彼岸過迄

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八

第 28 章
翌朝よくあささっそく支度したくをして松本まつもとに会いあいに行こういこうと思っおもっているとあいにく寒いさむい雨あめが降りふり出しだした。
窓まどを細目さいもくに開けあけて高いたかい三さん階かいから外そとを見渡しみわたした時分じぶんには、もう世の中よのなかが一面いちめんに濡れぬれていた。
屋根瓦やねがわらに徹るとおるような佗びしいわびしい色いろをしばらく眺めながめていた敬太郎けいたろうは、田口たぐちの紹介状しょうかいじょうを机つくえの上うえに置いおいて、出ようでようか止そうよそうかとちょっと思案しあんしたが、早くはやく会っかいって見みたいという気きが強くつよく起るおこるので、とうとう机つくえの前まえを離れはなれた。
そうして豆腐とうふ屋やの喇叭らっぱが、陰気いんきな空気くうきを割いさいて鋭どくするどく往来おうらいに響くひびく下したの方ほうへ降りふりて行っいった。
松本まつもとの家いえは矢来やらいなので、敬太郎けいたろうはこの間まの晩ばん狐きつねにつままれたと同じおなじ思いおもいをした交番こうばん下したの景色けしきを想像そうぞうしつつ、そこへ来るくると、坂下さかしたと坂上さかがみが両方りょうほう共とも二股ふたまたに割れわれて、勾配こうばいのついた真中まなかだけがいびつに膨れふくれているのを発見はっけんした。
彼かれは寒いさむい雨あめの袴はかまの裾すそに吹きかけるふきかけるのも厭わいとわずに足あしを留めとめて、あの晩ばん車夫しゃふが梶棒かじぼうを握っにぎったまま立往生りっおうじょうをしたのはこのへんだろうと思うおもう所ところを見廻しみまわした。
今日きょうも同じおなじように雨あめがざあざあ落ちおちて、彼かれの踏んふんでいる土つちは地下ちかの鉛管えんかんまで腐れくされ込むごむほど濡れぬれていた。
ただ昼ひるだけに周囲しゅういは暗いくらいながらも明るいあかるいので、立ちどまったちどまった時じの心持こころもちはこの間まとはまるで趣おもむきが違っちがっていた。
敬太郎けいたろうは後あとの方ほうに高くたかく黒ずんくろずんでいる目白台めじろだいの森もりと、右手みぎての奥おくに朦朧もうろうと重なり合っかさなりあった水みず稲荷いなりの木立こだちを見みて坂さかを上っのぼった。
それから同じおなじ番地ばんちの家いえの何なん軒のきでもある矢来やらいの中なかをぐるぐる歩いあるいた。
始めはじめのうちは小さいちいさい横町よこちょうを右みぎへ折れおれたり左ひだりへ曲っきょくったり、濡れぬれた枳殻からたちの垣かきを覗いのぞいたり、古いふるい椿つばきの生いいい被さっかぶさっている墓地ぼちらしい構かまえの前まえを通っとおったりしたが、松本まつもとの家いえは容易よういに見当らみあたらなかった。
しまいに尋ねたずねあぐんで、ある横町よこちょうの角かくにある車屋くるまやを見つけみつけて、そこの若いわかい者ものに聞いきいたら、何なんでもない事ことのようにすぐ教えおしえてくれた。
松本まつもとの家いえはこの車屋くるまやの筋向うすじむこうを這入っはいった突き当りつきあたりの、竹垣たけがきに囲わかこわれた綺麗きれいな住居じゅうきょであった。
門もんを潜るもぐると子供こどもが太鼓たいこを鳴らしならしている音おとが聞こえきこえた。
玄関げんかんへかかって案内あんないを頼んたのんでもその太鼓たいこの音おとは毫もごうもやまなかった。
その代りかわり四辺しへんは森閑しんかんとして人ひとの住んすんでいる臭においさえしなかった。
雨あめに鎖ささされた家いえの奥おくから現われあらわれた十じゅう六ろく七ななの下女げじょは、手てを突いついて紹介状しょうかいじょうを受取っうけとったなり無言むごんのまま引っ込んひっこんだが、しばらくしてからまた出でて来きて、「はなはだ勝手かってを申し上げもうしあげてすみませんでございますが、雨あめの降らふらない日ひにおいでを願えねがえますまいか」と云っいった。
今までいままで就職しゅうしょく運動うんどうのため諸方しょほうへ行っいって断わらことわられつけている敬太郎けいたろうにも、この断りことわり方ほうだけは不思議ふしぎに聞こえきこえた。
彼かれはなぜ雨あめが降っふっては面会めんかいに差支えるさしつかえるのか直じか反問はんもんしたくなった。
けれども下女げじょに議論ぎろんを仕かけるしかけるのも一種いっしゅ変へんな場合ばあいなので、「じゃ御ご天気てんきの日ひに伺うかがいがえば御ご目めにかかれるんですね」と念晴しねんばらしに聞き直しききなおして見みた。
下女げじょはただ「はい」と答えこたえただけであった。
敬太郎けいたろうは仕方なししかたなしにまた雨あめの降るふる中なかへ出でた。
ざあと云ういう音おとが急きゅうに烈しくはげしく聞こえるきこえる中なかに、子供こどもの鳴らすならす太鼓たいこがまだどんどんと響いひびいていた。
彼かれは矢来やらいの坂さかを下りくだりながら変へんな男おとこがあったものだという観念かんねんを数すう度どくり返しくりかえした。
田口たぐちがただでさえ会いあい悪いわるいと云っいったのは、こんなところを指すさすのではなかろうかとも考えかんがえた。
その日ひは家いえへ帰っかえっても、気分きぶんが中止ちゅうしの姿勢しせいに余儀よぎなく据えつけすえつけられたまま、どの方角ほうがくへも進行しんこうできないのが苦痛くつうになった。
久しぶりひさしぶりに須永すながの家いえへでも行っいって、この間まからの顛末てんまつを茶話さわに半日はんじつを暮らそうくらそうかと考えかんがえたが、どうせ行くいくなら、今いまの仕事しごとに一段いちだん落つけおちつけて、自分じぶんにも見当けんとうの立ったった筋すじを吹聴ふいちょうするのでなくては話しはなしばいもしないので、ついに行かいかずじまいにしてしまった。
翌日よくじつは昨日きのうと打っうって変っかわって好いよい天気てんきになった。
起き上るおきあがる時じ、あらゆる濁じょくを雨あめの力ちからで洗い落しあらいおとしたように綺麗きれいに輝やくかがやく蒼空そうくうを、眩ゆまばゆそうに仰ぎ見あおぎみた敬太郎けいたろうは、今日きょうこそ松本まつもとに会えるあえると喜こんよろこんだ。
彼かれはこの間まの晩ばん行李こうりの後あとに隠しかくしておいた例れいの洋杖すてっきを取り出しとりだして、今日きょうは一いちつこれを持っもって行っいって見ようみようと考かんがえがえた。
彼かれはそれを突いついて、また矢来やらいの坂さかを上りのぼりながら、昨日きのうの下女げじょが今日きょうも出でて来きて、せっかくですが今日きょうは御ご天気てんき過ぎすぎますから、も少しすこし曇っくもった日ひにおいで下さいくださいましと云っいったらどんなものだろうと想像そうぞうした。
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