七
第 45 章
僕は不安になった。
母の顔を見るたびに、彼女を欺むいてその日その日を姑息に送っているような気がしてすまなかった。
一頃は思い直してでき得るならば母の希望通り千代子を貰ってやりたいとも考えた。
僕はそのためにわざわざ用もない田口の家へ遊びに行ってそれとなく叔父や叔母の様子を見た。
彼らは僕の母の肉薄に応ずる準備としてまえもって僕を疎んずるような素振を口にも挙動にもけっして示さなかった。
彼らはそれほど浅薄なまた不親切な人間ではなかったのである。
けれども彼らの娘の未来の夫として、僕が彼らの眼にいかに憐れむべく映じていたかは、遠き前から僕の見抜いていたところと、ちっとも変化を来さないばかりか、近頃になってますますその傾が著るしくなるように思われた。
彼らは第一に僕の弱々しい体格と僕の蒼白い顔色とを婿として肯がわないつもりらしかった。
もっとも僕は神経の鋭どく動く性質だから、物を誇大に考え過したり、要らぬ僻みを起して見たりする弊がよくあるので、自分の胸に収めた委しい叔父叔母の観察を遠慮なくここに述べる非礼は憚かりたい。
ただ一言で云うと、彼らはその当時千代子を僕の嫁にしようと明言したのだろう。
少なくともやってもいいぐらいには考えていたのだろう。
が、その後彼らの社会に占め得た地位と、彼らとは背中合せに進んで行く僕の性格が、二重に実行の便宜を奪って、ただ惚けかかった空しい義理の抜殻を、彼らの頭のどこかに置き去りにして行ったと思えば差支ないのである。
僕と彼らとはあらゆる人の結婚問題についても多くを語る機会を持たなかった。
ただある時叔母と僕との間にこんな会話が取り換わされた。
「市さんももうそろそろ奥さんを探さなくっちゃなりませんね。姉さんはとうから心配しているようですよ」「好いのがあったら母に知らしてやって下さい」「市さんにはおとなしくって優しい、親切な看護婦みたような女がいいでしょう」「看護婦みたような嫁はないかって探しても、誰も来手はあるまいな」 僕が苦笑しながら、自ら嘲けるごとくこう云った時、今まで向うの隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「あたし行って上げましょうか」 僕は彼女の眼を深く見た。
彼女も僕の顔を見た。
けれども両方共そこに意味のある何物をも認めなかった。
叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。
そうして、「御前のようなむきだしのがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。
僕は低い叔母の声のうちに、窘なめるようなまた怖れるような一種の響を聞いた。
千代子はただからからと面白そうに笑っただけであった。
その時百代子も傍にいた。
これは姉の言葉を聞いて微笑しながら席を立った。
形式を具えない断りを云われたと解釈した僕はしばらくしてまた席を立った。
この事件後僕は同じ問題に関して母の満足を買うための努力をますます屑よしとしなくなった。
自尊心の強い父の子として、僕の神経はこういう点において自分でも驚ろくくらい過敏なのである。
もちろん僕はその折の叔母に対してけっして感情を害しはしなかった。
こっちからまだ正式の申し込みを受けていない叔母としては、ああよりほかに意向の洩らし方も無かったのだろうと思う。
千代子に至っては何を云おうが笑おうが、いつでも蟠まりのない彼女の胸の中を、そのまま外に表わしたに過ぎないと考えていた。
僕はその時の千代子の言葉や様子から察して、彼女が僕のところへ来たがっていない事だけは、従前通りたしかに認めたが、同時に、もし差し向いで僕の母にしんみり話し込まれでもしたら、ええそういう訳なら御嫁に来て上げましょうと、その場ですぐ承知しないとも限るまいと思って、私かに掛念を抱いたくらいである。
彼女はそう云う時に、平気で自分の利害や親の意思を犠牲に供し得る極めて純粋の女だと僕は常から信じていたからである。