茫然ぼうぜんとそこに立ったって見みている小供こどもに、「早くはやく御ご父さんちちさんを呼んよんでいらっしゃい」と命じめいじた。
小供こどもは四よん人ひととも客間きゃくまの方ほうへ馳はせけ出しけだした。
その足音あしおとが廊下ろうかの端はしで止まっとまったと思うおもうと、松本まつもとが不思議ふしぎそうな顔かおをして出でて来きた。
「どうした」と云いいいながら、蔽い被さるおおいかぶさるように細君さいくんと千代子ちよこの上うえから宵子よいこを覗き込んのぞきこんだが、一目いちもく見るみると急きゅうに眉まゆを寄せよせた。
「医者いしゃは……」 医者いしゃは時じを移さうつさず来きた。
「少しすこし模様もようが変へんです」と云っいってすぐ注射ちゅうしゃをした。
しかし何なんの効能こうのうもなかった。
「駄目だめでしょうか」という苦しくくるしく張りつめはりつめた問もんが、固くかたく結ばむすばれた主人しゅじんの唇くちびるを洩れもれた。
そうして絶望ぜつぼうを怖れるおそれる怪しいあやしい光ひかりに充ちみちた三さん人ひとの眼めが一度いちどに医者いしゃの上うえに据えすえられた。
鏡かがみを出しだして瞳孔どうこうを眺めながめていた医者いしゃは、この時じ宵子よいこの裾すそを捲っまくって肛門こうもんを見みた。
「これでは仕方しかたがありません。瞳孔どうこうも肛門こうもんも開いひらいてしまっていますから。どうも御ご気の毒きのどくです」 医者いしゃはこう云っいったがまた一いち筒つつの注射ちゅうしゃを心臓しんぞう部ぶに試みこころみた。
固よりもとよりそれは何なんの手段しゅだんにもならなかった。
松本まつもとは透き徹るすきとおるような娘むすめの肌はだに針はりの突き刺さつきさされる時じ、自からみずから眉間みけんを険しくけわしくした。
千代子ちよこは涙なみだをぽろぽろ膝ひざの上うえに落しおとした。
「病因びょういんは何なんでしょう」「どうも不思議ふしぎです。ただ不思議ふしぎというよりほかに云いいいようがないようです。どう考えかんがえても……」と医者いしゃは首くびを傾むけかたむけた。
「辛子からし湯ゆでも使わしつかわして見みたらどうですか」と松本まつもとは素人しろうと料簡りょうけんで聞いきいた。
「好いよいでしょう」と医者いしゃはすぐ答えこたえたが、その顔かおには毫もごうも奨励しょうれいの色いろが出でなかった。
やがて熱いあつい湯ゆを盥たらいへ汲んくんで、湯気ゆげの濛々もうもうと立つたつ真中まなかへ辛子からしを一いち袋ふくろ空けあけた。
母ははと千代子ちよこは黙っだまって宵子よいこの着物きものを取り除けとりのぞけた。
医者いしゃは熱湯ねっとうの中なかへ手てを入れいれて、「もう少しすこし注水ちゅうすいましょう。余りあまり熱いあついと火傷やけどでもなさるといけませんから」と注意ちゅういした。
医者いしゃの手てに抱き取らだきとられた宵子よいこは、湯ゆの中なかに五六ごろく分ぶん浸けつけられていた。
三さん人ひとは息いきを殺しころして柔らかいやわらかい皮膚ひふの色いろを見つめみつめていた。
「もう好いよいでしょう。余よまり長くながくなると……」と云いいいながら、医者いしゃは宵子よいこを盥たらいから出しだした。
母はははすぐ受取っうけとってタオルたおるで鄭てい寧ねいに拭いぬぐいて元もとの着物きものを着せきせてやったが、ぐたぐたになった宵子よいこの様子ようすに、ちっとも前まえと変りかわりがないので、「少しすこしの間まこのまま寝かしねかしておいてやりましょう」と恨めしうらめしそうに松本まつもとの顔かおを見みた。
松本まつもとはそれがよかろうと答えこたえたまま、また座敷ざしきの方ほうへ取っとって返しかえして、来客らいきゃくを玄関げんかんに送り出しおくりだした。
小さいちいさい蒲団ふとんと小さいちいさい枕まくらがやがて宵子よいこのために戸棚とだなから取り出さとりだされた。
その上うえに常つねの夜よるの安らかやすらかな眠ねむりに落ちおちたとしか思えおもえない宵子よいこの姿すがたを眺めながめた千代子ちよこは、わっと云っいって突伏しつっぷした。
「叔母おばさんとんだ事ことをしました……」「何なんも千代ちよちゃんがした訳わけじゃないんだから……」「でもあたしが御飯ごはんを喫べさしていたんですから……叔父おじさんにも叔母おばさんにもまことにすみません」 千代子ちよこは途切れ途切れとぎれとぎれの言葉ことばで、先刻せんこく自分じぶんが夕飯ゆうはんの世話せわをしていた時じの、平生へいぜいと異ならことならない元気げんきな様子ようすを、何なん遍へんもくり返しくりかえして聞かしきかした。
松本まつもとは腕組うでぐみをして、「どうもやっぱり不思議ふしぎだよ」と云っいったが、「おい御ご仙せん、ここへ寝かしねかしておくのは可哀そうかわいそうだから、あっちの座敷ざしきへ連れつれて行っいってやろう」と細君さいくんを促がしうながした。
千代子ちよこも手てを貸しかした。
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