三
第 13 章
すると二階の障子がすうと開いて、青い色の硝子瓶を提げた須永の姿が不意に縁側へ現われたので敬太郎はちょっと吃驚した。
「何をしているんだ。落し物でもしたのかい」と上から不思議そうに聞きかける須永を見ると、彼は咽喉の周囲に白いフラネルを捲いていた。
手に提げたのは含嗽剤らしい。
敬太郎は上を向いて、風邪を引いたのかとか何とか二三言葉を換わしたが、依然として表に立ったまま、動こうともしなかった。
須永はしまいに這入れと云った。
敬太郎はわざと這入っていいかと念を入れて聞き返した。
須永はほとんどその意味を覚らない人のごとく、軽く首肯いたぎり障子の内に引き込んでしまった。
階段を上る時、敬太郎は奥の部屋で微かに衣摺の音がするような気がした。
二階には今まで須永の羽織っていたらしい黒八丈の襟の掛ったどてらが脱ぎ捨ててあるだけで、ほかに平生と変ったところはどこにも認められなかった。
敬太郎の性質から云っても、彼の須永に対する交情から云っても、これほど気にかかる女の事を、率直に切り出して聞けないはずはなかったのだが、今までにどこか罪な想像を逞ましくしたという疚ましさもあり、また面と向ってすぐとは云い悪い皮肉な覘を付けた自覚もあるので、今しがた君の家へ這入った女は全体何者だと無邪気に尋ねる勇気も出なかった。
かえって自分の先へ先へと走りたがる心を圧し隠すような風に、「空想はもう当分やめだ。それよりか口の方が大事だからね」と云って、兼て須永から聞いている内幸町の叔父さんという人に、一応そういう方の用向で会っておきたいから紹介してくれと真面目に頼んだ。
叔父というのは須永の母の妹の連合で、官吏から実業界へ這入って、今では四つか五つの会社に関係を有っている相当な位地の人であったが、須永はその叔父の力を藉りてどうしようという料簡もないと見えて、「叔父がいろいろ云ってくれるけれども、僕は余進まないから」と、かつて敬太郎に話した事があったのを、敬太郎は覚えていたのである。
須永は今朝すでにその叔父に会うはずであったが、咽喉を痛めたため、外出を見合せたのだそうで、四五日内には大抵行けるだろうから、その時には是非話して見ようと答えたあとで、「叔父も忙がしい身体だしね、それに方々から頼まれるようだから、きっととは受合われないが、まあ会って見たまえ」と念のためだか何だかつけ加えた。
余り望を置き過ぎられては困るというのだろうと敬太郎は解釈したが、それでも会わないよりは増しだぐらいに考えて、例に似ず宜しく頼む気になった。
が、口で頼むほど腹の中では心配も苦労もしていなかった。
元来彼が卒業後相当の地位を求めるために、腐心し運動し奔走し、今もなおしつつあるのは、当人の公言するごとく佯りなき事実ではあるが、いまだに成効の曙光を拝まないと云って、さも苦しそうな声を出して見せるうちには、少なくとも五割方の懸値が籠っていた。
彼は須永のような一人息子ではなかったが、(妹が片づいて、)母一人残っているところは両方共同じであった。
彼は須永のように地面家作の所有主でない代りに、国に少し田地を有っていた。
固より大した穀高になるというほどのものでもないが、俵がいくらというきまった金に毎年替えられるので、二十や三十の下宿代に窮する身分ではなかった。
その上女親の甘いのにつけ込んで、自分で自分の身を喰うような臨時費を請求した事も今までに一度や二度ではなかった。
だから位地位地と云って騒ぐのが、全くの空騒でないにしても、郷党だの朋友だのまたは自分だのに対する虚栄心に煽られている事はたしかであった。
そんなら学校にいるうちもっと勉強して好い成績でも取っておきそうなものだのに、そこが浪漫家だけあって、学課はなるべく怠けよう怠けようと心がけて通して来た結果、すこぶる鮮やかならぬ及第をしてしまったのである。