六
第 16 章
敬太郎は下宿の門口を潜るとき何より先にまずこの洋杖に眼をつけた。
というよりも途すがらの聯想が、硝子戸を開けるや否や、彼の眼を瀬戸物の傘入の方へ引きつけたのである。
実をいうと、彼は森本の手紙を受取った当座、この洋杖を見るたびに、自分にも説明のできない妙な感じがしたので、なるべく眼を触れないように、出入の際視線を逸らしたくらいである。
ところがそうすると今度はわざと見ないふりをして傘入の傍を通るのが苦になってきて、極めて軽微な程度ではあるけれどもこの変な洋杖におのずと祟られたと云う風になって、しまった。
彼自身もついには自分の神経を不思議に思い出した。
彼は一種の利害関係から、過去に溯ぼる嫌疑を恐れて、森本の居所もまたその言伝も主人夫婦に告げられないという弱味を有っているには違ないが、それは良心の上にどれほどの曇もかけなかった。
記念として上げるとわざわざ云って来たものを、快よく貰い受ける勇気の出ないのは、他の好意を空くする点において、面白くないにきまっているが、これとても苦になるほどではない。
ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。
(おそらくはのたれ死という終りを告げるのだろう。
)その憐れな最期を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。
そうして多能な彼の手によって刻まれた、胴から下のない蛇の首が、何物かを呑もうとして呑まず、吐こうとして吐かず、いつまでも竹の棒の先に、口を開いたまま喰付いているとする。
――こういう風に森本の運命とその運命を黙って代表している蛇の頭とを結びつけて考えた上に、その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。
彼は自分でこの洋杖を傘入の中から抜き取る事もできず、また下宿の主人に命じて、自分の目の届かない所へ片づけさせる訳にも行かないのを大袈裟ではあるが一種の因果のように考えた。
けれども詩で染めた色彩と、散文で行く活計とはだいぶ一致しないところもあって、実際を云うと、これがために下宿を変えて落ちついた方が楽だと思うほど彼は洋杖に災されていなかったのである。
今日も洋杖は依然として傘入の中に立っていた。
鎌首は下駄箱の方を向いていた。
敬太郎はそれを横に見たなり自分の室に上ったが、やがて机の前に坐って、森本にやる手紙を書き始めた。
まずこの間向うから来た音信の礼を述べた上、なぜ早く返事を出さなかったかという弁解を二三行でもいいからつけ加えたいと思ったが、それを明らさまに打ち開けては、君のような漂浪者を知己に有つ僕の不名誉を考えると、書信の往復などはする気になれなかったからだとでも書くよりほかに仕方がないので、そこは例の奔走に取り紛れと簡単な一句でごまかしておいた。
次に彼が大連で好都合な職業にありついた祝いの言葉をちょっと入れて、その後へだんだん東京も寒くなる時節柄、満洲の霜や風はさぞ凌ぎ悪いだろう。
ことにあなたの身体ではひどく応えるに違ないから、是非用心して病気に罹らないようになさいと優しい文句を数行綴った。
敬太郎から云うと、実にここが手紙を出す主意なのだから、なるべく自分の同情が先方へ徹するように旨くかつ長く、そうして誰が見ても実意の籠っているように書きたかったのだけれども、読み直して見ると、やっぱり普通の人が普通時候の挨拶に述べる用語以外に、何の新らしいところもないので、彼は少し失望した。
と云って、固々恋人に送る艶書ほど熱烈な真心を籠めたものでないのは覚悟の前である。
それで自分は文章が下手だから、いくら書き直したって駄目だくらいの口実の下に、そこはそのままにして前へ進んだ。